09年改訂版

孤月的陣
第三章 ハナ  花

寝苦しさに気づいて孔明はふと眠りから醒めた。
見慣れぬ天井が目の前にある。
樊城にいるのだったと遅れて思い出し、そして寝ぼけた頭をなだめるため、ため息をひとつついてみる。
眠らねばならない。朝には、ふたたび戦いが待っていることだろう。
そうしてまぶたをふたたび閉じようとしたとき、孔明は、おのれの寝所に自分以外の人間がいることに気づいた。

「何者ぞ!」
孔明は起き上がると、部屋の隅にうごめく闇に向けて、鋭く誰何した。
闇に目が慣れてくると、その輪郭が、見慣れたものであることに気がつく。
趙雲であった。
孔明があきれて、
「なにをしている」
と、たずねると、趙雲は立ち上がり、気まずそうに言った。
「道に迷って、おれの部屋がどこだかわからなくなった」
「隣だ」
孔明がそう言うと、趙雲は顔をしかめた。
この男、たまに間抜けな間違いをするのであるが、それを指摘すると、照れ隠しに、かえって怖い顔をする癖がある。
ふと、趙雲が、おのれの左肘を、庇うようにしているのに気付いた。それどころか、よくよく見ると、衣のあちこちが擦り切れ、泥だらけである。
返り血らしきものがないところを見ると、大立ち回りをした、というわけではなさそうであるが…
「いまどれくらいであろう?」
「さあな。実はさきほど、すこしそこを借りて、転寝をしていた。もう明け方に近いかも知れぬ」
「野戦中でもあるまいに、筋を痛めるぞ。一緒に寝るか?」
「聞かなかったことにしておく」
孔明は、べつに冗談で言ったわけではない。
趙雲は武将である。武将の身体は、いわば武器と同等である。
武器を傷めては戦にならない。
その考えから出た言葉であった。
賓客用の寝台は、諸葛家の姉弟みんなが寝そべることができるくらい、大きくて立派なものであったし、男同士で同衾するといっても、男と女とはわけが違うのであるから、妙に構える必要もないわけだ。
むかし、なにか嫌なことでもあったのかな、と邪推を浮かべつつ、孔明はとりあえずおのれの言葉をひっこめた。

「肘をどうした」
ああ、と趙雲は言って、自分の左肘を見せた。
無造作にではあるが、応急処置として、肘に布が巻かれている。
そこからは、じわりと血がにじみ出ていた。
「どこかで切ったようだが、たいしたことはない。ここに来るまで気付かなかったほどだからな」
と、そこまで言って、趙雲は恐ろしげな顔をして沈黙する。
孔明がつづきを促すように首をかしげると、趙雲はぼそりと、つぶやくように言った。
「知らぬうちに、そこまで緊張していた、ということなのだ」
「意味がよくわからぬ」
「おれは根っからの武人らしいな。むかしは、ある男にそこを嫌われたので、どこかでそれを恥じていたが、いまはこの性質に感謝している。『壷中』というものが、なんとなく、わかってきたぞ」






「あら、目が覚めたのね」
耳慣れない女の声がして、朱季南は目を開いたが、同時に、曙光に目を焼かれ、何度かまばたきをした。
安い白粉のにおいがする。
同時に、複数の、耳にさやかな衣擦れ。
いままで、自分が、闇の中でもがいていた、というほかは、はっきりした記憶を持っていない朱季南は、頭痛に悩まされながらも、なんとか身体を起こそうとした。
すると、さきほどとおなじ女の声が、それを制する。
「まだ休んでいたほうがいいわよ、阿片でしょ、それ」
と、慣れた風に言われ、そのどこか投げやりな口調が、かえって朱季南を落ち着かせた。
「女老師に薬をもらってくるから、それまでおとなしくしていて頂戴」
女が、傍らを去っていったのがわかる。
朱季南は、首を動かして女のほうを見た。
ちょうど、女が部屋を出て行くうしろ姿だけが見えた。
派手なばかりで、安っぽい、朝陽のもとでは、その艶姿がかえって哀れをさそう、妓楼にはありふれた、娼妓のうしろ姿であった。
さほど若くないな、と、意識が明確になるのと同時に、ひどくなっていく頭痛をこらえながら、朱季南は思った。
 
どこぞの楼閣の一部屋らしい。
朝のさわやかな冷気が、さんさんと日のこぼれる窓から入ってきて、熱を帯びた季南の身体をなぐさめる。
朝陽が昇りきるのと同時に、町の人々が動き出した気配を、空気でつたわるざわめきで感じ取る。
大都市である許都とくらべると、新野のざわめきはささやかだ。
しかし、風狗を探すために、夜になると目覚め、朝になると眠る、といった生活を繰り返してきた朱季南にとっては、朝陽を全身に受けて目が覚める、というのは、ひさしぶりであった。

そうして、おれは、新野にいるのだな、と記憶をよみがえらせる。
なぜ、ここにいるのかは、わからない。
たしか、数日前に風狗と接触して、趙雲と再会し、そこからが怪しい。
かなり阿片を呑んだからだ。
趙雲と再会したあと、朱季南は、どうしてもいたたまれなくなった。
自分とて、曹操のもとではたらく官吏として、風狗を追っている。
その地位自体は、恥じるものではない。
だが、趙雲の、ほとんど変わらぬ完璧に鍛えこまれた体つきや、その颯爽とした雰囲気にあてられ、季南は、必要以上に、引け目を感じていた。
趙雲とはほぼ同年であるが、季南にくらべて、趙雲は昔のすがたをそのまま留めており、万人に早々とおとずれる、老いの兆しがどこにもなかった。
三十を過ぎたあたりから、季南は、いかに鍛えようと、おのれの身体の変化に気付かざるを得なかったのだが、趙雲は、そんな苦しみから解放されているように見える。
朱季南は、これ以上趙雲のことを、考えまい、として目を閉じた。
そうでなければ、おのれをとことんまで卑しめ、冷めた嘲笑のなかに突き落としてしまいそうであった。
耐えられなくなると、薬がほしくなる。
完璧というものは、理想のように見えるが、実はそうでもなく、ひどく許容範囲のせまいものなのだな、と朱季南は、そんなことも考えた。

「また寝ている」
と、さきほどとは違う女の声がした。
複数の衣擦れの音がする。
部屋に、数人の女が入ってきたようだ。足音の軽さでわかる。
「さっきは起きていたのですけれど」
これは、季南が目を覚ましたときに、かたわらにいた女である。
女の口調に、なつかしい北方の訛りがあることに、季南ははじめて気がついた。
「なにか、言っていなかったか?」
「うなり声しかわかりませんでした」
「寝ずの番になってしまったね、ここは私が引き取ろう」
「いいんですよ、老師、嫌な客のいびきを聞かされるよりはマシでしたから」
 女は気だるそうに言って、部屋を出て行ったようだ。
もうすこし、その声(正確には話し方、であったが)を聞いていたい、と思った季南は、女が去ってしまうのを惜しみつつ、寝入ったふりをしながら、心だけで女を送った。

さて、と女老師の声がする。
こちらも、先刻の女同様に、ずいぶん乗り気の無い声である。
薄目を開けると、女のぼんやりした姿が見えた。それほど年ではない。
「ところで、薬の時間なのだがね、狸寝入りはやめて、目を覚ましたらどうだね」
その声に反応するように、起き上がろうとすると、頭を鉄の板でぶん殴られたような、はげしい痛みが起こった。
あまりの衝撃に、ふたたび床に横になる。
「無理をするな。かなり強い薬を使ったから、副作用がきているはずだ」
あまりの頭痛に涙が出てきた。涙でにじんだ目で見ると、女はてきぱきと薬湯を用意している様子である。
いかにも苦そうな、くすりの臭いがしている。
「おれに」
おれになにをする、と言いたかったのであるが、言葉を出すために息を吸っただけで、すぐさまそれが頭の痛みに変わった。
「あまりよい生活をしていないようだが、ある程度は鍛えていたおかげで、阿片が抜けるのが早い。昔の自分に感謝するのだな」
女は恩着せがましく言うでもなし、ただ淡々とことばをつむぐ。
「先に言っておくが、目から入る光でさえ、いまのおまえには痛みなるはずだ。ひと呼吸するのでさえ、苦しいだろう。薬を飲んでも、その症状はしばらく続く。薬に逃げた、いまの自分をたっぷり恨むのだな」
「おまえに、なにがわかる」
掠れた声が、乾いた唇から絞りだされた。
自分の声が、頭蓋骨のなかで反響して、それがまた痛みに変わる。
なんとも厄介であるが、季南は、どうしてもそれだけは言いたかった。
こんな見も知らぬ女に、反省しろ、と言われて素直に頷けるわけがない。
まして、なにも事情を知らないのであるから。
「わたしには、おまえが薬に逃げた、ということしかわからぬ。だから叱った。叱られたくなければ、もう阿片などに手を出すな。
あれは、一時はよい逃げ場所を作ってくれるけれど、いつのまにか、未来につづくすべての道を閉ざしてしまう恐ろしい薬だ。死にたいのならばべつだが」
季南は黙った。
女の言葉がもっともだった、というのもあるが、女の言葉が、文字通り耳に痛かった。女の声自体が、耳に入った時点で痛みに変わってしまうからである。
女はそれをどう取ったか、つづけた。
「安心するがいい。わたしはあまり人にあれこれ事情を聞くのが得意ではない。しかし出来るだけの治療はしてやる。ただし、生きる気があるならば、だが」
「ふざけるな、このアマ、だれが、死ぬか」
季南が悪態をついても、女はやはり淡々と答えた。
「それならばよい。わたしを頼みにしている妓女はたくさんいるので、おまえひとりに時間を割いていられないのだ。
おまえが薬を飲んだなら、これから堕胎の手伝いだ。今日は三件も頼まれていていそがしい」
女は愚痴るのであるが、その愚痴さえも、単調で、感情らしきものを伺うことができない。
「それといっておくが、ちゃんと回復するまで、武器は預かっておくぞ」
「なんだと」
今度こそ、朱季南は起き上がった。
武器を取られたなど、命を取られたとおなじ位の意味を持つ。
まして武人で、単身、劉備という曹操の敵陣のなかにいる朱季南にとって、武器を取られたことは重い。

そうして、朱季南は、はじめて目の前にいる女をまともに見た。
まずは、ひどく白い肌が目に焼きついた。
白い、というよりは青白い。
男物の衣裳をまとっているのは、女医師という立場上のことなのであろうが、もし声を聞いていなければ、女みたいな男、と勘違いしたかもしれない。
顔立ちはまずくない。いや、美貌と形容してもわるくはない。
だが、問題はその表情のなさであった。
等身大のよくできた陶器の人形が、人の言葉をしゃべっている。
そんな印象がある。
それに加えて、女は、女とは思えないほどに背が高かった。
座っていても、その大柄なのがよくわかる。
「すこし加減がよくなったからといって、暴れられたら迷惑だから、預からせてもらった。おまえがわたしのことを知らぬように、わたしもお前のひととなりがよくわからないのでね」
「おれを知っているのか」
「陳叔至が探している、朱季南というのはおまえのことだろう」
「そんなにおおっぴらに探しているのか」
「いいや。わたしの耳が普通の人間よりも大きくて聞こえがよいだけだ。見た目ほどに莫迦ではないようだからこれも言っておく。
たとえ逃げるためにしても、ここで暴れたらすぐに騒ぎになって、新野中にあふれている兵士たちに追いまわされることになるぞ。だから、おとなしくしているがいい」
「兵士? おれを探しているのか」
「おまえではない。徴兵といつわって、村々から子供たちを攫っていった人買いを探しているのだ。
陣頭指揮を執っているのが張飛将軍だから、下手すると、見つかれば死ぬぞ、曹操の役人」」
それは確実なところだろう。
「おれの名は朱季南だ」
「そうか。ならばわたしも名乗ろう。嫦娥(じょうが)だ」
ずいぶんな名前だな、と朱季南は頭痛もわすれて眉をしかめた。顔の筋肉を動かしたことで、内壁を針でつついたような痛みに襲われ、ふたたび床に倒れるように横になる。
嫦娥。つまりは月の仙女である。たしかに青白いその肌の色合いは、雪原で見あげた月に似ている。
季南が黙ると、女は薬湯を差し出してきた。
臭いを嗅いだだけで、胸が苦みでいっぱいになる。
「呑んでおけ。早く動けるようにな」
意外なことばに、朱季南はたずねた。
「おまえ、なぜ?」
すると女は、やはりまったく表情を動かさずに、当然だ、といわんばかりに言い切った。
「おまえが必要だからだ」
季南はわけがわからなかったが、命を取るつもりならば、こちらの正体を知りながら、助けはしなかっただろう、と判断して、薬湯を飲んだ。
そうして、『女老師』と呼ばれる嫦娥とやらが、なぜ自分を助けようとするのか、なぜ必要なのか、考えたが、痛みが激しくなってきたのもあり、答えを出すことが出来なかった。





趙雲がふと目を開くと、机に突っ伏すようにして、眠っている孔明の姿が見えた。
朝陽が完全に顔を出している頃であるのに、消しわすれた蝋燭が、まだ炎を灯していた。
蝋燭を消し、孔明の肩に、上衣を羽織らせる。
ちょうど横顔だけをこちらに見せているのであるが、こんなふうに無防備に眠っている顔を見るのは初めてであったので、なにやら知らない別の人間の寝顔を見ているような、錯覚をおぼえる。
言葉と表情を取り去った孔明の顔というのは、見事なまでに作りこまれた、男とも女ともとれない、仮面のようであった。
たしかに男である(咽喉元を見ればわかる)けれど、その描く線はなめらかで、骨っぽさがない。
花安英もたしかにきれいな少年であったが、これほどではなかった。
この世の中に、こんな顔も存在するのかと不思議に思うほど、性の特徴がすくないのである。
うちの主公が山奥から連れてきたこの軍師は、その容姿からして、やはり尋常な人物ではない。
思わず、趙雲は自分の顎をさすってみた。無精ひげがぽつぽつと生えてきている。
顔を洗ったなら、ちゃんと手入れをしなければと、ぼんやり考えていると、孔明がゆっくり起き上がった。
そうして寝ぼけ眼をこすりつつ、むにゃむにゃと、めずらしく明瞭でない口調で言う。
「人の寝顔を観察するのが趣味なのか」
「起きていたのか」
「頭は起きていたが、身体がついてこなかった。朝は苦手だ」
「起きています、くらい言ってくれ。起きていると知っていれば、じろじろ見たりしなかった」
「起きています。おはよう、子龍。ちゃんと寝たのか」
「…おはよう。すこしは眠れた」
「それはよかった、わたしは首が痛い」
変な姿勢で居眠りをしていたので、それが首にきた様子である。
孔明は、まだぼんやりした顔をして、首と肩をまわしている。
しかし、ちょっとした油断で、ふたたび机に突っ伏してしまいそうだ。
孔明は、あまり身体が丈夫ではない。
趙雲は、戦場暮らしが長かったため、短いあいだに、どんな姿勢でも、十分な休息を得られるように身体ができているし、そのコツも知っている。しかし、孔明は、つい最近まで、太陽とともに眠り、太陽と共に起きる、といった健康的な生活をしてきた人間である。新野城に入ってからの不規則な生活は、身体のあちこちに影響を及ぼしているようであった。

「軍師、おはようございます、起きてらっしゃいますか」
てっきり、孔明の部屋に最初にやってくるのは、樊城の下女あたりであろうと思っていた趙雲であるが、意外にも、一番乗りは伊籍であった。
その声に、孔明は完全に目を覚ましたようである。
「着替えてない」
と、いいざま、蜜蜂なみの速さでもって顔を洗い、衝立の向こうでてきぱきと衣を替えて、髪をきれいにととのえる。
その、けして不様な格好を人様には見せまい、という意地からくる、手際のよさと素早さは、傍から見ている趙雲には、見世物よりもおもしろかった。
そうして、伊籍を迎えるために、部屋の扉を開けるころには、いつもの、身奇麗で華やかな軍師の姿がそこにあった。
「おや、趙将軍までこちらにいらしたのですか」
と、孔明の部屋を訪れた伊籍は、趙雲の姿を見て言った。
「じつによい朝でございますな。おふたりとも、若いだけあって今日も颯爽としてらっしゃる」
伊籍は上手を言うと、かかか、と笑うのであるが、対する伊籍は、ほとんど寝ていないのであろう。
目の下にはクマ。充血した目、ところどころ藁のようにほつれた髪、よれた衣、そこはかとなく、汗臭さがただよう風体と、樊城の人間らしからぬ姿である。
「如何なされましたか」
そのだらしの無い風体に、おどろいて孔明が声をかけると、伊籍は、にっこりと太陽のごとく明るい笑みを見せた。
「今日の伊籍は、一味ちがいますぞ」
「はあ」
「軍師、わたくしは一晩中、考えました。なぜに、あなたさまが劉公子のお力になってくださらないのかと。
そうして、わかったのでございます。協力っぷりが足りない、ということに」
「協力、ぷり?」
伊籍は、やつれた顔に、妙にぎらぎら輝いた笑顔で言う。
「左様。将を射んとすれば、まず馬を射よ! つまりですな、斐仁のことについて、軍師にご協力をさせていただき、軍師にも、劉公子へお力添えをしていただこう、と」
はあ、と孔明は生返事しつつ、困ったような顔をする。
「しかし、それは劉公子のご意向ではないのでしょう?」
「劉公子の考えは伊籍の考え、伊籍の考えは劉公子の考えでございます」
「ならば、なぜ劉公子はみずから口を開かれませぬ」
「すでにわたくしが口を開いておりますので、もう付け加えることはない、と思っていらっしゃるのです。
奥ゆかしいお方ですので、代わりにわたくしがしゃべっております」
「ですが、わたしは、劉公子が自ら考え、発せられるお言葉を聞きたいのです」
「もちろんですとも。そこで、劉公子に軍師のお言葉を伝えましたところ、それはいかんとおっしゃいまして、今朝は軍師を待って書庫にいらっしゃいます」
「書庫? なにゆえ、書庫に?」
「斐仁を最初に捕らえたときに、とった調書を軍師にお見せしたく、劉公子、御自らが待っておいでなのです」
孔明は、趙雲のほうに顔を向けた。
無言のまま、その顔は、どう思うか? とたずねている。
趙雲は深く肯いた。
罠とは思えない。
伊籍になにか思惑があるにしろ、こちらは、いまは受身に回っている一方なのだ。
罠だとしても、それに乗って現状を打開するのも悪くはない。
趙雲は、おのれの目の届くところにいるかぎり、孔明を守りきれる自信があった。
趙雲の肯きに、孔明は軽く肯きかえすと、伊籍に顔を戻した。
「わかり申した。うかがいましょう。ただし、子龍も共に連れてゆくことをお許しください」
「おお、それはありがたい。では、早速参りましょう。劉公子が首を長くして待っておられますぞ」

ふと、前方をいく孔明が足をとめた。
その視線の先には、ちょうど立派な身なりをした少年が、女官や老文官たちにかこまれて、花園のなか、たのしそうに花や蝶をめでながら、詩歌をつくっているのであった。
あれが劉琮か、と趙雲は、屈託のない笑みをうかべる少年を見遣った。
花安英よりいくぶん年下であろう。
柔らかな輪郭を持ち、少女のようなやさしげな顔立ちを持っている。
玉のような顔、といった表現がぴったりくる少年である。
世の荒波に揉まれたこともなく、穢されたこともない、雛鳥のような印象をあたえる。
おそらく、母親である蔡氏と、『伯父』の蔡瑁があの少年をありとあらゆるものから守っているのであろう。

趙雲は、昨夜のことを思い出し、複雑な心境になった。
そうして、前方の、足を止めている孔明を見る。
孔明には、夕べのことはすべて伝えてあった。
蔡氏と蔡瑁が、じつは兄妹ではなく、愛人関係の継続している男女であることを。
孔明は、それを聞くと不快そうに眉をしかめたが、ふと、なにか思いついたらしく、書簡をしたためると、新野城への使いをまたひとり増やして、陳到に送った。
その内容は、
「ただの勘だから、まだ言えない」
ということであった。
「子龍、あなたは兄弟があると言ったな」
と、孔明は、劉琮から目を離さずに言った。
「何人いたのかおぼえていないが、いたな」
怪訝そうに、孔明は身体ごと趙雲を振り返る。
そうして、先を促すように首をかしげた。
この仕草が出ると、孔明は、岩にこびりついた藤壷なみにしつこくなるので、どうしても話さなくてはならなくなる。
劉琦に対峙する前に、仲間割れをするのは避けたかったので、趙雲は口をひらいた。
「みな母親がちがって、それぞれ別棟で暮らしていたからな。だいたい十人はいたと思うが、正確なところはよくわからん。
俺が物心ついたときには、父親はもう寝たきりであったし、いちばん上の兄が面倒を見てくれたが、ほかの兄弟とは仲が悪かった。
詳しく言うと、母親たちの仲が悪かったんだ。正妻と、第二夫人が対立していた。いわゆる派閥だな。うちの母は正妻の側についていたので、対抗派閥の母親の子とは、自然と仲が悪くなった」
「自分の兄弟の数がわからない、というのは、らしい、といえばらしいが、いささか薄情だな」
「うちの親父は好色者であったが、面倒見はよかったし、蓄財もあったので、自分の女房の親戚が頼ってくると、子供を預かったり、養子にしたりをくりかえしていたのだ。
だから兄弟が徴兵で出て行ったり、嫁にいったりして、増えたり減ったりだったので、俺が成人したころには、ほんとうは何人いたのか、わからなくなっていた」
へえ、と孔明は感心したように目を丸くした。なにやら意味ありげな「へえ」である。
「なんだ、なにが言いたい」
「いや、複雑であったのだな、と。なるほど、それで結婚しないのか」
「俺の家のことを、気にしている場合ではないぞ」
すると孔明は、樊城にきてから、ひさしぶりに声をたてて笑った。
「すまない、話が逸れた。わたしにも兄がいるが、会ったことが数回しかなかったので、兄というものと一緒に暮らすのは、どういうものかと思ったのだ」
「たしか江東にいる、という話だな」
「だが、どんな暮らしぶりなのか知らない。わたしなどは距離を理由にできるが、目と鼻の先にいて、天と地ほどに境遇がちがう兄弟がいるのに、ああやって気にせず笑っていられるのというのはどういうものなのだろう、と思ったのだ」
孔明は劉琮の態度を非難しているわけではない。
おのれの心象を、そのまま口にしているだけなのだ。

言葉だけで人を判断したがる、想像力のない人間からすれば、孔明は誤解を受けやすいところがある。
そうして、信頼できると見なした人間には、正直な態度を取りすぎる。
危ういな、と趙雲は思いつつ、たしかにこういう面は、花安英に似通っているかもしれぬ、と思った。

花安英のことを思い出すと、趙雲は知らず、頭をめぐらせてその姿を探した。
今日も、どこかでこちらを見ているかもしれない。
そうして、ふたたび劉琮たちの姿に目をやる。
一行の優雅な様は、一幅の絵のようであった。
その光景をみていると、花安英とともに衝立の陰で覗き見た光景が、夢であったように錯覚する。
そうであったらと、どこかで願っているのだろうか。
世の中は、容赦なくとつぜんに、人の醜い姿を見せつける。
それでも絶望しないのは、まだ、それは、広い世界の一角にすぎないのではないか、たまたま、醜悪なものを見てしまっただけで、よそには美しいものがあるのではないか、と期待するからだ。
「たとえ目と鼻の先にいたとしても、ともに暮らして、よき思い出を同じくしていなければ、それは他人と変わらぬのではないかな」
趙雲がそう答えると、孔明は、そういうものかなと、どこか寂しそうにつぶやいた。
趙雲は、言葉では、辛辣に人間をこきおろす孔明が、自分よりずっと、人というものに、優しい夢を持っていることに気づいて、おどろいた。

まず、目を射たのは八重の花弁をもつ、くちなしの花であった。
劉琦は、伴もつけずに、書庫にひっそりとしていた。
そこに飾られていた白い花を物憂げにながめていた。
表で、義弟の劉琮が百花繚乱の庭園で、にぎやかに詩歌をつくっているのとくらべれば、ずいぶんさびしい光景であった。

が、劉琦の物思いに沈んでいるのは、義弟とおのれの境遇の差をなげいているからではない。
「この花は、程子聞が好きだった花でね」
と、孔明たちが部屋に入るなり、劉琦は言った。

ずいぶんやつれたな、というのが、趙雲の第一印象である。
もともと頑健さとは程遠い体つきであったが、気鬱のせいだけではない、なにか病魔に蝕まれているような、異様な痩せ方をしている。
骨と筋、そして血管すら浮き上がった青白い身体をして、劉琦は、目の大きさばかりが目立つ顔を、こちらに向けた。
その顔を見て、なぜだか趙雲はぞくりと背筋を寒くした。
劉琦は、柔和でおとなしい公子、という印象ばかりが先に立っていた。
事実、つい数ヶ月前までの劉琦というのは、そういう人物であったのだ。
ところが、いまはどうだろう。孔明の話だけを聞いて判断していたので、趙雲は、あいかわらず物事をすべて家臣まかせにする、軟弱な公子を思い描いていたのだが、いまの公子は、めったなことでは怖じない趙雲さえ、圧倒させる迫力をそなえていた。

話がちがうではないか、という意味も込めて、趙雲は孔明を見たのであるが、おどろいたことに、孔明も、劉琦の様子を見て、圧倒されている。
孔明は公子を見、公子は孔明を見た。
劉琦の顔つきは、木の葉のように運命の奔流にもてあそばれる、あわれな公子のそれではなかった。
おのが宿命だけではなく、おのれに従う部下の運命もすべて背負って戦う、大将のそれだ。
先に口を開いたのは、劉琦であった。
「いまさら形式ばった挨拶はやめましょう。斐仁の調書でしたな」
「お待ちください、先に、程子聞のお悔やみを。葬儀にも出られず、失礼をいたしました」
孔明が言うと、劉琦は青白い相貌に、悲しそうな笑みを浮かべた。
「よいのです。あれの葬儀は出しませんでした」
「葬儀をしなかったのですか?」
「あれの親戚という人間が遺体を引き取って行きました。おかげでわたしは、あれの死に顔も見ておりませぬ。
軍師はご存知でしょうが、あれは困った性癖をもっておりましたので、樊城には敵が多かった。たとえ葬儀を出してやれたとしても、死に方も尋常ではない。本人もここで弔われるのは喜ばなかったことでしょう」
「親戚、ですか。たしか程家は漢津の貴門でありましたな?」
「そう聞いておりますが、あれはあまり、家のことはしゃべりたがらぬ男でありましたから」
「たしかに。わたしも程子聞とは何度か言葉をかわしておりますが、家のことについて、話をした記憶がございませぬ。
しかしおぼろげにおぼえているのですが、たしか程子聞の出自は漢津ではなく『壷中』という村ではありませんでしたか?」
孔明の目が鋭くなる。趙雲もまた、劉琦、ならびに伊籍の表情の変化を、わずかたりとも見逃すまい、と目をこらした。
しかし、劉琦は耳慣れぬことばにぽかんとし、伊籍にいたっては、
「『壷中』とは雅やかな村名ですな。しかし聞いたことのない名です。荊州にあるのですか。世の中広いですな」
などと見当違いの感心をしている。

かれらは『壷中』にかかわりがないのか。

「程子聞が如何なされましたか。なにか、気になることでも?」
「ええ、とある人物から聞いたのですが、程子聞の遺体はひどい有り様で、とても本人とは思えぬほどであったとか。程子聞の部屋で死んでいたから、程子聞である、と断じられたわけですか」
「衣も程子聞のものでありましたし、ひどいとはいえ、まったく見分けがつかなかったわけではありません。従者から知らされた花安英が見に行って、本人であると言ったのです。
ほかの者ならば間違えることもあるかもしれませんが、花安英の言葉なので、わたしも信用をしたのです」
趙雲は孔明と思わず顔を見合わせた。
「公子、花安英と程子聞は、貴殿のご学友であった。花安英は、程子聞と仲がよかったのですか?」
なぜこんなことを、というふうに、劉琦は怪訝そうにうなずく。
「もちろんです。そもそも、あのふたりが同時にわたしに付いたのも、ふたりが義兄弟の契りを交わした仲だからです。師が同じだということでしたが、たしかにあのふたりは仲が良かったのですよ。ですから、花安英が、程子聞の遺体を、他人と間違えるはずがありません」
「義兄弟」
趙雲は絶句した。
あの嘘つき、と忌々しく思った。
なにが、親しくなかった、だ。
義兄弟だったというのであれば、親しくなかったどころの騒ぎではない。
「ときに公子、花安英の出自はどこなのです。やはり漢津なのではありませんか?」
「いや、花安英は、輪をかけて自分のことを話したがらない子でね。あなたもご存知でしょう。あれの口を開かせるのは容易ではありませんよ」
「花安英と程子聞が、仲たがいした様子はありませんでしたか」
孔明が尋ねると、劉琦は、こんどは驚いた風に目を丸くした。
「おや、なぜご存知なのです」
「いつごろです?」
「あなたが劉予州の軍師になる前ですよ。あなたが軍師になられるまえに、こちらにいらしたのはいつでしたかな?」
「一年ほど前になります」
「ではその頃です。なにが原因なのかはわかりませんが、それまでは妙な噂が立つほどに仲がよったふたりが、急によそよそしくなりまして、わたしとしても気詰まりなので、なにが原因か探ろうとしたのですが、程子聞にうまくはぐらかされてしまいました。
花安英は誇り高いので、愚痴めいたものすら、わたしにこぼしませんし。ただ、原因は、あなたにあるのでは、と思っていたのですが」
「わたしに?」
「ええ。いえ、実際には、程子聞があなたと、親交をもつようになってからです。軍師が、程子聞と花安英が義兄弟であったことを知らなかった、というのを聞いて、確信いたしました。やはり、原因は、軍師にあるのでしょう。
程子聞の態度が、決定的に変わったのが一年前。あなたはここで程子聞と話をされた。ちょうどその日を境に、程子聞の態度が大きくかわって、花安英を避けるようになったのです。
それまで、日々をなんとなくやり過ごしているだけであったような男が、急に生き生きとしはじめまして、わたしを蔡一族から守るために、家臣たちをまとめてくれたり、いろいろ気遣って、策をさずけてくれたりするようになりました。ほんとうに、じつに頼りがいのある、よい男でありました」
と、劉琦は優しく微笑むと、傍らに飾ってあったくちなしの花を見た。
まるでそこに程子聞が生きて、立っているかのように。
花安英も、まだ程子聞が死んだとは信じられない、というようなことを漏らしていた。
それほどに、劉琦たちにとって、程子聞という男の存在は大きかった、ということだろうか。
孔明は、劉琦の言葉に啓発され、けんめいに一年前の記憶をたぐっている様子である。
抜群に記憶力のよい孔明は、しばらくもしないうちに、なにかを思い出したらしく、ほんの一瞬だけ、得心が行ったように、にやりと笑った。
が、すぐにその笑みも消え、ふたたび劉琦にたずねる。

「程子聞が斐仁に殺されたのを見ていたのはだれです」
「花安英の従者です。程子聞が殺されているのを知り、あわてて花安英を呼んだのですが、花安英が駆けつけたときには、とっくに程子聞は絶命しておりました。
そばに斐仁が立っていたので、花安英は人を呼び、すぐに取り押さえたのです」
「花安英の従者は、なぜ花安英を呼んだのでしょう。そういった場合は、衛兵を呼ぶべきではありませんか」
「動転していたのではありませんか。花安英はあれでも、一人で諸国を巡れるくらいに体力のある子ですし、あの従者も年寄りで片輪ですから、少年とはいえ花安英を恃みにしているのでしょう」
「従者というのは、どんな男です」
「よく働いているようです。花安英が樊城にやってきたときに、一緒にくっついてきた男です。花安英はよく用事を言いつけているらしく、しょっちゅう、出かけている様子ですが。名前はなんと言ったかな。機伯、おぼえているかな?」
「あいにくと。目立つ風体なのですが、ふしぎと印象が薄い男でして、名前を気にしたこともありません」
「それでは、それは花安英に聞くといたしましょう。さて、斐仁の調書を見せていただいてよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんでございますとも。調書は、あちらにございます」
と、劉琦が示した先には梯子がかかっており、ひとつの空間を、むりやり上下に分けたような、宙に浮いたようにも見える小部屋があった。

花 8へつづく
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