09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
⑥
「すこし休まれたほうがよろしいのでは? そうだ、わたしの部屋にいらっしゃい」
と、花安英は、ぐいぐいと腕をひっぱる。
その身体からは、きつい花の香りがする。
あとは腐るばかりの、売れきった果実にも似た、甘い香りだ。
「いや、やめておく。すまないが、軍師をひとりにするわけにはいかん」
趙雲はそう言い、花安英をほどこうとした。
しかし、花安英のほうは、傷ついたような顔をして、ゆるゆると腕を放した。
「わからないな。どうしてあのひとばかりが特別なのだろう」
宴席に戻りかけた趙雲は、花安英のことばに足を止めた。
見ると、花安英は、甘さのつよい秀麗な顔に、愁いをうかべて、考え深げにしている。
「たしかに軍師は特別かもしれんが、それを、なぜおまえが嘆く?」
「だって、不公平じゃありませんか。いつだって、あのひとは守ってもらえるようにできているんだから。それくらべると、わたしなんかは救いようがない」
「おまえ、いくつだ。軍師より十は若いはずだぞ。それなのに、人生のほとんどが、終わったようなことを言うな。おまえでそれならば、おまえの倍の俺は、どうすればよいのだ」
趙雲が言うと、花安英は、ちいさく笑った。
「ほんとうに面白いひとだなあ。それに得な人ですね、ほんとうにそう思っているのが、わたしでもわかります。でも、あなただって、この城で寝起きしていれば、変わっていきますよ」
花安英は、不意に、伏せていた目をぱっ、と開いて、蟲惑的なまなざしを趙雲におくった。
「あなたに見せたいものがあるんです。わたしとおなじものを見て、そうしておなじことを言えるのか、教えてくださいませんか」
そうして、花安英は、誘うように、趙雲の腕を再び絡め取った。
「私はね、ここでは何をしても許される人間なんです」
と、花安英は誇らしげに言うのであるが、そこにはどこか、周囲に対する苛立ちが、籠められているように聞こえた。
紙燭の明かりだけを頼りに、すっかり暗くなった樊城を行く。
雨の降り出しそうな空模様の向こうに、わずかに月の白い影がのぞいていた。
月光がないために、地上の闇は新月の夜のように、濃い。
花安英の持つ紙燭を目印に、趙雲は勝手のわからぬ樊城を行った。
孔明たちのいる広間から、あまり離れてしまうと、戻り方が判らなくなる不安があったので、すこしでも目印を探そうと、きょろきょろあたりを見回すと、不服そうに花安英が振り向いた。
「落ち着かないなあ。なにか気になることでも?」
「おまえはどこへ向かっているのだ?」
すると、花安英は、察したように含み笑いをした。
「ちゃんと帰してさしあげますよ」
花安英が動くたびに、花の香りが漂ってくる。
まだ完全に成長しきっていない少年の横顔の稜線は、まだ柔らかさを残しているが、とはいえ、咽喉元はすでに男のものであり、なにやら奇妙な感覚を、見る者にあたえる。
花安英の華やかな様子、優雅な立ち居振る舞い、愛嬌のある喋り方などは、どれをとっても、誉め言葉しかふさわしくないものばかりだ。
しかし趙雲は、それでも花安英に、反発にも似た嫌悪感を抱いていた。馴れ馴れしい素振りや、慇懃無礼な態度に腹を立てたのではない。
なぜ、自分がこうも苛立つのかはわからない。
ただ、虫が好かない。
「わたしは、あのひとに似ていますか?」
「いいや」
考える間もなく、口が先に動いていた。
花安英は、不服そうに眉をしかめる。
「そうかなあ」
「自分では、似ていると思っているのか?」
「あのひとが、いまのわたしとおなじ年だったときは、わたしのようだった、とよく言われましたので」
「だれに」
「程子聞ですよ」
「どんな男だったのだ?」
趙雲が話題に乗ってきたので、花安英は満足そうに、にっこりと笑うと、答えた。
「ひどい人でした」
「ひどい?」
「ええ。すごくわがままで、人を振り回すことにかけては天下一品。あのひとに遊ばれた女を集めたら、それこそ市だって開けてしまうんじゃないかしら。
しかもそれが女だけじゃない、男も、っていうんだから、すごいでしょう? あのひとの一番ずるいところは、とんでもなくだらしなくて、口ばっかりの大法螺吹きのくせに、なぜだか憎みきれない所ですよ。
だから、どんなにひどい目に遭わされた人でも、いつの間にか、なんとなくあのひとを許している。だから、あのひとは反省しないで、何度もおなじことをくりかえすんだ」
花安英は、死んだ男の悪口を、楽しそうに歌うように囀った。
その振る舞いが、逆に、花安英自身が、程子聞をどう思っていたのか、その想像を拒んでいる。
「まるで、生きている奴のことを、話しているみたいだな」
趙雲がそう言うと、花安英は、はじめて気付いた、というふうに、ああ、そうでしたね、などと、とぼけた返事をかえしてきた。
「友であったのか?」
「いいえ、単なる同僚です。そうか、もう死んじまったのでしたっけ。なんだか、ひょいと、そのあたりから、出てきそうな気がするのだけれど」
と花安英は、紙燭を暗がりにひょい、と移動させる。
もちろん、そこには薄明かりに払われた、闇の残滓があるだけである。
「あんなふうに、誰だかわからないくらいに、ぐちゃぐちゃになっていたものだから、もしかしたらまだ、生きているんじゃないかしらと、どこかで思っているのかなあ」
花安英のつぶやきには、感傷はまるでない。
淡々とした中には、悲しみや憤りもない。
ただ、おのれの心象をそのまま口にしているのだ。
「程子聞の遺体は、それほどにひどい有り様だったのか」
「ええ。程子聞の遺体は、わたしの従者が見つけたんです。片腕がきかない男なんですけれど、そのぶん鼻がきくというか、なにかおかしいと思ったのでしょうね。
程子聞は、馬の足に踏み潰された、蛙みたいになっていましたよ。傷がついていないところがない、というくらい。よほど恨みを買ったのでしょうね」
「では、死んだ奴が程子聞じゃない、という可能性もあるではないか」
「それはありませんよ。あれは程子聞です」
「しかし、おまえは、程子聞の同僚であったというだけで、さほど親しくもなかったのだろう」
「でもわかります。あれは程子聞です」
花安英は、きっぱりと言い切った。
それは、次に発せられるであろう、「なぜ」の問いすら封じる、毅然としたものであった。
自信、と言い換えてもよいかもしれない。
「あなただって、もしも、あの人が殺されて、ばらばらになって、誰だかわからない姿になっても、やっぱり、すぐに、これはあの人だ、ってわかるでしょう?」
「軍師はだれにも殺されることはない」
「例えば、の話ですよ」
「それでもだ。ところで、どこまで行くのだ。ここは、樊城のどのあたりになるのだ?」
気付くと、しんと闇に沈む樊城の、北側にやってきていた。
どこもかしこもきれいに磨きこまれている城の、そこは物置として使用されている部屋のようであった。
無造作に積まれた卓や椅子、棚などの調度品があり、蜘蛛の巣がかかっているものもある。
どこまで行っても塵ひとつない空間の連続であった樊城において、こんなに乱雑な部屋がある、ということに、趙雲は、むしろほっとした。
樊城はたしかに清浄なところであったが、しかし、気を落ち着かせる清浄さではなく、むしろ、躍起になって人の気配を消そうとしているような、いびつな神経質さが感じられた。
花安英は、部屋に入り込むと、そのなかの衝立のひとつの後ろに隠れる。
そうして、姿を隠して、手だけを出し、おいでおいでと趙雲を誘う。
「おい、ふざけるな」
趙雲は胸が悪くなり、乱暴に言うと、衝立の向こうから、花安英だけの声が聞こえた。
「ここまでついてきたのは、面白いものが、見たいからじゃなかったのですか」
「くだらぬ物であったら、タダではおかぬぞ」
「それは、見る人にもよると思いますけれど」
と、意味ありげなことを言って、花安英は、衝立の向こうで忍び笑いをする。
ここまで来たのだし、花安英のような脆弱そうな少年に、力で負けることはないだろう、いざとなればぶん殴って、いま来た道を戻ればよい、と思った趙雲は、衝立の向こう側へと足を向けた。
衝立の裏には、紙燭を手にした花安英が、普通に立っており、趙雲がやってきたのを認めると、またも満足そうに、にっこりと笑った。
その笑みを見た、と思った瞬間に、ふっと明かりが消え、あたりは真の闇に包まれた。
趙雲が身構えるより早く、花安英が真正面から飛び込むようにして、抱きついてきたのがわかる。
鼻腔いっぱいに、花安英の身につけている、香り袋の甘い香りが飛び込んでくる。
この香りは、どこかで嗅いだことがあるな、と趙雲はふと思ったが、思い出すことができなかった。
いくら相手が美少年とはいえ、抱きつかれて喜ぶ人間はめったにない。
とっさに払いのけようとした趙雲であるが、花安英はそれを先に察したらしく、腕を掴む両手の力を、さらにつよくしてきた。
投げ飛ばすか。
趙雲は闇の中、手探りで花安英の襟を掴んだが、当の花安英は、なにを勘違いしているのか、やはり、くすくすと忍び笑いをしているのだった。
「勘違いをなさらずに。この衝立は狭いので、二人も隠れる場所がない。だからこうして身を寄せているだけなのですから」
「隠れる?」
「そう。ほら、聞こえませんか?」
花安英のささやきに、耳をすませると、ひたひたと、足音が近づいてくるのがわかった。
衝立の隙間からそっと伺うと、真っ暗闇の中を、ゆっくりと、薄衣をかぶって顔を隠している女が、ひとりでやってくるのが見えた。
その、おぼろに浮かぶ姿は、まるで幽鬼のように見えて、ぞっとする。
柳腰の、悄然とした歩き方をする女であった。
「そら、もうひとつ」
花安英は、趙雲の袖を引っ張り、別な方向に耳を寄せるようにうながす。
それに倣って、趙雲が耳をすませると、静かながらも、規則正しい足音が近づいてくるのがわかった。
女は、趙雲たちの潜む物置部屋に入ってくると、やってくる、もう一方の足音のほうを見て、乗り出すように首を伸ばした。
足音は、まるで迷うふうもなく、物置部屋の前にまでやってくる。
一人。
手には、ちいさな蝋燭ひとつきり。
そのちいさなちいさな灯火に、浮かび上がった顔を見て、趙雲は、眉をしかめた。
何度か顔をあわせたことがある、いかにも大将然とした、堂々とした体躯の、中年男、蔡瑁である。
孔明の妻の、伯父にあたる男。妹である蔡氏の子・劉琮を、次期州牧に据えようと、画策している中心人物だ。
趙雲は、身近にある花安英の顔を盗み見た。
闇に慣れた目に、長い睫毛を讃える、花安英の双眸がある。
その目は、獲物をねらう猛禽のように、暗い喜びに光っている。
華やかな面差しには、腹の底からわきあがっているであろう、嘲笑が浮かんでいる。なまじ顔立ちがよすぎるために、その表情は、悪鬼のようにみえた。
蔡瑁が入ってくると、女は、薄衣をかぶったまま、そちらのほうを振り返る。
こんな夜中に、人目のつかない場所で、男と女がふたりして、こっそりと会っているとなれば、これはたいがい想像がつくだろう。
女は、蔡瑁と対峙すると、そのまま無言であった。
逢瀬に感無量で言葉がない、といった甘い雰囲気ではない。
女も沈黙したままならば、蔡瑁も憮然とした表情で腕を組み、相手の出方を待っている、というふうだ。
「遅かったではありませぬか」
と、口を先に開いたのは女のほうであった。
女は、遅かった、と尖った声をあげているわけだが、たいして待っていたわけではないことを、趙雲は知っている。
蔡瑁は、そんな女をじっ、と見据えていたが、やがて、ゆっくりと口をひらいた。
「いつまでこんなことを続けるおつもりか?」
すまなかった、と言う代わりに、出た、唸るような言葉であった。
ゆらめく蝋燭の明かりに浮かぶ相貌は、苦々しく歪んでいる。
「はじめたのは、お前様ではありませぬか」
女は、そんな蔡瑁の様子を嘲うように、言う。
笑い声が耐えられぬというのか、蔡瑁はその声に、きつく眉をしかめると、また低く唸った。
女は、さらに声をたてて笑う。
「いまさら怖じているとは、おかしなこと。もう止めることなどできぬ。いい加減に、覚悟をきめなされ」
「はじめたのは、たしかに儂かも知れぬ。だが、ほんとうに始めたのはお前だ」
その言葉に、女はくぐもった笑い声をあげた。
「そう。泣いて嫌がったわたくしを説得し、あの男の妻にしたのはお前様」
と、女はするりと薄衣を剥いだ。
音もなく床に落ちた薄衣の下のその姿は、簡単に髪を結い、地味な女官の服をまとった、年増女のそれである。
衝立に隠れた格好では、その後ろ姿しか見ることができない。
「お前様はわたくしにおっしゃった。我慢せい。もうすこしで、この城は我らのものとなる、と」
蔡瑁は腕を組み、女をじっと見据えている。
女は、そんな蔡瑁の心の内を、すべて見抜いているようだ。
忍び笑いをしながら、ゆっくりと蔡瑁に近づいていく。
「そういい続けてもう十年余り。泣くことも許されず、わたくしは、ただひたすら、耐えてきた。嫌いな男を夫と呼び、立てていかねばならぬ苦しみ、ほかの女たちとの競って勝たねばならぬ苦しみ、お前様に自由に会うことのできない苦しみ。ほんとうに、最初は苦しみばかりで、わたくしはここから逃げることばかり考えていた。
でもお前様が恐ろしくて、とてもそんなことは出来やしなかった」
蔡瑁は、黙ったまま、女の言葉を聞いている。
女は、その手を、苦渋の表情をうかべる蔡瑁の頬にあてた。
「わたくしが、正夫人を追い出してその座についたとき、わたくしは一番泣いた。もうこれで、逃げることなどできなくなってしまったのだ、と。
いっそ死ぬ思いで、逃げてしまおうかと本気で考えた。泣いて、悩んで、そうして、いざ逃げようとしたとき、わたくしの足は動かなかった。
お前様と別れるのが怖かったからではない。苦労に耐えた年月を、捨ててしまうことが惜しかった。
あれほど我慢したのだもの。どうせ逃げても殺される。それならば、だれもわたくしを殺せないような女になればよい、と。
人の心とは不思議なもの。そう思いついた途端に、わたくしの中から恐怖が消えた。もうお前様も怖くない。いまは、お前様がわたくしを怖がっている」
またも忍び笑いをしながら、女は、蔡瑁の頬を、まるで子供をからかうような仕草で、さすった。
「なぜ怖がっているのです? わたくしはお前様の思い通りの者になったというのに。落ちぶれた豪族の妾腹であったわたくしに、目をつけたお前様の眼力が、正しかったと、誉めてやっているのですよ」
「ありがたがれ、とでもいうのか」
その言葉は、蔡瑁のささやかな抵抗であった。
だが、女は、また忍び笑いをすると、組まれた蔡瑁の腕をほどき、みずから、その胸に顔を埋める。
ちょうど、趙雲たちの隠れているほうからは、その横顔が見える形となった。
まさか。
趙雲は絶句し、その加虐の喜びに歪む横顔を、凝視した。
趙雲は、劉備とともに、劉表と会見をしたことがあった。
会見、といっても、ざっくばらんなものであったが、そのときに、もてなしてくれたのが、樊城の主である劉表と、その妻であった。
劉表とはだいぶ年が離れているようで、妻と言うより、娘と言ってもよいくらいに見えた。
とても一児の母には見えず、華奢ではかなげで、楚々とした花のような女であった。
その美しい顔はいつもうつむき加減で、場を和ますために劉備がおどけたことを言っても、ただ唇の端を動かすだけの、おとなしい女であった。
蔡瑁の妹であり、孔明の妻の叔母、蔡氏。
「最初に考え付いたのはお前様。わたくしに近づいたのも、最初から、わたくしの内にある毒を見抜いておられたからではないのか」
蔡瑁は黙っている。黙って、卵を抱える鵬のように、胸の中にいる蔡氏を抱いた。蔡氏はくすぐったそうに、ちいさく笑う。
「わたくしに家を捨てさせ、何でも言うことを聞くように、逆らえないように虜にしておいて、一門の栄達のためだけに、わたくしはお前様の父上の養女となり、まるで品物のように主公に差し出された」
「あやまれ、とでも? おまえとて、いまは好き勝手をしているではないか」
「済んだことを責めはしませぬ。ほら、またおかしな具合だこと。昔、家に帰りたいと泣いたわたくしに、過ぎたことをいつまでも嘆くな、と叱った男とは思えぬ」
「ならば、おまえは儂にどうしろ、というのだ」
「わかりませぬか」
と、女はふと、男から身を離すと、両手でその襟元を掴み、勢いよく、着物を左右にはぐった。
中年とはいえ、武人らしく鍛えこまれた、厚い胸板があらわになる。
「お前様は、わたくしのものだとおっしゃい」
なんだと、と言いかけた蔡瑁を、蔡氏は、するどく決めつけた。
「わたくしのものだとおっしゃい!」
甲高い声が、びりびりと部屋を震わせる。
それに気圧される形となって、蔡瑁は、唸るように言った。
「儂は…」
「聞こえない! もっと大きな声でおっしゃい!」
「儂は、おまえのものだ」
「また新しい側室を迎えられたとか。追い出しなされ。明日にでも」
高飛車な要求に、渋面の蔡瑁もうろたえて言う。
「待て、あの女は、儂のところを追い出されたなら、もう行くところがない」
「聞こえませんでしたか。追い出せ、と申したのです。お前様はわたくしのものなのです。わたくしの言うとおりになさい!」
蔡瑁が反論しようとするのを、蔡氏は無理やり唇を奪って封じた。
「お前様があの女を追い出さない、というのであれば、わたくしが殺してやる」
「莫迦な」
「莫迦なことなぞなにもない。わたくしの手は、もう十分に汚れているのです。小娘を一人殺したところで、もうなにも感じやしない。
お前様が、そのような女に、わたくしを変えたのです。そうでしょう?」
絶句する蔡瑁の顔に、蔡氏はなにを読み取ったのか、満足そうな笑い声をたてると、自らも衣を乱暴に脱ぎ、蔡瑁にしなだれかかっていった。
平素のふたりを見知っていただけに、趙雲は、蛇に絡め取られた蛙のように、言うがままにされている蔡瑁に驚いた。それに、おとなしい女だとばかり思っていた蔡氏の、思いもかけない様子に、衝撃を受けた。
まるで初めて妓楼に足を踏み入れた少年と、熟れきった玄人女のようでもある。棒立ちのまま、なにもしようとしない蔡瑁に、蔡氏は焦れて、乱暴に衣を剥いでいった。
つよい嘔吐感をおぼえたが、衝立のうしろでこらえた。
見つかったらまずい。
それに、大変なことであった。
蔡瑁の妹だという女が、実はそうではなく、蔡瑁の妾であった、という。
その爛れた関係は、いまもって終わっていないというのだ。
もしそれが明るみに出たなら、孔明が策を講じるまでもなく、蔡家の一門は、樊城を追われる身となるだろう。
あるいは、主公を裏切り続けたかどで、処刑されることもありうる。
蔡氏の子である劉琮は、当然、排斥されるだろう。
そうすれば、劉公子は、肩身の狭い思いをしなくてよくなるのだ。
劉公子が樊城、すなわち荊州牧を継いだなら、後継である劉備の立場も、いまよりずっと良くなる。
いまは蔡家の人間が、がっちりと掴んでいる荊州の軍勢を、劉備が掌握できるようになるのだ。
うまくすれば、現状の孔明の方策のように、逃げるのではなく、堂々と曹操と対峙することが可能になるかもしれない。
揺れる蝋燭の火に、真っ白な背中を浮かび上がらせて、蔡氏は横たわらせた蔡瑁にのしかかっていく。
異様な光景であった。
年増とはいえ、十分に若さと美しさをとどめている蔡氏が、武人である蔡瑁を意のままに動かし、弄んでいるのだ。
美女が武人を犯している。蔡瑁が、これほどに、蔡氏の言うなりになっているのにも、なにか理由があるにちがいない。
蔡氏は、自分の手が、十分に汚れている、と言った。
まさか、蔡氏が『壷中』なのか?
ふと、くぐもった声が聞こえて、隣を伺うと、趙雲の身体にしなだれかかるようにしていた花安英が、笑っているのだった。
その笑みは邪悪、と表現するにぴったりのもので、昼間の艶麗な美少年の面影は、微塵もない。
趙雲は、その笑みに背筋を凍らせると同時に、ふと、冷静になった。
おかしいではないか。
「おまえは、あいつらのことを以前から知っていたのか」
ささやくようにして花安英に言うと、花安英は懸命に笑いをこらえている、といったふうに、肩を震わせつつ、やはり、ささやくようにして返す。
「面白いでしょう」
「面白くなどない。なぜ、俺にこれを?」
「あなたが気に入ったから」
と、不意に花安英は、年相応の、幼さのぬけ切っていない笑顔を、薄闇の向こうから投げて寄越した。
邪気のすっかり失せた、人懐こい笑顔に、趙雲はかえってうろたえる。
この少年の中に、善悪という、世の概念は存在するのだろうか、と。
「このことを知りながら、なぜ劉公子にだまっていたのだ。おまえの主は劉公子だ。俺ではない」
「だって言ってしまったら、こんな面白いものが、もう見られなくなってしまうじゃありませんか」
下手な冗談などではない。花安英は、本気でそう思っているらしい。
長い睫毛に縁どられた双眸に、不気味な光を宿らせて、言った。
「劉公子はいい人だけれど、あなたほどに好きじゃない。惜しいけれど、あなたに『これ』を差し上げます。煮るなり焼くなり、お好きなように。
でもきっと、あなたはあの人にぜんぶ話してしまうのでしょうね。あの人は、きっとあなたに感謝しますよ」
「軍師は、こんな穢れた話を利用しようとはなさらぬ」
「そうかなあ。あの人、そんなに聖人君子じゃありませんよ。賢い人間なら、かならず、この話は利用します」
たしかに得をするだろう。
だが、花安英は劉備と孔明の気質を知らない。
蔡瑁の暗部を白日のもとにさらけ出し、追い出した後に、神輿をかついで、自分が蔡瑁のいた地位に居座る、などという世渡りは、劉備のもっとも嫌うところである。
さらに加えて、孔明は、軍師らしからぬことに、こういった『汚い』話を嫌う。
汚い話を、汚いまま、処理することが性格上、できない。
ふと、むせ返るような花のにおいを吸い込んだ。
いつの間にか、花安英が、さらに距離をつめて、趙雲に近づいてきているのだ。花安英は、声を立てずに笑いながら、趙雲に腕を伸ばしてくる。
湿った肌の感触が、身体にぴたりとくっついたとき、趙雲は思わず、力いっぱいそれを跳ね飛ばしていた。
と、同時に衝立が派手に倒れて、その風で、部屋に灯されていた蝋燭が、掻き消えた。
情事のさなかに闇に包まれた蔡瑁たちは、ようやく、部屋に、自分たちとは別の人間がいることに気がついた。
「だれだ!」
迂闊であった。
趙雲はちいさく舌打ちすると、すばやく周囲を見回した。
傍らには、さすがに身をこわばらせる花安英、ほこりを被った衝立、蜘蛛の巣の掛かった調度品、壁に生えた木のように佇む燭台。
この燭台を武器代わりに振り回し、突破を、と趙雲は考えたが、衝立の向こうで、蔡瑁が、はやくも体勢をととのえて起き上がるのを見て、あきらめた。
蔡瑁は智将である。行動も慎重で、このような後ろ暗い密会においても、すぐそばに側近を控えさせていた様子だ。
ただならぬ蔡瑁の誰何の声に、数人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
この小魚の骨のような、貧弱な坊主を抱えて蔡瑁主従を突破することになるが、負ける気はしない。
だが…
そのとき趙雲の脳裏に浮かんだのは、慣れぬ得物をどう使いこなすか、物置小屋を出た後、どこう逃走経路をとるか、といったことではなかった。
突破はできるだろう。戦いになっても、負けることはない。
だが、姿を見られたら、どうなる。
諸葛孔明の主騎たるおのれが、蔡瑁の動きをさぐるべく、密偵のまがいごとをして、それを悟られたら。孔明は、劉琦を押す劉備の軍師となった。
そのために、蔡瑁も蔡夫人も、姪の婿たる孔明を快く思っていない。
さらに、孔明の主騎に、自分たちの最大の秘密を握られたとなれば、死にもの狂いで襲い掛かってくるだろう。
孔明が、この場にいるのであれば、ともに連れて逃げる。
だが、孔明はいま、伊籍らとともに宴席に出ている。
しかも、自分は花安英によって、闇の中、慣れぬ樊城の一室へと導かれた。
首尾よく追っ手をかわしたとして、孔明のいる場所まで、蔡瑁たちより早く孔明のもとにたどり着き、樊城を出ることは可能か。
趙雲はすばやく計算した。
出来ないことではない。
だが、蔡瑁たちが『壷中』だったとしたら、どうだ。
たとえ樊城を突破したとしても、すぐさま追っ手は掛かるだろう。
それすら振り切ったとして、新野に逃げ込めたとする。
蔡瑁たちの秘密をあきらかにすれば、劉備側に大義名分はたつ。
樊城だけではなく、荊州のほかの太守たちの中にも、劉備とよしみの深い人間はいる。
かれらをまとめ、樊城にいる劉琦を救う、という名目で軍を進める。
戦になれば、戦力は樊城のほうが上だが、人心は劉備にある。じっくり攻めれば、劉備が勝つ。
しかし、その内紛を、曹操が見逃すはずがない。
いま戦なんぞをしたら、すなわちそれは滅亡を意味する。
だめだ。それだけは避けなければ。
くそっ。
趙雲は、姿を見られずに、蔡瑁たちを突破することをあきらめ、さらに部屋を見回した。
すると、調度品にまぎれるようにして、板付けにされている窓があることに気付いた。
趙雲は、花安英にたずねた。
「おい、あの窓の外は、どうなっている」
「闇ですよ」
この期に及んで、たいがいふざけるのはよせ、という思いのありったけをこめて、花安英を睨みつけたが、花安英は、冗談を言ったのではないらしい。
怯えた顔をして答える。
「ここは三階です。あの窓から落ちたら、死にますよ」
「窓の下は?」
「さあ、わかりません。この窓の下は、奴婢たちが暮らしている小屋や畑があるはずですが」
よし、とだけ言うと、趙雲は立ち上がった。
その気配に、蔡瑁たちがますます、いきり立つのが、気配でわかった。
「間者か! 出てくるのだ!」
蔡瑁がよく響く野太い声で怒鳴った。
蔡氏のほうは、衣をととのえつつ、怯えた顔をして、蔡瑁の背後にかくれて、なりゆきを見ている。
蔡瑁の警護の者たちが部屋へやってくると、蔡氏は、床に落ちていた薄衣をさっ、とかぶって顔を隠した。
人数が増えたことで、蔡瑁は気を強くしたのか、抜刀した兵卒とともに、衝立のほうににじり寄ってくる。
頃合を見計らい、趙雲は、目の前にある衝立を蹴り飛ばした。
ちいさな悲鳴が上がり、蔡瑁たちが、うろたえたのがわかる。
趙雲は、まっすぐに入り口に向かわず、壁側にすばやく移動すると、壁側に積まれた家具を、片っ端から抱え上げ、手当たり次第に、蔡瑁たちにぶん投げた。
もしかしたら、この中には、高価なものがあるのかもしれない。
派手な音をたてて、家具は蔡瑁たちにぶつかり、あるいは床や壁にぶつかって、倒れていく。
趙雲は、さいごに、壁にたてかけてある、自分の胸元くらいまである、大きな燭台を掴むと、やがて家具が取り払われ、全体が姿をあらわした窓の、板付けになっている部分に、燭台をつきたてた。
ばき、めき、と木の割れる音がする。
幸いにも、打ち付けられた板は古く、さほど頑丈ではないらしい。
何度かおなじことを繰り返し、板がほぼ割れたのを見ると、趙雲は、傍らでうろたえている花安英を引っつかみ、窓に思い切り体当たりをした。
ふわり、と肝を震わせる、不安感と浮遊感が全身をつつむ。
眼下はなにも見えない闇の海である。
どこまでが真の闇で、どこからが地上なのかもわからない。
ただ、思いのほか冷たい風が、闇と共に押し寄せてくるような感覚がある。
ひどく長い時間、空中に留まっているように思えた。
いつの間にか、樊城の城壁の天辺にでもいたのではないか。不安とともにそんな思いが過ったころ、眼下に、藁葺きの屋根が見えた。
趙雲は、飛び込む形でそこに落ちた。
屋根に落ちると、趙雲と花安英の重量に耐えられず、藁葺きの屋根はすぐに落ち窪み、そのまま傾いだ。
とたん、屋根のしたで、まどろんでいた無数の鳥たちが、不気味な鳴き声をあげていっせいに暴れだす。
闇の中、姿のはっきり見えない鳥たち…どうやら家鴨の小屋であったらしい…の羽根に顔を打たれつつ、羽毛と藁の飛び散るなか、趙雲は、立ち止まることなく、駆け出した。
藁葺き屋根が物置部屋の真下であったのは、幸運だった。
落ちた衝撃で足にしびれはあるものの、藁のおかげで、痛みというほどではない。
それまで、趙雲に抱えられるかたちで傍らにいた花安英は、地上につくなり、藁の上に放り投げだされた。
そうして、駆け出した趙雲の背後から、あわてて追いかけてくる。
鳥たちの声に、寝静まっていた奴婢たちが騒ぎ出したのがわかった。
それにしても、どこもかしこも整然として、日常にありふれている醜悪さを、すべて駆逐したような城にあって、趙雲の落ちた庭の有り様は、悲惨であった。
新野にさえ、これほど貧しく、陰鬱な小屋はない。
汚物の臭いが充満している、巨大な豚小屋のような地域であった。
とても人間のあつかいをされている人々の住むところではない。
獣も人も、ここではおなじようにあつかわれているのだ。
真の闇。
そんな言葉が脳裏をかすめた。
どれくらい走ったかわからない。
花の香りを手掛かりにして、趙雲はひたすら駆けた。
うまい具合に、追っ手はかからなかったようだ。
深呼吸すると、あちこちに咲き乱れる花々の、むせかえるような香りが肺を満たす。
花は、肥料がよければよいほど、これほど美しい姿を見せる。
美しくあるために、必要不可欠な肥料そのものは、たいがいが汚物や残飯である。
この世は、美ですら、その出発点は汚濁によって支えられている。
生まれつき無垢で、美しいものなど、存在はしないのだ。
息を整え、ここがどのあたりなのかを、闇に探る。
しかしさっぱりわからない。
「ここは、宴席の広間からすぐそばにあった庭ですよ」
花安英が言う。
趙雲は興味がなさげに振り返った。
「念のため、おまえは自室に戻って、鍵をかけて、今宵はもう部屋を出てはならぬ」
すると、花安英が、髪を乱して、汗を浮かべた、どこか艶っぽい相貌に、険をあらわして言った。
「わたしに命令をするんですか」
「死にたくないだろう」
「わたしは、あなた方を助けるために、蔡一族の秘密を明かした人間ですよ」
「だから何だ。おれはおまえの命の恩人だぞ」
花安英は、闇の中、しばらく沈黙していた。
趙雲としては、花安英はどうでもよい。
ともかく孔明の元へ戻り、ばれてはいないと思うが、孔明が無事であるかを確かめなければならない。
ふと、小さいうめき声が聞こえた。
小僧、どこぞに怪我でもしたのかな、と花安英のほうを見ると、花安英は、肩を震わせて、笑っている。
大笑いしたくなるのを、ぐっとこらえているのであった。
趙雲としては、花安英に、それほど喜ばれるような、面白いことを言った記憶がない。
眉をしかめていると、花安英は、笑いの発作をようやくおさめて、顔をあげた。
「一つお伺いしたいのですが、あの部屋に、わたしを置いてこようとか、一人だけ逃げようとか、そういうことは考えなかったのですか」
「いや」
「なぜです?」
「なぜ、とは面妖な。考えるまでもなく、おまえをあそこに捨て置いたら、まちがいなく斬られていたぞ」
「それだけですか? わたしが蔡瑁に捕まったら、逃げたのがあなただと、すぐに喋ってしまうからではないのですか」
「ああ、そうか。そういう可能性もあったな」
そういって合点をする趙雲であったが、花安英は、しばし沈黙したまま趙雲を見て、それから今度は笑わずに、くるりと背を向ける。
その華奢な背中に、
「言うとおりにしろよ」
と声をかけると、花安英は、無言で振り返ると、さきほどとは、打って変わって、何物をも寄せ付けないような、冷たい顔を見せた。
「わたしは、やっぱりあなたが大嫌いになりました。さようなら。もうこんなふうに、お会いすることはないでしょう」
あまり好いていない相手にでも、やはり嫌い、と面と向かって言われるのは気分のよいものではない。
なんなのだ、と思わずつぶやく趙雲であるが、花安英は、なにもいわず、闇のなか、足下に可憐に咲き乱れる花々を、蹴散らすようにして、去っていった。