09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
⑤
夜回りの時間になり、陳到はやれやれと身を起こした。
面倒である。それにつまらない。早く帰りたい。
趙雲から、朱季南という男の探索を頼まれているが、こちらも一向によい知らせがこない。
まったく面倒だ。
それまで、兵舎の囲炉裏端で、よもやま話に花を咲かせていた同輩たちは、仕事の時間がやってきたので、さきほどまでのくつろいだ様子を捨てて、すっかり将の顔になっている。
それに比べると陳到は、いかにもしまりがなく、仕事ができなさそうに見えた。
陳到という男は、仕事が嫌いだ。
身体を動かすことが面倒だとか、人と折衝するのが面倒だとか、そういう理由からではない。
もし、城に家族を呼べて、その家族と一緒に仕事ができる、となれば、陳到は、もっとしゃっきりしたであろう。
登城して陳到がまっさきに思うことは、
「さっさと仕事を終わらせてはやく家に帰ろう」、
であり、
終業近くなると思うことは、
「つまらない仕事はうっちゃって、とっとと家に帰ろう」
である。
そうして、終業をしらせる太鼓がドン、と鳴った時点で、もう陳到の姿はどこにもない。
陳到は武将などを生業とするよりは、平和な町でこじんまりした商店の親父におさまっていたほうが、じつは似合っている男である。
しかしそんな地味な性格の陳到に、世の武人たちが、地団駄を踏んでくやしがるほどの、武芸の才能があたえられているのだから、世の中はおかしなものである。
空を見あげると、満天の星が、ちかちかとまたたいていた。
ああ、あの星みたいに、ただそこに在って、ぴかぴかと輝いておればよい生き方ができればよいなあ、と陳到は思う。
それほどに、名誉や栄光に望みのない男であった。
であるから、仕事はあくまで生きる糧を得る手段にすぎない。武将をやっているのは、とりあえず自分の得意が役に立ち、なにをこなすにも、いちばん効率がよいからだ。
わざわざ人の怨みを買うような掠奪は、したことがないし(あとが面倒だから)、するつもりもなかったから、盗賊まがいの部将も多いなかで、徹底して規律を重視し、掠奪行為の一切をきらう趙雲のもとではたらけるのは、陳到にとってはありがたかった。
その趙雲が留守のいま、副将たる陳到が、趙雲の代わりをつとめなければならない。
こんなふうに毛色がかわっている陳到の気性を理解し、家族にも気を配ってくれる趙雲には、世話になりっぱなしである。だから、いまこそ恩返しをするよい機会なのであるが、しかし面倒くさい。それに眠い。
あらためて、趙雲がいかにできる男であったか、淡々と日々を暮らしているようで、ほとんどなにも問題を起こしたことがない、ということが、実はどれだけ凄いか、ということを実感する。
あまたいる劉備の武将たちのなかでも、趙雲のかかえる部将というのは、真面目でおとなしい気性の人間が多かったが、頭領が変わっただけで、違和感をおぼえるらしく、陳到の命令もあまり聞かない。
陳到もそうであるが、ほかの部将たちも、はじめは、劉備を慕ってあつまった。
しかし、今日まで栄達や蓄財とは無縁に、地に伏すようにして暮らしてきて、なんら不満がなかったのも、趙雲の采配がよかったので、働き甲斐を感じることができ、不満を抱くことも少なかったからだ。
もしも趙雲がこのまま帰ってこず、関羽や張飛、最悪の場合、糜芳らの部将として組み込まれてしまうようなことになったら、出奔する人間は増えるだろう。
はじめ、趙雲が孔明と組み、劉備の意向を無視して、勝手に劉琦の側近を暗殺したらしい、という話を聞いたとき、陳到をはじめとする、趙雲の部将たちは、だれもそれを信じなかった。
知り合って八年になるが、嘘や陰謀といったものほど、あの人の気性に合わないものはない、と陳到は思う。
それは、劉備もよく知っているだろう。
莫迦げた疑惑なんぞさっさと振り払って、はやく戻ってきて欲しい。
そうすれば、部将も安心するし、陳到も気苦労が減る。
四方丸くおさまり、万々歳だ。
まるでやる気がないのが一目でわかるような、のたのたした歩き方で、陳到は見回りをはじめた。
いつもならば、子どもに御伽噺を聞かせながら、いっしょにぐうぐう眠っている時間である。
考えてみれば、趙雲は職場で寝起きし、職場の人間と四六時中顔をあわせ、ほとんど休みなしの生活をずうっとしてきたのだ。
あのひとは、きっとどこかおかしいのだ、と陳到は真剣に思う。
いったい、いつ息抜きをしているのだろう。
見栄えがよいから、もてているのに、絶え間なく仕事をしているので、女たちはだれも近づけないでいる。
いつだったか、部将たちみなで酔って盛り上がったついでに、うちの大将によい嫁を娶せよう、という話が持ち上がったことがあった。
仕事はきらいだが、お祭りはすきな陳到は、みなの音頭をとって、新野中の、気立てのよい娘、あるいは寡婦を探しだし、それとなく趙雲に紹介したのだが、鈍いのだか、とぼけているのだか、趙雲は結局、だれにも見向きもしなかった。
いまはとてもそんな時期ではないけれど、この危機を乗り越え、落ち着いたなら、またみなで大将の嫁を探そう、と陳到は思った。
その算段をあれこれ空想しながら、退屈な気分をまぎらわしていると、なにやら、闇の中で、ざわざわと、落ち着かない動きをしている篝火がある。
調練場の真ん中にぽつりとある、東の蔵のあたりであった。
近づいていくと、東の蔵の、入り口のあたりで、新米と古参兵がもめていた。
新米のほうは、このあいだ入ったばかりの、糜竺の養子のふたりである。
なかなか優秀な若者で、養子とはいえ糜家で育てられた男子らしく、弓馬に長けていた。
糜竺の威光もあり、新米らしからぬ存在感を見せていたふたりであるが、どうしたことか、いまは古参兵にかこまれ、いまにも泣きそうな顔をしている。
昼間の、凛々しい若武者姿が印象につよいだけに、その落差におどろく。
「こらこら、何事だ」
陳到が近づくと、兵士たちは一斉にこちらを見た。
またまた驚いたことに、新米、古参、どれも関係ナシに、闇に浮かぶ顔の双眸は、不安の色をやどしていた。
東の蔵、というのは、陳到にとっても、気分のよい場所ではない。
裏切り者である斐仁が、管理していた場所、というのもある。
それだけではない。東の蔵、というのは、なぜこんなところに、というくらいに、ぽつりと、調練場の真ん中の、半端な場所に造られている。
長方形の蔵には、緑色に塗られた観音開きの大きな扉が真ん中にあって、左右にはそれぞれ、龍と鳳凰の絵が描かれている。
中には、主に備蓄米が貯蔵されているのであるが、ほかにも官品がおさめられていて、その管理を、斐仁はしていたのである。
調練場に、唐突にある建物なので、その違和感ゆえか、不気味な怪談が絶えたことがない。
すこし前に、張飛がここで死体を見つけてから、さらに不気味さに拍車をかけた。
やはり、ここは呪われた場所だ、というのである。
しかも孔明までが、ここにはあまり近づくな、とみなに通達したので、よけいであった。
怪談とはこうだ…
新野城にいたある兵卒が、城に出入りする妓女といい仲になった。
夫婦の約束までしていたが、その男の弟も、おなじ妓女に想いを寄せていた。
兄弟は仲が良かったが、じつは片親だけの血の繋がりしかない。
それまでのしがらみもあったのか、女を間にはさみ、二人の仲は途端に割れた。
二人は烈しく憎しみあうようになり、ついに、女をめぐって決闘をすることに決めた。
しかし軍規により、決闘は禁止されている。
そこで兄弟は、夜中に、兵舎から離れた東の蔵で落ち合い、決闘をすることにした。
兄のほうは、勇んで東の蔵に入ったものの、弟のほうが、まだいない。
ハテ、さては臆病風に吹かれたか、と思ったのもつかの間、がやがやと蔵の外がさわがしく、見れば、兵卒を仕切る部隊長らが、ぐるりと蔵を取り囲んでいる。
男は肝をつぶした。隠れるところを見つけて身を潜めたが、外の声を聞くに、どうも、蔵の中に米泥棒がいるのだと勘違いしたらしい。
さらにおどろいたことに、泥棒が潜んでいると部隊長に言いつけたのは、ほかならぬ、おのれの弟であった。
兄は、ようやく、からくりに気づいた。
弟は、片親きりの兄で憎き恋敵を、卑怯にも罠にはめたのだ。
決闘しようと蔵へ誘い込み、自分は、泥棒がいるらしいと部隊長を呼んでくる。
決闘は軍規で禁じられている。米泥棒は鞭打ちの刑。どちらにしろ、お咎めを受けて、城を追放される。
もうあの女に会えなくなる、ということだ。
兄は地団駄を踏んでくやしがったが、弟の策略どおり、立ち入り禁止の蔵に忍び込んでいるのは事実であるし、出て行くにしても、追放は免れない。
弟のほうは、といえば、おのれの策略がうまくいったので、影でしてやったり、とよろこんでいた。
ところで、じつはこの部隊長、兄弟の諍いにうすうすと気づいていた。そこで、中にいる「泥棒」とやらに機会を与えることにした。
部隊長は、蔵にむかって、十を数えるあいだに、表に出てくるようにと告げた。
部隊長としては、兄が出てきたら、形ばかりの処罰をして、いま、おのれの隣でほくそえむ弟の悪巧みを暴いてやろうとしたのである。
そんな思惑を知らない兄のほうは、すっかり追いつめられてしまい、十を数え終わっても、外へ出て行かなかった。
そこで部隊長が声を張り上げてたずねる。
「だれかいるのだろう、出て来い」
すると、中から哀れな男の声がした。
「ここには、だれもいない」
笑い話である。怒った部隊長は、中にいる兄を無理やり外へ出すために、蔵に火をかける真似事をさせた。
もちろん、中には兄だけではなく、貴重な米がある。本当に火を放つつもりなかった。なかったが…
なんという運の悪さか、突然、風向きがつよくなり、本当に蔵に火がついてしまったのだ。
あわてて消火したものの、兄は最後まで、外へ出て行こうとしなかった。
焼け跡から、気の毒な男の焼死体がみつかった。
弟は、きつく取調べをうけ、結局、兄弟を罠にはめたことを白状した。
弟は城から追放されたが、家の恥だと一族中から責められて、帰る場所もなく、ひとりさびしく路上で死んだ。そして、兄弟をたぶらかした妓女は、処罰をおそれて、いつのまにか新野城からいなくなっていた。
東の蔵はあらたに建て直されたが、夜、そこへ入ると全身に火傷を負った男が、米袋のあいだに蹲っている、という。
男に会わないためには、「ここにはだれもいない」といえば、安全だそうな…
「おいおい、なにを揉めているのだ。ここは、軍師にあまり近づくなといわれている場所であろう」
斐仁だけは、もちろん例外であったから、ほとんど一日、ずっとここに籠もっていたわけだけれど、斐仁がいなくなってしまった結果、こんな騒ぎが怒っているのだから、やはりこの場所は呪われているのかもしれない。
そんなことを、ぼんやりと考えていた陳到であるが、あらわれた陳到にすがるように、糜竺の子供たちが、口を開く。
「わたくしどもも、父上より、この蔵にはけして近づいてはならぬ、ときつく言いつけられております。父は留守でございますが、とはいえ、その言いつけを破るわけにはまいりません」
「しかし当番で決まったことであろうが」
と、古参兵がきつくたしなめる。糜竺の子供ふたりは、青い顔を見合わせ、それから、ぶるぶると首を横に振った。
やれやれ、面倒な、と陳到は思った。
東の蔵の怪談、というのは、ずいぶん昔からあるのだが、これは格好の、古参兵の新米いじめの種にもなっている。
斐仁は夜になると、屋敷に帰ってしまうので、夜に見張りを置くのであるが、その割り当てに、わざと気の弱そうな新米をあてて、怪談を聞かせて、蔵に閉じ込めてからかうのである。
趙雲がいる間は、こんなふうに、おおっぴらに騒いだりしなかったものを、と陳到はうんざりする。
そうして、糜竺の子供たちに言った。
「おまえたちは新米ゆえ、あまり知らぬであろうが、ここの怪談の元となった死体は、張将軍が弔ってくださった。だから、もう幽霊など出ぬ。安心して、見張っておれ」
「しかし、父上の言いつけに、そむくわけにはまいりませぬ」
と、兄のほうの糜竺の子が頑なに言う。
弟のほうも負けておらず、うんうん、と肯いて、同調する。
「左様にございます。父上は、東の蔵と、調練場の楠木には、近づいてはならぬ、とわれらに言い置きました」
調練場の楠木、というのは東の蔵同様に、絶海の孤島のようにぽつりとそこに残されている木である。
劉備とともに新野に入った頃は、まだちいさな若木だったのであるが、七年で立派な大木に成長した。
最初は邪魔だ、邪魔だと邪険にしていたのだが、枝振りが立派になるにつれ、調練の休憩に、ちょうどよい日陰を提供してくれるところとなった。
「楠木? そういえば、そなたたち、日中も、みながあそこで憩っているのに、ふたりして日向でぼーっとしておったな。
あんなに暑い中、ずうっと日に照らされておったのだ、それでは脳天も溶けてしまうわい」
「そうだ、だから臆病なのだ」
と、古参兵も、大いに笑う。
糜竺の子供たちは愚弄され、顔を真っ赤にしている。
まあ、からかうのはこれくらいにして、場を治めねばなるまい。
「さあて、みんなして大いに笑ったところで、父上孝行をねがう兄弟を、邪険にするわけにもいかん。おまえたち、どうせ暇なのだし、このふたりの代わりをしてやれ」
陳到が言うと、とたん、古参兵の顔も、兄弟に負けず劣らず、渋いものになった。
「なんだなんだ、さんざん、ひとの臆病を笑っておいて!」
「しかし陳将軍、たしかにここは、こいつらじゃなくても、ちょっとイヤです」
「ただの蔵だろうが。斐仁は毎日ここに詰めていたのだぞ」
言いつつ、陳到は、蔵の中を覗く。
篝火の明かりに、無人の蔵の貯蔵物が浮かび上がっている。
闇の中にはだれもいない。いるはずがない。
そうして、周囲にはこれだけの人がいる。
「む…」
しかし、なぜだか陳到は背筋が寒くなった。
理屈ではない。
闇の中に溶け込んで、なにか得体の知れない生き物が潜んでいるような、そしてそれが、幾百の眼差しを投げかけているような、そんな不気味な錯覚をおぼえた。
まったく馬鹿げた空想である。
しかし、なにやらそれが現実のもののように感じさせる説得力が、この闇にはある。
陳到の様子に、糜竺の子供たちも、古参兵も、息をつめている。
陳到は、なるべくなんともない、というふうを装って、扉を閉じると、兵士たちに言った。
「軍師も近づくな、とおっしゃっていたわけだし、ここの見張りはよいか」
古参兵たちは、軽蔑の色をかくさず、がっかりしたように言った。
「なんだ、やっぱり陳将軍も怖いんじゃないですか」
「うるさいぞ。趙将軍よりえらい、軍師の命令だぞ、軍師の! というわけで、全員、べつなところを見張るように。さあ、てきぱき散れ!」
ぶうぶう言いながら、蔵を離れていく兵士たちを追いたてながら、陳到はちらりと、闇に浮かぶ東の蔵を振り返った。
そうして、思った。
斐仁は、ずっとあそこにいたのだよな、と。
陳到に、樊城の孔明より、斐仁に関するすべてを、もう一度総ざらいにするように、と指示があたえられるのは、翌日のこととなる。
※
伊籍を中心に、孔明を歓迎する宴が開かれた。
ひとが一人、暗殺されたというのに、宴もなにもないものだが、蔡家に睨まれ、風前の灯火となっている、劉琦とその腹心たちにとっては、死んだ仲間より、長生きさせてくれるかもしれない軍師の歓心を買うほうが、大切なのだ。
花安英が言ったとおり、劉琦とその腹心たちは、孔明を、敵を残らず殲滅できる猛毒か、魔法の剣のように考えているらしい。
孔明は策士ではあるが、正攻法を好む。おおよそ彼らの願いどおりの策を出せるとは思えないのだが…
新野城のそれとはちがい、樊城の宴ともなると、なんとも典雅で、儀式のようだ。
猥雑なものはなにひとつなく、清華な妓女たちが、上品な舞を披露し、歌われる詩も、なにやらむずかしい注釈がたくさんつけられている、難解な詩曲ばかり。
卓にならぶのは、山海の珍味ばかりで、酒もめったに呑むことのできないほどの上等なもが用意されている。
だというのに、両隣でかわされる会話ときたら、将来の不安について、ひそひそと話をしたり、蔡家の側の人間を、口汚くこきおろしたりと、まことに品がない。
とはいえ、雅やかな会話ばかりされても、趙雲としても、相槌を打つのが精一杯であったろう。
宴がはじまってからしばらくして、趙雲は、夜風に当たるから、と中座した。
劉琦の腹心たちは、孔明がその場に残っていればよい、と思っている様子で、趙雲が席を立っても、なにも言わない。
孔明に、ちらりと目で合図すると、趙雲は部屋の外へ出た。
孔明は、伊籍の隣で、歓談をしている。
牢を出たばかりのときは、死人のような顔色をしていて、驚かされたが、もう大丈夫のようだ。
すこし、配慮が足りなかったか、と趙雲は反省する。
平気なフリをしていても、孔明にとって、この城は、父親の代わりにも等しかった、叔父を暗殺された場所でもあるのだ。
我慢に我慢を重ねて、突然ぱたり、と倒れるというのだけは勘弁してほしい。
なによりそれを防ぐのが自分の役目だ。
今度からは、たとえ大丈夫そうに見えていても、無理にでも休ませることにしよう。
廊下に出ると、酒で上気した頬に、風が心地よい。
締め切られた部屋の窓越しに、篝火に浮かぶ人の影が見える。
あの中に、『壷中』がいるのか。
それとも、この城の、別なところにいるのか。
どれだけの規模のものなのか。
なにが目的なのか。
そうして、なにを恐れているのか。
いままで判ってきたなかで感じるのは、『壷中』という組織の、異様な繊細さである。
七年間も職務に忠実であった男を切り捨て、その家族を虐殺し、あげく、暗殺の罪を男になすりつける。
その過程は、莫迦がつくほど丁寧で、容赦ない。
愚直なまでに徹底して、邪魔者を片づけていく、この冷淡さはどこから生じるものだろう。
なにを守ろうとすれば、これほど残酷になれるのか。
組織というのは、なんらかの利権を守るために組まれるものだ。
樊城がその拠点、というのであれば、この城の利権を守るため…それはごく一部の人間のための、特化された利権であろう…組まれたものだ。
見た目はすばらしく清雅なこの城も、抱える闇はとてつもなく濃く、重い、ということか。
「わからんな」
つぶやくと、それに応えるように、そよそよと、闇に浮かび上がる白い花が、風に揺れた。
「なにを悩んでいらっしゃるのです」
来たな、と趙雲は思いつつ、さりげなく振り向いた。
趙雲が孔明ひとりを残し、宴席を中座したのは、花安英が席を外したのが見えたからであった。
花安英は、殺された程子聞とおなじ、劉琦の学友だった。
とすれば、程子聞がほんとうに『壷中』であったのか、そして、程子聞を斐仁が殺した(?)とき、斐仁を取り押さえたのがだれであったのか、知っているはずである。
なるべくならば、あまり近づきになりたくない人物であるが、孔明の負担をいくらかでも軽くするためには、しかたがない。
「宴はもうよいのか」
と、趙雲がたずねると、花安英は、鈴のようにころころと、高い声で笑った。
「その言葉、そのままあなたにお返ししますよ」
「おれは、ああいう席は苦手でね。だがおまえは、ああいう席で愛想を振りまくことが仕事ではないのか」
「今日はもう店じまいです。うれしいですね、またこうしてお会いできるとは」
趙雲は、この少年の扱い方がわかってきた。
見た目は柔らかで可憐であるが、この少年は、かなり気が強い。
挑発すると、かえって反発して乗ってくる。
「さすがにいまは暇でしょう? どうです、昼のつづき」
「すこしだけなら時間をやろう。だが、おまえと話せることはなにもないだろうな」
と、趙雲はつめたくそっぽを向く。
すると、案の定、花安英は身を乗り出してきた。
「わたしは、ずいぶん低く見られているのですねぇ。新野のひとは冷たいな。でも、あのひとには親切でしたね」
「軍師のことか? それはまあ、あの方はおれの上司であるからな」
「知っていますよ、あなた、あのひとを警護する武人なんでしょう? なんだってそんな格好をしているんだかわからないけれど。
まあ、それはともかく、それにしたって親身じゃありませんか。倒れそうになったのを支えてやった挙句、水を汲んで持ってきてやって、落ち着くまでじっと待っているなんて」
「そんなことが親身と言われるのか? 具合のわるい人間がいたら、ふつうはそうするだろう」
「へえ、そうなんですか?」
と、花安英は首をかしげた。
とぼけているのか、それとも樊城では人に親切にすることがめずらしいのか?
いや、それよりも。
「おまえ、ずっとおれたちを見ていたのか?」
「ええ。せまい城ですからね、ほかにすることもないし。地下牢なんかに、何の用事だったんですか?」
「おまえには関係のないことだ。なぜ気にする」
「気にして当然じゃないですか。わたしだって、劉公子の味方のひとりなのですからね。あの人の口から出てくる策とやらで、明日の運命が決まる身なんですよ。
ねえ、あのひと、なにか言っていませんでしたか? やっぱり、みんなで蔡氏を暗殺するのですか?」
言いつつ、花安英は、趙雲の目を覗き込みながら、腕に、みずからの細い腕を絡めてくる。
振り払いたいのは、やまやまであるが、趙雲は我慢した。
「物騒な話を軽々しくするな。それにしても、自分の仲間が殺されたから、蔡一族も殺そうというのは、利巧な考えではないな」
すると、花安英は眉をしかめ、唇をとがらせた。
「程子聞を殺したのは、蔡一族の差し金なんかじゃありませんよ」
「では、だれだ? 言っておくが、うちの軍師の差し金でもないぞ。そういうことができる人間じゃない」
「ほら、そういうのが親身だ、って言うのです。それとも惚れている、っていうのかなあ。あのひとって、好かれるか嫌われるかの両極端ですよね。それも、とことんまで愛されるか、徹底して憎まれるかのどちらか。
あのひとの舅も、婿が相談もなしに劉備の軍師になったといって、殺してやるとまで言っていましたよ。まあ、無理でしょうけどね。あんな干からびたじいさま相手だったら、わたしだって勝てますもの」
「軍師の舅、黄承元と知己なのか」
「ええ。不思議ですか? ところでなんでしたっけ? だれが程子聞を殺したか? それは、あの地下牢の人でもないと思います」
趙雲はおどろき、はじめてまともに、自分の腕に絡んでいる少年を見下ろした。
趙雲の注意が自分にまっすぐ向いたので、少年は満足そうに、にっこりと笑う。
「そんなの、ほんとうはみんな知っていますよ。斐仁っていうのでしたっけ?
あのひとが見つかったのは、程子聞の部屋だったんです。ほかにはだれもいなくて、悲鳴が聞こえたので、駆けつけてみたら、血まみれになっている程子聞の死体と、隣りに立っていた、斐仁が見つかったのです。それでおまえが下手人だろうと捕らえたのですが、でもそんなわけないのですよ。
だって、程子聞はあれほど血まみれだったのに、斐仁は返り血を浴びていませんでしたからね」
「莫迦な。それでは、そもそもなぜ斐仁を捕らえる必要があったのだ」
「だから、この城の人間独特の理論ですよ。部屋にはふたりきり。死んだのは自分たちの仲間の程子聞、もうひとりは、見知らぬよそ者。ほかにだれもいない。自分たちが仲間を殺すわけがない。だから、部屋にいたよそ者のこいつが下手人に違いない、とね。
斐仁とかいう人も、ほとんど抵抗しなかったし、それに新野の趙子龍とかいう武人の部下だ、と言うので、新野の人間なら、こういう野蛮な行為を仕掛けてくるかもしれない、と」
「なんのために?」
「諸葛孔明が、樊城を乗っ取るために、チャチな芝居を仕掛けてきたのではないのですか」
趙雲は絶句した。
筋が通っているようで、まるで支離滅裂である。
言いがかりを、それらしく整えただけの話ではないか。
そもそも、斐仁が趙雲の部下であり、趙雲は孔明の主騎であったから、疑惑に筋が通るのであり、斐仁が下手人でない、というのであれば、そもそも話は違ったものになる。
「自分たちの仲間を殺した人間が、ほんとうにだれなのか、それを知りたいとは思わないのか?」
「思いませんよ。だって、万が一、程子聞を殺した人間が、身内だったらどうするのです。そのほうが、恐ろしいじゃありませんか。よそ者が下手人だ、ということで、落ち着いていられるのです。とりあえず、程子聞が死んでから数日になりますけど、とりたてて変化もないし、このままでよいのでは?」
狂っている。
この城では、人ひとりの命があまりに軽い。
仲間が死んだことよりも、自分たちの面子や、生活が変わることのほうが、ここの人間には重要ごとなのだ。
はじめて樊城を訪れたとき、宴のさなかに葬儀の話になったことがあった。
そのときも、彼らは、仲間の死を悼むよりも、その葬式のありさまについて語ることのほうに熱心だった。
「おや、顔色がよくありませぬな。悪酔いをされましたか?」
そうだな、と趙雲は力なくつぶやいた。
だいたいが狂った時代であるが、この城の狂乱は際立っている。
どこよりもまともそうに見えて、内面は腐敗しきっているのだ。
儀礼だの体面だのも、命があればこそ、気にすることのできるものではないか。
そもそも、命を守るための規則が儀礼であったり、生きるための誇りが体面であったりするのではないか。
すべてが逆なのだ。
儀礼や体面のために、人が死んでも、それを黙殺する。
そんな莫迦な話が、あるものか。
不意に、趙雲の脳裏に、なぜだか播天流の姿が浮かんだ。
おまえは、人殺しがうますぎる。
そう言って、趙雲を突き放し、嫌った男の守ろうとしたのも、もしかしたら、この樊城の人間と、同じものではなかったか。
生き死にの場面において、甘ったるい美学など通用しない。
生きるか、死ぬか。善悪も関係ない。その極論だけだ。味方を守ろうとするならば、まずおのれが生きなければならない。生きているからこそ戦えるのだ。
生きて、戦って、守るためには、どんな批判も、軽蔑も恐れない。
どれだけでも人殺しに巧くなれる。
いまならば、そう堂々と播天流に言い返せる。