09年改訂版

孤月的陣
第三章 ハナ  花

牢というものはどこでもそうであるが、厠とおなじくらいにひどい臭いの耐えない場所である。
孔明は、新野の賞罰に関しても、すべて執り行っていたから、裁きの場で囚人と顔をあわせることはあっても、牢に下りて、直接に言葉をかわしたことはない。
牢に降り立ったとき、吹き上げてきた臭いが襲ってきて、思わず孔明は身体をぐらつかせた。
「大事無いか」
「滑っただけだ」
孔明は、趙雲の顔を見ることが出来なかった。
身体を支えるようにして肩に置かれた手をやんわりと払いのけ、あらためて歩を進める。
そして、おのれを叱る。
これしきで、怯んでいてどうする。

牢屋番が寄ってきたので事情を説明すると、斐仁は、いちばん奥の、特別な房に入れてあります、という。
孔明は、ふと、斐仁がすでに拷問を尽くされており、廃人になっている可能性もあるのでは、と危惧したが、伊籍はそんな卑怯な切り札の出し方はしないようだ。
独房に入ると、首から下を死者のように布でぐるぐる巻きにされ、舌を噛まないように、器具を口に嵌めさせられている、斐仁の姿があった。
孔明がやってきたのを見ると、斐仁の両目は、獣のようにぎらぎらと敵意で輝いた。
正気は失っていない。
そうして、孔明と共に入ってきた官吏ふうの男が、ほかならぬ趙子龍だとわかると、さらに目の輝きは強まった。

「元気そうだな」
と、孔明は皮肉をきかせた。
牢屋番が、口の器具をはずしてやると、芋虫のように身体をのた打ち回らせつつも、斐仁は怒鳴った。
「この、人殺しめ! よくも、よくもおれの前に顔を出せたものだな!」
斐仁はまっすぐ趙雲を睨みつけている。
その眼差しだけで人を殺せそうなほどの勢いだ。
斐仁の顔は痣だらけであったが、人をひとり、殺めておいて、その場で仲間たちに取り押さえられたにしては、痛めつけられ方がずいぶん控えめである。
おそらく、交渉の切り札にするために、伊籍が拷問を軽いものに止めさせたのだ。
孔明は、斐仁の眼差しを敢然と受け止めると、問うた。
「人殺しはそなたのほうであろう」
「俺の問いに答えろ! なぜ俺の家族まで殺したのだ! 俺の家族はなにも知らなかったのに!」
ふむ、と孔明はここで、自分の考えがまず間違いないことを確信した。

斐仁は『壷中』の秘密を守るために大金を得ていた男、ということは確定した。では、『秘密』とはなにか? 
どうしたら喋らせることができるだろう。
味方であると訴えるか?
それとも敵であると思わせておくか? 
猛禽のような目をした斐仁をしばし観察し、孔明は結論した。
いま、この頭に血が上っているこの男ならば、それに合わせてますます煽ってやればいい。
この地下の饐えた空間の中で、斐仁は孔明たちが到着するまで、ずっと胸の中で呪詛をくりかえしてきたにちがいない。
それをすべて吐き出させてやるのだ。

「おまえが信用できなくなったからだ」
答えると、斐仁はところどころ青黒く変色している顔に、皮肉げな笑みを浮かべた。
「信用だと? 貴様の口からそんな言葉が出るとは、片腹痛いわ。俺も焼きが回ったものだ。まさか、貴様と趙子龍が連中の仲間であったとは。連中とは、いちばん遠いところにいると安心しきっていたのだがな」
「なぜ安心していたのかね」
斐仁は鼻を鳴らした。
「ふん、おのれの胸に手を当てて考えろ。恥知らずめが」

かわされた。
なぜ、自分が『壷中』である可能性からいちばん遠い?
そして、『壷中』であることは恥知らずなのだ? 

「斐仁よ、おまえは、なぜおのれの家族が殺されたのか、その理由がわかるか?」
「いまさら、なにを言うか。秘密が漏れるのが恐ろしくなったのであろう。俺はこの七年間、だれにも喋りはしなかった。小細工まで弄して、秘密を保ってきたこの報いが、これだというのなら、あのとき、おまえたちの命令には従わねばよかったのだ」

小細工をして守ってきた『秘密』。
七年間、この男のしてきたことは?

「俺はいま、曹操がさっさとやってきて、おまえたちをすべてぶっ殺してくれることを祈っているよ。そうすれば、秘密なんてもうなんてことはない。すべてチャラだ。おまえたちはどうせ死んでしまうのだ。
なのに、秘密が漏れることを恐れた。くたばってしまえ、くされ儒子ども! そして犬ども。くそっ、あの阿片中毒の男を助けてやって、曹操に秘密を売っていればよかった」

くされ儒子…つまり、やはり樊城と『壷中』は関わっている。
しかし、だとしたら、なぜこの男は樊城ではなく、新野にいたのだ? 
曹操が掴めば、有利になる『秘密』。
曹操が目下のところ狙っているのは荊州。
その侵攻を助けることになる『秘密』? 
なんだろう。物資か? 
たしかにこの男は、七年間にわたり、新野の東の蔵の番人として、官給品の管理をおこなってきた。
だが、曹操からすれば、そんな物資はスズメの涙ほどのものでしかない。
曹操が欲しがるもの。
荊州を揺るがすもの。
それは何だ?

「利巧なやつは、とっとと荊州から離れているぜ。とはいえ、おまえたちは、裏切り者は許さないのであったな。糜家のじいさんはもうくたばったかい?」

孔明は、声をあげないようにするのが精一杯であった。
すばやく、隣にいる趙雲に目を走らせる。
趙雲も同時に孔明を見た。
互いの顔が蒼くなっている。
糜竺が『壷中』の仲間だった。
だが何かしら事件が起こり、裏切り、殺された?
待て。
樊城に『壷中』が存在するのはまちがいない。
もし糜竺が『壷中』を裏切ったのだとすれば、なにものこのこ敵の真っ只中へ、単騎で飛び込む愚行をすることもなかろう。
糜竺の弓馬の腕前は弟の糜芳に劣らない、というのは孔明も知っているが、いかんせん、年を取りすぎている。
斐仁は、『壷中』の全体を把握していないのだ。
糜竺は、なんらかの理由があり、仲間たちと接触するために樊城へやってきた。
殺されるためにではない。
 
『壷中』という組織は、いったい、なんのための、だれに拠る組織なのか?
この樊城と、徐州の出である『よそもの』の糜芳を結び付けているものは何だ?
なぜ自分が、『壷中』の仲間である可能性がもっとも薄く、『壷中』であるとすれば、、恥知らず、と見なされるのか?
 
ふと、斐仁の腫れあがった顔に、怪訝そうな表情が浮かぶ。

斐仁を冷静にさせてはいけない。
斐仁は七年間も周囲を欺きとおしてきた男なのだ。
勝負に出てみるか。

「斐仁よ、しかし、くらだぬ真似をしたものだな。復讐するにしても、程子聞なという小物を殺めるとは。その程度では、われらはびくともせぬ」
「程子聞…?」
腫れた瞼の下にある双眸が、ぎらついた光をなくし、どんどん理性的なものに代わっていく。

しまった。

孔明は内心で舌打ちした。
理由ははっきりしないが、勝負に負けたのだけはわかった。
斐仁は、ぐるぐる巻きにされた身体を伸ばすようにして、孔明たちに問いかけてくる。

「莫迦な。死んだのは、程子聞なのか?」
「ふざけるな! おまえが殺したのであろう!」
と、趙雲が決め付ける。
すると、当初はぽかんとしていた斐仁だが、やがてなにかが頭の中で結びついたらしい。徐々に身体を揺らし始め、やがて、それは切れた唇から、哄笑となって上がってきた。
哄笑は、不気味なくらい長くつづいた。
あまりに長かったため、狂ったのでは、と思ったほどだ。
牢屋番が聞きつけて、止めさせようと飛んできたのを、孔明は止めた。
斐仁は、しばらく笑ったあと、咳き込み、それから唸るように言った。
地の底から、這い上がってくるような声であった。
「俺を嵌めたな、諸葛亮」
「なんのことだ」
「貴様たちは『壷中』ではないのだ。『壷中』であれば、俺が誰も殺していないことを知っているはず。
そうだ、俺は七年間、だれも殺してこなかった。皮肉なものだな、それでも人を見る目に誤りがなかったとは。貴様が『壷中』であるはずがないのだ。
『壷中』は貴様を恐れている。もし貴様が『壷中』のことを知ったと向こうが気づいたなら、やつらはきっと貴様を殺しに来るだろう。みんな死ぬのだ」

孔明と趙雲は顔を見合わせた。
斐仁がだれも殺していない、というのであれば、程子聞はだれが殺したのだ? 
なぜ、斐仁は捕らえられている?
「斐仁よ、子龍はそなたの家族を殺めてなどいない。この男にそのような非道が出来るわけないことは、七年間、人物を見定めたそなたが一番良く知っていたはず。おまえの家族を殺めたのは『壷中』だ。おまえは利用されたのだよ」
「それはちがう」
「まさか、まだ『壷中』に忠義立てをするつもりか?」
孔明の問いに、斐仁は掠れた笑い声をたてた。
「わかっておらぬ。貴様は、なにもわかっておらぬのだ。だが、これだけはわかっているはずだ。おまえは『壷中』の敵だ。連中もおまえを邪魔者だと思っている。おのれが狙われていることに気付いているのだろう? だからくだらぬ策を用いて、俺の口を割らせようとしたのだ。
そうして、策が破綻したので、今度は下手に出て、俺の味方のフリをする。
無駄だ。おれは貴様のために口を割るつもりはない。拷問にでもなんでもかければよい。そこで死ぬなら」
いかん、と趙雲が言うのと同時に、斐仁に飛び掛り、馬乗りになると、その口を上下に開かせて、閉じないように押さえつけた。
牢屋番は心得たもので、趙雲の動きにあわせて、舌を噛まないよう、先達ての器具を持ち出して、暴れる斐仁の口に噛ませた。
「斐仁、おまえの身の上には同情する。しかし、おまえがここで死ねば、喜ぶのは『壷中』だぞ」
趙雲の言葉に、斐仁は、意味ありげな笑みを向けた。
ひと段落ついた趙雲は、息を整えつつ、孔明に言う。
「軍師、今日はもう話になるまい。また時間を置いてからにしよう」
趙雲に促されるようにして、孔明は斐仁の独房を後にした。

饐えた臭いのたちこもる牢屋から、地上に出ると、一気に花の香りに包まれた。
あまりの落差に眩暈をおぼえた。
ぐらついた身体を、趙雲が支えようと手を伸ばしてくる。
孔明は、反射的にその手を払いのけていた。
孔明は、人に身体に触れられるのが嫌いだ。
どんなに親しくなったとしても、身体に触れられると身がすくむ。正確にいえば、自分に人間が寄ろうとしてくる、その瞬間がおそろしい。

叔父を殺した男は、まったくふつうに叔父に声をかけてきて、領地をうしなったことのお悔やみを言って、それから、親しそうなそぶりをして、至近距離を詰めて、それからゆっくりと身体を寄せ、刺した。

そのときの光景を、どうしても思い出してしまう。
相手を信頼している気持ちにはまちがいない。しかし、彼らが近づくその瞬間に、孔明は身をすくませ、その手に白刃がないだろうかと素早く探る。
それは叔父が死んでからずっと続けてきたことであり、呼吸をするのとおなじくらいに、身についた習慣になってしまっている。
信頼しているはずの相手を、その瞬間は心を裏切って、疑っているのを知覚せねばならないのは、苦痛このうえなかった。
しかし趙雲は、振り払う孔明の手をさらに振り払って、ぐらつく身体を、倒れないように支えると、すでに夕闇が迫り、一番星が輝きつつある空の下、行きかう人のめっきり減った廊下の片隅に孔明を座らせると、どこからか水を汲んできてくれた。
水は思いのほか冷たく、やっと生きた心地がした。
ほっと息をつくと、傍らにいて水を飲んでいない趙雲も、ほっとしたようである。
相当に顔色が悪かったらしい。
考えてみれば、劉備より、趙雲を主騎に付けてもらったときは、かえって気を遣って行動力が制限されてしまうと思い、その目を盗むようにして、あちこち出かけていたが、いまはむしろ、その存在が隣にいないと、安心できないくらいになっている。
こうなるとは思っていなかったら、当初はずいぶんひどい態度をとったものだ。

「すまなかったな」
孔明が言うと、趙雲は薄く笑った。
「べつに。たいした手間じゃない」
水のことではないのだが。まあ、いい。
誤解であっても、感謝していることだけ伝われば。
孔明が落ち着いたのをみると、趙雲は、周囲に聞かれないように声を落として言った。
「ここは虎穴どころの騒ぎではないな。この城のどこか、あるいはだれかが『壷中』なのだ」
 
「まったくそのとおりだ。斐仁の話でわかったことは、
一、やはり斐仁は『壷中』に雇われた人間であった、ということ
一、それは七年前で、ある秘密を守るためであったこと
一、その秘密は、荊州を揺さぶるほどのもので、曹操にとって有利に働く種類のもの
一、糜竺は『壷中』の仲間であること
一、諸葛孔明は『壷中』からもっとも遠い人間であること
一、斐仁は程子聞を殺していないこと
以上の点だな…
しかし、斐仁が程子聞を殺していない、ということは信じてよいものなのだろうか」
「その場で取り押さえられたのだから、誤魔化しようがないのでは? やつが嘘をついているのではないか」
「この期に及んで、嘘をつく理由は? いまさら命が惜しくなったというのであれば、自害をしようとするのも不可解ではないか…
子龍、斐仁の気持ちはもう『壷中』にない。あと一押しで、奴はすべてしゃべる。喋らせるための材料が必要だ。だれが斐仁を取り押さえたのか、調べる必要がありそうだな。」
「ほかの人間が、程子聞を殺し、その罪を斐仁になすりつけた、というのか? しかし、それは斐仁の動きを把握していなければできない芸当だろう」
「その芸当をこなした人間がいるのだ。子龍、そもそも、斐仁はなんのために利用されたのだろう。いま、結果として、わたしたちは樊城にいるわけだが、このことで有利になる人間はだれだ?」
「劉公子か? いや、まさか。程子聞は、公子の学友だったのだろう?」
「それなのだが、なぜ程子聞だったのだろう。斐仁があなたに向けた最後の言葉『樊城のおまえの仲間を殺してやる』、に惑わされて、暗殺された程子聞が『壷中』の仲間だとわたしたちは思い込んでいたが、ほんとうにそうだったのかな」
「程子聞が『壷中』の敵であった可能性がある、ということか。
軍師、さっき、花安英と話す機会があったのだが、奴はこう言っていた。劉公子の腹心たちは、蔡家の人間を同じ出身の豪族仲間だと見なしているので、殺すのにためらいがある、と」
「ふむ、なるほど。『壷中』が樊城の人間のみで構成されているのであれば、そうかもしれぬ。だが、斐仁はそうではない、と言っている」
「糜子仲どのか。主公が知ったら、悲しまれるだろうな」
趙雲の言葉に、孔明も落ち込む。
そもそも、糜竺が『壷中』である、という考えすら、斐仁に言われるまでは浮かびもしなかった。
それほどに、孔明は糜竺という温厚な人物を信用していたのだ。
不思議なほど自分に親しくしてくれたのは、隠れ蓑にすぎなかったのか。
あの笑顔の裏側では、殺意がふつふつとたぎっていたというのか。

それでも、わからないことがある。糜竺は、なぜ孔明にその存在を報せるように、『仇讐は壷中にあり』などという言葉を残して消えたのか。
まるで挑発するかのようではないか。
そもそも、なぜ自分が『壷中』に恨まれねばならないのだろうか。

「まだ新野に帰ることはできないな。われらはまだ、『壷中』の掌の中だ。策を練るにしても、情報が足りない。まずは調べねばなるまい。
斐仁を取り押さえた人物を探す
程子聞が『壷中』の仲間であったのかどうかを確かめる
糜竺が樊城で誰と誰に面会したのか確かめる
斐仁が守ってきた『秘密』とは何か、探る
最後については、これは斐仁がずっと新野にいたことを考えると、新野になにかあると思う。
至急、早馬を新野に送ろう。
さて、のこりの三つをどう首尾よく片づけていくか、だな。ここは敵陣の真っ只中だ。われらの行動は逐一、『壷中』に知られていると考えてよいだろう。
われらふたりだけで戦わねばならぬ。心の準備はよいな?」
「当然だ」
と、言って、趙雲は不敵に笑った。





鼾が反響している。
この牢屋でできることといえば、おのれの身を嘆くことと、眠ることだけだ。
楽しみなんぞなにもない。
毎日の食事はどうせ腐ったものばかりであるし、不平をいえば、牢屋番に気絶するまでぶちのめされる。
死をじわじわと感じながら、斐仁は闇に落ちた牢屋で、身動き一つせず、目を見開いたまま、考えていた。

七年間。
夢のような年月にも思えたし、まさに夢そのものであったのかもしれない。
夢はうたかたのごとく、たった一日にして弾けて消えた。
牢に囚われた後、伊籍とかいうちょび髯の親父がやってきて、
「この男はほかの囚人とちがう扱いをするように。言うことを利かねば痛めつけてもよいが、拷問にかけることはまかりならぬ」
と言ってきたときに、なにかおかしいと思うべきであったのだ。
それを聞いたとき、俺はおろかにも、『あの男』がおれに温情をかけて、ひそかに逃がしてくれるのでは、などと甘い期待をかけたのだ。

『あの男』の狙いはなんだ?
死んだのが程子聞というのは、どういうことだ?
『あの男』が俺を騙しているというのなら…すべてが嘘だというのなら、では、あの屋敷で、娼妓としけこんだときに、俺を襲ってきたのは?
朱季南とかいう禿げは、俺を殺そうとした人間ではないとしたら?
すべてがひっくり返る。
あの軍師が言ったように、おれはただ利用されたのだ。
何のために?
  
ふと、闇の中に気配をおぼえ、斐仁は顔を起こした。
まさか、『あの男』か? 
助けに来たのか、殺しに来たのか。

だが、顔を起こした斐仁の目に映ったのは、『あの男』ではなかった。
孔明でも、趙雲でもない。
まして牢屋番などでもない。
思いもかけない人物であった。
思わず、その人物の名を口にしたが、拘束器具のせいで、うめき声にしかならない。

「久しいな」
と、そいつは言った。
そいつの目は、あきらかに斐仁を哀れみ、そして蔑んでいた。
ほかのだれに蔑まれようと、斐仁は気にしない。
だが、こいつには別だ、と思った。怒りのあまり、芋虫のように身体をうごめかせると、そいつはふたたび言った。
「ここがおまえの末路か。本来ならば、わたしもここにいなければならない身だというのに」
わざわざ感傷的になるために、牢までやってきたわけではあるまい。
だいたい、よくここまで入り込めたものである。口のきけないもどかしさに苛立ちながらも、斐仁は、そいつのことをゆっくり思い出していた。
むかつくほどに潔癖で、頭の回る、いわゆる『立派』な男だった。
だが、同じ穴のムジナ。
罪の重さは、そいつが自ら口にしているとおり、同等である。

「斐仁よ、このまま、道具のように命を落とす気はあるまい?」
抗議の声を斐仁はあげた。
先ほどまで、死は、最後の楽になれる手段であった。
しかし、そいつの顔を見てから、気が変わった。
自由になりたい。
そいつが天下を堂々と歩いていられるのに、俺だけがこうして、死ななくちゃいけないなんて、間違っている。
 
抗議の声を、是認の声と取ったらしく、そいつは重々しくうなずいた。
「よし、それでは逃がしてやろう。ただし、条件がある。ここを出たなら、おまえはわたしに従い、あの御方をお助けするのだ」
『あの御方』だと? 
こいつ、いきなりなにを言い出すのだ。
「そのつもりがない、というのであれば、わたしはおまえを見捨てる。よいな、あの御方のため、おまえは命をささげ、罪を償うのだ」
そんな、どこのどいつかわからない『あの御方』とやらのために、そんな真似ができるか。
斐仁が激しく唸ると、それが伝わったのか、そいつは遺憾そうに眉をしかめた。
「おまえの性根は、そこまで腐り果てたか。すこしでも良心というものが残っていれば、わたしの言う『あの御方』がだれか、すぐにわかるはずだ」
斐仁は、しばらくそいつと視線を戦わせていた。
そいつは、斐仁の人物を見定めるように、じっとその双眸を見据えていた。
そうして、やがて、くるりと背を向けた。

逃げるな!

斐仁は叫んだが、やはり言葉にはならなかった。
背を向けて、やがて闇に溶けていくそいつは、すっかり視界から見えなくなる直前に、たしかにこう言った。
「また来る。じっくり考えろ、おまえの為さねばならぬ償いを」

                          ※                     ※
 
牢屋番は、『そいつ』が何者か、よく知っていた。
牢屋番が世で見知っているうちで、これほど惚れ込むことの出来る男はない、というほどの人物であったから。
だから、そいつが賄賂として路銀を差し出したとき、牢屋番は頑として受け取らなかった。
夜回りがもうすこしでやってくる、さあ、早く行きなさい。
そう言うと、そいつは寂しそうな笑みを浮かべ、小走りに、夜闇にまぎれて消えた。
 
やがて、そいつは城から出ると、隠すように止めていた荷車を引いて、今日の宿屋へ向かっていった。
そのときには、もう『そいつ』は、一日中、働きづめで、くたびれ果てた瓜売りの老人に戻っていたけれども。

花 5へつづく
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