09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
③
いままでであれば、
「いやです」
「そうですか」
で、終わるはずの劉琦と孔明の対話であるが、その日に限っては、孔明はずいぶん苦労しているようであった。
劉琦の腹心たちの声にまざって、たまに、孔明の声が高くなるのが、部屋の外からもわかる。
伊籍と劉琦はがっちり組んで、なんとか孔明から良案を授かりたい様子である。
趙雲は中庭をぐるりと囲む廊下の一角で、孔明が出てくるのを待っていた。
馥郁とした花の香りの耐えない場所である。
庭いっぱいに、カラタチの白い花弁から放たれる香りが充満し、それに競うかのように、百日紅や葵のうす紅色の花弁が咲き乱れている。
そして、虹色の魚の尾びれのように、領巾をなびかせて、鏡面のように掃き清められた廊下をあるく女人たちの優雅なこと。
笑いさざめきとおり行く女たちが、廊下にぽつんと佇む趙雲のほうをちらりと見て、どこか思わせぶりな笑みを向けて、去っていく。
竹簡をかかえて忙しそうにしている文官なども、趙雲と目が合うと、にっこり笑って、会釈をしてくれる。
たしかに、樊城にはじめて訪れた者ならば、このうえなく優雅で清らかで感じのよいこの城の様子に、感激するであろう。
ただし、その者が文官で、それなりに身分があれば、だが。
趙雲が、はじめて劉備の伴として樊城にやってきたときのことである。
そのときは、劉備の主騎としてであったので、当然のことながら、鎖帷子の上より衣を羽織り、片肌を脱ぐ、という勇ましい武官装束であった。
樊城がどれだけ素晴らしい土地であるか、儒学者たちの華胥の国、漢帝国の最後の良心、などと評されているのは、人づてに何度も聞いていたので、それなりに期待してきたのだった。
ところが、樊城の連中と来たら、どいつもこいつも、木で鼻をくくったような態度でもって劉備と趙雲に接した。
とりあえず歓迎の宴などを用意してくれるものの、言葉や態度の端々に、底意地の悪さ、冷たさが見え隠れしており、しかもあきれたことに、当人たちは、劉備や趙雲が、それに気付かないだろう、と思い込んでいるのである。
これで相手が武人であれば、ぽかりと殴って礼儀作法のなんとやらを説明してやるところであるが、相手は文人で、たいがいが豪族出で、仰々しい来歴を持っており、くわえて、劉備は樊城の主の厚意でもって、居候を決め込んでいる身分なのである。
かれらのさまざまな侮辱にも、劉備がなんの反応も示していない以上、趙雲としても、おとなしくしているほかにない。
そうして華やかな宴のなか、雪つぶてのような嫌味や、あてこすりをぶつけられながら、じっと我慢をしているうちに、話が葬式での礼儀作法の話になった。最近、彼らの仲間内のひとりが亡くなったという。
しかし、彼らが語るのは、故人のよき思い出といった類のものではなく、葬儀での、遺族の態度の云々であった。
泣き方が足りない、顔色が良すぎる、棺に対しての敬意がいまひとつ、等々。
そのなかで、劉備や趙雲が無抵抗であるのに図に乗ったひとりが、傍らで黙っていた趙雲に水を向けた。
「貴殿はどう思われますかな。やはり立派な葬儀は故人にもっとも花を贈るもの。遺族はそのために常日頃から儀礼(ぎらい)に通じていなければなりませぬ。
ちょっとしたことで、出自のわるさや、学の足りなさが露呈して、恥をかくことになりましょうからな」
儀礼、とは、儒学の教本のひとつであり、冠婚葬祭のあれこれについて、こまかく記載された決まりごとの教本である。
趙雲は答えた。
「しかし、真の衷心というものは、形ばかりを整えた葬儀の立派さにのみ表れる、というわけではないでしょう。
それがしなどは戦場で多くの死を見、実際に多くの葬儀に立会いましたが、儀礼など知らぬ無学な民たちの、貧しいながらも心づくしの葬儀には、いつも心打たれるものがございます」
すると、相手は呵呵大笑し、なんとも臓腑が一気に冷えるのではないか、というくらいに、意地の悪い笑みを向けてきた。
「そのようなものに感激できるとは、無学というものはありがたいものですな。知らなければ、そもそも恥を知覚する、ということもない。学は身を助く、とも言う。
勉強をなさい、趙将軍。せめて儀礼は暗誦できるくらいでないといけませぬ。無理とは思いますが、暗誦ができるようになったなら、わたくしが聞いてさしあげましょう。
まあ、わたくしが墓に入らぬ前にぜひお願いしたいものですが。
墓の前で儀礼を暗誦されても、こちらはすでに物言えぬ身、貴殿のまちがいを指摘することもできなくなってしまいますからな」
それを聞くと、満座の連中は、まったくだ、と同調して、仲間内では気の利いた冗談に分類されるらしい、ながい嫌味によろこんで、大笑いをした。
趙雲は、腹を立てた。
あんまり腹を立てたので…ここで並みの武人ならば、卓を蹴り飛ばして剣を抜き、貴様、そこに直れ、となるのであるが…それでは、と言って、やおら立ち上がると、なにごとか、と怪訝そうにする一同の顔を見回し、
「たしかにそれがしは無学な武骨者でございますゆえ、ご一同にわが記憶に誤りがないかどうかご確認ねがいたい」
それから『儀礼(ぎらい)』の士葬礼編を一言一句、完璧に暗誦してみせた。
すると場は一気にしん、となり、喧嘩を売ってきた男は目を伏せ、宴が終わるまで、趙雲と目を合わせなかった。
その場にいた文官たちは、趙雲が常山真定の名家の出である、ということはぼんやり知覚していたのだが、劉備(のような居候『ごとき』)に仕える程度の人間であるから、書物には触れたこともないだろう、辛うじて読めるのは敵方の旗印だけにちがいない、とタカをくくっていたのだ。
どっこい、趙雲は並みの豪族の子弟よりも、よっぽどきびしく教育されたので、暗誦くらいは朝飯前なのであった。
趙雲は、とてもよい気分であった。
もちろん、顔には出さなかったけれども。
鼻持ちならない儒子の高慢ちきな鼻柱を、そちらが得意であるはずの儒学でもってぺちゃんこにしてやれたのである。
ところが、新野へ帰る道中で、劉備にこってり絞られた。
「おまえの頭のいいのは、おれはよーく知っている。だが、あれは不味い。おまえのよいところは頭のよいところだが、わるいところは頭がよいのが災いして、相手を徹底的にやり込めてしまうところだ。
ああいう喧嘩をするときはな、相手にちょっとでも逃げ道を作ってやるのが、ほんとうに賢いやり方、ってもんだ。ぐうの音も言わさずにこてんぱんにやっつけてしまったはいいが、あの男は、これでおまえをけして許さないだろう。
おまえがやったのは、敵を増やしたことと、自分が狭量だっていうのをあそこにいた人間に喧伝したことだけだ」
てっきり、よくやった、胸がすいた、と誉めてもらえるかと思っていただけに、趙雲はがっかりした。
もちろん、劉備の言葉は正しいし、親身なものであるから、叱られたこと事態は不快ではない。
それもこれも、樊城の人間がいけすかない連中ばかり、というのが問題なのだ。
以来、趙雲は樊城が大嫌いになった。
もしこんなことにならねば、趙雲は、嫌な思い出のある樊城に、みずから進んで足を踏み入れることはなかっただろう。
劉琦と伊籍は孔明にまかせ、いますぐにでも斐仁のつながれている牢屋に飛んでゆき、どういうことなのかと、問いただしたい。
時間がたつにつれ、焦れてきた。
気を落ち着かせるために、軽く息を整える。
問題なのは、斐仁がしでかしたことにより、孔明と自分にお家騒動の絡んだ疑惑が向けられていることだけではない。
樊城を中心に、得体の知れぬ『壷中』という組織が暗躍している。そいつらの狙いがなんであるのかはわからない。
いま、自分たちは罠にかけられた獣と一緒なのだ。
焦ってもがけば、もがくほどに逃れられなくなる。
「暇そうですね」
と、趙雲の心を見透かしたような言葉が、背後からかけられた。
振り向くと、花安英であった。劉琦の学友のひとりで、画才の持ち主という美貌の少年である。
花安英は、まだ完全に育ちきっていないしなやかな身体を、優雅な足取りで運んで、趙雲のところにまでやってきた。
香り袋でも携帯しているのか、花安英が近づくと、なんともいえない甘い香りが鼻腔をくすぐった。
小柄で華奢な体つきをしており、冠がちょうど趙雲の鼻のあたりにある。見下ろすと、その目を縁どる長く濃い睫毛の下の、黒目がちの瞳と目が合った。
この睫毛、楊枝が何本乗るだろう、などと色気のないことを考えていると、花安英は、にっこりと笑った。
おのれの笑顔の威力を十分に自覚している、慣れた笑い方である。
「なにか用か」
趙雲が問うと、花安英は、その素っ気ない反応に、かえってうろたえたようであった。
そうして、趙雲は気付いた。
なんだか、妙に近くに来ていないか。
「とりたてて用ということもありませんが、暇なら、すこしお話しませんか。わたしも退屈していたので」
樊城の人間の基準での、気の利いた会話なんぞしたくない。
それに孔明を守らねばならない。気が散る。
趙雲は早々にこの少年を追っ払うことにした。
「暇に見えるかも知れぬが、忙しい。放っておいてくれ」
だが、花安英はころころと鈴が鳴るような声で笑い、孔明と劉琦たちがいまも喧々諤々としている部屋のほうを見て言った。
「劉予州の軍師を待っているのでしょう? あのひとには、何度か会ったことがありますよ。なんだかお高い感じの人ですよね。
ああいう人が、新野でどれだけやっていけるのかと、みんなで話をしていたんですよ。でも、こうやって、あの頭の固いじいさんたちを向こうにまわして、嵐みたいに引っ掻き回しているのを見るのは愉快ですけれどね。
それにしても現金なものですよね、そうは思いませんか?」
「なにがだ?」
「だって、みんな、いままでさんざん、あのひとのことを琅邪のよそ者だと言ってのけ者にしたり、馬鹿にしたりしてきたのに、ここへ来て急に掌を返したように、策に縋ろうって考えているんですよ。おかしいでしょう?
まあ、でもいろいろな意味で残酷じゃありませんか。じいさん連中は、やっとあの人のことを認めたのじゃない。彼らはね、この期に及んでもまだ、出身を同じくする豪族仲間を謀殺することにどこかためらいがあるのですよ。
でも、あの人はあくまでよそ者だから、自分たち寄りはためらいがなく、蔡家を始末できるだろうと期待しているのです。
あの人が、みんなに持ち上げられて、そのあたり、勘違いしないといいなあ」
「それくらい、見破れないやつではない」
「そうかなあ、いままで冷遇されてきた人間は、賞賛に飢えているものじゃないですか。見ものだな、どんな策を授けるつもりかしら」
仲間がひとり、非業の死を遂げたというのに、ずいぶん朗らかなものだな、と趙雲はいぶかしんだ。
それを読んだのか、花安英は自嘲気味に笑う。
「程子聞が暗殺されたっていうのに、よく笑っていられるな、と思っているのでしょう?」
とりあえず礼儀上、そんなことはない、と言おうとした趙雲であるが、花安英は、声をたてて笑うと、口を開きかけた趙雲の唇に指先を軽く置いて、黙っているようにと告げた。
「無理して否定しないでください、虚しくなるし、あなただって、心にもないことを言いたくはないでしょう? いいんですよ。わたしの仕事は、こうして笑顔を振りまいて、いろんな人の慰めとなることなのです」
糜芳が出奔してから、空前絶後の人手不足となっている新野では、考えられない存在である。
新野では、老若男女すべてがなんらかの仕事を割り振られてはたらいている。
仕事をしなくてもよいのは乳飲み子くらいのものだ。
それも樊城の豊かさゆえなのか。
趙雲としては、理解できない感覚ではある。
「つまり暇なのはおまえのほう、というわけか。残念だが、おれは暇つぶしには向いていない。ほかの、慰めてほしそうな奴のところへ行ってくれ」
「そんなの、こっちが退屈してしまいます。めずらしい方とお話したほうが楽しいじゃありませんか。あなたにだって、有益だと思いますよ。
わたしはね、こう見えても、各地を放浪していたので、見聞も広いんです」
「おれも負けず劣らず見聞が広い。間に合っている」
「面白い人だなあ。ねえ、新野ってどんなところです? みんな、あなたみたいに面白い人ばかりなの?」
「見聞が広い、というわりに、近くの新野のことも知らないのか」
「だって、新野って野獣の巣窟って聞きましたけれど。だから怖くって」
あるまじき馴れ馴れしさ、なのであるが、それが鼻につかないあたり、この少年のが、いかに樊城でもてはやされているかがわかる。
相手の呼吸を読むのがたくみなのだ。
年の頃は十五、六だろうか。その美貌を描く輪郭はまだ柔らかく、中性的である。荊州の片田舎にはもったいないほどの、華やかさと愛嬌にめぐまれた少年であった。
それを本人もよくわかっていて、遺憾なく実力を発揮しているものだから、ふつうであれば、男も女も関係なく、花安英の虜になるだろう。
しかし、新野にて、野獣の群をなす一匹である趙雲は、こんな痩せっぽちで口ばっかりの子どもに興味はない。
どうしたらこの少年をへこませて、追い払うことができるだろうかと真剣に考え始めた。
「あの嫌われ者さんは、新野でどんなふうなんです?」
「嫌われ者というのは、うちの軍師のことか?」
「『うちの軍師』か! へぇ、意外とうまくやっているのですね。白状すると、わたし、あの人のこと、大嫌いなんです」
にこにこと、花がこぼれるような笑みを浮かべつつ、花安英は毒を吐く。
「軍師はおまえになにかしたのか?」
「べつに。ただ気に食わないってだけ。あの人は、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしているじゃないですか。
なんでもこの城で叔父君を刺客に殺された、という話ですけれど、こんな世の中ですから、そういう思い出は誰にだってあるのじゃないですか?
あの辛気臭い顔を見ていると、自分ばっかりが不幸を一身に背負い込んでいるように見えて腹が立つんです。もっとひどい目に遭ってきた人間だっていますよ。それこそ、星の数ほどね」
言いつつ、花安英は距離を詰めてきた、と思ったら、ぴたりと趙雲の腕に身を寄せてきた。
儒教において、男女の交歓についての規則はきびしい。しかし、人間は赤ん坊の頃から、なにかしら人のぬくもりというものを求めるものであり、中には、特に人肌を求める傾向がつよい者もいる。
そういった者が、この慣習だ、典礼だ、作法だとがんじがらめになっている社会で、どうその欲求を解決させるか、というと、うるわしい友情という名目でもって、同性にやたらとひっつくのである。
例を挙げるとしたら、某ヒゲの三人組である。
二人が仲がよいと、残された一人は仲間外れにされたと拗ね、そこで今度は拗ねたほうと仲良くすると、あぶれることになったもう一人が、そいつばかり贔屓にすると怒る。
年がら年中そんなことをくりかえしているのを見ると、絆の強さは美しい、という感想を通り抜けて、もう勝手にやっていてくれといったふうだ。
ともかく、花安英は、どうやらそういった類の人間らしい。
だが花安英にとっては残念なことに、趙雲自身は、それとは真逆の性質であった。
似たもの同士が寄り集まって、親しくしている孔明も陳到も、さばさばした付き合い方を好むから、こんなふうに異様に距離を詰められると居心地がわるくなる。
そわそわしはじめた趙雲をどう受け取ったか、花安英は、艶めいた笑みを浮かべると、趙雲の腕に自分の腕をからめてきた。
趙雲は思った。
俺は柱か。
花安英はくすくすと忍び笑いをしつつ、言った。
「へえ、意外に鍛えているんですね。あなた、ほんとうに文官ですか」
ぞくりと、背筋が寒くなった。
趙雲の腕に頬を寄せるようにしてもたれかかり、どこか恍惚とした眼差しをしている花安英を見下ろし、さらに薄気味悪さをおぼえる。
たしかに匂い立つような美貌の少年である。だが、その美しさは、どこかすでに腐り始めた果実のような、甘すぎる芳香を放っている。
「不快だ、離せ」
趙雲が荒っぽくふりほどくと、花安英は、言葉のまま、おとなしく離れた。
「潔癖なんですね」
「そういう問題か? おまえ、本当に男か? 男にしがみついてなにが楽しい」
「いまここで、脱いで証明してみせましょうか」
と、花安英は、笑いながら襟元に手をかけた。やれ、といえば、この少年、やりかねない。
「たわけ。証明なんぞいらぬ。男なら、おれにしがみ付いてないで、馬屋にでも行って、馬の身体を洗ってやれ!」
花安英はぽかんとして、尋ねる。
「馬? なんで馬なんです?」
「馬を洗うのは、なかなかの重労働だからだ。しかし身体を動かすのはよい。妙な考えをめぐらせている暇がなくなるし、きれいになった馬の身体というのは、それは美しいものだ。心がさっぱりと清められる。馬も喜ぶ。馬屋番からも礼を言われる。四方丸くおさまるではないか」
花安英は笑みをひっこめ、あきれたように趙雲を見た。
「あなた、変わっているって言われませんか」
「真理を述べているだけだ」
「面白いなあ。あなたの頭の中がどんなふうなのか、いちど見てみたいです」
花安英はまだなにか言おうと口を動かしたが、そこで、劉琦の部屋の扉が開いた。
趙雲の肩越しに、孔明が出てくるのを認めた花安英は、美麗な顔に渋面を浮かべると、
「嫌な人が出てきた。それじゃあ、さようなら」
と、趙雲に言って、蝶のように軽やかな足取りで去って行った。
孔明は、部屋を出るなり太いため息をついた。
部屋のなかでは、伊籍をはじめとする腹心たちが、まだなにやら孔明に向けてまくしたてていたが、孔明は無情にも扉をぴしゃりと閉めて、それを途中で遮った。
そうして、趙雲のほうを見て、おどろいた顔をしてみせる。
「ああ、びっくりした。慣れないな、その格好。知らない人かと思って、挨拶するところだった」
「…挨拶してもいいぞ」
「待たせて悪かったな。これから斐仁のもとへ行くぞ。そこでどんな話になろうと、かならず劉公子のもとへまた参上する、ということで話はまとめた。
まったく、駆け引きだけは上手な連中だよ。糜子仲どののことも、相談を受けてくれたら話す、の一点張りであるし」
「そこまで言う奴があるか。必死なのはお互いさまだろう」
「わかっている。ちょっとした愚痴だ」
ふと、視線を感じて、見ると、ぴしゃりと締め切ったはずの扉がわずかに開いて、そこから、心配そうな顔をした、噂の伊籍が、頭だけを少しだけ開いた扉から出して、じっと様子を窺っているのと目が合った。
孔明もそれに気づいているのであるが、無視している。
なんだか気の毒になってきた。
「相談、乗ってやったらどうだ」
「わかっている。だから、言ってやったのだよ。劉公子が御自らわたしと話す、というのであれば、最善の策を授けなくともない。
しかし、いまのように、腹心たちが口々にわあわあ言ってくるのが止まらないようであるなら、この話はなかったことにして、わたしたちは新野に帰る、と。
よろしいですかな、機伯どの」
「もちろん、仰せのままにいたしましょう。そのお言葉、お忘れなきよう、おねがいいたしますぞ!」
扉の隙間から、もぐらみたいに顔だけをだして伊籍が言う。
「斐仁のもとへ参ります。牢屋番にはあらかじめ話をつけてある、というお言葉に相違はございませぬな?」
「ええ、軍師がそちらに向かったら、すぐに引き合わせるように、と。ご案内いたしましょうか?」
人を探そうとする伊籍を、孔明は遮った。
「いえ、結構。所在はわかります。それでは、のちほど」
そう言うと、孔明は慣れたふうに廊下を歩きだした。趙雲は後を追う。
「劉公子とお話をしたのか」
「いいや」
孔明は首を振り、議論の熱を払うためか、白羽扇を忙しく動かせている。
「それにしては、ずいぶん時間が掛かったな」
「劉公子と話しただけであったら、こんなに時間はかからなかっただろう。劉公子はたしかにあの部屋にいた。いたのだが、話をしていない」
「どういうことだ? まさか、無視をした、というのでもあるまい」
「無視などするものか。わたしは話をしようと努力したとも。
しかし、近づこうとするたびに、劉公子の代弁者と自称する腹心どもが近づいてきて、やれ、蔡氏をなんとかしろ、あの一族を黙らせる策を授けてくれ、劉州牧の目を覚まさせる策を授けてくれ、劉公子が跡継ぎに選ばれるように動いてくれと、いろいろ注文をつけてくるのだ。
劉公子に、わたしが、ほんとうに彼らが貴方の代弁者なのですか、と問うと、公子はなにも口を挟まず、なにごとも『そなたたちのよいように』というばかりだ。
しかし恐ろしい話ではないかね。白昼堂々と、大の大人が角を突き合わせて、敵方の勢力の沈黙を得るための策…つまりは首尾よく抹殺するための策を話し合っているのだからね。やれやれ、軍師というものは嫌な商売だな」
と、孔明はおのれをからかうように、皮肉げに笑う。
「答えたのか?」
「いいや。わたしは、劉公子の話ならば聞く。そのほかの連中の話はどうでもよい」
「軍師、おれは派閥だの権勢争いだのには疎いのでよくわからんのだが、劉公子の腹心たちを、どうでもいいと切り捨てて大丈夫なのか?
劉公子は主公が後見されている方だ。その腹心というならば、やはりそれなりの態度でもって応じなければ、のちのち面倒になるのでは?」
すると孔明は、声をたてて朗らかに笑った。
「武人でそこまで気を回せるのは貴重だな。どうだ、子龍。いっそ主騎をやめて、わたしの主簿にならないか」
「冗談だろう」
「気が向いたらいつでも言ってくれ。それはともかく、腹心たちは無視してかまわぬ。彼らにしたって、みながみな、劉公子のためだけに動いている人間ではない。
蔡家と利害が衝突している人間が、劉公子という旗印を掲げて、自分が一番得をするようにと、自分の意見ばかり唱えているのが、主だった腹心たちの本当のところだ。機伯殿は別だがね。
とはいえ、機伯殿も、劉公子の腹心のひとりであって、劉公子その人ではない。
もしほんとうに策を授けて欲しいと劉公子が望まれているのであれば、主公のため、最善の策を授けようと思う。
しかし、今のままでは駄目だ。わたしが劉公子を無視したのではなく、劉公子がわたしを無視しているのだ。
そのことに、ご自分の力で気付いてくださればよいのだが」