09年改訂版

孤月的陣
第三章 ハナ  花

孔明は、劉琦の心の内がさっぱりわからない。
どうして敵方の親族ともいえる自分に、わざわざ頼ってくるのだろう。
孔明の妻の黄夫人は、劉琦の腹違いの弟の母の姪。つまり、孔明は、劉琦の側からすれば、敵の女の身内である。
伊籍はもとから劉備に心服しているから、孔明が程子聞を殺害した黒幕では、という噂をまったく信じていないようであったが、樊城の主だった人間はそうではない。
現実として、劉琦の腹心である程子聞を、孔明の主騎である趙雲の部下が殺したのだ。当然、疑惑はさまざまに語られているだろう。
その戸惑いは、趙雲も同じようであった。

「なぜ劉公子は、貴殿を頼りにするのかな」
「劉公子はね、内気すぎて孤独なお方なのだ。たしかに同情はするよ。実父からも見放され、義母とその一族からは命を狙われているのだから。
主公にお仕えすることを決める前、程子聞を通して、相談にのってほしいとたのまれた。
だが断った。劉州牧のお家騒動に巻き込まれたくなかったし、すでに主公がわたしの庵にいらして、わたしも迷っている状態のときであったからね。
しかし、また声をかけてくるとは、どういう了見なのだろう。わたしが劉予州の軍師になったということで、かえって気安くなったのか」
「こだわるわけではないのだが、劉公子の学友が、断袖であったというのだろう? あまり想像もしたくない話だし、ここだけの話にしてほしいのだが、劉公子が」
その、と口を濁す趙雲に、孔明はずばり反論した。
「劉公子もその手の趣味をお持ちなのでは、という問いならば、答えは否。わたしは人の心の機微に敏感なほうでね、もし相手が自分に過剰な感心を寄せていれば、かならず気付く。劉公子はたしかにわたしに感心をお持ちのようだが、その手の類のものではない。あなたは鈍感そうだな」
「おれのことはいい。まったく、日中に堂々とする会話ではないぞ。世の中どうなっているのだ」
「乱世と断袖は関係ないよ。そもそも哀帝だって劉氏だぞ、子龍」
「主公はそのような趣味はお持ちでない」
「わかっているさ。つまり、あまり目くじらを立てるな、と言うのだ。さあて、いよいよ到着したようだぞ。伊籍どのの出迎えだ」
馬車から顔をのぞかせると、伊籍が待ち受けているのが見えた。  

臙脂色の派手な衣裳をまとった伊籍を先頭に、劉琦の腹心たちがずらりと並んでいた。
伊籍はあいかわらず、ニカニカと笑みを崩さずに、ふたりが馬車を降りるのを、いまか、いまかと待ち構えている。
文官、武官、若いものから年寄りまで、顔ぶれはさまざまだ。
死せる者より生ける者がつよい、というのは世の道理であるが、ここでもその理屈は立派にとおっており、劉表の現夫人たる蔡氏の威光ゆえに、居並ぶ腹心の数は、樊城の規模から言えば、ちっぽけ、と表現するのがぴったりだ。
さすがにかれら腹心たちの表情は固い。 


それはそうだろう、と趙雲は思う。
彼らにしてみれば、孔明は、もしかしたら自分たちの仲間…いろいろ素行に問題があったようだが…を陰湿にも暗殺という手段で訴えて、亡き者にしてしまったかもしれない人間なのだ。
伊籍とて、表面は笑みを崩さないでいるが、それとて、本心かどうか。
 
劉琦の腹心のなかでも、中心的な役割をになっている伊籍という男、なかなか変わった男で、劉表の部下でありながら、劉備の人柄に惚れこんで、なにかと用事をつくっては、新野城にやってきている。
劉備は、というと、伊籍がやってくるたびに喜んで、樊城の、とまではいかないが、心づくしの歓迎の宴をひらいてやる。
するとますます伊籍は感激して、劉備に心をかたむける、といった按配だ。
伊籍がやってくると酒が呑める、というので、劉備の武将たちも、伊籍を歓迎する。
その良き循環がはたらいて、伊籍は劉備の配下なのだか、劉表の配下なのだかわからなくなっていた。
とはいえ、伊籍はみんなに文字通り美味しい思いをさせた男というだけではない。
伊籍は、劉備に樊城の情報をもたらした。
劉備が、薊にて旗揚げをしてより、はじめて長く荊州で骨休めをすることができたのは、ひとえに、伊籍がもたらしてくれる情報ゆえであった。
伊籍の情報はいつも正確で無駄がなく、痒いところに手が届くものであった。
だから劉備は、劉表の動きにあわせて、つねに先手を取ることができたし、また、流言蜚語にひっかかることもなく、よい関係をつづけてこられたのである。
もちろん、伊籍もただで情報を与えてくれたわけではない。
その代償、というわけでもないだろうが、劉備が、劉表の長子である劉琦の後見人となったのも、伊籍の力が大きいのである。

伊籍は四十の坂を越える、働き盛りの男である。一方の劉琦は、孔明よりさらに年下の二十を過ぎたばかりの青年だ。
聡明な性質であるが、ウサギの子のようにおとなしく、虚弱なために、幼い頃から、後継とするのに疑問の声があったという。
趙雲は、何度かこの青年と顔をあわせたことがあるのだが、性格は良さそうであったけれど、たしかに噂どおり、風が吹けば飛んでいってしまいそうな貴公子であった。
群臣に命令を下すことができるような力…迫力、気力、あらゆる力が、劉琦からは欠けているように見えた。
しかしこまかい気配りのよく出来る青年で、聡明な性質であると同時に、鋭敏な性質であることも知れた。
だから、自分に器量がないために、樊城の人間が真二つにわかれていがみ合っていることはよくわかっているだろうし、辛いであろうな、と同情もする。
伊籍は、この脆弱であるが心優しい公子に肩入れし、父親のように面倒を見ていた。
実の父親にさえ疎まれている公子のために、劉備という後見人を持ってきたのは、単に自分が劉備に惚れているから、というだけではない。
劉備の性格からすれば、劉琦に何事か起これば、いかなる事情があろうと駆けつけてくれるだろう、という目算があるからなのだ。劉備は、実際にそうするだろう。
持ちつ持たれつの理想的な関係であった。
それも、斐仁が程子聞を殺すまでのことであったが。

孔明が馬車から降りようとするのを、趙雲は腕を伸ばして、止めた。
孔明が、趙雲のほうを見て、怪訝そうに首をかしげる。
「どうした、何か気になることでも?」
「気をつけろ、馬車から降りたところを狙われるのはよくあることだ。伊籍はともかく、ほかの連中におかしな素振りを感じたら、すぐに俺を呼べ」
すると、孔明は破顔し、言った。
「わかった、言うとおりにしよう。ただし、命が狙われるとしたら、此度に関しては、あなたほうが危ないだろうから、あなたもわたしをすぐ呼ぶように」
孔明の軽口に、そんなことが起こるものか、と切り返せないところが辛いところである。
伊籍のほかに、出迎えとしてずらりと並ぶ腹心たちの顔を眺めると、疑惑と、怒りと、戸惑いが複雑に入り混じっている。とても歓迎している風ではない。
渋い顔をした趙雲に、孔明は、さらに言った。
「気にするな」
「なにがだ」
「おのれの落ち度で、わたしを劉州牧のお家騒動に巻き込んだ、と思っているのだろう」
趙雲が黙っていると、その表情で読み取ったのか、孔明は声をたてて笑った。
「わたしが黄家から妻女をもらったときから、遅かれ早かれ、なんらかの形で、巻き込まれるだろう話であったのだ。あるいていど覚悟はしていたさ。だから気にするな」
そう言って、孔明は親しい友にするように、趙雲の肩を励ますように掴むと、待ち受ける伊籍のほうへと向かった。

七つほど年下のはずなのだが、ときおり、孔明が自分と同じくらいの年で、それこそ公孫瓚の頃から共に行動していたような錯覚をおぼえる。
初対面の頃は、こんな無礼な若者は、天下に二人といないだろう、と腹を立てることが多かったが、いまは慣れてしまったのか、そんなこともすくなくなった。
孔明が新野に迎えられてから三月の年月が流れた。
これほど短いあいだに、七年間、ずっと惰眠をむさぼってきた劉備とその配下の目を覚まさせ、見事な人物鑑定眼と采配でもって、おのおのを活かしている手腕は、見事なものである。
適材適所、という言葉は古くからある。あたりまえのようだけれども、それを実行できる人間は多くない。
そうしてもっとえらいと思うのは、周囲を変えるだけではなく、この青年も、めざましい速さで自分自身を成長させていることだ。
張飛や関羽たち歴戦の勇士たちが、孔明に対して不平不満を鳴らしたのは、なにも嫉妬などといった子どもじみた感情だけが原因ではない。
ちゃんと、孔明のほうにも非難されてしかるべきところがあったのである。
高慢ちきで無愛想だとか、端から自分は理解されないものと思い込んで人に相談しないで自分だけでことを治めようとするところとか、売られた喧嘩をいちいち買うとか、武人への嫌悪にも似た侮蔑の態度など。それが、ほんのわずかの時間で、おどろくほどに矯正されていった。
孔明は、おそらく言葉どおり、趙雲がおのれを劉表のお家騒動に巻き込んだことを、ほんとうに気にしていない。
ここ数日、伊籍のことについてぼやくことはあっても、おのれの置かれた立場を嘆くことはなかった。
その対処の仕方は、積み重なった石を、ひとつひとつ淡々と片づけているのに似ている。
趙雲は、なにがあっても孔明を守らねば、と思った。
劉備のため、ということもある。
しかし、孔明の持つ号の、伏したる竜、というその言葉の意味が、最近わかってきた。
見た目が華麗であるから、そう呼ばれたわけではない。
龍とは巨大な生き物だ。そのうねりは山河をも動かすが、龍の全体を見ることは人間にはなかなかむずかしい。
はじめて孔明と目が合ったとき、恐怖をおぼえたのは、その眼が想像もつかないほどの地平の彼方まで見通していたからであり、とても人の目とは思われなかったからだ。
いまも孔明は、すべてを見通したうえで動いている。そうして、その動きは、天下を揺さぶっていることも事実だ。
目の前のことだけに集中しているように見えて、その実、孔明は曹操への対処も忘れてはいない。
樊城へ出発する日は、ぎりぎりまで書簡に指示を書き付け、自分がいない間に起こりうるほとんどすべての事柄について、対処法を記して、文官たちに渡していた。
非常に細かい指示であるのに、それがまるで詩文を書き付けるように流麗に筆からこぼれるので、文官たちは、あらためてこの方は何者であろうかと恐ろしささえおぼえた、と言っていた。
みずからを英雄と自称する者は多くいるが、おそらく孔明はその中でも、本物と呼んでいい英雄の一人になるだろう。
いまはまだ、世間を納得させるほどの大きな功績をたてていないけれども、きっとそうなる。
だから、こんなところで、巻き添えをくらわせたあげくに、わけのわからぬ連中に潰させてはならない。

型どおりの挨拶がおわったあと、伊籍は、馬車にもうひとり…つまり趙雲であるが…が乗っているのに目ざとく気付いた。
孔明の身体越しに、ひょいと首を伸ばして、誰何する。
その仕草にあわせるようにして、趙雲が出て行くと、伊籍は眼をまん丸にした。

伊籍がおどろいたのは、目立たないための、趙雲の格好であった。
頭髪をすっぽり覆う黒い頭巾に、裾と袖口を黒く縁どった単衣に裳をはいて、長剣を差したうえに大帯と帯飾りをつけて、黒い沓を履いている。
どこからどう見ても、樊城ほどの大都市にはめずらしくない、その他大勢の官吏のひとりである。
趙雲は、劉備が袁紹のもとに身を寄せているあいだ、それを助けて隠密活動をしていたが、そのときの、群集のなかにおいて身をひそませる方法というものを、間者たちから教わっていた。
それが意外なところで役に立ったのだ。
趙雲は自分が目立つ風貌をしていることをよく自覚していたから、逆に、どうすれば自分が目立たなくなるかも判っていた。
顔を隠し、眼を伏せがちに、背は猫背に、歩き方はあくまでひっそりと小股に。
どこにも、戦場で堂々たる功績を重ねてきた若き将軍の姿はない。

こうなったのには理由がある。
新野の自室で、遭ったことすべてを語り終えたあと、孔明は、ひとり出て行って、そのあとに伊籍と話をつけ、斐仁と対面する許可をもらって帰ってきた。
ほんとうは、孔明の伴として、陳到が随行するはずであった。
なにより、樊城の人間を刺激してはまずいし、趙雲がやってきたとなれば、劉琦の腹心は、やはり罪を認めたと思うのではないか、という見方もあったからである。
しかし趙雲は、自らの疑惑を打ち消すためにも、是非に自分が同行したいと、直に劉備に訴えた。
それにくわえて孔明が、罪などそもそも存在しないのであるから、堂々としていればよいし、伊籍がいる限りは、目だって諍いになることはあるまい、と口ぞえしてくれたので、樊城に来ることができたのである。
とはいえ、ほんとうに堂々と乗り込むのは智恵が足りないというもの。
自分たちは、にわか雨のように降りかかった冤罪を晴らすことと、斐仁から、なるべく多くの情報を引き出す、という仕事をしなければならない。
どちらも遂行するためには、これ以上の負荷は背負えない。
そう判断して、趙雲は、みずからを隠すことに決めたのだった。

「軍師の主簿かと思っておりましたら、なんと、趙…」
子龍、とつづけて言いそうになったのを、孔明がちいさな咳払いで止める。
勘の良い伊籍は、それだけで察したようである。不謹慎なほど朗らかな態度でもって、手を趙雲に伸ばしてきた。
「見違えましたぞ、お似合いですなあ。貴殿も、わたしたちと同じ格好をなされば、わたくしたちと同じく『まとも』な人間に見えますぞ」
伊籍は嫌味を言っているのではない。伊籍が悪い男だとか、器量がせまい、ということでもない。
樊城の、その城壁の石畳にまで染み付いた、選民意識というものが、ながく城づとめをしていた伊籍の体内にも、どっぷりと染み付いている、というだけの話なのだ。
たまにおちてくる一滴が、長い年月を経てやがて岩を砕くのとおなじで、どんなにもとの性質が立派な人間でも、長いあいだ、悪い空気にさらされていると、徐々にそれに慣らされてしまうのとおなじである。
まだ数日しか経っていないというのに、新野の仲間たちを恋しく思いながら、趙雲は精一杯の愛想笑いを浮かべた。
これもまた、孔明の足を引っ張らないよう、目立たないためである。


伊籍と、作法どおりの挨拶を交わしつつ、趙雲は、ふと視線をかんじた。
歓迎する、というよりも、まるで威圧するかのように居並ぶ腹心たちの、そのなかに、ひときわ目立つ、見目麗しい少年がいる。
これが、孔明が馬車で語った、劉琦の学友のひとり、花安英という少年にちがいない。
たしかに少女とも見まごう線の細さに、牡丹のようなかんばせ。
肌は磨きぬかれた玉のように白くなめらかで、唇の赤さはざくろのようであった。
雅な城には、雅やかな少年がいるものだな、と妙なところで感心しつつ、趙雲が観察していると、花安英のほうもそれに気付いたのか、趙雲のほうを見て、すこしだけ口を動かした。
微笑んだ、ように見えたが。

趙雲が、花安英に気をとられているあいだに、はやくも孔明と伊籍の交渉がはじまっていた。
「さっそくですが斐仁に」
「さっそくですが劉公子に」
そのことばは、孔明と伊籍の口から、ほぼ同時に飛び出た。
孔明のつづき。
 
「会わせていただけるのでしょうな?」

伊籍のつづき。

「ごあいさつをお願い申し上げる」

二人は、しばらく沈黙し、おたがいの次の手を読むように、視線を戦わせていた。

先に口を開いたのは、孔明であった。
「単刀直入に申し上げる。さきに斐仁、つぎに劉公子です」
伊籍は、孔明の固い表情とは対照的に、あくまでにこにこと明るい笑みを絶やさず、応じる。
「この城に貴殿らを招かれたのは劉公子でございますぞ。それなのに、挨拶も後回しにして、先に囚人に会われるというのですか。それは礼に反するというものでしょう」
「機伯どの、新野でもご説明さしあげましたが、事態は急を要するのです。まず斐仁に会いたい。それからじっくりと、劉公子とお話をさせていただきます」
すると伊籍は、呵呵大笑して、言った。
「ごまかしはいけませぬぞ、軍師。あなた様のことです。斐仁から必要な情報を引き出した後は、やはりおなじように、急を要すると言って、さっさと新野に帰ってしまわれるでしょう?
それはいけません。人の道に劣る行為ですぞ」
「この孔明、約束は守ります。劉公子から逃げるような不様な真似はいたしませぬ。ですから、先に、斐仁めに会わせていただきたい」
「それは参りませぬ。この機伯とて、主人たる劉公子より、かならず伏竜先生をお連れせよときつく言いつけられております。ここで約束を守らねば、わたくしの面目も立ちませぬ。
まさか孔明どのともあろうお方が、このわたくしの顔を潰すような真似はいたしますまい?」
「わたくしをそこまで買っていただいているとは、正直、わたくし自身も驚いております。しかし、新野で貴殿は、たしかに先に斐仁に会わせるとおっしゃった」
「そのことでございますが、新野ではどうも深酒をしすぎまして、わたくしには、その約束をした記憶がトンとないのでございますよ」
「酒飲みが、都合がわるくなると持ち出す常套句ですな」
「いえいえ、わたくしは酒にはつよい男です。それなのに、あなたさまとしたお約束のこととなると、どうもぼんやりとしかおぼえていないのですよ」
「機伯どのは、この孔明の言葉だけでは信用できぬと申されるのか。わたくしに嘘はございませぬ。たしかに貴殿は、さきに斐仁めに引き合わせる、と申されましたぞ」
伊籍は、そうでしたかなあ、としきりに首をかしげている。
すると、孔明は、眦をつよくして、おのれの肩くらいまでしか背丈のない小柄な伊籍を見下ろした。
「約束を守っていただけない、というのであれば、もう結構でございます」
と、孔明は伊籍たちにむかって、くるりと背を向ける。

ぎょっとした伊籍が、ようやく笑顔をひっこめて、あわてて孔明を引きとめようと追いすがった。
しかし孔明は、かまわずすたすたと馬車にむかって歩いていく。
もちろん、これが孔明の交渉術だということは心得ているから、趙雲は孔明にならい、あわてず騒がず、ともに踵をかえす。
そうして馬車へ戻ろうというときに、ふと、孔明が脇を見て、足を止めた。

ちょうど馬車は、樊城の門の前で止まっていたのであるが、ぽつんと、ひとりの老人が、門前の市から、はぐれたように立っていた。
孔明は知り合いだったようである。
おや、といいざま、待って、待って、と母親にすがる子どものようになっている伊籍を無情に無視して、老人のほうへ歩み寄る。
「このあいだはおいしい瓜をありがとう。ここでお会いできるとは奇遇ですな。まさか、樊城にまで足を伸ばされていたとは」
孔明は、伊籍に向けていたのとは打って変わって、温かい親しげな笑みを老人に向ける。
伊籍は、孔明の背中の衣をがっちり握ったまま、興味深そうに、年老いた行商人風と、孔明のやりとりを聞いている。

老人の風貌は日に苛まれ、風雨に晒されつづけた者のそれであった。
シミの浮き出ている褐色の肌に、顔には年輪のような深い皺がきざまれている。
しかし背筋は曲がっておらず、足腰もしゃんとしている。
風貌も、格好だけからすれば、みずから作った作物を、市場に持ってきて売っている、ごくふつうの農家の老人に見えるのだが、その引き締まった表情は、愚鈍であるが純朴な農夫のそれではなく、叡智を持つ者独特のするどさが感じられる。
孔明が親しげなのに対し、老人の表情は固く、畏まりつつも、言いたいことがある様子で、ちらちらと上目遣いに孔明を見ている。
視線が、背の高い孔明の白い貌にむかうたびに、老人の目ははげしく動揺している。
なにかに迷っているようだ。
孔明は怪訝そうに首をかしげ、老人に尋ねた。
「如何なされました? なにか、わたくしに言いたいことでも?」
孔明に問いかけられても、老人は、まだ迷っているようで、口を開かない。
むしろ、言葉を出せない自分自身に、苛立っているようにさえ見える。

一方の伊籍も、また焦れて、孔明の背中をぐいぐいと引っ張りながら、言った。
「孔明どの、事態は急を要する、とおっしゃいましたな? でしたら、このような農夫ふぜいを相手になどなさらず、さっ、と劉公子にお会いして、頭脳明晰なところを見せて、ぱぱっ、と問題を解決し、あとでじっくり、斐仁なり、この農夫なりから、話を聞けばよろしいでしょう?」
「くどいですぞ、機伯どの。わたくしどもが二日もの旅程をかけて樊城へ参じたのは、劉公子の身の上相談に乗るためではありませぬ。斐仁に会って、話を聞くため。その一点のみでございます」
すると伊籍は死んだ魚のように目をいっぱいに見開いた。
「なんたる無情なお言葉! その斐仁がほかならぬ、われらの同士を殺めたのでございますぞ。
劉公子は、程子聞が死んでから、毎日のようにその死を悼み、泣き暮らしておりまする。これを見舞うのが、人の道ではございませぬか?」
孔明、趙雲ともに痛いところを突かれた。思わず顔を見合わせる。
が、伊籍は、それだけではまだ足りぬ、と判断したのか、さらに続けた。
「糜子仲どのがいらっしゃったときは、劉予州の代理として、ちゃんと劉公子にお会いしてくださいましたものを、軍師であるあなた様が、これを無視なさる、というのでは、こちらとしても立場がございませぬ」
「糜子仲どのが、樊城に? いつの話です?」
それまで余裕綽々で、高慢そのものであった孔明が、顔色をかえて急きこむ様子に、むしろ伊籍はおどろいて、気味悪そうにしながら答えた。
「それこそ、斐仁が程子聞を殺めた日でございます。そういえば、新野でお会いすることができませんでしたが、糜子仲どのはどちらにいらっしゃったのですか?」
それは、と孔明は途中まで言って、言葉を途切らせた。
 
それはこちらが知りたいことである。
孔明に、自分がもし戻らねば、『仇讐は壷中にあり』という言葉を思い出せ、と言い残し、以来、なしのつぶての糜芳であるが、新野を出たあと、樊城に来ていた、というのか。いったい何のために?
「子仲どのは、劉公子に会いにこられたのでしょうか?」
孔明が問うと、ますます伊籍の困惑の色は強まったようだ。眉をしかめつつ、答える。
「さあて、劉公子だけではなく、ほかにも色んな方にお会いになられたようです。もちろん、主公にもお会いになったようですし」
と、伊籍はここでなにかを思いついたらしく、急に眼を輝かせ、ほんのすこしいじわるく言った。
「それは、軍師どのが直接、この樊城で皆様方にお尋ねになればよろしいのでは?」

そうきたか、と孔明はちいさくつぶやいて、傍らにいる趙雲に、ささやくように言った。
「わたしの言ったとおりだろう。この方はなかなかの策士なのだよ。これで先に斐仁に会うのは難しくなったな」
「糜子仲どのの行方がわかれば、それはそれで拾い物ではないか」
「思ってもいなかったところから名前が出たな。やれやれ、おかげですっかり主導権はあちらになってしまった。とはいえ、収穫があったわけだから、すこしは喜ぶとしよう。
気を抜くなよ、子龍。われらはもしかしたら、虎の口の中にみずから頭を突っ込んでいるのかもしれぬからな」
「ここが虎口というのなら、先に牙をぬいてしまえばよい」
豪快だな、と孔明は笑って、それから、置いてきぼりになっていた老人のほうに顔を向けたが、もう、件の老人は、どこかへ行ってしまったあとであった。
孔明は、残念そうな顔をして言う。
「なんだ、せっかくきちんと礼を言おうと思ったのに。またお会いできると良いが。子龍、もしさきほどのご老体を見かけたなら、わたしに報せてくれないか」
「かまわぬが、なぜだ?」
「ちょっとした恩人なのでね。頼んだぞ」
そうして孔明は、軽く息をととのえると、心も整えたようで、伊籍にむかっては、神妙な顔をして…おそらくそれが、樊城における孔明の表情なのだろう…案内されるまま、樊城へと入っていった。

花 2へつづく
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