09年改訂版
孤月的陣
第三章 ハナ 花
①
叔父に連れられて樊城へはじめて足を踏み入れたときは、万事が典礼にのっとった、その清雅な空気に息を呑んだものである。
徐州の、そして黄巾賊によって荒らされた中原の大地の悲惨なありさまが、ここへくるとまるで悪い夢のように思われた。
儒教をこよなく愛し、信奉する男の作り上げた、儒学者の小王国。それが樊城だ。
風は清く、天地はつねに正しくめぐり、清雅な楽の音が絶えず聞こえ、四方の庭には百花繚乱、町人は平和を謳歌する。
旅人はこの地を訪れ、まことの憩いを得たといい、遠方に住まう人は、この地を、憧れをこめて語る。
しかしまさか、この場所が、叔父の命を奪う場所に成り代わろうとは、夢にも思っていなかった。
「いつ来ても、落ち着かぬ場所だな」
と、馬車の中から外をうかがいつつ、趙雲がこぼした。
樊城はいつでも人で賑わっている。
劉表のお膝元であるがゆえに治安もよく、そのため人が多くあつまり、物も集まる。樊城の豊かさは、潤沢な農地と交易によって支えられているのだ。
幌のあいだから見える光景を眺めているだけで、街の豊かさがよくわかる。
けして派手にはしていないが、人々の纏う衣装も、装飾品も、洗練されており、市場にならぶ品々も珍しいものばかりだ。
だが趙雲は、それらを眺めながらも、にこりともしない。
ふつう、よそから樊城にやってきた人間は、樊城の、乱世とは思われぬ豊かさと、徹底して整備されている町並みにおどろき、目を見張るものだが、趙雲は冷め切っていた。
「良い場所だとは思わないのか?」
孔明が尋ねると、趙雲は渋い顔を崩さないまま、首を横に振った。
「見た目は自然の花園なのに、踏み込むと、ところどころに人の気配がする」
うまいことを言うな、と孔明が誉めても、趙雲はその渋面をくずさない。
そういえば、と孔明はことばをつづける。
「新野の武将はあまり樊城に足を運ばないようだが、おなじように考えているのが原因なのだろうか」
「樊城のほうが嫌がっているのだ。樊城の儒子どもは、おれたちのような武辺者は好まぬ。おれたちとて、莫迦にされるとわかっていて、わざわざ現われる理由もない」
趙雲はめったに人を謗ることばを口にしないので、そこまではっきり言うのなら、これは相当に嫌な記憶でもあるのだろう、と孔明は判断した。
とはいえ、理由をあれこれ尋ねても、気安くぺらぺらと喋るような男ではない。
新野において、過去のことを長く語ったのは、あくまで尋問、という形を取ったからだ。
樊城が近づくにつれ、趙雲は機嫌がわるくなっている。
そういえば、と孔明は思い出す。
孔明が劉備の軍師となってから、劉備、関羽とともに、樊城を訪れたことがあった。
丁重なもてなしと歓迎を受けたものの、途中で、場は冷めたものとなった。
樊城の人間が、劉備に面と向かって、平気で『居候』呼ばわりしてきたからである。
関羽は顔を火にくべた石炭のようにして怒っていたが、劉備は笑い流しているので、我慢をしているようだった。
もしついてきたのが張飛だったら、劉備と劉表は決裂し、戦の最中だったかもしれない。
樊城は、たしかに清廉たる学士のつどう格調高い城であった。
けれども、その実態は荊州の豪族たちの選民主義に拠ってつくられた聖域であり、部外者や、いわゆる寒門にはつめたかった。
それは誰か特定の人間が、というわけではなく、樊城全体に染み付いている体質のようなものである。
劉備たち同様、孔明もまた、琅邪の名家の出とはいえ、よその土地からやってきた避難民のひとりであったので、その独特の雰囲気にどうしてもなじめず、つねに浮きあがり、荊州の名家の子弟ならば、しなくて済んだであろう苦労を強いられていた。
だから、趙雲や関羽の気持ちはよくわかる。
ただし人間万事塞翁が馬。おかげで、おなじはみ出し者であった徐庶という得がたい友を得ることができたし、やはりおなじく流浪生活をつづけ、天下の安寧をもとめて彷徨う劉備たちに共感をおぼえ、その軍師になったのであるが。
「わたしとて、樊城に長居はしたくない。糜子仲どのの不在で、仕事が滞っているからな」
そうして、なにより、樊城は叔父の死んだ場所である。だが、孔明は、それは口に出さなかった。
「さて、われらの為すべきことは、まず、斐仁から『壷中』のことを聞きだし、なぜ劉公子の側近を殺めたかを探らねばならぬ。そして、われらにかかる疑いを晴らすのだ」
「斐仁はおとなしく喋るだろうか?」
「奴も何者かに操られているだけの人形だ。それを悟らせることができたら、喋る」
言いつつも、孔明の胸の靄は晴れない。
この自分が、正体のわからぬ何者かの掌で踊らされているというのが気に食わない。
すべてに共通しているのは『壷中』という言葉。
そもそも、これが何を指すのか?
それさえ掴めれば、四方にばらばらになっている断片が、きれいにつながるのではないか。
糜竺の残した『仇讐は壷中にあり』の意味はなにか。
糜竺はどこへ行ってしまったのか。
舅の黄承元の手紙にあった『仇讐は壷中にあり。汝の身が、諸葛玄とおなじにならぬことを祈る』の言葉の意味はなにか。
そして手紙を送りつけてきた意図は?
「糜子仲どのは、おそらく深く事情を知っておられるはずなのだ。しかし新野を出られてからの足取りがまったくつかめない。
人をやって探させているが、どうも追っ手がかかることを想定していたとしか思えないほど、きれいに手掛かりがないのだ」
「あの方は、万事抜かりなく丁寧に仕事をなさるからな」
「こんなときまで丁寧にしなくてもよいだろうに」
ぼやく孔明に、趙雲が尋ねる。
「貴殿の舅殿のほうはどうだ?」
「そちらもだ。まったくあの海千山千の老爺ときたら、手紙を送りつけてきたのを最後に、行方をくらませた。曹操の南下を恐れて、どこかへ避難したらしいのだが、どこへ行ったのか皆目わからぬ。
糜子仲どのといい、舅といい、崔州平といい、近頃では、失踪するのが名士の流行りなのかもしれないな」
「仮にも義父だろう」
悪しざまにいうな、と常識人の趙雲はたしなめるが、うんざり、というふうに孔明は反論する。
「あなたもああいう舅を持てば、わたしのことがもっと理解できるようになるよ」
「…それはともかく、手がかりがない、というのは厄介だな」
「ないこともないさ。『壷中』という言葉に共通する人間は、舅、糜子仲、そして斐仁だ。この三者に共通するものは?」
「劉表か」
「それともうひとつ。『財産家』だ。舅と糜子仲どのはともかく、斐仁の贅沢な暮らしぶり。これはやはり不自然といわざるを得まい。
わたしは楽なほうに流れたい人間だからね、もしひと財産が手に入ったら、どこかに仕官することなぞ考えず、家族と一緒にずっと安楽に暮らすよ」
「ほう? 聞いた話では、貴殿の着道楽は、叔父君の財産によって支えられている、ということであったが?」
趙雲の反論に、孔明はすぐさま、きっぱりと答えた。
「わたしがおのれの本質に反し、軍師なんぞをしているのは、叔父の財産の中に、財貨だけではなく、つねに天地に恥じぬ光輝たれ、という志も含まれていたからだ。継ぐ、とはそういうことではないのかね。
それに、わたしが衣服に凝るのを道楽と見ているとしたら、おおきな誤りだぞ。もしわたしが地味な衣裳で満座の前に立ったら、どう思う?」
「今日は地味だな、と思う」
「いま適当に答えただろう。よいか、ここに二つの壷がある。片方が汚い壷、もう片方が高価で綺麗な壷だ。そこからそれぞれおなじ杏の実を取り出すとしよう。
どちらが美味そうに見えるかとたずねれば、ほぼすべての人間が、高価な壷から出た杏を指すだろう。人の目はそういうもので、言葉も同じということだ。わかるか?」
「つまり、その、いつもどこから取り寄せてくるのやら、というくらいに、ほぼ毎日ちがう衣裳は、貴殿の言葉を補強する、重要な武器である、と言いたいわけだな」
「前半が引っかかるがそういうことだ。それとまだ誤解があるようだが、毎日衣裳をかえるような贅沢はしていない。
帯や飾りの玉など、いちばん人目のつくところを変えて、なるべく特徴のありすぎる物は纏わないように慎重にしてだな…」
熱く語りだした孔明を、趙雲がさえぎった。
「待った。着道楽の薀蓄は落ち着いてからじっくり聞いてやる。それより斐仁だろう」
「ああ、そうだった。そう、勤めなくても良さそうなくらいに羽振りの良かった斐仁が、なぜ片足の悪い演技までして、あなたに七年も仕えていたか、という謎がある。
働きぶりは悪くなかったのであろう? しかし、出世する意欲もなかった」
「おれのところの部将は、みんなもともと蓄財に熱心ではないから、あまり気に留めていなかったが」
趙雲は言葉を切り、一人合点してうなずいた。
「いま思えば、斐仁はとくに目立たぬように振る舞っていたな」
「新野城の東の蔵の官給品の管理人として、七年。足の悪い演技をしたのはなぜだ?」
「刺客である己の真の身分を隠すためか?」
「だれに放たれた、だれに対する刺客だというのだ。
仮に主公を狙っていたものと仮定しよう。
もしあなたが斐仁ならば、城の外にぽつんとある、東の蔵でじっとして、機会をうかがうようなまどろっこしい真似をするか?
もしわたしが主公のお命を狙うのであれば、そうしてあなたを利用しようとするならば、つねにあなたの傍らにあって、機会をうかがう。そう、陳叔至の位置になることを狙うだろうな。
それに斐仁の財産は、まちがいなく『口止め料』だ。
刺客であることを隠して潜伏している、というだけの間者風情に、七年にわたる贅沢を許すまでの巨額な『口止め料』。これもやはり不自然だ。斐仁が刺客である、という仮説は、やはり否定されてしまうのだよ」
「では斐仁は、なんのために新野に留まっていたのだろう?」
「斐仁の役目は刺客ではなく、別にあるとして考えるのだ。足の悪い演技をしていた理由はなにか?
相手を油断させるためではないとすると?」
「戦場に出ることを免除してもらうためか?」
「そうだ。たとえ戦場に出たとしても、前線に配置されることのないように、片足の悪い演技をしていたのだ。
思うのだがな、もし戦場に出たくないのであれば、最初から文官として新野城に入ればよかったのだ。でも斐仁はそうしなかった。そこにもなにかの理由があると思う。
斐仁は命が惜しかったから、片足の悪い演技をしていたのではない。おそらく、何者かの命令により、ちゃんと筋の通った理由があって、そういうふうに振る舞っていたのだ」
「その理由は?」
趙雲の問いに、孔明は軽く息を吐いた。
「そこがわからない。なにせ斐仁に命令を出していた者の正体がわからない。『壷中』と呼ばれる組織であることはまちがいないのだが、その意図を掴むための材料が足らないのだ。
だが、いまの斐仁ならば口を開く。ほかならぬ『壷中』に裏切られ、一族を惨殺された斐仁なら、な」
馬車に揺られながら、趙雲はしばらく考え込んだあと、声を落として、言った。
「軍師、斐仁は樊城の『壷中』の仲間を殺してやる、といって劉公子の側近を殺した。
単純に考えるならば、この樊城…言い換えれば、劉表が、『壷中』を組織しているという可能性はないのか」
その問いに、孔明は肩をすくめた。
「それは最初にわたしも考えたよ。だが、もしそうだとすると、切り捨てようとしている斐仁を、いまもって丁重に牢屋でもてなしてくれているのはなぜだ」
「そうか。普通ならば、口封じに殺すな」
「そのとおり。まさか土壇場になって、劉表が真の仁君になって命を助けてやったとは思えないからな」
「では曹操か? 空屋敷で娼妓といた斐仁を襲ったのは、やはり曹操の配下である朱季南だった?
斐仁への口止め料が負担になったし、みずから南下するので、もうその存在が必要にならなくなったので、刺客として朱季南を放った、としたらどうだ。『風狗』はでっち上げだとしたら?」
「とするとやはり不自然なのだよ。
娼妓とともに空屋敷に入った斐仁を朱季南が襲う。しかし斐仁はじつは刺客であるし、足も悪くないから、朱季南は斐仁を取り逃がす。
朱季南が腹いせに、残された娼妓を惨殺したところへ、あなたがやってきた。朱季南は相手が旧友だと知ると、智恵をめぐらせ、『風狗』の話をつくりあげ、あなたの隙をつき、まんまと逃げおおせる。そこまでは筋が通る。
だが、次にあなたが朱季南を見つけたとき、朱季南は阿片の中毒を起こして前後不覚になっていた。
しかも斐仁に殺されそうになっていたというおまけつきだ。いくらなんでもお粗末に過ぎやしないか。
それにね、斐仁はどうやって朱季南の所在を突き止めたのだろう。人買いを探すためにわたしが兵を町中に手配していたあの日、斐仁は風邪といつわって仕事を休んだ。
だから城の動きを知らず、単独で朱季南をさがしたはずなのだ。娼妓を買うのに慣れていたとすれば、妓楼についてくわしかったのかもしれないが、それにしても偶然か? ずいぶん手際がよいではないか」
「ちょっと待て。わからなくなってきたのだが、つまり、朱季南の所在を知っている何者かが、斐仁にそれを教えたと、そう言いたいのか?」
「別の第三者がいる。それが朱季南の追っている『風狗』かどうかは不明だがね。
そいつは、斐仁に朱季南の始末をまかせた。つまり、その第三者にとっても曹操の配下である朱季南が邪魔であったのだ。
そして、おなじくらいに斐仁も邪魔だった。さて、ここでまた謎に突き当たって止まってしまうのだが、そいつはおそらく、斐仁が留守のあいだに、その家族を惨殺したのだ。斐仁はそれをおのれの口止めのためだと思い、逆上して、報復のために樊城の『壷中』の人間を殺す」
「なんのために?」
「そこがわからぬ。まとめてみるか。
一、 斐仁は『壷中』に雇われた、『ある目的』のために新野に留まっている男
二、 『壷中』は『ある理由』のために、斐仁の存在が邪魔になった
三、 斐仁に刺客を差し向ける
ここまではよいな? 妥当なところではこう考えられる。
四、 斐仁が娼妓を買って空屋敷に入った隙をついて、刺客…風狗が斐仁を襲う
五、 ここで、風狗を追っていた朱季南が登場したことで番狂わせが起こる。斐仁は、おそらくどちらかの気配によって異変に気付き、逃げ出す
六、 獲物を逃した風狗は、怒りを娼妓に向け、これを惨殺する
七、 朱季南がそれを追うが、逃げられる
八、 そこへ趙子龍の登場。暗闇のなか、朱季南はあなたを風狗とまちがえ、攻撃する。本物はその隙に逃げる
九、 風狗にとっての誤算は、あなたと朱季南が旧知であったことだ。あなたは朱季南を取り逃がす。旧知の人間でなければ、そんなへまはしなかっただろう?
十、 風狗は自分を追う斐仁を始末することを考えた。うまい具合に、斐仁はまだ『壷中』から自分が切り捨てられたことを知らない。襲ったのが風狗とは知らないのだ。風狗はなにくわぬ顔をして斐仁の前にあらわれ、朱季南の所在を教える。朱季南の追跡を逃れてきた風狗ならば、朱季南の潜伏しそうなところもわかっていたのだろう
と、ここまでは、まず間違いないのではないかな。考えが止まってしまうのはそこから先なのだ。
○ 斐仁の口を封じるためとはいえ、家族まで皆殺しにした理由はなにか
○ そこまで周到に立ち回りながら、斐仁による仲間の暗殺をゆるしたのはなぜか
○ そうして、獄中にある斐仁に対し、『壷中』…風狗はなぜ報復しに来ないのか
朱季南と斐仁をめぐる風狗の対応には、どうも一貫性というものが欠けている。
朱季南の登場によって、どうしても方向転換が必要になったということかもしれぬが、どうも解せぬ。意図があるのか、それとも人殺しに抵抗のない狂人の仕業なのか」
「斐仁の殺めたという、劉公子の側近のほうから、たぐれることはないのか?」
「あるかもしれぬが」
「なんだ?」
言説明瞭だった孔明が、ここで急にことばをにごらせた。趙雲は怪訝そうに眉をしかめる。
「ここまで長々と説明をしておいて、急に口を閉ざすな。なにかあるのではと、勘繰ってしまうではないか」
やれやれ、と孔明はため息をついた。知り合って間もないころは、ほかの武将とちがって、ずいぶん柔軟なものの考え方のできる男だと思っていたが、その一方で、とんでもなく頑固な面も持っているのに気付いたのは、最近のことだ。
しかも不正や誤謬にきびしい。美点でもあるが、言い換えれば、融通がきかない、ということでもある。
「では話すが、劉公子は内向的なお方で、武術や馬よりも、学問や書画などの芸術を好まれる。
身体も弱く、気性も大人しいので、同年輩の友人が、ほかとくらべると少なかった。
そこで、劉州牧はご長男に、二人のご学友をつけた。ふたりのうち、花安英(かあんえい)これは本名が安英というのであるが、その稀な美貌によって人がそう呼ぶようになった少年だ。非の打ち所のない貴公子で、やはり書画を好み、各地を回っては、風景をしたためて拓本を劉公子に贈っている。
一方の、斐仁が殺めたのが程子聞(ていしぶん)。これは、劉公子より年上の男で、なにかと派手な優男だ。妓女との艶っぽい噂がたえないどころか、男とも噂があった乱倫の士だ」
「断袖か」
と、趙雲は孔明の話に眉をしかめた。断袖、とはつまり男色のことである。
漢の哀帝が、寵愛する董賢とともに昼寝をしていたが、先に哀帝のほうが目を覚ましてしまった。
しかし隣にいる董少年は、哀帝の袖を枕にして、まだ寝入っている。
起こすのもかわいそうだというので、哀帝はおのれの衣を切って、董賢を眠ったままにしておいた、という話に拠る。
「なんだ、あまり驚かないのだな」
趙雲の反応に、孔明は拍子抜けした。儒教において、男色に関する戒めは厳しい。それらしい話題を持ち出しただけで、軽蔑されるくらいなのである。
孔明のおどろきに、趙雲が冷めた顔を向けて答えた。
「おれとて、この乱世に生を受けた身だ。漢帝国が崩壊したいま、儒教の権威も戒めも、崩壊しきっているではないか。いまさら断袖の噂ごときで、いちいち驚きもせぬわ。
それより軍師、劉公子の周辺について、妙にくわしいな」
「知り合いだったのだよ。程子聞の場合は、噂などではなく本当だったのだがね。とはいえ、その相手が誰であったかはしらぬ。言いたがらないそぶりであったし、聞いて益になりそうにもなかったからな。
あなたも知っていると思うが、劉州牧は儒教に傾倒しており、各地から儒者をもとめていた。曹操は儒家を嫌っているから、戦乱と迫害をのがれて、多くの儒者があつまった。
当然、そんなお堅い空気でのなかでは、程子聞も浮き上がる。いかがわしい噂の持ち主であるが、ふしぎと人を和ませる魅力のある男であったし、劉公子からも信頼されていたので、指弾されることはなかったようだが、本人は、おのれの立場をよくわかっていてね、いつ命が消えても、おかしくないと笑っていたよ。気の毒に、まさかそれが現実になってしまうとはな」
「ずいぶん親身だな」
趙雲は怪訝そうに口にする。
断袖だったという男と知り合いであった、などと普通は隠そうとするものである。
しかし孔明は、程子聞という男に対し、嫌な印象を持っていない。
程子聞の、おのれの本質を隠さず、正々堂々と振る舞おうとする、どこか道化めいてさえいる生真面目さは、すこし徐庶に似通っていた。
だれよりも誠実であろうとして、だれよりも努力して、どんな蔑みにも屈しなかった。
いまごろ徐庶は、曹操の元でどんな暮らしをしているだろうと孔明は思う。
おのれの親の仇の元で働かねばならない苦しみは、想像もつかない。
黙りこんだ孔明の横顔に、視線がちくちくと突き刺さる。
心配しているのか、動揺しているのか。
孔明は、目だけを動かして、じろりと趙雲をにらみつけた。
「いま、何を考えているかわかったぞ」
「すまぬ」
思わず謝る趙雲を、孔明は、ふうっ、と大きくため息をついて、真正面から見た。
「言っておくが、知り合いだったというだけだ。子聞曰く、わたしはその手の男には口説かれない男なのだそうだ。背がありすぎるし、顔が女みたいで綺麗だというだけでは、あまり食指が動かないのだと。
むしろ男っぽい男のほうがいいらしい。そうだ、あなたなんかは気に入られたのではないかな」
「やめてくれ、恐ろしい」
顔を蒼くさせて、趙雲はぞくり、と背筋を震わせる。
激戦においても眉根ひとつ動かさない、と評されている男を、これほど真っ青にすることに成功したのは、おそらく自分以外におるまい。
勝ち誇る気分にはなれなかったけれど。
趙雲は、からかわれたことに気付いているのか、いないのか、ますます渋面をしかめつつも、なおも話題を切り上げず、言葉をつづける。
たいがい、この男も生真面目すぎて、自分が損をする性質だな、と孔明は思った。
「程子聞が壷中の人間だったか、思い当たるフシはないのか」
孔明は首を横に振り、ない、と答えた。
そもそも、『壷中』が、いかなる組織なのか、それすらわからないので、判断のしようがないのである。
「そうなると、やはり斐仁…そこへ戻るのだな。やつめ、大人しく牢につながれているだろうか」
「自害をしないように特に注意して牢につないである、と伊機伯どのは仰っていた。あの方は、ああ見えてなかなか優秀だ」
ふと、いやなことを思い出し、孔明は、ここでいままでにない大きなため息をつき、気持ちを落ち着かせるために、馬車の外の樊城のにぎわいを見る。
ただのお使いできたのなら、あの市をあとでひやかしてやろうとか、楽しい計画も浮かびそうなものだが、さすがにいまは外を見ていても、うわのそらである。
伊籍は先に樊城についているはずなのだが、笑いさざめく人の群の中に、小柄で、歯を見せて、ニカニカと笑う伊籍の顔があるような気がしてならない。
「それに、なかなかの策士だ」
「策士? 貴殿、新野を出立した日から、伊機伯の名が出ると浮かぬ顔になるが、やつになにか言われたのか?」
「劉公子の相談役になってほしいと頼まれた」
厄介ごとを抱えているときに、またなんと厄介な、と孔明は苛立つ。
伊籍が孔明との約束をスッカラカンに忘れている理由は番外編『梁父のギンギラギン』をご覧くださいませ(^^ゞ