孤月的陣


第二章 雨

一

雨を避けるためにかぶった笠の、その隙間から、しずくがぽたぽたと垂れて鬱陶しい。
朝のうちから降り始め、しばらく霧雨であったものが、正午を過ぎたあたりから、本降りになってきた。
しばらく馬を走らせていたのだが、ひずめが泥濘にとられてしまうといけないので、途中から馬を降り、見知った新野の街を移動する。
雨の帳がかかっているためか、新野の街はどこか暗く沈んで、よそよそしく感じられる。
その様は、否が応でも、薊の記憶を刺激する。
あのときも、こんなふうに雨が降っていて、息を詰めるようにして街を歩いていた。
 
「む?」
一瞬。
ほんの一瞬であったが、街角を、女の影が過ったように見えた。
女の纏う領巾が、この雨にもかかわらず、揺れて、まるで趙雲を誘っているように見えた。
ばかな。
おのれの空想を哂い、しかし趙雲は、誘われるようにして、ぬかるんだ道の、路地を曲がった。
そこは行き止まりになっており、そして、だれかが蹲っている。
曇天のもと、したたる雨のなか、光るものが目に飛び込んできた。
「朱季南!」
だれかが、ぬかるみに倒れる朱季南に挑みかかり、白刃を振り下ろそうとしている。
見間違いようのない、剃り上げられた頭、派手な色合いの着物、形も色もまちまちな装飾品。
趙雲が声をかけても、朱季南は倒れたまま、朱季南は、身動きひとつしなかった。
一方、朱季南の身体に馬乗りになっている男は、趙雲の声に反応し、振り返った。
「斐仁!」
笠をかぶっていたが、まちがいない。
陽のない路面の上で、斐仁は、振り上げた白刃を宙に留まらせたまま、趙雲のほうを見て、ちいさくうめいた。
「貴様、なぜここに!」
趙雲が駆け寄ると同時に、斐仁は、朱季南の身体から離れた。
捕まえようとしたが、普段の斐仁とは別人のような身のこなしで、素早く背を向ける。
「おまえ、足?」
かつて劉表の元で働いていたときに、怪我をして、片足が利かなくなった、だからいつも足を引きずっている。
そう言っていなかったか。
だがいまの斐仁の足は、どこにも問題がなかった。
それどころか…
民家の土壁に追い込んだ。行き止まりである。仲間もいない様子だ。
「斐仁」
声をかけると、笠をかぶったままの斐仁は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
特徴がないことが特徴の、どこにでもありそうな細目の顔である。
雨に濡れたせいか、それとも殺しが失敗したせいか、顔色は蒼い。
だが意外なことに、その顔には、なんの表情もなかった。
狼狽も怒りも悲しみもない。目を逸らすわけでもなく、見つめるほうが気おされるほどに、真っすぐにこちらを見ている。

背筋が、ぞくりとした。
どうやら、七年の長きにわたり、人物をおおきく見誤っていたらしい。
これは平凡な兵卒の顔などではない。
熟練の刺客のそれではないか。
反射的に、剣に手を伸ばした趙雲であるが、わずかな隙を、斐仁は見逃さなかった。
壁に背を向けた姿勢のまま、鳥のようにぱっと飛び上がり、土壁の上に登る。
そうしてそのまま、向こう側へと消えてしまう。
趙雲は、すぐさま追おうとしたが、朱季南の様子が気にかかった。
振り返ると、朱季南は、いまだに同じ姿勢でいる。
ちょうど亀のように背中を丸め、蹲っている。
だが、様子がおかしいのが知れた。
「刺されたか?」
別れ際に、縄標で攻撃されたことを忘れ、趙雲は、かつての旧友のところへと駆け寄る。
激しく打ちかかる雨と、夕闇の迫っている暗さのために、近づかないと、怪我の有無がわからない。

朱季南の身体は震えていた。
寒さのためにしては、震え方が激しすぎる。
肩を掴み、顔を上げさせると、雨に塗れた顔の、目も口もうつろに開かれて、正気を失っているのが知れた。
趙雲は舌打ちした。怪我や病での震えではない。
阿片だ。
妓楼のなかには、媚薬と称して阿片を客に勧めるところがある。
朱季南がどこに隠れていたかは知らないが、その阿片を、身体に塗るのではなく、飲用したらしい。
おそらく、妓楼で阿片を飲んでいたところを、人買いを捜にやってきた兵士たちに踏み込まれ、ここまで逃げてきたにちがいない。
そこを斐仁に襲われたのだ。
莫迦が、と叱咤し、趙雲が肩を貸そうとすると、朱季南は弱弱しく、それを払いのけた。
「おれを屯所へ連れて行く気か。離せ、この犬めが…こんなところにいないで、劉備の横にくっついておれ」
「おれが犬ならおまえは鼠だろうが」
朱季南は、生気のない笑い声をたつつ、ふらふらとよろめき、そして泥濘に倒れた。
雨がはげしく、その身体を打っているのであるが、気にならないらしい。
昨夜の様子からすれば、別人のように情けない姿であった。
「子龍、あっちへ行け…行ってしまえというのだ…裏切り者め。兄の葬儀だと? おまえ、あれはただの口実だったのだろう?」
ずいぶん昔の話を持ち出すものだ。
「いまさらだな」
「おまえは冷たい。氷雪よりも、もっと冷たい。でなければ、なぜ公孫瓚を見捨てたのだ」
「答を聞いてどうする。同じ問いをおまえに返すぞ」
地面に横になったまま、手足をぬかるみに放り投げた姿勢で、朱季南は、うつろに笑う。
「知りたいか。おまえがいなくなったからだ。おれはおまえを真の友と思っていた。兄の葬儀が終わったら、かならず帰ってくるだろうと思っていたのだ。
ところが、どうだ。おまえは一向に帰ってこないではないか。みんなおまえを待っていたのに、おまえはみなを見捨てたのだ。
新野ではずいぶんと評判がよいようだな。義理堅い男だと? おまえは大人しそうな顔をして、保身のためならば友さえ裏切る男だというのにな」
趙雲は、答えなかった。
事情を知らない朱季南の恨み言である。
雨と共に流してしまえばいい。
朱季南が、うめくように続ける。
「播天流も、おまえを待っていたのだ。なのに、おまえは帰ってこなかった…」
「嘘だ」
趙雲の顔色が変わったのを見て、朱季南は暗い笑みを浮かべる。
「嘘なものか。あれは、かならず主公の危機を救うために戻ってくる、そう言っていた。
だからおまえを捜すため、おれを出したのだ」
「莫迦な…」
 おまえは殺しが巧すぎる。そう言って、おのれを敬遠した男が、ずっと待っていた? 
「今更、後悔してもおそい。公孫瓚は死に、播天流も、あの傷では、もう生きてはおるまい。
つづくのはおれだ。おまえなんぞに助けられては、死んでいった者に申し訳が立たぬ。
せっかく引導を渡してもらえるところであったに、お節介め。さっさと行ってしまえ」
雨が、さらに激しく、大地に降り注ぐ。
大粒の雫のひとつひとつが、肌に痛い。
趙雲は、呂律の回らない舌で、まだなにかを訴えてくる朱季南を、無言のまま、担ぎ上げた。

手当てが必要だった。
しかし、医者に連れて行くわけにはいかない。
自分の部屋でも駄目だ。目立ちすぎる。
だれか、城外に屋敷を持つ、信用できる人間のところへ、と考え、浮かんだのはたった一人だけであった。

陳到の屋敷には、主人を待つ妻と子どもたちがいたが、趙雲が病人を抱えて現われると、事情も説明しないうちから、奥の部屋を空けて寝台を作ってくれた。
そうして、家の者に頼んで陳到に使いをやり、至急、屋敷に戻るようにと伝言させた。
斐仁がなぜ、朱季南を襲ったのか、その理由がわからない。
わからないが、ふたたび、襲ってくる可能性がある。
朱季南が追っているという、娼妓殺しの『風狗』が、斐仁だというのか。

陳到はすぐに屋敷に戻ってきた。
事情を説明している暇がない。
趙雲は、どういうことかと聞きたがる陳到に、あとでかならず説明をするからとなだめ、入れ替わり、外へ出た。
陳到ならば、すくなくとも家族を守りきることができる。
うろたえる陳到から、斐仁の屋敷につけた見張りは、なんの連絡もよこしていないことを聞き出すと、趙雲は、斐仁の姿をもとめ、糸雨となった町へ戻った。


やはり、あのときも、同じように雨が降っていた。
焼け落ちた易京の城壁の上で、磔になった播天流の姿を指して、朱季南は、助けなければ、と訴えた。
そのとき趙雲の胸に去来したのは、悔恨にも似た、苦い思いであった。

趙雲は公孫瓚を見限った。
その判断に誤りはなかったと思う。
公孫瓚の元に留まるか否かは、趙雲だけの問題ではない。
義勇軍の頭として、常山真定を出たときから、付き従ってくれた若者たちの未来も考えねばならなかった。

公孫瓚は易京に一大要塞を作り上げ、数年におよぶ籠城にも耐えうる、膨大な量の食糧を城内へ蓄えていた。
その間にも、世の中は着々と動いていた。
公孫瓚の行動は、めまぐるしく動く時流に、ひとりだけ背を向けて、冬眠に入ろうとする熊のようであった。

兵は拙速を尊ぶ。
戦は短期決戦で望むもの、長びけば長びくほど国力の衰退を招く。

この孫子の言葉を用いて、趙雲は意見したが、無視された。
趙雲は悩みに悩んだ末、当時、公孫瓚の客将であった劉備に身の振り方を相談した。
劉備は、公孫瓚とは兄弟弟子にあたる。おなじ私塾にかよった間柄だった。
劉備は公孫瓚に厚遇され、趙雲に、主騎をまかせた。
劉備は趙雲を気に入って、一緒に連れてきた義兄弟たちと同じくらいに親しく接してくれた。
この方ならば、信頼できる、公孫瓚のひととなりもよく知っている、と趙雲は思ったのである。
以前に信頼できると思っていた播天流から突き放されたばかりであったから、切り出すのに勇気が要ったが、ひとつ語り始めれば、あとは止まらなかった。
夢中で語りながら、趙雲は、自分のなかに、これほどの澱が溜まっていたことを知った。
澱、というよりは、毒に近い。
信頼できる者を失くし、言葉を封じ込めていた。
それが解けて、気持ちがすっとした。
劉備は、趙雲の話をよく聞いてくれた。
劉備の言葉は洗練されていないし、鋭くもないが、じっくり考えたあとにつむぎだされる、誠実なものであった。
「おまえが、もう駄目だと思うのであれば、やっぱり、もう駄目なんじゃねぇのかな。
兄弟子が駄目だとかいうのではなく、おまえ自身の気持ちが萎えてしまっているのだ。
努力したところで気持ちが変わらないかぎり、駄目な結果にしかならないと思うぜ」
と、劉備は言った。

みじかい言葉であったが、それが趙雲の背中を押した。
ちょうど、故郷の兄のひとりが死んだ、と訃報が入ってきた。
大手を振って、常山真定へ帰ることのできるよい機会である。
このとき、すでに公孫瓚と袁紹の仲は修復不能なまでになっており、易京の緊張は日に日に高まっていた。
趙雲は、心を決めた。

趙雲の里帰りに、播天流は大反対をした。
おまえは、いままで温情をかけてくれた主公を見捨てるつもりではなかろうな、と言った。
公孫瓚との間柄も、以前よりぎこちないものになっている、と趙雲は播天流に言葉を尽くして説明した。
だが、播天流は聞かなかった。
葬儀が終わったら、すぐに帰って来い、の一点張りであった。
趙雲は、対話をあきらめた。
殺しが巧い、と言われたことが、いつも心のどこかに棘として残っている。
一度だって、楽しんで殺しをしたことなどない。
逃げる兵士に矢を射掛けたのも、いま、徹底的に叩かなければ、彼らは形勢を整えて、すぐに襲撃してくる、と思ったからだ。
言い換えれば、いま敵を殺さねば、つぎに味方が殺されると思ったのだ。
味方が突破されれば、無辜の民が犠牲になってしまう。
武人の役目は、戦場で華々しい功績を上げること、主公に華を持たせることではなく、民を守ることではないのか。
民を守るためならば、戦場で鬼になってもかまわない。
その覚悟でやってきた。
おそらく播天流は、趙雲の想いは知らなかっただろう。
趙雲としては、自分の心を、恩人である播天流が汲んでくれなかったことが、悲しかった。

最後まで、主君に尽くした男は、滅亡した家の最後の生き残りとして、晒し者とされている。
幻滅し、去ったおのれは、五体満足で生きている。
なんという皮肉か。
己の理想のために殉じる姿は、美しくも在るが、さらに上回って無残でもある。
あんたの志の結果が、これなのか、と趙雲は無言で易京の冷たい雨に打たれて磔にされている播天流に呼びかけた。
はじめて義勇軍として、常山真定を代表して袁紹に徴兵され、戦に出ないうちから、古参兵たちの凄惨なしごきに遭い、生き死にを彷徨っていたところを救ってくれたのが、播天流であった。
播天流は、公孫瓚の命令を受け、各地の、見所のある若者を集めていた。

同じような目に遭わされて、なにも為さぬまま味方によって命を奪われてしまった者すらいる中で、おまえは運がいい、と播天流は言い、趙雲もそのとおりだと素直に思った。
公孫瓚のいる北平へ至る道は楽しく、希望に満ちていた。
趙雲と同じように、半ば落ちぶれた家から、頭数同然に徴兵され、わけのわからないまま、剣を持たされていた少年たち。
播天流は、彼らに、天下を説き、天下の安寧を説いた。
天下を安んじる英雄とはだれか、英雄に仕えるにはどうしたらよいか、熱意をもっておしえてくれた。
播天流の指し示す先には、かならず平和を取り戻してくれる英雄が待っていてくれるような気がした。

「聞いているのか、子龍。頼んだぞ。まず、おれが門衛どもを引き付ける。
連中の気がそれたら、おまえが馬上より、弓で門衛を射る。
射損じることのないようにな。そして、応援が来ないうちに、播天流を救う」
朱季南のたてた作戦は、大雑把なものであった。
しかしほかに妙案はない。
つづく小糠雨と、勝利の余韻のために、兵士たちの気持ちは弛んでいる。
そこが狙い目だ。

打ち沈んだ易京の町に、夜が静かにやってくる。
雨は止まず、あたりは暗い。
雨を避けるようにして焚かれた篝火だけが、闇をわずかに和らげている。
焼け落ちた宮城の、辛うじて残った門を守る兵士たちのもとへ、酒瓶片手に、朱季南が近づいていく。
人懐っこい笑顔を満面に浮かべ、旧知に会ったように振る舞う。
門衛たちは、身構えたが、朱季南の手にあるのが酒瓶で、武器があるように見えないので、すぐに酔っ払いだと判断した。
酔っ払いは、あっちへ行け、と邪険にされるが、朱季南は、ひるまない。
どころか、酔った振りをして、ふらり、と門衛のひとりにもたれかかった。

作戦のはじまりだ。門衛は、すっかり油断しており(朱季南は、そのまえに酒家でしこたま酒を呑んでいたが、もともとザルなのである)酒臭い朱季南を跳ね除けるが、その手に、おのれが腰に差していたはずの剣がないことに気づかない。
気づいたときは、おそかった。
白刃は、すでに門衛の咽喉を掻き切っていたのである。
仲間の門衛が朱季南に襲い掛かる
。だが、やはりこちらも遅かったのだ。
かれらが槍や矛を構えるより早く、朱季南はすぐに行動を起こしていた。
手にしていた酒瓶を集まってきた門衛にぶちまける。
門衛たちは、一瞬ひるむが、仲間を殺された怒りは、それくらいで大人しくなりはしない。
そこへ、趙雲が、物陰より矢を射掛ける。
ただの弓ではない。火矢だ。
小糠雨に負けないように、たっぷり油のしみこませた布に火をつけて、朱季南に群がる兵士たちへ矢を飛ばす。

おまえは殺しが巧すぎる。

「だまれ!」
誰に言うでもなく、ちいさく叫ぶと、趙雲は、焦点のしぼりにくい、篝火に姿を浮かばせる門衛めがけて矢を絞る。
しかし一射目は外れた。
大きくそれて、柱に当たる。
門衛が、それに気づいて、新手がいるぞ、と叫んだ。
もはや躊躇はしていられない。趙雲は舌打ちすると、馬の脇腹を蹴った。
借りてきた馬なので、白馬義従であったときに馴染んでいた馬とはちがい、息が合わないが、なんとか思うとおりの方向に進ませる。
馬を走らせながらの二射目。
今度は、方向がぶれずに、ちょうど、朱季南の目の前の男の額を射抜いた。
三射目を番えたとき、風を切る音がして、趙雲はとっさに身を逸らせた。
見ると、門の向こうから、仲間たちの声を聞きつけた兵士たちが、弓をかまえてこちらに向かっている。
中でも、趙雲の姿を認めた兵士が、こちらに向けて矢を射掛けてきたのだ。
「子龍、この莫迦!」
と、朱季南の罵り声が聞こえた。
罵りながらも、朱季南は、門衛たちをつぎつぎと斬り伏し、播天流のところへ向かう。
弓兵のひとりが朱季南の背中へむけて、矢を番えたのが見えた。
趙雲は、馬首をめぐらせ、弓を射る。
気持ちが焦っていたのもあるだろう。
気心の知れない馬の背の上であったこともあるだろう。
三射目も外れた。
そうして、矢におどろいた兵士の手が弛み、あろうことか朱季南めがけて矢が放たれた。
「季南!」
趙雲は叫んだ。
朱季南は目の前の敵を片づけるのに夢中である。
そこへ、まるで滑り込むようにして、門衛のひとりが、背後から朱季南を斬ろうと、飛び込んできた。
放たれた矢は、その男の心の臓あたりを貫いて、止まった。
趙雲は、これでは埒が明かぬと、弓を捨てた。
作戦どおりではないが、もはやこだわっていられない。
馬を飛ばし、そのまま、宮城の門へと飛び込む。
そして馬上から、剣を振りかざして、つぎつぎと兵士たちをなぎ倒していった。

こうなると、独壇場である。
さきほどまでの硬さは抜け、まさに舞を舞うような軽やかさで、迷いもなく兵士たちを斬り伏せる。
その動きに無駄なものはなにひとつなく、次の攻撃の、さらに次までも予測した、完璧なものである。
戦場での経験もものを言っているのかもしれないが、趙雲の場合は、天性のものであった。
五感は研ぎ澄まされ、相手の動きが止まっているかのような錯覚さえおぼえる。
もはや名人の境地にも近い。
技量の勘と、身体の柔らかさ、相手の行動を瞬時に読み取り、利用することができる瞬発力と想像力。
世の剣を手にした者すべてがうらやむ能力を、ほぼ完全な形で備えているのだ。
「子龍、こっちだ!」
朱季南が、門衛たちを切り伏せて、播天流が磔にされているところにまでたどり着いた。
朱季南は、その口に刃をくわえると、播天流を晒す木の台によじ登り、四肢をつなぐ紐を断ち切った。
そのまま地上に倒れそうになるのを、朱季南は辛うじて支える。そうして趙雲に向けて怒鳴った。
「連れて行け! こいつらは、おれに任せろ!」
「しかし!」
「よいから行け! 問答をしている暇はないぞ!」
 朱季南の言うとおり、門の騒ぎを聞きつけ、続々と兵士たちが集まってくる気配がある。
さすがに一騎当千を自負する趙雲も、易京中の兵士を相手にするのはむずかしい。
なにより、当初の目的は、播天流を救うことであり、馬に乗っているのは趙雲なのだから、朱季南の指示はまっとうなものである。

趙雲は、朱季南のもとへ馬を走らせると、朱季南は、それっ、と掛け声とともに、片手で支えていた播天流の身体を落とした。
趙雲は、馬を走らせながらもそれを受け止める。
ここで、並みの乗り手ならば、馬が驚いてしまい、棹立ちになって、ともども振り落とされてしまうところだが、馬にもっとも馴染んでいる北方の異民族にさえ恐れられた趙雲は、うまく馬を御し、速度をゆるめないまま、闇の向こうへと、馬を走らせた。

どれくらい走っただろう。
馬の速度が徐々に落ちてきた。大の大人ふたりを乗せているのだから、つぶれてしまってもおかしくない。
追っ手もこない様子なので、趙雲は馬の足を止めさせた。
暗くてよくわからないのだが、ひっそり寝静まった民家の傍らである。
井戸があったので、そこにもたれかけるようにして播天流を置く。
そうして、闇の彼方を振り返る。朱季南は無事だろうか。
「……」
播天流が、ちいさくうめき声をあげた。趙雲は、駆け寄り、血と泥で汚れた顔を覗き込む。
「播天流、おれがわかるか?」
「……」
唇が、言葉を作ろうとするのだが、声がでない。
趙雲は、井戸の水を汲み、播天流に含ませてやった。
過去の恩讐も、これほどまで無残な姿を見れば、どこかへ吹っ飛んでしまう。
着物はぼろぼろ、あちこちに鞭打たれた傷があり、癒えないまま晒されていたために、皮膚が変色している。
虫にたかられている箇所すらあり、水を飲ませながらも、趙雲はその姿に涙した。
公孫瓚の元へと導いてくれたときの、故郷の民謡を大声で唱和していた男の面影がなくなっている。
この男は死ぬのだろうか、と趙雲は考え、悲しみのあまり、また涙した。
死んで欲しくない。
たとえ袂を別った相手とはいえ、道を示してくれた恩人であることに変わりはないのだから。

ちかくの民家の納屋があり、そこの扉が開いていたのを幸いに、趙雲はそこに播天流を運び込み、出来うる限りの手当てをした。
夜が明けると、雨は止んだものの、易京の町はものものしく、宮城を襲った賊に心当たりがある者に対し、報奨金をあたえるとの触れが出回った。
どうやら朱季南はうまく逃げおおせたらしい。

趙雲は、兵士たちの目を盗むようにして外に出て、朱季南との連絡を取ろうとしたが、叶わなかった。
代わりに、かつて播天流に恩を受けたという男が見つかり、その男と協力して、播天流を運び出した。
男は懇意にしているという医者を呼び、播天流の手当てをした。趙雲も同じく、看病をつづけた。
播天流の顔色は徐々によくなり、まだ言葉は発せられないものの、わずかに意志を示せるまでに回復していた。
医者の見立てでは、左腕の腱と筋が切れており、もう使い物にならないだろう、体中に残る傷の痕は残るだろうが、危険な状態からは脱け出せているから、これから悪化して、命を失うようなことにはならないはずだ、と言った。

趙雲は、播天流が歩けるようになったら、共に易京を出て、常山真定に連れて行こうと考えた。
すくなくとも、いまだ兵士が警戒を解かない易京にいるよりはマシである。
播天流のほうは、まだうめき声程度しか声を出せないでいた。
さらにしばらくして、播天流は上半身を起き上がらせることができるまでになった。
左腕は、医者の言うとおり、もう言うことをきかなかったが、利き腕である右手は無事で、軽いものなら普通に掴めるまで握力が回復した。
播天流の口が動いた。
またなにかを訴えようとしている。
掠れた声が出る。
うめき声ではない。はっきりとした言葉だ。
趙雲は側に寄り、その言葉に耳をかたむけた。

翌朝、趙雲は、与えられる限りの路銀を男に預け、単身、易京を後にした。
二度と振り返らなかった。
そうして、二度と戻ることもないだろう。
空はふたたび曇天につつまれ、はるか彼方の地平では、雷雲が大地に稲光を落としているのが見えた。
怒りはない。ただ、むなしい。

うせろ、うらぎりもの。

播天流のかすれた声はそう告げて、趙雲を突き放した。
おのが夢に背いた子に対する、最後の言葉がそれであった。
以来、趙雲は播天流の消息を知らない。

 
斐仁の館はひっそりと静まり返っていた。
世間では、夕餉の支度で、明かりが灯されているというのに、この静まりようは、尋常ではない。
門を叩くと、だれの返事もなく、軽く押してみると、ゆっくりとそれは開いた。
不用心にすぎる。
趙雲は、すぐさま剣を抜いた。
なんらかの気配を感じて警戒したのではない。
なんの気配も感じられなかったので、かえって警戒したのである。
あれからすぐに、一家で遁走したとは思えない。
陳到の部下に見張りをつけさせていたのだ。
その見張りたちはどうしているのだろう。陳到が屋敷に呼び戻されたとき、一緒に帰ってしまったのか?

…そんな手落ちを叔至がするか?

答えは否。
とすれば、この屋敷の静寂は、それだけで怪しい。
斐仁はあれから、ここへ帰ってきたのだろうか。

陳到の話どおり、あちこちに金のかかっていることがすぐに判る屋敷であった。
庭の風情からしてそうだし、調度品から建具のしつらえに至るまで、豪族並みの贅沢ぶりであった。
いくら金持ちの親戚の遺産があろうと、ただの兵卒が、これほどの不動産を維持できるものだろうか。
やはり錠はされておらず、中に入ると、戦場で嗅ぎなれた、血の臭いが鼻腔をついた。
どくん、と耳元で心臓が跳ねたような音がした。
静まりかえった屋敷のあちこちに、人が倒れていた。
どれもみな、死んでいる。
中には、陳到の部下のあわれな姿もあった。惨劇に気付き、屋敷へ飛び込んだものの、逆に討たれてしまったのだろう。
女も男も、年よりも子どもも、関係なかった。屈んで、その身体に触れると、まだ温かい。
息をしている者がいないかと淡い期待を寄せ、ひとりひとり、様子をのぞいたが、みな息絶えていた。
見事な手際である。どれもほぼ一撃で、急所を狙って絶命させている。
下手人は複数だったのか、あるいは単独だったのか、まだわからないが、斬り口がどれも似ているので、複数だったとしたら、おなじ場所で鍛錬を積んだ仲間同士なのだろう。
そこいらにある豪奢な調度品には、なにひとつ手をつけておらず、家人に服の乱れはない。盗賊のしわざではない。

がたり、と物音がした。
振り返る、斐仁であった。
全身、雨に濡れた姿で、みな死に絶えた、おのが屋敷をぼう然と見回す。
そうして、ただ一人、生きている趙雲に、ぴたりと眼差しを当てる。
そして、押し殺した低い声で、うなるように言った。
「貴様も、壷中の人間であったか!」
「なんだと?」
「これが代償というわけだな!」
吠えるように言うと、斐仁は討ちかかってきた。
趙雲はそれを受ける。
人を斬ることに慣れている。
最初に抱いたのは、その印象であった。
迷わず、相手の急所を狙い、わずかな隙も見逃さず、すばやく白刃を繰り出してくる。
ただの東の蔵の倉庫番ではなかった。
大人しい部将、というのは仮の姿であったというわけだ。
「斐仁、誤解だ。おまえの家族を殺したのは、おれではない!」
「だまれ! 言い訳は無用!」
はげしい怒りに取り付かれた斐仁の刃は、そのひとつひとつが、疾風のようであった。
さすがの趙雲も、その気迫には、受身にならざるを得ない。
なにより趙雲は、斐仁を殺したくなかったのだ。

今まで起こった出来事が、なにひとつうまく繋がらない。
殺された娼妓、
娼妓を殺したという風狗、
その風狗を追って許昌からやってきた朱季南、
朱季南を殺そうとした斐仁、
斐仁の家族は皆殺しにされ、
斐仁はそれが趙雲のせいだと思い込む。

ぎん、と刃と刃が組み合った。
力のぶつかり合いになり、趙雲と斐仁はしばらく真正面からにらみ合う。
「斐仁、聞け。おまえの家族はおれがここに来る前に、もう死んでいた。
それに、なぜおれがおまえの家族を殺さねばならぬのだ!」
「知れたことを! こちらも迂闊であった! 
劉備の側に、壷中の人間がいる、という話は聞いていたが、まさかそれが貴様だとはな!」
「壷中?」
「いまさら、白を切る気か!」
 その中年太りの兆候さえみせはじめている身体のどこから力が出たのだろうと、不思議なくらいに強い力で、趙雲は跳ね飛ばされた。
すぐさま斐仁の刃が脳天めがけて降ってくる。
これをかわすが、斐仁の攻撃は止まない。
じりじりと、中庭に追いつめられる形で刃を避けていく。
もはや、どんな言葉も怒りに燃える斐仁の耳には届かない。
何を考えているのかわからない、と仲間内で評されていた男が、はじめてはっきりと表現した感情が殺気と怒りであった。

ふたたび、刃が繰り出される。
趙雲は中庭に面した廊下の柱に手をかけて、それを支えに、大きく身体を逸らせると、その反動を活かし、欄干に登った。さらに足をめがけてやってくる刃をかわし、そのまま斐仁に飛び掛る。
地面にもんどりうった斐仁の剣を持つ手首をまず押さえ、つづいて、膝で、両肩を押さえこむ。
それでもなお、斐仁は抵抗をやめなかった。
「聞くぞ。壷中とはなんだ? おまえはいま、主公の側に壷中の人間がいる、と言ったな」
「たわけたことを。ぬかったわ。貴様も、もとは貴門の出。
連中同様、下賤の者は、虫けら同様に扱える人間であったな。
おれを口止めしただけでは足らず、恐ろしくなっていまさら命を奪おうというのか!
 昨夜の刺客は、貴様が放ったものであったのだな!」
「刺客?」

そこへ、表のほうから叫び声が聞こえた。
「子龍殿! 何処におられるか!」
陳到であった。趙雲は、思わず陳到のいる方向へ顔を向ける。
ほんの一瞬、力が弛んだことを逃さず、斐仁は趙雲の手から逃れた。
「待て!」
これは何事でございますか、といいながら、入ってきた陳到は、中庭で、むささびのごとくひらりと身を飛び上がらせ、屋根に上った斐仁に目を見張る。
「斐仁、おまえ、何事だ、これは!」
「叔至も仲間か…ずいぶん騙されてきたものだ。趙子龍、この仕打ちは決して忘れぬぞ。
この復讐はきっとする。おぼえているがいい! 
樊城の仲間に、目に物みせてくれるわ!」 
言い捨てると、斐仁は霧雨の降る夜の闇の向こうへと飛び去っていった。
「いま、奴は、樊城、と言ったのか?」
「はい、それがしもそう聞きました。
子龍殿、これはいったい、何事でございますか?
斐仁に、何事が起こったのです?」
「わからぬ」
さっぱりわからない。足を悪くした、有能な官吏。
そう思っていただけに、今夜の豹変ぶりは趙雲の混乱をさらに深めた。
子沢山で養うのが大変だと、笑いながらこぼしていた男と、さきほどまで、鬼神の形相で刃を交えた男が同一だとは思えなかった。
「ともかく、ご無事でなによりでございました。お一人であったのは残念ですが」
そういわれて、ようやく趙雲は、陳到の家に置いてきた朱季南を思い出した。
趙雲の表情で、察したのか、勘の良い陳到は、ぱっと平伏し、問われる前に答えた。
「申し訳ございませぬ。目を離したわずかな隙に」
「逃げたのか」
「阿片中毒と見くびっておりました。しかしあの症状はほんもの。
遠くまで逃げることはできまいと追ってきたのですが…」
阿片の中毒は、長い。
短くても三日、長い場合は七日以上つづく。
人間が罹りうる、ほどんどの病の症状が、一気に吹き出たのではないか、というくらいにはげしい苦しみがその特徴だ。
手足のしびれ、頭痛、嘔吐はもちろんのこと、下痢、幻覚、眩暈、高熱と、身体の自由を奪うのに十分な症状がいっせいにあらわれるのだ。逃れるためにはふたたび阿片に頼るか、あるいは、阿片が抜け切るまで耐えるしかない。
そんな身体で、どこへ行ったのか。

斐仁が言った『刺客』とは、朱季南を指すのか? 
とすると、壷中とは、曹操と関わりのある組織なのか。
だとすると、樊城がなぜ出てくる。
劉表の居城である樊城が…

嫌な予感がした。
それまでにない、不吉で重苦しい予感であった。
「叔至、おまえは朱季南を探してくれぬか。
おれは、斐仁を追う。おそらく樊城へ向かったのだろう」
「御意。お気をつけめされよ、子龍殿。
どうも今宵の新野城は、みなおかしい。嫌な予感がいたします」
「うむ…万が一にそなえて、おまえも家に護衛をつけておけ。
それと、おれが留守のあいだ、軍師の御守りをたのむ」
「それがいちばんの大仕事ですな。
みなが、嫌がる様が、いまから目に浮かびます」
すまぬ、と言い捨て、趙雲は、その足で陳到の屋敷につないでいた愛馬を引き出し、樊城へと向かった。

馬を走らせているうちに雨は止み、そして白々と東の空が明るくなってきた。
皮肉なことに、久しぶりの晴天となった。
雲ひとつない青天の下、田圃にいっぱいにはった水がきらきらと輝き、遠方では、ゆうべの雨が蒸気となって、山に霞をかけているのが見える。
もしもこんなときでなければ、詩心のない趙雲でさえ、足を止めてじっくりと光景をたのしみたいと思うほどに、うつくしいながめであった。

日が高くなるにつれ、茂みや木々のあちこちから、蝉の声が聞こえてくる。
愛馬を休ませつつ、趙雲は、ひたすら樊城へと向かった。
おそらく、斐仁も同じ道を向かっているにちがいない。
馬だとしたら先行しているだろう。
ゆっくりしている暇はなかった。
新野城で問題が起これば、陳到に早馬を寄越すようにと伝えてある。
いつもは昼行灯のように振る舞っているが、ここぞというときにはおどろくほどの胆力を見せる男だ。
うまくやってくれるだろう。

そうして、陽が落ちかけたころ、前方から、馬が駆けてくるのが見えた。
斐仁か。
そう身構えたものの、すぐにそうではないことが知れた。
いや、正しくは斐仁の知らせを持つ、樊城からの早馬であった。
そこで趙雲は、斐仁が、劉埼の腹心を暗殺し、その場で捕らえられた、という話を聞く。


「斐仁が殺めた男は、程子聞といって、劉公子のご学友だった男だ。
絵心があるとかで、内気な劉公子とは、格別に仲がよかったらしい」 
ふむ、と独り合点しつつ、孔明は遠くに目をうつす。
そうして、遠くをみやったまま、言った。
「壷中、という言葉、たしかにまちがいないな?」
「ああ。叔至にも聞いてくれ。しかし、どういう意味だ?
なんらかの組織の名のようだが」
孔明は、趙雲の問いには直接に答えず、つぶやいた。
「忘れるな、仇讐は壷中にあり」
なんだそれは、と問うと、ようやく孔明は、寝台の上にいる趙雲のほうに目を向けた。
硬く冴えた眼差しであった。
「糜竺どのが、昨日、新野を出る前に、わたしにそう言い残したのだ。
もし自分が新野に戻ってこないことがあれば、この言葉を思い出せ、と仰ってな。
そうしてもうひとつ、わが舅から手紙が来て、同じように、『仇讐は壷中にあり』と訴えてきたのだよ」

そう言って、孔明は、糜竺の言葉と、舅の手紙の話と、その事情を簡単に語った。
淡々と、わかりやすい口調で話すのであるが、それがむしろ、得体の知れない不気味さをふくらませた。
 壷中、というのは、近頃の流行り言葉かと思ったくらいだ。
しかし、あなたの話を総合すると、どうもそうではないらしい。
斐仁の口ぶりでは、主公のお側に、壷中の人間がいる、とのことなのだな」
「糜竺殿のことではあるまいな」
「わからぬ。そもそも、糜竺殿が何のために城を出ねばならなかったのかも、不明だ。
考えねばならない材料が多すぎて、まるでまとまらないな」
と言って、孔明は、ほつれてきた髪を、うるさそうに跳ね除ける。
しばらくそうやって、ほつれた毛をいじっていたが、やがて手を止めて、深くため息をついた。
「だめだ。やはり、樊城へ行かねばなるまい。
樊城に捕らえられている斐仁から情報を引き出すのだ。
朱季南のほうは、主公に相談して、叔至のほかに、捜索の人員を増やす。
阿片に耽溺している人間ならば、どこかの妓楼で匿われている可能性が高いな。
われらは、斐仁を追うぞ」
「われらというからには、おれも含まれている、と見てよいのか?」
 孔明は、なにを今更、というふうに首をかしげてみせる。
「当然ではないか。あなたはわたしの主騎だろう。糜芳殿たちが訴えているように、罪人として引っ立てていくつもりはないぞ。
ちなみに野暮を承知で聞くのだが、明日の朝までに熱は下がるか?」
「もちろんだ」
「よろしい。それでは、主公にご相談してくる。
明日は早いぞ。いまから休んでおくがいい」


   

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