孤月的陣


第二章 雨


趙雲は、一睡もせずに一晩中、新野を歩きまわっていたわけであるが、気になって眠れないことはわかっていたので、さっそく斐仁の屋敷に行くことにした。
いまにも泣き出しそうな、重苦しい雲が空を包んでいる。
雨を歓迎するような、蛙の声が、どこかの水場から聞こえてきた。
おぼえず、つい早足になりながら、趙雲は斐仁の屋敷に着いた。
しかし、待ち受けていたように家令がやってきて、あるじは、熱を出して寝込んでおり、とてもではないが、だれとも会えそうにない、と言う。
しばらくねばったが、家令の態度はかたくなで、とても斐仁に会えそうにない。
登城してきたところを捕まえるしかなさそうだ。

『俺が来ることを予想していたな』
と、趙雲は思った。
斐仁は聡い男だ。空屋敷から逃げ出すおのれの姿を、趙雲に見られていたことに、気づいていたのだ。
そして、趙雲が屋敷に詮議に来ることも予想していた。
『しかし、付け焼刃だぞ』
と、家令がいつまでも門扉から去らないでいる屋敷を振り返り、思った。
たとえ直接、手を下したのではないにしろ、女を見殺しにした、その事実はかわらない。
もし登城してきたら、さっそく斐仁を捕らえて、それなりの処罰を加えねば、と思った。

それにしても、斐仁の屋敷は立派である。
門構えといい、囲いの向こうに見える屋根の大きさといい、とても一介の部将のものとは思えない。
もともとは、斐仁は劉備ではなく、劉表の配下のものであった。劉備が新野に入ったのと合わせて、劉表が劉備に『贈った』兵のひとりであったのだ。

かつての主である劉表の待遇は、それほどに良かったのだろうか。
そう考えて、斐仁とおなじ環境にあって、劉備のもとにやってきた兵卒たちの屋敷を思い出し、否定してみせる。
斐仁だけが特別に金を持っている様子だ。
いまままで気に留めてこなかったことだが、これほど金を持っている男が、どうして自分のところに異動しようと思ったのだろうか。

斐仁は、江夏郡の出身で、劉表の配下であったときに、怪我をして、片足がうまく利かなくなった。
しかし、数字につよいところを買われて、官給品の支給に向いていると志願してきた。そして、官給品の管理も仕事にもっている、趙雲の部隊に異動となったのである。
副将の陳到とならぶほどに特長のない男だが、そういえば、子沢山だと、いつだったか酔ったときに言っていた。
ともかくもの静かで、目立たぬ風貌の男である。
いささか吃音の傾向があり、それゆえか、余計に口が重いようだ。
ひとたび親しくなれば、口を開くのであるが、時にびっくりするほど無表情になるため、何を考えているかわからない男だという向きもある。

ともかく、斐仁は屋敷に籠もっていることはわかった。
これは、あとで捕まえる。

さて、問題は朱季南だ。
新野は、さほど広い都市ではない。
それに、七年もの歳月を新野にて過ごしてきたために、住人も趙雲となじみで、情報をあつめやすい。
どこに隠れているかは知らないが、旅籠であれば、すぐに見つけられる。
妓楼であっても同様だ。
とはいえ、あの風体では目立つし、あまり金がない様子であったから、もしかしたら、昨日のような空き家に潜んでいるのかもしれない。
ともかく、朱季南をつかまえ、風狗、という正体不明の娼妓殺しの下手人の情報を引き出さねばなるまい。
第一、魏の役人を、新野で好き勝手にさせておくわけにはいかない。
たとえ動機が何であれだ。


新野城にたどりつく寸前に、とうとう雲から、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
足を速めて城門へ行くと、なにやら騒ぎが起こっている。
見ると、門衛たちに、農婦らしい女が、掴みかかってなにやら訴えているのだ。
さては、門衛のだれかが野菜でも買って、値段を踏み倒したか、と趙雲は思ったが、そうではない様子だ。
農婦の勢いがあまりにすさまじいため、近隣の町人たちが、雨が降り出したにもかかわらず、つぎつぎと集まってきている。

「お願いでございます、どうか、会わせてやって下さい」
と、老いとやつれのみえる農婦は、門衛のひとりに縋っている。
縋られている門衛は、困り顔で、
「何度も説明したではないか。おまえの息子はここにはおらぬ!」
「そんなはずはございません。あたしの子はたしかに、お殿さまの徴兵だからといって、お役人に連れられて、新野城へ行ったのです。
どうしてお隠しなさるのですか? まさか、息子は死んでしまったのではないでしょうね!」
「ここにいない者が、ここで死ぬわけがなかろうが! ええい、だれか、なんとかしてくれ!」
「お願いでございます! ひと目でよいのです、会わせてください!」

去ろうとする門衛に、なおも農婦がすがろうとする。
門衛は、それを避けようとして、思わず、ひじで、したたかに農婦のアゴを打ってしまった。
農婦が、降りだした雨を受けて、湿りはじめた地面に倒れる。
見物人のひとりが、非難がましく、
「あっ」
と叫んだのをきっかけに、見物人たちは、いっせいに門衛たちに向け、どやしはじめた。


いかん。

「ちょっと、あなた!」
輪のなかに飛び出そうとした趙雲は、つよい勢いで肩を叩かれた。
女の声に振り返り、さらにぎょっとする。
笠をかぶった女であった。
笠におどろいたのではない。女の顔のあった、その位置である。
ずいぶんと、背の高い女であった。
真横を見れば、すぐそこに顔がある。趙雲が八尺であったから、たとえ女が、かかとの高い沓をはいているのだとしても、それに近い身長があるというわけである。
そんな大女、めったにいない。
女の存在感に圧倒されて、趙雲は、しばし口をきけなかった。
身なりは悪くないが、供をつけていない。
とはいえ、町人の妻、という雰囲気でもない。
ずうずうしさを一瞬で感じさせるほど、怖じずに趙雲に接してくるその様子は、どこか玄人女を思わせる。
昨夜のことを思い出し、趙雲は、この女も娼妓ではないか、とふと思った。
笠の下にある顔は白く端正で、ふつうならば、美しいと形容されるものだろう。
だが、女には表情というものがまるでなかった。
背の高さとあいまって、人形のようなその表情のなさが、美しいという言葉を出すことをためらわせるのである。

「あなた、えらい人なのでしょう? ちがって?」
と、女は言った。
無表情なのであるが、さきほどの光景の一部始終を見ていたらしく、どうやら腹を立てているらしい。
「なら、ぼさっと見ていないで、さっさとあの女の人を助けなさい。でないと、ここの人たち、暴動を起こすわよ。
ただでさえ、みんな曹操がいつやってくるか、びくびくしていて、気が立っているのだから」
「そんなことは判っておる」
「そうかしら? さ、ほら、早くお行きなさい!」
女は趙雲の背中をつよく押した。
ずいぶん強引な女だな、と腹を立てつつも、趙雲は騒ぎの輪のなかへ入った。

趙雲が姿をあらわすと、それまで、門衛たちを悪しざまに罵っていた群集が、ぴたりと止んだ。
騒ぎを聞きつけ、城壁から、わらわらと門衛たちが集まってきている。
「みな鎮まれ!」
趙雲が一喝すると、門衛たちは、構えをとき、小雨に打たれながらも騒いでいたひとびとも、一時的にではあるが、ぴたりと鎮まった。
そうして趙雲は、場をおさめると、門衛のひとりに助けられて、起き上がった農婦に尋ねた。
「俺は劉予州にお仕えする男で、名を趙子龍という。そなたの息子が、徴兵されたというのは間違いないか?」
「はい、もちろんでございます。お役人さまは、この子は新野へ連れて行く、とはっきりおっしゃいました。
あたしだけじゃなく、ほかの村の者も、聞いておりましたです。息子の名前は、治平、と申します。どうぞ、会わせてくださいまし」
それを聞いて、さきほど、農婦をひじで跳ね除けてしまった兵卒が、またも苛立った声をあげてさえぎった。
「だから、何度も申しているではないか! おまえの息子がここにいるはずがない」
「おい、なぜそう、決め付けるのだ?」
趙雲が門衛にたずねると、門衛は、むすっ、としたまま答えた。
「しかし趙将軍、この女の息子は、まだ11歳だというのです。此度の徴兵の基準は、18歳以上の男子であったはず」
「でも、お役人さまは、11歳はちょうどよい、といって連れて行きました。
どうして、みんなして、あたしに嘘をつきなさるのですか? 治平は、あたしの大事な一人息子でございます。
お殿さまのためならばと差し出しましたけれど、離れてみると、心配で心配で、夜も眠れませぬ。どうぞ、会わせてくださいまし」

趙雲はぎょっとした。
孔明によって、曹操の南下にそなえ、徴兵がおこなわれたのは事実であるが、その基準は18歳以上の壮健な男子で、長男以外、というものであった。
11歳の少年で、しかも一人息子を、徴兵などするわけがない。

趙雲は、門衛の長に命じて、農婦を城にいれてやり、徴兵を担当した者を、だれでもよいから捕まえて、至急、名簿のなかに、農婦の息子の治平の名前がないか調べさせるように言った。
少年らしい武器を持つ者への憧れで、年齢を詐称して、徴兵に応じた可能性がある。
だが、そうでないとすれば…

徴兵にまぎれて、人買いが出没したのだ。
純朴な農民をだまし、子どもを連れ出して、奴隷商人に売り飛ばす、悪辣な連中だ。
もし人買いが出たのならば、ほかにも被害にあった村があるはずだ。
本格的に降りだした雨に、群集が散り散りになっていくなか、趙雲は、ふと、あの背の高い女の姿を探したが、もうどこにも見つけることはできなかった。

「まさか人買いとは、油断も隙もない世の中ですな、わたくしも、子の銀をしばらく外に出さないことにいたします」
さわぎがひと段落したあと、やれやれ、と言いながら肩をまわし、年寄りのようにおのれの肩を叩きつつ、ひょっこりと現われた副将の陳到が言った。
熱を出した銀の看病ゆえか、目の下に隈ができている。
陳到は趙雲と、ほぼ同年なのだが、ときどきずいぶん老けて見える。

「銀は、もうよいのか」
「おかげさまで、落ち着きました。ところで、昨日の模擬試合は、散々だったようですな」
「言うな、思い出したくない」
「はは、そう落ち込まれませぬよう。ところで、斐仁のやつが休みを取っておりますので、東の蔵の管理を代理でそれがしが受け持つことにいたしました」
ご確認を、と陳到が、東の蔵にある官給品の在庫をしらべた竹簡を差し出す。
「在庫の確認は、ただ在庫を数えるだけの、苦にもならない仕事でありすが、あの蔵にまつわる怪談がはやっておりましょう。
ほら、妓女を取り合った男たちが殺しあって火事になり、いちど蔵は焼けている。そのため、あの蔵には、火傷だらけの幽霊が出る、という。
古参兵どもめ、ひまつぶしに新米をからかったようで、ここにいるのはいやだ、早く出たいとみな騒ぎたてまして、これを鎮めるのに、在庫を数えるよりも時間がかかってしまいました」
「それはご苦労であったな。ところで、斐仁はなぜ、休んでいる?」
「本日は感冒で熱が出たので休む、と斐仁の家の者が連絡して来ましたが。斐仁になにか?」

今日は引き籠もるつもりか? 
それともまさか、逃げ出すつもりではなかろうな。

「叔至は、斐仁と親しかっただろうか。あいつについて、どう思う?」
「はあ、そうですな、金持ちですな」
「今朝、はじめてみたが、ずいぶんと立派な屋敷に住んでおるな」
趙雲が水をむけると、噂好きの陳到は、身を乗り出して、話し出した。
「それだけではございませぬ」
部将のだれともうまくやっており、みなの集まる炉辺では、かならず隣で陳到が餅を焼いている、といわれるほどの噂好き。
陳到は、きらりと目を輝かせ、日ごろの情報収集の成果を趙雲に披露しはじめた。
「やつめ、別宅に妾を囲っておるのです。あちこちから、珍しい華美なものを取り寄せて、妾をまるで宮女のように飾り立てているとか。
うちの女房なども、妾はいやだが、きれいなものに囲まれているのは羨ましい、などと当てこすりを言ってきまして」
「斐仁は、なぜにそんなに金を持っているのだ?」
「さあて、なにせ親しい者がいないに等しい、人付き合いのわるい男ですから、くわしいことは判らないのですが、親戚の財産を譲り受けたという話ですが、まさか?」
「なんだ?」
「斐仁に、横領の疑いがかかっているのでは?」
「そうではない。ただ、気になることがある。叔至、すまぬが、口の固いのを数人選んで、斐仁の屋敷を見張らせてはくれまいか。
斐仁が屋敷を出るようなことがあったら、すぐに報せるように言ってくれ。もちろん、このことは内密に頼む」
「承知いたしました」
陳到はそう言うと、七年間築いてきた信頼の絆をしめすかのように、趙雲からなにも聞こうとせずに、辞去した。
陳到は趙雲を尊敬しており、ほかの武将とは別格にあつかっているので、詮索好きの性分も、抑えられるのである。


そうして、孔明の命令により、主だった、手の空いている役人すべてが集められ、人買いを探すため、新野の周辺の、怪しげな場所…妓楼や闇市など、ありとあらゆる場所を探索することとなった。

趙雲にとっては、都合がよかった。
どこかに隠れている朱季南も、これで探しやすくなる。
そうして、人買いを探しながら、趙雲は朱季南の姿を求めて、新野じゅうを移動した。

雨を避けるためにかぶった笠の、その隙間から、しずくがぽたぽたと垂れて鬱陶しい。
朝のうちから降り始め、しばらく霧雨であったものが、正午を過ぎたあたりから、本降りになってきた。
しばらく馬を走らせていたのだが、ひずめが泥濘にとられてしまうといけないので、途中から馬を降り、見知った新野の街を移動する。
雨の帳がかかっているためか、新野の街はどこか暗く沈んで、よそよそしく感じられる。
その様は、否が応でも、薊の記憶を刺激する。
あのときも、こんなふうに雨が降っていて、息を詰めるようにして街を歩いていた。
 
「む?」
一瞬。
ほんの一瞬であったが、街角を、女の影が過ったように見えた。
女の纏う領巾が、この雨にもかかわらず、揺れて、まるで趙雲を誘っているように見えた。
ばかな。
おのれの空想を哂い、しかし趙雲は、誘われるようにして、ぬかるんだ道の、路地をまがった。
そこは行き止まりになっており、そして、だれかがうずくまっている。

曇天のもと、したたる雨のなか、光るものが目に飛び込んできた。

「朱季南!」
だれかが、ぬかるみに倒れる朱季南に挑みかかり、白刃を振りおろそうとしている。
ぬかるんだ地面に倒れているのは、見まちいようのない、剃り上げられた頭、派手な色合いの着物、形も色もまちまちな装飾品。
趙雲が声をかけても、朱季南は倒れたまま、朱季南は、身動きひとつしなかった。
一方、朱季南の身体に馬乗りになっている男は、趙雲の声に反応し、振りかえった。
その顔に驚愕し、趙雲は思わずさけぶ。
「斐仁!」
笠をかぶっていたが、まちがいない。
陽のない路面のうえで、斐仁は、振りあげた白刃を宙にとどまらせたまま、趙雲のほうを見て、ちいさくうめいた。
「貴様、なぜここに!」
趙雲が駆け寄ると同時に、斐仁は、朱季南の身体から離れた。
つかまえようとしたが、普段の斐仁とは別人のような身のこなしで、素早く背を向ける。

「おまえ、足?」
かつて劉表の元で働いていたときに、怪我をして、片足が利かなくなった。
だからいつも足を引きずっている。
そういう話ではなかったか。
だから、官給品の蔵の整理の担当をまかされていたのだ。

だがいまの斐仁の足は、どこにも問題がなかった。
それどころか…
民家の土壁に追い込んだ。
行き止まりである。
仲間もいない様子だ。
「斐仁」
声をかけると、笠をかぶったままの斐仁は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
特徴がないことが特徴の、どこにでもありそうな細目の顔である。
雨に濡れたせいか、それとも殺しが失敗したせいか、顔色は蒼い。
だが意外なことに、その顔には、なんの表情もなかった。
狼狽も怒りも悲しみもない。目を逸らすわけでもなく、見つめるほうが気おされるほどに、真っすぐにこちらを見ている。

背筋が、ぞくりとした。
どうやら、自分は、七年の長きにわたり、斐仁という人物を、おおきく見誤っていたらしい。
これは平凡な兵卒の顔などではない。
熟練の刺客の、それではないか。
反射的に、剣に手を伸ばした趙雲であるが、わずかな隙を、斐仁は見逃さなかった。
壁に背を向けた姿勢のまま、鳥のようにぱっと飛び上がり、土壁の上に登る。
そうしてそのまま、向こうがわへと消えてしまう。
趙雲は、すぐさま追おうとしたが、朱季南の様子が気にかかった。
振りかえると、朱季南は、いまだにおなじ姿勢でいる。
ちょうど亀のように背中を丸め、うずくまっている。

だが、様子がおかしいのが知れた。
「刺されたか?」
別れ際に、縄標で攻撃されたことを忘れ、趙雲は、かつての旧友のところへと駆け寄る。
激しく打ちかかる雨と、夕闇の迫っている暗さのために、近づかないと、怪我の有無がわからない。
朱季南の身体は震えていた。
寒さのためにしては、震え方が激しすぎる。
肩をつかみ、顔を上げさせると、雨に塗れた顔の、目も口もうつろに開かれて、正気を失っているのが知れた。
趙雲は舌打ちした。怪我や病での震えではない。
阿片だ。
妓楼のなかには、媚薬と称して阿片を客に勧めるところがある。
朱季南が、どこに隠れていたかは知らないが、その阿片を、身体に塗るのではなく、飲用したらしい。
おそらく、妓楼で阿片を飲んでいたところを、人買いを捜にやってきた兵卒たちに踏み込まれ、ここまで逃げてきたにちがいない。
そこを斐仁に襲われたのだ。

莫迦が、と叱咤し、趙雲が肩を貸そうとすると、朱季南は弱弱しく、それを払いのけた。
「おれを屯所へ連れて行く気か。離せ、この犬めが。こんなところにいないで、劉備の横にくっついておれ」
「おれが犬なら、おまえは鼠だろうが」
朱季南は、生気のない笑い声をたつつ、ふらふらとよろめき、そして泥濘に倒れた。
雨がはげしく、その身体を打っているのであるが、気にならないらしい。
昨夜の様子からすれば、別人のように情けない姿であった。
「子龍、あっちへ行け。行ってしまえというのだ、裏切り者め。兄の葬儀だと? おまえ、あれはただの口実だったのだろう?」
ずいぶん昔の話を持ち出すものだ。
「いまさらだな」
「おまえは冷たい。氷雪よりも、もっと冷たい。でなければ、なぜ公孫瓚を見捨てたのだ」
「答えを聞いてどうする。同じ問いを、おまえに返すぞ」
地面に横になったまま、手足をぬかるみに放り投げた姿勢で、朱季南は、うつろに笑う。
「知りたいか。おまえがいなくなったからだ。おれはおまえを真の友と思っていた。兄の葬儀が終わったら、かならず帰ってくるだろうと思っていたのだ。
ところが、どうだ。おまえは一向に帰ってこないではないか。みんなおまえを待っていたのに、おまえはみなを見捨てたのだ。
新野ではずいぶんと評判がよいようだな。義理堅い男だと? おまえは大人しそうな顔をして、保身のためならば、友さえ裏切る男だというのにな」

趙雲は、答えなかった。
事情を知らない朱季南の恨み言である。
雨と共に流してしまえばいい。

朱季南が、うめくように続ける。
「播天流も、おまえを待っていたのだ。なのに、おまえは帰ってこなかった」
「嘘だ」
趙雲の顔色が変わったのを見て、朱季南は暗い笑みを浮かべる。
「嘘なものか。あれは、かならず主公の危機を救うために戻ってくる、そう言っていた。
だからおまえを捜すため、おれを易京の外に出したのだ」
「莫迦な」
 おまえは殺しが巧すぎる。
そう言って、おのれを突き放した男が、ずっと待っていた? 
「今更、後悔してもおそい。公孫瓚は死に、播天流も、あの傷では、もう生きてはおるまい。
つづくのはおれだ。おまえなんぞに助けられては、死んでいった者に申し訳が立たぬ。
せっかく引導を渡してもらえるところであったに、お節介め。さっさと行ってしまえ」
雨が、さらに激しく、大地に降り注ぐ。
大粒の雫のひとつひとつが、肌に痛い。
趙雲は、ろれつの回らない舌で、まだなにかを訴えてくる朱季南を、無言のまま、担ぎ上げた。

手当てが必要だった。
しかし、医者に連れて行くわけにはいかない。
自分の部屋でも駄目だ。目立ちすぎる。
だれか、城外に屋敷を持つ、信用できる人間のところへと考え、浮かんだのはたった一人だけであった。

陳到の屋敷には、主人を待つ妻と子どもたちがいたが、趙雲が病人を抱えて現われると、事情も説明しないうちから、奥の部屋を空けて寝台を作ってくれた。
そうして、家の者に頼んで、陳到に使いをやり、至急、屋敷に戻るようにと伝言させた。
斐仁がなぜ、朱季南を襲ったのか、その理由がわからない。
わからないが、ふたたび、襲ってくる可能性がある。
朱季南が追っているという、娼妓殺しの『風狗』が、斐仁だというのか。

陳到はすぐに屋敷に戻ってきた。
事情を説明している暇がない。
趙雲は、どういうことかと聞きたがる陳到に、あとでかならず説明をするからとなだめ、入れ替わり、外へ出た。
陳到ならば、すくなくとも家族を守りきることができる。
うろたえる陳到から、斐仁の屋敷につけた見張りは、なんの連絡もよこしていないことを聞き出すと、趙雲は、斐仁の姿をもとめ、大きな雨粒から変化して、いまや糸雨が降り注ぐ町へ戻った。

   

つづく
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(C)Hasamino Nakama 2003