孤月的陣


第二章 雨

一

雑草の生い茂る庭の一角に、ひょうたん型の池があり、そのすぐそばの東屋の横に、雨のおかげで地面のやわらかくなっている場所があった。
趙雲は、そこに穴を掘り、女の死体を埋葬してやった。
屋敷の一角に墓を掘るなど、ふつうはしないことであるが、女の身体の破損があまりにひどいために、そうするしかなかったのだ。
それに、東屋の周囲には、むらさき露草や、菖蒲がしずかに花開き、無人となった池のその上には、睡蓮が神秘的な姿を見せている。
ここならば、無残な末路をむかえた女もさびしくないだろう。

「あいかわらず、つめたいのか優しいのか、よくわからん奴だな」
と、朱季南は揶揄するように言った。
朱季南と別れてから、九年の月日が流れた。
 「だが、変わっておらぬ」
朱季南は、なつかしさに目を細める。
朱季南は、あいかわらず、きれいな丸刈で、派手目の、いかにも流浪人、といった旅装である。
片方の耳だけに女物の耳輪をし、槍を持つ手には、それぞれまったく趣味のちがう腕輪が、いくつもはめられている。戦利品、というわけだ。
太い眉と大きな目、中央に鎮座する団子鼻。
容貌は別れたときと変わりがないものの、その表にあらわれる表情は、まるで別人のようであった。
朱季南のいちばんの美点であった、明るさが消えている。
代わりにあるのは、荒野の狼のような、凶悪で暗い光。

「ほんとうに、おまえがやったのではないのだな」
趙雲が重ねてたずねると、朱季南は乾いた笑い声をたてた。
「女を切り刻む趣味はない。信じろ」
「しかし、歌なんぞ歌っていたではないか」
「歌?」
朱季南の顔が、怪訝そうにゆがむ。
おなじ白馬義従として、寝食をともにした仲だ。その人となりはよく知っている。

をついている顔ではない。空耳であったのか?
「いい。それより、播天流は、生きているのか?」
 その名が出ると、季南の口元にあった、嘲笑めいた笑みが消えた。
暗い眼差しに、わずかに陽が灯る。
「播天流か。なつかしいな! あいにくと、あれ以来、俺はあの人と別れたきりだ。消息もわからん」
「そうか…」
「なんだ、意外だな。俺なんぞより、おまえのほうが播天流の気に入りだったではないか」
季南は、公孫瓚に仕えたあとに、趙雲と播天流が決裂したことをしらないのだ。
しらないまま、播天流を助けろといい、知らないまま、別れた。
「だがわからぬ、なぜおまえがこの屋敷に入り込んでいたのだ?」
「風狗を追って、見失った。おまえがいま、埋葬してやった哀れな女は、そいつがやったのだ」
「風狗?」
「許都で、娼妓ばかりを殺しまわった化け物だ。
おれはそいつを追ってここまでやってきたのだ」
「許都だと?」
趙雲は身構えた。
許都といえば、曹操の本拠地。
帝を擁し、さも後見人のように振る舞って、天下に号令をかけている場所である。
うかつであった。最初に朱季南がどこから来たのかを尋ねるべきであった。
しかし、朱季南は、身構えた趙雲を手で制しつつ、笑った。
その笑い方は、さきほどまでの乾いたものではない。
なつかしい、温かみのある笑い方。
その朗らかな笑い声に、殺伐した戦場で、どれほど救われたか知れなかった。
なつかしさに流されそうになり、趙雲はあわてて気を引締めた。
敢然と、闇の中に佇む、盟友をにらみつける。
かつての面影の消えた、暗い目をした朱季南は、その視線を受け止めつつ、答えた。

「おまえと別れたあと、俺はしばらくあちこち放浪してまわっていたのだ。
おまえの噂は聞いていたよ。常山真定の趙家の末子が、劉備のもとへ仕えた、とな。
おまえを頼ろうとも思ったのだが、事情があって、許都に留まることにした。
そこで曹公に仕官した」
趙雲は、ふたたび無言のまま、剣を抜いた。
いかな友であろうと、曹操の密偵というならば、容赦はできない。
その気配に、朱季南は後ずさった。
「聞いてくれ、子龍。二度とおまえに会うことはなかろうと思っていた。
会うとしたら、戦場で、敵と味方としてであろうと、そう思っていた」
「なつかしさで飛んできた、などと言うのではあるまいな」
「まさか。風狗を追ってだ。
子龍、虫の良いことを言うと思うかも知れんが、俺を見逃してはくれぬか。
いまの俺には、天下の趨勢がどうなろうと、どうでもよい。
風狗を捕らえることができたなら、命さえ惜しくないのだ。
おまえが欲しいというのなら、この首だってくれてやる。
しかし、風狗を捕まえるまでは待ってほしいのだ。
やつが新野に逃げたのはまちがいない。
俺は、なんとしてもヤツだけは逃がすわけにはいかんのだ」
「証拠は?」
「ずいぶん疑いぶかくなったのだな。俺の話以外に、俺の証明をする手立てはない」
「ならば、俺と一緒に屯所へ来てくれ。おまえが曹操のところから、劉予州に降る、というのならば話を聞く」
「それはダメだ。おれは許都に戻らねばならぬ」
「なんのために? 新野の情報を、曹操にもたらすためにか?」
「そうではない。だが、いまは言えぬ」

じり、と足を踏み出す。
目を逸らさぬまま、間合いを詰める。
びゅん、と風を切る音が聞こえた。
考えるより早く、趙雲は剣を動かし、飛んできたそれを跳ね除けた。
ぎん、という鋭い音とともに、地面にぼとりと落ちる音。
縄標であった
縄標の剣先が、ほんものの、生きた蛇に、にぶく光りながら、地面を素早く這っていく。
その先には闇がある。自ら意思のあるように、縄標は闇に逃げていく。
趙雲は、縄標を追おうとしたが、いかんせん、暗すぎた。
朱季南の姿はもうなかった。
どうやら、趙雲の隙を生むためだけの攻撃であったらしい。
舌打ちをして周囲を見回すが、すでに影も形もない。
生暖かい風にのって、声だけが聞こえてくる。
「あいかわらず、飛び道具に弱いな。
しかし、それを避けたのはおまえが初めてだ」
「季南!」
「また会おう…」
そうして、朱季南は消えた。


気が付くと、孔明は、文机のまえで手をとめて、固まっていた。
「どうした、書かなくていいのか」
「…書けると思うか?」
ようやく固まっていた口が動いた。
しかし秀麗な面差しは強ばり、口がへの字に曲がっている。そしてその双眸には、はっきり『ばか』とあった。

弁舌の術を学問として学んできた人間にとっては、口下手な武骨者の話など、さぞつまらなく聞こえるにちがいない。
趙雲は、憮然としつつ、言う。
「すまんな、俺は話すのが得意ではない。話があちこちに飛ぶので、まとめるのは大変だろう」
「それはよいのだ。そんなことはどうでもいい。
いまの話、だれにもしていないだろうな?」
していない、と答えると、孔明は、大きくため息をついた。
「いままでは、ここにいる武将のなかでは、あなたがいちばん利巧だと思っていたのに、とんだ見込み違をしていたものだ。
ああ、おどろいた、本当におどろいた」
といいつつ、孔明は筆をおいて、こめかみをさする。
趙雲は尋ねた。
「なにを驚く? 娼妓が殺されたことを、報告しなかったことか?」
「それもある」
「報告しようと考えた。しかし、朱季南の思惑がわからぬし、逃げた斐仁のことも気になっていた。
それに屯所に言ったところで、娼妓がひとり、殺されたというだけでは、警吏も腰を上げない。
もうすこし自分で調べてから、報告しようとしたのだ。
けして、朱季南をかばったわけではないぞ」
「それはわかる」
「ならば、朱季南のことか? 
たしかに許都の役人が新野に入り込んでいたというのはゆゆしき問題だ。
娼妓のことも含めて、もうすこし調べてから報告しようと…」

すると、孔明は、趙雲の言葉をさえぎり、鋭く言った。

「たわけ。それが問題なのだ! 旧友と再会したので判断力が鈍っていたにしても、ずいぶんらしからぬ振る舞いをしたものだな。
朱季南とやらが、曹操の密偵でなかったとしても、敵方の役人であることに間違いはない」
「主公より兵卒をあずかるひとりとして、新野の警備がまだ甘い、という点では反省している」
「ばかもの。わたしが言いたいのはそうではない!
子龍、もし曹操の役人と夜中に二人きりで話をしているところを誰かに見られたら、どういうことになると思う? 
たとえあなたが清廉潔白であったとしても、世間は疑惑の目を向ける。
しかも曹操の南下が近いというので、これほどぴりぴりしている中で、そんなことが発覚したら、ただではすまぬぞ。このばかめ!」
「すまん」
孔明は一気にまくしたてると、水差しから水をついで、一気に飲み干した。
そして、気を鎮めるためだろう。ため息をついて、趙雲のほうに顔を向ける。
「子龍」
「なんだ」
「先に言ったことに付け加える。思いついたことを、思いついたまま、話せ。
ただし、隠し事をしたり、嘘をついたりするな。
そして、わたしに話したことは、けしてほかの誰にも漏らしてはならぬ。主公にもだ」

鋭い真摯な眼差しが、寝台の上に身を起こした趙雲とぶつかった。
銀輪を思わせる冴えた双眸だ。
天下一のうそつきでさえ、これほど澄んだ眼差しを前にしては、嘘をつくこともできなかろう。

「約束だぞ。よいな?」
「主公にも?」
「わたしは、あなたが嫌がることが判っていて、あえて言っているのだ。
敵を騙すには、まず味方から、というであろう?」
「敵、とは曹操か?」
「曹操も含めた、我らを落としいれようとする、すべての者たちだ」
『我ら』。
それはたった二人、言った本人と、自分をふくめての二人だけを指すらしい。
趙雲が黙っていえると、孔明は、尖った声をわずかにやわらげ、尋ねてきた。
「疲れたか? すこし休んでもよいが」
これは虜囚への気遣いなんてものではない。度が過ぎている。
「軍師、なにを考えている?」
趙雲の問いに、孔明は怪訝そうに、柳眉をしかめる。
「なにを、とは?」
取調べというわりには、部屋には孔明以外の人間もなく、表に兵士はいるようだが、趙雲を閉じ込めておくためというよりは、侵入者を警戒している様子である。
だいたい、虜囚をかいがいしく看病し、縄を打つでも、拷問にかけるでもなく、いちばん落ち着く自室で横たわらせ、気遣いながらの取調べなど、あるものか。

趙雲は、気絶する前の、糜芳と劉封たちのことばを覚えていた。
彼らは、趙雲が斐仁を使って、劉埼の腹心を暗殺させたと思っている。
そして、その裏で糸を引いたのは、孔明ではないか、と。
劉備が後見をしている劉埼の対抗馬として、後継に推されているのは劉琮という、劉埼とは腹違いの弟であるが、これの母親は蔡夫人といい、ほかならぬ、孔明の妻の叔母である。
妻の一族を盛りたてて、ひそかに荊州の実権を握ろうとしているのが、孔明ではないか、というわけだ。
だが、事実として、そんなことはない。
なぜ斐仁が劉埼の腹心を殺さなくてはならなかったのか、明確なところは、直属の上役であった趙雲でさえ掴みきれていない状況である。
そうして、軍師という、謀をもっぱらとする役目についていながら、この青年が、名前どおりの明朗な性格ゆえに、裏工作が得意ではないことも、趙雲は知っている。
しかし、もし劉備に、部下の不始末の責任を取れ、と言われたなら、趙雲はそれに従う覚悟も決めていた。
部下の不始末をきちんとつける覚悟が常日頃からあればこそ、上に立てるというものではないか。

「樊城から、伊籍が来ている、といったな。
あんたはこんなところで俺の話を聞いてないで、早いところ伊籍のところなり、劉公子のところなりへ行って、自分が俺と関係がないことを話すべきだ」
「そんなことができるか。あなたはわたしに嘘をつけ、というのか」
「嘘?」 
「わたしとあなたに関係がない、などということが、あるわけがなかろう。
あなたはわたしの主騎であり、わたしはあなたを従える者だ」
「俺をかばうつもりか?」
趙雲がたずねると、孔明は、くだらぬことをぬかすな、と言わんばかりに鼻を鳴らし、堂々と胸を張った。
「当たり前だ。わたしは一方的に守られるつもりはないぞ。恩知らずではないからな」
「恩もなにもあるか。俺は仕事だから、主公のご命令であるから、あんたを守っていただけだ」
「そんなことは知っているとも。だから、なんだ?」
だから…ふつう、軍師とか、人の上に立つ者で要領のいい者、長生きする者は、足を引っ張る者を切り捨てるものだ。
そういった冷酷さがなければ、乱世で生き残ることはむずかしい。
だから、俺を切り捨てろ、と趙雲は言いたい。

言いたいのだが…

孔明の、意外に素直な光をやどす双眸が、趙雲はなにを言い出すのか、と怪訝そうにしている。
いつもならば、年上を年上とも思わず、傲慢な態度でもって接してくるくせに、この素直さはなんなのだ。
さきほどまであった『ばか』の二文字はいつの間にか消えて、いまは『信頼』の二文字にすり替わっている。
妙に気圧される形となり、思わず、趙雲は出しかけたことばを止めた。
いままで、いろんな種類の人間を見て来たと思う。
優しいもの、残酷なもの、気弱なもの、強気なもの、いろいろ。
だが、こんなにわけのわからぬ男は初めてだ。
しかも、わけがわからないのに明瞭なのだから、余計にわけがわからない。
味方だから助ける、庇う。
胸のうちにある理屈は、それだけなのである。
どうしてそこまで単純に物事を据えることができるのか、それが趙雲にはわからない。
もし、俺が本当に、勝手に劉埼の腹心を殺されていたとしたら、この軍師はどうするつもりなのだろうか。
と、思わず趙雲は、ちらりと孔明を見、その目に、あいもかわらず真っすぐな『信頼』を見つけて、目をそらす。
どうもしないな、最後まで信じきって、泣くのだろう。
その姿は、あまりに残酷で、想像することができなかった。
なるべくならば、見たくない姿である。

おれと真逆の世界にいるヤツだな、と趙雲は思う。
人を信じる心も、人を信じさせることのできる説得力も、衆目をあつめることのできるほどの光輝も、自分には備わっていないものだ。
この青年の纏う光は、いままで明るい世界で、愛情をいっぱいに受けて育ってきた人間にだけ許される、特殊なものなのだろうか。
荒れ果てた荒野と、地平に鬼火のようにともる戦火、軍馬のひずめの音、剣戟の音、風に乗って聞こえる断末魔。
天空はつねに曇り、涙も涸れ果てたように沈黙をつづける。
それが、趙雲が幼少から見て来た光景であった。
おそらく、孔明のように恵まれた人間が目にしたことはないだろう。死屍累々の平原を、裸足で歩いたこともある。
以来、死臭は身体の一部となり、けして消えないものとなってしまった。

「子龍、貴殿はまさか、くだらぬ考えを抱いているのではなかろうな?」
沈思をやぶられ、趙雲は顔を上げる。
いつのまにか、孔明は文机から立ち上がり、麻の帳をかきわけて、趙雲の目の前に来ていた。
「このわたしがいるというのに、まさか、劉表に引き渡されることを危ぶんでいるのではなかろうな。
あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。
たとえだれの命令であろうと、罪人のように樊城へ引き立てられるような目には、けして合わせぬ」
そして、言葉のさいごに、にっこりと、華やかな笑みを浮かべる。
「安心するがいい」
安心しなければ、いけないのだろうな、と逆に思わせる言葉であった。

「しかし、風狗、か。本名とも思われぬ。
曹操の膝元の許都で、そんな事件が起きていたとは、初耳だな。
殺されたのが娼妓だから、あまり騒ぎにならなかったのか」
「娼妓だろうと貴人だろうと、ひとに変わりはないだろう」
「理屈ではな。しかし、そう思わぬ者の方が多いのが現実なのだ。哀れなことだ」
「哀れ? だれが?」
「両方だ。娼妓たちも、彼の女たちを貶める者たちも。
好きで身を落としたわけではなろうに。ひどい話ではないか。
食べるために身を売りつづけ、さいごは虫けらのようにばらばらに刻まれて殺されるなど。
風狗の目的はなんであれ、許せるものではない。
物盗りではない、とあなたは思ったのだな? なぜだ? 
殺されたのは、老いて妓楼からも追い出された、老婆といってもおかしくないほどの女だったのだろう?」
「物盗りで、あそこまで惨たらしく人を殺める意味がわからぬ。
たとえ女が抵抗したとしても、あんなふうに、腹をかき回して外に引きずり出すような真似をする意味がどこにある?
戦場で多くの死体を見て来たが、あれほどまでに酷いものは稀だ。
あれにはなんというか、激情が感じられたな」
趙雲にはめずらしい、抽象的な物言いに、孔明が身を乗り出す。
「激情?」
「そうだ。風狗は、女に恨みでも持っているのではないかな。
なんというか、女という存在そのものに、強い執着を感じた」
「恨み、か。娼妓にぼられたか、梅毒でも移されたのかな。
あるいは金子か大事なものを盗られたとか?」
いかにも清雅な顔をして、孔明はぽんぽんと言ってのけた。
「朱季南であれば、なにかわかるかも知れぬと思ったのだが…」


その後、趙雲はひと晩中、朱季南の姿をもとめて夜の新野を歩きまわったが、ついぞその姿をみつけることはできなかった。
 一夜が明け、屯所で軽く朝食を兵士たちと共に摂りながら、これから為さねばならないことを考えた。
 
朱季南。
そして、斐仁。
斐仁は、あの屋敷から逃げ出した。
あの女の客が斐仁だとすると、ふつうに考えれば、娼妓と斐仁との間で諍いになり、斐仁が女を殺してしまったのではないか。
しかし、朱季南の話では、風狗、という者が下手人で、そいつは許都でも数人の娼妓を殺しているという。
一方の斐仁は、趙雲の知る限り、ここ数年は新野を離れたことのない男だ。
一ヶ月と家を空けたことがないし、暇をやった覚えもない。

とすれば…

斐仁は、非番なので娼妓を買い、空屋敷に連れ立って入った。
ところが、そこへ風狗が襲ってきた。
斐仁は、からがら逃げ出すが、女は逃げられず、殺された。
そこへ、風狗を追って、許都からやってきた朱季南があらわれる…
しかしなぜ、斐仁は襲われなければならなかったのか。
娼妓殺しが本命で、斐仁は巻き添えをくらっただけなのか?

趙雲は、一睡もせずに一晩中、新野を歩きまわっていたわけであるが、気になって眠れないことはわかっていたので、さっそく斐仁の屋敷に行くことにした。
いまにも泣き出しそうな重苦しい雲が空を包んでいる。
雨を歓迎するような、蛙の声が、どこかの水場から聞こえてきた。
おぼえず、つい早足になりながら、趙雲は斐仁の屋敷に着いた。
しかし、待ち受けていたように家令がやってきて、あるじは、熱を出して寝込んでおり、とてもではないが、だれとも会えそうにない、と言う。
しばらく粘ったが、家令の態度はかたくなで、とても斐仁に会えそうにない。
登城してきたところを捕まえるしかなさそうだ。
『俺れが来ることを予想していたな』
と、趙雲は思った。
斐仁は聡い男だ。空屋敷から逃げ出すおのれの姿を見られていたことに気づいていたのだ。
そして、趙雲が屋敷に詮議に来ることも予想していた。
『しかし、付け焼刃だぞ』
と、家令がいつまでも門扉から去らないでいる屋敷を振り返り、思った。
たとえ直接、手を下したのではないにしろ、女を見殺しにした、その事実はかわらない。
もし登城してきたら、さっそく斐仁を捕らえて、それなりの処罰を加えねば、と思った。

それにしても、斐仁の屋敷は立派である。
門構えといい、囲いの向こうに見える屋根の大きさといい、とても一介の部将のものとは思えない。
劉表の待遇がそれほどに良かったのだろうか。
とすると、どうして自分のところに異動しようと思ったのだろうか。
斐仁は、趙雲が劉備と共に新野に入ってから、劉表の軍からあらたに、趙雲の部将として参入してきた男である。
江夏郡の出身で、劉表の配下であったときに、怪我をして、片足がうまく利かなくなった。
しかし、数字につよいところを買われて、官給品の支給を引き受けるようになった。
子沢山だと、いつだったか酔ったときに言っていた。
ともかくもの静かで、目立たぬ風貌の男である。
いささか吃音の傾向があり、それゆえか、余計に口が重いようだ。
ひとたび親しくなれば、口を開くのであるが、時にびっくりするほど無表情になるため、何を考えているかわからない男だという向きもある。

ともかく、斐仁はあとで捕まえる。

さて、問題は朱季南だ。
新野はさほど広い都市ではない。
それに、七年もの歳月を新野にて過ごしてきたために、住人も趙雲となじみで、情報をあつめやすい。
どこに隠れているかは知らないが、旅籠であれば、すぐに見つけられる。
妓楼であっても同様だ。
とはいえ、あまり金がない様子であったから、もしかしたら、昨日のような空き家に潜んでいるのかもしれない。
ともかく、朱季南をつかまえ、風狗、という正体不明の娼妓殺しの下手人の情報を引き出さねばなるまい。

新野城にたどりつく寸前に、とうとう雲から、ぽつぽつと大粒の雨が落ちてきた。
足を速めて城門へ行くと、なにやら騒ぎが起こっている。
見ると、門衛たちに、農婦らしい女が、掴みかかってなにやら訴えているのだ。
さては、門衛のだれかが野菜でも買って、値段を踏み倒したか、と趙雲は思ったが、そうではない様子だ。
農婦の勢いがあまりにすさまじいため、近隣の町人たちが、雨が降り出したにもかかわらず、つぎつぎと集まってきている。
「お願いでございます、どうか、会わせてやって下さい」
と、門衛のひとりに縋っている。縋られている門衛は、困り顔で、
「何度も説明したではないか。おまえの息子はここにはおらぬ!」
「そんなはずはございません。あたしの子はたしかに、お殿様の徴兵だからといって、お役人に連れられて、新野城へ行ったのです。
どうしてお隠しなさるのですか? まさか、息子は死んでしまったのではないでしょうね!」
「ここにいない者が、ここで死ぬわけがなかろうが! 
ええい、だれか、なんとかしてくれ!」
「お願いでございます! ひと目でよいのです、会わせてください!」
去ろうとする門衛に、なおも農婦がすがろうとする。
門衛は、それを避けようとして、思わず肘でしたたかに農婦のアゴを打ってしまった。
農婦が、降りだした雨を受けて、湿りはじめた地面に倒れる。
見物人のひとりが、非難がましく、
「あっ」
と叫んだのをきっかけに、見物人たちは、いっせいに門衛たちに向け、どやしはじめた。

いかん。

「ちょっと、あなた!」
輪の中に飛び出そうとした趙雲は、つよい勢いで肩を叩かれた。
女の声に振り返り、さらにぎょっとする。
笠をかぶった女であった。
笠におどろいたのではない。女の顔のあった、その位置である。
ずいぶん背の高い女であった。
真横を見れば、すぐそこに顔がある。
身なりは悪くないが、供をつけていない。
とはいえ、町人の妻、という雰囲気でもない。
ずうずうしさを一瞬で感じさせるほど怖じずに趙雲に接してくるその様子は、玄人女を思わせる。
昨夜のことを思い出し、趙雲は、この女も娼妓ではないか、とふと思った。
笠の下にある顔は白く端正で、ふつうならば、美しいと形容されるものだろう。
だが、女には表情というものがまるでなかった。
背の高さとあいまって、人形のようなその表情のなさが、美しいという言葉を出すことをためらわせるのである。
「あなた、えらい人なのでしょう? ちがって?」
と、女は言った。無表情なのであるが、どうやら腹を立てているらしい。
「なら、ぼさっと見ていないで、さっさとあの女の人を助けなさい。
でないと、ここの人たち、暴動を起こすわよ。
ただでさえ、みんな曹操がいつやってくるか、びくびくしていて、気が立っているのだから」
「そんなことは判っておる」
「そうかしら? さ、ほら、早くお行きなさい!」
女は趙雲の背中をつよく押した。
ずいぶん強引な女だな、と腹を立てつつも、趙雲は騒ぎの輪の中へ入った。
趙雲が姿をあらわすと、それまで、門衛たちを悪しざまに罵っていた群集が、ぴたりと止んだ。
騒ぎを聞きつけ、城壁から、わらわらと門衛たちが集まってきている。
「みな鎮まれ!」
と、趙雲は下知すると、門衛たちに助けられて起き上がった農婦に尋ねた。
「俺は趙子龍だ。そなたの息子が徴兵された、というのは間違いないか?」
「ハイ、もちろんでございます。
お役人様は、新野へ連れて行く、とはっきり申されました。あたしだけじゃなく、ほかの村の者も、聞いておりましたです。
息子の名前は、治平、と申します。どうぞ、会わせてくださいまし」
「だから、何度も申しているではないか! 
おまえの息子がここにいるはずがない」
「おい、なぜそう、決め付けるのだ?」
趙雲が門衛にたずねると、門衛は、むすっ、としたまま答えた。
「しかし趙将軍、この女の息子は、まだ11歳だというのです。
此度の徴兵の基準は、18歳以上の男子であったはず」
「でも、お役人さまは、11歳はちょうどよい、といって連れて行きました。
どうして、みんなして、あたしに嘘をつきなさるのですか?
 治平は、あたしの大事な一人息子でございます。
お殿様のためならばと差し出しましたけれど、離れてみると、心配で心配で、夜も眠れませぬ。どうぞ、会わせてくださいまし」

趙雲はぎょっとした。孔明によって徴兵がおこなわれたのは事実であるが、その基準は18歳以上の壮健な男子で、長男以外、というものであった。
11歳の少年で、しかも一人息子を、徴兵などするわけがない。
趙雲は、門衛の長に命じて、農婦を城にいれてやり、徴兵を担当した者をだれでもよいから捕まえて、至急、名簿のなかに、農婦の息子の治平の名前がないか調べさせるように言った。
少年らしい武器を持つ者への憧れで、年齢を詐称して、徴兵に応じた可能性がある。
だが、そうでないとすれば…
徴兵にまぎれて、人買いが出没したのだ。
純朴な農民をだまし、子どもを連れ出して、奴隷商人に売り飛ばす、悪辣な連中だ。
もし人買いが出たのならば、ほかにも被害にあった村があるはずだ。
本格的に降りだした雨に、群集が散り散りになっていくなか、趙雲は、ふと、あの背の高い女の姿を探したが、もうどこにも見つけることはできなかった。


「姉上かな」
と、孔明が言い出し、趙雲はぎょっとした。
娼妓ではないか、と思ったことは、口に上らせていなかったので、とりあえず気まずい空気にはならずに済んだが…
「人買いが出たという報告を受けた日は、姉上がわたしの身の回りのものを持ってきてくださった日であったから、よく覚えている。
そのときに、あなたに会ったのではないかと思ったのだ。
いかにも、そういうことを言いそうな人であるし」
「龐家に嫁がれている、という姉君か? しかし、ちがうのではないかな…その…」
容姿はまずくない女であったが、似通ったところはなかった。
「あまり、軍師に似ておられなかったが」
すると、孔明は、どこか寂しげな笑みを浮かべて言った。
「わたしは、ほかの兄弟のだれにも似てないのでね。
もしかしたら、姉上であったかもしれぬ」


ともかく、農婦の子どもの治平の名前は、名簿に載っていなかった。
それに、14、5の成長期に入った少年というならばわかるが、11歳の子どもを、いくらなんでも18歳以上と思う人間はいない。

人買いが出た、という話はただちに新野中の役人に伝えられた。
ほかに被害が出ていないか、調べさせたところ、すぐに早馬が戻ってきて、複数の村から、やはり少年たちが、徴兵と偽って連れ出されていたという話を伝えてきた。
劉備も孔明もそれを聞いてはげしく怒り、人買いか、それに類する業者を見つけ次第、すぐに新野城へ引っ張ってくるように、と命じた。
農婦は、気が狂わんばかりに嘆いたが、やがて、村から一緒に出てきた、という行商人が迎えにやってきて、一緒に連れだって村へ帰っていった。
息子は、新野城をあげて探し出す、と約束したが、農婦はあまり信用していないようで、しょんぼりとうなだれたまま、返事をしなかった。

「まさか人買いとは、油断も隙もない世の中ですな、わたくしも、銀をしばらく外に出さないことにいたします」
ひょっこりと現われた陳到が言った。
熱を出した銀の看病ゆえか、目の下に隈ができている。
やれやれ、と言いながら肩を回し、年寄りのように肩を叩く。
陳到は趙雲と、ほぼ同年なのだが、ときどきずいぶん老けて見える。
「銀は、もうよいのか」
「おかげさまで、落ち着きました。
ところで、昨日の模擬試合は、散々だったようですな」
「言うな、思い出したくない」
「はは、そう落ち込まれませぬよう。
ところで、斐仁のやつが休みを取っておりますので、東の蔵の管理を代理でそれがしがいたしました」
ご確認を、と陳到が、東の蔵にある官給品の在庫をしらべた竹簡を差し出す。
「在庫の確認は苦にもならない仕事でありましたが、あの蔵にまつわる怪談がはやっているでしょう。
ほら、妓女を取り合った男たちが殺しあって火事になり、いちど蔵は焼けている。そのため、あの蔵には、火傷だらけの幽霊が出る、という。
古参兵どもめ、ひまつぶしに新米をからかったようで、ここにいるのはいやだ、早く出たいとみな騒ぎたてまして、これを鎮めるのに、在庫を数えるよりも時間がかかってしまいました」
「それはご苦労であったな。ところで、斐仁はなぜ、休んでいる?」
「本日は感冒で熱が出たので休む、と斐仁の家の者が連絡して来ましたが。斐仁になにか?」
今日は引き籠もるつもりか? 
それともまさか、逃げ出すつもりではなかろうな。
「叔至は、斐仁について、どう思う?」
「はあ…そうですな、金持ちですな」
「立派な屋敷に住んでおるな」
「それだけではございませぬ」
部将のだれともうまくやっており、炉辺では、かならず隣で陳到が餅を焼いている、といわれるほどの噂好き。陳到は、きらりと目を輝かせ、日ごろの情報収集の成果を趙雲に疲労する。
「やつめ、別宅に妾を囲っておるのです。あちこちから、珍しい華美なものを取り寄せて、妾をまるで宮女のように飾り立てているとか。うちの女房なども、妾はいやだが、きれいなものに囲まれているのは羨ましい、などと当てこすりを言ってきまして」
「斐仁は、なぜにそんなに金を持っているのだ?」
「さあて、なにせ親しい者がいないに等しい、人付き合いのわるい男ですから、くわしいことは判らないのですが、親戚の財産を譲り受けたという話ですが…まさか?」
「なんだ?」
「斐仁に、横領の疑いがかかっているのでは?」
「そうではない。ただ、気になることがある。
叔至、すまぬが、口の固いのを数人選んで、斐仁の屋敷を見張らせてはくれまいか。斐仁が屋敷を出るようなことがあったら、すぐに報せるように言ってくれ。
もちろん、このことは内密に頼む」
「承知いたしました」
陳到はそう言うと、あれこれ聞きたがらずに、辞去した。
陳到は趙雲を尊敬しており、ほかの部将と同列に考えてはいないので、詮索好きの性分も、抑えられるのである。


そうして、孔明の命令により、主だった将軍すべてが集められ、人買いを探すため、新野の周辺の、怪しげな場所…妓楼や闇市など…をすべて探索することとなった。
趙雲にとっては、都合がよかった。
どこかに隠れている朱季南も、これで探しやすくなる。
そうして、人買いを探しながら、趙雲は朱季南の姿を求めて、新野じゅうを移動した。

   

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