孤月的陣


第二章 雨


折れそうな三日月が、空につくねんとあった。
雨が降ったり止んだりの天気がつづいているために、夜になっても、まといつくような湿気が、そこかしこに残っている。
すでに市場も、ぽつぽつと店じまいする者があらわれて、野菜や魚が売れ残っている店では、安くするからといって客を引き止めている。
趙雲は、竹細工の店へ寄り、竹の花籠と、おもちゃを買った。
明日になったら、陳到の屋敷へ見舞いにいくつもりだった。
花籠は、陳到の妻に、おもちゃは、銀に。
独り身の趙雲にとっては、たまに招かれて口にする陳到の妻の手料理は、ちまたの露店では味わえないごちそうであった。
新野城にも、もちろん腕の良い料理人がいるのだが、孔明の警護、劉備の警護、そして兵士の調練と、忙しいために、ゆっくりと味わっている余裕がない。
よその女房の手料理を喜んでいないで、自分がだれか料理の上手な女を娶ればいいのであるが、趙雲はその気になれないでいる。

それはともかく、店じまいのすすむ夕方の市場のなかで、にぎやかになるのは酒家だ。
つとめを終えた兵士たちや行商人などが、あつまって干し肉などをついばみながら、談笑している。
その動きにあわせるようにして、闇が濃くなるにつれ、周囲に、怪しげな人影がうごめきはじめる。
娼妓たちであった。

孔明が、新野の警備を厳重にしたあたりから、娼妓の数は減ったのであるが、新野にもいくつかある妓楼ですら働くことのできない、いわば、加齢や病、そのほかの理由で妓楼からあぶれた女たちは、仕方なく、単独で、警邏の兵卒の見回りを避けるようにして、町のそこかしこにある闇から、男たちに声をかける。
中原から、戦火に追われるようにしてこの地にたどり着き、家族とも死に別れ、ほかに頼る者もなく、再婚話もまとまらなかった女たちは、身を落として、身体を売るしかない。
それでも、若いうちならば、まだいい。
あわれなのは、年老いた女たちだ。
捕まれば、牢屋につながれるとわかっていて、それでも街に立つことを止めないのは、ほかに食べていく手立てがないからだ。

天からふりそそぐ銀の月光を避けるように、女たちは被り物をして、その歳月にいためけられた肌を隠すようにして、闇にうずくまっている。
兵卒たちもいい加減なもので、夜回りの当番であれば、捕まえて牢屋に連れて行くところを、非番の者は、声をかけられるまま、連れ立って、さらに濃い闇の向こうへと消えていく。
こうした女たちのことは、表立っては俎上にのぼらないのが常であるが、しかし現実に、こうした光景は、どこでも当たり前に目にすることができるものであった。


その夜、趙雲に、覇気がなかったわけではない。
しかし、娼妓たちをみつけても、趙雲は捕らえる気にならなかった。
捕らえたところで、女たちは解放されれば、まぶしい陽光に目を細めつつ、ふたたび通りの暗がりに戻っていき、夜になるとまた同じことを繰り返す。
もしもこの国が、未曾有の大乱に巻き込まれることがなかったら、女たちは貞淑な妻であったかもしれない。
そう考えると、哀れであった。
脳裏には、それなりの家に生まれ、教養も美貌もありながら、若いというのに、まるで売られるように、年老いた父に嫁がねばならなかったのだという、母のことがある。
趙雲の母は、財産家で好色でも知られていた父に、家のために売られたのだ。
娼妓とどこがちがうのかと、いつかぼやいていたことがある。
たった一度のその言葉は、きっと子供に聞かせるつもりのものではなかったかもしれない。
しかし、趙雲の耳には、そのことばは消えることなく、ずっと耳に残りつづけた。
母とおなじように、女たちもまた、乱世の犠牲者なのである。
母もすべてあきらめた、暗い目をしていた。
彼女たちを救える者など、おそらくこの世には存在しない。


物思いにふけりつつ、夜の新野の街を歩いていると、ふと、風に乗って、歌が聞こえた。
思わず趙雲は、足を止めて、歌の聞こえた方向へ頭を向けた。
妓楼のそば、というならば、どこぞの遊び人が、妓女たちとドンちゃん騒ぎをしているのかもしれない。
しかし、趙雲が通りかかったのは、市場からだいぶ離れた、ふつうの人家のならぶ一角であった。

妙な予感がした。

歌の聞こえてきたのは、しんとした一角のなかでも、特に人の気配のない、大きな屋敷からであった。
曹操の南下の知らせが荊州をかけめぐって以来、金に余裕のある者は、家財道具をいっさい持って、安全な地へと疎開している。
この屋敷の一家もそうであるらしい。
闇夜に屋敷の輪郭を浮かばせるそのところどころに、手入れがされていない証拠に、雑草が顔をのぞかせている。
このところの雨で、一気に成長したらしかった。

また、聞こえた。

趙雲は緊張した。
歌声が異常だったからではない。
その歌に、聞き覚えがあったのだ。
荊州の者が歌うそれとは、あきらかにちがう節回し。
素朴で、荒っぽい、それでいて親しみやすい旋律である。
幽州の、ひなびた漁村で生を受けた、播天流が好んで歌っていた。
まさか、と思いつつ、趙雲が屋敷に足を踏み入れようとすると、ちょうど門扉から、人影が飛び出してきた。
ほかならぬ、趙雲の部将の斐仁であった。
闇夜なので、顔色はわからない。
しかし、そのなで肩と、片足を引きずった姿は見間違いようがない。

「斐仁!」

声をかけたが、斐仁らしきその姿は、一度も趙雲のほうを見ずに、そのまま闇へ消えてしまった。
趙雲は、斐仁が飛び出してきた門扉のほうを見た。
開け放たれたまま、門扉はわずかに揺れている。
生暖かい風に、針のような葉をつけた雑草が、さわさわと揺れているのが見えた。
まるで、中へ入れと誘っているようである。

歌はもう、聞こえない。

そのとき趙雲が思ったのは、斐仁が空の屋敷に忍び込み、盗みに入ったのではないか、ということであった。
だが、斐仁というのは、趙雲の部将のなかでも、いちばん真面目な男である。
何を考えているか、いまひとつわからないところがあるが、官給品の支給のいっさいを取り仕切っているだけあり、堅実な性格なのだ。

趙雲は、斐仁が消えた方角を気にしながら、半開きになった門扉をくぐった。
屋敷の玄関も、開け放たれていた。
だが、荒らされている気配はない。
しかし、床は泥で汚れており、どうやら、人が無断で入り込んだのは、一度や二度ではない様子であった。

闇にきらりと光るものがあり、拾い上げると、安物の簪であった。
娼妓たちが、仕事場として、この空いた屋敷を利用しているのではないか。
たしかに、いつ見回り兵が来るかわからない場所で仕事をするよりも、こういった屋敷ならば、安心できるだろう。
客も、そのほうがよろこぶ。

「だれか、いるか?」
声をかけたが、返事はない。
しんと静まりかえった屋敷の中は、無人のようである。
が、なにかがおかしい。この闇は、泥のような重さを持っている。
そして、闇に含まれる、嗅ぎなれた、生臭いにおいは…

音も気配もなかった。

避けられたのは、戦場で研ぎ澄まされた勘ゆえであろう。
流れるような動作でそれを避けると、わずかに闇が揺れ、襲撃者が、うろたえたのがわかった。
「何奴!」
誰何しても、答えはない。
ふたたび、闇が動く。

趙雲は、抜きかけた剣で、相手の襲撃を見事に受けとめると、あいた片方の手で、襲撃者の顔があるとおぼしき位置に、こぶしを見舞った。
手ごたえがあった。
はじめて、襲撃者が、くぐもった声を出した。
まさか、こぶしが飛んでくるとは思わなかったのだろう。
趙雲は、手を休めず、片手でぎりぎりと剣を受け止めたまま、今度は、襲撃者の腹をうった。
が、武装していたらしく、こぶしの腹の部分に、にぶい痛みがかえってきた。
舌打ちすると、襲撃者が剣を引き、つぎの瞬間、風を切って、蹴りを飛ばしてきた。
趙雲は避けきれず、横倒しにされ、壁にぶつかり、そのまま床にくずれた。

趙雲がぶつかった衝撃で、壁のそばにあった、ちいさな飾り棚がこわれた。
剣をつかみなおそうとした手に触れる、なま暖かいものがある。
血だ。
怪我をしたのではない。
ぎょっとしてとなりを見ると、目を見開いた女の顔が、真横にあった。
趙雲は、思わず息を呑んだ。
むわっと、血の臭いが鼻腔をおそう。

ひどいありさまであった。
戦場でさえ、これほどにむごい死体には、めったにお目にかかれない。
女は驚愕に目を見開いたまま、息絶えている。
たったいま切り裂かれたのだとしても、とても生きてはいられないだろう。
腹を真二つに割かれたうえに、臓物のほとんどを取り出されてしまっているのだから。

人の仕業ではない。ひどすぎる。
そう思った途端、趙雲ははげしい怒りにとらわれた。
目の前の男が、この女を、こんなむごい目に遭わせたのか。
物盗りにしても、異常だ。
その異常さ、人を思いやる心の欠如に、趙雲は怒りをおぼえる。
襲撃者がやってくる。
趙雲は、かたわらで崩れた、飾り棚の、足を持った。
そうして、力のまま、それを襲撃者に投げる。
襲撃者は、おどろき、歩みをくずした。
趙雲は、あおむけのまま、地面に這うようにして足を伸ばし、襲撃者の足を、おのれの足でからめ取った。
そして襲撃者をころばせる。

どこかに頭をぶつけたらしく、襲撃者が悲鳴をあげた。
趙雲は俊敏に起きあがると、地面に転ぶ襲撃者の身体に馬乗りになり、その刃をかざした。
容赦はしない。その咽喉元めがけ、刃を振りおろす。
「待て、子龍!」
その声に、趙雲のいっさいが止まった。
聞きおぼえのある声。
ふるえがくるほどのなつかしさがこみあげてくる。
まさか?
「あいかわらず、うまいな、おまえは」
組み敷かれながらも、そういって笑う襲撃者の顔は、公孫瓚にともに仕えていた盟友・朱季南のそれであった。

雑草の生い茂る庭の一角に、ひょうたん型の池があり、そのすぐそばの東屋の横に、雨のおかげで地面のやわらかくなっている場所があった。
趙雲は、そこに穴を掘り、女の死体を埋葬してやった。
屋敷の一角に墓を掘るなど、ふつうはしないことであるが、女の身体の破損があまりにひどいために、そうするしかなかったのだ。
それに、東屋の周囲には、むらさき露草や、菖蒲がしずかに花開き、無人となった池のその上には、睡蓮が神秘的な姿を見せている。
ここならば、無残な末路をむかえた女もさびしくないだろう。

「あいかわらず、つめたいのか優しいのか、よくわからん奴だな」
と、朱季南は揶揄するように言った。
朱季南と別れてから、九年の月日が流れた。
「だが、変わっておらぬ」
朱季南は、なつかしさに目を細める。
朱季南は、あいかわらず、頭をきれいに丸刈にしており、いかにも諸国を渡り歩く食客、といった風情である。
片方の耳だけに女物の耳輪をし、槍を持つ手には、それぞれまったく趣味のちがう腕輪が、いくつもはめられている。これまで仕留めた敵の戦利品、というわけだ。
太い眉と大きな目、中央に鎮座する団子鼻。
その、どこか人を食ったような容貌は、別れたときと変わりがないものの、その表にあらわれる表情には、趙雲の記憶と差があった。
朱季南のいちばんの美点であった、突き抜けるような明るさが消えていた。
もちろん、取り繕ってはいるものの、笑顔でごまかそうとしている表情の裏側にあるのは、荒野の狼のような、凶悪で暗い光である。

「ほんとうに、おまえがやったのではないのだな」
趙雲が重ねてたずねると、朱季南は乾いた笑い声をたてた。
「女を切り刻む趣味はない。信じろ」
「しかし、歌なんぞ歌っていたではないか」
「歌?」
朱季南の顔が、怪訝そうにゆがむ。

おなじ白馬義従として、寝食をともにした仲だ。
その人となりはよく知っている。
嘘をついている顔ではない。空耳であったのか?

「いい。それより、播天流は、生きているのか?」
その名が出ると、季南の口元にあった、嘲笑めいた笑みが消えた。
それまで暗かった眼差しに、わずかに陽が灯る。
「播天流か。なつかしい名を聞いたな! あいにくと、あれ以来、俺はあの人と別れたきりだ。消息もわからん」
「そうか。おまえも知らぬか」
「ということは、おまえまであれきりなのか。意外だな。俺なんぞより、おまえのほうが、播天流の気に入りだったではないか」

季南は、公孫瓚に仕えたあとに、趙雲と播天流が決裂したことをしらないのだ。
しらないまま、播天流を助けろといい、知らないまま、別れた。

「だが、わからぬ、なぜおまえがこの屋敷に入り込んでいたのだ?」
「風狗を追って、見失った。おまえがいま、埋葬してやった哀れな女は、そいつがやったのだ」
「風狗?」
「許都で、娼妓ばかりを殺しまわった化け物だ。おれはそいつを追ってここまでやってきたのだ」
「許都だと?」
趙雲は身構えた。
許都といえば、曹操の本拠地。
帝を擁し、その後見人として、天下人のように振る舞って、号令をかけている場所である。
うかつであった。最初に朱季南がどこから来たのかを、たずねるべきであった。
しかし、朱季南は、身がまえた趙雲を手で制しつつ、笑った。
その笑い方は、さきほどまでの乾いたものではなく、なつかしい、あたたかみのある笑い方であった。
ふと、感傷にとらわれる。
朱季南の、そのほがらかな笑い声に、殺伐した戦場で、どれほど救われたか知れなかった。
過去のこころに引き戻されそうになり、趙雲はあわてて、おのれを叱りつけた。
そうして、敢然と、闇の中にたたずむ、かつての盟友をにらみつける。
むかしの面影の消えた、暗い目をした朱季南は、その視線を受け止めつつ、答えた。

「おまえと別れたあと、俺はしばらくあちこち放浪してまわっていたのだ。
おまえの噂は聞いていたよ。常山真定の趙家の末子が、劉備のもとへ仕えた、とな。
おまえを頼ろうとも思ったのだが、事情があって、許都に留まることにした。
そこで曹公に仕官した」
趙雲は、ふたたび無言のまま、剣を抜いた。
いかにかつて、寝食をともにした友であろうと、おのれが劉備の将である以上、曹操の密偵というならば、容赦はできない。
その気配に、朱季南はあとずさった。
「聞いてくれ、子龍。二度とおまえに会うことはなかろうと思っていた。会うとしたら、戦場で、敵と味方としてであろうと、そう思っていた」
「なつかしさで飛んできた、などと言うのではあるまいな」
「まさか。俺がここに来た理由は、風狗を追ってだ。子龍、虫の良いことを言うと思うかも知れんが、俺を見逃してはくれぬか。
いまの俺には、天下の趨勢がどうなろうと、どうでもよい。風狗を捕らえることができたなら、命さえ惜しくないのだ。おまえが欲しいというのなら、この首だってくれてやる。
しかし、風狗を捕まえるまでは待ってほしいのだ。やつが新野に逃げたのはまちがいない。俺は、なんとしてもヤツだけは逃がすわけにはいかんのだ」
「風狗か。おまえがそいつを追ってきたという、証拠は?」
「ずいぶん疑いぶかくなったのだな。俺の話以外に、俺の証明をする手立ては、ない」
「ならば、俺といっしょに屯所へ来てくれ。おまえが曹操のところから、劉予州に降る、というのならば話を聞く」
「それはダメだ。おれは許都に戻らねばならぬ」
「なんのために? 新野の情報を、曹操にもたらすためにか?」
「そうではない。だが、いまは言えぬ」

じり、と足を踏み出す。
目をそらさぬまま、間合いを詰める。
びゅん、と風を切る音が聞こえた。
考えるより早く、趙雲は剣を動かし、飛んできたそれを跳ね除けた。
ぎん、というするどい音とともに、地面にぼとりと落ちる音。

縄標であった
縄標の剣先が、ほんものの、生きた蛇ように、うろこのごとき刃を月光ににぶくひからせながら、地面を素早く這っていく。
その先には闇がある。
みずから意思のあるように、縄標は闇に逃げていく。


趙雲は、縄標を追おうとしたが、いかんせん、暗すぎた。
朱季南の姿は、もうなかった。
どうやら、趙雲の隙を生むためだけの攻撃であったらしい。
舌打ちをして周囲を見まわすが、すでに影も形もない。
生暖かい風にのって、声だけが聞こえてくる。
「あいかわらず、飛び道具に弱いな。しかし、それを避けたのは、おまえが初めてだ。やはり、おまえはすごいやつだよ」
「季南!」
「また会おうぞ。機会があればな」
そうして、朱季南は消えた。



気が付くと、孔明は、文机のまえで手をとめて、固まっていた。
「どうした、書かなくていいのか」
「…書けると思うか?」
ようやく固まっていた口が動いた。
しかし秀麗な面差しはこわばり、口がへの字に曲がっている。
そして、趙雲を見つめるその双眸には、はっきり『ばか』と書いてあった。
趙雲は思った。
弁舌の術を学問として学んできた人間にとっては、口下手な武骨者の話など、さぞかし、つまらなく聞こえるにちがいない。
趙雲は、憮然としつつ、言う。
「すまんな、俺は話すのが得意ではない。話があちこちに飛ぶので、まとめるのは大変だろう」
「それはよいのだ。あなたの話はよくわかる。いや、分かる分からないの話はどうでもいい。いまの話、だれにもしていないだろうな?」
していない、と答えると、孔明は、大きくため息をついた。
「ああ、おどろいた、本当におどろいた。いままでは、ここにいる武将のなかでは、あなたがいちばん利巧だと思っていたのに、とんだ見込みちがいをしていたものだ」
いいつつ、孔明は筆をおいて、こめかみをさする。
趙雲はたずねた。
「なにを驚く? 娼妓が殺されたことを、報告しなかったことか?」
「それもある」
「報告しようと考えた。しかし、朱季南の思惑がわからぬし、逃げた斐仁のことも気になっていた。
それに屯所に言ったところで、娼妓がひとり、殺されたというだけでは、警吏も腰を上げない。もうすこし自分で調べてから、報告しようとしたのだ。けして、朱季南をかばったわけではないぞ」
「それはわかる」
「ならば、朱季南のことか? たしかに許都の役人が新野に入り込んでいたというのはゆゆしき問題だ。
だからこそ、娼妓のことも含めて、もうすこし調べてから報告しようと」

すると、孔明は、趙雲の言葉をさえぎり、顔をあげると、するどく言った。

「たわけ。それが問題なのだ! 旧友と再会したので判断力がにぶっていたにしても、ずいぶんと、らしからぬ振る舞いをしたものだな。
朱季南とやらが、曹操の密偵でなかったとしても、敵方の役人であることに間違いはない」
「主公より兵卒をあずかるひとりとして、新野の警備がまだ甘い、という点では反省している」
「ばかもの。わたしが言いたいのはそうではない! 子龍、もし曹操の役人と夜中に二人きりで話をしているところを誰かに見られたら、どういうことになると思う? 
たとえあなたが清廉潔白であったとしても、世間は疑惑の目を向ける。
しかも曹操の南下が近いというので、これほどぴりぴりしている中で、そんなことが発覚したら、ただではすまぬぞ。このばかめ!」
「すまん」

怒鳴るだけ怒鳴ると、孔明は、水差しから水をついで、一気に飲み干した。
そして、気を鎮めるためだろう。
ため息をついて、趙雲のほうに顔をむける。
「子龍」
「なんだ」
「先に言ったことにつけくわえる。思いついたことを、思いついたまま、話せ。
ただし、隠し事をしたり、嘘をついたりするな。
そして、わたしに話したことは、けしてほかの誰にも漏らしてはならぬ。主公にもだ」

するどい、真摯な眼差しが、寝台の上に身を起こした趙雲とぶつかった。
冴え冴えとした夜気のうえで見あげる、冬の月を思わせる冴えた双眸だ。
天下一のうそつきでさえ、これほど澄んだ眼差しを前にしては、嘘をつくこともできまい。

「約束だぞ。よいな?」
「主公にも?」
「わたしは、あなたが嫌がることが判っていて、あえて言っているのだ。いいな。だれのためでもない。自分のためだ。そして、われらのためでもある。」
『われら』。
それはたった二人、言った本人と、自分をふくめての二人だけを指すらしい。
趙雲が黙っていると、孔明は、とがっていた声をわずかにやわらげ、たずねてきた。
「疲れたか? すこし休んでもよいが」
そうして趙雲は、ようやく気がついた。
これは虜囚への気遣いなんてものではない。度が過ぎている。
「軍師、なにを考えている?」
趙雲の問いに、孔明は怪訝そうに、柳眉をしかめる。
「なにを、とは?」
取調べというわりには、部屋には孔明以外の人間もなく、表に兵士はいるようだが、趙雲を閉じ込めておくためというよりは、侵入者を警戒している様子である。
だいたい、虜囚をかいがいしく看病し、縄を打つでも、拷問にかけるでもなく、いちばん落ち着く自室で横たわらせ、気遣いながらの取調べなど、あるものか。

趙雲は、気絶する前の、糜芳と劉封たちのことばを、朦朧とした意識のなかでも、ちゃんと聞き取っていた。
彼らは、趙雲が斐仁を使って、劉埼の腹心を暗殺させたと思っている。
そして、その裏で糸を引いたのは、孔明ではないか、と。

いま、樊城の劉家では、お家騒動が起こっているのだ。
病が篤いという州牧の劉表には、ふたりの子がある。
劉備が後見をしている劉埼は長男である。
これの対抗馬として、後継に推されているのは、劉琮という、劉埼とは腹違いの弟である。
劉琮は、まだ幼いといってもいい少年なのであるが、これの母親は蔡夫人といい、ほかならぬ、孔明の妻の叔母であるのだ。
つまり、糜芳と劉封たちは、妻の一族を盛りたてて、ひそかに荊州の実権を握ろうとしているのが、孔明ではないか、と勘繰っているというわけだ。

だが、事実として、そんなことはない。
なぜ斐仁が劉埼の腹心を殺さなくてはならなかったのか、明確なところは、直属の上役であった趙雲でさえ掴みきれていない状況である。
そうして、ここがおそらく、他者にはわかりづらいところであろうが、軍師という、謀をもっぱらとする役目についていながらも、諸葛亮というこの青年、厄介なことに、名前どおりの明朗な性格ゆえに、裏工作が得意ではない。
じつは軍師という役職には向いていない青年なのである。

ただし、たとえ身が潔白であったとしても、趙雲は、もし劉備に、部下の不始末の責任を取れ、と言われたなら、それに従う覚悟も決めていた。
部下の不始末をきちんとつける覚悟が、常日頃からあればこそ、上に立てるというものではないか。
そのあたりのことは、将として、趙雲はきちんとわきまえている。

「樊城から、伊機伯が来ている、といったな。
あんたはこんなところで俺の話を聞いてないで、早いところ伊機伯のところなり、劉公子のところなりへ行って、自分が俺と関係がないことを話すべきじゃないのか」
とたん、孔明は片方の手で筆をもてあそびながら、鼻を鳴らしていった。
「そんなことができるか。あなたはわたしに嘘をつけ、というのか」
「嘘?」 
「わたしとあなたに関係がない、などということが、あるわけがなかろう。あなたはわたしの主騎であり、わたしはあなたを従える者だ」
趙雲はぴんときた。
「俺をかばうつもりか?」
たずねると、孔明は、くだらぬことをぬかすな、と言わんばかりにふたたび鼻を鳴らし、堂々と胸を張った。
「当たり前だ。わたしは一方的に守られるつもりはないぞ。恩知らずではないからな」
「恩もなにもあるか。俺は仕事だから、主公のご命令であるから、あんたを守っていただけだ」
「そんなことは知っているとも。だから、なんだ?」
なんだと逆に問われて、趙雲はことばを詰まらせた。
だから、ふつう、軍師とか、人の上に立つ者で要領のいい者、長生きする者は、足を引っ張る者を切り捨てるものだ。
そういった冷酷さがなければ、乱世で生き残ることはむずかしい。
だから、ほかの文官はそうするであろうから、あんたも俺を切り捨てろ、と趙雲は言いたい。

言いたいのだが…

孔明の、意外に素直な光をやどす双眸が、趙雲はなにを言い出すのか、と怪訝そうにしている。
いつもならば、年上を年上とも思わず、傲慢な態度でもって接してくるくせに、今日にかぎって、この素直さはなんなのだ。
さきほどまで双眸にあった『ばか』の二文字はいつの間にか消えていて、いまは『信頼』の二文字にすり替わっている。
妙に気圧される形となり、思わず、趙雲は出しかけたことばを止めた。

いままで、いろんな種類の人間を見て来たと思う。
優しいもの、残酷なもの、気弱なもの、強気なもの、いろいろ。
だが、こんなにわけのわからぬ青年は初めてだ。
しかも、わけがわからないのに明瞭なのだから、余計にわけがわからない。
味方だから助ける、かばう。
胸のうちにある理屈は、それだけなのである。
どうしてそこまで単純に物事を据えることができるのか、どう生まれ育てば、こんな世の中に、これほど素直に成長できるというのかすら、理解ができなかった。

もし、俺が本当に、勝手に劉埼の腹心を殺していたとしたら、この軍師はどうするつもりなのだろうか。
思わず趙雲は、ちらりと孔明を見、その目に、あいもかわらず真っすぐな『信頼』を見つけて、目をそらす。

どうもしないな、最後まで信じきって、泣くのだろう。
その姿は、あまりに残酷で、想像することができなかった。
なるべくならば、見たくない姿である。
俺と真逆の世界に心があるヤツだな、と趙雲は思う。
人を信じる心も、人を信じさせることのできる説得力も、衆目をあつめることのできるほどの光輝も、自分には備わっていないものだ。
この青年のまとう光は、いままで明るい世界で、愛情をいっぱいに受けて育ってきた人間にだけ許される、特殊なものなのだろうか。

荒れ果てた平原と、地平にともりつづける鬼火、軍馬のひずめの音、剣戟の音、風に乗って聞こえる断末魔。
天空はつねにくもり、なみだも涸れ果てたように沈黙をつづける。
それが、趙雲が幼少から見てきた光景であった。
おそらく、孔明のようにめぐまれた人間が目にしたことはないだろう。死屍累々の平原を、裸足で歩いたこともある。
以来、死臭は身体の一部となり、けして消えないものとなってしまった。

「子龍、貴殿はまさか、くだらぬ考えを抱いているのではなかろうな?」
沈思をやぶられ、趙雲は顔をあげる。
いつのまにか、孔明は文机から立ち上がり、麻の帳をかきわけて、趙雲の目の前に来ていた。
「このわたしがいるというのに、まさか、劉州牧に引き渡されることを危ぶんでいるのではなかろうな。
あなたは、ほかのだれでもない、この孔明の主騎なのだ。たとえだれの命令であろうと、罪人のように樊城へ引き立てられるような目には、けしてあわせぬ」
そして、言葉のさいごに、にっこりと、華やかな笑みを浮かべる。
「安心するがいい」
安心しなければ、いけないのだろうな、と逆に思わせる言葉であった。

「しかし、風狗、か。本名とも思われぬ。曹操の膝元の許都で、そんな事件が起きていたとは、初耳だな。
殺されたのが娼妓だから、あまり騒ぎにならなかったのか」
孔明のことばに、反発をおぼえて趙雲はいった。
「娼妓だろうと貴人だろうと、ひとに変わりはないだろう」
「理屈ではな。しかし、そう思わぬ者の方が多いのが現実なのだ。哀れなことだ」
「哀れ? だれが?」
「両方だ。娼妓たちも、彼の女たちを貶める者たちも。
好きで身を落としたわけではなろうに。ひどい話ではないか。
食べるために身を売りつづけ、さいごは虫けらのようにばらばらに刻まれて殺されるなど。
風狗の目的はなんであれ、許せるものではない。物盗りではない、とあなたは思ったのだな? なぜだ? 殺されたのは、老いて妓楼からも追い出された、老婆といってもおかしくないほどの女だったのだろう?」
「物盗りで、あそこまでむごたらしく、人を殺める意味がわからぬ。
たとえ女が抵抗したとしても、あんなふうに、腹をかきまわして、外に引きずり出すような真似をする意味がどこにある?
戦場で多くの死体を見て来たが、あれほどまでにひどいものは稀だ。あれにはなんというか、激情が感じられたな」
趙雲にはめずらしい、抽象的な物言いに、孔明が身を乗り出す。
「激情?」
「そうだ。風狗は、女に恨みでも持っているのではないかな。なんというか、女という存在そのものに、強い執着というか、執着をとおりすぎた、憎悪を感じた」
「恨み、か。娼妓にぼられたか、性毒でも移されたのかな。あるいは金子か大事なものを盗られたとか?」
いかにも清雅な顔をして、孔明は過激なことばを、ぽんぽんと言ってのけた。
「朱季南であれば、なにかわかるかも知れぬと思ったのだが」



その後、趙雲はひと晩中、朱季南の姿をもとめて夜の新野を歩きまわったが、ついぞその姿をみつけることはできなかった。
一夜が明け、屯所で軽く朝食を兵士たちとともに摂りながら、熱くなっている頭を冷ましつつ、これから為さねばならないことを考えた。
 
朱季南。
そして、斐仁。
斐仁は、あの屋敷から逃げ出した。
あの女の客が斐仁だとすると、娼妓と斐仁とのあいだでなにか、諍いになり、斐仁が女を殺してしまったのではないかと、ふつうに考えられる。
しかし、朱季南の話では、風狗、という者が下手人で、そいつは許都でも数人の娼妓を殺しているという。
一方の斐仁は、趙雲の知る限り、ここ数年は新野を離れたことのない男だ。
一ヶ月と家を空けたことがないし、暇をやった覚えもない。

とすれば。

斐仁は、非番なので、娼妓を買い、空屋敷に連れだって入った。
ところが、そこへ風狗が、いかなる理由か、襲ってきた。
斐仁は、からがら逃げ出すが、女は逃げられず、殺された。
そこへ、風狗を追って、許都からやってきた朱季南があらわれる。ついで、歌声につられた趙雲があらわれ、これと戦うことになった。

しかしなぜ、斐仁は、そして娼妓が襲われなければならなかったのか。
娼妓殺しが本命で、斐仁は巻き添えをくらっただけなのか?

   

つづく
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(C)Hasamino Nakama 2003