孤月的陣
五度目である。
なにが、というと、調練場で、新米の兵士たちの面倒をみている陳到が、持ち場を離れた数である。
おなじく、新野城の正門にむかってひらいた門に、いかにも申し訳なさそうに、ちんまりと、陳家の老爺が立ったのも、五度目であった。
さすがに五度目となると捨てて置けない。
趙雲は、兵士の調練をつづけるようにほかの部将に伝えると、蒼い顔をして、ひそひそと話をつづけている陳到のほうへと向かった。
陳到は、めったなことでは動じない男なのであるが、その日ばかりは思わしげな顔をして、猫背の老爺の話を聞いている。
趙雲がすぐそばに寄っても、それと気づかないほどに、陳到は老爺の話に聞き入っていた。
「叔至(しゅくし)、どうかしたのか」
と、たずねると、はじめて陳到は、すぐ真うしろに、趙雲がいることに気づいたようであった。
これとて、まったくらしくない振る舞いである。
陳到は、趙雲の姿を見ると、気まずそうに顔をしかめた。
趙雲は、新野城にあまたいる武人のなかでも、武芸において自分と肩を並べることができるのは、この陳到だけであると見做していた。
それだけに、ふだんは鋭敏な陳到が、こうもうわのそらなのは気にかかる。
そういえば、陳到は、演武の合図の銅鑼を鳴らす係をうけもっていたのだが、何度もへんなところでばあん、と叩いてみたり、そうかとおもえば、見当ちがいのところを思いきり叩いて、みなの失笑を買ったりしていた。
武芸の才は慄然とするほどにすばらしいものを持っているにもかかわらず、陳到という男は、地味であった。
容姿も、垢抜けない。体つきはがっしりしているものの、いかにも人の良さそうな、優しげな顔をしているので、鎧を脱いでしまえば、武人と思われることもすくない。
くわえて、ゆったりした喋り方をし、歩き方も、のんびりしていた。
だから、戦場での陳到を知らない者は、彼がまさか天下でも一、二をあらそうほどの技量と、天賦の勘の持ち主であろうとは思わない。
本人も、そのことを喧伝しない。
そもそも、出世欲とか、権勢欲にまるで縁のない男なのである。
もともと仕事が好きではない男だ。
できることならば、毎日、日の出と共に起きて顔を洗い、妻子に見送られてお城勤めなどするよりは、日なが一日、子どもと一緒に遊んでいることを望む。
たとえだれかが大金をこの男に贈ったとしても、けして飲み食いに使ったり、女遊びに使ったり、あるいはぜいたく品に使ったりせずに、子どもたちが大きくなるときに使うだろうと考えて、大事に大事に取っておく。
そういう男である。
普段はおのおの、得意なところをみつけ、戦になるとあつまって、一仕事しにやってくる、といった連中の多い趙雲の部将のなかでも、陳到は際立っておのれの領域を守ることにこだわる男であった。
「どうした」
重ねて問うと、陳到は、観念したのか、小声で言った。
「子が、昨晩から熱をだして寝込んでいるのです」
「む」
陳到は、かしこまって、頭を下げる。
「勤めの終わらぬうちに、申し訳ございませぬ。ただちに持ち場に戻ります。ご苦労であった、おまえも帰れ」
と、陳到は、門のところで、おろおろと、身の置き所なく、突っ立っていた老爺に言った。
趙雲も、その言葉にうなずく。
「うむ、調練はもうよい。おまえはじいやと共に、屋敷に戻るといい」
陳到は、ぽかんとした顔をして、ひとつ頭背の高い趙雲をみあげた。
「わたくしも、ですか?」
「そうだ。屋敷では女房どのが心細い思いをしていることであろう。早く帰って、看病をてつだってやれ」
「しかし、午後からは、糜子方(糜芳)どのの部隊と、模擬試合があったはず。たしか、弓試合でありましたな」
「ほかの者を代わりに出す」
「しかし子龍殿、弓は苦手でございましょう」
「そうだな」
悪びれずに趙雲は答える。事実だからだ。しかし陳到は食い下がる。
「みなも、わたくしに期待しております。糜子方どのとは、子龍殿もいろいろ因縁がございましょう。
おなじく、われら部将にも因縁がございます。やつらに負けるわけにはまいりません。
兄君の糜子仲さまはご立派であられるのに、弟のあのお方は、器量が狭い。子龍殿と張り合ったところで、よいことなどひとつもないのに」
陳到は、嘆かわしい、と言いながら、首を横に振る。
おれを買い被りすぎだ、と趙雲がたしなめると、そうではありませぬ、と陳到は答えた。
「つまりですな、子龍殿はいつも正しいお方だからです」
「なんだ、それは」
「自覚がない、というところが恐ろしいところでございますな。
子龍殿は、いつも間違われない。失敗はあっても、道理にはずれたことはけしてなさらない。いつも、要求されたとおりのことを完璧にこなす。
当たり前のことのようですが、じつはすごいことですぞ。そういう『正しい者』に敵対する者は、自然と『間違った者』になるでしょう?
わたくしはそう言いたいのですよ」
わかるような、わからないような陳到のことばに、趙雲はとりあえず、そうか、と答えた。
…世間では、どうやらおれは、完璧というものに近いところにいる人間だと思われているらしい。
いつも正しい? たいした誤解ではないか。もし本当にそうであるならば、どうしておれは、あのとき播天流に付いて行ったりしたのだろう。
そして、逃げてきたのか。
「くだらん面子のために、子どもを犠牲にするのか」
「ただの熱でございます。銀のやつ、昨日は久方ぶりに晴れたものですから、よろこんで虫取りにいったのです。
ところが夕立にあいまして、大人しく家に帰ってくればよいものを、それでもびしょぬれになったまま、野山を駆け回っていたので、熱をだしたのです」
銀、というのは、陳夫婦待望の、第一子である。やんちゃな子で、いつも裸足であちこち駆け回っている。
「おれは子どもを持ったことがないが、子どもというのは、そういうものではないのかな。
ともかく、無理をするな。たとえおまえが残ったところで、そのようにうわの空では、勝てるものも勝てない。むしろおまえの評判を下げるだけではないか」
陳到は、趙雲のことばに、「でも」と「しかし」を繰り返しながら、こころの中で、糜芳への敵愾心と、子どもを心配する心を秤にかけているようであった。
当然、秤は子どものほうに傾いている。
子は、親に孝を尽くすもの、親の務めのさわりになるような子どもは不忠者であり、不忠者に、奴婢のようにふりまわされる親など、愚かもののきわみである…それが世間一般の考え方である。
しかし陳到の場合、口では趙雲の部将のひとりとして、糜芳への敵愾心に燃えるところを訴えているが、実際のところ、糜芳のことなど、蟻ほどにちっぽけなものとしか思っていないにちがいない。
陳到にとっては、家というのは、それを守るためならば、たとえ天下を敵に回してもおそろしくないほど、大切なものなのだ。
趙雲も、陳到のそういう性格を見抜いている。
「やせ我慢は無用だ。みなにはおれから説明しておく。不平を言う者はおるまいよ。
ではな、叔至、子どもの熱が下がったら会おう」
と、問答無用で趙雲が背中を向けると、陳到の声が追いかけてきた。
「お気遣いはありがたいのですが、しかし子龍殿、わたしのせいで、また悪い噂をたてられますぞ」
「それこそ気遣いは無用だな。最近は、あの軍師も、新野に慣れてくれたおかげで、おとなしい。静かなものだ」
「たしかに、このところ無断外出もなさらぬ様子で」
「軍師のことにかこつけて、おれの噂を流す奴は、いつでもだれかのことを言っていなければ気が休まらない。
そういう輩は、ゴマ粒ほどの汚点をも見逃さずに、わめきたてるものではないかな。おまえのことでなくても、どうせほかのことで言ってくる。気にするな」
「ですが、こたびの新米兵の割り当てで、子龍殿ばかりが、玄人の精鋭をまかされていると、ほかの方々が不満を抱いているのは事実です。
そのうえに、たかが子どもが熱をだした程度で、わたくしを屋敷に帰しては、不満に軽蔑を上乗せするようなものでございますぞ」
「たかが、ではない。銀は体のよわい子だ。それにおまえをだれより慕っている。帰って顔を見せてやれば、すぐに回復するだろう。
第一、おまえとて、銀が心配でなにも手につかない、というのが本当のところだろうが」
「それはそうでございますが…」
「ならば行け。おまえが案じるべきはおれの身ではなく、子どもの身だ」
陳到は、まだぐずぐずと言っていたが、やがて、説き伏せられる形で辞去した。
が、門を一歩出るが早いか、脱兎の如き足の速さをみせ、猛然と屋敷へ走っていくうしろ姿が見えた。
老爺は、見送る趙雲のほうに、何度も何度も振り返っては、そのたびに、ぺこり、ぺこりと頭をさげて、亀のようにゆっくりと帰っていった。
その後の糜芳との試合の結果は、散々なものであった。
「あの一族は、弓馬にかけては、右に出るものがいない。昔からそうだ」
意外な言葉に、趙雲は、寝台の、薄布の帳のむこうにいる孔明に顔を向けた。
「知っているのか」
「おなじ徐州だからな」
「では、新野に来るまえに、糜一族と面識があったのでは?」
「ないな。もしかしたら、父や叔父はあったかもしれない」
そのあとに、孔明はぽつりとちいさく、いまは確かめようがないけれど、とつぶやいた。
趙雲は、それはどういう意味か、と詮議しようとして、やめた。
いつもあきれるほどに明るいその横顔が、そのときだけは、暗く重たいものに見えたからだ。
部屋の翳が落ちていただけではあるまい。
しばしの沈黙。
趙雲は、気を使って黙っていたのだが、孔明は、ふと、おのれがなぜ、いままで一度も足を踏み入れたことのない、自分の主騎の部屋にいるのかを思い出したらしい。
「わたしのことはよいのだ」
と、だれに言うでもなく言い訳して、趙雲のほうに顔を向けた。
「陳到の子ども好きはわたしも知っている。あれは子どものことを語らせたら、一日中、しゃべることのできる男だぞ。それが斐仁とどういう関係があるのだ」
「それはこれからだ」
趙雲は、軽く息を吐くと、ふたたび語りはじめた。
その日の趙雲は、とことん、ついていなかったと言っていいだろう。
陳到が抜けた代わりに、趙雲みずから弓を執って、模擬試合に出たのであるが、いつもの冴えはどこへやら。
あきれるほどに的をはずし、おおいにみなをがっかりさせた。
対する糜芳は馬にはげしく揺られながらも、まさに正射必中。
射った矢はまるで吸い込まれるように的に中り、みなをおどろかせた。
「いまなら、おまえを針ねずみにできるかもな」
と、糜芳は言ったが、機会さえあれば、そうしかねない、妙に鋭い敵意が肌に痛い。
顔は笑っていても、目が本気なのである。
そもそも、糜芳とは、はじめから仲がわるかったわけではない。
むしろ、良かったのだ。
それがどうしてこうなってしまったか、趙雲には思い当たるフシがまるでないのだから、解決のしようがない。
陳到らが言うことには、趙雲が劉備の配下にむかえられてはじめのうちは、糜芳も兄貴面をして威張っていられたのだが、そのうち、趙雲のほうが、腕が立つこと、若くてきれいで女にもてること、学識もあり、家柄も悪くないこと、なにより主公に気に入られていることなどなど、糜芳の嫉妬心を刺激したからにちがいない、という。
まさに、昨日まで朗らかに笑っていた相手が、一晩明けたら、がらりと変わって、蛇蝎のごとくおのれを嫌うようになっていたのだ。
なにかをした、というわけではないらしい。
「今宵は、叔至が夜警の番でありましたが、如何いたしますか?」
ぼんやりしていると、部将のひとりが声をかけてきた。
模擬試合の余韻が残っているせいか、つんけんした態度である。
「それもおれがやろう」
趙雲が答えると、部将は、皆に伝えます、といって辞去しようとした。
その背中に、趙雲は声をかける。
「ついでに、みなに、すまぬ、と伝えてくれ。おれは、どうしても弓というものと相性がわるいのだ」
趙雲がさびしげに笑ってみせると、部将は、たちまち剣呑な表情をひっこめて、むしろ悲しそうに言った。
「だれしも得手不得手がございます。弓以外の子龍さまの腕のすばらしさは、みなも知っております。
まだうるさく言う者は、それがしが処罰しておきまする」
「処罰はよい。憤りがあって当然のことなのだ。みなに、おれを悪い手本として、調練にはげめ、と伝えてくれ」
部将は、もう一度、深々と礼を取ると、場を辞した。
むかしは、弓は嫌いではなかった。
むしろ、得意であったと言っていい。
弓は、引いて、射れば、遠方にいる敵も倒すことが出来たし、なにより、返り血を浴びないで済む。
それに、剣や槍とちがって、戦が終わったあとに、刃に付いた人間の脂を取らねばならない面倒がない。
狙いを定めて、弓を引き、射る。
風を振るわせる、大きな蜂の羽音のような音がして、敵は倒れる。
ひとり、またひとり…おもしろいほどに、ばたばたと人が倒れていく。
敵が死ねば、それだけ味方が助かる。これは、よいことなのだ。
事実、公孫瓚の配下に加わってから、趙雲の武芸の才はすぐに認められ、選り抜きの精鋭のあつまりである、白馬義従の一員に抜擢された。
白馬にまたがった趙雲の姿は、神秘的なほどに凛々しく、馬上から放たれる矢は百発百中、というので、異民族は特におそれて、やがて、その姿を見せただけで背中をむけて逃げ出すようになった。
趙雲は、その背中にも容赦をしなかった。
弓をつがえ、ぴんとはった弦に矢をつがえる。
狙いを定めて、射る。
またひとり倒れた。どうやら、敵の大将格であったらしい。
勇猛果敢な異民族の戦士たちは、たちまち総崩れとなり、あわてふためき、逃げていく。馬から転げ落ちる者もいる。
もっと、逃げろ。行ってしまえ。
そう思いながら、趙雲はふたたび、矢を射る。最後まで、漢族と戦うのだと、粘っていた一角のかしらが、胸に突き刺さった矢におどろき、両目をカッ、と開いたまま、馬上から地上へ落ちた。
趙雲が出る戦は、負けることがない、というので、仲間たちの評価も上がっていった。
趙雲は、白馬義従のなかでも、最年少であったが、目上の者から尊敬のまなざしで見られることもあった。
戦場はいい。自分の価値が手に取るようにわかる。
常山真定の実家で、ほかの兄弟たちに遠慮をしながら生活していたのが嘘のようであった。
徴兵されるまえは、おまえのように肌が生白くて、女みたいなきれいな顔をしているのは、宦官みたいな目に遭わされると、兄弟のひとりに脅されたが、そんな危険もなかった。
趙雲が、だれもが瞠目するほどに、その才能を開花させていなければ、もしかしたら、そういう事もあったかもしれないが、いまや公孫瓚の軍勢のなかで、その名を知らぬものはない、とまでなった少年に、不埒なことを仕掛けてくる者はおらず、戦場は、趙雲にとっては居心地のよい場所であった。
すくなくとも、常山真定の屋敷で、母親ちがいの兄弟たちに遠慮しながら、黄巾賊の襲撃に怯えているよりはずっといい。
あるとき、播天流があらわれた。
播天流は、公孫瓚の意をうけて、中原に埋もれた人材をさがす旅をくりかえしている男だ。
痩せぎすで、ていねいに手入れのされた泥鰌髯をしている。
趙雲にとっては、袁紹のところで死にかけていたところを、助けてくれた、いわば命の恩人だ。
もしも播天流に拾われていなかったら、趙雲はだれにも名前を知られることなく、干からびるようにして死んでいたかもしれない。
それほどに、袁紹の軍の新兵にたいするしごきは苛烈であった。
播天流は、いまの自分をどう見てくれるだろうか。
武将として、認められるようになった、自分の姿をみてほしい。
播天流が姿をあらわしたとき、まるで幼子が父に駆け寄るように、慕わしさを満面にうかべて駆け寄った趙雲であるが、播天流の顔は固かった。
「子龍、おまえ、危ういぞ」
と、開口一番に、播天流は言った。
趙雲は、わけがわからない。
おそらく、播天流に見出され、公孫瓚のもとに集まった若者のなかでは、趙雲は抜きんでている。
誉められこそすれ、危うい、などと言われるわけがない。
ぽかんとしていると、播天流はつづけて言った。
「おまえは殺しが巧(うま)すぎる。殺しが巧いのと、立派な武人であることはちがうぞ」
「殺しが巧い?」
「おまえは弓で人を殺めるときに、あきらかに楽しんでいる」
楽しんでいる。そういわれて、背中がぞくりとした。
順風満帆なときであっても、不安感というのはどこかでこずんでいるものだ。
播天流のことばは、まさに隠れていた暗い感情を、いきなり陽のあたる場所へ引き出してみせた。
「そんなことはない。俺はいつだって、早く終わればいいと思っている」
しかし、播天流は、趙雲のことばをつよく否定した。
「おのれの本性を偽るな。おまえは殺しが楽しいのだ。
先の戦、俺も参加していたのだ。気づかなかったであろう?
戦場でのおまえは、まるで笑いながら馬を駆っているようであったぞ」
「嘘だ! おなじ場所にいたのなら、俺がどれだけ怯えていたか、見ていたはずだ。
俺だって、敵を前にしたら、怖くてたまらない。それでも戦うのは、負けたら死ぬだけだからだ。
敵を倒して、なにが悪い。
それじゃあ、あんたは、敵を殺さず、味方も守れ、とでもいうのか?」
「いいや、子龍。たしかにおまえは、始めは怯えていたかもしれぬ。
しかし、恐怖をはるかに上回る、高揚感を感じたはずだ。
戦場でのおのれの為したことを、すべて思い出すことができるか?
おまえは夢中になって殺していた。じつに見事であった…だが、あれは武人の振る舞いではない。
おまえをここに連れてきたのは、俺のまちがいであったかもしれん。
おまえには、おまえのその恐ろしい本性を制御する人間が必要だ。家を持て。
もしそれができない、というのであれば、早々に薊から離れ、常山真定へ戻るといい。それがおまえのためだ」
鋭敏な趙雲は、播天流がおのれを心配して、そう告げているのではないことに、すぐに気づいてしまった。
この男は、おれを恐れているのだ。
そして、おれ自身気づかぬ、恐ろしい本性とやらを、嫌悪している。
趙雲は、父親の姿というものを、おぼろげにしか憶えていない。
母親は、父の最後の夫人で、ほかにもたくさんの夫人が、それぞれの子を別棟で育てている、という環境のなかで育った。
父親は老いており、子どもたちすべての面倒を見る体力も気力も、もうなかった。
夫人たちの仲はわるく、自然と、兄弟同士の仲もよくなかった。息のつまるような生活であった。
播天流は、趙雲にとって、父に代わる存在であった。
袁紹のところから、公孫瓚の居城へ到までの道のりは、けして長いものではなかったけれど、仲間たちとともに、播天流に率いられて過ごした日々は、とても楽しいものだった。
そして、播天流のことばどおり、公孫瓚の軍は、袁紹のところより、数倍、過ごしやすいところだった。
播天流が、初めて安心できる居場所をつくってくれた。
だからこそ、趙雲は播天流を慕った。
それなのに、ひさしぶりに会った男は、無情にも、趙雲を否定し、この場を去れ、という。
戦場においてもなお残っていた、少年らしい素直さが、その瞬間に砕け散った。
荒野に吹きすさぶような、冷たく荒涼とした風が胸のなかにある。
それは開いたばかりの傷口に、容赦なく吹き付けてきた。
趙雲は、播天流のことばに逆らい、公孫瓚のもとを去らなかった。
ただ、弓を射ることができなくなった。
狙いを定めると、播天流の声がよぎるのである。
おまえは殺しが巧すぎる。殺しを楽しんでいるのだ、と。
そうではない。そんなことはない。
否定するたびに、目の前に積み重なり、増えていく遺体を見るに付け、趙雲は笑う。
それは、播天流が言ったような、哄笑などでは決してない。播天流がおそれた、おのれの本性とやらが、言葉どおりなのを証拠で見せられて、おかしくて笑ってしまうのだ。
ひどく乾いた笑いであったが、どうしようもなかった。
「子龍さま、われらはあちらを見て回ります。こちらの見回りをお願いいたします」
と、夜警の隊長が、部下を従え、去っていく。
鎧姿で身を固め、ものものしい雰囲気だ。
二ヶ月ほど前、曹操の刺客が新野城に入り込んでいたこともあり、孔明が、新野の警備をさらに厳しくしたのであった。
孔明がこのところやけに大人しくしているのは、おのれの言い出したことを、率先して破って、ひとりでうろうろするわけにはいかないからである。
折れそうな三日月が空につくねんとあった。
雨が降ったり止んだりの天気がつづいているために、夜になっても、まといつくような湿気が残っている。
すでに市場もぽつぽつと店じまいする者があらわれて、野菜や魚が売れ残っている店では、安くするからといって客を引き止めている。
趙雲は、竹細工の店へ寄り、竹の花籠と、おもちゃを買った。
明日になったら、陳到の屋敷へ見舞いにいくつもりだった。
花籠は、陳到の妻に、おもちゃは、銀に。
独り身の趙雲にとっては、たまに招かれて口にする陳到の妻の手料理は、大切な栄養であった。
新野城にも、もちろん腕の良い料理人がいるのだが、孔明の警護、劉備の警護、そして兵士の調練と、忙しいために、味わっている余裕がない。
よその女房の手料理を喜んでいないで、自分がだれか料理の上手な女を娶ればいいのであるが、趙雲はその気になれないでいる。
それはともかく、店じまいのすすむ夕方の市場のなかで、にぎやかになるのは酒店だ。
つとめを終えた兵士たちや行商人などが、あつまって、干し肉などをついばみながら、談笑している。
闇が濃くなるにつれ、その周囲に、怪しげな人影がうごめきはじめる。
娼妓たちであった。
孔明が、新野の警備を厳重にしたあたりから、娼妓の数は減ったのであるが、新野にもいくつかある楼閣で働くことのできない、いわばあぶれた女たちは、兵士の見回りを避けるようにして、男たちに声をかける。
中原から、戦火に追われるようにしてこの地にたどり着き、家族とも死に別れ、ほかに頼る者もなく、再婚話もまとまらなかった女たちは、身を落として、身体を売る。
それでも、若いうちならば、まだいい。あわれなのは、年老いた女たちだ。
捕まれば、牢屋につながれるとわかっていて、それでも街に立つことを止めないのは、ほかに食べていく手立てがないからだ。
天からそそぐ銀の月光を避けるように、女たちは被り物をして闇にうずくまっている。
兵士たちもいい加減なもので、夜回りの当番であれば、捕まえて牢屋に連れて行くところを、非番の者は、声をかけられるまま、連れ立って、さらに濃い闇の向こうへと消えていく。
こうした女たちのことは、表立っては俎上にのぼらないのが常であるが、しかし現実に、こうした光景はどこでも当たり前にあるものであった。
趙雲に、覇気がなかったわけではない。
しかし、娼妓たちをみつけても、趙雲は捕らえる気にならなかった。
捕らえたところで、女たちは解放されれば、まぶしい陽光に目を細めつつ通りの暗がりに戻っていき、夜になるとまた同じことを繰り返すのだ。
もしもこの国が、未曾有の大乱に巻き込まれることがなかったら、女たちは貞淑な妻であったかもしれない。
そう考えると哀れであった。
女たちもまた、乱世の犠牲者なのである。
彼女たちを救える者など、おそらくこの世には存在しない。
物思いにふけりつつ、夜の新野の街を歩いていると、ふと、風に乗って、歌が聞こえた。
思わず趙雲は、足を止めて、歌の聞こえた方向へ頭を向けた。
楼閣のそば、というならば、どこぞの遊び人が、妓女たちとドンちゃん騒ぎをしているのかもしれない。
しかし、趙雲が通りかかったのは、市場からだいぶ離れた、ふつうの人家のならぶ一角であった。
妙な予感がした。
歌の聞こえてきたのは、しんとした一角のなかでも、特に人の気配のない大きな屋敷からであった。
曹操の南下の知らせが入って以来、金に余裕のある者は、家財道具をいっさい持って、安全な地へと疎開している。
この屋敷の一家もそうであるらしい。闇夜に輪郭を浮かばせるその屋敷のところどころに雑草が顔をのぞかせている。
このところの雨で、一気に成長したらしかった。
また、聞こえた。
趙雲は緊張した。
歌声が異常だったからではない。
その歌に、聞き覚えがあったのだ。
荊州の者が歌うそれとは、あきらかにちがう節回し。
素朴で、荒っぽい、それでいて親しみやすい旋律である。
幽州の、ひなびた漁村で生を受けた、播天流が好んで歌っていた。
まさか、と思いつつ、趙雲が屋敷に足を踏み入れようとすると、ちょうど門扉から、人影が飛び出してきた。
ほかならぬ、趙雲の部将の斐仁であった。
闇夜なので、顔色はわからない。
しかし、そのなで肩と、片足を引きずった姿は見間違いようがない。
「斐仁!」
声をかけたが、斐仁らしきその姿は、一度も趙雲のほうを見ずに、そのまま闇へ消えてしまった。
趙雲は、斐仁が飛び出してきた門扉のほうを見た。
開け放たれたまま、門扉はわずかに揺れている。
生暖かい風に、針のような葉をつけた雑草が、さわさわと揺れているのが見えた。
まるで、中へ入れと誘っているようである。
歌はもう、聞こえない。
そのとき趙雲が思ったのは、斐仁が空の屋敷に忍び込み、盗みに入ったのではないか、ということであった。
だが、斐仁というのは、趙雲の部将のなかでも、いちばん真面目な男である。
何を考えているか、いまひとつわからないところがあるが、官給品の支給のいっさいを取り仕切っているだけあり、堅実な性格なのだ。
趙雲は、斐仁が消えた方角を気にしながら、半開きになった門扉をくぐった。
屋敷の玄関も、開け放たれていた。
だが、荒らされている気配はない。しかし、床は泥で汚れており、どうやら、無断で人が入り込んだのは、一度や二度ではないらしい。
闇にきらりと光るものがあり、拾い上げると、安物の簪であった。
娼婦たちが、仕事場として、この空いた屋敷を利用しているのではないか。
たしかに、いつ見回り兵が来るかわからない場所で仕事をするよりも安心できるだろう。
客もそのほうがよろこぶ。
「だれか、いるか?」
声をかけたが、返事はない。
しんと静まりかえった屋敷の中は、無人のようである。
が、なにかがおかしい。この闇は、泥のような重さを持っている。
そして、闇に含まれる、嗅ぎなれた、生臭い臭いは…
音も気配もなかった。
避けられたのは、戦場で研ぎ澄まされた勘ゆえであろう。
流れるような動作でそれを避けると、わずかに闇が揺れ、襲撃者が、うろたえたのがわかった。
「何奴!」
誰何しても、答えはない。
ふたたび、闇が動く。
趙雲は、抜きかけた剣で、相手の襲撃を見事に受け止めると、空いた片方の手で、襲撃者の顔があるとおぼしき位置に拳を見舞った。
手ごたえがあった。はじめて、襲撃者が、くぐもった声を出した。まさか、拳が飛んでくるとは思わなかったのだろう。
趙雲は、手を休めず、剣を受け止めたまま、今度は、襲撃者の腹を打った。
が、武装していたらしく、鈍い痛みがかえってきた。舌打ちすると、襲撃者が剣を引き、次の瞬間、風を切って、蹴りを飛ばしてきた。
趙雲は避けきれず、横倒しにされ、壁にぶつかり、そのまま床に崩れた。
趙雲がぶつかった衝撃で、壁のそばにあった小さな飾り棚が壊れた。
剣を掴みなおそうとした手に触れる、生暖かいものがある。
血だ。
怪我をしたのではない。
ぎょっとしてとなりを見ると、目を見開いた女の顔が、真横にあった。
趙雲は、思わず息を呑んだ。
むわっと、血の臭いが鼻腔を襲う。
ひどいありさまであった。
戦場でさえ、これほどに酷い死体にはめったにお目にかかれない。
女は驚愕に目を見開いたまま、息絶えている。
たったいま切り裂かれたのだとしても、とても生きてはいられないだろう。
腹を真二つに割かれた上に、臓物のほとんどを取り出されてしまっているのだから。
人の仕業ではない。酷すぎる。
そう思った途端、趙雲ははげしい怒りにとらわれた。
目の前の男が、この女をこんなむごい目に遭わせたのか。
物盗りにしても異常だ。
その異常さ、人を思いやる心の欠如に、趙雲は怒りをおぼえる。
襲撃者がやってくる。
趙雲は、傍らで崩れた、飾り棚の、足を持った。
そうして、力のまま、それを襲撃者に投げる。
襲撃者は、おどろき、歩みを崩した。
趙雲は、仰向けのまま地面に這うようにして足を伸ばし、襲撃者の足を、おのれの足で絡め取った。
そして襲撃者を転ばせる。どこかに頭をぶつけたらしく、襲撃者が悲鳴をあげた。
趙雲は俊敏に起き上がると、地面に転ぶ襲撃者の身体に馬乗りになり、その刃をかざした。
容赦はしない。その咽喉元めがけ、刃を振り下ろす。
「待て、子龍!」
その声に、趙雲のいっさいが止まった。
聞き覚えのある声。震えがくるほどの懐かしさがこみあげてくる。
まさか?
「あいかわらず、巧いな、おまえは」
組み敷かれながらも、そういって笑う襲撃者の顔は、公孫瓚にともに仕えていた盟友・朱季南のそれであった。