孤月的陣


第二章 雨

一

ぬかるみの中を、趙雲は歩いている。
かつては、袁紹に早々に見切りをつけ、同郷の若者たちを率い、公孫瓚もとへ向かったときに使った道であった。
あのときは、なんと希望に満ちていたことだろう。
雨にぬれた道の上には、無数の軍馬と兵士の足跡がのこされている。
目的地に近づけば近づくほど、死の匂いは濃厚となり、泥臭さにまじって、耐え難い臭気が漂ってくる。

敗残の国。

それがいまの幽州である。
兄の死をきっかけに、みずから官を退き、立ち去った土地とはいえ、たしかにここで、数年を過ごしたのも事実であった。
それなりに、よい思い出も刻まれている。
おのれを責める痛みと、破滅に至ったかつての主公の甘さへの怒りが混ざって、咽喉の奥がひりついてくる。
戦に負け、滅ぼされた国、というのは、これほどに無残なものなのか。

公孫瓚は、袁紹を防ぐために、膨大な兵力と人力を使って、巨大な要塞を築き上げ、そこに、幽州じゅうの民から搾り取った兵糧をたくわえた。
大軍を有する袁紹軍に対し、持久戦に持ち込む作戦であったのだ。
公孫瓚は、おのれの軍に絶対的な自信があった。
少数精鋭の騎馬軍団を有し、その強さはつとに聞こえていた。
趙雲も、その一員として、大いに功をあげたものである。
籠城し、機を待つ。
大軍の袁紹に対し、隙をうかがって、機会に乗じ、奇襲をかけて、一気に打ち破る作戦であった。

やはり、どう考えても受身にすぎる作戦であったと思う。
それに公孫瓚は、おのが軍は中原でもっとも機動力がある、とうぬぼれていたようだが、しかし、戦ってきた相手は、もともと烏合の衆である黄巾賊や、戦略を持たずに攻撃を仕掛けてくる異民族が主で、洗練された戦術と、指揮系統を持つ、漢の正規軍とはあまりぶつかったことがなかった。
趙雲は、公孫瓚の下で白馬ばかりをあつめた軍団の一員として、おおいに勇名を馳せていたが、煌びやかな名声も、相手が相手だけに、若くしてたやすく築かれたものではないか、と自嘲気味に思う。
方や、袁紹軍は強かった。
情報を収拾し、戦術を駆使し、見事なまでに兵を動かした。
やがて、異民族への対処をめぐり、袁紹と対立するようになってから、趙雲は、いままでとは勝手の違うことに怖じた。
同時に、それでも戦略を変えない公孫瓚のやりように疑問を感じるようになった。

 たしかに大軍相手に引けを取らない公孫瓚の軍もりっぱであったが、数の上では圧倒的な差がある。
たとえ勝っても袁紹側からすれば、たいした損害にはなっていない。
勝利しても得るものが少なく、将来の展望がまるで見えてこない。
しかも異民族に対し、あまりに苛烈にしすぎたために、南に袁紹、北に異民族、と挟まれてしまった。

趙雲は、何度となく、公孫瓚へ、意見した。
異民族への対策をあらため、和睦すべきである。
情報収集に力を入れるべきである。
軍師を採用し、戦略を用いるべきである…
だがどれも、若すぎるうえに、実績もすくない、というので、ほとんど無視された。

公孫瓚、という男は、非常にきらびやかな風貌をもつ、いかにも飾り立てて将兵の前に立たせたくなるような、派手な容姿を持つ男であった。
もともとは寒門の官吏であったのが、その容姿によって、太守に気に入られ、娘婿となり、その後、どんどん力をつけて、群雄の一人にまで成り上がった。
そのために、人を判断するときに、おのれがそうされたように、人に対しても容姿の良し悪しに重きを持つところがあった。
趙雲などは良い目に遭ったほうで、まだ少年であるのに、だれよりも際立って容姿がよいことから、もっとも見事な白馬を与えられ、生え抜きの部下も与えられ、さまざまな場面で引き立てられ、公孫瓚の名を天下に轟かせるのに一役買った。
異民族たちは、趙雲の操る白馬軍団の、その見た目の神秘的な美しさと、発揮される力の凄まじさに怖じて、その姿が見えただけで逃げていくこともあった。

だが、あまりに最初が良すぎたのである。
当初の、世間知らずな少年であった頃は、趙雲は、素直に公孫瓚を尊敬し、その命令に従っていた。
ところが、趙雲が成長してくるにつれ、主従の間に、不協和音が響くようになっていく。
公孫瓚は、だれであれ、人に意見されることを嫌がった。
一方の趙雲は、意見すべきときに意見しないのは、臆病のあかしと頑なに思っていた。
それでうまく行くはずがない。
趙雲は、徐々におのれの身の危険を感じるまでになり、兄の死を理由に、腹心の部下を連れて、幽州を去った。

それ以来である。
公孫瓚が、とうとう袁紹に滅ぼされた、と聞いたとき、やはりな、と趙雲は思った。
義憤はなかった。ただ、巻き込まれた民や、公孫瓚の元で、最後まで忠義を貫いて果てた将兵たちが哀れであった。
気づくと、趙雲の足は北へ、と向いていた。
幽州へ。
 
 小糠雨が身体をじわじわと打ち、笠の縁から、雫がぽたぽたと落ちるのが鬱陶しい。
何度もぬかるみに足を取られそうになり、なかなか進まない旅程に苛立ちながら、趙雲はそれでも進まずにはいられなかった。
なにかを救う、とか、なにかを取り戻す、というのが目的ではない。
ただ、確かめたかったのだ。
公孫瓚がなぜ負けたのか。その理由を。

やがて、易京の城壁が見えてきた。
淡い雨の帳の向こうに見えるその姿は、おどろいたことに、ほとんど傷がなかった。
城壁には、雨にぬれながらも、袁紹の旗がゆるやかに翻っている。
勝者の余裕をそのまま表しているようにも見えた。

難攻不落。
で、あったはずの大要塞。
趙雲も、公孫瓚の供で、何度も訪れた場所だ。
城壁の上に立つと、地平線まで見渡せた。あのはるか南に洛陽がある。
幽州人から見れば、洛陽はおとぎの国にも等しい、夢の都であった。
公孫瓚は、いつかここから洛陽を望むのだ、と言っていたが、それは所詮、明け方に見る夢と同様に、ぼんやりしたものであったのかもしれない。

商人にまぎれて城壁をくぐった。
警備兵たちは、趙雲に気づかなかった。
もし白馬に騎乗しているのであれば、すぐにそれと知られて捕らえられただろう。
成長期の終りに公孫瓚のもとを辞去した趙雲の面差しは、以前とはまたちがうものになっていた。
少年臭さは払拭され、りっぱな青年のそれに代わっていた。
自分が目立つということも自覚していたから、念を入れて変装していた。
腰には剣すら差していない。
短刀を懐に隠し持っているだけである。

袁紹軍の人間は誤魔化せるとして、幽州の人間はどうだかわからない。
厄介なのは、公孫瓚の陣営から、いち早く降伏した者である。
趙雲を見知っている者がいるかもしれない。

さわさわと、やさしげに降る雨の中に、易京は沈みこんでいる。
町全体が、まるでうなだれているようだ。
たまに陽気な一団とすれ違うが、それは征服者である袁紹の兵士たちであった。
だれもかれも俯いて、希望を失っている。
それはそうだろう。籠城しても、数年はもつ、といわれていた城なのだ。
それが、一年ともたず、落城した。
住民の衝撃も大きいにちがいない。
 
やがて、宮城が見えてきた。
雨のために、補修中のままで、工人はだれもいない。
警備兵すら雨に打たれない物陰に、ぽつり、ぽつりと立っているだけ。

そして、趙雲は言葉を失った。
あれほど壮麗であった宮城は、焼け落ち、残った柱も炭化していた。
補修を受けているのは、焼け残ったほんの一部分で、そのほかの地域は、使い物にならないので、打ち壊されてしまっている。
なにより趙雲を絶句させたのは、宮城の前にさらされた、黒焦げの遺体の数々であった。
もはや、だれの者のものなのか、性別すら定かではない。
しかし、捕縛する前に公孫一族に炎のなかで自刎されてしまった袁紹軍は、たとえそれが一部であっても…もしかしたら公孫一族のものでなくても…遺体を晒さずにはいられなかったのだろう。

はじめて、趙雲は強い怒りと、悲しみを覚えた。
もはやそこには、過去を語るものはどこにもなかった。
すべて公孫瓚とともに燃えていた。
すでに、過去を塗り替えるようにして、袁紹の気配が易京を覆いつつある。
記憶にある光景すら消されていた。
親しく語り合ったひとびとさえも…

せめて、なんらかのかたちでかれらを弔うことはできないだろうか。
思わず足を進めた趙雲の肩を、強く掴む者がある。
そうして、引きずられるようにして、とある路地に連れて行かれた。

 「迂闊だぞ、子龍」

と、その者は言った。声に覚えがある。
 かつて共に、白馬義従としてくつわを並べたことのある男であった。
頭を綺麗にそり落とした男で、面倒見がよく、あまり人付き合いの得意ではない趙雲の世話をしてくれた。
名前を、朱季南(しゅきなん)といった。
 「季南ではないか! よく、生きていたな」
思わず趙雲が言うと、朱季南は自嘲の笑みをこぼした。
 「おれも、おまえが官を辞したすぐあとに、故郷に戻ったのだ」
 「そうか…では、いまは袁紹の?」
 「まさか。いまは天下に流浪する身だ。だが、かつての主家が滅んだとあっては、無視しているわけにもいかん。
おまえも同じ目的で戻ってきたのだろう?」
 「?」
趙雲が怪訝そうにすると、朱季南は、足音を立てないように、宮城の前にさらされた遺体のうちの、一体を指した。
 それだけは、五体満足で焼けていなかった。高々と×のかたちに磔にされた、傷だらけの男の身体。
その風貌は、まぎれもない。
 「播天流(はてんりゅう)! 生きているのか?」
 「ああ、彼だけは自害せんとする公孫一族を諌めて、隧道を掘って押し寄せてきた袁紹軍と戦いつづけたのだ。
捕らえられて、帰順を説かれたのだが、うんと言わなかったためにあのありさまだ。
袁紹という男、存外に器量が狭いぞ。礼を尽くせば、播天流ほどの男だ。
きっと仕官しただろうに」

趙雲は、朱季南の声を、ぼんやりと聞いていた。ただじっと、磔にされた播天流の姿に見入っている。
こぬか雨に打たれつづけるその身体は、たまに生きていることの証として、ぴくりと痙攣した。
 「磔にされて、どれだけ経つ?」
 「今日で二日目だ。そろそろまずい。おれひとりでは助けることはむずかしい。
だが、おまえがいるのならば話は別だ。播天流を取り戻すぞ」
 「どうやって?」
 「じつは、懇意にしていた馬商人が協力してくれて、馬は調達してある。
まず、宮城の警備兵を弓で射止め、その隙に、播天流を下ろして救い出す。
斬り込むと時間がかかるからな。速さだけが武器となるが、これはおれたちが得意とするところだろう。
子龍、弓はおまえに頼む」
 「なんだと?」
 「おれが、弓が駄目なのは知っているだろう? 
おかげで何度と播天流にぶん殴られたか知れん。おまえなら大丈夫だ」
 「待て。おれとて、弓はうまくない。ほかの方法はないのか」
 「あると思うか? いちいち槍で刺して回っていたら、あっというまに連中の仲間に取り囲まれて、逃げることすら出来なくなるぞ。
頼む、子龍。やってくれ!」
勝手なことを、と思いつつ、趙雲は、おのれを揺さぶる旧友の顔を見た。
ほかに誰がいる?
だれもいない。
迷っている間も、決断を促すように、腕をつかまれ、身体を揺すられる…

 しつこいな。わかった、やればいいのだろう、やれば。

 「子龍、子龍!」
ふっと目を開けると、そこは兵舎の一角にあるおのれの寝室であった。
もちろん雨に打たれてはおらず、目の前にあるのは小糠雨に沈黙する易京でもなければ、雨露にぬれた朱季南の顔でもなかった。
 
「大事無いか。うなされていたぞ」
と、覗き込む顔は、まぎれもない、諸葛孔明のものである。ああ、と答えて、趙雲は、寝台の上でみじろぎをした。
おのれを見下ろす孔明の顔が、すこしほころんだ…ように見えたが、よく観察しようとじっと見ようとしたときには、表情の読めない顔にもどっていた。

いろんな顔を見てきたと思うが、これほどに特異な面貌はほかにない。
美を形容する言葉をすべて並べたところで、この顔をぴったり表現できるものはないのではないか。
華やかさと知性が見事に融合した顔だ。それでいて力強い。
美貌の者にありがちなつめたさは薄く、むしろころころ変わる表情の豊かさが、稀な容姿をさらに引き立てている。
名は体をあらわす、のとおり、まばゆい光そのもののような男だ。
人相見をつれてきて、じっくり観察させたら、どんな答が返ってくるのだろう。

こいつは、たとえ一国を滅ぼしたとしても、敵方の一族の遺体を辱めるような真似はしないだろうな、と思いつつ、趙雲は答えた。
「大事無い。昔の夢を見ていただけだ」
「そうか。起きられるか? いま薬湯を淹れるからな」
趙雲は、しばらく寝台で、夢とうつつの間をさまよっていた。
質素というよりは、わざと何も置かないようにしている、必要最低限のものしかない部屋の、いつもの天井が見えている。
寝台と、水受けを置いておくための古ぼけた台と、書をしたためたり、あるいは書を読んだりするための机、茣蓙、蝋がこびりついた燭台、衣服をまとめてある箪笥。
見慣れた物のなかに、孔明がみずから持ち込んだらしい、螺鈿細工の施された文机があり、窓のそばに置いていた。
ところどころ塗料の剥げ落ちた花窓から、見事なまでに晴れ上がり、さんさんと陽のこぼれる庭が見えた。
そのために、部屋の暗さがいっそう引き立った。
色あせた寝台の帳に、花窓から外をうかがうようにしている孔明の鶴のような細長い影が映っている。
身体のあちこちが痛む。そして重い。
熱があるのだな、と趙雲は思った。
そして…

「軍師」
「なんだ」
「なぜおれは、ここにいるのだ?」
「思い出す前にこれを飲め」
と、孔明は薬湯をすすめてきた。
熱で身体が思うようにならない趙雲のために、手を添えて口に運ぶのを手伝おうとする。趙雲はそれを拒み、みずから杯を手にとって、一気に薬湯を飲み干した。
ひどく不味かった。
「熱冷ましだ。おぼえているか、あなたは、高熱を発して倒れたのだ」
「ああ、そうか、そうだった…」
いや、待て。それだけではないぞ。肝心なことを忘れていないか。
とてもとても、肝心なことを。
「ちなみに言うなら、気を失ってから半日が立っている。
いまはもう昼だ。なにか食べるか?」
「そういう気分ではないな」
「そうか。わかった。ではそのまま聞け。もう少し休ませてやりたいところであるが、そうもいかぬ。
思い出せる限りでよいから答えてくれ。あなたの部下の斐仁になにがあった?」

斐仁は、劉備にしたがって新野城に入ったおり、将兵に組み入れた男である。
計算が巧みで、兵への官品の支給をまかせていた。
もとは江夏郡の出身で、将兵というよりは、鎧を着た文官、といったほうが似合うような、仕事のよくできる、きびきびした男であった。
あまりおのれのことは、しゃべらぬ男なのであるが、いつだったか身内の酒宴の際に、家に帰ると子沢山で、子どもたちを養うのがたいへんだと笑っていた。

むやみに人を殺すような男ではなかった。
 
 「いまは、昼なのか!」
がばり、と趙雲が起き上がっても、孔明は予想していたのか、驚かずに淡々と答える。
「そうだ」
「そうだ、ではない。なぜ起こさなかった! 樊城はどうなっている? 劉表は?」
必死の形相の趙雲を、孔明のつめたい眼差しが押しもどした。
「落ち着け。いまこの部屋を出ることは許さぬぞ。
いま、主公が伊籍どのとお話をしておられる。あなたが出る幕はない。大人しくしているがいい」
「伊籍? 劉埼を推している男だな。よく新野にも遊びにきていた…それがなぜ?」
「伊籍どのを通して、劉公子から、主公へ、此度のことは内密に処分したいと申し出があったのだ。
いま詳細の打ち合わせを主公がしておられる。
しばらく樊城に動きはないだろう」
孔明の言葉がうまく頭に入ってこない。
それをわかっているのか、孔明は、帳を払って近づいてくると、起き上がろうとした趙雲を、やんわりと押しもどし、布団をかける。
「まだ熱があるのだ。混乱しているのはわかる。
だが、なぜこのような事態になったのかは、思い出せるであろう?」
「うむ」
「そのままでよい。つまらぬことでもよいから片っ端から思い出して、わたしに話せ」
しかし、と、かけられた布団を除けて、ふたたび起き上がろうとする趙雲に、孔明は目を細めて言った。
「そのような弱弱しい身体でどこへ行くつもりだ。更衣ならば人を呼ぶが」
「たかがこれしきの熱で寝ていられるか! 主公の警護はどうなっている? 
そしておまえはなぜ主公についていないのだ。伊籍に害意があったらどうするつもりだ!」
「主公の警護は関羽どのが取り仕切っておられる。刺客が百人あつまっても主公にかすり傷ひとつつけることは敵わぬであろうよ。
それとわたしがここにいる理由だが、肝心なときに昏倒したきり、必要な情報をもたらさずに眠りこけていた男から、情報を引き出すためだ」
趙雲は言葉につまった。
孔明は、にやりと意地の悪い笑みを浮かべると、畳み掛けた。
「ついでに言うならば、あなたはわたしの主騎であろう。
そんなにふらふらした様子で外に出て、わたしを守れるか?」
「それは」
「無理だろう。わかったなら観念して横になれ。
ついでに言うならば、子龍、これは質問ではない」
と、孔明は、ふざけた笑みを完全にひっこめて、真摯な眼差しをぶつけてきた。
「尋問だ。嘘偽りなく答えよ。
話の順序もどうでもよい。思いついたことを、ありのまま、正直に話すのだ。
わたしに判るように話そう、などと余計な気は回すな。まとめるのは、わたしがやる」
と、孔明は、文机のうえに、文字を書き付けられるのを待っている竹簡を広げた。

   

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