リクエスト企画・第一弾

心はいつもキツネ色

探索編・一

早朝の遠駆けを終えて、成都の中ほどにある自邸に帰る途中であった馬超であるが、ふと、その道の途中にて、気にかかるものを見つけた。
それは、川べりの、そよとして枝を揺らす柳の木の下で、身なりのよい十歳くらいの少年が、なぜだかおろし金を両手に掲げて、じっと、川面に映るおのれの顔と、おろし金を見比べているのである。
よほどでなければお目にかかれぬ珍妙な光景に、馬超は気を引かれて馬を下り、その少年に声をかけた。
「小僧、そのような場所で、そのような物を持ち、なにをしているのだ」
西涼のなまりを隠さぬ堂々とした口調に、少年は怪訝そうに顔を上げる。
聡明そうではあるが、尖ったあごの目立つ、いささか癇の強そうな少年であった。
「なんだ、貴様は。わたしが揚武将軍の長子と知って、無礼にも声をかけたのか」
「威張った小僧だな。揚武将軍の子か」
わずかに顔をしかめつつ、しげしげと子どもの顔を眺めれば、なるほど、たしかに、キツネを思わせる逆三角形。
この顔は、揚武将軍の血筋にちがいない。
馬超は女子供に好かれるが、それは馬超が、女子供を好いているからである。
だから、成人の男子であったなら、だれであろうと、無礼はそちらであろうが、と言いつつ、ぺしゃんこにしてやるところであるが、子供であるからと見逃して、言った。
「無礼は謝ろう。しかし、揚武将軍の御子ともあろう方が、なにゆえ、伴もつけずに、ひとりでそのようなところにいる」
「貴様には関係ない」
そう言うと、口調も父によく似た少年は、ふたたび、ぷい、と顔を川面に向ける。

いつもの馬超ならば、そこで、はいそうですか、さようなら、となるところであるが、見れば、少年は、川面の己の顔を見ながら、涙をこぼしているようである。
しかもその手のおろし金は、なんなのだ。
こうなると、黙っておられない。
馬超は重ねて尋ねた。
「おい、なぜ泣くのだ。それに、なにゆえ、おろし金などを手にしている」
「泣いてなんぞおらぬ。これは、埃が目に入ったのだ」
と、少年は、語気を荒くして言うが、しかし言っている端から、ぽろぽろと涙がこぼれて、少年のことばのうそを暴くのであった。
「む、このまま立ち去っては、わたしがいとけない子を泣かせたものだと誤解されてしまう。おい、揚武将軍の子、事情を話せ」
馬超が問うと、頑なに見えた少年は、不意に緊張がゆるんでしまったのか、とたんに十歳の子供らしく、わあわあ声を上げて泣き出して、おのれの事情を打ち明けはじめた。





巴蜀の主が、劉璋から劉備に代わって久しい。
この君主の交替劇において、重要な役目を果たしたのは、法正、字は孝直である。
前の君主である劉璋を裏切り、劉備を蜀に招き入れたひとりなのだ。
それを劉備に高く評価され、劉備が蜀を平定したあと、揚武将軍という、文官のなかでも、もっとも高い地位を手に入れることとなった。

揚武将軍という地位を手に入れた法正であるが、ここで問題が発生する。
法正が、なぜ前の君主である劉璋を裏切ったかといえば、それは、劉璋のもとで冷遇されていたからである。
もともと、劉璋とはそりがあわず、同郷の人間に悪い噂を流されてしまったこともあって、法正は、出世街道からはずれたところにいた。
それが、劉備のもと、揚武将軍の地位を得るや否や、それまで胸に抱えていた鬱屈としたものが、溶岩のようにあふれ出した。
そして、閑職に追いやられていた恨みとばかり、かつての政敵たちを、ささいな罪でもって捕縛し、その一族を、ことごとく根絶やしにしてしまったのである。
その有様たるやひどいもので、成都の民はすっかりおびえ、心ある人士も眉をひそめたが、なにせ相手は、政務の頂点たる揚武将軍。
目を逸らし、口を閉ざすしかできない。
そうして陰では、あたらしい殿様もどのようなお人かよくわからぬのに、これからどうなるのだろうと、不安がった。
しかしその不安は、じきに晴れる。

劉備の寵のもと、その権威を振るい、圧政を敷くのではと恐れられた法正であるが、そこに水を差す勢力があらわれた。
ほかでもない、荊州人士の中心、左将軍府事にて軍師将軍を兼ねる、諸葛孔明の一派である。
益州を攻略する際に、軍師の龐統が戦死してしまい、劉備はその交替として、荊州三郡をおさめていた孔明を荊州から呼び寄せた。
同時に、曹操の南下にともなって、避難生活をつづけていた荊州人士が、大量に益州に移住してきた。この中心が孔明なのだ。
この諸葛孔明、本名も派手派手しいが、その号もまた派手に、臥龍という。
法正としては小癪なことに、これが、名前負けせぬ辣腕ぶりを示して、よそ者だというのに、あっという間に民の信頼を得てしまった。
そのため、法正としても、このまま黙って好き勝手をしていたなら、地位を奪われる危険すらあると察し、大人しくせざるをえなくなったのだ。
最初、法正は、孔明をうまく丸め込み、骨抜きにしてしまうことも考えた。
しかし、さらに小癪なことに、孔明という青年軍師、清流を自認する、きわめて潔癖な男で、物欲、食欲、性欲といった、人の弱いところに訴える手法がまるで効かないのである。
それに、法正の人となりを見越しているようで、どんな手を打っても、するり、するりとかわしてしまい、おのが陣営に取り入れようにも、逃げられるばかりである。
下手にでるよりも、真正面から対決したほうが早いと法正は判断し、かくて、劉備を挟んで、揚武将軍の法正と、左将軍府事の孔明の対立はつづいているのであった。


さて、この法正には子があり、名を法邈(ほうばく)という。
自慢の聡明な息子なのであるが、今朝から、姿が見えないと、大騒ぎになっていた。
ところが、あとになって、どういうわけだか、神威将軍と恐れられたこともある、法正とおなじく、劉備の入蜀におおいに力を示した馬超に、泣きべそをかきながら、負ぶわれて帰ってきた。
理由を聞いたが、法邈は、父親から目を逸らせて、答えようとしない。
代わりに馬超が答えたのであるが、その内容は、父親を不機嫌のどん底に落すのに、十分なものであった。
錦馬超曰く、
「あえてズバリ言うが、貴殿の行状があまりに黒いことを理由に、近所の子供たちに怖がられてしまい、だれも相手にしてくれないので、お子はしょげているのだ。
先日、おのれの身分を知らぬであろうと隣町にまでこっそり足を運んでみたものの、やはり、正体はすぐ知れて、おまえなんかあっちいけ、一緒に遊んだら、おとうや、おっかあが殺される、といじめられてしまったそうなのだ。
なぜ正体が知れてしまったかといえば、顎だ。失礼であるが、貴殿の顎には特徴がある。お子も、ずばりおなじ特長を備えておられる。それで、とんがりキツネ顎の子は揚武将軍の子だと、みなに知れてしまったというわけだ。
そこで、お子は悩んで、おろし金で自分の顎を削ったなら、みなに揚武将軍の子だとばれなくて済むかもしれぬと、子供らしく考えたわけだな。貴殿の子にしては、純真な発想をする」
最後のセリフが余計であったが、法正は、それくらいでは、こうまで不機嫌にはならなかったであろう。
決定的であったのは、馬超に負ぶわれて、泣いて顔を真っ赤に腫らせた、法邈の言葉であった。
「こんなザンコクな父上いやだ! 軍師将軍みたいな父上がいい! キツネ顔もいやだ! 軍師将軍みたいなカッコイイ父上が欲しい!」


「あれがカッコイイ? わが子とはいえ、目が狂っとる」
これは躾が悪いのか、あとで妻を叱らねばならぬな、とイライラしながら思いつつ、法正は、卓にひろげた秘密文書を見る。
それは、軍師将軍諸葛孔明の弱みを握るべく、手の者に依頼して、その身辺を探らせたものである。

姓・諸葛 名・亮  字・孔明 
181年、徐州琅邪にて生まれる。華侘と同郷だとかなんだとか。知り合いらしい。

家族構成
 荊州の襄陽の権勢家である黄家の出。軍師が成都に来てから、だれもその姿を見たことがない。最近、UMA(未確認生物)に指定された。
 仲がたいへん悪いという噂の、兄の次男を養子にもらった。実兄との確執はさておき、養子の喬氏とは、ちゃんと父子をしている様子。
 近所に暮らす弟がひとり。左将軍府のどこかにいるらしい。本人と似ていないため、まったく面識のない状態でその人を捜し当てるのは、ウォーリーを探し当てるより、はるかに困難を極めるという都市伝説が成立しつつある今日この頃、みなさま如何お過ごしですか。この弟の妻が馬家の遠戚だったため、馬季常は、本人を『尊兄』と呼ぶ。
義兄弟 なし

長所 やたらポジティブ 強い意志
短所 細かすぎるわりに整理整頓下手  どうでもいい面で発揮される優れた記憶力
趣味 機織 細工もの 仕事全般
好きなもの 骨のある職人 内省的かつ賢い人
苦手なもの 反骨 自己主張の激しい人 
健康状態 たいがい良いが、少々過労気味。眼精疲労の気あり

経歴
いまさら語るのもアレなんで、現在の状況だけ述べますと、左将軍府事として、バリバリ仕事をこなしながら、つぎの揚武将軍、やってみたいなー、なんてチラッと考えているとかいないとか。

『なんだ、これは』
法正は、眉をおおいにひそめつつ、報告書を読んでいると、妻が娘をともなって、部屋にやってきた。
たしかに卓越した才能を持ってはいるものの、その手法が酷で、手段を選ばぬために、よい評判のすくない法正であるが、家庭では、意外にもよき父親である。
家には糟糠の妻と、娘と跡継ぎ息子がいるばかり。
妾のたぐいは家に置いていない。
家族が不便ないように、争いの起こらぬようにと、家人にはたっぷり報酬を与えているため、かれらの忠誠心も厚く、家での評判は、外と比べると、とんでもなく良いのである。
「郎君、邈の件ですけれど、家出したことは、咎めないでやってくださいましね」
と、妻はいきなり切り出した。
このところ、慣れぬ贅沢がかえって仇となって、肥満気味であるが、それでも、面差しは昔のままである。
法正は、この妻に、とことん弱い。
目ざとい妻は、法正の手にするものを見て、怪訝そうに首をかしげた。
「いまさら、そのようなものを読んだところで、なんの参考にもなりませんわよ」
「なんだと? これがなんだか、知っておるのか?」
だってねえ、と言いながら、妻と娘は、顔を見合わせた。
「今朝、うちの門扉にそれが差し込まれていたのを、この子が見つけたのですもの。どんな者を雇ったのかしりませんけれど、ずいぶんとお粗末ですわね。家人に見られたら笑いものになります。
だから、わたくしが、あなたの机に置いたのですけれど、気づきませんでした?」
「すまぬ…しかし、いい加減なバイトを雇いおってからに」
ぶちぶち言う法正であるが、妻は容赦ない。
「バイトもいい加減ですけれど、郎君もどうかと思いますわ。軍師将軍といえば、貴方にとっては政敵。その政敵の身辺調査を、いまさらさせているなんて、後手後手に過ぎるのじゃありませんか」
「そういうところが、邈が嫌がっているところじゃないの?」
と、更に容赦のない娘が言った。
妻の言葉もぐっさりと来るが、娘の言葉は、さらに胸に響く。
「おまえも、邈と一緒で、わたしのような父親より、あんな男だか女だかよくわからん顔をした、のっぽの案山子みたいな男が父だったら、などと思っているわけか。今月のお小遣いを下げるぞ!」
「そうやって、質問と脅しを一緒に口にするところがイヤ。お小遣い下げたら、去年、父の日にあげた肩たたき券、回収する」
肩たたき券をもらって感激した法正は、いまだにそれを使用せず、大事に押入れにしまっているのだ。
「なんという娘だ! おまえからも叱れ」
と、妻に言うが、妻のほうはしれっとして、答えた。
「うちの家訓は『やられたらやりかえせ』だ、とおっしゃっていたじゃありませんか。この子は、それを実行したまでです」
「おまえ…」
「子供たちが難しい年頃を迎えているとはいえ、最近の郎君は、どこか緊張感が欠けているように見えますわ。だから、子供も、このように舐めきった態度なのです」
「それはだな」
「郎君がお仕事をどのように進めているか、わたくしは口出しする立場ではございませんし、目にしたこともございませんが、なんとなく想像はつきますわね。
はいはいと、適当に頷いてくれる人しか周りにいない状態で、好き勝手にお仕事をなさっているのでしょう。
そして、家に帰ったら帰ったで、横になっては昼寝をするか、価値があるのだかないのだか、それともただ古いというだけで崇めているのだか、よくわからない骨董品を磨いて、ぼーっとなさっている。いまの郎君は、フヌケです」
「フヌケ!」
「ええ。わたくし、長年、郎君にお仕えしてまいりましたが、フヌケを夫に持ったおぼえはありませぬ。昔の郎君は、もっとしゃきっとなさっておいででした。ですから、子供たちも尊敬していたのですわ」

ふと、法正の脳裏には、法邈が、父の日に書いた作文の一部がよぎった。
『ぼくのおとうさんは、くにでいちばんのはたらきものです。いえでは、すこしだらしがないけれど、はたらきものなのは、えらいとおもいます。』
しかし、そのあとに、『ざんこくなのは、なおしてほしいです』とつづく。
ちなみに、タイトルは、『おとうさんは、ざんこく』。

「むう」
「むう、じゃありません。このままでは、邈がグレます。悪の道に染まります。郎君の残酷DNAを受継ぐあの子が悪の道に走ったら、それはもう、大変なことになります」
「わたしにどうしろと」
「わたくしたちは、郎君に、ぴしっとしていただきたいのです。いくら人手不足とはいえ、軍師将軍の身辺調査に、いい加減なバイトを雇うような郎君ではなく、かつての、だれよりも働き者であった郎君に戻ってほしいのです」
といって、妻は、一枚の名刺を差し出した。受け取って、文面を読んだ法正は、おおいに顔をしかめる。
「『オヤジ改造工房』?」
「ええ。その方の手にかかれば、どんな容姿も思いのまま。ただ好きなように変身できるというだけではなく、きわめて格好いいオヤジに変身できるそうですわ。そこで変身して、左将軍府にもぐりこみ、ご自分の目で軍師将軍の働きぶりを確認なさればよいのです」
「なぜ、わたし自らが出向かねばならぬ!」
「郎君、最近、運動不足ですもの。ダンベル体操も三日もしないうちにやめてしまわれたし」
「そういう問題か?」
「そういう問題です。切迫した事情がなければ、郎君は動かないじゃありませんか。では、がんばってくださいませね。郎君が左将軍府にもぐりこんでいるあいだ、わたくしたちは、邈の傷ついた心を癒すため、すこしばかり湯布院に湯治に行ってまいります。
ですから、郎君は、心置きなく調査に励んでくださいますように。わたくしたち、九州から応援しております」
「う、うむ? 行っちゃうの?」
「父上、お土産に、きりぼんグッズ、買ってきてあげるね」
「むう、いるような、いらないような。きりぼん、ドラマとちがって、お湯につけても色が変わらぬのだよな」
「いーじゃん、可愛ければさー。色が変わるとか、男のくせに、細かいのイヤー」
「軍師将軍のほうが、もっと細かいぞ!」
ちなみに、法正の趣味は骨董品あつめであるが、聞いた噂では、孔明の趣味は機織らしい。
いい加減きわまりない、バイトの作成した報告書にも、その旨はしっかり書かれている。
「繊細とみみっちいのとは、ビミョーに違うよね、母上」
「ビミョーどころか、大きな隔たりがあります、娘よ。というわけで、お留守番、しっかりお願いいたします。新聞の勧誘が来ても、ちゃんと断るんですよ。
あと、うちは、保険には、もうたくさん入っていますからね、見栄張って、ほいほい契約結んじゃダメですからね。
あと、ろくでもない骨董品をまた増やしたら、今度こそ、お気に入りの壷を割りますよ」
「留守番を押し付けられるうえに、自由もないのか」
ぶつぶつ不平を言う法正であるが、妻と娘は、まるで頓着せず、湯布院に向けて出立する準備をはじめた。
が、見ていると、どうも出かける準備が整いすぎている。
法邈の件は単なる口実で、以前から、『法正を置いてきぼりにして、湯治を楽しもう』計画は進んでいたようであった。
「……………ふん」
仕方がないので法正は、妻に勧められた『オヤジ改造工房』に、しぶしぶ電話をするのであった。





「雨が降ってまいりましたな」
と、筆を止めて、執務室より見える庭を見たのは孔明である。
その声に応じるように、その場にいた劉巴、許靖の両名も顔をあげた。
つねにわが道をゆく劉巴のほうは、単に気晴らしのために顔をあげたらしい。
一方の許靖のほうは、さきほどから手持ち無沙汰で仕方がなかったが、孔明が仕事をしているため声をかけられず、ずっと我慢していたところ、ようやく声がかかったので、喜んで顔をあげた。
もうひとり、董和のほうは、孔明の声にまったく反応せず、上下の唇をけんめいに動かして、ひっしになにかを数えている。
決済がひつような書類の、最後の精査をするために、さきほどから何度も計算を繰り返しているのだ。
孔明は、董和待ちなのである。
董和から劉巴、劉巴から許靖、最後に孔明へという流れなのであるが、最初で躓いてしまっているのだ。
とはいえ、董和が眉根に皺をよせ、懸命に数えているのを、さきほどからずっと見ているだけに、せかすこともなかなかできない。

まだまだ掛かりそうだな、と思いつつ、卓に膝を乗せ、孔明はしばらく、音を立てて庭木に雫を落す雨をながめていた。
やれやれ、また雨か。このところ、雨の日が多い。
大降りにならぬとよいのだが。
そうして、ふたたび、薄暗い部屋に目を戻せば、おなじく手持ち無沙汰になっている劉巴と目が合った。
劉巴の顔は変わっていると、孔明は思う。
馬良のように、眉が白いというような、際立った特徴があるわけではないのだが、劉巴は、三日月を横にふたつ並べたような、いつも笑っているような目をしている。
口角も、それに合わせるように、いつも微笑しているものだから、愛想がいいという好印象より、仮面をかぶったひとを前にしているような、違和感をおぼえてしまう。
初対面のときより、なにやら心の読めぬ方だ、という印象があった。それはいまもって変わらない。
劉巴が声を荒げているところを見たことがないが、大笑いしているところも見たことがない。
もっと言えば、泣いているところも、悔しそうなところも見たことがない。
このひとの心は、どのあたりにあるのだろうと思う。
しかし、長年の付き合いのおかげか、だいたいなにを考えているかは読めるようになった。
いまは笑っているようだ。
いつも笑っている顔なのでわかりにくいが、そこは、目の下のちいさな皺で見わけるのである。

「知っているかね」
と、劉巴は切り出した。
「なにがです」
「最近、左将軍府の若い者たちを中心に…まあ、君も若いが…義兄弟になるのが流行っているそうだよ。そういえば、君には義兄弟がいないね」
貴方にもいないではないか、と孔明は思ったが、それは口に出さなかった。
劉巴の経歴は複雑なので、下手に突っ込むと、気まずい思いをするのだ。
「義兄弟というと、大げさに考えてしまいがちだが、いればいたで、楽しいぞ」
と、なにやらご機嫌な様子で口を挟んできたのは許靖だ。
この許靖、左将軍府のなかでは、もっとも老齢である。
とりあえず左将軍長史として、孔明に次ぐ地位にあるのであるが、他者にはじつにわかりにくい道筋で思考を重ねる人物でもある。
朝、だれより早く出仕したかと思ったら、昼過ぎに、眠くなったら帰るといって、悪びれず帰ってしまったこともある。
「長史に、義兄弟がいたとは存じませんでした」
「だろう。わたしも、いままで忘れていた」
屈託なく笑う許靖であるが、その言葉に、孔明はなにやらいやな予感をおぼえて、尋ねる。
「無礼を承知であえてお尋ねいたしますが、長史の義兄弟という方は、すでにお亡くなりになった方なのでございますか?」
「さて、中には死んでしまった者もおるかもしれぬ」
「中には?」
許靖は、手に筆を持ったまま、にこにこと満面の笑顔で頷いた。
「左様。わたしはこの年で、近頃では朝餉になにが出たかも覚えておらぬ始末だ。だから、義兄弟が何人いたか、名前はなんであったかも、忘れてしまったよ」
「左様でございますか…」
許靖の性格からするに、あちこちで、ちょっとでも気の合った者を見つけたら、すぐに盛り上がって、そのまま義兄弟になっていたにちがいない。
そして、きっと一晩たったら、忘れてしまったにちがいないのだ。

許靖の、この記憶力のいちじるしい衰亡は、なにも今日に始まったことではなく、どうやら、江東の孫策と対峙したときに、南蛮の地に逃げ込んで、そこで熱病を患ったのが原因らしい。
以前は、江東の孫家を向こうに回すほどの勢いのある男だったらしいのだが、いまではすっかり好々爺と化している。
しかし、ふとしたときに、
「わたしは、もしかしたら、ずっと熱病に罹ったまま、治っていないのではないかと思うのだよ。いま、こうして貴殿らと言葉を交わしているわけであるが、実は、それすらも熱病のせいで見ている夢かもしれぬな」
などと不気味なことを言って、孔明をぞっとさせることがある。
なににぞっとしたかといえば、許靖の豊か過ぎる想像力に、であるが。
記憶力と想像力は、どうやらあまり関係がないらしい。

「たくさん義兄弟がいる許長史のような方もいれば、君のように、ひとりも義兄弟を持たぬ者もいる。なぜだね」
「なぜと言われましても」
劉巴に問われて、孔明は口ごもった。

孔明とて、世の風潮に合わせ、義兄弟を得ようとしたことがあるのだ。
一度目、徐庶には、
「おまえとなあ」
と、なにやら意味ありげな言葉と共に一笑され、それきりとなった。
二度目、趙雲には、やたらと激しく拒否された。
なんだかいろいろ理屈を並べ立てられた記憶があるが、しかし、なんだってあんなに嫌がられたのだか、いまもってよくわからない。
偏屈者め。

「いまの流行の特長は、荊州の者と、益州の者同士で義兄弟となることだそうだよ。わたしたちから見れば、平和な証だと思うが、どうだね、君も、益州の人士のなかから、義兄弟となるにふさわしい人物を見つけては」
さては、暇なので適当なことを言っているな、と孔明は劉巴の意図を読み、あえて返事をしないでいたのだが、横からまたも許靖が口をはさむ。
「しかし軍師将軍の義兄弟となると、それなりの身分でなければ、釣り合いがとれないのではないかね」
「義兄弟は、相手の身分を見て絆を結ぶものではないでしょう。それを言ったら、軍師に似合いの義兄弟といったら、法揚武将軍くらいしかいないことになってしまう」
そればかりはありえない。ご冗談でしょう、と流しつつ、ふと、脇を見れば、元荊州出身、しかし益州人士と見做されている董和が、まだ、せっせと計算をつづけていた。
孔明は思い立ち、董和に尋ねる。
「董中郎将、如何でしょう、わたしと義兄弟の契りを交わしてみませぬか」
「軍師、いま計算中でなにも耳に入らぬ。すまぬが話しかけないでいただきたい……ああ、わからなくなった。やり直しだ」
董和は、恨みがましい目を向けて、軽く孔明を睨みつけてきた。
二度あることは、三度あったようである。
「もう一度やり直す。お三方とも申し訳ないが、もうしばらくお時間をいただきたい」
「どうぞごゆっくり」
と、傷心の孔明は答えた。
冗談のように口にしたものの、半分は本気だったのである。

劉巴が、にまにまとこちらを観察しているのに気づいていたので、あえて無視して不貞腐れていると、主簿の胡偉度がやってきた。
顔を出すなり、四人の顔ぶれを見て、おどろく。
「おどろいた、許長史がいらっしゃる! 今日は早退されないのですか?」
また、これも一言多いやつだな、と孔明はたしなめようとしたが、許靖は、やはりにこにこと機嫌よくわらいながら、偉度に答えた。
「雨が止んだら帰ろうと思う」
まだ定時まで、ずいぶんあるのだが。
「降られたようだね。ひどくなりそうかい」
と、劉巴が尋ねると、偉度は、水滴のあとのついた衣を気にしつつ、答えた。
「いいえ、西の空は晴れておりましたから、おそらくじき、止むことでしょう。許長史、どうせなら、最後までいらっしゃればよいのに」
いなければならないのだ。本当ならば。
「考えさせてくれ。ところで偉度や、おまえには義兄弟がいるのかな」
その質問に、偉度はちらりと孔明のほうを見る。
孔明が義兄弟だというわけではない。偉度は、自分で組織している細作集団の長であり、部下である者を『兄弟』と呼んでいるのだ。
「おりますよ」
すると、許靖は、できの良い孫が、上手な答えを口にできたかのように、満足そうに何度も頷いた。
「よいことだ。兄弟が多いことは、とてもよい。どうだね、その仲間に、軍師を入れて差し上げては」
「はあ?」
と、素っ頓狂な声をあげて、偉度はちらりと孔明を見た。
孔明のほうも、偉度をちらりと見る。
視線がぶつかると、双方、気まずい思いで、さっ、と逸らした。
偉度は口を尖らせて、言う。
「お断りでございます。このように、気難しく奇矯な方に兄事するなどと、悲劇でございます。いまでさえ、主簿としてお仕えするだけでいっぱいいっぱいだというのに、これで義兄弟となったら、どれだけ面倒を押し付けられることやら。想像しただけで、こめかみが痛んでまいります」
それを聞くや、許靖は楽しそうに笑った。
「ああ、軍師、また振られたようだな」
孔明は、顔をひきつらせて笑うしかない。
と、いうよりは、そろそろ、だれか、ほかの話題を口に出してはくれまいか。
「またとは、どういう意味です?」
しかし、偉度が余計な質問をしてくる。

孔明は、座を立ってしまいたかったが、それもなにやら大人気ないし、董和の計算がいつ終わるかわからないしで、結局その場に留まっている。
横では、許靖が小癪なことに、なんとも嬉しそうに、孔明が董和に義兄弟の話を持ちかけて、一瞬で蹴飛ばされたことを話している。
偉度はすっかり呆れた顔をして、話を聞いているようだ。
「はあはあ、それで二連敗と。お気の毒な軍師将軍。しかし、天才に孤独はつきものでございますゆえ」
「慰めているつもりか、それは」
「君は、印象は華やかなのに、意外に交友関係が狭いからね」
と、劉巴がまたまた口を開く。
いつもは貝のように口を閉ざしているくせに、今日の饒舌ぶりはなんなのだろう。
なにか、よいことがあったのだろうか。
「しかし、君は、知名度、人望ともに、この左将軍府では群を抜いているわけであるし、どうであろう、いっそ、義兄弟を募る、というのは」
とたん、許靖の顔が、星のごとく、ぴかっ、と光った。
孔明は、これほど不吉な輝きを放つ老人を見たことがない。
「それは面白い! さっそく募集をかけてみよう!」
「お止めください。そも、義兄弟とは、真に打ち解け、信頼できる者と絆を結ぶべきものでしょう! 知らない人間と、義兄弟の契りを結ぶことなど、できませぬ」
「会ったら、意外と気に入るかもしれない」
劉巴が適当なことを口にする。
公募なんぞかけたら、孔明の政治力を目当てに、人がわんさか集まってくるだろうことは、劉巴はちゃんと予測している。
しているのに、それでも押してくるところが、この人物の怖さである。
「嫌です。お断りいたします。と、いうわけで、この話は打ち切りましょう。まだ続ける者がいれば、この部屋から出て行っていただく!」
「なら、もう帰ろうかな」
と、許靖が席を立とうとする。ちょうど、雨も小降りになってきたのだ。
孔明はあわてて言った。
「ああ、いまのは取り消しといたします。義兄弟の話をしたら、残業していただく」
すると、許靖は困ったような顔をして、大人しく席に戻った。
とはいえ、許靖は、飾りとして左将軍府にいる、いわば皺の寄ったマスコットキャラクターのようなものであるから、仕事といっても、回ってくるものはすくない。
董和の計算が終わって、劉巴がさらに(とんでもない早さで)二重の精査をかけ、つづいて許靖のところに書類が回ってきたのであるが、許靖のすることといえば、ただ署名をするだけである。
最後に、孔明が全文を読み、決済をおろす。

許靖は、またまた暇になったのであるが、ふと、年に見合わず、子供のような笑みをにんまりと浮かべ、急になにも書かれていない書面に、さらさらと筆を走らせた。
そして、偉度や孔明が、べつなことに気を取られているあいだに、こっそりと、決済ずみの書類入れのなかに忍ばせた。

それは、当然、ひと騒動起こす原因となる。

探索編・ニへつづく

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(C)Hasamino Nakama 2006 01