うしろにきつね。
14
ご家老にうながされるまま、振りかえる。
オレの真後ろの、大理石の床のうえに、なにかがいる。
見えたのは、ヘドロの色に似た肌をした、なにか。
その全体をつかむまえに、オレの視界はまっ黒に塞がれた。
というのも、きつねのやつが、オレの顔にべったりと腹をくっつけてきたからである。目隠しのつもりらしい。「おい、この命の危険が差し迫っているときに、どうして視界をふさぐんだよ!」
オレが抗議すると、きつねは、ちょうどオレの後頭部に手足をひっかけるかたちで覆いかぶさりながら、言った。
「だって、こんなもん見たら、カッチン、ぜったいに気絶するよ! っていうか、心臓マヒ起こす!」
どうやら、きつねは、きつねなりにオレを守ろうとしているようだった。
というか、どうせ守ってくれるなら、ご家老を襲って欲しいところだ。
こういう気の利かないところが、やっぱりきつねなのである。「というか、こんなふうに視界が塞がれたままのほうが、よっぱどヤバイだろうが!」
「カッチン、こういうときだから言っとくけど、オレ様は、というか、オレ様たちは、カッチンとはいままでとってもうまくやってきたよね?」
オレ様たち、というのは、別世界(どこかは知らない)にいる、きつねの本体をふくめたものらしい。
「いままでオレ様たちが憑いた時葉の人間のなかでも、カッチンとはいちばんうまくやってきたよ。
きっと、これからもうまくやっていける気がするんだよね!」
「そりゃどうも。というか、オレが心臓マヒを起こさないように、うしろにいるやつがなんなのか、すこしづつ情報をくれるっていうのはどう?」
「ナイスアイデア。というか、最後まで聞いてよ。オレ様たちが人間の召喚に答える理由は、カッチンもよく知っているよね」
「うん、よく知ってるよ」
「カッチンと組んでいたほうが、ぜったいに効率いい気がするよ。オレ様、つぎにご家老と組むの、いやだし、本体もそう思うと思うんだよね!」
「うーん、それはありがたがるべきこと、なのかな?」
「というわけで、カッチン、うしろにいる、腐敗のはじまりかけたでっかい赤ん坊の死体が動いているのを見ても、ぜったいに心臓マヒを起こさないでよ!」
「おい、そんなものがいるのか、うしろに!」
「オレ様がどいたら、すぐに例の合図を送ってよ!」合図か。
具体的にその必要が目の前にせまってきて、オレのなかにためらいが生まれた。
自分で自分の甘さにイライラするが、たとえ銃口を向けられていても、知り合い四人を殺され(方法はよくわからないが)、両親の死の真相を知らされても、なお、オレは迷っている。
覚悟のいることだ。「どくよー!」
きつねがオレの顔から離れて、視界が戻ってきた。
オレは、目の前にいるものを見下ろす。オレの膝くらいまである不自然な大きさの、円いもの。頭だ。
あまりの奇妙なその色具合に、すぐには嫌悪も恐怖もわかなかった。
凝視するなと、本能が告げてくる。
それでも、目を離せずに、オレは、それを見下ろしつづけた。
ぎこちない動きをみせて、オレににじり寄ってくるそれは、錆色の肌をした、人間の赤ん坊と同じ姿をした、なにかだった。
そのなにかが、オレの目線に答えるように顔を上げて、目と目があったとき、はじめて恐怖がこみ上げてきた。
見た目はたしかに赤ん坊に似ている。
が、その顔は、井田てまりの顔そのものだったのだ。頭が真っ白になる、というよりも、頭が金縛りにあっているようだ。
てまりの顔そっくりの、気味のわるいまだらの緑色をした赤ん坊。
なんだこれ。
人間でも動物でもないぞ。
でも動いている。
化け者。そうとしか形容できないものだ。
そいつがオレをみて、なにかを言った。
「なにか」とは、そいつは声を出さなかったからである。でも、唇はたしかに動いた。
ひと言だけ、口にしたようである。『パパ』と聞こえたのは気のせいか。
そいつの肩がうごく。その動きから、こいつがオレに手をかけようとしているのはわかった。
わかったけれど、見動きがとれない。
古賀村さつきも、こいつに会ったのだ。
そして、こいつから逃げるために、自転車をめちゃくちゃ走らせて、最後には心不全を起こして死んだ。
落ち着け。
オレは沸騰した湯の泡のように、めちゃくちゃに湧きあがってくるさまざまな感情を必死で押さえつけた。
落ち着けっての。
パニックになったら、こいつはまずい。
マジで死ぬ。
とんでもなく兇悪なビジュアルの赤ん坊ってだけだ。
赤ん坊だぞ、止まるな、がんばれ心臓!
ずいぶん長く感じられたが、たぶん一瞬のことだったのだと思う。
赤ん坊の手が、オレをつかもうとしたその瞬間、突如として、そのもみじほどしかなかった小さな手が、膨張した。
オレの心臓は、破裂するんじゃないかというくらいに跳ね上がった。
魔法としかいいようがない。小さな手が、オレに向けられたまま、急に巨大化したのだ。手だけが、である。
その大きさは、オレを叩き潰すのにぴったりな大きさで、たたみ一畳分はあったと思う。
「カッチン、逃げろっての!」
そう叫びながら、きつねがオレの腹に頭突きをしてくれなければ、オレはそのまま、その赤ん坊によって、ハエのように叩き潰されていただろう。
きつねはというと、オレを見失って、ばしん、と大きく床を叩いた手のひらのぎりぎりを、するりとかわし、尻餅をついているオレを振りかえった。
「合図をくれよ、カッチン! 口まで金縛り?」
「いや、わかってるけど」
「わかってるなら、早く、合図! はい!」
はい、とうながされても、オレは、まだためらっていた。
赤ん坊の動きは緩慢で、床に転がっているオレのほうに、ゆっくりと向きなおっている。
なんというか、戦車の銃座が敵を探して動いている感じだ。
ご家老はというと、きつねが見えないわけだから、なにがあったのかわからないらしく、銃をかまえながら、ふしぎそうな顔をしてオレを見ている。
そもそもの、オレの不幸のきっかけを作ったやつの子孫であり、オレの両親を殺したやつの弟だ。
そして、おなじ職場で働いていた人間を、虫けらみたいに殺して平然としているやつだ。
悪いやつだ。わかっている。
それでもオレはためらっていた。
「あんたはうちの事情は、きっと何も知らないだろうな」
オレがいうと、ご家老は、いまさらなんだ、というふうに目を細めた。
「興味ないけど?」
「参考までに聞けよ。時葉の家の、きつねに憑かれた長男は、これまでみんな、早死にで、まともな死に方をしたやつも一人もいないんだ」
「だろうね。きつねは、ただいるだけで金を引き寄せる。そんな便利な存在があることを知ったら、悪いやつだって引き寄せるだろうし」
だれもが知る公式を、復唱させられている生徒のように、ご家老は苛立ちのまじった声で答える。
「でもさ、あんた、そうやって代を重ねた時葉の家が、生き延びるために、なにもしてこなかったと思ってるのか?」
ご家老は、オレのほうに、あらためて銃口を向けなおした。
というか、こいつ、よく片手で銃を持てるよな。
持ち方が妙に慣れているところからして、何度か使っているってことか。
こんなろくでもないやつ相手に、オレはまだためらっている。ばかじゃねーの?
と自分を揶揄しながらも、口は自然に動いていた。
「あんたはマジで勘ちがいしているよ。金ってのは、ただのモノだ。モノがたくさんあるだけじゃ、幸せになれやしない。もしオレが死んで、きつねがあんたのところへ行っても、今度はあんたがオレのように、だれかから狙われる立場になる。きつねを引き継ぐ、あんたの子どももそうなる」
「決まったことじゃないだろう。要はやり方だと思うけど?
それって遺言として参考にはするけど、いまいち心を揺さぶられないなあ」
なんというか、イライラする。まったく話が通じない。
というか、こいつは、基本的に人の話を聞こうとしない。独善的なのだ。
いや、だからこそ、ここまで人を平然と踏みつけに出来るんだろうけど。
こういうやつが、時葉の家には長いこと付きまとっていた。
そして、代々の長男は、そいつらにいいように利用されて、命を落とした。
いま、ここでことばを尽くして説得したとする。
それで、こいつが改心するか?オレの言葉に、そんな力があるか?
こいつ、自分の父親や、義理の妹さえ殺せたんだぞ。
しかも、自分の子供の死体まで、こんなふうに、化け者にしちまえるやつなんだ。
覚悟を決めなくちゃいけない。
「あんたのいう、『やり方』ってのを、オレはオレで考えたよ。死にたくないからな。
きつねのおかげで、オレは子どものころから、なぜ生きるのか、ってことを真剣に考えてきた。
一番のきっかけをくれたのは、あんたの兄貴がオレの両親を殺したときだ。
時葉の人間に、これまで資産家はいない。なんでだかわかるか?」
「その器量も頭脳もなかったから、だろ? 使用人ふぜいの子孫が、稲荷さまなんて持つほうがおかしいんだ」
「ちがう。出る杭は打たれるって言葉のリアルな例を、みんな目の前で見てきたから、だから、なるべく目立たないように、隠れて生きることを選んだからだ。
たしかに元は使用人だったかもしれないけど、莫迦ばっかりだったわけじゃない。
事業を起こそうとしたやつもいたし、篤志家を気取ったやつもいたんだ。
でも、あまりに不自然に入ってくる金が、どうしても世間の目を引いた。
そいつらを全部引き受けて、うまく味方につける芸当なんて、口で言うほど簡単じゃない。金で黙らせる、なんて言うけど、人間の欲に切りはないんだ。そりゃあんただってわかるだろ?
どんなに追い払っても、追い払っても、金ほしさに人が寄ってくる。で、最後には、寄ってくる人間を処理しきれずに死んだ。いや、殺されるんだ。
時葉の人間にとっては、きつねは呪いでしかない。生まれた長男は、生まれた瞬間に、いつかだれかに殺されることを約束されるんだ」
「うん、まあ、当たっているんじゃない? 君がそうだものね」
「オレの前には七人の『きつね憑き』がいたってさ。その七人が、オレにとっての教科書になってくれたんだよ」
「じゃあ、君のことも教科書にするとして、そろそろ死なない?」
ご家老が引き金に手をかける。
「なんでそんなに金がほしいんだよ! オレは口下手だからうまくいえないけど、つまり、きつねを引き継げば、あんただってオレみたいに狙われる側になるし、あんたの子どもだって、同じように悩んで生きていかなくちゃならないんだぞ! それでいいのかって言ってんのに!」
すると、ご家老は、せせら笑いながら、言った。
「でもさ、世の中、やっぱり金のあるほうがいいでしょ? シンプルライフなんて流行ってるみたいだけど、金はあるけどあえて派手に使わない、ってところが洒落ているんであって、金がないやつの倹約生活なんてのは、やっぱり惨めなものだよ。
派遣をやってるならわかるだろ。ワーキングプアってのがどれだけ多いか。
てまり以外の死んだ三人が、どれだけみっともなかったか。
ま、能力がないやつらが底辺の生活をしなくちゃならないのは、いつの時代も変わらないわけだけれどね」
「みっともない? たしかに問題あったけど、問題が出る理由が、みんなそれぞれあったじゃないか!」
「理由なんて、どんな立場になろうとあるだろう。いちいちその理由に同情していたら、この世の中じゃやっていけない。
金に不自由したことのない君には、わからないかもしれないなあ。
稲荷様がこっちのものになったなら、余裕も出てきて、そんなふうにお優しい考えになれるのかもしれないけれど」
「お優しい、だ?」
「うん。なんというか、どっか理想主義だよね。ガキっぽいともいうけど。
たぶんさ、君の論理と僕の論理、どちらが支持できるか聞いたら、善人ぶりたいやつは君を選ぶかもしれないけれど、本音じゃ僕を指示する人間のほうが、数としては多いんじゃないかな。
金を維持するのだって能力だろ。稼ぐことだって能力だ。能力があるやつが、より多くの恩恵を受けるべきなんだ。能力のないやつは、大人しく能力のあるやつに従っていればいい。
なのに下手に平等だなんだというやつがいて、莫迦を勘ちがいさせるから、世の中、ややこしくなるんじゃないか」
「その論理で、オレを殺すわけか。でもって、オレの親父やお袋も殺したんだな!」
「仕方ないだろ、凡者のくせして、宝を独占していることからして罪なんだよ! 罪は償え!」
「おまえが償え! きつね!」
オレは、空中で、オレとご家老のやりとりを聞いていたきつねを振り返り、叫んだ。
「行け! 食事の時間だ!」
「やったー! いただきまーす!」そのとき、ご家老の目に映ったものがなんだったか、オレにはわからない。
きつねが見えたのかどうかも不明だ。
きつねはオレの合図を受けて、素早くご家老の前に飛ぶと、とがったその口を大きくひらいた。
深海魚で、口だけやたらとでかい、気味の悪いやつがいるが、きつねはそいつそっくりに、ずらりと鋭い牙のならんだ口を、あんぐりとひらくいた。そして、獅子舞のようないきおいで、口だけご家老の大きさに膨らんだ。
ぱくり。
じつにあっさりと、ほんとうにあっさりと、銃をかまえてうろたえているご家老と、そしてオレを襲おうとしていたまだら模様の肌をした、かわいそうな赤ん坊は、きつねに呑みこまれてしまった。
終わりだった。
あとには、なにも残らない。
これが、菓匠 燦然のコールセンターをめぐる、連続怪死事件の幕切れである。
シャッターに閉ざされた本社ビルの正面玄関には、ただ、ご家老が発射した銃の弾の痕だけが壁に残っている。
けれど、ほかには、なんの痕跡もない。
どんな優秀な人間が、ここでご家老が死んだことを証明しようとしても、不可能なことだろう。きつねはというと、ご家老と赤ん坊を飲み込んだあと、すぐにいつもの姿に戻ったが、その表情は満足そうで、尻尾をぶんぶんと振りながら、
「いやー、いい食事だったなー」
と笑っている。
オレの両親は、オレが一人っ子で、時葉の最後の人間だということもあり、きつねについて、どうしたらよいのか、いつも真剣に考えてくれていた。
だからオレも考えた。
両親が好きだったから、オレのことばっかりで悩んでほしくなかったのだ。自分で解決策を見つけて、安心してほしかった。
その解決策を提示できぬまま、両親が死んでしまったとき、オレはたった一人で、この正体不明のきつねらしきものと対峙しなくてはならなくなった。
追いつめられた、というのもあるが、そこでオレは、代々の時葉の『きつね憑き』がしてこなかったことを、はじめてやってみた。
きつねに尋ねたのだ。どうしてこの世に存在しているのか、そして、金をどんどん引き寄せてくれるのか、と。
なぜきつねがこの世に存在しているのか。それは、理科の時間に食物連鎖を習ってから、ずっとふしぎに思っていたことだった。
人間は文明というものに守られて、その食物連鎖を崩している節があるが、それはさておき、通常ならば、世界はお互いに、食べたり、食べられたりしながら、生命体系を維持している。
たしかにきつねはふつうの生命ではないようだが、大きく括れば、やはり、『この世を取りまくモノ』のひとつであって、そうである以上、この法則に組み込まれているのではないのか。
なぜ、とオレが問うと、じつにあっさりと、きつねは答えた。
「カッチンを食べるためだよ。金はエサ。そんだけ」
どんだけ、という話である。
いままで時葉の人間は、このことをきつね本人に、しっかり問いただしたことがなかったのだ。
つまり、きつねはオレを直接殺さない。
殺さないで、その周囲にエサとなる金をあつめて、だれかにオレを殺させて、その魂をおいしくいただこうとしている、というのだ。
「オレ様はぐるめだから、ただ食べるだけって嫌なんだよね。じっくり時間をかけて育てて、そこをパクリと食べるのがいいの」
こんなふうに平然と答えることができるのも、オレにきつねを倒すことはできないとわかっているからだろう。
このままでは、オレはきつねに殺される。
こいつが最強にして最悪のラスボスだったのだ。
とはいえ、倒すことの出来ないラスボスなら、どうしたらよいか。
味方につけてしまえばいいのだ。
で、オレはきつねと契約をし直した。
エサは蒔き続けていい。ただし、食べるのはオレではなく、エサに引き寄せられる悪人のほうを食べてくれ。
そのほうが、何十年にひとりしか食べられない、というよりも、もっと短いスパンで人間を食べることができる。
きつねはその提案を呑んだ。
そして、契約をし直して、最初に『食べられた』のが、ご家老の兄貴だった、というわけだ。
だれもいなくなった正面玄関の定礎は、箱根のからくり細工のようになっていて、定礎の大理石のパネルを押すと、自動的に中にあるロッカー状の空間がひらくようになっていた。
よく見ると、大理石のパネルのすみに、ちいさな鍵穴があって、普段は押しても開かないようになっていたのだと思う。
ここで、てまりによる羽柴視奈殺害が行われたわけで、よく鑑識に「これなんですか」と突っ込まれなかったものだ。
きっとご家老は、あの飄々とした応対で、誤魔化しきってしまったのだろう。
定礎のなかには、アンモナイトに似た丸いものが入っていて、掴んでも、石の感触しかしなかった。
殺生石の欠片、か。
「これがおまえ?」
と、オレが尋ねても、きつねもピンと来ていないらしく、
「そうなんじゃないのー? オレ様の卵って、あっちこっちにいろんな形で残してるから、どこにどんな形のものを蒔いたか覚えてないんだよ。そのひとつだと思うけど」
っていうか、それって、おまえの伝説を知っている人間が、その卵の数だけいる、ってことじゃないのか。
やっぱ、こいつはオレの味方じゃない。敵だ、敵。
「これからどうすんの、カッチン。この会社、たぶんもう駄目だよ」
会社が駄目、っていうか、オレが駄目だろう。
ご家老の失踪は、おそらく警察の関心を引くはずだ。
オレでさえ一日で追えた、ご家老と井田てまりの関係を、警察が追えないはずがない。
そしてミイラの身元や、複雑な人間関係から、一連の犯人が、おそらくご家老だろうというところで、落ち着くだろう。
ご家老には、動機がたっぷりある。
とはいえ、オレは今回、ちょっといろんなところに顔を出しすぎた。
真相が完全に究明されない以上、だれかがオレのことを探ろうとするかもしれない。
ゴジラじゃないけど、なにがきっかけで、第二、第三のご家老が生まれてくるかわからない。
こういうときこそ、きつねが毎日のように引き寄せてくれる金を活用するべきだろうな。
「また引っ越すか。これから寒くなるし、南なんてどうだ」
オレがいうと、きつねはぱあっと顔を輝かせて、言った。
「いいね、沖縄行こうよ、沖縄!」
「でも沖縄は不景気そうだしなあ。全国企業のコールセンターを誘致してるっていう、福岡にでも行くか。いままでのスキルが生かせそうだしな」
「福岡、けっこう寒いよ」
「東北ほどじゃないだろ。さて、そうと決まれば善は急げ、だな。すぐに荷物をまとめて、引越ししよう」
「また夜逃げだね、カッチン」
「夜逃げって言うな。せつなくなるだろ。心機一転の巻きなおしと言ってくれ」
言いながら、オレはふと、この場所で命を落とした、羽柴のことを考えた。
霊が見えるという妄想に取りつかれてはいたけれど、彼女は真剣に生きていた。
ご家老のようなろくでもないヤツがいなければ……いや、そも、オレがいなければ、彼女は、ちょっと周囲を戸惑わせるだけの女性として、人生をまっとうできたはずなのだ。
津島だって、古賀村だって、それぞれに問題はあったけれど、どんな人間にも転機はおとずれる。
それを予知できる能力が人間には備わっていない以上、いまがどうであれ、目の前の人間の将来を容易に摘み取ったり、あるいは可能性を叩き潰すことなんていうのは、罪悪以外の何ものでもない。
羽柴がオレに言いたかったことは、なんだったのだろう。
てまりとご家老の関係のことだけだったとしても、彼女の口から、その言葉を聞きたかったな、とオレは思う。
仇は討ったよ。
でも、ごめん。
オレは心のなかで彼女に謝罪すると、きつねとともに本社ビルを出て、もう二度と振り返らなかった。
たぶん、この町に帰ることも、二度とないんだろう。
二度と見ないだろう光景に未練を残さぬように、早足で、ひたすら家路を急いだ。
引越し業者の手配をしなくちゃな。
おしまい。
ご読了ありがとうございましたm(__)m はさみの。