うしろにきつね。
9
もし井田が手にしていたものが刃物だったら、オレもきつねも、相当に緊張し、どうやってこの場をしのぐか考えただろう。
だが、井田の手にしてたものが、消火器だった、ということが、油断を招いてしまったのだ。
オレはてっきり、井田はとっくの昔に逃げたのだと思っていたから、オレと戦うために戻ってきた姿におどろいた。
というより、消火器が武器ってなんだ。
ちらりと見れば、廊下に備え付けてあった消火器であるらしい。
おそらく、ほかに武器になりそうなものが見つからなかったのだろう。
オレはふたたび、背中にしがみついて、ぶるぶると震えはじめたきつねにたずねた。
「おい、おまえの弱点、じつは消火器ということはないよな」
オレが小声できつねにたずねると、きつねは震えながらも言う。
「そんなわけないじゃん。井田がコワイだけ」
「なんでそんなにコワイんだよ。気持ちはわかるけどさ」
「わかんないけど、コワイ。なんつーか、井田の存在そのものが恐怖」
「てーそー」
突然、消火器のノズルをこちらに向けた井田が、口をひらいた。
最初、なにを言ったのか、ちゃんと聞き取ることができなかった。
ぽかんとしているオレときつねを無表情に見つめながら、井田はくりかえす。
「てーそー」
てーそー? 貞操? それとも低層か?
井田は痩せた女だ。
あんまり筋力もなさそうだ。
手にしているのは、ぶつけられたらちょっと痛いけど、打ち所が悪くなければ死ぬほどではない消火器。
強行突破も十分可能である。
なんだかわけのわからないことを口にしているし……もしかして、もう一線を越えちゃっているのだろうか。
だったらなおのこと、早いところ逃げ出して、表にいる刑事に助けを求めるのが利巧かもしれない。
というか、この距離なら、大声を上げれば、刑事たちのほうが、飛んできてくれるのではないか。
そんなことを考えつつ、身がまえていると、オレたちに消火器のノズルを向けながら、井田は、どこかうつろな、そして無表情ながらも、不気味に楽しそうな口調で、歌うように言った。
「てーそー、てーそーのしたに、たまご。えさをやっておおきくする。
てーそーのしたのかねのなるみは、てのなるほうへ」
そのことばを聞いて、おびえるきつねが、ますますオレの背後で縮こまる。
オレも、また怖くなってきた。
意味がさっぱりわからない。
わからないけれど、井田には、わかることなのだろう。
「てーそーのしたのたまご。えさでまんぷく。もうすぐふかしてかねのなるみ」
とたん、オレの背中にぺったりと張り付いていたきつねが、おおきく震えたのがわかった。
こいつが、これほどまでにおびえるのは、ほんとうにめずらしい。
ちょっと怖がる、などというレベルじゃない。
『恐れている』。
井田をだ。
「オレ様、これ知ってる」
「は?」
井田から目線を外さないように注意しつつ(目を外したら、攻撃してきそうな気配があったのだ)きつねにたずねる。
「なにを知ってるってんだよ」
「井田の、ええと、唄というか、文句? 一部だけだけど、えさをやっておおきくする、とか、たまごとか」
「オレが小学校の時にハマった、熱帯魚の飼育のことを思い出している、とかいうオチじゃないだろうな」
きつねが、ちがう、と否定するのとほぼ同時に、オレの視界の端で、赤いものが飛び散った。
井田の口から、鮮血が吹き出ていた。
ふつう、血なんてそうそう口から吹き出てくるようなものじゃない。
ふつうじゃない状況にいま、いるわけだが、だからといって、なんで唐突に血を吐くなんてあるんだ?
きつねは「ぎゃー」と、ベタな悲鳴をあげて、尻尾をぶんぶん狂ったように振りながら、オレの背中で大暴れする。
呆然とするオレたちをまえに、消火器を手にしたまま、井田は空咳のような音をたてて、何度も何度も血を吐く。
びっくりするほど綺麗な赤い色の血だ。
オレはオレで、かのトラウマ邦画『八つ墓村』の冒頭のシーンを思い出したりしていた。
あれは毒を盛られたという話だったはず。
なんだったっけ、青酸カリだったっけ。
待て。
青酸カリだろうがなんだろうが、井田はそれを飲んで、オレたちのまえに現れたのか?
というか、青酸カリって、即効性がめちゃくちゃ高いんじゃなかったっけ?
なんか変だぞ、おかしいだろう。
仮に青酸カリじゃないとしても、自殺して、ついでにオレたちも道連れにして口封じするために、わざわざ戻ってきたというのか?
凶器が消火器ってのもなんだか行き当たりばったりなのに、口封じのために戻ってきた、ってところが変に冷静だし、なんなんだ?
「てーそー」
と、井田は、血を吹きながらも、またくりかえした。
そして、まるで磁石に踊る砂鉄のように、ぐるぐると不自然にまわりながら、血を吹きつづけた。
井田が廊下に崩れ落ちる直前になって、ようやく、オレを尾行していた刑事たち
が、階段をのぼって、こちらにやってくるのが見えた。
オレはS署に連れて行かれて、事情を聞かれた。
オレに対する刑事たちの態度は、容疑者に対するものというよりは、なんだか不気味なものをまえにして、戸惑っている、というふうだった。
井田の死因はいまだ不明で、どうやら毒物の摂取によるものだということを教えてもらった。
井田のアパートの中にあったものも、刑事たちが混乱する材料になっているらしい。
オレが羽柴殺害の容疑者だったなら、オレの交友関係を、刑事たちは最初に調べているはずである。
そして、オレが個人的に、井田てまりとは接触がなかったことくらいはわかっているはずだ。
刑事たちは、
「どうして井田の部屋に行ったのか?」
と不思議がったが、オレが、
「羽柴視奈さんのことで、井田さんがなにか知っているかもしれないと思ったのと、長期欠勤していたので、どうしたのだろうと思ってアパートに行ったら、鍵が空いていた(鍵を拾ったことは、ややこしくなるので伏せておいた)ので、つい中に入った」
と素直にこたえると、案外、あっさりと、そうだったのかと納得してくれた。
住居不法侵入で逮捕されるかとひやりとしたが、押入れのなかにあったもののインパクトが強烈すぎて、そのことは見過ごされてしまっているらしい。
オレとしては、ほんとに、このままスルーの方向でお願いしたいところである。
S署は、『菓匠・みちのく燦然』のコールセンターで起こった、この犯罪博覧会のような状況に、上も下もおおさわぎだった。
もちろん、マスコミが、これほど猟奇臭のつよい事件を放置するはずもなく、署の外に、新聞記者だのTV局だの雑誌記者だのが、大挙しているようである。
オレは事情を聞きたいから、ということで、しばらく署内で待機するかたちとなった。
スポンジのはみ出た、古くて汚い黒いベンチに腰かけて、オレは、右往左往する警察関係者の姿を、きつねといっしょに、ぼんやりと見つめていた。
ふたたび目にした、顔見知りの死をまえに、すっかり気力が萎えていた。
「カッチン、元気だしなよー、長い人生、こんなこともあるって」
と、きつねが無責任な励ましのことばをかけてくる。
きつねのやつ、恐怖の対象だった井田がいなくなったので、すっかり元気になったのだ。
こういう気持ちの切り替えのよさが、人間に近い部分はあるけれど、やはりそうじゃないのだな、と感じさせるところである。
きつねの辞書に『感傷』という文字はないのだ。
というより、なんなんだ、この状況。ぜったいにおかしいだろう。
たとえオレが二百歳まで生きたとしたって、同僚に盗癖があって自殺したり、通り魔に襲われて死んだり、何者かによって刺されたり、ミイラを自宅に隠し持っていたり、その後、とつぜんに血を吹いて死んだりするなんて状況に、そうそう遭うはずがない。
「なあ、きつね」
「なにさ」
「思うに、この異常な出来事のそもそものはじまりは、羽柴が女子トイレの奥になにかがいると騒ぎ出したことからだったよな?」
「そうだね」
「おまえは、羽柴の霊感は偽モノだといったけれど、ほんとうに、女子トイレの奥に、なにもなかったのかな」
「んー? もしかして、その言動、オレ様を疑ってたりする? あんまし気分はよくないけど、これからのために素直に答えるよ。
羽柴の霊感は思い込みの産物だよ。言っておくけど、ほかのスタッフのなかに、羽柴より霊感のつよいやつがいたくらいだもの。ときどき目が合って、どきりとしたなー」
「それ、だれ?」
「今回の騒動に関係ないスタッフだよ。古賀村の騒ぎのときにもう辞めちゃってるし。
つまりさ、ほかのスタッフで羽柴なんかより、ぜんぜん霊感のつよい人がいて、オレ様のことも気配で気づいていたくらいだったけど、騒いだりしなかっただろ?
もし女子トイレの奥にほんとうになにかがいたら、ほかのスタッフも一緒になって騒いでいたよ」
「たしかに、トイレの霊に関して、騒いでいたのは、羽柴だけだったな」
「かまってちゃんだった、ってことだよ」
「死んだ人のことを、そういうふうに言うなよ。おまえにとっちゃ、人間の死なんて、珍しくもなんともないものなんだろうけど、オレには、耐えられないことなんだよ。
悪意があって言っているわけじゃないのはわかるけど、聞くほうは不愉快なんだからさ」
オレがいうと、きつねは尻尾をくるくるとプロペラのように回しながら、オレに尖ったあごを近づけてきた。
「ごめん、カッチンが人間だって忘れてた」
「あのな、それは常に、絶対に忘れないでいて欲しいことだな」
人間なんだよ。
そう思いながら、ベンチに腰かけて、忙しく動き回っている警察官を眺める。
すでに深夜の時間帯になりつつあるのに、警察署内はざわざわと騒がしい。
階段の踊り場では、スペースがないためか、深夜勤務のパトロール警官の夕礼がおこなわれている。
「なんだか思い出すねぇ」
と、きつねが言ったので、オレもうなずいた。
両親が死んだときも、こんなふうにベンチのうえで、ぼんやりと人の動きを眺めていた。
オレの人生が、人の死に濃く結び付けられたきっかけを探れば、それは、きっと両親が死んだときからだろう。
シーズンオフで、知り合いから旅行のチケットを安くゆずってもらったので、温泉旅館に三日間、行ってくると出かけた。
オレはそのときまだ学生だった。
オレはまだ眠っていたので、両親は、オレに置手紙だけを置いて出て行った。
両親が始発電車に乗るため、日の明けきらない時間に出て行ったのだ。
オレは、小さい頃から、わりと一人にされやすい子どもだった。
というのも、オレにはきつねが憑いているから、両親からすれば、大人がひとり、つねに一緒にいるような感覚だったのかもしれない。
なにも不吉な予感も、胸騒ぎをおぼえることもなかった。
深夜に電話が鳴るまでは。
両親の死を知らせてきたのは、旅先の警察署の刑事だった。
強盗殺人らしい、ということだが、はっきりしたことがわからない。
警察の調べによれば、両親が温泉に行ったあいだを見計らって、金品を盗もうとした強盗が、帰ってきた両親とうっかり鉢合わせをし、顔を見られたので殺してしまったのではないか、ということだった。
実際、部屋は荒らされており、父のセカンドバック、母の財布などはすべて盗まれていた。
犯人は、捕まっていない、となっている。
「オレはあのとき、ともかく犯人が憎くてたまらなかったから、いろいろ考えられなかったけど、思えば、よくわからないやつだったよな」
「んー。ふつうの強盗にしちゃあ、たしかに粘着質だったよねー」
と、オレのとなりで、ちょうど犬がお座りしているような姿勢になってベンチに腰かけているきつねが、同意してうなずく。
両親の初七日も過ぎたころ、一人になったオレのところへ、父の仕事の知り合いだと名乗る男がやってきた。
ぜひ焼香をあげさせてほしいというので、家に上げた。
男はしばらく、遅くやって来た弔問客を装っていたが、帰ろうとする段になって、豹変した。
男は刃物を取り出して、オレに襲い掛かってきた。
両親を殺したやつが、盗んだ品物などから自宅を調べて、オレを殺しにやってきたのだった。
男の名前はわからなかった。
身元のわかる品物は、いっさい持っていなかったし、最初に名乗った名前も、思い切り偽名だった(そも、サトウタダシと名乗ったのだ。全国に何百、下手すると何千とある名前である。ひとりひとりを当たって、関連を調べるのはあきらめた)。
顔も、特長のある顔じゃなかった。
あとで、指名手配犯の顔写真の載っているサイトなんかをネットで漁ってみたけれど、同じ顔を見つけることはできなかった。
男は、オレを襲ってきて、それでどうなったかって?
それはまあ、今オレのとなりにいるやつが、こう、ぱくっと。ね。
「そういえば、おまえ、井田が言っていた『てーそー』がどうとかいうことば、聞いたことがあるって言っていたよな。あれってどういうことだよ」