うしろにきつね。
8
人間、なんてことがあるか?
オレの手は、無意識のうちに口を押さえていた。
井田の部屋に入ったとき、芳香剤の臭いがきついと感じたが、それは、押入れに大量に並べられている芳香剤のためだった。
黒い、いまはあまり見ない、ビニールのゴミ袋。
膝をかかえた人間そっくりのかたちをしたものをつつんだそれの周辺に、いは……いや、マトリョーシカのように芳香剤が並べられている。
「位牌みたいだなー」
と、きつねが言った。
オレもそう思ったけど、あえて『マトリョーシカ』だと思うことにして誤魔化したのに、きつねのばか。
「ふつう」
オレは手で覆った口のまま、言った。
「なにさ」
「ふつうの女のひとり暮らしのアパートのなかに、こんなにあからさまに『アレ』っぽいものが置いてあるか? どうみても、これは『アレ』だろう」
「なんだよ、はっきりしないな。死体だよね」
「それだ……オレを尾行している刑事さんを呼ぶべきかな?」
「中を確かめたほうがよくない? マネキンかもしれないよ」
「気休めはよせ。さっきおまえ、自分ではっきりと『ヤバイ』って言ったじゃないか。おまえが『ヤバイ』というときは、ほんとうに『ヤバイ』だろ」
「ヤバイよ。さっきから、オレ様の感覚も狂いまくり。赤ん坊の泣き声も聞こえるしさ」
赤ん坊の泣き声、と聞いて思い出すのが羽柴視奈のことだ。羽柴が『女子トイレに幽霊が出る』とさわいだとき、きつねが言ったことを思い出す。
羽柴視奈の腰のあたりに、赤ん坊が取り憑いていると、そうきつねは言ったのだ。
「赤ん坊って、羽柴の赤ん坊と同一人物?」
「なんだか、赤ちゃんに『同一人物』ってことばがそぐわないのは、ふしぎだよね」
「そういうことは、あとでふしぎがってくれ。どうなんだ、一緒なのか?」
「赤ちゃんの声って、みんな同じに聞こえるんだよなー。
ほら、そこにある、蓋をがっちりガムテープで締め切ってある、あからさまに怪しいアイスボックス。
そのなかから、赤ん坊の声が聞こえてくるよ」
オレは、押入れをあけたらすぐ目の前にあったビニール袋に気を取られていたが、きつねはちゃんと押入れの奥のほうまで確認していたのだ。
言われて見れば、たしかにアイスボックスがあって、非常に不自然なことに、その蓋は、ガムテープが幾重にも巻きつけられ、密閉されている。
この中から赤ん坊の声が聞こえるという。
待て。
それじゃあ、羽柴に憑いていた赤ん坊って?
「まて、わけがわからなくなってきた。おまえが羽柴の腰に、赤ん坊がいるって言ったんだぞ。しっかり責任を持って答えろよ。
羽柴の腰に憑いてた赤ん坊は、羽柴の子どもなのか?」
きつねは、井田の部屋の電気のコードを中心にして、くるくると新体操のリボンのように器用にまわりながら、言った。
「そりゃ、DNA鑑定とかしないとわかんないって」
「真面目に答えろっての。大事なことだぞ! 女子トイレに、羽柴がいうような幽霊はいなかった。
これもおまえが言ったことだ。ほんとうにそうだろうな?」
すると、きつねは、あからさまにムッとした顔をして、答えた。
「オレ様を疑っているわけ? それって、かなり心外。カッチンに嘘ついて、メリットなんにもないよ。むしろデメリットだらけじゃん。
言っておくけど、羽柴に霊感なんてなかったよ。
だいたい、ほんとうに霊感のあるやつなら、自分の腰に憑いている赤ちゃんにだって気づいただろうさ。
羽柴はいわゆる『アタシって特別なヒト』と常に思っていたい、変形ナルシストだったのさ。
火のないところに煙は、ってわけじゃないけど、おもしろいことに、幽霊が見えるって言っている人間って、どーも不幸を呼びやすいんだよな。
あれって、幽霊が話題にされているのをよろこんで近づいてくるからだぜ」
「いまは羽柴のプロファイリングはどうでもいいよ。おまえを疑っているんじゃなくて、単刀直入に言うと、このアイスボックスの中身が、井田を介して羽柴に取り憑いた可能性があるんじゃないかってことだよ。
どうだ、可能性、高くないか?」
「んー」
と、きつねは、宙を泳いでオレの横に並んで、押入れの中にあるアイスボックスを凝視する。
「似てるっちゃあ、似てる」
「もしかして、いつのまにか空になっていた引き出しの中身って、いまアイスボックスの中にあるんじゃないだろうな?」
「お、新展開だね」
「ミョーに冷静だな、おまえ。オレはさっきから、鳥肌が立ってたまらないよ!
羽柴が死んで、取り憑く相手がいなくなったので、ここに戻ってきたんだ。もともと井田のものだった。
このアイスボックスの中身はなんだ? 井田は、なんだってそんなものを職場に持ち込んでいたんだよ!」
「オレ様に問われても、井田じゃないからわからないよ」
そりゃそうである。
「それより、騒いでるより、中身を見たほうが早くない?」
「見なくてもわかる。こりゃ『アレ』だ!」
「死体」
「わかってるなら、見ろなんて言うなよ!」
芳香剤のきつい匂いのせいで、あたまがくらくらする。吐き気もしてきた。
だれが好き好んで死体なんて見たがる?
「カッチン、気持ちはわかるけど、これが死体だとして、『だれの死体』なのか、でもって、アイスボックスのなかになにが入っているのか、ちゃんと見ておかないと」
「ないと?」
「不法侵入の言いわけがたたないよ。表にいる刑事さんにますます疑われていいわけ?」
きつね、おまえ、ほんとうは悪魔の使いじゃないだろうな。
黒のビニール袋は劣化して、光沢がなくなっていた。だいぶ年月が経っているものとわかる。
ビニール袋の中身は、まちがいなく大人だ。
それも、かなりガタイのいい。
奥にある大きなアイスボックスは、おそるおそる手を伸ばして、ガムテープの粘着度を見てみると、最近、貼り付けたばかりのような感じである。
黒のビニール袋。
大人が膝を抱えているような形にそっくりだ。
素手で破ることもできそうだったが、いきなり中身に手が触れるのが怖かったので、井田の部屋を家捜しして、はさみと軍手を調達してきた。
くの字に折れ曲がっているその物体は、ちょうど首のところ、手首のところ、足首のところに該当するあたりにガムテープが巻かれている。
いきなり首に挑戦する勇気はなかった。
胴体のあたりの、ビニール袋がたゆんでいるところにはさみを入れる。
よくよく見れば、ビニール袋はひろげたものを、何枚にも重ねて巻いているのだとわかった。
はさみは、ほとんど音もなく入った。
はさみを入れるまでは、吐き気がこみ上げてたまらなかったが、いざ作業をはじめると、あとは感覚がなくなった。
ひたすら、はさみを進めて、ビニールを割いていく。
悪臭を覚悟したのだが、思ったよりつよい悪臭は襲ってこなかった。
いや、もう嗅覚すら麻痺していたのかもしれない。
ビニール袋の中には、新聞紙でぐるぐるに巻かれたなにか、だった。
この新聞紙の上から、ほとんど隙間なくびっしりとガムテープが貼られている。
がちがちに巻かれているガムテープを避けるようにして、はさみを進めていくと、新聞から一部分がはみ出している部分があった。
ツイードのスーツの上着の一部である。
ちょうど肘から手首にかけての部分で、手首のところをそっと掴むと、釦の糸が弱くなっていたのか、カフス釦がぽろりと取れて、オレの手のひらのうえに転がった。
が、オレはそれにかまわず、手首のところから、そっとめくってみる。
頭のどこかで、マネキンの肌が現れればよいなと思っていた。
だが、あらわれたのは、魚の燻製を思わせる、乾いた人の皮膚であった。
オレは本物のミイラを見たことはないけれど、ふしぎなもので、ほとんど直感でわかったのだ。
これは本物のミイラ。
人間だったものだと。
「きつね、表にいる刑事さんに」
と、部屋の隅っこで、不甲斐なくオレを見つめているきつねに声をかけたそのとき、がたりと音がして、振り返ると、井田が玄関に立っていた。
気まずい沈黙。
なんてものじゃない。
井田は片手にコンビニの白いビニール袋を提げている。
うっすらと、菓子のパッケージが見える。
しまった、きつねは外の見張りに置いておくべきだったと思ったのも、あとのまつり。
井田は唖然とした顔をして、俺のほうを見ていた。
たまに下手なドラマで、侵入者に対して、わかりやすくも、すぐさま悲鳴をあげるシーンがあるが、あれはやはり、反応がよすぎるというものだ。
井田のように、目の前のものがきちんと目に入っているのに、それがなにか理解できない、という表情を浮かべるのがまともな反応だ。
いや、まともか、まともじゃないかの話じゃない。
まずくないか、これ。
井田は呆然自失状態のまま、オレを見て、それから、押入れのほうを見る。
黒いビニール袋につつまれたミイラ。
井田の手にしているお菓子のパッケージだけが、あまりにありふれていて、かえってオレは背筋がつめたくなった。
ここにあるものはミイラ。人の死体だ。
そんなものが入っている部屋のなかで、井田は毎日を暮らしていたのだ。
眠り、食事をし、風呂に入り、テレビを見て、電話をしたり、ゲームをしたり、ふつうの生活をしていたのだ。
ふつうじゃない状況のなかで、ふつうに。
と、同時に、オレは大声で叫びだしたいほどの恐怖にかられた。
ビニール袋の中身をたしかめるために、無理矢理おさえていたものが、井田の暮らしぶりなんぞを想像したために、抑えが利かなくなってしまったのだ。
いますぐここから逃げたい。
けれど、体が動かない。
いや、そのまえに、おそるべきゲートキーパー・井田てまりを突破しなくてはならない。
どうする? どうしたらいい?
こういうとき、きつねは、まずまちがいなく役に立たない。
オレの背中のうしろで、ぐるぐると、毛玉にじゃれるねこのようになって、井田から姿を隠そうとしている。
井田にはきつねが見えないのだから、隠れることもないのだが、きつねはなぜだか、
「コワイ、コワイ」
と言いながら、けんめいに井田の視界から逃げようとしている。
オレは恐怖に強ばったまま、井田と視線を戦わせていた。
熊と会ったとき、目を合わせちゃいけないんだったか、それとも目を逸らしちゃいけないんだったか、それとも、目を逸らしちゃいけないのは、犬に優先順位をまちがえさせないためだったか。
ともかく、オレと井田は、キッチンをはさんで睨み合いをつづけた。
負けた(というより、この場合、先に我にかえった、というべきか)のは、井田のほうだった。
井田は、無言のまま、くるりと踵をかえすと、そのまま部屋を出て行った。
「カッチン、カッチン、逃げてったね!」
と、きつねがオレの肩に長い顎をのせて、がくがくと震えながら言う。
こいつが見えないやつは、こいつに触れることもできない。
だから、きつねが井田を怖がる理由はさっぱりわからない。
オレの身体も震えていたが、きつねの震えが移ったのか、それとも、いまになって恐怖がほぐれて体が悲鳴をあげているのか、わからなくなっていた。
「いまのうちに逃げよう!」
この場から逃げることに異論はない。
きつねのことばをきっかけにして、オレは立ち上がると、靴をつっかけて、外に出た。
きつねはまだ怖いのか、おれの背中に爪をひっかけて、しがみついている。
当たりまえだが、外の光景に、なんら変化はなかった。
変化がないからこそ、扉一枚へだてた中にあるモノの異様さが際立った。
井田は、なんだって、あんなものを持っているんだ?
だれかがこの部屋の中で死んだ。どんな死に方だったかなんてわからない。
ともかく、だれかが死んで、井田は、その始末に困ったのだ。
で、一緒に住んでいた?
「ミイラになる過程で、人間の身体って、におわないのかな」
脱臭剤が大量にあったところを見ると、もしかしたら臭っていたのだろうか。
オレが思わずつぶやくと、背中にしがみついているきつねが応える。
「わからないけど、あのミイラの肌って、かつおぶしみたいだったね」
「やめろ、かつおぶしが食べられなくなるだろ! というか、おまえ、そろそろ離れろよ」
「せめて、ここを離れるまではこうしていたい」
このセリフを、かわいい彼女から言われてみたい。
オレはこれからどうするか考えながら、アパートの階段のほうへ身体を向けた。
表でオレを尾行している刑事に通報するべきだろう。
通報しない理由はない。
べつに市民の義務だから、という理由ではなくて、この部屋のなかにいるミイラがだれだかわからないけれど、ちゃんと弔いもされないで、あんなビニール袋に布団みたいに押し込められている状態である、というのが、なんだかイヤだったのだ。
あの黒いビニール袋、ゴミ袋だろ。
井田にとって、あのミイラは、あまり好意のもてる人間じゃなかったのかな。
強い愛着があったから一緒に暮らせたのか、それとも強い憎しみがあって、墓にも葬ってやらないぞ、ざまあみろ、という気持ちだったのか。
そのあたり、あんまり深く考えたくないけれど、やっぱり考えるよな。
「カッチン、ちょっと!」
きつねにうながされて、オレは気づいた。
アパートの、階段に向かう廊下に、井田が立っていた。手に消火器を持って。