うしろにきつね。
6
彼氏もち(推定)の子が待つであろうドトールに向かうまえ、オレはふと思い出して、正面玄関で立ち止まった。
津島が自殺した夜も、ご家老は、この正面玄関の壁に向かって、ひとりで、なにやらぶつぶつとつぶやいていたのだ。
『嘆きの壁』と、スタッフには冗談で言ったが、どうみても、どこにでもある、大理石のタイルが貼ってあるふつうの壁、だよな。
包容力があるような雰囲気でもないし、ここでつぶやくと天使が降りてくるとか、そんな神秘的な空気もない。
ご家老、やっぱり変人だ。
ともかく、羽柴だ。
彼氏もちかもしれないけれど、羽柴は、霊が視えるという以外では、いい子だ。かわいいし。
性格だってそう悪くない。
古賀村の件のことはあるが、あれは、冷静に見ても、古賀村に問題があった。
それにしても、羽柴の相談ごととはなんだろう。
わざわざ『高森センター長に内緒で』という断りを入れてあるところが奇妙だ。
オレはドトールに入ったが、羽柴はまだいない。
18時をだいぶ過ぎても、羽柴はあらわれない。
『マズイ顧客に捕まっているのかな』
しかし、オレはタイムシートを書くときに、羽柴も片付けの準備をしているのを見ている。
彼女はインカムを外して、個人情報の入った書類をまとめてシュレッダーに向かっていた。
「からかわれたかなー。気の毒だな、カッチン。運命に弄ばれるサクリファイスな男」
「おまえに言われたくないよ、マジで」
きつねに八つ当たりをしてみるものの、きつねは不幸が大好きなので、『♪あーららこらら』などと腹の立つ唄を歌って、俺の頭上を旋回しつづける。
いつか猟銃でこいつを撃ち落す。
携帯電話の時計を見れば、もう19時を過ぎている。
いくらなんでも遅すぎだろう。
オレは羽柴に、いまどこにいるのか、とメールを送ったが、返信はなかった。
道路の向かいにある『菓匠 みちのく燦然』のビルを見る。
コールセンターのある階は、明かりがついている。遅出のシフトのスタッフが、いまでもあの明かりの下で働いているはずだ。
あたらしいスタッフがまずい顧客につかまって、そのフォローに回っているのかもしれない。
「カッチン、前向きー」
などときつねにからかわれながらも、俺はドトールを出て、『みちのく燦然』のビルに戻った。
そしてコールセンターをのぞいてみたのだが、中に羽柴の姿はない。
が、オレは、見慣れたコールセンターの、いつもとはちがうところに、すぐに気がついた。
井田てまりの机の引き出しにあった、チェーンや数字錠がなくなっているのである。
井田てまりも、早出であったから、もう帰っているはずだ。
いかなる心境の変化か?
ともかく、あの引き出しのなかになにがあるのか、確かめるチャンスである。
「きつね、開けて平気かな」
オレが尋ねると、きつねは乗り気ではないらしく、ぐずぐずとした調子で、こんなことを言った。
「なんともいえないなー。中にヤバイものが入ってたら、オレ様的には、ダッシュで逃げるんで、そのときはよろしく」
「よろしくされないよ。もしこの中に、たとえばイグアナが入っていて、オレに噛み付いてきたら、助けろよ。
おまえ、オレが時葉の家の最後の血筋だって、わかってるだろ?」
オレがいうと、きつねはしぶーい顔をした。
「わかってるよ。オレ様、オレ様のことがよくわからないけれど、カッチンがいなくなったら、オレ様もこの世にいられなくなることは、わかってる」
「だったら助けろ」
「なーんか、契約外労働っての? そんな気がしなくもないんだけど」
「だれとの契約だよ」
「カッチンのご先祖かなー。きつね憑きって、なんでそんな状態になるかっていうと、要するにこの世のものではないモノに、人間そのものを憑代にして、この世に居場所を作ってやるってことなわけさ。
自己犠牲精神にあふれた、カッチンのご先祖に感謝」
「オレは大迷惑だよ。ともかく、助けてくれ」
「わかった。でもやだなー」
きつねは、いかにもいやいや、というふうに、オレのうしろに、リュックみたいにぴったりくっつくと、井田てまりの机に向かった。
働いているスタッフは、オレの姿を見て、あれ、という顔をしているが、これはきつねが見えているからではなくて、もう退社したはずのオレが、戻ってきたのにおどろいているからだ。
ともかく、オレは引き出しに手をかけると、ぐっと手前に引いた。
なにがあるのか。
異臭がするかもしれない。
とんでもなく嫌なものを見るかもしれない。
なんだかいろいろと最悪の状況が、つぎからつぎへと想像される。
うしろじゃ、きつねが、
「やっぱ、やめよう?」
とか言っているし。
ええい、一気に行くぞ!
がらり。
引き出しの感触は軽く、手前にあらわれたスチールの箱のなかには、あきれたことに、何にもなかった。
空っぽだ。
「おまえ、なにを怖がっていたんだよ」
思わずきつねにつぶやくが、やつは決まり悪いせいか黙っている。
と、そのとき、突然にビルの警報装置が鳴り響いた。
とつぜんの警報ベルに、それまで顧客と会話をしていたスタッフも、腰を浮かせて、周囲を落ち着きなく、きょろきょろと見回す。
鳴りつづける警報ベルをものともせず、会話をつづけるプロ根性たくましいスタッフもいたが、そのなかで、オレはみんなに落ち着くように言って、それから、廊下に出た。
火事なのだろうか。
非常階段側に顔を出してみると、階下でだれかがわあわあと叫んでいる声が聞こえる。
声、というよりも、悲鳴にちかい。
男のものと女のものと、それが雑多に入り混じったその声の群れは、コンクリートの壁に反響してしまい、かれらがなにを言っているのか、聞き取ることができない。
エレベーター乗り場に回ってみるが、こちらは停止になっている。
業務用エレベーターのほうも同様だ。
「カッチン、こんなものが落ちてたよ」
と、廊下を右往左往するオレに、きつねが金属のなにかを差し出してくる。
なんだと思いながら受けとると、それは、ピンクのリボンがついた、どこにでもあるような鍵だった。
ロッカーの鍵のような小さなものではなく、家の鍵に見える。
「どこで拾ったんだよ。だれか落としていったのかな」
もしそうだとしたら、きっと家に入れずに困っているだろうとオレが考えていると、きつねはぶるりと身を震わせて、尖った顔をオレに近づけて、言った。
「落し物じゃないよー。井田てまりの引き出しの下に落ちていたんだよ」
「引き出しの中に入ってたんじゃないだろうな」
「引き出しが空っぽだったのは、カッチンも見ただろー。カッチンが引き出しを開けたとき、ぽろって床に落ちたの、気づかなかった?」
「すぐ警報ベルが鳴ったからな。井田の家の鍵なのかな。鍵まで怖いのかよ、おまえ」
「わかんないけど、その鍵も、なんかコワイ」
「おまえの勘もあやふやだな。まあいいや、ともかく、階段で下へ行くしかないな。ほかのスタッフはどうしてる?」
「けっこうみんな冷静だよ。ご家老が火事じゃないから、とか言って説明しているのが聞こえた」
「火事じゃない? じゃあ、なんなんだよ、コレ」
じりじりとつづく耳障りなベルの音に眉をしかめながら、非常階段を降りようとしたとき、上の階から、顔見知りの総務部の人間が、携帯電話を片手に、すばらしい勢いで廊下を駆け下りていくのにぶつかった。
総務部は、こんなことを言っていた。
「生きてるの? え? わかんない? なんで! ちょっと、ほかにだれかいないの? 血がコワイだなんて言ってる場合じゃないでしょ! 生きているんだったら救急車、生きていても死んでいても警察! 連絡して!」
いやな予感がした。
また殺人。S市の『菓匠 みちのく燦然』本社ビル内。
9月○日午後七時ごろ、M県S市M区『菓匠 みちのく燦然』本社ビルの正面玄関において、当ビルのコールセンター勤務の派遣社員、羽柴視奈さん(23・S市A区)が体から血を流して倒れているのを、警備員が発見した。
羽柴さんは腹部を中心に数箇所も刺されており、死因は大量出血と見られている。凶器はみつかっていない。
警備員室には三人の警備員が在駐していたが、事件が発生する直前に、『最上階のトイレに不審者がいる』と匿名で通報があり、二人がこの確認のため移動した。
その後、残った一人が給湯室へ向かったあいだに、犯行があったものと見做されている。
正面玄関には監視カメラが設置されていたが、録画機能が故障していたため、犯行当時の様子などを確認することはできなかった。
『菓匠 みちのく燦然』本社ビルは、人通りのおおい大通りに面したビルであるが、いまのところ外部からの目撃情報はない。
犯人は、羽柴さんを刺殺したあとに正面玄関から逃走しており、羽柴さんの傷の具合から見て、返り血を浴びた状態であったと見られる。
M県警は目撃者情報を募っている。
津島瞳子、自殺。
古賀村五月、絞殺。
羽柴視奈、刺殺。
こうなると、最初の津島の死も、ほんとうに自殺だったのか、疑わしくなってこないか、などと、夜九時からのサスペンスドラマをよく見ているスタッフが言ったが、たとえミステリー好きでなくても、そう疑っただろう。
片平なぎさか舟越英一郎に、ぜひ解決していただきたい、などと軽口を叩く気持ちにもなれない。
羽柴が、オレとの待ち合わせにあらわれなかったのは、ほかのだれかと会っていたからだ。
警察が教えてくれたところによると、羽柴の致命傷は、背中からの傷だったという。
つまり、だれかに背を向けて、外へ出ようとした羽柴を、犯人は引きとめようとしたのか、背中から刺して、そして身を守ろうと、反射的に犯人のほうに振り向いた羽柴の腹を、また複数刺したのだ。
警備員室に入った、『トイレの不審者』にしても、かつて羽柴が『トイレに幽霊がいる』と騒いでいたことを、髣髴とさせる内容ではないか。
犯人は、すくなくともこのビルの、そしてコールセンターの内情にくわしいやつにちがいない。
凶器は、柳葉包丁のようなものだと、警察は言った。
オレは、羽柴と待ち合わせをしていたことを、正直に警察に打ち明けた。
警察は、オレの携帯のメールをコピーして行ったが(没収されそうになったのだが、ほかのスタッフからの電話が入るかもしれないと、粘ったのである)、
その文面の、
『高森センター長には内緒で』というところに、引っかかりを覚えたようだった。
羽柴は、オレに何を伝えようとしていたのだろう。
羽柴の死の、そのあと二日間は、コールセンターの営業は、自粛するかたちとなった。
犯人は見つからないうえ、目撃情報もない。
警察は、スタッフに個別に事情聴取をしているようだ。
「警備員室に匿名の通報があった、ってところが、なんか工作っぽいよなー。実際に、不審者なんていなかったわけだろー」
と、きつねが空中を泳ぐようにして言う。
オレは自宅で寝転がって、ひたすら天井と、たまに天井を横切っていくきつねを眺めていた。
オレの部屋の天井には、きつねが見て面白いように、世界遺産のポスターが貼ってある。
ストーンヘンジだのグレートバリアリーフだのの写真を背景に、黄金色のきつねは、くるくると稲穂のように踊った。
羽柴はもともと県内の出身者ではなく、遺体は司法解剖のあと、すぐに県外の両親に引き取られていったそうだ。
葬式には、高森センター長と『菓匠 みちのく燦然』の社長が向かった。
津島のときとちがって、オレは葬式に行く気になれなかった。
津島よりも、羽柴のほうが親しかったのに、体が重くなって、言うことを聞いてくれない。
羽柴が死んだことを、オレは認めたくないのだ。
羽柴を最後に見たのは、机を片付けているところで、それ以降、彼女はこのビルのどこかにいて、外に出るところを刺された。
外に出て、オレに会いに行こうとしていた。
それを止めようとしたやつがいるのか。
オレがドトールから帰ってきて、コールセンターへ向かったとき、正面玄関にはなにもなかった。
すると、コールセンターに戻ったその直後に、羽柴はトラブルに巻き込まれたわけである。
いい子だったのにな。
オレになにを言おうとしていたんだろう。
「きつね、おまえって、イタコみたいに口寄せとかできないよな」
「できないよ。カッチンの親が死んだとき、試してみたけど、駄目だったじゃん」
「そうだったっけ」
両親が死んだとき、オレは荒れ狂っていて、こいつにかなり無理やわがままを言って困らせた。
きつねなんだから、イタコのまねくらいしてみせろとかなんとか大騒ぎしたり、きつねを自分のあいだに、なにかラインが繋がっているんじゃないかと思い込んで、それを切るために、はさみを持ってきつねを追い掛け回したり。
いま考えると、すこし病気が入っていたかもな。
「ところでさ、カッチン、アパートの外に、朝からずーっとおなじ車が停まっているよ。オレ様、あの運転手の顔、おぼえてるよ。津島の自殺の事情聴取にきた刑事さんだ」
「は? マジで? 窓から見えるか?」
オレが起き上がると、きつねは尻尾を振りながら、答えた。
「見えるかもしれないけど、確認しないほうがいいんじゃない? 気づかないフリをしたほうがいいよ。逆に疑われると面倒だろ」
「なるほど…って、待て。オレ、もしかして、第一容疑者?」