七夕フェスタ リクエスト企画 第14弾 山葉様からのリクエスト
桔梗の家

後編

「楊という男がいるだろう、枝江の楊の、分家筋の男なのだが」
「いるな。あの人の良い男だろう。咳止め薬を煎じるのがうまい男だ」
「揚武将軍の口利きで入った、安(あん)という男がいるのだが、これがなかなか奇矯な男といおうか、楊の仕事ぶりが気にくわないらしく、やたらとつっかかって、揉め事ばかり起こしている」
「なぜ」
「楊の仕事の遅さが気に食わないらしい。やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
「遅いというのは、それで周囲の仕事が滞るというほどなのか」
「そうなのだろう」
「だろう、とはどういうことだ。おまえが監督しているのではないのか。なぜそのような配置にしている。年だからと判っているのならば、配置替えをするなどの策を講じればよかろう。なぜにそのまま放置している。まさか、主公にそのことを相談に来たのか」
「揚武将軍が絡むからな」
「揚武将軍はどうでもよい。安とやらがどのような男かは知らぬが、物のわからぬ男だ。で、そいつをいかに閑職に追いやる相談だろうな」
「左将軍府の人事に絡むことだ。すまないが、話すことはできない」
「ならば、なぜそのような話を俺にする。年だからといって楊を罷免するか、あるいは安を閑職に追いやるか、おまえがどう考えているかは、俺にわからん。ただ、正直なところを言わせて貰えば、おまえは俺が思った以上に切り換えが早すぎる。いまのおまえには、付いて行くのが困難だ」


それから趙雲は、顔色と同時に、言葉をも失った孔明に、一気に言葉をまくし立てた。孔明は、記憶力のよいところをみせて、趙雲の吐き出した言葉のひとつひとつを検討してみたが、それは、ほとんど文脈の読み取れぬ、言葉の羅列にしか過ぎない。
と、すれば、やはり、それ以前の会話の中に、あれほど怒った原因があるのだろう。
怒気もあらわに踵を返した趙雲のうしろ姿を、ただぼう然と見送るしかなかったわけであるが、いまさらながら、なぜに呼び止めなかったのかと悔やまれる。
あのとき、追いかけて、どういうことなのかと尋ねれば、いま、これほど深く悩みはしなかっただろう。
時間がたてば経つほど、酸のように強い言葉に、本音が紛れてしまう。後から追いかけるのがむずかしい。
実のところ、孔明は追いかけて、なおも拒絶されることを恐れて、足を竦ませたのである。
この自分が、と己をわらってみるが、やはり、現状があるのは、らしくもなく、その場で動くことができずに、問題の解決を先送りしてしまったのがいけなかったからだ。
以前ならば、すぐさま追いかけて、どういうことなのだと尋ねただろうに、なにを遠慮したのだろう。


ひどい寝汗をかいており、その不快さで目が覚めた孔明は、自分が、昨夜、更衣もせずに寝入ってしまっていたことに気づいた。机に突っ伏すような形で眠っていたために、背中から首筋にかけて強ばっている。
家人に命じて、湯を用意させ、身体の汗を流した。
孔明の顔が腫れていたこともあり、家人たちは、具合が悪いのかと心配したようだが、孔明が暗い思いつめた目をしているのを見て、だれも何も言わない。
みな、孔明の気性をよく知っており、孔明が殻に閉じこもっているときは、どんな言葉をかけても無駄だということが、わかっていたのである。
汗をかいたことで、眠ったはずなのに、疲労が取れていない。
濡れた髪からこぼれる水滴を拭き取りながら、孔明は、これが執着というものなのだろうかと考えていた。
叔父に対する敬愛と思慕は、執着ともちがうものであるし、徐庶にたいする友情も、強かったのにはちがいないが、これほど激しいものではなかった。
こんなふうに、誰かを失うことを恐れ、夜もまともに眠れず、ようやく寝入ったかとおもえば、そっくりそのままの場面を丁寧に再現してみせて、しかも冷静に分析までしている夢を見る。目が覚めたとき、悪夢を見たのではなく、現実なのだということを思い出して、落胆したほどである。

いままで、人が、異性なり、財産なり、地位なりに執着する、そもそもの執着の感覚が理解できなかった。どこかで、執着のあまりに失敗を重ねる人を見て、軽蔑すらおぼえていた。
なんのことはない。この気持ちを知らねば、苦しみは理解できない。
これは女々しい感情なのだろうか。そも、女々しい、という言葉自体が、なにやらおかしい。女のほうが、よほど割りきりが良い。
わたしは、なにをしている? あれほど怒った、というのであれば、こちらが気に障ることをしたのだ。
いま抱いているのは、罪悪感だろうか。
いや、不安だろう。
磐石だと信じていた足元が、いつのまにかひび割れて、脆くなっていたのに、気づかないでいたのだろうか。
だとしたら、いつからひび割れが始まっていたのだろう。
それすら気づけず、だから、いまもって、どう傷つけたのかがわからないでいる。
そうだ、傷つけたのだな、と孔明は深く嘆息した。
そうかといって、原因もわからないまま、頭を下げるのはおかしい。
いま頭を下げてしまえば、おそらくあの男のことだ。恐縮し、許してくれるだろうが、本音は隠してしまうだろう。
そうして、日々に紛れて、なかったことになってしまっているうちに、どんどん距離が離れていくのだ。
こんな途方に暮れた気持ちは、生まれて初めて覚えるものではないか。
いままで、こんなに、どうしたらよいかわからないことなど、一度もなかった。
いや、そうではない。どうしたらよいか、わからないことは、よくあったではないか。それを解決してこられたのは、いつも助け舟が出されていたからだ。
逆にこう言うべきなのだ。
いままで、こんなに孤独を覚えたことなど、一度もなかった。





「朝風呂とは、いいご身分ですな」
髪を乾かしながら、自邸ということで、身づくろいもいい加減に部屋に戻ってきた孔明は、自室でもって、衣に香を焚き染めている偉度の姿に仰天した。
「おまえこそ、早いではないか」
「夜明け前にこちらに参りました。昨夜は、あまりよく眠れなかったでしょう」
と、振り返った偉度は、衣一枚を軽く纏っただけで、洗い髪のままの孔明の姿に、言葉を詰まらせ、あわてて目を逸らした。
気まずく思いつつも、孔明も、衝立の陰に隠れ、とりあえず、簡単に髪を整える。
「驚いた。油断しすぎですぞ」
「おまえこそ、朝早くから、なぜわたしの部屋にいる」
「軍師の様子が気になりまして。ご安心くださいませ。いまさら、軍師のそのようなお姿を見ましても、偉度はなんとも思いませぬ」
「朝から恐ろしいことを言うな。おまえなんぞ、誘惑するか」
「そう願いたいところでございますな。誘惑するなら、ほかの方になさい」
「誰のことも、誘惑なんぞせぬ。ところで、何をしている」
「何って、香を焚き染めております。よい薫りでしょう。これは、趙将軍のお好きな香でして、この衣も、趙将軍のお好きな色でございます」
「ふうん?」
衝立越しに、孔明は髪を手早く整えつつ、顔だけを出して偉度を見る。
「偉度、なぜ知っている」
「なにをでございますか」
「誤魔化すな。それと、その衣は、今日は着ない。そういう気分ではないからだ。それと、此度の件について、おまえの口出しは無用ぞ。伝えたからな。守れよ」
「ご機嫌斜めでございますな。夢見が悪かったのでしょう。どんな夢を見たのです」
「おまえは、わたしに近すぎるな」
孔明が苛立ちを隠さずに言うと、着ないと言っているにも関わらず、帯と衣を一式そろえたものを、衝立越しに偉度が投げてくる。着ない、とは言い切ったものの、ほかに着ていくものを考えている余裕が、いまの孔明にはなかった。
仕方ない、とぶつぶつ言いながらそれでも衣に袖を通していると、偉度の、妙に明るい声が聞こえてきた。
「近いとおっしゃる。それならば、偉度を消しておしまいになるか」
「莫迦を申すな。おまえを消す理由がどこにもない」
そう答えると、衝立越しに、偉度が笑いながら、やはりそうでしょうね、と言っているのが聞こえた。わけのわからぬやつだ、と孔明は思いつつ、帯を締める。
「偉度よ、なぜおまえが、子龍の好きな衣の色を知っている」
「聞いたわけではありません。顔を見ればわかります」
「どんな顔だ」
「それは、いつもあなた自身が、目の前で見ておられるでしょう」
やれやれ、こうなると、偉度の言葉は迷宮のようにうねって、孔明は煙に巻かれたように、ひとりぼっちにされてしまう。
これさえなければ、偉度はよい青年に成長したと、胸を張って、みなに紹介できるのであるが、と孔明は嘆息する。
そんな孔明の心も知らず、偉度は孔明の身支度が整うと、子犬のようにまとわりついて、あれやこれやと世話をやき、左将軍府に向かう御者も、みずから買って出た。
これはこれなりに、気を使ってくれているのだ。人に細やかな気遣いをできるようになったのだ。たいしたものだと誉めてやらねばならぬ。
なぜだか目が妙に笑っているのが気にかかるが、と思いつつ、孔明は、偉度に御者をまかせた。
寝不足なのもあり、しばらく、居心地のよい馬車の中で、偉度が焚き染めた香の薫りを楽しみながら、うとうとしていた。


ふと馬車が止まり、左将軍府についたのかと目を開けば、何のことはない。いつの間にやら、左将軍府とはほどとおい、閑静な市街地にいた。孔明は身を乗り出して、御者台の偉度に声をかける。
「なぜこんなところにいるのだ。早く左将軍府へゆけ」
「申し訳ございませぬ、道を間違えてしまったようで」
「おまえが? ずいぶんな間違えようだが」
そこは、士大夫の屋敷のならぶ、いわば高級住宅地であった。
そこかしこの屋敷から、朝の気配を思わせる匂い、人々の動きが伝わってくる。下町の猥雑な賑わいとは、趣が異なる。
御使いをたのまれたらしい急ぎ足の坊主が、馬車の前を駆けて行き、孔明と目が合うと、ぺこりと頭を下げて去っていった。
ぴいと甲高い音色に顔を上げれば、厚い雲の合間に見える空の下、雲雀が飛んでいくのが見えた。よい朝である。
「偉度、道がわからぬのであれば、わたしが御車をつとめるが」
「いえ、とんでもございませぬ。それが、どうも馬車の調子がわるいようなのです」
そう言って、偉度は身軽にひらりと御者台から飛び降りて、車輪を確かめる。
ずっと立ち止まっている馬車に、それぞれの省庁へ出かける官吏が、立派な馬車のしつらえに、いったい何者かという視線を投げて寄越し、中にいる孔明を見るや、あわてて礼を取る。
あるいは、わざわざ馬車から降りて、挨拶をしてくる者までいた。
彼らから逃げるわけでもないが、孔明は、馬車の中に深く身を沈ませ、偉度が車輪の修理を終えるのを待った。
眠っていないことが、ここで祟ってきたのか、こめかみのあたりがじんじんと痛む。
今日は、これで仕事になるだろうか。日々の仕事の忙しさにまぎれて忘れてしまうが、人と比べれば、脆い体質であることにはちがいない。
座に持たれこむようにして、深いため息をつく孔明であるが、その傍らで、壊れてもいない車輪を、懸命にいじったフリをしている、偉度の姿には気づかないでいた。





陳到が趙雲の屋敷にむかうと、ちょうど趙雲が、遠駆けに出かけようとしているところであった。
汗をかくことを予想してか、飾らぬ粗末な衣に身を包み、帯剣をした趙雲の姿には、無駄な肉というものがなにひとつなく、肌の張りや艶も以前と変わらない。ふつう、この年齢になれば、青年のときのすらりとした肢体を失うかわりに、恰幅がよくなり、重々しい貫禄がついてくるものだが、趙雲の身体は、時がぴたりと止まったように、なにも変わらない。
鍛えてはいるものの、妙に気になってきた腹の肉を、無意識につまみつつ、陳到は趙雲に声をかけた。
「おはようございます、趙将軍、遠駆けでございますか」
ああ、おはよう、と生返事をして、趙雲は答える。不機嫌そうだな、と陳到は思ったが、馬上の趙雲の顔色は冴えず、ろくに眠っていないのがわかる。
これは深刻だな、と思いつつ、陳到はさらに声をかける。
「ご一緒させていただいても、かまいませぬか」
「すまぬが、今日は一人にしてくれ」
ぴしゃりとした物言いまで、昔から変わらない。
普通は、尖がったところも世間の波に揉まれて、研磨されるところなのだが。
「いや、しかし、お顔の色がすぐれませぬぞ。落馬でもされたら如何されます」
「大事無い。今日はすぐ帰る」
「いえいえ、叔至めもお供おたします。結婚の話」
「叔至、すまぬが、一人になりたいのだ。その話もあらためてくれ」
お待ちを、と声を掛ける間もなく、趙雲は馬首をかえし、ぱっぱかと駆け去ってしまった。
陳到はあわてて自らも騎乗し、趙雲を追いかける。
しかし、趙雲は、陳到が追いかけてくることも想定していたらしく、複雑に道を行き、とうとう成都を出る前に、まかれてしまった。どの門を通り、どの道へ向かったか、わからない。
左将軍府の悪鬼が、なにをしているのだと怒り出す様を想像し、陳到は、しょんぼりとうなだれた。

偉度が陳到に持ちかけたのは、単純な作戦であった。
趙雲が、朝の日課として、遠駆けをすることは知っている。
その行路も、いつも同じなのだ。
途中で、立ち往生している孔明の馬車と行き会えば(孔明は偉度が連れてくる)、趙雲の性格からして、それを無視する、ということはできまい。
話をしなければ、なにも動かないのだ。ともかく顔を合わさせ、話をさせよう、そしてあわよくば、仲直り、という。
しかし、偉度の思惑は、予想外の落ち込みを見せ、排他的になっていた趙雲の、人を寄せ付けない悪い面がつよく出てしまったがため、破綻したのであった。

結婚の話はおいといて、と言おうとしたのに、と陳到は、この無邪気な男には似合わず、暗い顔をしてため息をつく。
いまから、偉度が嫌味を、さんざんに浴びせてくるだろうことは、想像が付いた。
このまま自分も、どこか遠くへ行ってしまいたい。
いやいや、そんなことしたら、あの悪鬼め、わが家に入り込み、娘たちにいらざるちょっかいをかけるかも知れぬ。それだけは防がねば。
まあ、それはともかく、孔明を連れてきているだろう偉度のところへいき、作戦は失敗だと伝えに行かねば。
気が重い、と陳到がつぶやくと、騎乗していた馬も、その気分が移ったのか、深いため息をついた。


孔明は、がちゃがちゃと金具が派手に鳴り続けているので、目を覚ました。
覗き込めば、偉度が、苛立ちもあらわに、馬車の金具と格闘しているところであった。
孔明は手先が器用で、工房へも、好んで視察に行く。工人たちに気さくに声をかけ、自分も加わって手伝うほどなのを、偉度は知っていたので、いつまでも孔明を留めておくのに、車輪を壊れていないままにしてはおけぬ、と考えた。
親父さんはまだか、と思いながら、えいやっ、と車輪を壊したものの、壊し方が不味く、本当に直らなくなってしまったのだ。
金具を一瞥するや、孔明は言う。
「それはもうだめだな、偉度、すまぬが、おまえは職人たちを呼んで、これを修理に出してくれ」
といいつつ、孔明は馬車から降りていく。
その姿に、偉度はあわてて声をかけた。
「お待ち下さいませ。どちらへ」
「ここからならば、左将軍府へ徒歩で行くのも、たいした距離ではあるまい。おまえはあとからゆっくり来るがよい。かえってすまなかったな」
「いえ、あの」
と、偉度は道の向こうから、いまにも趙雲が来てくれることを願ったが、その姿は現れず、孔明は済まないといいながら、偉度を残して左将軍府へとむかってしまった。
孔明を引き止める上手な理由も思いつかず、偉度は壊れた車輪と、馬たちだけに取り残されるかたちとなってしまった。





伴もつけずに歩く孔明の姿はかなり目立ったが、本人は人の目を集めるのに慣れてしまっており、気恥ずかしさも感じず、どころか、いろいろ物思いに耽りながら歩いている。
道すがら、途中までご一緒にと、声を掛けてくる馬車もあったのだが、断った。
孔明は、襄陽にいたときから、ともかく歩くのが好きだった。歩きながら考えると、余計な考えがそぎ落とされ、純粋に思索の中だけに閉じこもることが出来る。
部屋に閉じこもって考えるより、より健全な思考に耽ることが出来るのだ。
それでもやはり、昨日のことを考えながら歩いていると、ある屋敷の前に、朝から人だかりができている。
露天商が出ているわけでもなし、なんであろうと、好奇心にさそわれて覗いてみれば、例の楊と、その横に、白髪まじりの婦人がおり、どうやら楊の妻らしい。楊の妻女は、身づくろいもまだ途中のようで、乱れた髪をしたままなのだが、目の前にいる、裕福そうな流行の召し物を纏った若者につっかかっている。
その若者とは、見れば、安なのであった。
「さあ、言ってご覧! うちの主人は、きちんと皆様のお役にたっているというのに、この青二才、なんて言ったの! さあ、もう一度言ってご覧!」
楊は、いきりたつ妻を懸命に宥めるのであるが、妻は、抑えようとする夫の手を、わずらわしそうに、乱暴に跳ね除けて、牙を剥かんばかりに安に怒鳴っている。
安はといえば、これは左将軍府において、職場で同僚・先輩を相手にがあがあと、家鴨のようにわめくのとは勝手がちがう様子で、言葉を返せないでいる。
それでも、強気なところを見せ、楊の妻から、目を逸らさないではいたが。
「さあ、皆の前で言ってご覧!」
楊の妻は、集っている人々を指して言った。
人々は、この妙な取り合わせの喧嘩に、すっかり夢中である。
集ってきた人々の、それぞれの会話の断片から繋ぐと、左将軍府に出仕する楊のところへ、安が、たまたま通りがかった。
楊の姿を見た安は、いつもの如く憎まれ口を叩いたのだが、その声が大きく、屋敷のなかにいた楊の妻に、話が聞こえてしまったのが騒ぎの元。楊の妻は、以前より、夫から、
「あたらしく入ってきた若者と馴染めない」
と愚痴っていたことから、これが我が夫を悩ます男かと飛び出してきて、こうして、闘鶏のような騒ぎとなっているのであった。
安が口ごもっているので、楊の妻女は言った。
「言いたくないというのなら、わたしが言って差し上げましょう。貴方は、わたしの主人を、『俸禄どろぼう』と言ったのです! なんて人なの、ろくでなし! うちの主人は、きちんと毎日、皆様のお役に立っているというのに、年長者に向かって、礼儀知らずな!」
ありえない、とまくし立てる楊の妻に、集っている人々も、そのとおり、まったくだ、この小僧は生意気だ、と声が挙がる。
孔明も同感であったが、安は、やはり否定されれば頑なになり、妙に燃えてしまう男であった。
往来に集っている人々を睨みつけ、それから楊と楊の妻に、つんと顎を逸らすような仕草をすると、こう言い放ったのである。
「しかし、事実でございましょう。あなたさまは、もう御歳なのです。周りの迷惑も考えて、こちらの鬼婆のような女房殿と、ご隠居されたほうがよろしいのでは」
まあ、と楊の妻女は絶句し、袖で顔を隠すと、屋敷の中に駆けていってしまった。
その哀れな後姿を見送る楊の顔には、めずらしく怒気が浮かんでいる。
「わたしのことならば、如何な愚弄も我慢できよう。しかし、妻を侮辱するのは許さぬぞ!」
「無礼はどちらなのでございますか。いきなり、往来で呼び止められて、このように衆目にさらされたあげくに、あのように罵倒されたのでございます。理不尽なのは、そちら様でございましょう」
「なんと世間知らずな言葉よ。そもそもは、貴殿の礼節のない態度に原因があろう。すこしは恥を知ったらどうだ!」
「このわたしに説教をなさるか、左将軍府のお荷物が!」
「なんと!」

孔明は、人前で両者を叱れば、両者共に恥をかくであろうと、じっと、人の垣根のうしろの、目立たないところで、この光景を眺めていたのであるが、安と楊の言い争いが深刻になっていくのを見て、これはいかんと前に出た。
孔明の姿が突如としてあらわれたので、楊も安も、口論の途中であったが、言葉を止めて、あんぐりと口を開けている。
「両者とも、やめぬか! このような往来で醜態をさらすとは、まさに無礼であるぞ!」
しかし、将軍、と安が食い下がろうとしたそのとき、孔明は安の背後に、水桶を持って戻ってきた楊の妻の姿を見た。
いかん。
避けようと頭では考えたものの、体が動かなかった。鍛えていない証左である。
それはともかく、安に掛けられるはずの水は、勢いよく標的を外れて、安の前に立っていた孔明に、ざばりと頭から掛かった。
孔明が最初に考えたのは、ただの水だろうな、ということである。
「愚か者め、このお方は、軍師将軍だぞ!」
楊が妻を叱ると、楊の妻は、ええ、と素っ頓狂な声をあげ、がらん、と水桶を地面に落とした。
そして蒼白になって、すぐさま濡れた地面に平伏し、ご容赦を、とやってくる。
こうなると、孔明は怒るわけにも行かない。
「水のことはよい。それより、安、楊」
はい、と二人は、まるで囚人のように蒼ざめた面持ちで、孔明の強ばった声に返事をする。
孔明は、額から髪を伝わって落ちる雫をぬぐいつつ、精一杯、厳粛さを装って、言った。
「両名とも、本日は、出仕はまかりならぬ。しばし休んで、頭を冷すがよいぞ」
でも、と安がまたも食い下がろうとするので、孔明はぎろりと、それこそ、これまでに、ありとあらゆる論敵を封じ込めてきた、得意の睨みをきかせた。
とたん、安は竦みあがり、言葉をなくして、そのまま、わかりましたと頭を下げた。





さてはて、ぬれねずみのまま出仕するわけにもいかない。
とはいえ、楊の家にて着替えをするのも、安に対しての公平性が失せる気もするし、この界隈に、知り合いがいただろうか、それより、このまま自邸に帰るかな、と迷っていた孔明であるが、つんつんと袖を引っ張られ、顔を向ければ、見覚えのある老爺が、かしこまっている。
「軍師さま、このままではお体が冷えて、お風邪を召してしまいます。どうぞわれらが主人のお屋敷にて、更衣をなさってくださいませ」
それは、趙雲の屋敷にいる家人のひとりであった。
趙雲の屋敷はこのあたりである。
趙雲の屋敷は、広い敷地に立派な厩舎を持ち、馬専用の井戸まで掘らせているのだが、人間の屋敷はちっぽけで、あいも変わらず最低限のものしかそろえていない、質素なしつらえである。
喧嘩をしている、という事情を知らない老爺は、好奇と同情の眼差しをいっぱいに受けている孔明が気の毒でならないらしく、さあ、さあ、と言って、渋る孔明の手を引っ張るようにして、己が主の屋敷へと連れて行く。
そして、目立たぬようにと、裏口から孔明を中へと導いた。





今日は、よく風呂に入る日だな、と思いながら、孔明は、世話好きの老爺が用意してくれた白い簡素な服に身を包む。
一回りほど大きなそれは、どうやら趙雲のものであるらしい。背丈はわずかに高い程度なのに、手足は向こうのほうが長いのだな、武人だからだろうか、などと考えながら、濡れた髪をぬぐっていると、老爺が、へえへえと畏まりながら、やってくる。
そして、
「主はいま、朝の遠駆けに出ておりまして、もうじき戻ってくるかと思います」
という。
顔をあわせるのも気まずいし、かといって、朝から湯を借りておきながら、黙って去るのも礼儀知らず。
さて、困った、と孔明は、老爺に案内されて客間に向かうが、その途中、ちょうど、庭にすこしだけ出っ張った位置にある、典雅な格子状の窓を持つ部屋の、窓辺に置いてある机に目が向いた。
窓辺には、背の高い、濃い紫色の、釣鐘型の花、桔梗が咲いている。
桔梗は、きりりとした風情の花である。
好きなのだろうか。似合うな、と思いつつ、机を見れば、その上には、一幅の書物がひろげられている。
「これは、だれが読んでいるのかね」
「ご主人さまでございます」
ほう、と興味を引かれ、孔明は部屋に入り、書物を見る。
関羽は春秋左氏を好んで読む。子龍もそれに刺激されたのかな、と内容を見て、孔明はおどろいた。
孔明もまだ手に入れていない、許都の学者の、法家のあらたな解釈を述べた書物であった。士大夫のあいだでも、読み応えがあると評判になっているものである。
孔明はつよく興味を引かれ、開かれた書物に、しるしの代わりにと、窓辺に咲いていた桔梗の花を一本取って置いておき、最初から書物を読み始めた。
かねがね読みたいと思っていたものだけに、夢中になって読みふけった。

あまりに夢中になっていたので、いつしか、背後に人が立っているのに、気づかなかった。

「おまえを暗殺するときには、餌の代わりに書物を目の前にぶら提げておけば、難なく首を取れそうだな」
呆れの混ざった声にあわてて振り返れば、趙雲が、部屋の入り口に立っていた。
これは、と気まずく思いつつ、事情を説明しようとする孔明に、趙雲は言った。
「爺さんから事情は聞いた。この部屋は冷える。生乾きの髪のままでいると、風邪を引くぞ」
指摘されて、はじめて孔明は、自分の姿のみっともなさに気が付いた。
借りた服を着たままで、髪は結いもせずに、濡れたまま、ろくに乾かしていない。肩には、垂れる雫を受け止めるために、手ぬぐいを掛けてある状態だ。
不覚。
「すまぬ」
「いや」

気まずい沈黙が流れた。

孔明としては、おのれの不様な格好をともかくなんとかしたいのであるが、沈黙が破れないために、身体を動かすこともできない。
そらぞらしく、世話になったと笑えるほど、趙雲は孔明のなかで軽い存在ではないのだ。そもそも、孔明ほどに、愛想笑いの下手な者はいないだろう。
「その書は」
と、沈黙を破ったのは趙雲であった。
「魏で話題になっていると聞いて、懇意にしている馬商人のつてで手に入れたものだ」
「よく手に入ったな。みなが、これを手に入れようとしているのに」
「運が良かったのだろう。それほどに話題になっているとは知らなかった」
言いながらも、趙雲は、気まずそうに顔をそらす。よほど嫌われたな、と孔明は本人を目の前にして、寂しく思いながら立ち上がろうと膝を浮かせようとしたとき、趙雲の言葉がつづいた。
「いや、いまのは嘘だ」
「嘘?」
孔明は、めずらしい趙雲のことばに、あらためて座りなおす。趙雲は、孔明の正面に座って、腕を組み、気むずかしい顔をして、あれこれと言葉を選んでいる様子だ。辛抱強く待っていると、趙雲はゆっくり言葉をつむいだ。
「嘘というか、俺はいま、北方でいちばん話題になっている書物を数点、手に入れてくれと頼んだのだ。そしたら、それを寄越してきた」
「それは嘘ではないだろう」
「いや、嘘だ」
「なにが嘘なのだ?」
「だから、たまたま読みたかったから、書物を手に入れたわけではない。読む必要があったから、馬商人に無理を言って仕入れてもらったものなのだ」
「馬商人も面食らっただろうよ。書物は走らぬぞ」
孔明の冗談にも、趙雲はすこしも反応せず、むずかしい顔をして、またも言葉を選んでいる。
なんだ、この緊張感は、と孔明が次の言葉を待っていると、ふたたび口が開いた。
「昨日の話なのだが」
「うむ」
「まずは謝る。わけのわからぬことを言った」
「うむ」
「だが」
「だが?」
「おまえもひどい。楊の処分は決めたのか」
なんだ、楊のほうの味方だったのか、と孔明は思いつつ、答えた。
「処分なぞ、なにもない。あれはあれで、暴走する若いのを抑える重要な役目を担っているのだ。それが見えぬ安は愚か者だ。非凡なものが突出するのは仕方ないが、安は度が過ぎる。安は左将軍府より、揚武将軍の元に異動させ、刀筆吏からやり直しをさせるつもりだ」
すると、趙雲は拍子抜けしたように、愁眉をひらいた。
「なぜそれを言わぬ」
「人事のことだからな。決裁をおろすまでは、たとえあなたといえど、教えるわけにはいかぬ」
「そうか…だが、ならばなぜあんなことを言った。俺はてっきり、おまえも、安とやらと同じように考えているのかと思ったのだ」
「わたしは何か言ったか」
「楊は、桔梗からつくる咳止めの薬を作るのがうまい。そこにある桔梗の株も、楊が分けてくれたものだ。調練場では、なにかと声を張り上げるからな、咽喉が嗄れたときには重宝するのだ」
「付き合いがあったのか」
「付き合いがあってもなくても、昨日のあれだけを聞けば、俺は怒った」
「あれって?」
孔明が首をかしげると、趙雲は、深いため息をついて、言った。
「あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが、と」
「それが?」
「つまり、おまえは、年配者には、もう用がないと、安という奴の考えに賛同しているのではないかと思ったのだ」
「いや、それは」
「少しは思ったのだろう。そうでなければ、あの言葉は出ない」
「そうかな」
「そうだ。それを思うと、情けないやら、恐ろしいやらだ。おまえは己がどれだけ非凡か判っておらぬな」
「よくわからぬ」
趙雲は、またもため息をつきつつ、頭を振った。
「つまりだ、おまえは考えたことがなかったかもしれないが、おまえについて行くのは、なかなか骨が折れるのだ。いいか、この場合の付いていくは、単に足が速い、とかいう意味ではないぞ」
「それはわかる」
「おまえについて行くには、あるいは辛うじて肩を並べていられるようにするには、槍や剣だけに頼っているだけではむつかしいのだ」
察しの良い孔明は、その言葉で、机の書物の意味を理解した。
「それで、書を読んでいたのか? わたしのために? なぜにそこまで」
「たわけ。そこまでせねば付き合えぬほどに、おまえの能力は日々向上しているからだ。つまりだ、もっとはっきり言えば、伏したる龍に付き合うためには、凡人の俺では、相当の努力をせねばならぬということだ」
「だれが凡人だって? 謙遜に過ぎるぞ」
「武芸においては堂々と胸を張れるさ。だから将軍職を拝領しておるのだ。だが、文の領域になるとやはり凡人だろう」
「それをいえば、わたしなんぞは武においては凡人以下だ。徴兵に志願しても、断られるだろうな」
「そうだろうな」
「まだ怒っているのか?」
「少し。おまえが、もし安とやらの考えに、いくらかでも賛同しているのであれば、俺の能力がそのうち衰えたら、年だから仕方ないと捨てられるのではと」
「そんなこと、するものか」
「本当か」
「あたりまえだ。だれが、だれを捨てるって? わたしがそのような薄情者だと?」
「そう言うふうに聞こえた」
「いまもまだ、そう思っているのか」
「いいや。まくし立てたあと、莫迦を言ったと思った」
「なんだ、わたしを、やはり信じていてくれたのではないか」
「そういうことか?」
「そうだ。なら、互いに誤解をしていた、というわけだな」
孔明は、体から、潮が引くように、重い気持ちが軽くなっていくのをおぼえた。
なんだ、そういうことだったのか、良かった、わたしの足元は、最初から崩れてなんていなかった。
考えすぎもいいところだ、と安心して、思わず声を立てて笑ってしまう。
それを見て、趙雲もまた、おかしな奴だな、と言いながら、やはり笑った。
「では、こうしよう、子龍、わたしは己の中にある、醜い部分をあなたにさらけだし、不愉快にしたことを詫びる。真摯に反省し、居丈高な考えを改めることを誓おう。二度とそんなことは言わない」
「俺はどうすればいい」
「あなたはわたしを不安にさせたことを詫びる。そして、わたしがまた愚かなことを口にしたら、怒って去るのではなく、諭して欲しい。わたしは、一言一句、洩らさず聞くとも」
「わかった。誓おう」
そうして、また目が合うと、なにやらおかしくなって笑い出す二人であるが、ふと視線を感じ、見れば、趙雲宅の庭先で、ぽかんとしている偉度と陳到が立っていた。
「軍師…もしや」
「もしや? なんだ、偉度、馬車は直ったのか」
「いいえ、お邪魔いたしました。本当にお邪魔でございました。われらは退散いたしますので、つづきをどうぞ」
「つづき? 何を言っている。遅くなったが」
口をぽかんとあけたまま、硬直している陳到を、首根っこをつかまえて引きずるように去ろうとする偉度に、左将軍府へ行くぞ、と言いかけて、孔明は、首をひねる。
「おかしなやつだな。つづきとは何だろう」
見れば、隣の趙雲は顔を険しくして、外に出ようと、身づくろいをしているところであった。
「あなたまでどうした。いまさらあわてても、遅刻は遅刻だぞ」
「ちがう。偉度を追いかける。でなければ、おまえ、明日から往来を歩けなくなるぞ」
「もしや、このひどい格好を言いふらされるとか? それは困る」
「……ともかく、俺は偉度と叔至を追いかける。では、またいずれ」
趙雲は言うと、窓からぱっと庭に飛び降り、そのまま鷹のような素早さでもって、偉度と陳到を追いかけて行った。
そのうしろ姿をぽかんと見送りながら、付いていくのが困難なのは、実はこちらなのではなかろうかと、孔明は、ふと考えた。
そんな孔明をよそに、桔梗は、窓辺で凛とした顔を、太陽に向けていた。

※あとがき※
プロットをすでに頂いており、すぐに肉付けとなるエピソードも決まった作品でした。ただ、構成がわかりにくくなってしまったかも…反省。桔梗は、はさみのの好きな花のひとつです。これにはおまけをつける予定です。リクエストくださった山葉さま、どうもありがとうございました&ご読了ありがとうございました(^o^)丿

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(C)Hasamino Nakama 2005 08 12