七夕フェスタ リクエスト企画 第14弾 山葉様からのリクエスト
桔梗の家
前編
孔明は、唖然と、その背中を見送るしかできないでいた。
あふれ出る言葉は、まさに奔流の如し、であった。言葉を聞くというよりは、勢いに圧倒されて、立ち尽くし、口が動くのを眺めていた。
「なぜ、あれほど怒ったのだ?」
思わずつぶやくが、それに対する答えはない。
孔明の従者も、気遣って沈黙を守っている。この場に、孔明の主簿である胡偉度がいたなら、逆に口を出して、ここまで怒らせることは、させなかったかもしれない。
孔明は茫然自失の態で、挨拶をしてくるあまたの文官、武官、そのほかのひとびとともろくに言葉を交わさず、馬車に乗り込み、左将軍府に帰った。
道中も懸命に考えたが、やはり、どう考えても、これほどまでに叱られなければならない理由が、わからないのである。
自分のことばをひとつひとつ吟味してみるが、眉をひそめるほどのものが、あったのだろうか。
そも、話は、左将軍府内の人事の話から発展したものだ。
それを劉備に相談しに行って、帰りにたまたま顔を合わせた。めずらしいことであるし、久しぶりであったから、話が弾んだ。
が、途中、宮城にやってきた理由からはじまった話が進むにつれ、顔色が変わってきて、しまいには長々と怒鳴られるような形で説教をくらい、こちらがなにひとつ言葉をはさむ暇も与えられずに、背中を向けて去って行った。
通り魔に遭ったような気分である。
それが誰よりも信頼していた相手だけに、孔明の気持ちは、いつものように切り替えることができない。
結局、左将軍府に帰っても、ろくに仕事にならず、言われた言葉が、ぐるぐると脳裏を駆け巡るばかり。ほかの誰になにを言われようと、かえって反発し、力になって、仕事に向うことができるのだが、今回ばかりは、受けた衝撃が強すぎて、どうにもならない。
突然に、乱暴に突き飛ばされた挙句に、だれもいない場所に置き去りにされた気分、とでもいおうか。
「なぜだ?」
「なにがでございますか。軍師、主公はなんと?」
別の用事で出かけていた偉度が、いつの間にか戻ってきたらしい。怪訝そうに、こちらを伺う偉度の声に、むしろほっとしつつ、孔明は答えた。
「主公は、わたしのよきように、と。法尚書令のほうは気にするなと仰ってくださった」
「それを聞いて安心いたしました。連中、今朝も一騒ぎ起こしまして」
孔明はそれを聞いて、柳眉をしかめた。
「なにをした」
「くだらないことでございます。陽の当たる席を譲る、譲れないで派手に喧嘩をはじめまして、文鎮は飛ぶは、筆は折るわ、竹簡はバラバラに崩されるわで、迷惑なことでございますよ。いかな法尚書令の肝いりでの任官とはいえ、これでは話になりませぬ」
法正が、左将軍府に、安流意という青年を任官させたいと申し出てきた。
法正が常日頃より仲良くしている、豪族の子息ということで、コネ、というところが引っかかったものの、劉備の口ぞえもあり、採用に至ったのである。
徹底主義の孔明のもと、なにかときびしい業務の多い左将軍府をみずから志願した、というのもあり、弱冠十九の若者ながら、なかなか有能であった。
だが、この安、有能で、世を変えんとする情熱に溢れているあまり、他人の為すことにも、口を出さずにおれない男であった。
若い、というのもあるのだろう。他者の誤りを見つけると、細かく指摘し、糾弾するのであるが、それの度が過ぎるのである。
法正のコネ、ということもあり、左将軍府の面々は、面倒を避けて、あえて口を閉ざしていたのだが、それに勘違いをした安は、態度が日々、横柄になっていき、年配の官吏ともはげしい口論をするようになっていった。
いちばん安と相性が悪かったのは、荊州からやってきた、楊家の係累である男であった。
これは安とは逆に、すでに齢五十を過ぎ、老眼も進んで、夕刻も近づけば、まともに竹簡が読めなくなる。しかし、温厚な人柄と、豊富な経験を買われ、若者が多い左将軍府において、世話役のような形におさまっていた。
この楊に対しても、安は容赦しなかった。楊の仕事の遅さや、取りこぼしを細かく指摘し、そればかりか、無用の長物であるとまで、公言してしまった。
「ただそれだけならば、まあ、我慢もいたしましょう。むしろ、世を知らぬ哀れな奴よと蔑まれるだけで終わったことでしょうに、つづきがよろしくない。安は、本人にも指摘するが、裏でも悪口を叩いた。その相手が悪い。法正殿の部下だった。ま、常日頃から法尚書令と対決の多い左将軍府からすれば、これは裏切りですからね」
偉度は、やれやれ、とため息をつく。
「人を呪わば穴二つ。安のそのような態度がみなの知るところとなり、今度はだれも、安を相手にしなくなった。ところが、安というのは、逆境に燃える男だった。
己の境遇が悪くなったのは、出る釘は打たれるの類いだと勘違いし、ますます張り切って、特に楊の親父さんを苛めた。これに耐えかね、ほかの若いのが、安と派手に喧嘩をやらかした。それが、このところ毎日、という次第」
「安の態度はたしかに、年長者に対する者ではないし、あまりに大人気ない。とはいえ、わたしが注意しても、安の態度は変わらなかった」
「すごい奴ですよ。軍師に叱られて、顔色を変えなかった男を、わたしは初めて見ました」
「言葉が理解できなかったのだろう。あれは、いまだ羊水のなかに包まれている赤子だ」
「ずいぶんと分厚い羊水ですな。いつになったら産声をあげるのやら。その声が、己を恥じて泣く声でなければよいけれど」
「口が過ぎるぞ、偉度。われらは、初めはどこかしら、安のような勘違いを経験するものだ。あれを見ていると、たまに心が痛むよ」
「ふと我に立ち返る瞬間があるだろうと? 甘いですぞ、軍師。あの類いの男は、生涯勘違いだ。育ちの良すぎるお坊ちゃまは、帰宅なさると、あなたさまこそ世の中心と、褒め上げてくれる者に事欠かないわけですから」
「それはそれで不幸ではないか。だれも叱ってくれない、というのであれば、それは、だれも真剣に身を案じてくれていないのと、同じだぞ」
叱る、と自分で口にして、孔明はふたたび憂鬱な気分に襲われる。
本当に、何がいけなかったというのだろうか。
「軍師、なにかご不快でも」
偉度が問いかけてきて、孔明はふたたび我に返った。
その顔色を見て、偉度は、大きな瞳をきょろりと動かして、顔をのぞきこんでくる。
「お加減が悪い、というふうではなさそうですな」
「ちょっとな」
話したくなかったので、孔明ははぐらかした。口にするには、あまりに自分の内面に関わりすぎると思えたのだ。
偉度は、孔明の頑ななところを知り抜いているので、それ以上は尋ねて来ず、ただ、左様でございますか、と言った。
なにやら企んでいる目だな、と思ったが。
孔明がめずらしく、仕事を早々に切り上げ、自邸に帰ってしまったので、偉度は自分も仕事を切り上げ、宮城に付いて行った従者をつかまえると、宮城でなにか変わったことがなかったかと尋ねた。
従者は、偉度の詮議に迷惑そうにして、なかなか口を開こうとしなかったが、脅したり宥めたりを繰り返して、ようやく聞き出した偉度の第一声は。
「趙将軍?」
「左様で」
「ほかの将軍ではないのか」
「いいえ、趙子龍さまでございます」
「趙将軍と口論? 軍師が? なぜ?」
従者も、偉度と同様に、首をひねっている。
「わたくしにも判りませぬ。なにせ、途中までは、ご両人とも、いつものように仲良くお話をされていたのです。ところが、例の、安の話になりましたら、趙将軍が怒り出しまして」
偉度がまとめたところによると、いきさつはこうである。
宮城で珍しく顔をあわせた趙雲と孔明は、久しぶりだとかなんだとか(彼らの言う久しぶり、というのは、二日経てば、久しぶりである)言って、足をとめて、近況(といっても二日分)を互いに話していた。
「横にいる者としては、お二方を見ていると、たまに怖くなります」
「ふん、それに慣れてこそ、真の従者というものさ。で、どのあたりから雲行きがおかしくなった?」
そのなかで、孔明が、安の処遇に付いて、劉備に相談に来たのだと説明したあたりから、それまで穏やかであった趙雲の顔に、翳りが見え始めたのだ。
安と楊の諍いから始まった、左将軍府の揉め事の顛末を、孔明は趙雲に話したのであるが、楊について、
「やはり、あの者も年であるし、安の指摘も、もっともなところではあるのだが」
と、言ったところが分岐点。突然に趙雲は、顔を険しくして怒り出し、孔明に、長々と説教をはじめたのである。
「内容は?」
偉度が尋ねると、従者は慎重に思い返していたが、やがて首を横に振った。
「よくわかりません」
「なんだそれは。それほどに難解な内容だったのか」
「いいえ。単純に、意味がわかりませんでした。いつもは寡黙な方ですので、あれほど一気に喋ったことに、軍師将軍も驚かれて、言葉を無くされておいででした」
「ふん、意味が判らなくて、反論できなかった、というのもあるだろうな。断片でもよい。なにか覚えている言葉はないか」
そうですなぁ、と従者は首をひねり、それから、あ、と小さく声をあげ、言った。
「そういえば、『付いて行くのが困難』とかなんとか」
「なに?」
「いえ、どうして覚えているのかと思えば、その言葉を聞いた途端、軍師将軍の顔が、それはもう、牡丹の花より真っ白になりましたからな」
と、従者は丁寧に、血の気が引く様を手ぶりで示して見せた。
「趙将軍も思い切ったことを…それは、軍師も顔色を失くされるだろうな。しかし、なぜにそこまで趙将軍が怒る? 安とやらに肩入れしたのか、それとも左将軍府側の人間にか? ならば、そこまで言うこともなかろうに、ふむ、あの方も気むずかしいな」
「やはり、軍師将軍は、落ち込まれておりましたか?」
「うむ、まともに仕事も手に付かなかったようだ。いかんな」
口論程度に争うのはいつものことだが、ここまで深刻な言葉が出たのは、偉度が知る限り、初めてである。
趙将軍が、なにをもって軍師に怒っているのか?
本人は喋るまい。
となると、その周辺から当たるしかないわけだが…
一方、調練場において、趙雲は、その日、何十回目かのため息をついた。
あまりの数の多さに、最初は不審な目を向けていた部将たちも、趙雲の鬱鬱たる気分が移ってきたのか、だんだん不安な面差しになり、どこかうつむき加減である。
そんななか、空気に流されることなく、いつもどおりの、むしろ邪悪さすら感じられる無邪気さを発揮しているのが、陳到であった。
「将軍、如何なされたのです。そのように落ち込まれると、ほかの者まで沈んでしまいます」
ああ、と生返事をして顔を上げる趙雲であるが、あいもかわらぬ陳到の、好奇心に満ち満ちた顔を見ると、ウンザリしたように顔を戻し、またため息をついた。
趙雲は、宮城に用があり、朝からいなかった。
そのまま屋敷に帰るだろうと見ていた部将たちは、夕刻も近くなって、趙雲がふらりと現われたことに、まず驚き、そして、妙に張り切って、声を張り上げ、兵卒たちに号令をかけるのを見て、無理して元気を振り絞っているような有様に、さらに首をかしげた。
日課をこなしたあと、さて、帰宅するか、という段になったものの、やはり趙雲は、様子がおかしい。
兵卒たちから離れると、暗い顔をして、なにかをしようとするのだが、内面でさまざまな葛藤が起こっているらしく、途中で仕草を止めては、我に返り、自分がなにをすべきかを考え、それに取り掛かろうとすると、また物思いに耽って、ため息をつき、落ち込む、といったことを、繰り返しているのだ。
良くも悪くも趙雲というのは、兵卒はもちろんのこと、部将たちの前でも、感情をあからさまに見せない男である。
その平板な態度が冷たく取られてしまうこともあるが、趙雲の部隊は似たもの同士が集っており、密接なつながりはないものの、しがらみに縛られることもない。それが良い方向に働き、趙雲の部隊は、風通しの良い、役目を務めやすい部隊でもあった。
それが、どうしたことか、大将が、いつになく激しく落ち込んでいる。
宮城から帰ってきたあと、というだけに、部将たちは最悪のことを思い浮かべた。
つまり、将軍職を解かれた、あるいは降格されたのではないか、と。
だから、本来ならばみな帰宅するところを、趙雲が重たい口を開いてくれるのを待って、たいした仕事もないのに、ほぼ全員が、兵舎をうろうろ、そわそわしている状態であった。
そんな中、陳到が代表して趙雲に声をかけたので、部将たちはほっとしつつ、そしらぬ顔をして、それぞれの役目をつとめながら、耳だけは聡くして、趙雲の言葉に集中している。
「今日は主公とお会いになったのですか」
「主公はお元気であった」
「それはようございました。で、なぜに趙将軍は、それほど落ち込まれているのです」
「落ち込む…そうだな。叔至、俺はどうかしているな」
「ほかにも、どなたかにお会いになったのですか」
「うむ。たまたま軍師に」
その言葉を聞くや、それまで真剣に耳を傾けていた部将たちは、なあんだ、といわんばかりに、ぞろぞろと帰宅の準備をはじめた。
それを尻目に、趙雲は、またもため息をつき、額を抑えるような仕草をして、言った。
「軍師に会ったのだ。で、立ち話をしていたのだが、あれの話に、ひっかかることがあって、つい声を荒げて、意味もなく叱りつけてしまった」
「はあ」
陳到がちらりと周囲を見ると、たくさん残っていた部将たちは、みな帰宅して、いなくなっており、がらんとした兵舎には、趙雲と陳到だけが残されている。夕闇迫る成都の空で、烏がカァ、と鳴いた。
部将たちにとって、孔明に関する趙雲の話というのは、いつもの話であり、いちいち気にすることもない話だと思われているのだ。
「どうかしているな。心を飲み込めばよいものを、黙っておれなくなって、意味のない言葉を投げつけるだけ投げつけて、そのまま帰ってきてしまったのだ」
そこまで言うと、なにを思い出したのか、趙雲はうつむき加減に自嘲気味の笑みを浮かべ、そして言った。
「今度ばかりは、もう駄目かも知れぬ」
「駄目、とおっしゃると」
「言葉どおりだ。呆気ないものだな」
そのとき、陳到の脳裏にあったのは、趙雲が孔明にかまける時間が減れば、いよいよ結婚を考えるのでは、という期待であった。
さっそく、前々から目をつけていた寡婦、あるいは妙齢の娘たちの親兄弟に話を持っていこう。
うまくすれば、来年にも、第一子が生まれ、月下氷人をつとめた自分が、その字をつける役目を、担うことができるかもしれない。
趙雲を縁付け、そして生まれた子の親代わりになる、というのが、陳到のささやかな野望であった。
「しかし、軍師は、将軍の能力を買っておられるわけでございますし、これで駄目、ということにはなりますまい」
「能力、か。そうだな」
またも趙雲は意味ありげな笑みを浮かべ、またまた、ため息をついた。
陳到は、これほどに弱弱しい趙雲を見たのは、初めてであった。
もし、趙雲に恨みを持つ説客がいまあらわれたとしたら、趙雲はあっさり降伏しただろう。
「くわしくは判りませぬが、軍師には軍師の考えがあり、将軍とはちがう、ということなのでは。叔至めの意見を言わせていただきますと、趙将軍は、軍師に、あまりに近くありすぎます。お二人とも、いささか距離をとられて、互いの生活という物を作らねば、人としての本分から、離れてしまいますぞ」
この場合の、陳到の本分というのは、結婚して、子を為して、血を繋ぐ、ということである。
いつもであれば、趙雲は陳到の小言にも、あまり耳を傾けず、右から左へ、という様子なのだが、その日はめずらしく、きちんと返答がかえってきた。
「そういうことなのかもしれぬ」
これは、夢への第一歩だな、と手ごたえをおぼえつつ、一番星がまたたく頃まで、陳到はこんこんと、趙雲に結婚の素晴らしさ、子を持つしあわせを説き、趙雲は、そうかもな、そうなのかな、と聞き続けていた。
今日はもう遅いので、朝一番に、趙雲の妻にぴったりと狙っていた候補者の家へ行き、ちゃっちゃと話を進めるべきであろう。
あの頑固に結婚の話を蹴り続けていた男が、すこしその気になっているのだ。
律義者だから、話が半分も決まってしまえば、気が乗らなくなっていても、仕方ないとあきらめて、妻を迎えることだろう。
さあ、忙しくなってきた、と陳到が上機嫌で屋敷に帰ってみれば、ちょうどだれかが、人の家の門を、くぐろうとするところであった。
だれかと見れば、陳到が目の仇にしている、左将軍府の悪鬼・胡偉度であった。
しまった。どこかの酒家で時間を潰してこよう、と陳到は馬首をめぐらせるが、偉度は、気配ですぐに陳到を見つけてしまった。
「陳将軍、お話がございます」
「あとにしてくれ。わたしは忙しい」
「嘘をおっしゃい、暇なくせに。大切なお話なのです。趙将軍と軍師のことで」
やはりな、と陳到は心の中でつぶやき、偉度を無視して、馬を歩かせる。
胡偉度は、なにやら邪な想念でもって、陳到のささやかな夢を挫こうとしている、いやーな青年なのである。
偉度は、陳到が話を聞かないつもりなのを見てとると、門に一歩、足を踏み入れ、言った。
「ならば、陳将軍ではなく、奥方にお話をさせていただきます」
ぴたり、と陳到は足を止め、偉度を振り返る。
「なんだと?」
「奥方にお話をさせていただくと申し上げました。どうぞ、どこへなりとお行きになってください。さようなら」
と、偉度はしれっとして、陳家の門をくぐっていく。
すると、表の物音でわかったのか、家の中の者が、出迎えのために玄関に集っている気配がある。足音の軽さから見て、陳到の愛娘の四人であることは、すぐにわかった。父親が帰ってきたと思っているのか。
陳到はあわてて馬を下りると、玄関に手をかけようとする偉度を押し止めた。
玄関がちらりと開いて、娘たちが顔を覗かせるので、あわててその前にたち、偉度が見えないようにする。
「見ちゃいけません! 病気になってしまう! おまえたち、家に入ってなさい!」
「人を悪気の塊のように…こんばんは、姑娘がた」
陳到の娘たちは、みな、面食いである。そして、なぜだか父親と仲の悪い偉度を気に入っている。
偉度はそれを知り尽くしているので、陳到の娘たちに、あまりよそでは見せない微笑みを浮かべてみせる。そうして、娘たちがきゃあきゃあ言いながら奥に消えていくのを、イライラして見送る陳到を見るのが、偉度の楽しみなのだ。
「あいもかわらず性悪者よ。屋敷には通さぬぞ。で、話とは?」
「門前払いよりマシな程度な扱いですが、まあよろしいでしょう。ずばり申し上げます。趙将軍と軍師が、なにやら喧嘩をなさった様子。この仲直りの手伝いをお願いしたいのです」
「なぜ、わたしがそのような仲立ちをせねばならぬ」
偉度は、ふうっと気障ったらしく(と、陳到には感じられた)ため息をつくと、垂れてきた前髪をかき上げて、言う。
「判っておられぬようですな。どうせ、これを機に、趙将軍に嫁を、などと、くだらぬことを考えていたのでしょう」
「なにがくだらぬ」
「よろしいか。趙将軍が軍師と仲たがいされたら、まともにあおりを食らうのは、貴方がたではありませぬか。趙将軍が、位の低さにもかかわらず、主公やほかの将軍方からも厚遇されているのは、軍師との結びつきがあればこそ。軍師と袂を別たれた趙将軍は、そのほかの猪将軍と同じ存在になり下がり、いまの特別なお立場ではなくなる」
「なにをいう。趙将軍ほどの武勇と知略をお持ちの方が、失脚なんぞするものか」
「そう、趙将軍の能力は高い。それゆえ、軍師の下から離れたとしても、そのまま失脚なさることはないでしょう。
ただし、このまま順調にいけば、我らが軍師将軍は、尚書令を継ぐか、あるいはさらに上位の地位につく。そうなった場合、あまりに事情を知りすぎている、己に反する者を、いくら軍師とはいえ、重用するでしょうかね」
「む」
「あんたもわたしも、昔は同じ穴のムジナだったじゃありませんか。知りすぎた者がどうなるか、そんなことは考えなくったって結論を出せるでしょう。軍師のことだから、罪をかぶせて失脚させるような、阿漕な真似はしやしないでしょうが、まあ、失脚寸前のところでなんとか首がつながる状態になるでしょうね。
そうなったら、あんたがただって、同じ立場に立たされる。趙将軍は、ああいう気性の方だから、それでも文句は言わないかもしれない。でも、あんたはどうです、それでもよいと?」
陳到は、むむむ、とうなりつつ、挑発するように、妙に艶めかしい笑みを浮かべている偉度を見据えた。
悔しいが、偉度の言うとおりである。
「嫁は二の次か」
「そうそう。いまはささやかな幸福よりも、大義のために、あの二人の仲直りをさせることが先決。大義が為されれば、あなたの夢もあとから追いかけてきましょうぞ。あなたの話に耳を傾けるくらいだ。趙将軍の様子は、どうやら最悪のようですな」
「一言多い。しかし、たしかに落ち込んでおられるのには、ちがいない」
「ふむ…すこし知恵を絞るか。よろしいですね。協力をお願いいたしましたよ」
「悔しいが仕方なかろう。しかしおまえ、よい策でもあるのか」
「まあ、ないこともない。準備が整いましたら、お知らせいたします。それまでは、妙に浮ついて、嫁探しなどなさいませぬよう」
釘を刺された陳到は、うー、と餌を貰い損ねた犬のようにうなっていたが、偉度は頓着せず、さっと踵を返して、自邸へと戻っていった。
「わかってないね」
ふん、と鼻を鳴らしながら、偉度はひとり、夜を歩く。
孔明の性格からして、たとえ趙雲に嫌われるようなことになったとしても、決して見捨てるような真似はしない。孔明は、己を守ってくれた者に、厚い情を持ち続ける。裏切られても、それは変わらないだろう。
まあ、趙雲が孔明を嫌う、という前提からして、おかしな話だ。
趙雲が孔明を嫌うことなどあるはずがないのだ。それはまさに、自分自身の半分を殺してしまうのと同じくらい、重い行為になるのだから。
事実、いま喧嘩をしていても、趙雲は落ち込んでいるという。
孔明と袂を分かとうとするほどの怒りではなかった、という証左である。
やれやれ、互いに離れてしまえば、それこそ窒息しかねないくらいに苦しい思いをするとわかっているのに、どうして喧嘩なんぞするのだろう。
陳到の親父さんは、出来る男ではあるが、武芸の才に見合わず、あきれるほどに凡人なのだ。二人の間にあるものが、単なる主従以上の深く強いものであることを、理解していない。
あの二人に関しては、第三者が介入できる隙間はないのだ。
陳到の夢を、偉度は知っているし、こちらのことを嫌う理由もわからないでもないが、しかし、嫌われようと憎まれようと、譲れない一点というものは存在する。
さてはて、趙雲と孔明であるが、前向きに考えれば、これはよい機会かも知れない。
雨降って地固まる。よき策を練らねばな。
妖しげな笑みを浮かべつつ、偉度は夜闇の中に消えていった。