17777HITリクエスト企画
希望の鐘
後編

文偉はヒマなのか、それとも、いますぐ甥とやらが来てくれることを期待しているのか、しばらく、がらんごろんと青銅の鐘を、頻繁に鳴らし続けていた。
休昭は、部屋の隅で白い衣を被ったまま、力ない様子で膝をかかえてつくねんとしており、偉度は偉度で、甥とやらが来たならば、すぐに部屋を出るつもりであった。

この二人が嫌いではない。
孔明が、この二人を好きだからだ。
偉度は四六時中孔明という人間を観察しているので、表立ってはけっして好悪の感情をあからさまにしない青年軍師の、ほんのちいさな感情のひだまで読み取ることができる。
孔明は、この聡明で素朴で実直で、それでいて不思議と…たとえは悪いがこんにゃくのように、するり、するりと世の悪や誘惑をすり抜けて、のびのびと過ごしている二人を好ましく思っているようであった。
きっと、あの人の襄陽時代もこのような呑気なものであったのだろう。
天下を論じ、夢を見、ときに悶々と悩み、友と衝突し…それでも後ろ暗さの欠片もない、うらやましいほどの夏の太陽のような、まぶしく熱にあふれたときを過ごしたのだ。
青春と聞くと、それだけでたいがいの者は、気恥しさと懐かしさの入り混じった感情にとらわれるようであるが、偉度の場合は、まるで神仙の世界のなにかの道具と同じくらい、ぴんとこないものであった。

偉度は繁華街へ足を向けるのが嫌いだ。自分と同じ眼差しを、雑踏の中に見つけるのが嫌いだ。
だけれど、左将軍府には、自分と同じ眼差しをもつ者がない。どれもみんな、世の中を真っ直ぐに見つめようと気概にあふれた、清い目をしている。
劉備は、周りにあつまっているのが、どうも真面目な一辺倒すぎる。孔明は、器量がちょいとばかり狭いのじゃねぇか、などと心配をしているようだが、孔明は劉備ほどに、心の芯がつよくできていない。まだ鍛えられきっていない鉄と同じなのだ。
自分だけならまだしも、魏延や糜芳みたいなのがうろうろしてみるがいい。一ヶ月ともたず、左将軍府はぴりぴりした嫌な空気に包まれてしまうだろう。
もっとも、それを治めるのも器量というものなのであろうが、孔明はまだ若いのだ。これから力をつけていく段階なのである。
自分だけでいいのだ。そう、あのひとはまだ、自分だけのものであればいい。

とっとと甥とやらがこないだろうか。じっとしていると、ろくなことを考えない。

其の間も、文偉はよほどヒマなのか、がらん、ごろんと鐘を鳴らし、最後には節をつけて、調子外れた歌まで唄いだす始末。
それを遮るように、偉度は尋ねた。
「なあ、希望の鐘などという名前がついているが、なぜそのような名前なのだ?」
「さあて、爺さんの話だと、さんざん脅されたやつが、『是、判りました』と答えて、ようやく解放してもらえる、その合図がこの鐘の音だったからだと聞いたが」
ぞっとしない話だと思いつつも、しかしあの宿直の爺さんは、孔明が左将軍府の主となってから、雇った人間ではなかったか、と偉度は思い出していた。前任のだれかから聞いたのであろうか。
「しかし、甥とやらは遅いな。爺さん、泡を食って、甥っ子の家によるのを忘れたのじゃないだろうか」
文偉がぼやくと、それまで膝を抱えてつくねんとしていた休昭が、ぽつりと言った。
「子供か。無事に生まれるとよいな」
「ああ、お前のところは母上が、おまえを産んですぐに亡くなったのだったな」
文偉の言葉に、休昭はこくりと寂しそうに肯く。
「だから、どんなお方か、顔すらわからぬ。父上は、わたしは母上にそっくりだと言うのだが」
「たしかに、おまえは頑固なところ以外は、あまり幼宰さまに似ておらぬな。伯父に聞いたが、お美しいお方だったそうだぞ」
「うん、それは父も言っていた。お前のところは、たしか、弟か妹を産んだ直後に亡くなられたのだったな」
「ああ。そもそも、懐妊が決まったときから具合がわるくて、産婆からも堕胎を進められていたほどだったらしいのだ。それでも産みたいといって、結局、出血がひどくて、弟ともども亡くなってしまわれた。母上の横で、父上が泣きもせず、なにも言わずに背中を丸めて、じっとされていたのを今でも覚えているよ。
おもえば、父上の活力の源は、すべて母上だったのだな。あれから、馬車馬のように働くだけ働いて、体を壊して、母上が亡くなられてからすぐに、父上も倒れて、それきりだ。なんというか不思議なものでな、こういうと薄情に思われぬかもしれぬが、わたしは、父や母が死ぬのだということを、事前に気づいていたよ」
「ほう」
なんというのかな、といいながら、費文偉は手持ち無沙汰に鐘をがらんごろんと響かせながら、慎重に、言葉をひとつひとつ選びながら言う。
「死の気配というのだろうか。影、というのかな。家に、生き物みたいにそれが常に『いる』のだ。妖怪の類いとかではないぞ。気配があるだけで、なにをするでもない、恐ろしくもなんともないのであるが、こいつがいるからこそ、母上も父上も、間もなく亡くなられるのだな、と」
「それはわかるな」
思わず、偉度は口を挟んでいた。

淀んだ死の気配の中、どんどん真綿で首を絞められていく状況にあると知りながら、それでも劉gを守るために死んだ男。
あの男の周囲にも、死の気配がつねに付きまとっていた。
もはやどうしようもなかった。
どうしようもできないことを知っていた。

ふと、がらごろと鐘を鳴らしつつ、文偉が水を向けてくる。
「そういえば、わたしは偉度のご家族のことを何も知らぬな。弟君がいるのであったっけ?」
「ああ、義陽で家を継いでいる。異腹でね、あれのほうが正嫡だったから」
と、偉度は嘘をついた。しかし抵抗感はない。
いつもついている嘘であったから、繰り返しているうちに、それが本当のように自分でも思えるようになってきていた。
それでは、と文偉がさらに言葉を継ごうとするので、すかさず偉度は遮った。
「おっと、父と母のことは言いたくない。そんなふうに人の詮索をしているより、おまえたちはこの隙にでも、せっせと芝居の練習をしたらよかろう」
「よかろう、ってな。おまえときどき、軍師にそっくりな口を利くから、こちらもどきりとするよ。まあいいや。休昭、どうする」
文偉に促された休昭は、気乗りのしない様子で、答えた。
「だが、宿直の甥とやらが来るまでは落ち着かぬ」
「ただぼんやり待っているよりは、よほど有意義だぞ。そうだ、偉度、おまえ、わたしたち以外の役をやってはくれぬか」
「なんだ、おまえたち二人だけの芝居ではないのか」
「うん、ほかの連中は、やれ酒の付き合いだ、女房が待っているだのと、なんやかやと理由をつけて帰ってしまったのだ」
「ふん、見たところ、休昭の女神役も、その要領のいいやつらに押し付けられたのだろう」
図星であったらしく、休昭は答えないまま、むっつりと黙り込んだ。

休昭や文偉にとっては世間話でも、偉度にとっては時に、薄氷の上を踏むような、嫌な作業になることがある。
自分では図太いほうだと思いこんでいたのだが、近頃はどうしたことか、過去と現在の感覚が、だんだん曖昧になって、どちら側にいた自分が本当だったのか、わからなくなってきているのだ。
刺客としての酷薄で容赦のない胡偉度か、孔明の有能な主簿としての冷徹な胡偉度か。
どちらにしろ、人に好かれる立場ではない。
そもそも、好きだと言ったことはあったけれど、それはあくまで手段だけの話であった。
此方の身体を餌に、相手を油断させるための、最初のとっかかり。
甘い言葉は、だれにでも耳障りが良いらしく、好んで聞きたがる。好きだの、えらいだの、立派だの、美しいだの、格好よいだの。
もちろん、偉度とて、そのお返し、とばかり、いろんな美辞麗句をもらったことがある。
だが、たった一言だけ、一度も、誰からも、もらったことがない言葉がある。
「愛している」
「は?」
ぎょっとして思わず声を上げると、かえってぎょっとした文偉と休昭が、偉度のほうを見た。
「なんだよ、おまえの出番じゃないぞ。ここは山場なのだから、『村人その一』は大人しく野良仕事をしているのだ。突っ込み不要!」
「ああ、わかった。『村人その一』は、真となりで濡れ場が展開されようとしているのに、まったくそれと気づかぬように、農作業をしている間抜けなフリをしていればよいのだろう。ぼんやり度が過ぎていたよ。すまぬ」
「まったく、おまえ、わたしたちのことを、ずいぶん棒読みだの、大根だのけなしていたが、おまえだってまるでダメじゃないか」
「当たりまえだろう。芝居に出るのはわたしではないのだ。それと文偉、おまえ、まともに誰かに愛を告白したことがないだろう。全然気持ちがこもっていないから、山場どころか、ここで客は呆れてみな眠りだすぞ」
「言ってくれるではないか。するとおまえは、そう言うことを、言ったことが…」
と、しばらく文偉は、いつもの冷笑的な笑みを浮かべる、地味にはしているものの、秀麗な顔立ちをしている、どこか色気さえ感じさせる偉度を見つめていた。
が、やがてぼそりとつぶやいた。
「ありそうだな。たっぷり」
ふん、ばか坊ちゃんども。年季が違う、と心でつぶやき、偉度は鼻を鳴らした。
「だいたい、そんなどこかの布団みたいな布だけを被った男に、色っぽい台詞を言おうとするのが間違っておるのだ。休昭、化粧しろ」
はあ? といいつつ、休昭は小動物並みに危険を察知し、元刺客(一応現役でもあるが)の偉度の前から、すばやく後ずさった。
しかし文偉は大いにうなずく。
「よくぞ言ってくれた。実はちゃんと白粉やら紅やら、一式全部持ってきてあるのだよ。それなのに、こいつが嫌がるものだから。ほら、偉度もこう言っているのだ。覚悟を決めて、女神になりきれ! 芝居を甘く見てはならぬ。そんなことでは、とてもではないが、お客様を満足させることはできないぞ!」
「わたしは、本職の俳優ではないのだぞ!」
せまい部屋で、しかも孔明よりもなおとろい、と評判の高い休昭は、あっさり文偉に捕まって、偉度の手により、手早く化粧が施された。
その慣れた手並みに、おおー、と文偉が感嘆の声を挙げる。
「すごい! 休昭がそれらしくなってきた! ほれ、鏡!」
鏡を見せられた休昭は、顔を真っ赤にして、唐辛子をふたつ重ねたように真っ赤になっている唇を尖らせた。
「ばか、これでは真面目な話が、ただの笑い話になってしまうではないか!」
「もとより、おまえが女神、という時点で、すでに笑い話なのだよ。張将軍に負けない伝説をつくれ!」
「いやだ、そんな伝説! だいたい、馬季常さまも、張将軍も、すでにそれなりの地位のあるお方であったから、みな笑うだけで終わったのだ! 私のような、ただのびんぼう書生が女装したなら、単に同情と奇異のまなざしで見られるがオチ! 第一、父上が悲しまれるお姿が目に浮かぶ! やっぱりいやだ!」
と、この普段は大人しく、(本人の意思とは裏腹に)流されるだけ流されて、いつのまにやら、ろくでもない位置にいる青年は、今日もまた、こんなのはいやだといって泣くのであった。
「ううむ、たしかに幼宰さまは嘆かれるであろうな。ほかのことならばともかく、あのお方は休昭のことになると、目の色がかわる。大事な一人息子が、みなの笑いものになっているのを、みなと一緒になって笑えまい。というか、この芝居を企画したわたしが怒られる可能性がある」
しくしくと泣いている親友にほだされたか、そうつぶやく文偉に、偉度はうんざりして言った。
「わかっているのならば、おまえがすればよかろう、女神役。たしかに休昭は柔らかな顔立ちをしているが、女装が似合うかどうかというと、また別だ。顎の発達具合からすれば、おまえのほうが、化粧をすれば女に見えるぞ」
文偉は気味悪そうに言う。
「なんだ、偉度。おまえ、いつも人のこと、そんなふうに観察しているのか?」
「やかましい。忠告が必要そうであったから、教えてやっただけのことであろうが! それよりほれ、おまえも化粧をしてみるがいい!」
休昭ほど抵抗はなく、おそらく好奇心が勝っているのであろう。
文偉は意外に協力的に、みずから偉度に化粧をほどこしてもらう。
「ほんとうだ、女だ、女っぽい!」
と、泣いたために不気味に顔が崩れている休昭(現代のわれわれから見れば、その顔は、ピカソの『ゲルニカ』の泣く女にそっくりであった)は、目を輝かせる。
「よし、それではわたしが心栄えの立派な若者をやる。おまえは女神。それでよかろう!」
「よかろう、ってな、よいわけがなかろう!」
憮然として鏡を見て、文偉は言った。
たしかに文偉は白粉をはたき、紅をさせば、休昭よりは綺麗にみえたけれど、綺麗、というだけで、女らしさとは程遠いのであった。
偉度もうなずく。
「たしかに顔かたちは悪くないのに、たとえ女装させても、衆目は納得せぬぞ。これは単なる化粧の好きな変な男だ」
「どこが悪いのであろう?」
偉度は、化粧をして、顔ばかり雅やかになった文偉を、頭からつま先までじろりと見下ろす。
「うむ、雰囲気だな。休昭が、ろくに化粧もしなくとも女らしく見えたのは、その性格が女らしかったからだ。だが、文偉は、顔は女顔ともいえるが、性格が男丸出し。だから、これっぽっちも女らしくないのだ」
休昭は、じっとりと偉度を睨みつける。
「偉度、どさくさにまぎれてすごい悪口を言っていないか。つまり、わたしは女々しいと。きみ、言っておくが、この狭い部屋に、二対一だぞ」
よほど傷ついたのか、泣いて開き直ったのか、めずらしく凄んでくる休昭に、偉度は鼻を鳴らして言った。
「二人だろうと二十人だろうと、おまたち程度ならば、怖くともなんともない。瞬殺だ」
そうしてにやりと笑うと、なにやら説得力があったらしく、ふたりは、う、と呻いて偉度から距離を置いた。
やれやれ、ばか坊ちゃん。もともと住む世界が違うのだ。こうして三人でいること自体が、おかしなことなのだぞ。
またもや泣きそうな顔になっている休昭に、文偉は化粧した顔のまま、宥める。
「まあまあ、そう気を尖らせるな。おまえがそれほど嫌なら、女神役はわたしが代わってやるさ。台詞を覚えなおさねばならぬが、たいした手間ではあるまい。うちの伯父は、幼宰さまのように、わたしが女装をしても怒らぬであろう。むしろ、腹を抱えて大笑いするであろうさ」
「文偉―」
と、別な意味で泣きそうになっている休昭を見て、文偉はからからと笑っている。
このさわやかさ。
軍師ならば微笑ましく思うのであろうが、偉度は嫉妬もあり、苛立ちしか感じない。

おのれの性根の悪さを恨みつつ、偉度は文偉に言った。
「おまえのところは伯父上だけであったか。従兄どのは演芸大会やらには出ないのか」
「忙しくて無理であろうな。そういえば、このあいだ、ようやく長い休みを取れるようなので、温泉に行くのだと手紙にあったよ。家族でひっそりしているほうが、あのひとにはいいのだ。わたしのように、みんなと賑やかにしているほうが、楽しい人じゃないから」
「おまえは、みんなと馬鹿騒ぎをするのが好きなのか」
「偉度は嫌いか? わたしは好きだな。だって、一人ではないと思えるだろう」
「一人か。集団の中にいるときのほうが、むしろ己が異質と感じて、自分が一人なのだと思わぬか」
と言ってしまってから、偉度はしまったと思った。
どうもこの費文偉、本人にその気はないのだろうが、つい本音を漏らしてしまいたくなるところがある。
その呆れるほど明朗で素直な性格が、対峙する者をも素直にしてしまうのだろうか。
さて、なぜだと問われたら厄介だ、こういう内面的な話をぐずぐずするのは好きじゃない。
なにか話題を変えようと考えていると、意外にも、休昭が横から入ってきた。
「それは判るな。わたしも、賑やかな場は好きじゃない。きみみたいに話題が豊富じゃないし、みなを笑わせることもできない。気を使うばかりでひどく疲れるし、みんなが楽しそうにしているのに、自分だけ疲れてションボリしている、自分はみなと違うのではないかと、不安になるよ」
すこしちがうが、不安になる、という点では似ている。
偉度は、休昭にすこしだけ親近感をおぼえた。
「わたしは幼少の頃から、父上に大事にされすぎたからだろうか、他者とうまく繋がることができないのかもしれぬ。いつも父上の真似をして、こうしよう、ああしようとするのであるが、父上が素晴らしすぎて、なんというか、壁にぶつかるような感覚があるのだ。父上は超えられぬ。あの人のように、みなから慕われる官僚になるにはどうしたらよいのかと考えて…それで実は、芝居のことも乗ってみたのだ。でも、女装はヤッパリ嫌だ」
「なるほど、そういうことであったか、ならば、なおさら女神はわたしがやるべきだろう。どう思う、村人その一兼そのニ兼村長」
「どう思う、といわれても、休昭の内面のことであろう。わたしには、まあ、がんばれとしか言いようがないよ。よき父上がいてよかったではないか」

偉度は、父親に関する記憶のすべてを封じている。
嫌な思い出ばかりではなく、いい思いでも、ほんとうに砂粒ほどではあったけれど、あったのだ。
一緒に遊んでもらったこと、肩車をしてもらったこと、どれだけ楽しくてうれしかったか。
あの男、名も知らぬ男に殺されたあの男は、自分の息子が、あのとき一瞬でも、世界のすべての愛情を、父親を通して得たのだと知っていただろうか。
知っていてもなお、家門のためにと理由をつけて、自分を奈落の底に突き落としたであろうか。
あんな男には決してならないし、なろうとしても、そうなれるものではあるまい。
優しい感情が、どこかで壊れて根こそぎなくなってしまったのだとしか思えない。

『もしかしたら、おまえの父親も、程度こそちがえ、親か、あるいは他の大人に、似たような目に遭わされたのかも知れないぞ』
と、いつだったか、あのひとが言っていたことがあったな。
そう、めずらしく、孔明が裁定を下した裁判のあとであった。
博打で借金を方々にこさえ、先行きに不安をおぼえた男が、妻子を殺害し、自分も死のうとしたのだが、果たせなかった、という事件であった。
男に同情をする向きもあったが、孔明は処刑の判定を下した。
男が、最後まで、妻子はこれで苦しまずに済んだのであるから、死んでよかったのだといい続けたからである。
孔明は男の身辺を偉度に調べさせた。
偉度が調べたところによれば、やはり男の親も、博打狂いで借金をつづけており、しかもひどい酒乱で、妻を殴打しては鬱憤を晴らす毎日であったという。
親が曲がっていたから、子も曲がる。だから、自分の子も曲がるにちがいない。だから始末したのだ。良いことをしたのだ。これは親の過ちをこれ以上、ふやさないための孝行である。男はそういい続けて死んだ。
あの男…父も、祖父という人物に虐げられたことがあり、自分にも『家門を守る』ための犠牲を強いたのであろうか。
だとしたら、自分がもし子ができたとして、自分はどうしてやれるだろう。
そう考えたとき、偉度は、自分は、結婚はしないし、子も作らないことを決めた。
いっそ宦官になってしまいたいとさえ望んだ。
そのほうが、悲劇が増えずにすむ。
それを孔明に告げると、いきなり横面をはたかれた。
『おまえは、父親の影に怯えて、そこで負けるのか。父親を憎むのであれば、とことんまで憎め。そして、打ち克ってみせるがいい! おまえの陥った境遇には同情する。しかし、かといって、おまえの犯した罪のすべてが消えるわけではない。おまえは、罪をつぐなう意識があるのか?』
ある、と偉度は言った。
父親も、樊城をめぐるいざこざも含めて、殺さなくていいもの、傷つけなくていいもの、過去には許しを請わねばならぬものが有りすぎた。
顔も名前も思い出せない者たち。彼らにどう償ってよいのかわからない。
自分がそもそも、父親と母に捨てられた『間違った子供』であったから、こんな間違ったことをするのだと、そう言い訳を繰り返し、罪もつぐなわずに生きるのかと、孔明は問うたのであった。
『もしも、心の底から罪をつぐないたいと思うのであれば、おまえの良心のすべてに賭けて、正しいと思うことのみを実行することにせよ。殺めた相手は生き返らぬし、傷つけた相手に謝ったところで、言葉だけではなにもならぬ。
己の身がいかに引き裂かれようと、辛かろうと、苦しかろうと、過去と戦え! 過去を葬るということは、過去を殺すこととは違うのだ。おまえがおまえである限り、過去は決して死ぬことはない。
お前の忌まわしき過去を生んだものを恨み、同じことばかりくりかえし思い出し、煩悶と苦しみ生きることを選ぶか、それとも、新たな苦しみに飛び込み、忌まわしき事実をすこしでもよき方向に流そうとするために、わたしと共に来るか、どちらかを選べ!』
ああ、そうだ。そこでついて行く、と言ったから、いまわたしはここにいるのだった。
なんだって死ぬことを考えたり、一人はさびしいなどと、考えたりしたのであったかな。
どうして、嫌なことばかりは鮮明に覚えていられるのに、よいことは忘れがちになってしまうのだろう。

「文偉、いいかげん、宿直の爺さんの甥とやら、遅すぎやしないか」
偉度が尋ねると、うむ、と文偉も頷いた。
と、そこへ、みしり、みしりと床を軋ませ、何者かが近づいてくる。
「お、ようやく来たようだぞ。文偉、その希望の鐘を、がらごろと鳴らしまくれ」
よしきた、と文偉は派手に鐘をがらん、ごろんと鳴らしまくった。
すると、足音はどんどん此方へ向いてくる。
一人ではなく、複数のようであった。
そうして、がらりと部屋の扉が開かれる。
そこには、なぜだか軍師将軍諸葛孔明そのひとと、董允の父・董和、文偉の伯父の伯仁の三人が、それぞれしかめ面をして立っていたのであった。
その後ろには、かしこまった風の若い夫婦が、そおっと中の様子を覗いている。おそらく宿直の爺さんの甥と、心配してついてきたその女房らしかった。
偉度と文偉と休昭の三人が、ぽかんとしていると、孔明は、大きく息を吐いて、それから偉度に言った。
「おまえ、宿直の爺さんに、留守を預かったとき、鍵束も一緒に預かったであろう」
「はい」
「そのとき、ご丁寧に、門の鍵まですべて閉めなかったか」
「あ」
偉度は思い出した。
自分の辿った道を探られないように、すべて現状を元に戻して先に進む癖が、無意識のうちに出ていたのである。
「宿直の交代を頼まれたものの、中に入りたくても入れない。なのに、なかから、ガラゴロと、不吉な鐘の音がいたします、というので、この者たちが、わたしの屋敷にやってきた。
ところが、わたしは許氏の屋敷に招かれていない。どうしようというので、うちの家令が気を利かせて、董幼宰殿の屋敷に飛んで行った。すると、ちょうど囲碁をして遊んでおられた費伯仁どのも居合わせて、そういえば、うちの甥っ子も帰ってこないとなって、大騒ぎになったのだよ。で、あわてて左将軍府にもどってきたら、まあ」
と、孔明は、顔ばかりが雪のように白い、幽鬼も裸足で逃げ出すか、あるいはその場で笑い死ぬか、というくらいの顔をしている文偉と休昭、そして、らしからぬ過ちに、ぼう然としている偉度をそれぞれ見回した。
「とりあえず、無事でなによりだ。三人とも外に出るように」
「休昭、早くこっちへこい! まったく、なんだ、その情けない顔は! ほら、井戸へゆくぞ。顔を洗え! まったく、いい年をしてあきれたものだ、どれだけ心配をしたと思っているのだ、おおたわけ!」
と、董和は部屋から出てきた休昭を、抱えるようにして連れ出すと、井戸端へと急いだ。
一方の費伯仁はというと、甥っ子の、顔だけ美女、という姿に大笑いをし、しばらくぜいぜいと苦しそうにしていたが、
「おもしろい、傑作だ! お前は笑いに関しては、並々ならぬ感性を持っておる。さすがわが甥。鼻が高いぞ!」
「喜ぶべきか、微妙でございます、伯父上」
「あんまりおもしろいから、うちの家人にも見せてやろう。顔を洗う? だめだめ、これをわれらにしか見せないというのは、罪というものだ。ついでに、町のみなにも見せてやろう。よき芝居の宣伝にもなろうぞ。さあ、帰ろう」
と、これまた器の妙に大きなところを見せて、偉度を連れて、大笑いしながら、そのまま去っていった。

さて、孔明はというと、ほんのわずかに酒の香りをさせて、偉度から受け取った鍵束を、甥夫婦に頼むと、宿直をまかせて、その場を去った。
左将軍府の前には、御者のないちいさな馬車がひとつあるきりで、どうやら許靖から借りてきたものらしい。喬の姿もみえなかった。
「許靖さまのお屋敷に戻られるのでは」
と、偉度が尋ねると、孔明は答えた。
「喬は、今宵はあちらで泊まらせてもらうことにした。われらは帰るぞ。隣に乗れ」
「お酒を呑まれた方に、手綱を預けるわけには参りませぬ」
偉度はみずから御者台に乗ると、孔明もまた、その隣に座った。
「文鎮のせいで、とんだ騒ぎになったな」
「文鎮ならば、ちゃんと持って参ってございます。お屋敷に帰られますか」
「うむ、それもよいが、そういえば、わたしはおまえと酒を飲み交わしたことがないな」
なんです、とつぜんに、と答えつつ、たしかにないな、と偉度は思い出していた。
毎日のように顔をつき合わせているために、わざわざ酒を飲んで、いまさら親睦を深めることを考えたことがなかったし、偉度自身が、酒が嫌いなためであった。
「許靖殿の酒宴は楽しかったよ。あの人は、さすが洛陽で趣味人として鳴らしただけあり、洗練されている。文鎮なんぞどうでもよかったから、おまえも連れてくるべきだと思った」
「お気遣いだけで結構でございますよ。偉度は、酒は好みませぬゆえ」
「それは知っている。だが、おまえはやはり、多くの人ともっと付き合いを深めるべきだよ。ちょうどよい機会だから言うが、わたしがむかし、おまえに言ったことを覚えておるか」
「もちろん」
一言一句、鮮明に覚えている。
ついて行くと決め手から、偉度はそういうふうに孔明の示す道筋をたどってきた。
「わたしは、おまえが罪をつぐないたいと思うのであれば、わたしと共に来いと」
「たしかにそうおっしゃいました」
「わたしは、あのとき誤ったことを言った。わたしは神ではない。わたしはおまえを過去に縛っていた者たちと、同じ過ちをしてしまったのではなかろうか。偉度、世の中はとてもとても広いのだよ。きっと、わたしより、おまえのほうがずっとそのことを知っているだろうな。
だから、何千万人という人のなかで、諸葛孔明という人間ひとりが進む道だけを、お前が道しるべにすることはないのだ。おまえには、おまえの道しるべをおのれで決める権利がある。わたしはそれすら許さず、おまえについて来るように強制した。すまなかったと思う。許せ」
「何事でございますか、急に」
偉度が驚くと、孔明はすこし寂しそうに笑った。
「許靖どのの宴は、よい宴であったよ。途中で、舞が披露されてね、おおいに盛り上がったのであるが、突然に、許靖どのが泣き始めたのだ。なにかと思えば、夭折されたご子息が、この舞を好きだったのだという。それを聞いたほかの子供たちが、やはり嘆くのだ。
同情すべきではあったけれど、死がすべてを止めてしまっている。ふとそんなふうに感じて、おそろしくなった。人は己の死を乗り越えることはできない。とすれば、他者の死など乗り越えることはもっとできないのかもしれない。まして、相手が特別であれば、なおさらだ」
馬車はゆっくりと進む。
偉度は、孔明の言葉のひとつひとつを聞き逃したくなかったので、わざと馬の歩みを遅らせていた。
「偉度、お前はわたしを見ていない。わたしの中の、死者を見て歩いているのだ。わたしと共にいる限り、おまえは窒息してしまうだろう。おまえの献身はありがたく思う。だが、過去と戦えといっておきながら、わたしはおまえに、過去を背負わせていたのではないだろうか」
「この手が手綱を握っていなければ、殴りますよ、軍師」
うん、と孔明は意外そうに、となりの偉度を見る。
偉度は、馬の足をさらにゆるめて、言った。
「わたしは、あなたなんかより、ずっと人を見る目があるのです。そのわたしが、あなたについていくことを決めた。なのに、そのあなたが、それではいけないと仰るのですか。
わたしだって、迷うことだってある。いや、迷ってばかりなのだ。狂気に捕らわれてしまったほうがどれだけよいか、過去に溺れてしまったほうがどれだけ楽か、あなたなんかには、すこしもわかりはしないでしょうよ。それでも正気に戻ってくることができるのは、あなたの言葉があるからなのだ。
それを否定なさるなら、いますぐ偉度を殺しなさい。わたしは、あなたの名づけた者です。わたしは、あなたの子なのだ」
しばらく沈黙が続いた。
いちばんゆっくりと走らせている馬車の、車輪の音がやけに大きく響く。
前方の、月光に揺れる馬の背が、そこだけ生き物の気配を感じさせていた。
不意に、髪に手の触れる感触があり、偉度は孔明の手で、頭を引き寄せられるようにして、その肩に頭をあずける格好となった。
「すまなかった」
孔明の声が、すぐそばで聞こえた。この人の声は、こんなに深く、優しかっただろうか。
「ほんとうにすまなかった」
「なにをなさるのです、危ないでしょう。運転中ですよ」
偉度の強がりに、孔明はちいさく苦笑を洩らし、それからさらにつよく偉度の頭をつよく引き寄せてきた。
「おまえが望む未来は、残念だがわたしには見ることができない。でも、おまえがわたしといて、それでよいというのであれば、わたしはお前の望むものになるよ」
「あなたは、あなたのままであればいい。わたしのことなんぞ、いちいち考えなくてよいのですよ…なぜ泣くのです。ほんとうにあなたは、会ったときから泣いてばかりだ」
偉度は自分の双眸にも、慣れぬ生暖かい水があふれてくるのを覚えていたが、これはただの水、と自分に言い聞かせ、嗚咽を漏らしそうになる唇をぐっと堪えて我慢した。
そうして、馬車は、ゆっくりと闇夜に消えて行った。



其の夜、宿直の爺さんのひ孫は無事に誕生したそうである。











あとがき
※Kんさまから17777HITでいただきました作品で、ギャグ、ということでしたが…偉度の内面を突き詰めていたら、シリアスになってしまいました。スミマセヌ…ラストも本当に和田ア○子さまのEDがふさわしそうな…というか、はさみのの脳内にふと浮かんだのは「大草原の小さな家」でした。なぜだろう…。でも書いた人としては結構、気に入ってしまったのですが、如何でしょうか。こんなはさみのですが、またよろしければリクエストいただけたら幸いですm(__)m

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(C)Hasamino Nakama 2005 07 05