17777HITリクエスト企画
希望の鐘
前編
「いかん、忘れた」
の、孔明の一言がすべての始まりであった。
どうなされたのです、と偉度がたずねると、孔明は、あらためて袖やら、衣にあわせてしつらえた手提げやらを探っているのであるが、やはり失せ物はみつからないらしく、柳眉をしかめた。
「なにをお忘れでございますか」
「文鎮だ。此度、よい石が手に入ったというので、主公がわざわざわたくしに贈ってくださったものなのだが」
「ああ」
あの、とのさまにしては趣味の良い、と偉度は心のなかで付け加えた。
光沢といい、肌触りのなめらかさといい、適度な重さ、大きさといい、その豪奢な彫り物といい、非の打ち所のないものなのである。しかも洒落ていることには、水を跳ね除けて泳ぐ勇壮な魚の姿がそこにはあり、つまりは世人の口に上った『水魚の交わり』を、形にしたものであった。
すなわち、劉備の軍師にもとめられた孔明であるが、若いことと無名であることなどが古参の将兵の不満を招いた。
それを押さえるために、劉備は「俺が孔明を得たのは、魚が水を得たようなもんなんだよ。堪えておくれな」と言ったことからはじまる。
あたらしい奥方をもらってから、とのさまは趣味がよくなられた、と偉度は思うが、孔明は以前のご夫人がたのほうに強い思いいれがあるらしく、そういった話題にはあまり乗ってこない。
それはともかく、孔明は、贈られた文鎮を大切にしていたので、公務ではもちろんのこと、自邸にもそれを持ち帰り、大切に使っているのであった。
孔明のことばを聞いて、御者と一緒に迎えに来ていた、養子の喬が、なにも言われないうちから馬車を降り、とことこと左将軍府に入って行こうとする。
偉度はそれを留めた。
「お待ちなさい、喬さん。今宵は、あなたはお父上と一緒にお呼ばれなのでしょう。遅刻をしてしまいますよ。軍師のお忘れ物ならば、わたくしがもちに行き、あとで届けに参りましょう」
言うと、横で聞いていた孔明は、すまなさそうに言う。
「よいのか」
「それも主簿の仕事でございますから。道中の、せっかくの親子水入らずに邪魔をしてもいけない。許靖さまも首を長くしておまちでしょう。さあ、遅くならないうちに出かけておしまいなさい。ただでさえ、遅れてしまっているのだから」
「ならば、おまえの言葉に甘えるとしようか。だが、偉度よ、もう暗いゆえ、見つからぬかもしれぬ。そのときは無理をせず、もう帰ってよいぞ。あの文鎮がよい、というのは、単なるわたしの我侭であるからな」
「わたくしを誰とお思いか。闇夜にはつよい。お任せなさい。それでは、またあとでいずれ」
喬は、軽く偉度に手を振ってふたたび馬車に乗り込み、そして孔明も偉度を気にしつつも、許靖の家に向かって行った。
許靖という男、頭に馬鹿がつくほどの正直者で、数々のあきれるほどの不運…董卓に殺されそうになったり、孫策に殺されそうになったり、南蛮の地に逃げたら風土病にかかったうえに道に迷って一族が全滅しかけたり、劉備にひとりで降伏しようとして世の中の笑いものになったり…を乗り越えて年を取った男である。
偉度が見るに、おそらく肝臓を傷めているのではないか、というくらいに肌の浅黒い老年だ。
無邪気な男で、さまざまな人生経験ゆえか、男女貴賎のべつなく人を扱うため、さして実力があるというわけでもないのだが、ふしぎとひとから慕われた。
孔明などは、実地の知識をもっとも知る人物として、大切に遇しているほどである。
そして、偉度は、孔明の養子である喬が、許靖の半分は冗談ではなかろうか(しかしおそろしいことにすべて実話なのであるが)苦難の物語の数々を聞くのが好きだということを知っていたので、お招きに遅れては気の毒だろうと思ったのだ。熱心な聞き手を許靖もよろこび、孔明も含めて、許靖は喬を屋敷にまねいてくれたのである。
どうせ自分は、だれかに招かれていることもないし、こじんまりした屋敷はあるが、『弟妹たち』がたまに寄ってくる程度である。
その頻度も、おそらく義理以外のなにものでもない、と偉度は思っている。
偉度は優秀すぎるのと、孔明に近すぎるために、ほかの『弟妹たち』は遠慮をして胸襟をひらかないのである。
雑踏のなかにいれば、沁み込んだ癖ゆえに、あやしい動きをしているものを探してしまうし、だれかの家に遊びに行く宛てもない。酒は飲めるが、そこにまつわる思い出に、暗いものがありすぎる。
偉度が、左将軍府に戻ると、いつもおっとりした宿直の爺さんが、中からびゅんと矢のように飛び出してきた。
「どうしたのです」
偉度が尋ねると、爺さんは、すっかり泡を食っている様子で、一気にまくしたてた。
「孫が産気づきまして、ええ、まえの子は流産だったので、今度、危なければ、二度と子は望めぬと医者のやつに言われておりまして。それが急にいまさっき、産気づいたというのですよ。使いのものが、孫が苦し紛れに、爺さんに会いたい、爺さんに会いたいと、言っていると言うのです」
「そうかい、そうかい、で、宿直を変わって欲しいというのだね」
「いえいえ、とんでもない。この近所にうちの甥っ子が住んでおりまして、孫の家に行く途中、声をかけてゆきますので、そいつに代わりをさせます。ですが、そのあいだだけ、偉度さまに宿直をお願いしてよろしいでしょうか。この礼はかならず」
「ああ、わかった、そんなつばを唾して泣きながら頼むのじゃないよ。わたしだって用があるのだから、戻ってきたのであるし。ただし、ずっとはいられないよ。甥とかいう男に、早く来てくれるように言ってくれるならば、すこしのあいだだけ、ここに留まろう」
「ありがとうございます。この礼はかならずいたします」
そういって爺さんから、偉度は、左将軍府のあらかたの部屋の鍵束を預かり(孔明が私室がわりに使っている部屋は、孔明が鍵を管理していた)、左将軍府に入っていった。
ああ、こういうときは、軍師ならば、『よい子が生まれるといいね』と答えるのだろうな、と偉度は思う。
表ばかり真似をしても、やはり中身は『胡偉度』である、というわけか。
孔明の衣のお下がりを纏い、自然とその後れ毛を指先でもてあそぶ仕草や、小首をかしげて誰何する仕草、ものの言い方、考え方、あきれるくらいに見つめて、それが真似たおかげで、偉度という人間から浮いたものではなくなるまでになった。
孔明を必死に真似ているのは、孔明に心酔しているわけではない。
もちろん、孔明のことは特別に思ってはいるが、それはおそらく、諸葛孔明と言う人物だけが、自分の過去に辿れる扉であるからだ。
孔明の中にある、己のもっとも慕わしい過去を、偉度はいまもって探し続けているのである。
ときに、自分はもう終わっているのだ、とさえ思う。いま呼吸をし、目を開き、世の中を見ているのは、孔明が名づけた『胡偉度』であって、以前の自分ではない。
過去を捨て、恨みを吐き出し生きよ、と孔明は言ったが、やはり、あの人は、愛される一方の星の下に生まれているので、恨みとは、つねに執着や思慕と、離れがたく結びついていることが、ぴんとこないのであろう。
わたしは愛されなかった。その思いをずっと背負って、これから先も生きねばならない。
ああ、鬱陶しい。こんなことは終わりにしないか。楽に死ねる方法なんて、いくらでもあるのだ。
ほら、そこの文鎮。そいつで自分の頭を勝ち割ってしまってもよいし、だれが置いて言ったのやら、帯をちょいと柱にひっかけて、そこに首を載せればそれでおしまい。
護身用の刀で動脈を切ってしまえば、いささか派手だが血の海で凄絶に死ねる。苦しみたくなきゃ毒がいちばん。万が一のためにと言葉巧みに頭をさげて、奥方にもらった毒は、いつも懐にしまってある。
おや、なんだかさっきから、自分は死ぬことばかり考えているな。
なにをしにもどったのであったかな。そうそう、文鎮だ。
胡偉度は、孔明の卓の上にあった文鎮を取ると、丁寧に絹の布にくるんで、ふところに入れた。
そして、星明りに輪郭だけをおぼろに浮かび上がらせる、黒い座卓の並ぶ部屋を振り返る。
昼間の賑わいが、うそのように静かだ。
なんとなく、柱にもたれて座り込み、偉度は闇の中でしばらくじっとしていた。闇にも質があると思う。これは、水にこぼした墨の類いの闇だな、と偉度は思った。
昼間の喧騒を吸収し、大気に薄めて、朝にそなえている静かな闇だ。
闇を凝視していたあと、何も考えることもなくなったので、偉度は立ち上がると、部屋を出た。偉度の中では、過去は足を取るものではなく、彼の中に組み込まれ、いまも生きているものである。
こうして時々落ち込んで、死すら幻想することを危ぶんで、孔明が『恨みを吐き出せ』と忠告したのであれば、やはりあのひとはたいした方なのだろう。
そうして許靖の館にいるであろう孔明のもとへ行こうとする偉度であったが、ふと、左将軍府の一室の、明かりが漏れているのに気がついた。
いましがた残業だというのか。もはや宿直(とのい)の爺さんしか残っていなかった深夜に?
もしや、爺さんの孫が産気づいたというのは狂言で、賊ではないのか。
偉度はすぐさま、孔明の主簿の面を捨て、しなやかな獣のような刺客の顔を取り戻した。
足音をさせることなく、ゆっくりと明かりの漏れる部屋へと近づく。
そして、そおっと隙間から中をのぞくと、蝋燭の明かりに、真っ白な布を頭から被った、何者かのすがたがぼおっと浮かび上がっているのである。うしろ姿からすれば、どうやら女。
女の賊? 細作か?
「何者ぞ!」
偉度は叫び、部屋に入ると、すぐさま、白い女の咽喉笛に、短い刀をつきつけた。そうして、気配ですでにさぐっていた、傍らの男が近寄ってくるのを、すばやく片足で蹴り飛ばす。
「おいおい、宿直の爺さん、いつからこんなに強くなったんだ!」
と、蹴られて壁に叩きつけられた男は、呻きながらも憎まれ口を叩く。
白い女のほうは、自らこぼれた魚のように口をぱくぱくさせて、気絶寸前なのだ。
男の声にきき覚えがあった。
咽喉笛につきつけた刃をゆるめ、蝋燭に浮かび上がる男の顔を見る。
費文偉であった。
「なにをしている、おまえたち!」
「なにをもなにも。偉度、休昭が白目を剥いている。解放してやってくれぬか」
たしかに、白い布を頭から被った女だと思っていたものは、女などではなく、死者が纏うような白い衣に、布を被って髪を垂らしただけの、董休昭であった。
それが、蟹のようにぶくぶくと泡を吹いて倒れかけている。
費文偉は、巴蜀の名族費家のあととり息子であり、族父である伯父と二人暮しである。
名族というからにはきらびやかな生活を想像させがちであるが、費家というのは運のない家で、その家の隆盛の中心であった女性は劉璋の母、つまり追い出された昔の君主の母親だった、というややこしいいきさつのため、新勢力から敬遠され、びんぼう生活を余儀なくされている。
一方の董允は、巴蜀を代表する官吏の鑑・董和の一人息子である。
その潔癖な態度と男気あふれる人格によって、絶大なる民衆の人気を勝ち得ている董和であるが、いかんせん世渡りベタで、せっかく実力はあるのに、いつも浮上できないでいるため、やはりこれまたびんぼう生活を余儀なくされている。
この不器用なびんぼう一家の息子が、びんぼうを鍵にして仲良くなるのは自然の道理。偉度が知る限り、この二人は仔犬の兄弟のように、いつも一緒にいるのであった。
「いきなりすごいやつだな、おまえは。ああ、腹が痛い」
と、蹴られたところをさすりつつ、文偉は立ち上がる。文偉と偉度の年はさほど変わらないため、文偉は人懐っこい性格を発揮して、偉度に対し、最初から親友のように親しげな口を利いている。
なぜこんな素早い芸当が出来るのだ、と突っ込まれたらやっかいだと思っていた偉度であるが、呑気は文偉はそこには突っ込まずに、目を回している休昭のほうに言った。
「おい、起きろ、休昭。賊じゃない、偉度だ。女神のくせして、これしきで倒れてどうする」
「女神?」
床に伸びている貴公子然とした休昭は、たしかに父親に似ず、柔和な顔立ちをしているが、しかし女神などとはお世辞にも言えない。
「おまえたち、もしかしてこうやって逢引をしている、怪しい関係か」
冗談ではなく本気で偉度が尋ねると、それまで気絶していた休昭が、がばりと起き上がった。
「人を変態のように言うな! わたしたちは芝居の練習をしていたのだよ!」
「芝居? 演芸大会があるということだが、それか」
「そうだ。主公がおっしゃったことであるし、われら無名の書生としては、ここが名を売るよい機会であるから、芝居を披露しようということになったのだ」
「で、女神? どこの女神だ? 気絶の女神か?」
「ちがう。心栄えの立派な若者が、天帝のおめがねにかなって、娘に姿をかえた女神を妻にするのだが、途中で正体が知れて、天に帰ってしまう、という、あの芝居をするのだ」
やっと文偉が、いつもの粗末さかげんに加えて、腰蓑に籠を提げた漁夫の格好をしているのに気づき、偉度は合点した。
「ああ、あの、実は正体が、虎だか鶴だか亀だか狸だか、ともかく人ではなかった、という、よくある御伽噺か。で、文偉がその『心栄えの立派な若者』で、休昭が『女神』? しかしなぜ左将軍府で芝居の練習なんぞしているのだ。おまえらの勤め先はここではなかろう」
「仕方なかろう。みなにはナイショなのだ。幼宰さまにはご了解いただいているし、軍師もご存知のはずだぞ。というか、休昭が、女装している姿をだれにも見られたくない、とわがままをいうものだから」
「女装、ねぇ」
女装というよりは、白い布を被っただけの董允の姿に呆れつつ、偉度は短刀をしまいながら、言った。
「そういえば、荊州にいたときも、似たような芝居をしたことがあったな。薄気味悪い女装を披露してさ」
「へえ? おまえがやったのか?」
「いいや。最初は趙将軍と軍師で、ということで話が進んでいたのだが、お二人が強烈に嫌がったものだから、結局、籤を引くことになったのだ。考えてみれば、身の丈八尺の美女なんてぞっとする」
「そうか? 軍師なら、きっとお似合いだったと思うのだがな」
「おまえたちが思っているほど、あのひとは女顔じゃないぞ。まあ、それはともかく、籤の結果、立派な若者に馬良、嫁に張飛どの」
文偉と休昭の両方から、同時に「うわー」という声が挙がった。
「見たかったような、見たくなかったような」
「見たほうは悪夢にうなされたがな。しかし、こうも遅くまで芝居の稽古とは感心せぬな。帰らなくていいのか」
「しかし、まったく台詞がおぼえられぬのだよ」
見てやる、と偉度が言うと、文偉と休昭は、しぶしぶながらも台本を片手に、芝居をはじめた。
文偉「おお、これはなんという美しい人か。お嬢さん、いったいどうなさったのですか(棒読み)」
休昭「あなたさまのお心に打たれました。どうぞ妻にしてください(棒読み)」
偉度「盛り上がらぬこと、甚だしいな」
偉度の容赦ない感想に、文偉と休昭は同時に口を尖らせた。
「じゃあ、おまえはできるのか」
偉度は鼻を鳴らして、傲然と胸を張る。
「もともとの素材がちがうしね。わたしが女装したら、すくなくとも五人は虜にしてやれる自信があるぞ」
「それって、自慢できることか」
「ふん、どちらにしろ、演芸大会に出るのはわたしじゃない。まあ、せいぜい頑張るのだね。当日は、笑いに行ってやるよ」
休昭が怒って、暴れだしたのを、文偉が懸命になだめているのを尻目に、部屋を出ようとした偉度であるが、戸口が開かない。
「おや、なにかつっかえているのだろうか」
と、見るが、桟のところには特に何もないのであった。困ったな、とつぶやく偉度に、文偉は言った。
「なんだ、左将軍府に勤めているくせに知らぬのか。この部屋は、内部からは開かない仕掛けになっているのだよ。劉璋時代に、この部屋は、政敵を閉じ込めて脅すために使われていた、特殊な部屋だったとか」
なるほど、と偉度は周囲を見回した。
孔明をはじめ、だれかがこの部屋を使ったところを見たことがないし、見たところ、ただの物置としてしか用を成していないらしい。
脅迫などといった陰湿な手を使うことを拒む孔明が、この部屋を使うこともなければ、使わせるはずもないのであった。
「それでは、おまえたちは、どうやってこの部屋から出る」
「そこはそれ。希望の鐘」
といいつつ、文偉は部屋の隅っこに置いてあった、青銅の、杯をひっくり返したような大きさの鐘を取り出した。
「宿直の爺さまを、これで呼び出すのさ。帰るのだろう」
「急ぎ、軍師のところへ行かねばならぬからな。おまえたちは、まだ残るのか」
「うむ。盛り上がらぬといわれては、こちらも立つ瀬がない。見ておれ、当日には、みなが思わず踊りだすほど見事な芝居をみせてくれよう」
「期待してないで待っていよう。さあ、希望の鐘とやらを鳴らしてくれぬか」
ほいきた、と文偉は手にした鐘をがらんごろんと、なんとなく陰湿な音をさせて派手にならした。
鐘の音は、しんと静まり返った闇を抜け、左将軍府に響き渡った…
はずなのであるが。
「爺さんがこない」
と、つぶやいてから、偉度は、はっとした。
「宿直の爺さん、孫が産気づいたといって、さっき飛び出して行ったばかりだぞ!」
「なに? まことか? 俺たちがここに入るときは、なにも言ってなかったのに!」
「それはそうだ。孫が産気づくことを早々に予知できるものか。さて、困った。となると、この鍵束もこの部屋では役にたたぬというわけか…」
と、偉度は、爺さんからもらった鍵束を見下ろした。
「つまり?」
顔をひきつらせて尋ねてくる休昭に、偉度は答えた。
「つまり、わたしたちは、朝までこの部屋に閉じ込められる、というわけさ。いや、待てよ、爺さんの甥というのが代わりにやってくるのであった。それまで、しばらくここで我慢するか」
※Kんさまから17777HITでいただきました作品でございます。偉度が初の主役をつとめる本作品。ちょっぴり「孤月」と繋がっております。「希望の鐘」というと♪あのかーねーをぉー鳴らすのはあなーたー♪を思い出してしまいますが、このアイテム自体に深い意味は…ないと思います。後編をどうぞお楽しみに(^^♪