12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
静かなる湖の畔・Ⅱ
むかし、所帯をもってもよいな、と思うような女と、たった一度だけ、めぐり合ったことがある。
器量は十人並みで、身分も低い、下働きの女であったが、年に見合わず苦労をかさねた様子で、気遣いの細やかさが、ほかの娘たちより群を抜いていた。
内気な性質らしく、ほかの男の前では、言葉すら漏らすことが稀であったが、趙雲の前では、ふしぎと口数が多く、表情も柔らかかった。
内気だが、陰気というわけではなく、打ち解けてくると、馴れ馴れしいまでになった。
しかし、その落差がおもしろくて、趙雲も、娘の好きなようにさせていたのである。
派手な華やぎや、娘らしい瑞々しさの欠ける、色気のない色黒の娘、それが、趙雲が思い出せる、妻の候補として、みずからが考えた、唯一の娘であった。
その後、どうなったかというと、どうにもならなかった。
それというのも、趙雲は、そうなってもよいな、と漠然と考えていただけで、一度も、それらしい素振りを娘に見せていなかったからである。
娘のほうは、この、男ぶりはよいが、色気のない武将を、安心できる保護者のように考えていたらしく、やがて、趙雲の部隊の、部将のひとりに求愛され、ほどよい幸福を手に入れた。いまも幸せに暮らしているはずである。
嫁ぐのだ、と聞いたとき、さすがにいささか気分が悪くなったが、長々と引きずるようなことはなかった。
思うに、その娘のすべてを愛していた、というのではなく、こういう娘ならば、妻にしたら、気を使わなくてよいな、という計画に、気持ちが傾いていたように思える。
娘の仕草に胸をときめかすようなこともなければ、すべてを手に入れたいと、つよく思うこともなかった。
おそらく、そういった心の動きが、こちらにないことを、あの娘も読んでいたから、心を開いたにちがいない。
となると、心を開いて素のままでいる娘に、いまの夫たる男が恋をしたのであるから、よいことをしたのだろう。
いや、善行を数えていたわけではない。
趙雲は、成都に戻る道すがら、過去の己のあれやこれやを考えて、整理をしていた。
もともと、あまり丈夫ではない孔明は、馬車に乗っての移動である。
その傍らを、村のそばで、ちゃんと大人しくしていた愛馬で随行し、調子のよい李巌が、いらざるちょっかいを出しにこないように見張るのだ。
とはいえ、これまでの数日を思えば、奇妙に静かで平和な行軍であった。
李巌は、賢いところを見せて、劉封のほうまで牽制して、騒ぎを起こす言動をしなかった。
どうやら、保身に回ることにしたらしい。
一方の孔明は、馬車のなかで、ほとんどを眠って過ごした。
微熱が出ているようで、道すがら、甘い水を汲んできて、薬を飲ませ、あるいは心地のよい木陰を探して、休ませる。
まるで雛鳥に餌をはこぶ母鳥のようだと、李巌が言葉以上の悪意をこめてからかってきたが、これは無視した。
無視したけれども、自分たち以外は、すべて心を許せぬ『敵』の将兵ということで、趙雲は、嫌でも、自分と彼らとの差を感じずにはいられない。
むしろ、いままで仲間内のなかにいることが多かったせいか、己が、いかに不思議な存在であるか、いまそれを強く自覚することになった。
仲間内、つまりは孔明の信奉者たちは、孔明を中心にして動いている。
そんな中にあったから、自分が、いかに孔明の世話を焼きすぎるかが、目立たなかったのだ。
孔明以外とは、ろくに会話を交わさぬなかでの、数日におよぶ行軍である。
自然と、心は内側に深く入り込み、己と、人との差について、思わず考え込んでしまう。
おそらくは、それがいけなかったのだ。
成都に戻ると、さすがに安堵したが、おのれを取り巻く状況の風向きは、よくない様子であった。
とりあえず、董和に後事を託し、職務放棄ではない形で出奔したつもりではあったが、問題が大きくなったため、協力してくれるはずの法正が、あっさり手のひらを返して、李巌に同調してしまったのである。
董和は、きちんと手続きを踏んで、趙雲が広漢に出向する件が正当なものであるとしてくれたのだが、本人が直接、劉備に暇をもらったわけでもなく、手続き自体も、代理で行われた、ということが、攻撃の槍玉に挙げられた。
趙雲は、あらためて李巌という男の、世渡りの上手さ、抜け目のなさを思い知る。
李巌は、法正だけではなく、常日頃から、孔明をおもしろく思っていない者と、つなぎを作っていたのだ。
おそらくは、この策を用いるにあたり、破綻した場合も、きちんと考えていたのである。
趙雲は孔明の主騎である。
今回の、いわば犠牲者は、孔明であるから、劉備の手前、孔明を攻撃できない。だが、それでも孔明の力を削ぎたいのであれば、その主騎である趙雲を代わりに攻撃し、政治の表舞台から追い出そうと、動いてきたのだった。
趙雲は、事の顛末を、きちんと己の言葉で、劉備に説明するつもりであった。
そうすれば、劉備はきっと、『いつものとおり』に孔明の味方となり、『正しい』判断を下してくれるだろうと信じていたのである。
だが、どういう手回しだったのか、劉備は、趙雲に会う前から、矢の雨のなか、趙雲が、劉備の子らを差し置いて、だれよりも孔明を庇ったという話を、すでに知っていた。
劉備の周囲では(主に法正と繋がりのある者たちであったが)、李巌が、勝手に動いて、孔明の命を危険にさらしたということよりも、趙雲が、(劉封や、劉括とは、血が繋がってないとはいえ)主公の子よりも、いわば同僚といっていい人間を庇ったことのほうが、重大視されていた。
気持ちの問題ではあるが、これは遺憾だ、ということに、問題が摩り替えられていたのである。
趙雲は、李巌や孔明よりも、先に劉備に会うことをゆるされたのだが、思わぬなりゆきに、ここで、らしくもなく、憤り、自制を失っていた。これもいけなかった。
「おまえが儂の子を助けなかったことは、気にしてない」
と、劉備は、人払いをさせて、怒気をあらわにする趙雲に言った。
その、いままでとは距離の感じられる声音に、趙雲は、心の臓をつかまれたようになり、おどろいて顔をあげた。
劉備の表情は、いつもの、よく知る、陽気で、包容力のある男のそれではなかった。
趙雲は、怒りが一瞬にして冷め、事態が、すでに己の問題だけではなく、劉備や孔明を苦しめるまでに広がりつつあることを悟った。
趙雲は、ほかの武将とちがって、孔明の側に常にいるために、武人よりも文人との付き合いが、最近は深くなっていた。
見る者からすれば、文官とも武官ともとれぬ、曖昧なところにいる男なのである。
その曖昧さが、攻撃の標的になりつつあった。
つまり、武人が、文人に深く関わりすぎている、武人としての分を超えている、というのだ。
李巌は、自分の首を繋ぐのに必死なので、持てる力を総動員して、自分の咎から人の目を逸らそうと、趙雲側の非を大きくとりあげて、攻撃をはじめている。
こうなると、趙雲は、もう戦い方が判らない。
李巌のように、華やかな男ではないし、人付き合いも多くないから、頼りになるのは、孔明を中心とする荊州人士、あるいは左将軍府の面々だけなのである。
しかし悲しいかな、蜀の現状では、政治力がより強いのは、法正を中心とする文官で、これと結びついている李巌は、孔明の力をもってしても、御するのが難しいのだ。
しかも、孔明は、いまだ本調子ではなく、先に趙雲を派遣し、そのあいだ、熱が取れるまで、休んでいる。
孔明の回復を待ってはいられない。すぐに動かねば、このままでは、共倒れになる。
焦る趙雲に、劉備がなにか言ったが、聞こえなかった。
子供を庇わなかったことは、気にしていない、冷静になれと、諭された記憶があるが、詳しい言葉までは覚えていない。
そんな趙雲を見て、劉備は、嘆息すると、顔を近づけて、ゆっくりと、言葉を選ぶように、平伏する趙雲に言った。
「子龍、おまえを讒訴する者は、まるでおまえが孔明を担ぎ上げて、儂を追っ払おうとしているかのように言ってくる。だがな、儂は、いまのおまえの姿を見ていれば、そんなことは、これっぽっちも思っていないとわかるぞ。
それに、俺の子の問題だって、揚げ足取りもいいところだ。おまえは、以前に、奥と子を、命をかけて助けてくれた。
どちらにしろ、封も、劉括っていうのも、二人とも無事なわけだし、それは、あいつらが言うように、難しく考えなくちゃいけねぇような問題じゃあねぇ、とは思う」
だがな、と劉備は、子供に言い聞かせるような、どこか悲しそうな調子で、つづけた。
「子龍、おまえはあまりに生真面目すぎるのだ。心を抑えろ。いまのままでは、おまえは孔明を滅ぼす」
最初は、いわれたことの意味がわからなかった。
言葉を返せず、趙雲は、まじまじと、その意味を辿るために、劉備の顔を見つめた。
目の前にある劉備の顔には、軽蔑も怒りもなく、不出来な子をいたわるような、優しいが、悲しい表情があった。
「気持ちはよくわかる。いや、芯からは判ってないかもしれねぇが、おまえがそこまでに思いつめる理由は、わかる気がする。儂にも、すこし似たようなところがあるが…おまえは、あまりに踏み込みすぎだ。自分の気持ちに正直すぎる。嘘をつけ、と言っているわけじゃねぇんだが、なんというかな」
ええい、と劉備は、言葉をうまく探せずに、苛立って、頭を振ると、ふたたび趙雲を真っ直ぐ見据えて、言った。
「でも、おまえは、やっぱり間違っているのだ」
わかるだろ、と劉備から言われ、趙雲は、ただ、はい、と答えるしかできなかった。
趙雲は、李巌にいわれた言葉と、劉備からも言われたことばを、しばらく、ぐるぐると、頭のなかで繰り返していた。
終風村で、矢を射掛けられる直前に、李巌は、たしかにこう言ったのだ。
「趙子龍、わたしは予言する。いずれ貴殿は、己の心にすら裏切られるだろう。孤独のままの死を選ぶか、あるいは」
あるいは、龍と共に滅びるだろう。
神秘家をめかした口調であったが、これは、いまの現状を読み越してのことだったのか。
「それがしを庇うことで、李将軍の処罰が、滞ることがございましょうか」
柄にもなく震えている己の声が、ひどく遠くから聞こえてくるように思えた。
趙雲が尋ねると、劉備は、それは、孔明の腕次第なところがあるな、と言葉を濁した。
李巌は、逃げ切るだろう。
孔明は、やはり人が好すぎる。
李巌が、そこまで人々のなかに、深く根回しをして、己への攻撃の手をやめないなどと、想定していなかったのだ。
それを責めるわけにはいくまい。
孔明は、李巌より年若で、世間ずれしていない。
これまでの政敵である龐統は、ほぼ同年輩で、これも世間ズレしていなかったから、策謀を味方に対してめぐらすような男ではなかったし、法正は、老練なところはあるが、性質が直情径行であるから、行動が読みやすい。
李巌は、その点で言えば、変幻自在でつかみ所がなく、孔明がいままで対峙したことのない型の男なのである。
まだ、騒ぎは、表沙汰になっていない。事態の全容を知るのも、ごくわずかな側近のみ。
いまならば、まだ、手の打ちようがある。
趙雲は、そのまま、ふたたび畏まると、奏上した。
「主公にお願い申し上げます。たったいまより、この趙雲めの役職を取り上げ、一介の平民にしてくださいますように。俸禄も、拝領いたしました軍馬、荘園、屋敷、すべて返上いたします」
それを聞いた劉備は、なんだって、おまえはそう極端なのだ、と慌て、そんなことは受理できない、と言ったが、趙雲は、ひたすらに頑固なところを見せて、劉備に重ねて、位返上を申し出ると、宮城を出た。
それから、すぐさま、家屋敷を整理し、荘園の権利書を劉備に返上し、唖然とする陳到たちに別れを告げたあと、あまりにあっさりと、着の身着のまま、成都を出た。
早ければ、早いほうがよかろうと判断し、孔明とは、会わないまま出て行った。
引き止められるのは判っていたのもあるが、本当のところは、李巌や劉備の言葉が邪魔をして、まともにその姿を見る自信がなかったのだ。
手紙を残すことも考えたが、女々しい文章を書いてしまいそうなので、やめた。
趙雲が成都を出る準備をして、実際に、南西の僻地へ向かう数日のあいだ、孔明は、李巌たちを向こうにまわし、すこしでも陰謀を追及しようと懸命になっていた。
しかし、趙雲が、位返上を申し出て、成都を去ったことを知るや、これを守るために、孔明は、陰謀を追及することをあきらめて、その代わり、李巌らも、趙雲の罪をあえて問わないとする取引をしたことは、趙雲は知らなかった。
それと知っていて、この地を選んだわけでもないのに、湖には、龍が住むという伝説がある、と聞いたとき、趙雲は、己の名・雲(古来、中国では、雲は龍の化身であるとされていた)が呼ぶのか、龍という物に、縁がありつづけるな、と思った。
前にも何度か足を運んだことがあり、湖の清澄な美しさと、周囲の静けさが気に入って、もしも天下が安定して、隠居できるようになったらば、ここに住むのがよいと思っていた。
まさか、こんなに早く、その時期が来るとは思っていなかったが。
あきれるほどに、自分に、欲がなかったことに気づく。
主公は、おまえは生真面目すぎる、といったが、当たっているだろう。
地位や俸禄はどうでもいい。己の身を名誉と恩賞の数々で飾るより、たったひとつのことに集中できれば、それでよかった。
無位無官になったということは、つまりは主公と別れた、ということ。
つまりは、またも、おまえを選んだことになるのかなと、趙雲は、すでに遠く離れた者に問いかけた。
ずっと胸に隠してきたものが、知られてしまったのであれば、どうして成都に留まれよう。
もちろん、いちばん奥に秘めているものは、だれもまだ気づいていないだろう。なにせ、本人すら、こうなって、ようやく気づいたくらいなのだから。
せめてもの救いは、当の相手が、それに気づかなかったことだ。
もし知られてしまったなら、それこそ生きて行くのは難しい。
主公の言葉は、限りなく正しい。
このままでは、俺は、おまえを滅ぼす。だれより味方でなければならなかったのに、最悪の害毒になってしまっていたのだ。
どうしてこうなってしまったのか、いつからそうなっていたのか。
趙雲は、過去に遡って考えるのであるが、女に関しても男に関しても、すべてひっくるめて、現在の兆候を示すような思い出が見当たらない。
唐突に、孔明に始まり、そして孔明に終わっているのである。
あれが例外だったのか。
それとも、自分が生真面目すぎて、ほかにはもう、気持ちが向かなくなっているだけなのか。
どちらにしろ、離れてさえしまえば、害も及ぶまい。
あれの側には偉度もいることだし、おそらくは大丈夫だ。
無理に自分を納得させながら、それでも、これから先の死ぬまでのあいだ、おそらくこんな僻地にいても、風の噂を懸命においかけて、その名を求めるようになるのだろうなと、趙雲は、暗然として思った。
たった一人になり、もう趙雲は、己の心を裏切ることはしなかった。
なにもかも、忘れるために狩猟に熱中し、数日を過ごした。
なんとかなるだろうかと、おぼろげに思い始めていたころに、孔明がやってきた。
神秘的な湖のほとりにおいて、風に、結っていない黒髪をなびかせ、隣に立っている孔明は、ますます性の境の曖昧な存在に見えた。
美女のよう、と形容するには、線が固かったし、美男、というには、しなやかな印象が強すぎる。
どちらにも取れ、どちらにも取れない、それでいて、不思議と人を引き付けるその姿を久しぶりに間近で見て、自分が、そもそもなぜ、こうも強烈に心を傾けつづけていたのか、その理由を思い出した。
欲とは程遠いところに生きているために、孔明の外貌に性が現れないのである。
外貌の美しさだけに惹かれたのではない。もしそうであれば、世の、どんなそしりをも免れまい。
そうではなく、惹かれたのは、その肉体の中に眠る、ひたすら光輝に満ちた精神に、であった。
美しい玉石の輝きに魅せられたように、あるいは、天空にまたたく星を飽きずに見入るように、その心から汲みだされる言葉、行動、仕草、そのほか、さまざまなすべてに惹かれたのだ。
どんなに最悪の状況にあろうと、絶望しようと、この光さえあれば、恐ろしいものなどなにもなかった。
闇のなかにわずかに灯る、その光の美しさは、それまで、目を開いていても見えず、耳が聞こえていても聞かない、という状態であった自分に、この世の本当の素晴らしさを教えてくれたのだった。
つまりは、孔明が趙雲に、己という人間の形を教えてくれたのであり、己を取り巻く世界の形を教えてくれたのだ。
己を導くものを愛するのは、これは当然のことではないか。
たしかに、道義からすれば、間違った心の在り様かもしれない。
それでも、内に恥と恐れを抱えつつ、これから先を生きるのだ。
「すべて知っていた」
と、孔明はいったが、あえて趙雲は、心のなかで、大きく否定してみせる。
すべては知らないし、知らせるつもりもない。
完全に心を受け止められないにしても、命をくれるという、それだけで十分であった。
救われないだろうかと孔明は嘆くが、救われなかろうと、これでよいと思う。
たった一人、無明の闇の中を歩いていた人生に戻るよりは、どんなに苦労しようと、蔑みの中にいようと、共に生きていけることのほうが、どれだけ幸福なことか。
「おまえは贅沢だ」
と、趙雲が言うと、孔明は首をかしげて、そうだろうか、と言った。
だれより、ただ生きていてくれるだけで嬉しいと思う気持ちも本当だが、もちろん、焼け付くような感情だって、ないわけではない。
だが、これは、たとえ死んでも、悟らせない。
ただ願うことといえば、相手が、自分と同じような幸福を味わうよりは、むしろ悲しみを共有してくれればいい、ということである。