12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
静かなる湖の畔・Ⅰ
いつだったか、たわいもない、いつもの会話の折に、趙雲が口にしたことがあった。
地元の豪族だが、いまは権勢も衰えて、一族も少なく、ただ余生を狩猟にあてて暮らしている男がいたのだが、これが寄る年波には勝てず、とうとう、狩猟のために建てた、ちいさな家を手放すことになった。
だが、一族の中に、狩猟を楽しむ男子がいない。
山菜採りの拠点にするにも、山の奥にありすぎるし、なにより漢族より羌族のほうが数の多い山河のなかにある。
風光明媚な実に美しい土地であるが、蛮族をおそれ、漢族はあまり寄ってこない。
軟な男では扱いに困る。かといって、そのまま朽ちるに任せるのも惜しい。
そう頼まれて、趙雲が、その家を引き継ぐことになった。
最初は、あまり乗り気ではなかったが、実際に家に行ってみれば、これが快適である。
蛮族の土地だというが、こちらがなにか不埒な真似をしないかぎりは、友好的ですらあるし、それでいて、風景はこのうえなく美しく、神々の住まう土地のようである、と。
近くにおそろしいほど澄んだ水をたたえた湖があり、そこで顔を洗ったり、釣りを楽しんだり、なにもせず、ただじっとしているだけで、一日を潰せるほどだという。
場所は成都より南西。ほとんど蛮地と呼んでもさしつかえのない僻地。
あてもない旅だ。行き着くまでに、どれだけの日数がかかるであろうと孔明は考えたが、馬に乗り、ときには舟にも乗って、ひたすら南へ向かって、いかにも地理に詳しそうな商人をつかまえて、湖の所在を聞けば、意外にあっさりと判明した。
湖の近辺には、漢族との交易の盛んな羌族が住んでおり、これは涼州の羌族とはちがって、山水の豊かな土地に住んでいるせいか、性質がおだやかで友好的であるから、危険はないという。
しかし危険だと聞いた、というと、湖の場所を教えてくれた商人は、そりゃあ、あのあたりは虎が出ますから、と笑った。
孔明は、なるほどと納得する。
趙雲にとって、脅威なのは、動物や自然よりも、なにより人であるのだ。だから、どんな人間が住んでいるのかを伝えたのだろう。
虎は、その領域を侵さぬ限り、こちらをむやみやたらに襲ってこない動物だ。
なにせ、地上で一、二を争う強さを持っているのだから、わざわざ喧嘩を売って力を示さずとも、人が逃げていくことをしっているから、悠然としていてよいわけである。
伴もつれず、たった一人の道行き、というのは、何年かぶりである。
偉度は、言いつけをよく守り、こっそり影をつけてもない様子だ。
宿も相部屋だったり、あるいは道行に、見知らぬ者と同道して、途中までたわいのない世間話をかわしたりと、一人でなければ経験できないことにめぐり合えるのが、新鮮である。
北上するのならばともかく、南下するのでは、刺客の目にも付かない。
もしもこのまま隠棲するならば、毎日が、こんなふうに穏やかなのだな、と孔明は思う。
同じ事を、趙雲も思ったであろうか…いや、思わなかっただろうな、きっと、逃げるように、ひたすら道を急いだにちがいない。
何度か馬を乗り換え、渡し舟で川を渡り、やがて、あまり人里のない土地にやってきた。
人々の顔つきが、民族の境があいまいな、独特のものに変わっていく。その土地の顔の特長というものはあるが、ここでは、孔明の、都会風を吹かせたうりざね顔は、とても目立つものであった。
これでは、あの男も目立つはずだ。
そう見当つけて問えば、浅黒い肌をした、素朴な顔をした地元の民は、そういえば、最近、立派な馬にまたがった、からだの大きな人が、湖に住み着いた、と答えた。
ぴしゃりだ。
こちらの記憶力を侮ったな、と、心のうちでひそやかに、会心の笑みを浮かべつつ、孔明は湖へと向かった。
さわさわと木々を揺らす風が流れるたびに、広漢の風と、ここの風は性質がちがうな、と孔明は思った。
住む人が、穏やかな気質になるのもわかる。
緑の鮮やかな、ただよう風まで柔らかい土地であった。
広漢の終風村は、あれから村人たちも、ふるさとに戻る準備に入っているらしい。
真の平和が村人たちにもたらされるかどうか、すべては、あの驕慢で驕慢で驕慢で、ついでにもうひとつ驕慢な李巌が、手早く山賊をひっとらえることにかかっている。
魏の後ろ盾をなくした山賊だ。これで時間がかかるようならば、今度こそ容赦せぬぞ、と孔明は、ここにはいない政敵に唸ってみた。
馬が、この奇矯な乗り手にどう思ったか、片方の耳を、ぺん、と跳ねてみせた。
李巌のことを思い出すと、腸が煮えるほどの思いに捕らわれるので、とりあえずは忘れることにして、孔明は先を急いだ。
やがて、人家もまばらとなり、ぽつぽつとある段々畑に人の姿をたまに見かけるほかは、ほとんどだれとも顔を合わせないような山奥にやってきた。
あとは、ばったりと山野の王に会わないようにするばかりである。
湖というからには、水音がしないだろうかと耳を澄ませば、どこからか、悲しげな雉の、ケン、ケンという鳴き声が聞こえてくる。
地元の民に教えられた道を真っ直ぐいって、やがて孔明は絶句した。
道が絶えている。
いや、深さはそれほどでもないが、流れの早い川の真ん中に、岩がいくつか並んでおり、それが道の変わりになっているのだ。
すこし跳躍が必要である。
これは、訓練された騎馬でないかぎり、越えられまい。
事実、孔明が乗ってきた馬は、川のほとりで、ぴたりと足を止めて、それきりになってしまった。
ここから先は、どれくらいあるのだろうかと頭をめぐらせれば、川上の向こうに、山奥にふさわしからぬ、立派なしつらえの家がある。
そして、川は、高台にある湖より流れ落ちているのであった。
目標は決まった。
孔明は、とりあえず、馬をそのままにしておくのも気の毒だから、いちばん最後に見た農夫のもとまで戻り、事情を説明し、馬を預かってもらうことにした。
その農夫は、遠方よりやってきた孔明を珍しがって(なにせ言葉がほとんど通じないため、地面に枝で字を書いての交渉だった)、わずかな金で、これを請け負ってくれた。
そうして、孔明はふたたび川まで戻り、湖の家まで向かった。
これほどまでに苦労するのである。必ず連れ戻すのだと、自分に言い聞かせながら。
家の扉は開いていた。
訪問する者といえば、飢えた猿くらいのものなのだろう。
扉をくぐろうとした途端、なつかしい土と肥料のにおいがした。隆中ではおなじみだったにおいである。
「子龍、いるか?」
声をかけても返事はない。
先の住人の道具であろう農具、あるいは狩猟のための罠などが壁にかかっている。
つい最近、それぞれが手入れされたあとがある。
まさか、ここで農夫として、あらたに人生をはじめるつもりなのか。
農夫になるのにも、それなりの学習が必要だ。農夫を舐めてはいけない。常山真定の名家の末っ子として、土いじりなんぞしたこともなく過ごしてきたくせして、いまさら農夫なんぞになれるものか。
人の気も知らないで、着々と、自分のことばかりを先に進めてきたわけか。
だんだん腹が立ってきた。
すると、戸口のほうで、がたごとと、物音がする。
虎でなければ、虎のようだといわれたあの男だろう。
孔明は振り返り、声を荒げた。
「ひどいではないか!」
目を尖らせて振り返った先には、捕らえたばかりの兎を片手に持った趙雲の、唖然とした顔がそこにあった。
「いつ?」
「さっきだ。なんだ、幽鬼の類いではないぞ。ちゃんと生きた本人だから、納得がいくまで、とっくりと眺めるがいい。おっと、眺めたそのあとに、帰れと言うのは無しだからな。
それと、いきなりではあるが、咽喉が渇いたので、なにか飲ませてくれないか。やれやれ、家人がだれもいないので、ぜんぶ己でしなければならないのか、面倒な」
孔明が、桶に汲んであった水を、手近にあった器にわけて口にしていると、言葉どおり、じっとこちらを眺めている趙雲と目が合った。
その顔には、はっきりと動揺がある。
尖らせていた目を和らげて、孔明は言った。
「わたしの記憶力を侮っては為らぬ。特に、あなたの言ったことを、わたしが忘れることはない」
「そうか」
「そうさ。なにもない。わたしはすべてを知っているのだよ。ところで、山奥にあるにしては、よい家ではないか。開いているところからお邪魔させてもらったが、こちらが入り口でよかったのか?
ふむ、ほかに部屋は書斎と、寝室のふたつのみ。これでは家人は必要ないか。ぜんぶ自分の手の届く範囲にあるのだもの」
「なかなかに快適だ」
「そのようだね」
孔明は、家を見回すのをやめ、立ち尽くしているのもなんなので、近くにあった座に腰かけた。
趙雲の反応を見ようと、わざとぺらぺらと言葉を並べて見たのだが、反応は鈍い。いまひとつである。
その趙雲はというと、捕らえた兎を藁の上に置いて、それから、血と泥で汚れた手を洗い、狩猟用具の手入れと片づけを、もくもくとこなした。
孔明も、しばらくその姿を観察していた。
これは、知らない姿だな、と孔明は思いながら見ていた。
孔明の知っている趙雲というのは、宮城に行けば、熱心に兵卒の訓練を指導しているか、あるいは厩で馬の世話をしているかのどちらかだった。
趙雲は、自邸においても、公務に繋がるなにかをしていた。
書を読んだり、あるいは武芸の稽古をしたり、目をかけている部将たちの相談に乗ったり。
いま見せている姿は、まったくの私的な姿である。
これは、知らない。
同時に、いままで、これほど長く、公私共に、己の側に繋ぎとめていたのだと思う。
長年つづけてきた緊張がほぐれて、いま、気の抜けた状態にあるのかもしれない。
だが、ここに留まることを、許すわけには行かないのだよ。
不意に、道具を片づけ終えた趙雲が、口を開いた。
「面白いか?」
「あなたを見ているのが? そうだね、面白い」
「公務はどうした。幼宰殿が悲鳴をあげているだろうに」
「手配はした。気になるのか」
「それなりに」
「冷たいことだな。我らは、もはや過去の人になっているのかな」
「俺は、いつもこうだ」
「つまらない嘘をつくものじゃない。子龍、一緒に帰ろう。長くここに留まれば留まるほど、我らの立場は悪くなる」
「我らではない、俺が、だろう。李巌はどうした」
「今回のことは、すべて不問に付すように、主公にお願いした」
趙雲は、手をとめて、眉をしかめて、孔明を振り返った。
山野を駆け回っていたらしく、日焼けをしている。
その性格からして、悩みを忘れようと、一本気に狩猟に集中したにちがいない。真正面からその顔を見れば、懐かしささえ、湧いてくる。
「なぜ」
「なぜだって? 聞きたいか。知っているのじゃないのか。だからこそ、ここに逃げ出したのだろう?」
趙雲は、顔をしかめたまま、ふい、と顔をそむけた。
消えかけていた怒りが、また戻ってきた。
「まったく、近来にない大失態だ。だれのお陰で、こんな失態を演じることになったのだと思う? あなたが、いきなり、将軍職を返上つかまつる、なんて言いだすからだ。裏切り者!」
孔明の言葉に、趙雲は、ぎゅっと眉をしかめて、耐えるような顔で言った。
「そんなふうに言うな。裏切ったわけじゃない」
「いいや、あなたは逃げたのだ。見事な裏切りじゃないか。わたしはあの日まで、死が訪れないかぎり、あなたが居なくなるなんてことを、夢にも思ってこなかった。それが、いきなりこれだからな。
こちらは混乱して、李巌の良いようにさせてしまった。主公と李巌を、わたしより先に二人だけで話させてしまったのだ。あの男め、あなたが、主公よりもわたしに忠誠を尽くすあまり、先走りが過ぎるようだと上奏したのだ。
ああ、もっとはっきり言うならば、わたしとあなたが、さも主公に対して二心があるような物言いだったようだよ。その場にいなかったから、これは憶測なのだけれども」
「それだけだったのか」
「さてね。繰り返すが、わたしはその場にいなかったから、どれだけの言葉が交わされたのかはわからない。だが、主公の顔色が、明らかに悪くなっていた。あなたが将軍職を返上する、なんて言ったからだぞ。わたしを裏切ったうえに、主公のお心を乱した。最悪だ!」
「そうだな」
沈痛な表情を浮かべる趙雲に、孔明は、そこいらにある物を投げつけたいほどの苛立ちをおぼえた。
「『そうだな』? それだけか? ほかに言うべきことは?」
「すまない。もし俺が責任を取ってすむことならば…そうだな、共に成都に帰り、どのような咎も受けるが」
「あなたにおりる罰なぞない。子龍、あらためて問う。なぜ逃げた? わたしは、いつかはこの日が来るであろうことは、覚悟していたぞ」
「覚悟?」
怪訝そうに言う趙雲に、孔明は大きく頷いた。
「そうだ。わたしは知っていたよ。だが、甘かったことは認めよう。主公が、あえてあなたをわたしから離そうとなさらなかったのは、わたしに対する信頼なのだと思っていた。
ところが、あなたがこんなふうに、まるで、わたしのそばにいること事態に非があるかのように去っていってしまっては、さも何かがあったように見えてしまって、わたしとしても、立場がないではないか」
趙雲が、ふたたび口を開く気配があったので、孔明はすばやくそれを封じた。
「いかなる反論は無用ぞ!」
苛立ちとともに、大きく息を吐き出した。
「いまのは正論だからな。反論なんぞ、出来るはずもない。ちがうか」
薄暗い山中の家に、重い沈黙が落ちる。
そろそろ日暮れも近いのか、差し込む陽光の色に、闇の濃さが混じってきた。
孔明は、地に落ちる己の影が、立ち尽くす趙雲の影と交わるのを見ながら、息を落ち着けると、尋ねた。
「ずっとここで暮らすつもりか? たしかに、ここならば、天下がどうなろうと、あまり関係なさそうだな」
趙雲はその問いには答えず、孔明の側に立った。
「教えてくれ。主公は、それ以上のことは、おまえには、なにも仰らなかったのか?」
孔明は、趙雲の言葉の意味がわからず、尋ね返した。
「……『おまえには』?」
「ならばいい。じきに日が落ちる。急げば、日没の前に、ここより一番ちかい宿にたどり着く」
「一人で帰れと? 断る」
「帰ったほうがいい」
「なぜだ。理由を言え。第一、ここへたどり着くのもかなり時間がかかったのだぞ。さらに、日没前の視界の悪くなる時間に道に迷ったら、虎に食われてしまう。きっとそうなる。それでもよいか?」
「よくはないが、虎なんぞ、そうおいそれと姿を現さぬ。それに、おまえみたいに、食べるところが少ない奴なんぞ、わざわざ襲わないから、安心して迷え」
「怒らせて追い出そうという手も効かぬぞ。今宵はここに泊まって行く。いや、帰るというまで、ここに留まるつもりだ。覚悟しろ」
孔明が決然として言うと、趙雲はため息をついた。
「なんだって、そう俺にこだわる。俺よりも、もっと心を砕かねばならぬ者が、山ほどいるだろう」
「一見正論だが、それもちがう。むしろ、なぜにそこまで帰らぬと言い張るのかがわからぬ。わたしを成都に追い返したいのであれば、きちんと納得する理由を述べてみよ」
「それはできない」
「泊まり確定だ。布団はあるか? 風呂は? ないのであれば、いますぐそこの湖で身体を洗う。夕餉のしたくは頼んだぞ」
孔明としては、これほどまでに歯切れの悪い趙雲というのを、目の当たりにするのが初めてだったので、強気な態度を装っていても、実のところ、突破口が浮かばなかった。
趙雲は、なにかを隠している。
主公になにか言われたのか。
主公が、わたしには言わず、趙雲には言ったことがある。それが原因か。
それをつかめない限りは、頑固なところを見せて、ここからテコでも動くまい。
それから、すこしでも機会を得るべく、孔明は、なるべく趙雲の心が波風立つように、わざとわがままを口にしたのであるが、趙雲は、実に忠実な家令のように、孔明のわがままのひとつひとつを、いつにも増して言葉少なに、実に丁寧に、応えた。
こちらも向こうを理解しているが、向こうもこちらを理解しているということだ。
やりにくいこと、このうえない。
それに、狭い家であるが、こまめに世話をしてもらえるので、妙に居心地がよい。
邪険にされるならば、怒りを力にして奮起もできるが、親切にされれば、大人しくしているしかない。
丁寧に、じっくり時間をかけて、追い出されているようなものだ。
夕餉が終わっても、会話もろくに弾まず、気まずいままに、孔明は書斎側に作られた寝台のうえで、布団に包まって眠った。
夜半に、ふと側に立つ者の気配をおぼえて、あわてて目を開いたが、しかしだれもそこにはいなかった。
そっと足音を忍ばせて隣の部屋を覗き見れば、趙雲の姿がない。
戸口が半開きになっており、そこから外を覗けば、怖いくらいに間近に迫っている真白い月の下、静かに波立つ湖の畔に、その姿はあった。
趙雲は、ずっと黙って立っていた。
孔明もまた、その姿をしばらく黙って眺めていた。
朝になり、孔明は、昨夜は何をしていたのかと問おうと思ったが、止めた。
趙雲は、あれからまた寝台に戻ったようだが、ほとんど眠っていないことは、顔色から伺えた。
言葉もずっと少なくなり、孔明もまた、それに応えるかのように、沈黙を守った。
こうなれば持久戦である。
狭い空間において、互いの気配だけをそこに感じるような、奇妙な時間がつづいた。
沈黙を破ったのは趙雲のほうであった。
「今日も帰らないつもりか」
「そうだ」
「そうか」
この短いやり取りのあと、趙雲は何を思ったか手早く路銀などを集めると、
「今宵は、俺が宿をとる」
と言って、孔明を置いて出て行った。
あまりのことに、これでは意味がないと唖然としたまま、孔明は二晩目を迎えることとなった。
終風村(いまや、孔明にとっては呪われた村に等しい)での出来事を、静寂の中で思い出してみる。
たいがいが、ろくなものではないが、あのとき、趙雲は、なぜあんなことを唐突に口に出したのか。
『俺は、おまえを選んだのだ』
そんなことは、とっくの昔に知っていた。
いまさら、己の選択に気づいて動揺しているのか。
もしそうだとしたら、趙雲もまた、大きな勘違いをしている。
「主公に忠節を誓うわたしを選んだということは、すなわち、主公を選んだも同等ということではないか、たわけもの。李巌ごときの言葉に惑わされて、なんとする。なにを恥じ、なにを怖じる必要があろうか」
闇に向かって悪態をつくが、これが、どこぞの宿にいる男に聞こえるはずもない。
まったく、散歩がてら遊びに来た虎に襲われたならどうしてくれる、と思いつつ、孔明は目を閉じた。
夜半過ぎ、またも孔明は人の気配をおぼえて目を覚ました。
家にはだれもいない。さすがに戸口の戸締りもしっかりした。
山賊にしては静かだ。
おかしいと思って窓から外を眺めれば、あきれたことに、趙雲がそこに立っているのであった。
宿をとりそこね、しおしおと戻ってきたのか。
ならば、おおいに笑ってやるところである。
そうして、出迎えに行こうとした孔明であるが、戸口の閂を外す段になり、ふと、足が前に進まなくなった。
あたりがあまりに静か過ぎるからであろうか。月光に照らされた静かな闇のなかで、いま、手に取るように、趙雲の心がわかった気がした。
幻想ではなく、たしかにわかった。
戻ろう。
そう思い、一度は寝台に足を運びかけたが、孔明は、また足を止めて、苛立ちと共に、小さく声をあげ、そのまま一気に、閂を外した。
闇を飛ぶ羽虫の羽音すら聞こえるほどの静けさである。
扉を開く音が聞こえなかったわけではあるまい。
しかし、趙雲は振り返らなかった。
戸口に立っていると、逃げ場を失った風が、家の中に向かって入り込む。
その冷たさに身震いすると、ようやく、湖の畔の趙雲が、背を向けたままではあるが、口を開いた。
「風邪を引く。戻れ」
「家の主が外でぼんやりしているのに、客のわたしが、中で眠るのも落ち着かない。宿はどうした」
「空いていたさ。なんとなく気になって戻ってきた。声が震えている」
「冷えるからな」
孔明は、肩に羽織っただけの上衣を、風で飛ばないように抑えつつ、趙雲の側に立った。
湖を渡る風に、結わないままの黒髪が踊った。水分を含んでいるのか、風は冷たく、重い。
「おまえは、人の言うことを聞かない奴だよな」
と、近づいてきた孔明に、趙雲が言った。
その声色には、諦めが含まれている。
「よく聞くほうだと思うが」
「現に聞いてないだろう」
「場合によって変わる。あなたが戻れば、わたしも戻ろう」
「どっちに」
「家と成都、両方だ」
それに対する返事はなかった。
苛立ちや怒りは、もうなかった。
夜半だというのに、月明かりのせいで、どこか明るい湖の不思議な静けさを眺めつつ、孔明は、夢の中にいるような錯覚さえおぼえた。
だからだろうか。
心は澄んでおり、趙雲のことをいま、恐ろしいくらいに把握しているのと同様に、趙雲も、こちらを読んでいるのだろうということが判った。
「わたしたちは、救われないのだろうか」
形の崩れた月を映す湖を眺めつつ、そんなことをつぶやくと、ようやく趙雲が顔を向けてきた。
「人と人の組み合わせというものがあるだろう。兄弟、夫婦、主従、なんでもよい。人が連合した時に発生する形であるが、これは、縁によって引き合わされるものだ。
それを継続させるのは、欲であったり、恩であったり、義理であったり、さまざまだ。惰性というものも、あるかもしれないな。
思うに、主公や関羽殿、張飛殿のように、屈託のない明るい組み合わせもあれば、李巌や、劉公子のように、恨みによって結びつく場合もある」
「そうだな」
孔明は、湖から目を逸らし、此方を見ている趙雲の視線を、真っ向から受けた。
「主公に、このままでは、おまえは破滅をすると言われたのだろう」
趙雲が、いささか驚いたように言葉を詰まらせた。
孔明は、小さく息をつくと、肩に羽織る上衣の裾が、風を孕んで大きくふくらむのを直しつつ、言った。
「破滅を恐れて、わたしを捨てるのか」
趙雲は答えず、ただ黙ったまま、湖のほうに目を向けた。
しかし、孔明は、目をまっすぐに向けてつづけた。
「わたしを捨てるつもりならば、いますぐ殺してしまうがいい。そして、この地のどこへなりと、逃げればよいのだ」
さすがに仰天したのか、趙雲がふたたび孔明に目を戻した。
「なにを言い出す」
「わたしを選んだのだろう? その覚悟でついてこい、と言っている。わたしを取って破滅するか、あるいはわたしを殺してどこへでも行け。それ以外は許さぬ」
「莫迦なことを。おまえの言葉遊びに付き合っている気分ではないのだ」
「遊びで斯様なことを口にできると思うか、趙子龍!」
孔明が強く言うと、趙雲は驚いたように、目を開いた。
「わたしは、おそらくあなたの胸に抱えるものを、完全に受け止めることはできないだろう。だが、その代わりに、わたしの命を与えると言っている。捨てるならば、殺してから行け」
趙雲は、言葉をなくして、孔明をじっと見つめていた。
視線を恐ろしいと思ったのは、初めてだった。
だが、ここで引いてはならない。
もしもここで目を逸らしたなら、言葉が嘘だということになってしまうと、孔明は己を励ました。
「あなたは、わたしにとっては、ただの主騎、盾ではない。これよりわたしの歩まねばならぬ道は、とてもではないが、一人では歩ききれない。だから伴に行って欲しいと、言葉を変えて、わたしは何度もあなたに言ってきた。
なのに、それを無視して、勝手に思い悩み、去ってしまうのであれば、最初から、わたしを守ったりするな! 主公にのみ忠義を捧げる、冷たい人間のままであればよかったのだ!」
「滅茶苦茶だ」
「滅茶苦茶なものか。言葉を重ねれば、重ねるほどに腹の立つ! 主公の言葉は絶対か? 主公の言葉を恐れて逃げたのか? では、わたしはどうなる!」
「主公は、破滅する、などとはおっしゃらなかった」
「だが、その顔色からすれば、似たようなことを言われたのだろう? 子龍、あえて言う。主公とわたしか、どちらか選ばねばならない日は、遅かれ早かれやってきた。 われらが目指している道というのは、そういう道なのだ。
主公はつねに、家臣たちの頂点にあって、公平さを保った裁定者でなければならない。主公に従うのであれば、わたしのそばにいることはできぬぞ。主公の判断を狂わせてしまうからな」
趙雲は、どこか悲しそうに、唇をゆがめて、つぶやいた。
「いま、この場で、俺に、情を取るか、それとも情を捨てるか、どちらかを選べというのだな」
「そうだ」
「情を捨てたなら、おまえを殺さねばならぬのか」
「そうだ」
「そんなことが、できるわけなかろう」
「でも、選べ。わたしはあなたに命を与えていた。先刻、気分に任せて決めたのではない。もうずっと前からそうだった。気づかなかったのか」
趙雲は、深く目をつむると、考えた。
しばらく考えたあと、静かに、ゆっくりと答えた。
「気づいていたのかな。だから、これほどまでに悩むのか」
「悩んでいたのは、あなた一人ではない。わたしは、ある時期から、主公と距離を置いていた。主公は、わたしに子に抱くような、格別な想いがあるようだが、それに甘えて、そのまま、お互いの想いの居心地のよさに溺れてしまっていては、余人も入り込めず、狭い関係の中だけで夢が費えてしまうと思ったからだ。それでは、互いに互いの可能性を潰しあってしまう。
主公はわたしを信じてくださる。だからこそ、子のように尽くすのではなく、最上の家臣として、最大の忠を示すのだと決めたのだ。それがなによりの恩返しなのだと思った。
だが、そうは決めても、これはなかなかに辛かった。ときには、主公を付き放すような真似もしなければならなかった。気まずさや、心苦しさに耐えかねて、もういいではないかと己を誤魔化し、以前のように振る舞おうかと思ったこともたびたびだ。でも、耐えられたのは、だれのお陰だと思う。
わたしが悩んでいたことに、気づいていただろう。あなたがいるからこそ、いまのわたしがあるのだ。それを捨てるというのであれば、わたしを殺して行くがいい。どちらにしろ、一人残されたままで、生きていけるとは思えない」
「思い詰めすぎだ」
「あいにくと、不器用でね、物事を簡単に考えることができないのだ。それでも、まだ戻らぬと言うのか」
「俺は主公にとって害になるばかりではなく、いずれはおまえにとって、最悪の存在になるかもしれぬ。俺の所為で、おまえは破滅するかもしれない。わかっているだろう。俺を側に置くのは危険だ」
「思い詰めているのは、あなたのほうだ。李巌の言葉に惑わされて、自分の心を読み間違えているだけなのだ! わたしは、すべて判っていると言っただろう。破滅するならばそれでよし。余計な約束も誓いもいらぬ。死ぬならば共に死のう。それでよい」
「おまえは莫迦だ」
「なんとでも言え。こればかりは譲らぬ。ほかの誰でもない、このわたしが共に生きるのだ。破滅することなぞあるものか! 子龍、わたしを選べ!」
山野を駆け、湖の表面を撫でる風が吹きぬけていった。
どれくらい、時間が経っていたかはわからない。
しばらく、互いに黙って、胸の内側の声と戦っていた。
「どんな命令だ」
趙雲が先に口を開いた。
それは、ここ数日の、強ばった、張りのないものではなかった。
弱弱しさすらあったものの、以前のような、親しみのこもったものであった。
「俺がいま、是と言ったなら、きっと生涯、とんでもない重荷を背負って、生きることになるのだろうな」
「当たり前だ。ほかのだれをも抱えられないくらいに重いぞ。その代わり、わたしは、あなたの全てを背負って生きて行く。ほかの誰も、心の内に入れさせない。それがあなたへの代償だ」
趙雲が、口を開きかけたのを、孔明は、手ぶりで止めさせた。
「言うな。聞かない。でも判っている。わたしはもしかしたら、あなたにひどいことをしようとしているのかもしれない。恨むのならば、恨んでもいい。好きなだけ恨んでくれ」
「恨みはしない。これは、俺の勝手だからな」
「ほら、そうやって、自分を責めるなというのだ。弱点なんてなにもないと思っていたのに、意外な弱点だな。自分を責める前に、わたしの悪口を言うことにしたらどうだ」
それを聞いて、ようやく趙雲の顔に、笑みが浮かんだ。
頑なだった顔に、久しぶりに優しげな表情が浮かんだので、孔明は、ほっとする。
同時に、思った。
恨みもなにもかも、敢えて受けよう。こちらこそ、恨むまい、と。
「そんな自虐的な励ましがあるか。まったく、おまえは変な奴だ」
「いまのは誉め言葉として受け止めておくよ」
やがて、地平の彼方に、ほの白い光が見えてきた。夜明けである。
鏡面のように澄んだ湖が、幾千万の宝石を浮かばせているように、朝陽を受けて、きらきらと輝きはじめた。
その息を呑む美しい光景に、二人して黙って、日の昇るのを見つめていた。
「地元の者に聞いたのだが」
と、波間に生える朝陽を見つめたまま、趙雲がいった。
「伝説によれば、この湖には、龍が住んでいるそうだ」
「そうか」
「もしも、このまま職を離れて、ここで暮らすことになったなら、湖を見るたびに、おまえのことを思い出すようになるのだなと、そう思っていた」
「だから、夜中に湖を眺めていたのか」
そんなところだ、と趙雲は小さく、聞こえるか聞こえないかの声で答えた。
「いまの言葉で、いままでの怒りは全部忘れられるな」
孔明は、何日かぶりに声をたてて、明るく笑った。