12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
十六
文偉は、偉度に乱暴にぐるぐると巻かれた包帯を気にしつつ、従兄の費観の屋敷のなかで、偉度たちが休んでいる部屋へと向かった。
孔明と趙雲たちは、劉封、李巌らと共に、すでに先に成都に向けて出立している。
偉度はめずらしく伴を願い出ず、文偉とともに広漢に留まった。
いまや、広漢の治安は、副将の費観が一手に引き受けており、本来は文官であることのほうが似合っている従兄の目の下の隈は、濃くなる一方であった。
偉度曰く、魏の支援がなくなったのであるから、しばらく山賊も大人しかろう、ということである。そうであってくれればと、願うところではある。
費観の妻によれば、もう元気になっている、ということだった。
そうなれば、出立は早かろう。
文偉は、成都にいた折から、ずっと用意していた書簡を取り出し、よし、と気合を入れた。
馬光年に捕らえられたときに、この書簡が見つからなかったのは幸いである
。休昭にあれこれと相談しながら(かなりウンザリされていたが)懸命に書き上げたものなのだ。
そろそろと足音を殺して部屋に近づくと、芝蘭と、まずいことに偉度もいるようである。
ほかの仲間たちは、それらしく遠慮して、どこかに潜んでいるようだが、偉度が願い出て、手負いの芝蘭と、もうひとりの、孔明を庇って斬られたという青年だけは、費観の屋敷にて手当てをうけた。
文偉が面白くないことには、偉度が、血縁でもないのに、無作法にも、ちょくちょく芝蘭の部屋に出入りし、しかも傷の手当てを自ら買っている、ということである。
芝蘭は、偉度を『兄上』と呼び、偉度も芝蘭を『妹』であると費観の妻に紹介したらしい。
李巌の陣の床下にて聞いたことが本当ならば、彼らは、同じ細作であり、なんらかの結びつきがあって、義兄弟になっている、ということだ。
だが、片一方が蜀、片一方が呉、というのが解せない。なにか事情があるのだろうか。
その事情を聞くことは難しいだろうが、いつか判るのだろうか。
とりあえず、文偉は、偉度が嫌がるだろうと思っていたから、聞きたがっている素振りさえ見せるつもりはなかった。
たとえ偉度が何者であろうと、大事な友人である事実には、まったく変わりはない。
偉度が、なんらかの下心があって近づいてきているというのならば、話は別だが、この不器用で口の悪い青年は、あくまで友として文偉を助けてくれるのだから、その恩義は返さねば、おかしな話だろう。
文偉が、芝蘭の休んでいる部屋へ行くと、やはり偉度がいて、珍しくも、じつにほがらかに会話なんぞをしている。
何も事情を知らなければ、仲の良い本当の兄妹に見えたであろう。そういえば、面差しが似てなくもない。
文偉が部屋の入り口に立つと、偉度は、ようよう、と、からかうように言って、文偉を部屋に招きいれた。
「おまえの従兄殿にお礼を言わねばならぬ。いまはどちらにいらっしゃるだろう? われらは、明日、出立する」
「明日? ずいぶん早いな。二人で呉へ?」
「まさか。ここでお別れだ。わたしの『妹』には、強い仲間がたくさんいるから、道中の心配はない。男も女も、それから四足の友達も」
「軍師将軍さまに御挨拶できなかったのが残念です。わたしが眠っている間に、もう成都へ発たれてしまったとは。でも、お怪我がなくてなによりですわ」
と、すっかり元気になった芝蘭は、残念そうに声を落とした。
芝蘭の背中には、四本あまりの矢がつきたてられていた。
とはいえ、芝蘭もただの娘ではない。
薄く見える衣の下に、細かく編みこまれた鎖帷子を纏っていたために、鏃は肉を突き抜けたものの、臓腑の奥まで届くことはなく、一命を取り留めたのであった。
「軍師は、おまえの働きを、たいへんこころよく思っておられる。おまえたちの主に、おまえたちを決して粗略に扱わぬようにと、書簡を書き送ったそうだよ」
「敵国の細作に、そこまで心を砕いてくださるとは、お優しすぎますわ」
「我らのことは、細作と思っていないのだよ、あの方は。生き別れた弟妹も同様だとおっしゃられていた。もし、おまえに辛いことがあれば、かならず頼ってくるようにとのお言付けだ。ほかの兄弟たちにも、その旨伝えてくれ」
「そのお言葉だけで十分ですのに」
「そう言うな。かならず、頼ってくれ。黙って逝かれるほうが、あの方にとっては辛いのだから」
と、偉度と芝蘭は、文偉には、半分も意味の読み取れない言葉を交わし、なにやら笑みを交し合うのである。
なんだ、なんだ、この雰囲気は。
「ところで、文偉、おまえも出立する頃だろう。一緒に帰るか。傷薬を塗ってやる手も必要であろうし、わたしがその役目を担ってやる。あとで休昭に、どうして一緒に帰ってこなかったのだと恨まれると、面倒だからな」
「まあ、それも悪くないが」
「なんだ、らしくもなく、歯切れが悪いな」
言う偉度の横で、芝蘭が、親しげな笑みをうかべて、文偉を向いた。
「でも、本当にお怪我がひどくなくて良かった。貴方が死んでしまったら、わたしも悲しいもの」
とたん、文偉は、ぱあっと目の前が明るくなったような気がした。
芝蘭は、このうえなく美しい娘だと思う。
顔の半分にひどい火傷を負っているので、醜い、などとあからさまに蔑む者もいるようだし、従兄の妻も気味悪がっている様子だが、彼らの目はどうかしている。
文偉は、ちらりと偉度を見た。
偉度が出て行かないかと思ったのである。
しかし、偉度は、尻に根が生えたような風情で、まったくそこを動く気配がない。
もじもじと、次の言葉を捜していると、芝蘭が、微笑を浮かべたまま、言った。
「貴方は、わたしの夫に似ているわ」
「……………オット?」
文偉の目が点になった。文字通り、視界が狭くなった。いや、目の前が暗くなった。
無情に、芝蘭は笑顔のまま、つづける。
「ええ。顔はにてらっしゃらないけれど、明るい雰囲気や、しゃべり方や…そうね、おどけているようで、芯のつよいところも似ているかもしれないわ」
これはノロケである。こちらが誉められているようではあるが、ノロケ以外の何物でもない。
ぐらぐらと眩暈をおぼえているなかで、さらに偉度が追い討ちをかける。
「なんだ、結婚していたのか」
すると、芝蘭は、笑みをわずかに曇らせて、それでも明るく言った。
「結婚していたのです。夫は、昔に亡くなりました。夫といっても、こちらが一方的にそう思っていただけで、あの方が、わたしを、妻と思ってくださったかどうかはわからないのですが」
「ふむ?」
偉度は、なにやら孔明そっくりの仕草でもって、髪をかき上げると、話の続きをうながした。
「わたしのこの顔の傷は、幼少の頃に、黄巾賊に村を焼かれたときに負ったものなのです。でも、おかげで捕らえられても、売り物にならぬと捨てられて、みじめな境遇に陥ることは免れたのです。そんな中で、孤児を集めている村にたどり着き、そこで夫に出会いました」
「『村』で結婚を? よく許されたな」
ハテ、奇妙な問いである。結婚を許さぬ村とはなんだろう。
文偉が首をかしげるなか、芝蘭の言葉はつづく。
「許されませんでした。ですから、誰にも告げずに、こっそりと。あの方は、わたしの顔の傷のことを、一度も気にしないでくれた、たった一人の人でした。村をみなで移動する直前に、お城に呼ばれて、それが今生の別れです」
「そうか」
文字通り、偉度の顔色が変わった。
これほど蒼白になった偉度を、文偉は初めて見た。
いや、さっきから、偉度に関しては初めてづくしだろう。
偉度は、過去のことはほとんど語らぬし、聞かれることも嫌がった。それが、文偉の前で、まったく嫌がらず、自然に話しているのである。
「我らをそれでも許すか」
蒼ざめた顔のまま、偉度が問うと、芝蘭は、答えた。
「最初はお恨みしておりました。でも、あとになって、事情をすべて知りました。もはや終わってしまったこと。対決する形になってしまったとはいえ、わたしたちを本気で救おうとしてくださった方を、どうして恨み続けることができましょう。
ですから、お気になさらずに。わたしたちの仲間も、似たような痛みを抱えておりますが、誰一人として、恨んではおりませぬ。そうお伝えください」
「わかった。おまえたちも、先ほどの言葉を忘れてくれるな。必ず、頼ってくれ。軍師が駄目なときは、わたしが必ず助けとなる。約束しよう」
文偉は、すっかり話の輪から外されている形となっていたが、不平不満を述べるわけにはいかなかった。
なにせ、偉度の目が、なんと、涙目にすら、なっていたからだ。
邪魔者なのは、もしやこちらか、と腰を浮かしかけていると、ほかならぬ偉度が声をかけてきた。
「ところで文偉、おまえ、用事があってここに来たのだろう。わたしはおまえの従兄殿を探しに行くから、席を外す」
なんだ、唐突に。
文偉が返事をする間も与えず、偉度はさっさと立ち上がると、部屋を出て行ってしまった。
そのうしろ姿を、ぼう然と見送っていると、芝蘭が言った。
「あの方は、わたしたちの中でも、いちばん残酷な扱いを受けた方なの。それでも立派に立ち直られて、軍師の主簿を勤め上げてらっしゃる」
「そうなのか?」
芝蘭は、今度は、文偉に目を真っ直ぐ向けて、言った。
「兄のことは、もう判ってらっしゃるのでしょう?」
「おぼろではあるが…」
「では、約束してくださいませんか、文偉さま。兄の助けになって下さい。あの方は、裏切らない相手には、きっと誠を尽くします」
「それは勿論だ。もとより、偉度はわが命の恩人だからな」
「よかったわ」
と、芝蘭は、まるで己のことのように、文偉の言葉を聞くと、うれしそうにした。
命の恩人は、目の前にもいる。
一度や二度ではない。三度も助けてくれたのだ。
このままでは、偉度の話ばかりになってしまう。
文偉は、ずっと手にしていた書簡をぐっと握りしめた。こんなときばかりアレだが、休昭、力を分けてくれ。
「つ、ついでといってはなんなのだが、わたしも約束をしてほしいことがあるのだが」
偉度はというと、費観の屋敷の中庭にて、主の姿を探すでもなく、ただ立っていた。
建安十二年の、初夏のことを思い出していたのである。
風の音と木立のざわめきのなかに、あのとき、ひっきりなしに聞こえてきた蝉の声が聞こえやしないかと、耳を傾けていたのだ。
時間が止まったままだ。
留まりたいと願っているから、そこから動けないのか。
それとも芝蘭の夫を初めとする、数々の、裏切って見捨てた命に呪縛されているために、動けないのか。
しばらくして、文偉は、ふわふわした足取りで部屋を出てきた。
その、いかにも普通の青年らしい様子に、偉度はほっとする。
偉度にとって、文偉や休昭たちは、いまを生きている証であった。
「なんだ、せっかく席を立ってやったのに、もう出てきたのか、甲斐性なし」
わざと憎まれ口を叩くと、文偉は、大きく息を吐いた。
「いやはや」
「なにがいやはや、だ。言っておくがな、あの娘を遊び女のごとく扱ったなら、わたしばかりではない、あらゆるところにいるわたしの兄弟が、おまえに刃を向けるぞ」
夢見心地を彷徨っていた文偉は、偉度の言葉に、ふと真顔になって、顔をしかめた。
「おまえ、そんな脅迫があるか。怖い奴だな。それに、友達だろう? すこしくらい、いい気分を長続きさせるのを手伝ってくれたっていいじゃないか」
「あいにくと、そういう親切さは持ち合わせていない」
「やはり、偉度は偉度だな」
「なんとでも。で?」
「で、とは?」
「誤魔化すな。首尾だ。芝蘭は、なんと?」
「そんなことでよろしいの? と。いやはや」
偉度は首をかしげた。
『そんなこと』って、なんだ? あれは、そんなに軽い娘ではないが。
「しかし、うまく行くとは思わなかった。互いに立場が立場だからな。だが、おかげで、これから毎日が春のようだ。鞭で打たれた傷の痛みも忘れてしまったぞ」
「それは何よりだが…毎日って? 芝蘭は、呉へ帰る」
「わかっているとも。それは悲しいが、しかし、未来は拓けた。勇気を出すものだな。わたしはこれから毎日、東のほうを向いて過ごすことにする。
もしかしたら、地平の彼方から、かの女の手紙を携えた使者の姿を見つけることができるかもしれないからな」
「手紙? 使者?」
すると、文偉は満面の笑みを浮かべて、答えた。
「そうだ。偉度、聞いて驚け。芝蘭は、わたしと文通することを了解してくれたのだ!」
「…………………………………………ふーん」
文偉は、すっかり夢見心地で、さてはて、最初の手紙は何を書こうかな、などと浮かれている。
こいつ、本当に女の経験があるのだろうな。
面相はわるくないから、モテている、ということではあるが…
と、呆れていた偉度であるが、ふと我に返る。
「待て。なぜそれをわたしに伝えた、この莫迦。わたしは、芝蘭の兄ではあるが、軍師の主簿でもあるのだぞ」
「わかっているとも。いまさら自己紹介はいらぬ」
「ぜんぜん判ってない! 芝蘭は敵国の細作、そして、おまえは費家の跡取り。その二人が文通だと?」
「問題あるかな」
「あるに決まっているだろう! まったく、口の軽い! 事実を聞かなければ見過ごせたものを、知ってしまったからには」
「止めるのか」
と、文偉は、小雨降る日に、たった一人、置いてきぼりになって、寒さに震えながら、か細い声をあげている子犬のような、悲しそうな顔をした。
これが演技ならば容赦しないが、本気なのだから、まいる。
「検閲せねばなるまいな」
「えー?」
文偉は声を引っくり返らせて嫌がったが、偉度は、かえってこうすることで、お互いの身を守れるであろうと判断した。
文偉と芝蘭が直接やりとりするよりも、偉度を中継させれば、『兄妹』が手紙をやりとりしているという形をとることができる。
やれやれ、世話を焼かせてくれるものだ、と偉度は嘆息しつつも、いまを明るく生きている偉度と、過去を忘れて同じく生きようとしている、芝蘭たちの助けになれることを喜んだ。
とはいえ、その後、舞い上がりすぎているがために、あまりに舌足らずな文偉の文章に、わざわざ注釈を添えた手紙を、芝蘭に送り続けなければならないハメになるなどと、偉度は想像していなかったが…
さて、偉度は文偉を連れて成都に戻ってきた。
戻ったことの報告を、左将軍府にいるはずの孔明に伝えに行くと、董和が出てきて、宮城にいる、という。
董和は、文偉が無事に戻ってきたことをなにより喜んでおり、息子の休昭とともに、あちこち傷だらけの文偉を、それこそ抱きかかえるようにして迎えて、己が屋敷につれて帰った。
あいもかわらず、呆れるほどに仲の良い、と思いつつ、偉度は、宮城の孔明を追いかけた。
実のところ、偉度は拍子抜けしていた。
成都は、今回の事件を受けて、蜂の巣をつついたような騒ぎになっているだろう、ほかならぬ、李巌と劉封の処遇をめぐって、紛糾しているだろうと、予想していたのだ。
ところが、成都は平穏そのもので、広漢の騒ぎなど、誰も知らない様子である。
いくらなんでも、静か過ぎる。たとえ『なかったこと』として処理することに決まったとしても、なんらかの余波があってよいところだ。
李巌は上手く言い逃れしたようであるが、劉備に黙って孔明を攫い、あわよくば亡き者にせんと画策していたのは、まちがいないところなのである。
おかしい、おかしいと首をひねりながら、ふと大路を見れば、驚いたことに、『李』の旗をかかげた一軍が、堂々と成都を出て行くところが見えた。
李巌が、ふたたび広漢に戻っていくのだ。
許された?
莫迦な。あれだけのことをしておいて、なにも処罰をされなかったと?
いや、以前にも同じことがあった。
法正が、かつての政敵を、ことごとく捕らえて、一族もろとも処刑して回ったときも、その罪を問われなかった。
あのとき、不問に付すように、と指示を出したのは、ほかのだれでもない。劉備でなかったか。
嫌な予感がした。
孔明に限って、失策はないだろうとは思ったが、それを超えて、嫌な予感がした。
広漢に、ぐずぐずと留まっているべきではなかった。孔明の伴をして、一緒に劉備の前に出るべきだったのだ。
宮城に駆けつけると、ちょうど、孔明が、宮城の、よく掃き清められた幅広の大きな白い石段を、降ってくるところであった。
その顔を一瞥しただけで、偉度は、予感が的中したのだと、暗く思った。
孔明の表情は、いつになく固かった。
偉度を見ると、笑顔を作ろうとしたのだが、強ばって失敗したのが見てとれる。
「なにゆえでございます」
前置きなく尋ねると、これまた、孔明も余計な説明をせず、答えた。
「してやられた。李将軍に、先に話をさせてしまったのが失敗であった。しかも、主公と差し向かいにしてしまったのだ」
「それだけでございますか? 軍師と、趙将軍の証言がふたつ揃えば、李将軍や劉副軍中郎将への処罰は確定したでしょうに」
孔明は、ふいと顔をそらし、滅多に見せない、厳しくも強ばった横顔を見せた。
「子龍はいない」
「いない? どちらへいかれたのですか、この肝心なときに? もしや、実はあのとき、傷を負われていたのですか」
「成都に戻るなり、将軍職を返上するといって、主公が止めるのも聞かず、出て行った」
「なんですと?」
頭が真っ白になった。
事態についていけない。
有り得ない事態であった。なぜ、李巌が許され、趙雲が出奔せねばならないのか?
「ありえませぬ。なぜですか」
「偉度」
孔明は、息をつくと、どんな反論であろうと封じ込めるような、厳しい口調で言った。
「これから、わたしの言うことをよく聞け。わたしはたった今より、休暇に入る。いつまでになるかは不明だが、左将軍府の手が足りなくなる分は、おまえが補ってくれ。
それと、ほかのみなにも伝えよ。だれであれ、わたしの後を追ってはならぬ。おまえも勿論のこと、この言いつけをよく守るように」
ますます偉度は混乱した。
「なにを仰っているのですか。いったい、どちらへ行かれるというのです」
孔明は、偉度のほうを見ずに、成都の空の、もっと彼方を見遣るような眼差しで、答えた。
「詮索は無用」
「それは、あまりに無情なお言葉ではありますまいか。われらは、今日まで、軍師に尽くして参りましたものを、此度のことで、お怒りになっておられるのでしょうか」
偉度の声が震える。
怒りのためではない。恐怖のためであった。
この人がいなくなってしまったなら、どうしたらよいのか。
想像もしなかったことだったからである。
幼子のような声を聞き、孔明の固い表情が、わずかに和らいだ。
「そうではない。おまえたちに、怒りなどあるものか。むしろ、わたしは、おまえたちに累が及ぶことを恐れているのだよ。天地が引っくり返ってしまったような気分だ。だが、まだ取り返しはつく」
「もしや、主公は、李将軍のお言葉のほうを信じたのですか?」
「信じるもなにも、偉度、おまえの兄弟たちは、実によくやってくれた。おまえの報告を聞き、すぐさま四方に手配して、劉括なる子の身元を調べてくれたのだ。
そしたら、なんのことはない。劉括は、主公の御子ではなかった。馬光年らしい男が、漢中のとある村より、劉括を一年ほど前に買い上げていたことがわかった。劉括の両親も健在だ。貧しい上に子沢山なのに、知恵遅れの子の養育に持て余してしまい、売ってしまったそうだ。あの子供は何も知らぬ。
馬光年のほうは、魏の細作で、かの女の形見を受け継いで、子供が主公に似ていることをいいことに、子であると、でっちあげたらしい。魏の細作である馬光年が、いつ、未来の主人を裏切ることを決めたのかはわからぬが、やはり、『例のお方』と繋がりがある様子だ」
「わが弟に所縁のある者たちとも、でございましょうか」
「関わりはあるだろう。曹家をかく乱し、おのが命脈の起死回生を計ったものと考えられる。まったく、ずいぶんと恨まれたものだな、わたしも、おまえも」
「では、そちらを探るのは、わたくしにお任せを。しかし、劉括も偽者とわかったのならば、なぜ?」
食い下がる偉度に、孔明は、かるく息をつくと、ようやく目を向けて、答えた。
その表情は、ひどく透明である。まるで、これから死に赴く者のような顔ではないか。
「主公は、もちろんお怒りであったとも。そして、わたしをずいぶん労わってくださった」
「では、なぜ? 以前の主公であれば、李将軍は決して許されなかったはず」
「だが、確たる証拠がない。馬光年は死んでしまったし、魏の公子を連れ戻すわけにもいかぬ。劉公子は李将軍と口裏をきれいにあわせておるし、子龍の言葉がもしあったとしても、それとて証言のひとつに過ぎぬ」
「では、呉より芝蘭たちを」
「いいや、そうではない。もう、そういう話ではないのだ。主公は、此度のことは、真偽が確定せぬが、李将軍と劉副軍中郎将のやりようは許せぬ。ゆえに、広漢の賊をすぐに討て。それで事態は収まったことにする、と」
「それで軍師には我慢せよと?」
「いや、わたしが、不問に付してくれと頼んだのだ。そうでなければ、危うかった。主公は、それはいけないとまで仰ってくれたが、わたしが頼んだのだよ。だから、おまえも騒いでくれるな」
偉度は途方に暮れた。
「わけがわかりませぬ。なぜに、こちらが引かねばならぬのですか」
「李将軍だよ、すべては奴なのだ。子龍が、職務を放棄し、広漢へ行ったことを持ち上げて問題にし、こちらの動きを牽制したのだ。それに、さも子龍に二心があるような讒訴をした。将軍職を返上しようとしているのも、まさにその証である、とな」
「馬鹿馬鹿しい。まさか主公は信じなかったでしょう」
孔明は答えず、強ばった顔のまま、彼方を睨みつけている。
偉度は、ぞくりと背筋を震わせた。
気づいたのだ。なぜ、孔明が沈黙を守る道を選んだのか。
「まさか」
「矢の雨を受けた際、子龍がまっ先にだれを助けたのか、主公の耳に入れた者がいる。その行為が動かぬ証拠だと。もちろん、主公は半信半疑であったようだが…つまりは、すこし疑心がある、ということだ。わたしは、いままであの方の優しさに、あまりに甘えすぎていたようだ」
「しかし、軍師が、だれより主公に忠義を捧げているのは、どんな者の目にも明らかではありませぬか。それは主公もわかっておられるはず。軍師、もし軍師で駄目だと言うのであれば、わたくしもその場にいたのです。わたしの口より、主公にご説明申し上げるというのは如何でしょうか」
偉度の提案に、孔明は、口元に笑みを浮かべながらも、首を振った。
「すまぬが、これに関しては、余人の力は及ぶまい。主公は、薄々と気づいておられたのかもしれぬ。だが、それでよしと思っていらしたのだ。だが、李将軍の言葉で、お心が揺らいだ。主公が子龍を信じているのはまちがいないが、主公の周囲が、子龍を疑っているというのであれば、これは別の問題だ。
偉度、曹操が、いずれは己の血統に、皇帝を名乗らせようと動いていることは知っているな? そうなれば、江東の孫氏もその動きに同調しよう。われらもまた、対抗するために、それなりの準備が必要となる。主公も変わろうとなさっているのだ。いつまでも、以前のように、気心のしれた身内ばかりを贔屓にするやり方では、国力は伸びぬと、そう判断されておる」
「たしかに、李将軍を支持する向きは多い。軍師に反発を抱く者たちが、その中心になっております」
「彼らを切るのではなく、取り込むことを、主公は考えておられるのだ。蜀は、領土が狭いために、どうしても人材がすくない。わたしにとっては敵であっても、忠義を示す以上、彼らは、主公にとっての敵ではない」
「お待ちくださいませ。それでは、主公をこれまで支え続けてきた、軍師のお立場は?」
「わたしの立場は何も変わらないよ」
と、孔明は偉度に目を向けた。
「我らは家族ではない。主従なのだ。わたしの敵は、わたしが立ち向かわねばならぬ。主公はあくまで、公平な立場を貫く。そうであればこそ、だれであれ、主公の前で存分に力を奮うことができるのだ。そうでなければ、天下を望むこともできまい」
「納得いきませぬ」
むくれる偉度に、孔明が声を立てて笑った。
「そこは納得せねばならぬぞ。おまえがそのように拗ねてしまえば、わたしは、だれを頼りに戦えばよいのだね」
偉度はむくれるのをやめ、顔を赤らめて、孔明を見た。
「なにやら軍師も、以前よりさらに、人たらし度が増されたような」
「主公が変わろうと努力なさっておられるのだ。わたしも、どんどん変わらねばなるまい。真の切磋琢磨とは、そういうことではないのかな」
はあ、と、それでも納得できず、生返事をする偉度に、孔明は笑みを引っ込めて、諭すように言った。
「偉度よ、これだけは先に言う。もしも、わたしの力が及ばず、戦いに負け、主公の前から去るようなことになっても、おまえは決して、主公を恨んではならぬぞ。
変わると一言で言っても、たやすいものではない。変化というものには、必ず痛みが伴うものなのだ。いま、だれよりも孤独なのは、おそらく主公だ。おまえならば判るであろう」
「判らないとは、申し上げませぬ」
「おまえは好い男だ。努力すれば、もっと好き男となろう」
「そんなに誉めても駄目ですよ。わたしは、これが精一杯です」
「そういわず、やるだけのことはやってご覧。それと、礼がまだであったな。またも助けられた。ありがとう。今ふたたび、この成都の空を眺めることができるのも、おまえのお陰だ」
「それはそうでしょうとも。で、もうお一方への礼は、いつ言いに行かれるのですか」
「いますぐに。仕事のほうであるが、幼宰殿と許長史には書面にて事情を説明してある。手が足らぬようであれば、伊籍殿か糜竺殿にお願いしなさい。お二方にも、手紙を用意したから」
「相も変わらず、完璧な段取りでらっしゃる。お二方ならば、呼ばれなくてもやってきてくださるでしょう」
「頼んだ。土産は期待せずに待つように」
孔明は言いながら、偉度に背を向け去っていく。
その小さな呟きが、最後に風にのって聞こえてきた。
「やれやれ、今度は、わたしが追いかけねばならぬとは」
衣を風にはためかせながら、遠ざかるうしろ姿を、偉度はしばらく見送っていた。