12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
十五
趙雲が兵卒長の鎧を纏っていた、ということもあり、李巌も劉封も、文偉に気をとられ、近づくその男が、趙雲その人だと、まったく気づかないでいた。
望楼を見張っていた兵卒長が、騒ぎにおどろいて飛んできた。
その程度にしか見ていなかった。ほかの兵卒もそうだった。
走ってきたその男は、劉封に近づくや否や、平伏することもなく、いきなり飛び込んできた勢いのまま、腫れ上がった頬とは、逆の頬を殴りつけた。
その場のみなが、あっ、と思ったのも束の間、つづいて、闇から、大きな白い何者かが飛び出してきたかと思うと、殴り飛ばされた劉封におどろく馬光年の胴に斬りつけ、それが怯んだ一瞬の隙に文偉に近づき、その両手をつなぐ木の枷を打ち壊した。
それが合図だったように、櫓におのおの占拠していた犬たちが、ふたたび遠吠えをはじめ、翼が生えているかのように、ひらりと上空高く舞うと、劉封と李巌の部隊めがけて飛び降りてきた。
この思わぬ敵襲に、部隊は混乱した。
大将である劉封は、兵卒長の姿をした趙雲によって、殴り飛ばされて、地に伏したままである。
李巌のほうは、さすが経験豊かなところを見せ、すぐに我に返ったものの、人ならぬ犬の襲撃に、驚きあわてる兵卒たちに指示を飛ばしても、混乱のため行き届かず、さらに騒ぎは大きくなる。
騒ぎを煽るようにして、趙雲は、おろおろと腰を引き気味に、刃を向けてきた兵卒を、あっさりと打ち伏し、得意の槍を奪った。
そして、目の前に群がる兵卒たちを、吹きつける風にあわせるかのように、つぎつぎと倒していった。
「わたしが見えていたのですか?」
と、文偉の周囲に集ってくる兵卒たちを、これは矛でもって薙ぎ払う偉度が、背中合わせのように戦っている趙雲に尋ねた。
「まるで計ったようではありませぬか。ずっとわたしを見ていらしたのですか?」
「いいや、たまたま運が良かっただけだ」
短く答える趙雲に、偉度はちいさく笑みをこぼし、そして群がる敵をふたたび見据え、その鋭い切っ先でもって、次から次へと容赦なく切り伏せていく。その動きには、一分の隙もない。
犬たちは、一匹一匹が、物言わぬ優秀な武将のように、思わぬ奇襲にうろたえ、まともに反撃も出来ないでいる兵卒たちに牙を剥き、あるいはその爪で蹴散らした。
人とはちがう動きをするために、よく訓練された兵卒たちも、犬の素早い動きを捉えることができず、かえって同士討ちをする者までいる。
文偉は、すっかり気を失っていたが、そこへ、芝蘭がやってきて、助け起こした。
「文偉さま、どうかしっかり!」
声をかけつつ、すでに変色し、あるいはむくみつつある頬を軽く叩くと、文偉はちいさく呻いた。
芝蘭が、どうして文偉を助けるのかはよくわからないが、偉度と己と芝蘭と、その忠実な犬、さらには望楼から集ってきた芝蘭の仲間たちがいれば、混乱しきった中を突破できるかもしれない。
だが、いまは敵、とはいえ、目の前にいるのは、たまたま李巌と劉封の配下になった、同じ蜀の兵卒なのである。
なるべくならば、殺したくない。
趙雲は、混乱の極みにある兵卒たちを、あらかた己の周囲から遠ざけると、奪った槍でもって、どん、と地面をつよく叩き、大音声で呼ばわった。
「みな、鎮まれ! 俺はおまえたちの敵ではない! 我が名は、翊軍将軍趙子龍! 聞き覚えがあろう!」
乱戦の空気を断ち切った、趙雲の一喝であった。
それまで火花を散らして繰り返されていた剣戟が、ぴたりと止まる。
名前を内外に喧伝するのは、武将にとっては常である。
いかに名を轟かすかで、出世の度合いがちがってくるからだ。
趙雲の場合、それは、名を大きく広めることで、己に挑まんとする、無用な命知らずを減らすための行為であった。
効果はあり、趙子龍の名を聞くと、兵卒たちは、己の耳を疑ったのか、唖然とした顔をして、いずれも趙雲に視線をあつめてくる。
彼らの大半は、李巌らの思惑も知らずに付いてきた。なぜに、味方の将と戦っているのか、わからないのである。
彼らひとりひとりを見据えるようにして、趙雲はつづけた。
「そなたたちの策謀は破れた。いまならば、この咎は李将軍、劉副軍中郎将にのみ問い、そなたらは罪に問わぬ! 早々に剣を納め、降伏せよ!」
「よろしいのですか、そのような権限はないでしょう」
と、偉度が、早口でささやいてくるが、趙雲は、ちろりと横目で見て、それを牽制した。
もしも、この場に孔明がいたなら、口にしたであろう言葉を、趙雲は言った。
権限はたしかにない。だが、孔明ならばこうする。
孔明がこの場にいないのであるから、自分がこれに代わるしかない。
趙雲は、篝火に陰影をつけたその顔を浮かばせる、唖然とする兵卒たちを、ふたたび睥睨した。
彼らは息を呑んで、趙雲に視線をあつめてくる。だが、その手に、武器は握られたままだ。
張飛ならば、たった一喝で兵卒たちから武器を奪えようし、関羽ならば、その姿を見せただけで、兵卒たちは怖じて武器を捨てただろう。
自分は、まだまだだな、と思いつつ、趙雲はふたたび兵卒たちに叫んだ。
「どうした! 降伏せぬのであれば、俺はそなたらを逆賊として討たねばならぬ! この咎は、そなたらのみに留まらず、九族にいたるまで及ぶであろう! それでもよいか!」
兵卒たちは、すっかり固まってしまって、ただただひたすら、趙雲を見つめている。
趙雲が焦れて、どん、とふたたび地面を槍の柄で突くと、まるで火にかけられた豆がはぜたかのように、恐怖の色を浮かべた兵卒たちが、つぎつぎと手にしていた武器を打ち捨てた。
だが、なおも武器を捨てず、こちらに切っ先を向けてくるものが残っている。
鎧装束が、ほかより立派なところからして、李巌らの直属の将兵らであろう。
吹きすさぶ風が、村を揺らしている。
全身につよい風を受けながら、趙雲は、彼らの次の動きを待った。
このまま、突破するか。あるいは、説得をつづけるか?
数の上では、変わらずこちらは不利なのであるし、曹丕が逃げたことに気づき、彼らが手勢を分けて、追っ手をかけてしまっては、また同じことになってしまう。
「逆賊とは笑止!」
李巌の重々しい声が、沈黙を破った。
李巌は、姿勢も凛々しく、篝火に浮かび上がる美麗な鎧に身を固め、前に進み出る。
李巌と孔明は似ている。
似ているが、正反対だ。
面貌がお互いに美麗であるが、孔明が美女とも見まごう美貌の主であるのに対し、李巌は凛々しい男らしい風貌をしている。よく手入れされた黒い髯が、そのかたちのよい顎に似合う。
洒落者というところも共通している。
男ぶりがよいために、李巌は鎧姿であることを好む。孔明は、いままで一度たりと、鎧を纏ったことはない。
李巌は、絵になる男である。それは認めよう。
そして李巌は、文官としても十分にやっていける、文武両道の鏡のような男だ。
弁舌にも長けている。
武器も手にせず、堂々と趙雲を見据える度胸もある。
出てきたな。
趙雲は胸の内でつぶやきつつ、状況の悪さにも怖じずに、悠然と足を進めて来た李巌を見つめた。
以前に、何度か顔をあわせたことがある。
だが、顔をあわせたという程度である。親しく話したことはない。
李巌には驕慢なところがあり、己の認めた士大夫としか付き合わないと決めているところがあった。
趙雲は、その選別から洩れていた。
趙雲は、慎重に言葉を選びつつ、甲冑の房飾りを風になぶらせて、堂々と目の前にたつ男に問うた。
「俺の言葉に誤りはない。そのことを、貴殿はなによりご存知のはずだが?」
「いいや、貴殿こそ、間違っておられる。われらが何ゆえに逆賊だと言うのか? 我らは、主公の御ために魏の公子を捕らえたうえに、生き別れとなっていた御子を探し出し、保護したのだ」
「保護だと?」
「左様。この御子は、阿斗さまよりも年長であり、本来の主公の跡継ぎともいえるお方。このうえなく貴重なお方である。保護するのは当然であろう。しかし、劉括さまの母君を亡き者にされたのが、軍師で、その軍師が後押しされているのが、劉括さまの弟君にあたる阿斗さまだというのは、皮肉であるな」
「その軍師を、勝手に捕らえて、なにを言うか!」
「だが、軍師は主公の御子の仇、言うなれば、主公の仇ということにはならぬかね」
その言葉を聞いて、武器を捨てた兵卒たちが、互いに顔を見合わせ、ひそひそとやりだした。
まったく知識を与えられずに、李巌の言葉と趙雲の言葉を聞かされたら、どちらを取るだろうか。
趙雲は、ついさっきまで、問答無用で、彼らの仲間を切り伏せていた男である。
一方の李巌は、腰に剣こそ提げているが、いまはなにも武器を手にしていない。
失敗した。相手の得意な分野に入り込んでしまっている。
弁舌にかけては、李巌のほうがはるかに上だ。
兵卒たちにせっかく武器を捨てさせることができたのに、また武器を取らせてしまう。
無益な殺しはしたくないというのに。
「まこと主公の御子か、まだ定かでない者を持ち上げ、軍師を貶めて見せる。そして、主公の了解もないままに、その勝手に軍師を捕らえるとは、叛意ありと取られても仕方ないところであろう!」
「劉括さまが主公の御子であることは、その面差しからも間違いのないところ。くわえて、ご母堂が、主公よりいただいた品も受け継いでおられる。阿斗どのを長坂の戦にてお助けした貴殿からすれば、おもしろくない話かもしれぬ。だが、これは事実なのだ」
「いまは、阿斗さまのことは関係なかろう。問題のすり替えは止せ! たとえ劉括どのが主公の御子であろうと、問題は、貴殿らが勝手に動き、魏の公子を捕らえたという、これに尽きる!」
「致し方なかろう。敵を騙すには、まず味方から、という言葉を知らぬのか。魏の公子を捕らえるのだぞ。なまじあちこちに話を報せて、それが洩れてしまうのであれば、そもそもの策が成り立たぬ」
趙雲は苛立ち、槍の柄を、ふたたび地面に打ちつけた。
「そうではない! そうではなかろう! 主公のお許しもなく、勝手に軍師を捕らえ、そしてこの村へ連れてきた挙句、さも餌のように、魏の公子の面前にぶら下げてみせた。そのことも許せぬし」
蜀の国力の詳細や、魏の内情も知らず、状況をかえって悪くする策を用いて、どうするつもりだ、と続けようとした趙雲であるが、李巌の大きなため息に打ち消された。
「貴殿は軍師に近すぎる。たしかにこの策は、軍師には酷なものであったかもしれぬ。だが、貴殿は、軍師をどこまでご存知か? わたしは、かの御仁を、主公の軍師になる以前より見知っておる。貴殿もしらぬ、軍師の顔、というものがあるのだよ。この策は、軍師もご存知だ」
「嘘です。押されてはなりませぬ! だいたい、軍師はたしかに李将軍を知ってはいたが、顔見知り程度だったはず!」
偉度がすばやく趙雲に言う。
そうであろうと趙雲は思い、その言葉にうなずいた。
これまで、孔明の口から、公務に関すること以外で、李巌のことが出てきたことはないのだ。
「苦しい嘘をつくものだな。それに、貴殿は思い違いをしておるぞ。俺が軍師と近すぎるゆえ、見境がなくなっているとでも言いたいのか? 見境がなくなっているのは、貴殿らのほうであろう!
たとえ、いま劉括というお子があらわれたとしても、主公にとって、軍師はまさに主従を越えて、手足のようなもの。それを、なにも相談なしにもぎ取られては、主公とて黙ってはおらぬぞ!」
「一介の翊軍将軍ごときが、なぜに主公のお心をそこまで主張する? 僭越であろう!」
「問題のすり替えに必死なようだな。軍師は、この策のことなど、なにも知らなかったし、貴殿は、そこに倒れておる劉副軍中郎将の存在ゆえに大きく出ているようだが、もはや策は破れた。
こうなれば、いかに動機が忠から発するものであったとしても、立場が微妙なことは、理解しているであろう。これで、そなたらの寿命は、ますます短くなるというものだ」
「なんと不遜な」
李巌は、旗色がわるくなったことを悟り、顔を大きくゆがめてみせる。
趙雲はといえば、弁舌でもって相手をやりこめたことも少ないので、この結果に、大いに会心の笑みを浮かべた。
といっても、口はしに笑みが浮かぶ程度であったが。
そのとき、これまでより、もっとも強い風が吹き、一同の全身を打った。
舞い上がる砂塵に、思わず目を庇う。
そして、ふたたび目を開けたとき、李巌の、高らかな哄笑が響いた。
なにごとかと趙雲が目を向けた先に、後ろ手に縛られたまま、咽喉元に刃を突きつけられた孔明の姿があった。
とたん、全身の血が、地面に引きずられるように、どっと下がった感覚があった。
声を立てることもできず、ただ目の前の、困惑した表情を浮かべる孔明の姿を見る。
「狂ったか」
と、それだけを、ようやく搾り出した。
李巌は目を細めて、余裕を見せたいのか、手首をしなやかに動かして、孔明を示す。
「あいにくと正気だ。いやはや、目出度いではないかね、軍師を保護できたのであるから」
「刃で脅すのが保護か」
と、皮肉を口にしたのは、孔明本人である。
李巌を睨みつけ、それから交互に趙雲を見る。
髪はほつれ、その纏うものもところどころ汚れていたが、傷つけられた形跡はない。
孔明は、趙雲と目が合うと、笑おうとしたようだが、うまく頬が動かないようであった。
そして、ふたたび李巌をきびしく睨みつける。
「まさか貴殿がこのように大胆なことをされるとはな。狂ったのだと聞いたほうが、よほど納得できたのだが」
「そう睨み付けないでくれないか。たしかに待遇が悪いのは、謝らねばなるまい。しかし、森に棲まう狼どもに食われるより、はるかにマシだと思わないかね、軍師将軍殿。いやはや、ずいぶんと久しぶりではないかね。最後にあったとき、貴殿は成都にて、主公の隣に座って、なにやら悠然と諸将に指示を下しておられた」
「それが仕事であるからな」
「左様。それが貴殿の仕事で、わたしは、この広漢の山賊を平定するのが仕事。で、君の指示のとおりに仕事をこなしてみせたなら、なぜだか君の主騎に叱られる。どうにかならないかね。君は言ったではないか。『いかなる手段を用いても、賊を平定せよ』と」
「だが、魏の公子を捕らえよ、などという指示は、出しておらぬが」
「魏の公子は、いわばついでだ。いいかね、わたしは、広漢に多く出没する賊を捕らえに来た。これが、連中ときたら、なかなかにずる賢い。そこで罠をかけるために、彼らを一網打尽にできる機会を、ずっと待っていたのだよ。
そうしたら、驚くではないかね、賊の裏に、魏のたくらみがあったのだ。そこで、わたしは、この汚い陰謀の首謀者を引きずり出す算段をしていたのだ。
とはいえ、魏の人間を、蜀にまでおびき寄せるには、なにか大きな理由を作らねばならない。そうして考えていたときに、偶然にも、馬光年という男より、劉括さまの存在を知った。
主公のご長子であらせられる劉副軍中郎将に相談したところ、劉括さまにいたくご同情なさってね…ああ、若君をお助けまいらせよ(李巌は、ここで部下に、倒れている劉封を助け起こさせた)…このままではあまりに哀れ、父君にあわせてさしあげたいと、そういう話になったのだが、ただ会うだけではつまらない。大きな土産も持たせてやりたいと、そうおっしゃる。
うるわしい兄弟愛だとは思わぬか。そして、魏の公子を捕らえるべく、馬光年を頼って情報を流し、広漢におびき寄せた、というわけだよ。
途中、いろいろと齟齬があったようだが、これほど大掛かりな策謀となれば、致し方あるまい。貴殿を餌に使ったのは謝らねばならぬが、喜んでいただけると思ったのだがねぇ。君は、どうも短慮でいけない」
「短慮なうえに狭量でね、あいにくと、貴殿の長舌も、上滑りして聞こえるのだよ。本音を語らぬのは、やはり我らの思うところで、だいたいが合っていると考えてよいか」
孔明の皮肉に、李巌は、器用に眉をあげ、なおも歌うようにつづける。
「君たちの思うところとはなんだね? いやはや、だいぶ怒っておるようだな。だから恐ろしくて、君を自由にするのにもためらってしまう。わたしは君を、司馬徳操先生のところにいたときから知っているが、見かけによらず、短気なのと、すぐに喧嘩を売りたがる癖は、あらためたほうがよいな。これが、最終通告になるのだが」
「なんと?」
李巌は、腰の剣をすらりと抜くと、隣に立って、孔明とのやり取りを注意深く聞いていた趙雲に向けて、その切っ先をつきつけた。
「武器を捨てたまえ、翊軍将軍。軍師将軍もお静かに。広漢においての治安は、それがしが任されておる。我が権限において、貴殿を拘束する」
「なんの理由で?」
「いたずらに広漢を騒がせた罪、わが将兵らを混乱させ、傷つけた罪、加えて、主公の長子に狼藉を働いた罪。これだけ揃えば文句もあるまい。
さて、軍師将軍、わが策謀の深遠を、ご理解いただけなかったとは残念だ。すまぬが貴殿も拘束させていただく。その後ろにいる、卑しき者たちも一緒に」
牢へと、李巌は言葉をつづけようとして、顔を強ばらせた。
何事かと目を向ければ、文偉の介抱をしていた芝蘭が、いつの間にか、村を駆け回って遊んでいた劉括を拘束し、孔明がされているように、その咽喉元に刃を突きつけていた。
「くだらぬ真似はお止めなさい。たとえ策謀が破れたとしても、この子供を劉左将軍に見せれば、そのお心を鎮めることができると思ってらっしゃるのでしたら、読み違えですわ。
たとえ、そこのお二人の死の原因を、魏の者たちのせいにしたとしても、左将軍は、あなたをお許しにならないでしょう」
「これはなんと」
と、李巌は眉を細めて、芝蘭を見据えた。
芝蘭の腕の中にいる劉括は、状況がわかっていない様子で、にこにこと無邪気に笑っている。たくさん人が集まっているのが、楽しいらしい。
「わたしは呉の細作。呉の盾となる、蜀の現状を保たせよというのが、我が主命。軍師将軍は、親呉派の筆頭ですもの。貴方はちがう。おわかり? この子はいないほうが、我らにとっては都合がよいの。この可哀相な子を、わたしに斬らせないで。さあ、武器をお捨てなさい」
「細作ごときが、それがしに命令を下すとは、片腹痛い」
「勝手に痛がってなさいな。まずは、軍師を解放して。それから、趙将軍に向けている刃を下ろすのよ」
「怪物じみた面相の娘よ、たとえ貴殿らを解放したとしても、それがしは広漢から、そなたたちを出さぬ」
「ならば、ここで、わたしたちと一緒に死ぬといいわ。繰り返してあげる。わたしは呉の細作。蜀の現状を維持させるのが仕事なの。貴方が、軍師と趙将軍たちを殺して、自分がその地位を襲おうとしているのならば、蜀の混乱と弱体化を防ぐために、わたしはこれを、全力で阻止しなければならない。命に替えても」
とたん、闇の中の黄金の瞳が、唸り声とともに李巌の周囲に集ってきた。
「貴方さえいなければ、あとはろくな知恵ももたない烏合の衆。恐れることなどなにもない。人ならば、あなたの得意なおしゃべりも通用するでしょうけれど、その子たちには、なにも聞こえないわよ。さあ、どうなさるの?」
李巌は、自分の四方をとりかこむ山犬たちを見下ろした。
犬たちは、どれも恐ろしげな唸り声をあげて、李巌の咽喉笛を掻き切らんと、凶悪な目で狙いを定めている。
「小癪な」
と、李巌はつぶやき、趙雲に向けた己の刃をおさめた。
そして、犬たちを注意しながら、ちらりと横を向いた。
「馬光年、頼まれてくれぬか」
「なんでございましょう」
と、文偉を拘束していた男、文偉の前では村の長、孔明の前では劉括の保護者として姿を現した男が、かしこまって進み出た。
「娘、交換と行こうではないか。おまえが呉の細作であり、それがしは、おまえをよく知らぬ以上、おまえの言葉すべてをそのまま信頼するわけにはいかぬ。そこでだ、それがしは、軍師を解放する。同時に、おまえも、劉括さまを解放してくれぬか」
「なるほど、交換ね。わかったわ」
芝蘭は頷き、劉括を拘束していた腕をゆるくする。
同時に、孔明を拘束していた男は、馬光年と交替し、それぞれ、ゆっくりと近づいた。
「翊軍将軍、貴殿はまちがっている」
と、徐々に距離を詰める馬光年と孔明、芝蘭と劉括の二組を面白くなさそうに見ながら、李巌は言った。
「真に主公に忠誠を示すつもりならば、軍師にではなく、劉副軍中郎将や、そこな劉括さまに捧げるべきなのだ。軍師は、たしかに主公の寵愛の深い男だが、人の心はうつろうもの。やがて、軍師と主公が対立なさったとき、貴殿は主公に戻れるのか?」
「戻れるか、とは…面妖な物言いをする」
憮然として趙雲が言うと、李巌はなにを思ったか、鼻を鳴らして笑った。
「我が策は、半分は為っていた。貴殿のせいで壊れたようなものだ。主公は、いまは軍師の無事を喜ばれるかもしれぬ。
だが、龍はいつまでも眠ったままではあるまい。主公はきっと後悔なさるときが来るだろう。そのとき、貴殿は、どちらに付く?」
「主公さえお許しになれば、貴殿の、その奇妙な言葉をつむぐ舌を、永遠にしゃべれぬように引っこ抜いてしまうのだが」
「そうそう、貴殿はそういう冷酷な男なのだ。貴殿の血は凍っている。主公は、心の離れた貴殿のことをも、いずれは扱いかねるようになるだろう。貴殿は器用ではない。ニ君に仕えることはできぬ。その芽を摘んでしまおうとした、わたしは不忠者だろうかね」
「黙れ」
「あるいは主公は気づいておられるのかもしれん。貴殿の位が低いのは、単に軍師の主騎として、身動きが取りやすいようにという、配慮だけではないのかもしれぬ。いや、無意識のことかもしれぬが、わたしを初めとする、心ある者は、気づいておるぞ。
貴殿は、主公の臣ではなく、そこな軍師のみの臣に、すでに成り果てておるのだ。現に、己の職務を投げ捨て、軍師のためのみに、貴殿は広漢に飛んできた。わたしが主公の了解を得ていないと責めるが、貴殿とて同じではないか。貴殿は、主公と軍師のどちらかを選べと問われれば、迷わず軍師を取る。そういう男なのだ。
いや、貴殿自身も、薄々と気づいておられるのだろう。貴殿は、もはや主公の臣ではなくなっている。もはや別の者に忠を傾ける、二心ある者を側に仕えさせる恐ろしさを、人の好い主公はわかっておられぬのだ」
「いい加減にしろ! いかにそれらしき理由を付けて言い繕おうと、貴殿が広漢の守りをおろそかにしていた咎は免れぬぞ! 糾弾の場にて、その舌を揮うがよい!」
趙雲が怒鳴ると、李巌は、小憎らしくも、声をたてて笑った。
「趙子龍、わたしは予言する。いずれ貴殿は、己の心にすら裏切られるだろう。孤独のままの死を選ぶか、あるいは」
李巌の言葉のすべてを聞くことはできなかった。
ちょうど、孔明と劉括の交換が終わった頃である。
戒めを解かれて、自由になり、芝蘭の側に歩み寄った孔明に向けて、馬光年が、刃を付きたてた。
いや、付きたてようとしたのだが、その刃は、篝火の光に鈍くひかり、芝蘭の目に飛び込んできた。
娘は、すばやく孔明を突き飛ばすと、その刃を、袂にて受け止める。
芝蘭の袂は、この強風でも、ほとんど風になびくことがなかった。おそらくは、袂に鎖帷子のような薄い鉄条のものを仕込み、いざというときの盾にしているようだ。
「卑怯者!」
いいざま、芝蘭は、刃を跳ね除け、剣を馬光年と交わす。
はじまった剣戟に、そばにいた劉括は怯えてしまって、身をすくませている。
孔明はというと、芝蘭に突き飛ばされた反動で地に倒れていたが、そのまま、傷ついた文偉のほうを見て、低い姿勢のまま、そちらへ向かおうとしている。
そのとき、趙雲は、ごうごうと唸る風の奥に、耳慣れた音をはっきりと聞いた。
闇の奥底から、風に乗って、飛んでくる物がある。
矢だ。
ちょうど、曹丕たちが逃げたはずの望楼の裏側あたりから、矢の飛来する音が聞こえてくるのだ。
どいつもこいつも!
矢は、あきらかに、最たる裏切り者、馬光年を狙っているのだが、この風の勢いである。周囲にいる者たちにも、矢はかかる。
目の前に、馬光年と、芝蘭と…そして、ちょうど馬光年の足元にいる形となる孔明が、剣戟を気にしながら立ち上がろうとする姿と、傍らで、怯えて立ち尽くしている子供の姿があった。
どちらを。
考えている暇はなかった。
趙雲は、地を蹴ると、無防備に立っている者に飛びかかり、ふたたび地面に伏せさせた。
ほどなく、矢の降りかかる音が、伏せた己の周囲でいくつも聞こえてくる。
顔を上げることができなかった。風の音だけが聞こえていた。
子供の泣き声が聞こえてくる。
まるで見えない手で髪を捕まれたように、趙雲はゆるゆると顔を上げ、あたりを見回した。
まず、矢の勢いによって、篝火がひとつ倒れて、なおもまだ燃えているのが最初に目に入った。
そのそばで、子供がしゃがみこんで泣きじゃくっている。
隣には、剣を持ったまま、矢を何本も身に受けて倒れている、馬光年のあわれな死体がある。
李巌は、矢の雨を免れたものの、ぼう然とその場に立ち尽くしており、ほかの将兵たちも同様であった。
その隣では、流れた矢が肘のあたりに当たり、痛みに呻いている劉封の姿があった。
「たいした置き土産だな!」
と、偉度が憎憎しげに、闇の向こうに悪態をついた。腕の中には、その『妹』である芝蘭の、背中に何本かの矢を受けた体があった。
風の発する方角から、「引け、引け」と声が聞こえた。
魏の者たちが、ささやかな報復をして、故国へと逃げていくところらしい。
国境付近で、魏延なり、関羽なりに捕らえられてしまえばよい、と趙雲は胸の内で呪詛を吐いた。
「子龍、子龍」
間近で声がして、趙雲は腕に抱えた者を見下ろす。
恐怖から脱け出した虚脱感か、それともいまだ状況がつかめずにいるのか。孔明は、困惑の色を浮かべている。
それでもなお、片手は、趙雲の頬にゆっくりと差し伸べられた。白い指先が、かすかに震えている。
それがわずかに頬に触れるか触れないか、それだけのわずかな接触で、趙雲は、孔明が生きていることを実感し、安堵した。
子供の泣き声がつづいている。
劉封が、助けを求めて呻いているのが聞こえた。
だが、趙雲はどちらにも顔を向けることなく、ただ、目の前の者だけを見ていた。
そして、孔明が言葉を語る前に、地に倒れたものを抱き起こすような形で、趙雲はその身を強く抱いた。
「俺は、おまえを選んだのだ」
それだけ言った。
孔明は、わずかに驚いたような顔をしたが、何も言わずに、しばらく大人しく腕の中にいた。
そしてまだつづく…
つづく