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風の終わる場所

十三

敵を信じる、というのもおかしな言葉ではあるが、この場合、そうしなければ、話が進まない。
武将とはいえ、その位に見合わず、孔明のそばにいるために、趙雲は、蜀の内情をよく知っていた。蜀は、ようやく国家としての基盤を整える準備が出来た段階であって、いま攻められたなら、ひとたまりもない。
魏が、曹丕が、父の位を継いでいるあいだは、大人しくしているというのであれば、それだけ力を蓄える帰還が増えるということだ。願ったり叶ったりではないか。
だが、相手は、妖怪じみた処世術を見せる中原の名家の主、そして、曹操の息子。かわした約定を、なんやかやと反故にする可能性とてある。
いや、どちらにしろ、彼らを逃がさないことで、蜀に有利になることは、なにひとつないのだ。
曹操への大切な人質ではあるが、果たして、本当に、曹操にとって、命取りになるほどの重要な人質かどうか。
曹操はどう考えるか。
あの苛烈な男の発想からして、あまたいる息子たちのなかの一人が、おのれの築いてきた事業を崩す真似をするのであれば、世間の非難もおそれず、容赦なく切り捨てるだろう。
その理由とて、息子より、国の大事を取ったのだといえば、儒の心に背くこともなく、たいがいの世人を納得させることができる。
本人にとっては酷な話だが、曹丕は、人質として、さほど有用ではない。
むしろ、曹操は、人質を取る、などという卑怯な手段をとる蜀を非難し、攻め入る理由を得て、堂々と進軍してくるだろう。理由が理由だけに、民心もこれに素直に従うにちがいない。
曹操が大軍を率いてきた場合、人質の意味がないのであれば、蜀にとっては、まさに災禍としかいいようがない事態となる。陳羣が指摘してきたとおり、蜀は、いま攻められたなら、籠城するのが精一杯の国力しかない。
つまり、彼らを無事に魏に戻すしか、蜀にとってよい方法がないのである。

だから、陳羣の申し出は、たとえ当てにならぬとはいえ、なにもしないよりは、マシなものであった。

趙雲は、目の前の必死の色を浮かべる陳羣や、曹丕の側近たちを見て、歯がゆく思う。
もしも、自分に、孔明のような才能があれば、捕らわれの曹丕をつかって、蜀に有利な状況をつくることができるかもしれない。
だが、趙雲には、事態の分析はできても、ではどうするかといった、打開策が浮かばないのだ。
ひとたび戦場に出れば、不思議と心が澄んで、体が自然と動き、兵卒たちに的確な指示をくだすことができたが、このように、人と人とのせめぎ合いには、弱い。
いや、弱いと思い、ずっと人に対する問題は、孔明に頼ってきた。そのツケを、いま払っているのではないか。それほどに、常に近くにあった。互いの境界線が曖昧になるほどに。

ふと、陳羣が、はっと息を呑み、怯えの色を浮かべた。
趙雲もまた、背後の異変に気づく。
遅れた。
振り返り、様子を確かめている暇はない。すばやく兵卒長より奪った剣を抜き、突然の雨のように降り注ぐ刃の群を弾き返す。
その一つが防ぎきれず、片側の頬を破った。
頬に冷たい感触がある。おそらく血が流れているのだろう。肌が熱を持っているために、血を冷たくおぼえるのだ。
狭い地下牢の廊下において、趙雲の繰り出す重く鋭い切っ先を、襲撃者はよく凌いだ。
体が柔らかい。
これで仕留めたと思っても、刃はむなしく宙を裂く。
このような手合いには、いらざる策は不用。
風のように流れるように、ただひたすら、相手を倒すことだけに専念する。小手先の技を使うことはしない。
若く勢いのある者は、誤魔化しの技なども、たやすく見破ってしまう。
かつての自分がそうだった。熟練した腕を持っていない代わりに、勢いと力でもって、達人と呼ばれる者たちを討ち取ってきた。
いまは、以前の、火の玉のような勢いや、青年の頃の腕力や瞬発力を失った変わりに、爪の先までも自在に動く、完璧に仕上げられたおのれの肉体と、数々の戦いによって研ぎ澄まされた五感と経験が武器である。
無駄な動きは一切なく、吸い込まれるように、相手の動きの先を読み、攻撃を繰り出すことができる。
負けるかもしれないという恐怖を抱くこともない。
はげしい動きの中にあり、趙雲の心は、鏡面のように静かであった。

ふと、趙雲の刃を避けようと、くるりと栗鼠のように跳ね上がった敵が、目測をあやまったのか、わずかに着地点でぶれた。その隙を逃さず、趙雲は、一撃を脳天めがけて打ち下ろす。
ほんの一瞬のことであったが、均衡を崩した敵が、ちいさく悲鳴をあげた。
女の声であった。
趙雲の切っ先に、迷いが生じた。
仕留めてはいけない。咄嗟に、心の中で制止をする声が挙がる。
勢いの弱くなった剣は、敵の額の紙一重のところで、ぴたりと止まった。
敵は、反撃してこなかった。
荒い呼吸だけが、狭い地下牢に響く。
魏の者たちは、だれも声をあげず、成り行きを見守っていた。
刃を寸前で食い止めた趙雲のこめかみのあたりから、汗が幾筋も流れた。
趙雲であるからこそ止められた一太刀であった。
並みの武人であれば、敵の女の、脳天を割られた遺体が、床に散らばっていたことだろう。
趙雲は、尻餅をつくような形で床に座り、己の額に突きつけられた刃越しに、まっすぐ真摯な目を向けてくる娘を見下ろした。
美しい娘であった。
顔立ちが、というだけではない。
目に媚びもなければ、気負った猛々しさもない。整えられた絹糸のような髪の下の顔の半分は、無残な火傷を負っていたが、それでもなお、娘の気品は損なわれていなかった。
「お強いのですね。噂どおりの御方でした」
と、肩ではげしく息をしながら、娘は笑みさえ浮かべて言った。
趙雲は、刃を額から離し、咽喉元に突きたてるようにして、尋ねた。
「何者だ? なぜ俺を試す?」
「試すかたちになってしまった無礼をお許しください。でも、どうしても、この身で、長坂の英雄の刃というものを受けてみたかったのです」
その言葉に、趙雲は眉をひそめた。
「命を粗末にするものだ。俺は、おまえが女でなければ、命を取っていた」
「お優しい将軍さま、それでは貴方様は、いつか女人で身を滅ぼしてしまわれますよ。貴方様は、わたしが女だから刃を止めたのではない。わたしの殺気のなさを感じ取ったので、刃を止めたのでしょう。
貴方様の優しさは、むやみやたらに振りまかれる類いのものではない。もしも、わたしが本気で貴方様を狙っていたなら、わたしは死んでいた。わたしが女であろうと、子供であったとしても、容赦なさらなかったでしょう」
「なぜそう思う」
「わたしは、これでも細作の長をつとめておりますもの。人を見る目には自信がございます。貴方様は、とても優しくて、とても残酷な、思ったとおりの方だった」
「なぜ俺を知る。偉度から聞いたのか」
つい、そんな言葉が出た。

荊州の『村』にいた子供たちに共通するのは、千里眼もかくやと思わせる観察眼である。
人の心の襞の、奥の奥まで看過するような、冷たく容赦ない眼差しを持っている。
過酷な生活のなかで、生き残るために身につけた眼力でもって語られる己の姿は、趙雲がもっとも耳にしたくないもののひとつであった。

趙雲が顔を曇らせたのを、娘は瞬時に悟ったか、それ以上の言葉を述べず、言った。
「わたしたちは、劉表が死したあと、各地にばらばらになってしまいましたが、それでも互いに兄弟であることに変わりはないのです。貴方様や、軍師将軍のことは、貴方様がたが大切にしてくださっている『兄弟』たちから、それとなく耳にはしておりました。ぜひ、一度、お手合わせをお願いしたいと思っていたので、無礼をはたらきましたこと、どうかお許し下さいませ。このままの姿勢で失礼させていただきますわ。わたしの名は芝蘭と」
「文偉を助けた、呉の細作だな」
呉、と聞いて、牢内の、陳羣をはじめとする曹丕の側近たちがどよめいた。
しかし、趙雲はそれにはかまわず、誰一人として剣戟の音に駆けつけてこない状況に、眉をひそめた。
「文偉のことは文偉のこと。同盟を組んでいるはずの呉の者が、なにゆえ無断で蜀の地に入り込んでいるのだ。そして、なにをした?」
芝蘭は、勘の良いところを見せ、にっ、と不敵に笑うと、無駄な口上は述べず、率直に答えた。
「李将軍の兵は蔵に閉じ込めてございます。抵抗した者は死んでしまったかもしれないけれど。わたしは貴方様のお味方です」
「李将軍は、われら蜀の将」
「知っております。しかし、彼の御仁は、華々しい手柄を狙うあまり、勝手に行動し、蜀を混乱に陥れようとしております。貴方様が長坂でお助けになった若君を退け、劉公子を旗頭にし、あのかわいそうな子供を傀儡にして、天下を狙おうとしているのですわ」
「李将軍は、たしかに功名を立てることに焦る男だ。だが、斯様な大掛かりな策は、あの男の頭からひねり出されたものとは思えぬ。呉の策謀ではなかろうな」
「呉は、今回に限っては、淑女のように大人しくしておりますのよ。ですから、わたくしたち影の者だけが動いているのです。わたしが立つことをお許しくださいませんか。ここは冷えるので」
堂々と言ってのける度胸のよさに感服し、趙雲は、切っ先を、急所に狙いを定めたまま、芝蘭を立ち上がらせた。
芝蘭は、目の前に刃などないかのように、服の裾の汚れを、悠然とはたいてみせる。
そして、趙雲の目をふたたび真っ直ぐに見据えると、言った。
「軍師将軍はご無事です」
「会ったのか!」
「わたしたちがお助けし、ともに行動されております。軍師は、貴方様がここにいることをご存知ではありませんが、知ればお喜びになるでしょう。
いま、村の外で、わたしたちが村に火を掛けるのを、わたしの仲間とともに待ってらっしゃいます。そこにいらっしゃる、魏の公子をお助けするためでございます」
「なんと?」
「先ほどのお話、わたしも耳にいたしました。陳長史さま、呉の細作のわたくしが証人となりましょう。公子がお父上の位を継がれたあとは、魏は蜀には攻め入らぬとお約束くださいませ」

ちらりと目を向ければ、芝蘭の申し出に、陳羣は顔をしかめて返事をしない。
細作という身分の低い者、しかも娘に、命令をされるような形になったのが気に食わないのか。それとも、別の理由からか。
もしも孔明がこの場にいたなら、
「命が助かるのだ。しかも敵国たる蜀と呉が、手を組んで助けてくれるのだぞ。もっと喜ぶといい」
とかなんとか言ったことであろう。
無事だ、ということに、趙雲は心から安堵した。そして、無性にその姿を見たくなった。
孔明が攫われてから今に至るまで、眠る間もなく、ずっと安否を気遣ってきたのだ。たしかに無事だという姿を見たい。

「公子らを助け、李将軍や劉副軍中郎将はどうすると?」
「そこが困っておりますの。じつは、わたしたちは、この村に占拠しているのは、そちらにいらっしゃる公子を亡き者にせんと雇われた、馬光年こそが真の敵だと思っていたのですもの。
さらに裏に、李将軍や劉副軍中郎将がいるとなると、話はちがって参りますわ。軍師のご指示は、公子をお助けせよ、と、それだけでしたので」
「馬光年は、もとより我らの雇った者ではない」
と、それまで長らく沈黙を守っていた曹丕が、牢の入り口に身を寄せて、口を挟んできた。
「馬光年こそが、この策をわれらに献上してきた男なのだ」
「そして、美味い話に引っかかったと? 馬光年が何者か見極めもせず、のこのこと、こんな山奥までやってきたというのか」
趙雲の言葉に、曹丕はきつく睨みつけてきた。
しかし牢の格子越しなので、恐ろしさはまったくなく、むしろ滑稽に見えた。
呆れると同時に、曹丕の立場が、それほどまで切迫したものだと知れて、さすがに趙雲も同情をおぼえた。
「馬光年の正体を論じている場合ではない。証人も出来たのだ。われらは嘘をつかぬ。早くここから出してくれ」
と、言葉をすすめたのが陳羣である。
正論だと思った趙雲が、鍵を壊そうと錠前に近づくと、芝蘭が、前に進み出て、懐から鍵束を取り出した。
「なかなかに使える小娘ではないか。醜い顔をしておるが、気に入ったぞ」
曹丕の遠慮のない言葉に、芝蘭は笑顔を浮かべて、言った。
「ありがたいお言葉ですわ。普通は、そう言うものでしょうにね」
「どういう意味だ?」
「いいえ。蜀の人間は、妙に優しすぎると」
謎めいた言葉を口にする芝蘭に、曹丕は怪訝そうに首をかしげた。



法螺貝の音が闇夜をくぐるように響き渡り、兵卒たちの怠惰な空気を払うように、どん、どんと重々しく太鼓が打ち鳴らされる。
偉度は舌打ちし、舞を止めた。
兵卒たちが、その瞬間におのれの本分に立ち戻り、それぞれ配置に戻るべく動き出したからだ。
しかし、屈強な兵卒長や、腕の立ちそうな者たちは、みな、偉度が特に狙って薬を盛っていたから、酩酊状態となって、動くこともままならないでいる。

何者がやってきたのか。魏の援軍? まさか?

そうして、村の入り口に煌々と焚かれた篝火に映える旗を見て、愕然とする。
そこには、はっきりと『劉』の字があった。
もちろん、劉姓の魏の人間は多いが、錦をふだんに使ったその旗には、見覚えがあった。成都を攻略する際にも使っていた、劉備の養子、劉副軍中郎将…劉封のものである。
そこでうろたえて、動きを止める偉度ではない。孔明に付き従い、そのやり方を覚えているために、身の処し方も早かった。
兵卒たちが、自分たちのことでバタバタしている隙を縫うようにして、闇夜を頼りに物陰に潜み、身動きの制限される女物の衣を脱ぎ落す。
そして、物陰より、物々しくやってきた一軍の様子を伺った。

村の広場には、酩酊した兵卒たちが、いまだ転がっており、わけのわからぬことを口にしながら、水母のようにふにゃふにゃと蠢いている。
それを見て、先頭の馬に乗る甲冑の男が怒鳴った。
「なんという有様ぞ! まだ事を完全に為しておらぬというに、もう気を弛ませたか! そなたたちには全員鞭打ちの刑を与える。引き立てよ!」
叫ぶ男が、兵卒らに指示を出すため、馬を降りた。
そして、背丈以上の高さに積まれた篝火の下に移動する。
そして、偉度は、男の顔をはっきりと見た。
端整な顔に、見事に手入れをされた美しい髯をもつ男。
李将軍…李巌、字は正方。何度も主を変えて、いまは劉備のもとで落ち着いている変節漢だ。
驚きもあった。しかし、偉度は、李巌が、華やかな名声とはうらはらに、内実のない将だということを知っていたので、どこかで、やはり、と思うところもあった。
劉封と李巌。ともに劉備に嫌われ、中央から遠ざけられている者たちである。利害が一致する者同士で、ことの裏を引いていたというのか。

偉度はふたたび舌打ちをした。
事、ここに至るまで、李巌の動きに気を止めず、『兄弟』を多く付けていなかった自分の判断の甘さに腹が立ったのだ。
李巌が、表面はへりくだりながらも、孔明をよく思っていないことは、知っていたというのに、劉備のことがあるから、中央に返り咲く日は遠かろうと読み、存在を重く見ていなかった。
甘かった。
李巌を口ばかりの小心者だと小さくみていた。これほど大胆に動くことができる男だったのか。
ほかならぬ父である劉備から不興を買っているとはいえ、仮にも公子と呼ばれる劉封と組む。
荊州人士のなかで、もともと龐統派だった者たちが、李巌の動きに呼応したら厄介である。
いや、それどころではない。すでに厄介は目の前で起こっているではないか。
李巌が裏で手を引いて、魏と結び、孔明を誘拐させたのか。
劉禅ではなく、劉括という、劉備の実子と思われる少年を跡継ぎにし、魏の築くあたらしい王朝の中心に食い込もうとしているのか。

偉度は、物陰に隠れたまま、趙雲の気配を探った。
軍師を助け出すことはできたのか。
全神経をかたむけて、ざわざわと山間をわたる風のなかに趙雲らの動きを探ろうとするも、なにもわからない。
李巌たちが到着したことで、兵卒たちに、緊張感が戻りつつある。
あたりの空気が張りつめていくのと同時に、偉度には、己の身の上に、見えない蓋が押し付けられたような錯覚をおぼえる。
村から出るのが困難になるとまずい。そろそろ、女がいないと、兵卒たちが騒ぎ出す頃である。
仕方なかったとはいえ、趙雲と別行動をとったのは間違いだった。
単身で村を出るか? 
李巌は、孔明が邪魔なのだ。となれば、劉備と孔明に近すぎる趙雲も、目障りであるはずだ。
村を出て、助けを呼ぶ? だれに?
広漢を抜けるまでは、助けなど誰にも期待できない。
成都にまで取って返しているうちに、取り返しの付かない事態になることもありえる。

これまで、多くの敵を前にしても、偉度は、仕える主人とその主騎が、死んでしまうかもしれないなどと、考えたことはなかった。
たとえ自分が死んだとしても、あの二人は生き残るであろうし、そのために己の命を危険に晒すことも、厭わなかった。
相手が曹操というのであればわかる。孫権であるというのならわかる。いささか落ちるが、法正であっても理解できよう。
だが、李巌。
あの男が中心となって動いている、このいままで低く見なしていた者たちによって、孔明が死ぬようなことがあるのか。
信じられない。有り得ない。
だが、信じられない、と思うからこそ、偉度の恐怖は増していった。
落ち着かねば。落ち着くのだ。無駄死にだけは、してはならない。
まずは、村を出て、従兄のもとへ向かった文偉と落ち合わねば。
いま、この陰謀の全体を知るのは、李巌たち以外では、自分だけなのだ。
自分はここに留まるとして、文偉を成都に戻し、援軍を待つ。
それしかあるまい。

そうして、動こうと膝を立てたとたん、偉度の目に、有り得ないものが飛び込んできた。
見たことのない顔の男たちが、李巌たちに駆け寄ってきた。粗末で地味な身なりをしているが、ただの商人とは思えぬ、逞しい体つきをしており、どれもみな、眼光が鋭い。
屈強な男たちが近づいてくると、泥酔している兵卒たちを叱り続けていた李巌の顔が、また更に歪んだ。
「御辺ら、いままでどこで、何をしていた! 出迎えが遅かろう!」
「申し訳ございませぬ。ネズミを捕まえましたゆえ、尋問をしていたところでございます」
と、いちばん眼光の鋭い男が言うと、男の部下たちが、なにやら肩にかついでやってくる。
篝火のもとで見れば、それは痛めつけられ、あちこち傷だらけになった、文偉の姿であった。
「この者は? はて、どこで見たことがある」
「わたしも見た。そいつは、費家の嫡男だ。董幼宰が面倒を見ている男で、左将軍府によく出入りをしている」
「左将軍府か」
と、李巌は眉根をしかめ、ズタ袋のように、地面に乱暴に落とされた文偉を見る。
文偉は、後ろ手で縛られたまま、怪我の痛みのためか、わずかに身じろぎをしている。

文偉がなぜ、ここにいるのか。費観のもとへ行ったのではなかったか。
追及をしている場合ではないが、偉度ははげしい苛立ちをおぼえて、文偉と、その周囲の男たちを睥睨した。
あれだけ危険から遠ざけさせようとしたのに、結局捕らわれてしまった文偉の愚かさに腹が立ったし、あきらかに細作などではなく、武芸もろくにたしなまない文官の文偉を、容赦なく痛めつけた彼らの行いにも、腹が立った。
孔明がどこに捕らわれているかわからない。趙雲がどこに行ったかもわからない。しかも助けなければならない人間がひとり増えた。
文偉の愚か者め。成都に帰ったなら、酒を奢る程度では許さぬぞ。

そうして、彼らのただ中へ飛び込む覚悟で、茂みから、偉度が起き上がろうとしたそのとき、地面に芋虫のように転がされていた文偉が、ごうごうと鳴る風にも負けぬ大声で、叫んだ。
「この忘恩の徒め! いまに天罰が下ろうぞ!」
「元気があるようだな。歯にひびく。馬光年、黙らせてくれ。あばら骨でも折れば静かになろう」
と、劉封が、腫れあがった頬をさすりつつ命じると、眼光鋭い男、馬光年は、わめく文偉に近づいていく。
しかし、文偉は怯えて口を閉ざすことはせず、さらに叫んだ。
「義の心を知らぬ男よ! 主公のご信頼を一身にあつめる軍師を、魚でも釣るかのように餌にするとは、許されぬ行いぞ。軍師に刃向かうは、主公に刃向かうのと同じ! たとえおまえたちの悪事が成就しようと、義のない行いは、いずれは天下のそしりを受けようぞ!」
「くだらぬ」
劉封は、文偉のことばを五月蠅そうに聞き流すと、早くしろというふうに、馬光年に指示をだす。
「くだらぬものか! 公子と世人に尊ばれながら、この所業、高祖の血を受け継いだ者の行いとはとても思われぬ! 本来であれば共に手を携えるべき相手を、死に追いやろうと考えるなど、正気ではない!」
「ええい、五月蠅い奴だ!」
馬光年が文偉を起き上がらせようとするのを止めて、劉封は近づくと、手にしていた馬の鞭で、びしりと文偉を打ち据えた。
肉を断たんばかりのはげしい音は、すこし離れた場所にいる偉度のもとにも、はっきり聞こえた。
文偉は、鞭の痛みに悲鳴をあげたが、やがて気丈にも、ふたたび顔を上げて、劉封をきびしく睨みつける。
もう止めろ。
そう念じつつ、偉度は懐剣を構え、文偉を救うべく、立ち上がった。
が、文偉は口を閉ざさず、口元に冷たい笑みさえ浮かべ、言った。
「貴方様の捕らえた魏の公子も、このような目に遭っておられるのか? 曹操への人質として、大切な盾になろうにな!」
なんだと?
文偉の言葉に、飛び出そうとした偉度の足は止まった。
李巌は、魏と結んだのではないのか。魏の公子を、孔明を餌に蜀におびき寄せ、捕らえて人質にすることが、この策の本当の姿だったのか?
「だまれ、下郎!」
いきりたつ劉封に、文偉はなおも言った。
「人質たる魏の公子を解放する条件は…主公のご落胤である劉括という少年に、帝の位を継がせること。そして、貴方様は、帝の兄となって、天下を握ろうと考えていらっしゃる!」
「黙れというに!」

文偉の言葉に、偉度は愕然とした。
愚かしい。あまりに愚かしい。
たとえ実の子を人質に取られたところで、曹操という冷厳な男が、いままで築いていたものを、あっさり手放すはずがない。
李巌は、まるで現実を見ていない。そもそもの目的に無理がある。曹操を完全に読み違えている。
呆れると同時に、偉度は、李巌たちを気の毒にすら思った。
あまりに世の動きに疎い、田舎じみた発想である。大胆であるがゆえに、策はほぼ為ってしまったが、通用したのは、ここまでが限度だろう。
曹操と交渉する以前に、劉備がそのようなことを許すまい。劉備のことすらも、彼らは読み違えているのだ。

「哀れなことでございますな! せっかく懸命に考えられた策でございましょうに、お父上は貴方様をお許しにはならぬ! 天下の人々すべてが、貴方様を見限ることでしょう。わたしをここで亡き者になさるおつもりならば、それもまた僥倖というもの。世にも哀れな三文芝居の結末を、この目で見ないで済むのですから!」
「黙れというのだ!」
劉封は、いきり立って、文偉をふたたび鞭で打ち据えた。びしり、びしりと肉を強く打つ音が響く。
両手を拘束されているために、身を庇うことすらできない文偉は、鞭で打たれるたびに悲愴な声をあげた。
それでもなお、泣き喚いたり、哀願したりすることはなかった。
文偉は、地に伏したまま、気を失うことなく、言った。
「たとえ、わたしがここで死んだとしても、このことを聞いた者たちが、仇をきっと討つでしょう。やはり、貴方様は滅びるのです」
「まだ言うか!」
劉封は、すべての力を籠めて、ふたたび大きく文偉を鞭打った。

『このことを聞いた者たちが』。
文偉の莫迦。
あいつ、この闇のなかに、わたしや趙将軍が潜んでいることに賭けて、あのように大声で喚いているのか。
弱い癖に、変なところで強いところを見せるな!
胸の内で思い切り罵ると、偉度は、今度こそ文偉を助けるべく、茂みから飛び出して行った。
多勢に無勢。二人して、こんな田舎で骸をさらすことになるかもしれないが、それはそれで…文偉の言葉ではないが、僥倖かもしれない。
風を切りながら、思わず偉度は笑った。
この自分が、己のためでもなく、忠を尽くすためでもなく、友のために死のうとしている。
あの人が見たら、きっとひっくり返るだろう。
その様を見られないのが残念だ。

思いもかけず頑張りを見せる文偉、牢から解放された曹丕らを巻き込み、
いよいよ結末間近でございます。次回をお楽しみに(^^ゞ
つづく

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