12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
十二
趙雲は、閑散とした印象のある村を見回す。
廃墟というには真新しく、かといって、生活の痕はあるのに、人影がない。
兵卒が、要所要所に配置されている気配はある。篝火が、夜に主張してところどころに置かれているが、村全体を照らすとまではいかない。
聞こえるのは、風のごうごうとしたうなり声と、偉度を中心に巻き起こる、拍手と、勘に触る笑い声だけである。
孔明を探すのは、わけはなかろうと、趙雲は思っていた。
もし、自分がこの村の大将で、大物を捕らえたなら、どうするか。
普通であれば、単純な話である。
牢につなぎ、選りすぐった兵卒を幾人も集中して配置し、守らせるのだ。つまり、人を多くつけて、守りを固めるのである。
が、趙雲は、あえて人の多いところは避けて闇を進んだ。
魏は、じつに多くの細作を蜀に潜入させている。
国力としては、蜀は魏にはまったく敵わない。
だが、曹操にとって、劉備は一寸の土地もないところから、一気に数年で一大勢力に伸し上がった。蜀、いや、劉備というのは、曹操にとっては、予測不能な存在であり、いつまでも取れることのない胸の痞えなのである。
呉の孫権とはちがい、曹操にとって、また、曹操の古参の側近にとっても、劉備たちは古馴染みと言ってもよい。
それだけに、かえって動きが気になるのだろう。
趙雲は、孔明の主騎という立場上、これまで、なんども曹操の差し向けた細作を捕らえ、あるいは斬ってきた。
魏が、文官の頂点である法正よりも、劉備の直属で雑用係の印象のある左将軍府事で軍師将軍、という、役職においては微妙に見える孔明のまわりに、多く細作を配しているのは、一見すれば奇妙ではあるが、妥当でもある。
孔明は、情報を扱うのに長けている。
情報は、ふしぎと仲間を呼び集める性質を持つから、情報を多く持つ人間のもとにこそ、さらに多くの情報が、そして、情報を持つ、雑多な人間が集ってくる。
おそらく、尚書令たる法正よりも、孔明のほうが、蜀の内情について、正しい状況を把握している。
法正の欠点は、己と相容れない者を厳しく拒むことである。
だから、たとえ有能であっても(容赦がない、ためらいがない、法正は非情な政治家である。だが、それがかえって、混乱した情勢のなかでは、有利に働いているのだ)人に対して狭いために、偏った情報しか集らず、その動きはどこかいびつである。
一方の、孔明は有能であるが、法正よりずっと人好きである。
態度は厳しいけれど、世を眺める目線は優しい。法正の原動力が、長年の不遇のなかで培われてきた恨みだとすると、孔明を動かしているのは、自分を生かしてくれた世界に対する感謝の念である。
誰かがやらねばならないという、悲愴な切迫感がないから、孔明の為すことはいつも自然に見える。意志の中心にあるものが透明で清らかなので、不思議とだれをも惹きつける。だから多くの情報を集めることが出来るのだ。
孔明が、若くして名と地位を為したのは、才能に拠るのではない、人格に拠るものなのだ。
結局、人間は、頭の良し悪しではなく、その人格によって、運命が決まるのである。
だが、政を運用するにあたり、蜀において、地盤のもたない孔明より、地元の法正のほうが、万事につけ都合がいい。
本来ならば、孔明を中心に据えたいところを、劉備が法正を頭にしているのは、老獪な判断があってこそなのである。劉備もまた、ただの義人というわけではない。
おそらく、魏は、孔明という人間を、よく把握している。
孔明の最大の武器は、ありとあらゆる場において、もっとも効果的な言葉を選び、つむぐ、その舌である。
孔明の言葉は、人が多ければ多いほどに、その真価を発揮する。
そうして、いままでも、幾多の危機を乗り越えてきたのだ。
だから、魏は、孔明の周囲に、逆に人を配置させていないはずだ。
それに彼らは、敵地の中にいるのである。孔明を捕らえているということがばれないように、わざとひと目につかないよう、兵を少なく配置しているのではないか。
低姿勢で、村の家から家の間を抜けるようにして、兵卒の動きを気にしながら行くと、風の音、そして虫の声に紛れて、甲高くも涼やかな、鈴の音が聞こえた。
趙雲は、兵卒の鎧の音か、あるいはその飾りが揺れているのではと思ったが、そうではない。
鈴である。
だれかが手遊びに鈴を風に揺らしているのであった。
足を止めて、慎重に周囲を見渡す。もし兵卒のだれかが遊んでそんな音を立てているというのであれば、村に配置されている兵の士気は、相当に落ちているということだ。もしも趙雲の部隊の兵卒が、任務中に遊んでいるのを見たとしたら、平手打ちどころではすませない。
すべてが終わってしまっているのではないのか。
胸の奥から、不吉な声が何度も響くが、そのたびに趙雲は打ち消した。
そんなことはない。そんなことが、あるはずがない。
兵卒たちが、これほどに弛みきっているのも、なにかほかに理由があるのだ。きっとそうだ。
最悪の場合を考えるのは、あとにしよう。いまは最善のことをするだけだ。そのために、偉度も動いているのだから。
趙雲は、呼吸を整えると、ふたたび闇の中を進もうとしたが、ふたたび鈴の音が響いた。
同時に、小さな、ぱたぱたと地を駆ける足音がする。
足音が軽い。子供、あるいは女か?
女がいるのだろうか。それとも、村の子どもか?
趙雲は慎重に物陰から、音のした方角を見た。
すると、子供が風に衣をはためかせ、篝火の下を走っている。
篝火のそばには、兵卒がいるのだが、眠っているのか、何度も舟を漕いでおり、子供には頓着しない。
子供は、舟の帆のように、風を受けてふくらむ袖の動きを楽しんでいる様子で、背格好のわりには、幼い笑い声をたてて走っている。
履物はなにも履いておらず、裸足であった。
それが動くたびに、腰帯につけた鈴が、ちりん、ちりんと音をたてて揺れているのだ。
子供は、しばらく風の力を楽しんだあと、足を止めて、なにかを見つけたのか、望楼をもつ大きな屋敷の門の前で足を止めた。
月明かりに浮かび上がる望楼は不気味に高く、おそらく外敵から村を守るために建てられたのであろう。最上階の楼閣に、人影が浮かび上がっているのが見えた。
門衛はさすがに眠ってはおらず、子供が外から屋敷を覗き込もうとすると、あっちへいけ、と言いながら、手にした槍の、穂先とは反対側で、小突こうとする。
しかし、それを、反対側に立っていた仲間の門衛が制した。
「この御方には、無礼はするな」
その言葉を聞いて、趙雲は理解した。
あの子供が、劉括なのだ。
阿斗よりわずかばかり年長のはずなのに、あの幼児のような振舞いはなんだろう。天真爛漫というのを通り抜けて、なにやら違和感をおぼえる。
子供は、門衛たちを交互に見て、それから、自らを通せんぼする槍を無邪気にくぐり、するりと中へと入ってしまう。
すると、門衛たちは、あわてて子供を追いかけて行った。
門の前はがら空きとなった。
趙雲は、すばやく屋敷の中に身を滑り込ませると、物陰に隠れて、様子を伺った。
門の外からは、塀に隠れて見えなかったが、あちこちに兵卒が隠されている。
敷地内は広く、仙人は無理としても、百人は優に回収できそうな広さだ。
村の広場でドンちゃん騒ぎをしている者たちとは反対に、中にいる兵卒たちは、ひと目で面構えから、鍛え抜かれた体の線など、すべてがちがっていた。
ここに孔明がいるのか。
そうではないにしても、ここには何者かがいるのはまちがいない。
趙雲は、前にも増して慎重に足音を殺し、特に兵卒の配置されている望楼へと進んだ。
趙雲より先に中に入った子供は、追いかけっこをして遊んでもらっているとでも思っているのか、はしゃいだ声を立てながら、望楼へと進んでいく。
すばしこいのか、無体ができないと遠慮しているのか、兵卒たちは、子供を捕まえられないでいる。
子供は、声を立てながら、兵卒の腕を蝶のようにすり抜ける。業を煮やしたのか、望楼の前の兵卒長らしい、恰幅のよい男が叫んだ。
「おい、遊ぶのもいい加減にしろ! おまえたち、手伝ってやれ!」
兵卒長の声に、望楼を守っている兵卒たちも、子供を捕まえるために持ち場を離れた。
趙雲は、この隙を逃さず、開け放たれた望楼の中へと侵入する。そして、目の前で、ちょうど背中を向けている形になっている兵卒長を、背後より羽交い絞めにし、声も立てられぬうちに気絶をさせてしまうと、物陰に身体を引きずり込んで、そのまとう鎧を奪った。
表で子供が兵卒たちを引っ掻き回しているあいだ、趙雲は、兵卒長の鎧に身を纏い、兜で顔を隠すと、今度は堂々と望楼の中を進んだ。
上か、それとも下か。
あまりうろうろしていては怪しまれる。
何気ないふりをして階段を上がっていくと、ちょうど前方より、さきほど月に影だけを浮かばせていた兵卒らが、子供に振り回されている仲間の姿を笑って、声をかけた。
「おいおい、野兎より大きなものを捕まえることもできないのか。回り込め!」
そういって囃し立てる兵卒を、同じく楼閣に立っている仲間が聞きとがめる。
「あまり煽るな。子供とはいえ、主公の御子なのだぞ。やがては、この地を治めることになるかもしれない。いま、俺たちが粗相をして、あとあと恨まれたりしたら面倒ではないか」
「ふん、どう面倒だというのだ。あの子供は、一晩眠ってしまえば、なにも覚えてはおらぬ。恐らく、何故自分がここにいるのかも知らないはずだぞ。
俺は知っている。故郷にも、ああいう知恵の遅れた者がいたのだ。年月が経てば治るというものではない。あれは一生そのままなのだ。だから、俺たちが多少乱暴を働いたところで、なにも判りはしないし、恨みなんかするはずもないのさ」
「だが、俺たちより高位にある御方なのにはまちがいない。問題があったら、ただでは済まぬ。俺も、煽ったおまえも、この望楼の地下牢に閉じ込められている連中のように、首を刎ねられてしまうぞ」
「それこそたいした出世ではないか。恐れ多くも、魏の公子さまと一緒に首を刎ねられるのだからな」
「そんな強がりを言うやつにかぎって、その場になれば、大騒ぎをして命乞いをするに決まっている」
趙雲は、咄嗟に頭が働かなかった。
この兵卒たちは、何者なのか?
いま、捕らわれているのが、魏の公子だと言わなかったか。
孔明ではないのか。魏の公子とは?
趙雲は、混乱したまま、すぐに階段を降り、地下牢へつづく階段へと向かって行った。
ちょうどそのとき、望楼の最上階にて、見張りをしていた兵卒が、法螺貝を吹き、つづけて叫んだ。
「ご一行が到着されたぞ! 劉公子のご到着!」
ばかな。
おもわず趙雲はつぶやき、あわてて周囲を探った。
さいわいにも、子供の騒ぎに加えて、あらたな一行が到着、というので、望楼のなかはざわついている。
趙雲の言葉は聞きとがめられることなく、そのまま、ばたばたと兵卒たちが動き出した。
ふと見れば、開け放たれた望楼の入り口から、武装していない、あきらかに料理人とわかる者たちが、駆け足で入ってくる。
兵卒が行く手を阻むと、料理人は頭をさげて応えた。
「ご一行のためのお酒が足りませぬ。どうやら、勝手に宴を開いていた連中が、用意していた酒をくすねて飲んでしまったようでして、こちらの蔵のものを使わせてくださいませ」
趙雲は、さりげないふうを装って、料理人に近づいていくと、声も高らかに、尋ねた。
「使わせてやってもよいが、そなたたち、せっかくの客をもてなす準備は出来ているのであろうな。ご一行のお好みは判っているだろうな。言ってみろ!」
「それはもちろん。ただ、劉公子は頬を打ったとかで、お粥のほか、痛みを忘れるための熱い酒を御所望しておられます。李将軍につきましては、さきほど宴を開いてきたので、自分も公子同様、粥だけでよいと。あのお方は荊州の酒しか好まれませぬゆえ、これは、わたくしどもの貯蔵していたものをお出しします。李将軍のお供の方々は、酒なら、なんでもよいと」
「わかった。持っていくがいい。おい、おまえたち、手伝ってやれ」
趙雲の指図があまりに自然であったためか、兵卒たちは、兵卒長とはいっても、いつもとちがう顔だということに関しては、深く考えず、料理人たちと共に、蔵を開けに向かった。
趙雲は小さく息をつき、兜の隙間から流れてくる汗を、さりげないふうを装って、拭った。
汗を掻いているのは、緊張しているためばかりではない。
混乱していたのだ。
村に捉えられているのが魏の公子だという。そして、ここにいる兵卒たちは、蜀の兵。現われたのは劉封と李巌。そして劉備の子だという劉括。
どうなっている? 孔明はどこへ?
そもそも、孔明の拉致は魏の仕業ではない?
劉封と李巌の仕業であったのか?
魏の公子を捕らえたというのであれば、これは蜀にとって大功。
李巌はいま、劉備にきらわれ、地方へ飛ばされている形となっている。
荊州時代には、華やかな評価に飾られていた男だ。このままではないであろうとは思っていたが、自ら浮かび上がるために、魏の公子を罠にかけ、こんな山奥にまで呼びつけ、捕らえたというのか。
大胆きわまりないが、もしそれが成功したとして、では孔明はなんのために利用されたのか。
決まっている。
魏の公子とやらを誘い込むための最上の餌として利用されたのだ。
趙雲は、地下牢への階段を探し、降りて行った。
地下牢は長いあいだ使われていなかったのか、饐えたにおいと黴のにおいが混ざり合っていた。
趙雲がいままで見てきた兵卒たちとは、あきらかに質のちがう屈強な男たちが、すぐさま寄ってくる。
「劉公子のご一行がご到着された。みなはおもてなしのために外へ出ている。おまえたち、代わりに表を見張ってくれ。牢の見張りは、俺が代わりに行う」
判り申した、と拱手をし、兵卒たちは規則正しく足音をたてて上がっていく。
趙雲は、彼らが行ってしまうと、牢の中にいる者の顔を確かめた。
もともと、村の人口はすくなく、牢の用途もほとんどなかったはずである。
だから、望楼の地下につくられた牢は、ひどく狭かった。
その狭い中に、魏の公子とその家臣たちは、芋詰めにされており、立ったままの者もいる。
しかし、さすがとでも言おうか、彼らは騒いだり、嘆き哀しんだりする様子も見せず、静粛したまま、牢の中にいた。
趙雲は、あまたいる男たちのなかで、守られるように牢の中心にいる、背の低い若者を認めた。
身に纏っているものは粗末ではあるが、腕を組み、胡坐をくんで、じっと瞑目しているさまは、はるか以前に見た曹操の顔、そっくりであった。
「魏の公子とお見受けする」
趙雲が声をかけると、若者の周囲にいた者たちが腰を浮かせて、趙雲のもとまでやって来た。
「下郎! わが君を愚弄しに参ったか! 下がれ!」
「愚弄するつもりはない。我が名は趙子龍。翊軍将軍を拝領しておる」
「趙子龍? 諸葛亮の主騎か」
と、はじめて魏の公子が口を開いた。
「左様。御名をお聞かせいただきたい」
「我は曹孟徳が長子、曹子桓なる」
曹操の跡継ぎ。
またずいぶんと大物がかかったものだ。
そして、なんと迂闊、なんと軽はずみなことだろう。
思わず、曹丕を守るようにして周囲にいる者たちを見回す。
彼らもまた、趙雲に憎悪のこもった視線を投げていた。
曹丕が腕を組んだまま、まっすぐ趙雲を見て言う。
「そなたの名は聞き及んでおる。劉備の股肱の臣にして、諸葛亮の主騎、父上が、かねてよりわが人材に加えたいとおっしゃっていた男だ。
それがどうした。斯様なところで顔を合わせるということは、そなたまで、本来の主を見捨て、くだらぬ策謀に乗ったのか」
「誤解があるようだが、それがしがここに来たのは、成都より拉致された軍師将軍、諸葛孔明を助けるため。貴殿らはその行方を知っているはず。どこへ行ったのか」
「知らぬ。趙子龍、そなたがどこまでこの策謀をつかんでいるかは知らぬが、蜀の者は、ずいぶんとくだらぬ真似をするではないか。仲間を敵に売るフリをして、われらをうまうまと陣地に引き寄せ、そして絡めとる。まさか、これは諸葛亮の知恵ではなかろうな」
「天下のそしりを受けるような陰謀は、われらが軍師の得意とするところではない。我が問いに答えよ」
「そなたの評判は、我が耳にも届いておる。翊軍将軍とは、またずいぶん下位に留まっているではないか。蜀にいては、貴殿、芽は出ぬぞ。ここからわたしを出してくれるというのならば、魏において、最高位の将軍職を約束しようぞ。どうだ」
「取引をする相手を選ぶことだな。評判が届いているというのならば、俺がそのような誘いには乗らぬと、知っているだろう」
曹操の若い頃というのは知らないが、もしかしたら、こんなふうであったのかもしれない。
このように湿った狭い牢の中にあっても、己を失わず、堂々と敵を口説いてみせる。
大胆不敵な自信家であればこそ、荒唐無稽ともいえる罠に引っかかってしまったのか。
つまり、敵は、曹丕の性格すら見抜いて罠を張った、ということか?
趙雲がきっぱりと誘いを跳ね除けると、曹丕は声を立てて笑った。
「左様か。しかし趙子龍よ、あいにくと、諸葛孔明の行方は、わたしも知らぬ。この陰謀をくわだてたヤツは、なかなかに天晴れであるぞ。天下の智者を向こうに回し、すっかり騙して見せたのだからな。
諸葛孔明というのは、思ったよりずっと妬まれているらしい。これは、わたしを捕らえて人質にする策であると同時に、諸葛孔明を、この混乱によって、亡きものにする策謀であったのだ」
「劉括という、主公の御子を名乗る少年を見た。貴殿らは、魏王が今上帝の後継として、同じ劉姓の劉括に譲ってもよいと言っている。そうすれば、争わずして魏と蜀は、ふたたび漢の名の元にひとつとなる。
そのかわり、子供の母の仇である諸葛孔明は処刑するのが条件だと申し入れた。ちがうか」
「ふん、間違っておらぬ。だが、諸葛孔明の才は殺すに惜しい。われらは、もとより殺すつもりなどなかった。劉括の後見人とかいう馬光年は、是非に殺さねば気が済まぬと言い張ったが、とるにたらぬ、汚れ仕事を生業にした男の言うことなど、どうでもよいわ」
「それこそ、くだらぬ」
趙雲は、腹の底からそう言った。
「おおかた、軍師に処刑をちらつかせて脅し、命乞いをはじめたところで、恩着せがましく救ってみせて、魏に連れて行くつもりであったのだろう。貴殿らの細作は、諸葛孔明が、呆れるほどにねばり強く、抵抗を続ける男だということを報告していなかったのか」
「あいにくと、われらが放った細作は、どこぞの翊軍将軍にすべて斬られてしまったからな」
「それはすまなかったな。軍師はどこへ行ったのか、しらぬか」
「さて、知らぬ。わたしが襲われているのを無視して、一人で山に逃げた薄情者など、知るわけがない」
「ならばよい」
山に一人で逃げた。
ならば、村に向かう途中の山道のどこか向こう側に、孔明がいたのかもしれない。
趙雲の耳には、あらたに、四方から聞こえてきた、山犬の吼え声が響いていた。それなりに護身術を身につけているとはいえ、武器も取り上げられていたであろう状況で、獰猛な山犬に遭遇したら、ただではすまない。
冬も近く、山野に食べ物を探して、うろついている獣は多いはずだ。
それだけではない。山が冷えてきた。無事に夜を越すことなどできるのか。
凍死の危険もないわけではない。
急がねば。
危険を冒して兵卒たちの気を引いている偉度に、このことを教えてやらねばならぬ。
趙雲が去ろうとすると、座っていた者のうちの一人が、すばやく立って、近づいてきた。
「待たれよ。決して悪いようにはせぬ。我らを救ってはくれぬか」
「貴殿は?」
「おお、ご無礼を許されよ。我が名は陳長文」
「御史中丞、陳長文殿か。お初にお目にかかる」
牢越しに、互いに拱手しつつ、趙雲は、自分よりわずかに年上の陳長文…陳羣を見た。
肌艶がよく、若々しく見える。やつれてはいるものの、度は失っていない。
以前に劉備に仕えていたが、義にこだわるあまり、陳羣にとってはまだるっこしい手段しかとれぬ主君に業を煮やし、主を曹操に鞍替えした男だ。
もともと、劉備の人物に惚れて従ったのではない。状況に応じて、そうせざるを得なかった。
曹操のもとでは、名族の長という背景も手伝って、順当に出世を重ねている。
自分とは違う道を歩いている男。
同じ文官である孔明とも、またちがう価値観を持って人生を歩いている男だ。
反発がないといったら嘘になるが、牢の向こうで縋る様子は、哀れに見えた。
「くりかえしとなるが、頼む、我らを救って欲しい。悪いようにはせぬ」
「いずれにせよ見返りなど求めぬが、しかし貴殿らは、わが敵という事実には変わらぬ。ここで朽ち果てるか、あるいはどこぞへ引き回されることとなろうと、それは、このような旨すぎる話に乗った、貴殿らの落ち度であろう。俺には関係のないことだ」
「そこを曲げてお願いいたす。我らが戻らねば、魏は、ふたたび魏王の跡を狙った争いが起こる。なんとしても、公子にはお帰りいただかねばならぬのだ」
「その混乱こそ、わが国にとっては好機。やはり、俺が助けねばならぬ理由はないな」
「混乱は、貴国には好機やもしれぬ。だが、この国とて、荊州との連携をとるのが精一杯で、とてもわが国を攻める余裕もないはず。諸葛亮は、天下を三つに分け、蜀と荊州を足がかりに天下をうかがおうとしている。
だが、その事業は、劉左将軍の代にて成し遂げられるものだとは、思っておらぬはずだぞ」
「たしかにそうだ」
趙雲が足を止め、ふたたび完全に向き直ったのに意を強くしたのか、陳羣はつづけた。
「蜀はいま、国力を蓄えている状態で、とても他国へ侵攻できる兵力は持っておらぬ。そこで、魏の混乱につけ入り、呉が攻めて来た場合、どうなると思う。漁夫の利を狙うつもりか?
いや、それこそ蜀の滅亡を早めるだけであろう。万が一、呉に魏が倒された場合、呉は勢いに乗じて、一気に攻めてくるだろう。荊州と、涼州の両方から攻められてしまえば、虎の子の軍も防戦一方となり、いかに諸葛孔明の知恵をもってしても、持久戦となれば、これは持たぬ。
目先のことだけで考えれば、われらの混乱は貴殿らにとっては益になるやもしれぬが、長い目で見れば、同じく命取りになろうぞ!」
「話はわかる。しかし、これは、俺が独断で決めてよい話ではない」
「だからこそ、悪いようにはせぬ、といっておるのだ。もしわれらが無事に魏に戻ることが出来たなら、我らは蜀を攻めぬと約束しよう」
「長文、勝手な真似を!」
声を荒げる曹丕を、陳羣はするどく制した。
「いいえ、公子! われらの命運ばかりではなく、魏の命運すらかかっているのです! ここは単純に褒美などで済ますことができませぬ。公子からも、お約束くだされ。魏に戻り、無事に跡目を継げたなら、蜀は攻めぬ、と」
曹丕は、渋い顔をして、じっと考え込んでいる。
曹操の強大な力によって、押しも押されぬ大国に伸し上がった魏である。
陳羣ともあろう者が、あっさりと蜀への侵攻はしないと約束するということは、曹丕の地位というものが、よほど危ういものなのではないか。
だからこそ、現に、その地位を磐石にしたい一念で、曹丕はわずかな家臣らとともに、敵地にわざわざ乗り込んできたのだ。
つまり、曹丕の御世になれば、内乱が起こる可能性が在ると、見据えてのことなのである。
唐突に、蜀の命運が、自分の手に握られてしまった。
趙雲は、陳羣の必死の願いに、言葉をどう返せばよいのか戸惑い、そのために、背後に人の気配が近づいていたのに、気づかないでいた。
趙雲の背後に迫る、怪しい人影の正体は?
いったい再会はいつのことやら? まだすこし続きます。次回をお楽しみに(^^ゞ
つづく