12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

十一

これまでのあらすじ
かつての費家の所領である広漢の終風村に行くことになった費文偉は、そこで理由もわからぬまま殺されかけ、芝蘭という少女に救われ、からがら成都へ戻ってくる。文偉の話から、李巌が守っているはずの広漢を中心に、陰謀の気配を感じ取った孔明は、趙雲らとともに広漢へ向かうことにするが、その前日、何者かによって拉致されてしまう。
気がつけば、孔明は終風村におり、そこには、劉備の落胤という少年と、魏の陳羣がいた。彼らは、魏王曹操が、つぎの帝位を、少年に継がせてもいいと言っていること、条件として、少年の母を処刑した孔明の自害を付けていることを告げる。しかし、孔明は、途方もない話を拒否し、かえって、魏の思惑を見抜き、村から脱出を図る。
一方、孔明を追った趙雲・偉度・文偉であるが、道中で、魏の企てと、それに呼応した動きが蜀の内部にあることを知る。終風村に捕らわれた孔明を救うために急ぐ一行であるが、文官である文偉は、途中で別れることとなる。
李巌の副将として勤めている従兄を頼った文偉であるが、そこで、李巌と劉封が、孔明を拉致した魏の公子をさらに騙して、これを捕らえ、人質にして、魏に当たろうとしているという話を聞く。
李巌らが、孔明に対しても含むところがあると知った文偉は、村に向かった趙雲たちに真実を告げるべく、今回の陰謀を企てた大胆不敵な謎の男・馬光年の後を追って、自らも村へと向かうのであった。


すでに陽は落ち、昼なお暗い山間の道は、ますます闇を濃くしはじめる。
あちらこちらに聞こえる百舌の鳴き声を、今日ばかりは気味悪く聞きながら、文偉は、前方にいる馬光年たちを見失わないように、必死であった。
馬光年たちは慣れている道かもしれないが、文偉にとっては、まだ二度目の、なれぬ道である。
芝蘭に示唆されて、村から逃げ出したときは、どうやって広漢を出たかすら覚えていない。
二度と行くものか、と思っていた道であったが、孔明のこと、偉度のこと、趙雲のこと、そして命を救ってくれた少女・芝蘭のことを思えば、恐怖など微塵もなかった。

文偉は、たしかに呑気なお坊ちゃまかもしれないが、こうと決めたら、頑として譲らぬ芯の強さと、肝の太さを持っていた。
胸の中には、偉度や趙雲に、孔明のことを教えなくてはいけない、という友情の心と、芝蘭に会って事実を伝えねば、という、義務感と思慕の入り混じった心が複雑に溶け合って、文偉の恐怖を、内側から駆逐している。
孔明は森の中に逃げ、芝蘭に助けられたという。
そのことが、文偉に勇気を与えてもいた。
つまり呉は、敵ではない。

李巌たちの話していた、偉度の前身についての話、あれは本当だろうか。
でも、本当だとして、だからなんだという? 
屋敷にまで押しかけてきた、魏の細作を追い返してくれたのは偉度であるし、もしかして、先刻、義兄弟になろう、という話をあっさり蹴ってきたのも、義兄弟だからという理由で、村についてきて欲しくなかったからではないのか。 
本当は情に厚いくせして、ひねくれ者の偉度ならば、十分に考えうる。
趙雲と偉度は、全体をほぼ把握していたのだ。
だから、劉備の子のことも、劉備の子がいまの帝の後を継ぐ、という美味すぎる話も知っていた。
劉備の子の母親を、孔明が処刑させていたことも知っていた。
だから、あれほど、二人して我武者羅に、ほとんど休むこともなしに馬を走らせてきたのだ。
孔明は生きている。
そのことを伝えなければ、あの怖いもの知らずの二人のことである。かえって、それが仇となり、村に潜入し、孔明を探し回るだろう。つまりは、それだけ命の危険が増す、というわけだ。
いま、村は、李巌と劉封らの手の内にあるのだ。
孔明すら消そうとしていた者たちが、趙雲と偉度の両名を消すことに、ためらいを見せるはずがない。

懸命に馬を走らせていた文偉であるが、ふと背中に、伝わり落ちる汗とも違う、奇妙な痒さをおぼえた。それは同時に、胸の奥底からぶるりと怖気をふるわせるような、こらえ難い嫌悪感も、一緒につれてきた。
もぞもぞ、もぞもぞと、背中をなにか動き回っているものがある。
鳥ではなかろう。羽音がしない。同じ理由で、羽虫でもない。

自分は、さっきどこにいた?

なにかが背中をちくりと刺した。おそらく、たくさんある足のひとつが、着物を突き通して、皮膚にかぎ爪を引っ掛けたのだろう。
それを想像しただけで、もう文偉はダメであった。吐き気さえおぼえるほどの悪寒に、身を震わせる。
手で振り払うことができなかったので、馬の鞭をぶん、と背中の上で振り上げてみる。
すると、うまい具合に、背中にくっついていた、手のひらほどもある大きな蜘蛛は、これ幸いとばかりに馬の鞭に糸を引っ掛けて、ふわりと優雅に宙を舞った。
文偉は、なるべく実物を見ないように気をつけながら、馬の鞭をぶんぶんと振って蜘蛛の糸を風に千切らせた。
馬の鞭から、蜘蛛が離れていくと、文偉は、大きく息をついた。
なにやら、ここで、一つ、大仕事をしてしまったような気分である。

ああ、怖かった。

ひと息つき、仕切りなおしと顔を前方に向けると、ついさっきまで、たしかにいた、馬光年たちの姿が見当たらない。
見失ったか、とひやりとしたが、文偉は落ち着いて考え直した。
村への道は、一本道だ。やつらは、村へ向かったのだ。暗くなってきたのだし、見えないだけにちがいない。きっとそうだ。
そして、馬の足を進めると、揶揄するような声が聞こえてきた。

「費家の若旦那は、どうも我らがお好きのようだ」

はっとして顔を上げると、巨大な蜘蛛の巣のようなものが、月に照らされた林の間から降ってきた。
馬がたたらを踏む。
文偉は落ち着かせようと、咄嗟に手綱を引締めるが、かえって身動きができなくなり、降ってきた網によって、馬ごと絡め取られてしまった。
これに驚いた馬が、さらに暴れたために、文偉は、身動きもままならないまま、地面にもんどり打つ。
なんとか首の骨を折るような惨事はまぬがれたものの、左肩をしたたかに打った。
痛みに呻いていると、地面を通して、振動と共に複数の足音が近づいてくるのがわかった。
文偉は舌打ちをした。

尾行がばれていたのだ。
考えてみれば、一本道である。自分が馬光年を見失っていなかったということは、向こうもこちらを見張っていれば、動きが手に取るようにわかっただろう。
都合のよく出来上がった物語では、主人公は、あきれるほど間抜けな行動を取って、物語を読むもの、あるいは聞くものをはらはらさせるものだが、文偉は、今後、そのなかの誰をも笑わないだろうと誓った。

「一度は逃げられたものを、わざわざ殺されに戻ってくるとは」
文偉が、網から逃げようともがきながら見上げれば、そこには、終風村にて村長と名乗っていた、馬光年の姿があった。
いまはその本性をあらわし、抜き身の刃を素肌に突き立てたような冷たい笑みを顔に浮かばせている。

殺されるだろうか。

冷たい汗をかき、文偉は馬光年を見上げる。
馬光年には、死線を何度もかいくぐってきた者特有の、酷薄なまでの自信と、人を人とも思わぬ冷酷さが見える。
この男は、地位もない、没落寸前の豪族の子弟を殺すのに、なんのためらいも見せないだろう。

なにか、なにかを言わなくては。
この男の気を逸らすことができるようなことを。

「これで勝ったと思うなよ!」
まるで、餓鬼の喧嘩の捨て台詞ではないか、と我ながら、幼稚な言葉の選択に、がっかりしつつ、文偉が叫ぶと、意外にも、馬光年の眉がぴくりと動いた。
それに力を得て、文偉はつづける。
「わたしは捕らわれたが、軍師がきっと助けてくださる!」
すると、馬光年は、愁眉を開いて、文偉を鼻で笑った。
「あきれたことよ。諸葛亮は、この森に迷い込み、いまごろ狼の餌ぞ」
「わたしを騙すつもりか? 軍師は、呉の細作たちに救われ、いま行動を共にしておられる。軍師は、きっとかならず、おまえたちを倒しにやってくると」
文偉は、ここで、ごくりとつばを飲み込み、声が震えないように気をつけながら、はっきりと言った。
「おまえたちを必ず倒すと、おっしゃっていた!」
「なんだと?」
馬光年の表情が、ふたたび曇る。
傍らの男たちも同様で、何事かひそひそとやっている者もいる。
一か八かの賭けであったが、どうやら勝利したらしい。
「貴様、諸葛亮と会ったのか?」
「そうだとも。軍師はお怪我をされることもなく、このような目に遭わせた者たちを、決して許さぬと、息を巻いておられたぞ!」
が、馬光年は、文偉の言葉に、あたりの林を震わせるほど、大きな声で笑った。
「許さぬ、とな? では、どのように許さぬというのか、やってみるがいい! 脆弱な文官ごときに、なにができるという!」
「呉の細作たちも一緒だぞ!」
「一緒だから、なんだというのだ? どうやら知らぬようだから教えてやろう。おまえがまるで切り札のように言う、呉の細作とやらは、孫権に仕える主力の細作集団ではない。いわば、主力から雇われた、末端組織なのだ。
どこの馬の骨とも知れぬ得体の知れない輩だぞ。孫権より報酬を得られねば、干上がってしまう卑しき身の者たちが、孔明と組んで、なんの益があると? 助けたとはいえ、それも一時のこと。やがて身を翻し、その首を持って、孫権のもとに戻っていくだけに決まっておるわ」
文偉は、さすがに顔色を変えたが、すぐさま、馬光年の言葉に流されそうになる自分を叱った。

芝蘭は、下っ端の刀筆吏たる、自分でさえ助けてくれた。
たとえ、それぞれに思惑があったとしても、あの娘がいるかぎり、軍師もきっと無事だ。
屋敷を襲ってきた連中でさえも撃退してくれたのだし、なにより、偉度と含むところがあるようだった。
偉度は軍師に絶対的な忠誠を捧げている。芝蘭たちが偉度を裏切るだろうか。
反覆常なき世とはいえ、彼女たちには、細作とはいえ、なにか違う空気を感じる。

それに文偉は、馬光年が芝蘭を貶めたのが許せなかった。
大胆に、馬光年を鼻で笑ってみせる。
「その卑しき身に、おまえたちは、わたしの屋敷にて、ことごとく打ち倒されたではないか!」
言うと、とたんに馬光年は顔をこわばらせ、文偉の腹めがけて、蹴りを打ち込んできた。
一瞬、息が詰まる。
まるで芋虫のように地面に転がされ、文偉は咳き込み、呻いた。
「口の減らぬ若造よ。さっさと口を塞いでくれよう。その達者な舌は、鬼卒相手に使うがいい!」
しゃり、と鞘から剣を抜く音が聞こえて、文偉は痛みに呻きながらも、なんとか息を整えた。
こうなれば、もはや体裁など構っておられない。
「軍師ばかりではない! わたしには、趙将軍がついておられる! 軍師と趙将軍は、今頃おまえの村に行き、おまえたちの薄汚い計画を潰しにかかっているところだ!」
「趙将軍…趙子龍か?」
さすがにその名が出ると、馬光年の顔が曇り、文偉に突き立てられるはずの刃も、方向を迷い始める。
「諸葛亮と趙子龍が合流したと…しかし、行軍の報告など受けておらぬ!」
馬光年はするどくほかの男たちをにらみつけるが、男たちは、そんな話は知らない、というふうに首を振ってみせる。
馬光年は、忌々しそうに舌を打ち、文偉に刃を向けた。
「若造、俺を愚弄する気か」
「おまえなぞ、馬鹿馬鹿しくて愚弄する気にもなれぬ! 曹操百万の軍のなかを、単騎で駆けた当代随一の武勇の士が、たかが貴様ら相手に、軍を率いてくるわけがなかろう!」
「趙雲は一人か。なれば、死ね」

しまった、一言多かった。

後悔しつつ、振り下ろされる刃を怖じて、ぎゅっと目をつぶると、馬光年を制するように、控えていた男たちのうちの一人が、口を挟んできた。
「お待ちくださいませ。趙子龍が相手というのであれば、油断はなりませぬ」
ぴたりと、馬光年の刃が、文偉の鼻先ぎりぎりで止まる。
「趙雲という男、将としての才も持っておりますが、ほかの武人と違い、隠密行動に長けております。この小僧の言うとおり、百万のなかを単騎で駆けることができたのも、ひとえに、知恵がまわる大胆不敵な男であればこそ。軍を率いては、かえって目立ち、動きが取れなくなると踏んでの、単騎行かもしれませぬ」
「すると、この若造が、命惜しさにでたらめを喚いているわけではないと」
「趙雲は諸葛亮の信も厚く、その主騎として、これまで表には出ぬ働きを何度もしているとか。ゆえに、位は低いものの、劉備も諸葛亮も、趙雲は特別に扱っており、周囲もそれを認めておるのです。
もうすでに日が暮れ、あたりは闇。もし趙雲が、夜陰に乗じて村に潜入しておれば、たしかに面倒なことになりますぞ」
「うむ…」
馬光年も、配下のことばにうなずくことがあったらしく、剣をとりあえず引くと、網にからまった鮎のようになっている文偉を見下ろした。
「口だけの若造なんぞ、いつでも殺せるか。それよりも、有事の際の趙雲への人質にしたほうが、よほど役に立つ」
そう言って、馬光年は、剣を鞘に収める。
文偉としては、喜ぶべきか、それとも哀しむべきかわからない。
とりあえず、命だけは助かった。
馬光年の部下たちが近づいてきて、網に絡まっている文偉は、網ごと乱暴に引きずられる。
馬光年たちは、地面にこすれて痛みを訴える文偉を笑いながら、馬に乗せると、落ちないように鐙に括りつけ、ふたたび村へ走り出した。
馬から落ちる恐怖に耐えながら、文偉は、とりあえず思惑通りに、村に向かうことに成功した。



日が落ちた村には、孔明を逃がしたものの、本命である曹丕を捕らえたということで、気が緩んでいるのか、あちこちに焚き火がたかれ、どこからか、宴を開いているのか、鼓の音さえ聞こえてきた。
風がびゅうと吹き、孔明の後れ毛をなぶった。
それを手で押さえながら、息を殺して、村の出入り口を見つめる呉の細作たちに並ぶ。
おそらく、こちらを探しているだろう村の者たちを避けるようにして、孔明と芝蘭たちは、陽が落ちてから、様子を伺いに、表にあらわれた。

西の空に完全に隠れた太陽を見て、曹丕の思惑どおりであったなら、首を打たれていたか、あるいは投降を願い出ていたかもしれないことを思い、孔明は、無意識に、おのれの首筋をなぞった。
運命とは、皮肉なものである。
あの若い公子も囚われの身のなかで、同じように考えているだろうか。

孔明の隣には、それを守ろうとしているのか、芝蘭の姿があり、さらに銀の毛並みを月光に輝かせる山犬たちが控えていた。
芝蘭は、孔明に安全な場所で待っていてほしいと言ったが、そこで大人しくしている孔明ではない。
相手がだれであれ、よそ者が、ほかならぬ蜀で暴れているのである。これを傍観することは、責任感のつよい孔明には、できない相談であった。
それに、孔明としては、目の前にいる子供たちが、だれも欠けることなく呉へ帰国してくれることを望んでいた。
いまさら、彼らを救うにしては遅すぎる。彼らは、呉で彼らなりの暮らしと目的を持って動いているのであり、もはや、子供たちなどと呼んで、感傷の対象にする必要もない、ひとり立ちした存在なのだ。
それでも、孔明は彼らの先行きが明るくなることを願った。

「風が出てまいりましたわね」
と、芝蘭がつぶやいたが、別段、孔明と会話をもちたいわけではなく、なんとなく、そう口にしただけのようであった。
やさしげな美しい顔立ちをしているのに、顔の半分の、みにくく焼け爛れた肌が痛々しい。
孔明の目線に気づいたか、芝蘭は言った。
「ご同情は無用でございます。わたくしは、これでもこの顔を気に入っているのです。醜い顔だ、と忌み嫌う者もおりましょうが、それがなんだというのでしょう。おかげで、わたしは『女』として扱われることなく、今日まで純粋に細作としてだけ、生きてこられたのですから」
「聞いてよいだろうか。その傷は、どこで負ったのだ?」
「お答えしなくてはなりませぬか」
芝蘭の言葉は穏やかであったけれど、はっきりと孔明のそれ以上の追及を拒む色があったので、孔明は沈黙した。不必要に相手の領域に踏み込む愚かさは、これまでにさまざまに学んでいる。
沈黙した孔明に、芝蘭は、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。
「お優しいのですね。あなたは甘いと、だれかが評しておりました。あなたと共に劉玄徳に仕えている者たちは、とても細作とは思えないほどに厚遇されている、諸葛孔明は、筋はきっちりと通すので、一見するときびしいが、身内にはとことん甘いと。
うらやむ者もおりましたが、わたくしは、かえってそれでは、細作が細作ではなくなってしまう、むしろ哀れなのではないかと思っておりました」
「哀れか。もともと、細作という存在からして、哀れではないか」
「でも、わたくしたちがいなければ、世は動かない。天下に名を轟かせることに満足をおぼえる方もいれば、わたくしのように、細作として生を全うすることに喜びをおぼえる者もいるのです。あなたは、優しさでもって、その喜びを摘んでしまわれる方かと」

孔明の脳裏には、自然と偉度の姿があった。
主簿として手元に置きながら、一方で細作の束ねをつとめさせ、また一方では、息子のように接している。
決意してそう扱ってきたわけではなく、ごく自然にいまの形ができあがった。
偉度も、いまの関係を喜んでいるものだと思い、いままで疑問にすらしなかった。

「そなたは、細作として、一生を日陰の身として過ごしてもよいというのかね」
「あなたは男ですから、女であるわたくしの苦しみは理解できますまい。如何な能力があろうと、女は男の道具に過ぎませぬ。表舞台に上がれる女は、その美貌でもって、男に仕えた者たちばかり。やんごとなき方々でさえ、生き方がままならないのです。身分の卑しいわたくしなど、なおのこと。
陽の当たる場所で、窮屈に縛られて生きるよりも、わたくしは、たとえ日陰の身でも、自由に生きていたい。だれかの従属物として過ごしたくないのです。きっとご理解いただけないとは思いますけれど」
「いや、判る」
孔明が、ためらうことなくきっぱり言うと、芝蘭は、今度は明るく笑った。
「わたくしなぞに、気遣い無用ですわ」
「気遣っているわけではない。どういうわけか、わたしの周囲には、そなたのような考えの女人が多くてね。ほかの男たちよりは、ずっと理解のあるほうだと思うが」
「この顔だから、負け惜しみを言っているのだ、とは思いませんの?」
「ひがみで発した考えには取れないな。しかし、心配ではある」
「なにがです」
芝蘭が怪訝そうに首をかしげると、傍らの山犬も、主の様子に、大きな首を持ち上げた。
「そなたのことを理解できる人間が、呉に存在するかどうかだ。辛い思いをしているのではないだろうね」
芝蘭は、呆れたように孔明をまじまじと見た。
「貴方様は、だれにでもそのように仰いますの? 魯粛さまが、むかし貴方様を、とんでもない人たらしだと仰っておりましたけれど、本当ですのね」
「人たらしか。それは誉め言葉だな。それはともかく、もしも辛い思いをしているのであれば、いつでも蜀に来るがいい。偉度も喜ぶであろうし」
「わたくしたちは、決して呉にのみ忠誠を尽くす、というわけではありません。仕え甲斐のある主のもとにならば、喜んで参りますわ。でも、いまは、わたくしは呉の女としてここにいるのです。細作に、裏切りをほのめかすような言葉をかけるのは、よくないことです。裏切りは、すなわち死を意味しますもの。貴方様でなければ、首を刎ねておりますよ」

芝蘭の言葉は、脅しではなく、本当に孔明のことを案じてのことのようだった。
細作としての生き甲斐を語ってはいるが、この少女の本質と、細作というものの本質は、あまりかみ合っていないようだ。

「戯れはそろそろよしましょう。わたしたちには、やらなくてはならない仕事があるのですもの。おかしなことですわね。蜀の貴方様と、呉に雇われているわたくしたちとが組んで、捕らわれの魏の公子を助けようとする」
「蜀には、いま魏とまともにぶつかって、耐えうるだけの戦力は無い。それは呉と連合しても同じことだろう。赤壁の成功は、周瑜という立役者がいたから為しえたことであって、わたしは残念ながら、彼のお方の代わりにはなれない。魏の動きを牽制することが必要だ。一年でも、半年でもいい。時間を稼ぐ。そのためには、次の曹操の後継者である公子に、たっぷりと恩を売っておくのが上策なのだよ」
それは孔明にとっては、得がたい貯金になあるであろうし、芝蘭たちにも、大きな益をもたらすだろう。
「貴方様は、お優しいのか、冷酷なのか、よくわかりませんわね」
「優しくはないだろうね。わたしという人間は、とことんまで暗愚で臆病だから、万全な体制を敷いてからでないと、身動きが取れないのさ。芝蘭、村に潜入できそうな者の選抜は済んでいるかい」
「村には、わたくしと、身の軽い者たちとで参ります。わたくしたちが火をかけたら、貴方様は、残りの仲間たちを指揮して、村を襲ってください。賊が襲撃に気を取られているあいだに、わたくしたちが公子を助け出します」
「村の賊は手薄。助け出した公子とその手勢と合流し、村の賊を殲滅するのだ。いい塩梅に、賊たちは、ことを成し遂げたと思っているのか、ずいぶん気が緩んでいるようだな。天恵かもしれぬ」
「呆れたことです。もうこんなに気を弛ませて、宴でも開いているのかしら?」



芝蘭のつぶやきは風に紛れて村に届くはずもなかったが、その村では、異様な事態が起こっていた。
夕闇を避けるようにして、宿をもとめてきた、たった一人の芸妓のために、名うての精鋭であったはずの細作たちが、すっかり酩酊し、その舞に手を打って喝采を送っているのであった。
芸妓の舞は、村の中にいた、腕におぼえのある者たちと、芸妓と一緒にやってきた男の鼓でもって進行するのであるが、律儀に、一定期間をおいて、ぽんと打たれる鼓と、自由奔放に舞い踊る芸妓の動きは、まるでかみ合っていない。
それでいて、宴に集ってきた者たちは、なにがおもしろいのやら、妖艶な舞を見ては、大声で笑ったり、きわどい冗談を飛ばしたりと、正気でも失ったかのような様子である。

いや、事実、正気を失いつつあったのだ。

趙雲は、夜闇に助けられているとはいえ、偉度が男とばれない、という事実にも呆れたが、偉度が、兵卒たちが喜びそうな淫らな舞を見事にこなしていることにも驚いた。
その前身をおもえば、その成功ぶりには心が痛んだし、なるべくならば、こんな見世物まがいの真似をさせたくなかったが、偉度もまた、孔明を助けるために、必死なのであった。
そして、偉度は単に男たちの気を惹きつけていたのではない。
巧みに男たちに近づいては、そうと悟られぬように、素早く杯に、袖に隠した薬を盛っていた。
万が一のために用意していたものなのであろう。どのような類いのものかはわからなかったが、見るからに、ただの兵卒とはちがい、見事に鍛え抜かれた体つきをした彼らが、無残に骨抜きにされているところからして、一種の阿片のようなものであるらしい。

それにしても、芸妓をあっさりと村に招きいれた様子や、何の疑いもなく、その舞に見とれている様子からして、彼らが気を弛ませている、つまりは、ことが成就したことを暗に示唆しているような気がして、趙雲は気が気ではない。
村の中に通されたとき、神経を研ぎ澄ませて、どこぞに孔明の無残な姿が掲げられていないだろうかと探ったが、村のどこにも血なまぐさい気配はなかった。

村は、山間の盆地を利用して作られており、小さな山を頭頂部だけすっぱりと切り取ったような地形のうえに、集落がある、というふうだ。
そのため、村に入るためには、かならず、村の望楼から見えるところにある入り口を通らねばならず、山賊も、この村を襲いきれなかったことが、村の整然とした様子から伺える。
このような天然の要塞に守られているような村でさえ、山賊の脅威におびえ、慣れ親しんだ土地を、一時的にとはいえ離れなければならなかった。
となれば、ほかの広漢の村の恐怖や被害は、もっとひどいにちがいない。

李巌め、あれは目先の功に捕らわれて、将たるもの、士大夫たるものの存在意義を忘れているとしか思えぬ。

苦い気持ちで鼓を打つ趙雲であるが、薬の所為か、もはや呂律の回らなくなりつつある兵卒たちは、趙雲が席を外しても、それに気づかない様子であった。
篝火の焚かれた広場に、車座となって集っている兵卒たちのうち、偉度が薬を盛ったのは、手前の兵卒たちのみ。見張りで集ってきていない者たちを省いたとして、人数は百にも満たない。
集団心理で、薬を盛られて正体を失っている兵卒たちに引きずられ、ほかの薬を盛られていない兵卒たちも、空気に釣られて悪酔いをしている様子だ。
そのあたりのさじ加減が、偉度は巧みであり、今日にまで至る、その苦労が忍ばれて、やはり胸が塞ぐ。

これは、もっと陽の当たる場所で、堂々と手柄を立ててよい男だ。
その気になれば、一軍の将として、立派に勤め上げられるものを。

そんな感慨にとらわれた趙雲に、偉度が、目で合図を送ってくる。
趙雲がいなくなっても、だれも気づかない、と判断したのだ。
趙雲自身は目立つ男であるが、その気になれば、空気のように振舞い、敵地のど真ん中でも自然に振る舞うことができる術を心得ていた。
鼓をそっと地に置き、いつでも動けるように体勢を作った状態で、だれもこちらに気づかないか、慎重に目を配る。
すると、よほど偉度の盛り上げ方が巧みなのか、趙雲が鼓を置いたのを見つけた物が、まるでひったくるようにして鼓を取り、やれ歌え、やれ踊れと、調子外れに鼓を打ち始めた。
男が仲間の注目を集めてくれたおかげで、趙雲はだれに気づかれることもなく、そっと輪からはずれ、孔明が監禁されている場所を探しはじめた。

サイト開設より一年半経過しようとしていますが、孔明が女の子とフツーに会話しているというシーン、
あんまり書いたことのなかったことに気づきました。あ、奥方&人妻とずんだは別ですが…
女の子には、無用な気遣いをさせないように、安心させるべく、気さくな口を利いています。
つづく

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