12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

費文偉というのは、とことん、ほがらかに出来上がっており、これは父や母の性格が良かったからとか、伯父の育て方が良かったというよりも、おそらくは天性のものであっただろう。
人を疑うことを知らず、どんな者にも明るく愛想を振りまき、そして人の話をよく聞く。
苦労知らずのお坊ちゃま、というわけではない。
栄華の絶頂をきわめた生活から、一気にどん底のびんぼう生活に落とされた経験を持っており、しかも曹操の南下を恐れて成都に逃げる途中、さまざまな苦難に会ったし、おそろしい光景を目の当たりにしたのも一度や二度ではない。
それでも、費文偉のえらいところは、決して人を信じることをやめない、というところであった。
もちろん、まったくの疑いを持たないのは、愚か者である。
しかし、彼はどんな悪人・罪人のなかにも、なにがしかの良心があると信じ、自分に向けられたことばに、ウソがないであろうと『信じる』。その信頼があまりに真っ直ぐで純粋なため、本当にウソをついている者もひるんでしまい、結局、信じることをやめなかった費文偉に、よい結果をもたらすのである。
それを文偉は幸運だといい、自分ではなく、まわりがみんな偉いと、本気で信じているところが、彼の強運を、さらに補強しているのである。

そんな文偉であるが、胡偉度や趙雲と別れて、従兄の費観の陣を目指しているのであるが、三人でいるときは、芝蘭恋しさのあまり、危険・恐怖もなんのその、であったのに、ひとりになったとたん、過去に広漢で出くわしたおそろしい事件が頭をめぐり、だんだん心細くなってきた。
孔明は無事であろうか、二人だけを終風村に残す形になってしまったが、薄情ではなかったか。
それに芝蘭。
彼女は呉に帰ってしまったであろうか。屋敷であったときは邪魔者がいろいろ(魏の細作やら、犬やら、偉度やら、休昭やら、蒋琬やら、伯父やら)がいたので、きちんとお礼を言えなかった。
もしふたたびめぐり合うことが可能であれば、彼女にちゃんと命を助けてもらったことを言い、それから…文偉には実は野望があるのであるが、それはここでは秘めておく。
さて、このあいだの災禍に遭った際には、芝蘭の言いつけどおり、だれにも会うことなく広漢から逃げ出したわけであるが…

そういえば、なぜ芝蘭は、従兄にさえあってはならぬと言ったのだろう。
彼女は、なにかわたしの知らぬことを知っていたのかもしれぬ。

だが、たしかめようがない。
そうして、費観の陣が近づいてきた文偉であるが、ふと思い立ち、馬を止めた。
このまま、馬鹿正直に正面から言って、従兄にすべてを打ち明けてよいものだろうか。
いま、文偉の脳裏にあるのは、人の良い愛妻家の従兄への疑いではない。彼の周囲にいる、いらざるお節介の存在である。
つまり、費観に忠誠を誓うあまり、費観が「不利になる」ことを恐れ、費観の側近たちが、文偉たちに都合の悪い相手に、知らせに行ってしまう可能性である。
この場合、都合の悪い相手、というのは、もちろん、李巌のことである。
李巌の名は、荊州では知らぬ者がないほどで、煌びやかな印象と共に語られる。
特に大きな功績があったというわけではないが、その、いかにも将軍然とした立派な風貌と、重々しい言葉の運び方、華のある采配ぶり、そして文武両道にして、部下思い、しかも女人にかなりもてるため、その面でも、さまざまな伝説を作っている、孔明とはちがう形での有名人なのである。
文偉からすれば、孔明と李巌の性格からすれば、仲たがいする、ということはなさそうであるのに、なぜか二人は馬が合わない、という。

孔明は意外に仕事に『細かくない』。
もちろん、なんでも全部やりたがるが、それは全部『知りたがる』、ということであり、全体を把握して、現場の人間の苦労をも汲んだうえで、采配をしたい、という気持ちから来る細かさなのであって、実際の業務においては、重箱の隅をつつくような、いじいじした仕事はしない。
李巌は、似ているが、内容がちがう。
全体はもちろん把握する。
だが、要の部分だけであり、枝葉の部分はさほど気にかけない。
結果がすべてであり、過程や手段は選ばない。部下思いとはいうけれど、それはあくまで『恩賞に厚い』という意味で、結果にいたるまでに、どれだけ部下が疲弊し、かつ倒れるか、という点には、さほど目を向けない。
おそらく死者に声を聞くことができたなら、李巌に対する怨嗟の声は、なまなかなものではあるまい。
そういったところで、孔明と李巌は相違している。

孔明は、おそらく李巌を『物の知らない男』と見ている。
李巌は、蜀は肥沃な土地だと言い切り、この豊かささえあれば、漢の高祖にならって、天下に打って出ることは可能だと、呑気に構えている。
しかし現状はそんなに単純なものではない。
蜀の肥沃さは、すくない人口を十分に養える程度に肥沃なのであって、決して中原にくらべて、傑出して豊穣だというわけではない。
むしろ、取れ高はいまひとつなのだ。
農作物の取れ高を補っているのが、交易であり、それが蜀という国の、他国にない『豊かさ』を生み出しているのである。そしてやはり、良質の錦を産出できる、という点も見過ごせないであろう。
要するに、蜀は物質面においてのみ、肥沃なのであり、人材はというと、とても魏や呉におよばない。そもそも人口からしてちがいすぎるのだ。
李巌の感覚は、いまだ荊州の感覚のままであり、人を無駄に使えないという、孔明がつねづね気にしている切迫感が、不足しているのである。
龐統の死、というのは、孔明と劉備の行動をかなり狂わせている。
本来ならば、荊州に留守居として残り、関羽と共に曹操と対峙しなければならない立場の孔明が、劉備のそばで、成都にいなければならなくなっている。
荊州人士のなかには、たしかに李巌は、主公を短期間にころころ変えたけれど、能力からすれば、孔明と代わらせてもよいのでは、という声があるほどなのである。
が、実現には至っていない。
それは、劉備が、李巌の能力はともかく、人柄を警戒しているからであり、李巌を借りに成都の要として置いたとして、劉巴や法正といった、ひとくせもふたくせもある文官たちと連合して、劉備を補佐できるかとなると、疑問だと考えているからなのだ。
劉備からすれば…これは恐れ多いことではあるが…下手をすれば、李巌はまたも自分を裏切り、法正や劉巴たち(やはり以前に主を変えている者)と連合し、自分にたてつく可能性すらあるのではと、考えているのである。
かといって、逆に成都に孔明、荊州に李巌、とすると、誇り高い関羽が、やはり誇り高く、どこか驕慢である李巌と、うまくいくはずがなかった。
李巌には、自分には、劉表時代からずっと、孔明よりも声望があったのだ、という自信がありすぎるのである。

それらの点を踏まえ、費文偉は、偉度たちに相談したのとは、いささかちがう行動をとることにした。
文偉は、馬を近くの農家に金をやって預かってもらうと、単身、こっそり費観の陣に入ることを決めた。
だれにもみつからず、単身で従兄に会い、事情を話して、本当に信頼できるものだけを貸してもらおうと思ったのである。
それに、もしこの実直な従兄が、意に添わぬ陰謀に巻き込まれているのであれば、これは同族としては、放ってはおけない話である。
説得し、軍師を共に助けるようにしなければならない。
いったいいかなる陰謀が張り巡らされているのか、偉度も趙雲も気を遣ったのか、文偉にすべてを語ってはくれなかったが、二人の張り詰めた様子からして、かなり厳しい状況であるのはちがいない。
劉備は温厚ではあるが、決めるべきときは、残酷なほどに割り切って、すべてをばっさり切り捨てることができる人物である。
まして劉備は、孔明をだれより寵愛している。孔明に何事か凶事が降りかかれば、劉備は怒り狂うであろう。何が起こっているのかはしらないが、とばっちりを費観が食わないともかぎらない。
いちばんよいのは、費観が、終風村に捕らわれている孔明を助けるための軍兵を出すことだ。
すべてが裏へ、影へ、というこの一連の動き、やはり費文偉としては、賛同しかねるのである。

そうして、従兄への説得の言葉をけんめいに探しつつ、文偉は、費観の陣に近づくと、脇からこっそり、などというのではなく、実に堂々と真正面から入って行った。
というのも、文偉は以前に、この陣に入って、泊まりさえしているからであるし、門衛はちょうどよい具合に、こちらを覚えていた(文偉と費観、血のつながりはあまり濃くなかったけれど、やはり同族らしく、面差しがすこし似ていたのである)。しかもあまりに文偉が堂々としているので、まさか忍びこんできているとは思ってもいない。
「やあやあ、ごくろうさん」
などと朗らかに愛想を振りまいてはいるものの、本人の心臓は、口から飛び出して「申し訳ない、わたしは侵入者だ!」と叫びそうなほどなのであるが。
それはともかくとして、文偉は陣に入るや否や、費観のいる場所へと、慎重に身を隠しつつ進んだ。
しかし、身を隠すこともないことに、文偉は途中で気がついた。
趙雲と偉度の必死な様子が、気の毒になってくるほどに、陣の中の空気はだらけきっていた。
広漢では盗賊が変わらず各所を荒らしまわっている、というのに、費観…いや、李巌は兵を動かそうとしないのである。
これでは、族姑が怒って当然である。
というより、文偉も怒っていた。
これでは、兵卒がなんのために常駐しているのか、わからないではないか。
以前にここに来たときは、ものめずらしさが先行して、兵卒の質にまで気が回らなかった。
しかし、孔明や芝蘭のことで感覚がするどくなっている今ならば、兵卒たちが、それこそ隅から隅まで、まったくやる気をなくしているのがわかる。
これは陰謀云々という以前に、費観の、将としての質も疑われてしまう。
というよりは、費観は言わなかったけれど、実は、李巌の下で、容貌があれほど一気に老け込んでしまうほどに、苦労を強いられ、本人もやる気を失くしてしまっているのではないのか。

そうして費観のいる場所へ向かう文偉であったが、突然、見張り塔の者が、大きくほら貝を吹いて、陣に急を告げた。
とたん、それまで弛みきっていた兵卒が、ぱっと本来の顔を取り戻し、あわただしく動き出したため、文偉もあわてて物陰にかくれ、何事かと様子を探った。
しばらくして、陣の門が開かれて、ぞろぞろと兵団が入場してきた。
どうやら、視察していた李巌の帰還、というわけではない。
物陰からこっそりのぞいて見れば、なぜだか片側の頬をぷっくり腫らせた劉封を先頭に、その取り巻きと将兵が、ぞろぞろと陣に入ってきたのである。
それを、李巌と、文偉が探していた費観が出迎えている。
劉封と李巌が繋がっているのだ、と文偉は愕然とした。
と、同時に、にぎやかに久しぶりの再会をよろこぶ二人の将の背後で、決まり悪そうにしている、従兄の様子が気の毒でならなかった。
ほっかむりのようにして、頬をかばっている劉封の情けない姿に、李巌は笑いながら尋ねてくる。
「どうされた、そのひどいお姿は。さては、虫歯か」
「冗談ではない。趙子龍めに歯を叩き折られたのだ」
「なんと」
と、李巌は顔を曇らせる。
物陰で聞いていた文偉も、そういえば、趙雲が、劉封の歯の治療をしてやった、とぼそりとつぶやいていたが、そういうことであったか、と納得していた。あのひとには、今後、決して怪我の治療はお願いしないようにしよう。
「わたしがここへ来たのは、ほかでもない、例の件でだ。問題が起こったぞ」
劉封と李巌の仲はかなりよいらしく、李巌は、年若い劉封の肩を抱きながら、陣の奥へと招き入れる。それを、苦虫を噛み潰したような顔をした費観が付いていく、という格好だ。
「趙子龍めに、劉括のことを知られた。成都で軍師を拉致したやつらが、口を割ったらしい」
「なんだと? では、主公もそれをご存知なのか?」
李巌の問いに、劉封は、文偉とさほど年が変わらないというのに、妙に年老いた顔をして、鼻を鳴らした。
「趙子龍が成都に帰るまでは、このことは成都には知らせぬ、と。あやつめ、わたしに慈悲をかけたつもりであろう」
「まずいな…では、やつは今頃、終風村に向かっているのか?」
「おそらくは。そちらこそ、首尾はどうなのだ?」
「それは、あとから、あいつに聞け。それにしても、ひどく痛むのか。ならば、酒宴は無理であろうな」
と、李巌は冗談めかして、頬を布で庇う劉封の頬を、軽く触れるフリをして笑った。
「まったく、腹が減ってしかたがない。昨日から粥ばかりすすっておる。趙子龍めが、我らが天下を握った暁には、まっ先に、平民に落としてくれようぞ」
と、劉封は悪態をついている。
そうして、とある陣屋に入っていくのを、文偉もこっそりあとをつけていった。

李巌は、劉封が来るのをあらかじめ知っていたようである。
文偉は、宴の支度に忙しい兵卒たちや賄い役にまぎれるようにして、あるときは堂々と、あるときはこっそりと陣の奥深くに入り込んだ。
李巌が宴を用意したのは、高床式になっている長細い物置のような木の館であったが、それでも劉封一行と李巌、費観双方の部将たちを、すべて招きいれるに、十分な広さがあった。
どやどやと館に入っていく将兵の足音を聞きながら、文偉は、次第にあたりが暗くなってきたのをよいことに、そっと館の軒下に入り込んだ。
ところどころの床板と床板のあいだから、光が差し込んでいるのが、まるで大地に厚い雲から、陽が差し込んでいるのにも似ていた。
暗くなってきて幸いであったと、あちこち土で汚れながら、文偉は身をかがめて思った。
たまにくもの巣にひっかかり、顔がくすぐったくなる。
文偉は蜘蛛が苦手であったから、もしこれで陽光が高く昇っている頃であったら、嫌いであるがゆえに、いちいち蜘蛛の姿をみつけては、悲鳴をおさえるのに苦労していたことだろう。

緊張している文偉でさえ食欲がそそられる、よい香りがながれてくる。
特に隙間の大きな床板の境目からそっと覗くと、ちょうど、李巌に案内される形で、劉封がはいってきたところであった。
陣には山中にしては、なかなか豪勢な宴の用意ができており、腫れた頬をかばっている劉封には、それが皮肉に映ったらしく、あからさまに顔をゆがめてみせる。
劉封という青年の人となりを、文偉はよく知らない。
文偉は宮城に仕える書士の身であったが、孔明に目をかけてもらっている、というのもあり、よく左将軍府に顔を出す。
宮城はもとより、左将軍府でも、劉封のことを話題にするのは、なんとなく控えているような空気があった。
劉備の、養子を迎えたとたんに、実子ができたという、その皮肉もそうであるが、劉封は、孔明と仲が悪い、というのは公然たる事実であり、その繋がりか、趙雲とも仲がよくない、という。
であるから、劉封が左将軍府に顔出すことはなかったし、孔明や趙雲たちをはじめとする、左将軍府を中心としたひとびとが、劉封と付き合うこともなかった。
はじめて間近でみる劉封は、文偉よりいくらか年上であったが、孔明や董和、そして趙雲の颯爽とした姿に見慣れてしまっている目には、劉封は見るからに器の小さい、偏屈な青年に見えた。
李巌は、劉封のふくれた顔(頬だけではなく)に、苦笑いを浮かべつつも、あまたの女たちを熱狂させる、さわやかな笑みを見せる。美、という形容こそ似合わないが、李巌もまた、目鼻立ちの整った男であった。容姿の点からしても、孔明とは対照的であった。
「こうしている場合ではないぞ。いまごろ、趙子龍と、あの細作くずれめ、村にたどり着いておるやもしれぬ。我らはここにいてよいのか」
と、劉封はちらりと西に熔けていく日輪を見て、声をひそませる。
「そろそろ、軍師の処刑が行われている頃合であろう」
床板の下にひそむ文偉には、劉封の語ることばのひとつひとつが、大きな石のように、自分にぶつかってくるように感じられた。

細作くずれ? 偉度のことか? 
そして、軍師の処刑とは?

混乱する文偉をよそに、なにも口にすることが出来ないでいる劉封のとなりで、美酒をかたむけつつ、李巌は誇らしく笑った。
劉封は、不機嫌に顔をしかめる。
「なにを笑っている」
「軍師の処刑は、取りやめとなったのだ」
「なんだと?」
それを聞いたとたん、劉封は立ち上がりかけたが、李巌はとなりで、ぐっとその腕を掴み、無理に座らせる。
「思いもかけないことになったのは、こちらも同様でな、軍師には、ご立派な最期を遂げていただく予定だったのだよ、この、美しい日輪の見える場所で」
妙に詩人きどりで、李巌は目をほそめて、館から見える、黒い影ばかりとなった木立のあいだに消えていく太陽と、うつくしい暮れの空を愛でた。
「風もここで旅を終えるほど山間の村、だから終風村という。村の名を最初に唱えた男も、なかなか雅やかな心を持っていたとは思わぬか」
「ええい、それがなんだと?」
「まあまあ、とはいえ、事態はまだ、われらの思うように動いておるのだ。軍師の処刑がならなかったのは、逃げてしまわれたからなのだよ、かの御仁は」
「逃げた? 李将軍、先刻より、俺を愚弄しているのか?」
「愚弄など、とんでもない。やはり、天下のために自害しろなどと言われて、すんなりわかりました、などという男ではなかったよ、諸葛亮は。それに、運も尽きておらぬ。
よいかね、公子、運が尽きていない人間には、なにを仕掛けようと、かならずこちらが負ける。そのように、不思議と世の中は成り立っておるのだ。軍師の運が費えぬかぎり、それを無理にどうこうしようと、意味のないことだ。
そういうわけで、軍師には生き残っていただく。おそらく、今頃は、この森をひとりで彷徨っているのではないかな…どうだ馬光年」
その名に、文偉はびくりと身をすくませた。
終風村の村長と名乗っていた…魏の細作であったという男ではないか。
魏と、李巌と、劉封と、この三者が、繋がっている?

実は、文偉は、趙雲と孔明より、劉括の存在を聞いていなかった。
これは、趙雲の、文偉をあまり深入りさせたくないという配慮からであり、偉度の、たとえ文偉であろうと、劉備の長子などという存在が、いきなり世に広まることを避けたい、信用していないわけではないが、あえて口をつぐんでおこうという、思惑があったからだ。

文偉は、次第に早くなる鼓動をおぼえつつ、従兄の姿を探した。
駄目だ、こんなところにいては、叛逆者の仲間とみなされ、従兄殿を軍師はけっして許すまい。
偉度が細作くずれだと言った、劉封の言葉も気になったが…しかし、そうだとすると、芝蘭と偉度が文偉の館で交わした会話の意味、そして芝蘭が偉度を『兄上』と呼んだことの意味が、なんとなくわかってくる…いまは、ともかく馬光年が、なぜここにいるのか、ということだ。
「おっしゃるとおりで。途中に狼に食われてしまわねばよいのですが」
馬光年は畏まりつつ、劉封の前にあらわれる。
劉封は、顎でしゃくるような仕草で、馬光年に尋ねた。
「で、首尾はどうなのだ」
「上々…とまでは行きませぬが、それなりかと」
「ふん、しばし軍師のことは置くとして、魏王の息子はどうだ」
「首尾よく捕らえましてございます。陳長文も問題なく」
「殺したのではないのか」
あからさまな問いに、馬光年は首を振りつつ、苦笑いを浮かべて答えた。
「いいえ、生かしてございます。魏王の嫡子と、陳長文の処遇は、われらの決めることではありませぬゆえ、村に捕らえてございます。あとで、どうぞご見聞くださいませ」
見聞、と聞いて、そうなったときの想像をしたのか、劉封は、愉快そうに身体を揺らした。
「軍師に逃げられたのは、曹操の嫡子が、欲をかいたからでございます。かれらは、軍師に『魏王が劉括さまを次期帝位につけてよいとおっしゃっている、そのためには、劉括の母の仇である、おまえの存在がじゃまになる。夕刻までに自害するか、あるいは処刑されるのを待つか、どちらかにせよ』と迫っておきながら、軍師を精神的に追いつめ、ぎりぎりで助けてやり、恩を着せ、軍門に降らせるつもりであったのです。
そも、曹操が、嫡子が蜀に少数で乗り込むことに賛成したのは、かならず諸葛孔明を降す、ということであったそうですから」
「魏王が軍師を? それもよいかもしれぬな。あの驕慢な男が、魏王の気に入るはずがない。おそらくその手に渡したほうが、早くに死に近づけさせられたかもしれぬな」
劉封が、つまらなさそうに言うのを、馬光年はついで言う。
「曹操の嫡子が、御自ら身分を隠し、軍師の説得にかかったのですが、軍師はしぶとく、逃げる算段ばかりしていた。そこで嫡子は、ともに逃げ、捕らえられて処刑されそうになる段になって、救ってやる、というふうに策を変えたのでございます。
そこでわれらとしても計算が狂ってしまいまして、仕方なく、嫡子は捕らえたのでございますが、軍師には逃げられてしまいました。なにせ、このあたりの森は深い…」
もしも、文偉が覗き見、という形ではなく、ちゃんと真正面から馬光年を見据えていたなら、その目がどこか落ち着きがないのに、すぐに気づいたであろう。
嘘をついている、と。
「軍師のことは捨て置かれよ。どちらにしろ、これでかえってよかったのかもしれぬぞ。忌々しきことであるが、軍師が、変わらず主公の寵愛を得ていることは事実。
もしも軍師がすでに死んでいた、などとなれば、いくら実子の劉括を見たとしても、主公がお怒りを解かれたかどうか、やはりあやしい。魏の嫡子と陳長文を人質に、魏に降伏を迫るわれらの計画は、主公の賛成がなくては、やはり成り立たぬからな」

文偉は、全身の血が冷えていくのをおぼえていた。
とんでもない話を聞いてしまった。あまりに途方もない。
叛逆、陰謀、そんな言葉があたまをぐるぐる駆け巡る。
この近所に来ると、ろくなことにならない。
以前は生き埋めにされそうになった挙句に、成都まで追い回され、今度は李巌と劉封のとんでもない企てを耳にしてしまった。
だいたい、劉括とは、何者だ?
そんな名前、聞いたこともない。噂にだって、なっていないはずだ…流行と噂に耳ざとい文偉は、自信をもって、しらない、と言い切ることが出来た。

趙雲と偉度のことがふと、頭に浮かぶ。
あの二人は、どこまで把握しているのだろう。
軍師が、『魏』に捕らわれた、と信じているにちがいない。そうではない。軍師はとっくに自力で逃げて、村には、劉封と李巌らの息のかかった者たちがいるばかりだ。
軍師さえ殺そうとした連中のなかに、二人がのこのこ顔を出したら、どうなる?

文偉が、村へ向かうべく、軒下を這いながら外に出ようとするのと、馬光年が、劉封と李巌の前から、村へ戻ります、といって辞去するのは、ほぼ同時であった。
馬光年は、階段を下りると、外に待機していた男たち…そのなかには、文偉が最初に村で見た、『村人』の顔もあった…に、館のほうを気にしながら、言った。
「なんとか誤魔化しきったぞ。嫡子がわれらの手の内にあるのは事実であるが、軍師はみつかったか」
「それが、森中を探しておりますが、陽が落ちてきましたゆえ、うまくいきませぬ。あの銀の山犬どもから見て、芝蘭の手勢が、軍師を助けたのでございましょう」
芝蘭。
その名を聞いて、文偉の心拍数は、はげしく上がった。
馬光年は嘘をついており、軍師は山中に迷ってはおらず、なんと芝蘭が、軍師を助けた、という。
ますます、文偉は芝蘭にほれ込んだ。
なんという女丈夫だろう。力強く、賢明で、なおかつ、しなやかで美しい。完璧に理想ではないか。つくづく、呉の細作であるのが惜しい。

うん? なぜ呉の人間が軍師を助けるのだろう……馬光年、つまりは李巌らの野望を挫かんがため? 
いや、芝蘭は、わたしの屋敷で魏の賊を討ち果たして、すぐに呉に帰ると言っていた。
あれは嘘ではなかったと思う。
とすれば、魏の嫡子(まぬけなやつだ、と文偉は素直に思った)のように、そして令名高い陳長文(噂に反して、ずいぶんなウッカリ者だ、と文偉は感慨深く思った)のように、馬光年に騙されているのではないか?
魏が主体となって、この陰謀が動いていると思い、さきほどの話を総合すれば、劉括とかいう劉備の子(?)が帝位についたら、東呉は降伏を迫られる。
魏と蜀が連合するようなものだからだ。
そのため、戻ってきて、軍師を助け、魏の野望を挫こうとしているのだ。
芝蘭にこのことを…いやいや、軍師にこのことを知らさねば。
しかし、かれらはどこへ?

馬光年は、宴が始まった館のほうを、忌々しそうに振り返る。
「盛り上がってきたようだな。よいか、我らはこれより村に戻る。李将軍と劉公子は、おそらくあとから村にやってくるであろう。その前に、なんとか呉の人間を始末するのだ。森を徹底的に洗え」
しかし馬光年の手下たちは、あまり気乗りしない様子で、返事がかんばしくない。
それはそうだろう。人間と、山犬とでは、夜闇のなかにおいては、その有利さが段違いである。

待てよ、連中についていけば、うまく芝蘭に会うことができるかもしれない。

文偉は騎乗する彼らの姿を見て、すぐさま軒下から這い出すと、厩にどうどうと入り込み、
「費観の従弟、費文偉が馬を借りるぞ!」
と、堂々と言い放って、ぽかんとする厩番を尻目に、かわらず、堂々と陣を出て、馬光年のあとを追った。
恋する男の迫力勝ち、というわけでもなかろうが、文偉があまりに堂々と立派であったから、陣を守っていた兵卒たちは、だれひとり、文偉を疑わず、追おうと考える者すらいなかった。

「風の終わる場所」…なのに連載は終わらず。
とうとう十回目を数えました。一周年から二ヶ月が過ぎてしまいましたが…
あと三回ほどで最終回、の予定です^^;
つづく

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