12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

曹操には複数の息子がおり、それぞれが父親の後を継ぐために、互いに互いを牽制しあって、さまざまに父親と其の周囲に働きかけていた。
しかし、曹操の気持ちは、夭折した二人の息子に向いており、正当な嫡子であるはずの曹丕の才能を、あまり買っていない。
いまだに後継を譲るのに曹丕でよいか、迷っているフシがある(孔明からすれば、この切迫した時勢に迷っていられるところが、魏の余裕であるように感じられるのであるが)。曹操はそれを息子たちに隠さないため、余計に後継争いが熾烈になる。
よいとばっちりである。
洛陽だけで揉めていればよいものを、どうして自分もあおりを食わなければならないのだ?
背後から追ってくる者たちは、おそらく曹丕の命を狙う何者かが、その手勢にこっそり忍ばせたものにちがいない。もともと、曹操も気乗りでなかった大胆すぎる策。刺客を潜り込ませ、こっそりと長子を葬り去るに、うってつけであったのだろう。
しかも敵国の軍師将軍の首も一緒にとれる…あるいは捕虜にできる、というおまけつきだ。
そうだ、わたしはもしかしたら助かるかもな、と孔明は一瞬考え、背後でぜいぜいと息を切らして枯葉を踏みしだく青年をちらりと見て、自分の薄情さを叱った。
あまりに稚拙といわざるを得ない行動のツケを払わされているのだ。曹丕に同情する気持ちはうすい。
しかし、ここで見捨てたら、自分の寝覚めがわるい。割り切るならば、この男は、将来おのれの、蜀にとっての障壁となるだろう。だからこれを機に葬り去るのもよいかもしれないが、少なくとも、曹丕に害意はなかったのであり、あまりに情がない考えだ。

思いもかけない逃避行に、曹丕はすっかり混乱しているらしく、孔明よりも息を乱して走っている。
ばらばらに逃げればよいのであるが、曹丕はなぜだかヒヨコのように孔明の後ろをついてくるのであった。
実は孔明は、いざとなれば、曹丕を盾にするしかあるまいと考えていたのであるが、じつは曹丕のほうも、同じようなことを考えているのかもしれない。
ともかく、費観の兵卒がいるところまで逃げることが先決であるが、自分のこの鈍い足で、どこまで山道を抜けられるのか。背後から迫る刺客たちとは、どんどん距離が詰まってきている。
だんだんと呼吸が浅くなり、臓腑が重くなってきた。懸命に足を動かしてはいるものの、ほとんど距離が稼げていない。いまいましいことに、背後にいたはずの曹丕が、孔明を途中で追い抜かした。
とたん、刺客たちが動きを変える。
それまで、一定距離を保って様子を見ていたのだが、曹丕が駆け足を早くしたと同時に、いよいよ命令を遂行することに決めたらしい。むささびのように林間を身軽に飛びながら、刺客たちは瞬く間に、すぐ背後に迫ってきた。
孔明の脳裏に、戦う、という選択肢が浮かんだが、すぐさま打ち消した。
無理だ。一度もひとを殺したことがないくせに(間接的にはあるけれど)、いまさら戦えるものか。徐庶から倣った撃剣は、とっくの昔に得意な型以外は、すべて忘れてしまっている。
趙雲や偉度にすっかり頼りきりになっていたので、自身で戦うことになるなど、考えてもいなかったためである。

ひゅっと風を切る音がして、ばさばさと大量の葉が降ってきた。
と、同時に、刺客たちが数名、孔明の行く手を阻む。
彼らは剣を振りかざして孔明を威嚇し、先に進ませまいとする。その素振りから、こちらを殺せという命令は下っていないと判断できたが、前方を行く曹丕のほうは、やはり危うい様子で、刺客がすばやく打ちかかっていく。
だが、小柄ながらも敏捷なところを見せ、曹丕は果敢に刺客たちの刃を振り払った。
刺客たちは無言のまま、孔明を取り囲むと、刃の切っ先を、目の前に突きつけて、村へ戻れ、という合図を送る。
「おまえたちは、彼の者の兄弟に雇われたのか」
答えはないだろうと思っていたが、案の定、刺客たちは沈黙を守っている。
兄弟、あるいはその兄弟たちの取り巻きが仕組んだことであろう。陳長文が絡んでいるとは思えない。いまごろ村は、刺客たちによって制圧されている可能性がある。
いや、そもそも、『諸葛孔明を罠にかけ、降らせる』という作戦自体が曹丕を暗殺するための罠だったのかもしれない。
わたしは釣り針のえさだった、というわけか。
だれが黒幕かは知らないが、曹丕と陳長文、オマケの諸葛孔明の三人も虜にできて、いまごろ腹を抱えて大笑いしているのであろう。
想像しただけで、誇り高い孔明は怒りに捕らわれる。
とはいえ、過剰に感情的になることはない。
周瑜の例から、孔明は、策士が感情に溺れることの恐ろしさを学んでいた。

剣戟の音が響き、見ると、木々に遮られた暗い森のなか、曹丕はなかなか健闘しているようであった。
だが、刺客たちは焦ることなく、孔明を村に連れ戻そうとする。
ずいぶん優秀な連中だな、と孔明は感心しながら、得物もない状態では如何ともしがたく、彼らに従うしかない。ともかく、生き延びさえすれば、起死回生の機会はかならずやってくる。感情的になってしまえば、あとは状況に流されるだけだ。自分の運命の舵を、他者に譲り渡すことになってしまう。
忍耐のみせどころだ。

そのときである。

山間を駆け抜ける風よりも力強く、山犬の遠吠えが響き渡った。
同時に、闇のなかを、銀色の獣が飛来した。
あまりにその姿が素早かったため、翼の生えた狼にみえたほどである。
孔明の目の前にいた刺客が、ぎゃっ、という悲鳴とともに、あらわれた銀の狼に咽喉笛を噛まれて、そのまま地面にもんどり打った。
仲間に喰らいつく銀狼を引き離そうと、もうひとりの刺客が剣を振りかざすが、それは林間をみごとに越えて、飛んできた手刀によって遮られた。
四方から浴びせかけられる攻撃に、孔明が立ち往生をしていると、不意に背後より、強く手を掴まれた。
振り返ると同時に、手を引かれて、走るように促される。
目の前に娘がおり、娘が自分の手を引いて、障害だらけの山中を、まるで草原を駆け抜けるような軽やかさで走り抜ける。
孔明はちょうど後ろから、その耳から頬にかけてしか娘の顔を見ることができない。
だが、娘の顔には、痛々しい火傷の痕があった。
「そなたは?」
孔明が尋ねると、娘の顔が、わずかに後ろを向いた。皮膚のただれた表面の傷はひどいものの、顔の容はよい、美しい娘であった。
振り返ると、刺客たちと戦っていた曹丕のもとへも、助け手が向かっていたようである。
「わたくしの名は芝蘭。お味方でございます」
「偉度の手の者ではないな」
すると、つないだ娘の手が、驚きで、わずかに震えたのが判った。
「細作の顔を、すべて覚えてらっしゃるのですか?」
「当然であろう。彼の者たちは、わたしの耳目となって危険な仕事をこなしてくれる。いわばわたしの一部同然の者たちである。おのれの耳目のことは、他者よりもおのれがいちばんわかる」
芝蘭は、羨ましいことですね、とちいさく言った。
これが、偉度が言っていた、呉の細作の娘…偉度の『妹』だ。
かつての樊城をめぐる事件が胸を去来し、孔明は、あのときに我が手から漏れた娘に手を引かれていると思うと、悲しい気持ちに襲われた。
芝蘭のほうは、それきり黙って、孔明の手を引き、走り続けた。


さて、またも時間を遡る。


趙雲は広漢に到着するなり、次の行動について迷った。
まるで火の玉のようになって、ここまで我武者羅に馬を駆ってきたわけであるが、さて、相手の規模もわからなければ、正確な位置もわからない。
第一、孔明を略取せしめた時点で、彼らの目的は果たせたのだとしたら、とっくに蜀から引き上げていることも考えられる。
最悪の場合、孔明はすでに死んでしまっている可能性もあるのだが…

いいや。

趙雲は、それを強く打ち消した。それは有り得ない。もしあれの身に凶事が降りかかれば、おのれの身に、なんらかの兆しが起こるであろうと、なんの根拠もなかったが、趙雲は信じていた。
新野で出会ってより、ずっと身近で守っていた者、だれより心を寄せた者である。ふつりと糸が切れてしまうように、手繰った先が虚無になっているなどと、ありえない。
生きている。かならず生きている。
そう念じ、焦るおのれを叱りつつ、さらに先に進む趙雲の背後では、酒が入ったために気が強くなっている費文偉が、あれこれと偉度に話かけていた。
うるさがられても話をやめないでいるうちに、文偉は、自分と偉度の年が、さほどちがわない、ということを発見した。
「ならば、これもなにかの縁。どうだ、義兄弟にならぬか」
「ヤダ」
義兄弟の申し出は、わずか数秒で破談した。
なぜだ、と決まり悪くぶちぶち言っている文偉をよそに、偉度は前方にいる趙雲に声をかける。
「趙将軍、費将軍にお会いなされますか。もし話をつけられるのであれば、兵をお借りしたほうがよろしいかと」
うむ、と偉度の提案を吟味しつつ、趙雲は首だけを振り返らせる。
趙雲は、偉度の目の中に、おのれと同じ危惧を読み取った。
「終風村への道は、あとは一本道。そうだな、文偉」
はい、と文偉が答えるのを確認し、趙雲は決断した。
「よし、文偉、頼まれて欲しいのであるが、従兄殿に会いに行き、兵卒を借りてきて欲しい。事情は話して構わぬ。ただし、李巌にはそれと悟られぬようにするのだ」
「李将軍には内密に、ということでございますか。なぜです」
「李将軍は、もともと軍師に、あまりよい感情を抱いておられぬ」
「中央復帰を願うつけとどけを、軍師はすべて突っ返していたからね」
と、趙雲の言葉を、偉度が補足した。
「此度のことに、だれがどれほどに関わっているのかが読めぬ。村ごと人が入れ替わっていたことを、李巌がほんとうに知らずにいたのかが疑問だ」
「それをおっしゃるならば、遠慮はいりませぬ。わが従兄とて同様でございましょう」
「その見極めは、おまえに任せる。俺と偉度は先に終風村に向かう。おまえは、兵卒たちと一緒に、村へ来るのだ。よいな」
文偉は、不服そうにしていたが、趙雲が再三、行け、と命ずると、やがて後ろ髪を引かれるように、何度も何度も振り返りながら、費観の陣のあるところへと、馬を走らせていった。

そのうしろ姿がやがて木々に遮られて完全に見えなくなると、偉度は言った。
「これで文偉は無事なところへ逃れられる。考えましたな、趙将軍。文偉はなかなか聡い。われらの意図に気づいて、嫌だとダダをこねるのではと、ひやりといたしましたが」
「だから、義兄弟の申し出も断ったのか?」
馬上の偉度は、趙雲の問いに、ふいと顔を背けた。
「ちがいます。余計な荷物は背負い込みたくない。だれかの義兄弟になるのは、二度とご免だ」
「そうか。すまなかった」
「謝ることはありません。気を遣われるのも好きではない。さあ、村へと参りましょう」
偉度に促される形で、趙雲はふたたび馬を駆って、前方へと進んだ。
何の変哲もない山郷である。そこかしこに、人の手の入っている気配はある。
だが、それはあくまで形跡のみで、人間そのものはどこにもいない。
そして、この空気。
終風村に近づくにつれ、大気中にぴりぴりとした空気が漲っている。
だれかの悲鳴が、声をなくして、永遠に大気に閉じ込められているような、落ち着かない気配だ。
「近いな」
趙雲が呟くと、偉度も顔に緊張を走らせ、無言のまま肯いた。

村の入り口に向かう道は、ゆるやかな坂道となっている。
斜面の上に村はあり、近づくと、木々の隙間から楼閣が見えた。楼閣は三階建ての、山中のものにしては立派なしつらえで、村の財力を示している。おそらく見張りも兼ねているのだろう。
呉の細作である芝蘭の話からすれば、村はまるごと住人と入れ替わり、呉の細作、そして魏の細作が共同して住んでいたという。
ふもとの木に馬を繋ぎ、足音を忍ばせ、そおっと村に近づいていくと、ふと、楼閣に、人影が見えた。この村に近づいてから、はじめての人影である。
目を凝らす趙雲であるが、それが何者かはわからない。
だが、よく見ると、楼閣の二階には、兵卒たちが往来している。それは、日光を反射する鎧や武器の輝きでそれと知れた。
「魏か、呉か、どちらだ?」
「こう遠くてはわかりませぬ。近づきますか」
「いや…偉度、あちらでも、なにか光っておるぞ」
趙雲が示す先には、鬱蒼とした森がある。
しかし、その一箇所で、木漏れ日を反射して、きらきらしたものが光っているのである。
楼閣の兵士たちに見つからないように注意しながら、趙雲は前方に進み、光るものを確認した。
それは、まだ温かさを残している、兵卒の遺体であった。ただの兵卒ではない様子が、黒い鎧、玄人を思わせる手入れの行き届いた武器や鎧のしつらえから見て取れる。
体が硬くなっていないところから見て、まだ死んでから間もない。
「戦いがあったのだな。趙将軍、どうやら、魏と呉の戦争を、蜀の地で行った様子ですよ」
偉度が言う方角を見ると、わずかに離れた先に、大きな山犬が息絶えて横たわっていた。
「呉の細作の娘、芝蘭があやつっていた山犬でございましょう。こちらもまだ温かい…どうやら、魏と呉は連合していない様子ですな。これはよい兆しでございますぞ」
「なぜ」
「魏も呉も、いまだこの地を離れていない、ということは、彼らがいまもって、本来の目的を果たせていない、ということでございましょう。もし軍師を殺めるつもりならば、この地にいつまでも留まる理由はないし、逆に略取せしめるのが目的にしても、長逗留は命取り。なのに、いまだにここに留まっている、ということは、軍師は無事、ということです」
「逃げたのであろうか」
「あるいは、逃がされたのか。呉が軍師を捕らえる理由はないので、おそらく助けが入ったとしたら、呉かもしれませぬ。此度の劉括に帝位を譲るという話、魏や蜀にはよい話かもしれませぬが、呉にとっては一大事。一度は引き上げたものの、魏の動きを知り、取って返してきたのやもしれませぬぞ」
「なればよいが。さて、とすると、軍師はどこだ?」
「あれでは?」
と、偉度が、となりにいる趙雲の腕をつよく引っ張り、倒木の陰に隠れるように指示をする。
そおっと木陰からのぞくと、地面に伏した黒い鎧の兵卒と似た格好をした兵卒たちが、両脇に抱えるようにして背の低い若者を引きずっていくところであった。そのうしろ姿は孔明とは似ても似つかない。
安堵するものの、さて、あの若者はなにものか。
「尾けましょう。ここにいたら、馬があるので、直に見つかる。それよりも、連中が油断をしているあいだに、村に入り込んだほうがいい」
「油断をしていると、なぜわかる」
すると、偉度はふふん、と鼻を鳴らした。
「油断も隙もない細作がどこで気を抜くかといったら、ひと仕事終えたとき、それに限ります。ともかく、やつらは仕事を終わらせたようです。いまならば、侵入はたやすい」
「だとよいが」

偉度の言葉を信じつつ、趙雲は足音を立てないように注意しながら、小柄な青年を両脇で引きずる男たちのあとに従った。
やがて、彼らは村の前までやってくると、堂々と正門を叩き、中に入っていく。
茂みに隠れて様子を見る二人であるが、さすがに正門を突破するのはむずかしいようだ。
村はぐるりと高い塀に囲まれており、櫓と楼閣に配置された兵士たちが、それぞれ侵入者を見張っている。
近場の木から飛び降りる、あるいは櫓の兵を倒して侵入、という策は取れなさそうだ。
「だめか」
ぼやく偉度に、趙雲は言った。
「容易いと言っていなかったか」
「こうなれば、仕方がない。一度、馬へ戻りますよ。用意していたものが役に立つ」
「なんだ、それは」
だが偉度は答えず、やはり疾風のように森を駆け下りると、だれにも見つかっていないことを確認し、馬に積んでいた荷物を外すと、それを趙雲にも分けた。
荷物を受け取った趙雲は、わけがわからず、眉をしかめる。
「これは?」
「見たままのもの」
言いつつ、偉度は臆面もなく、自ら纏う衣を手早く脱ぎはじめている。
「なにをするつもりだ?」
「侵入です。ほら、将軍もぼんやりなさらずに、早いところ御召しかえなさいませ」
「…偉度よ、おまえが何を考えているかは、おおかたの予想がつくが、それに俺も噛め、というのは過ちだと思うぞ」
「ならば、将軍は、有望な若い士人ひとりを、敵地にひとりで乗り込ませようとおっしゃるか? 軍師があとで聞かれたら、子龍は薄情者よと嘆かれましょうな」
趙雲は、あくまで慎重な人間であり、勝算のとぼしい賭けには決して乗らない。
だが、この先行き不透明な状況において、打つ手もなくぐずぐずしていることはできなかった。こうしているあいだにも、孔明がどうなっているのかわからないのである。
それに、ある意味、こういった行動に経験の多い偉度が考えたことなのであるから、案外、よい策かもしれぬ、と自分をごまかし、受け取った荷物を解き、着替えをはじめた。

数刻後…

終風村の櫓を見張っていた兵卒は、村に近づく二人組を見つけ、鋭く地上へ呼びかけた。
「おい、おまえたちは何者だ!」
笠をかぶった二人組みのうち、一人が笠を上げて、櫓を見上げる。
その白い手が笠の縁を掴み、花の顔(かんばせ)を表にあらわした途端、櫓の兵士は、そのまま地面に落ちてしまうくらいの錯覚をおぼえた。
それほどに、女は美しかった。
垢抜けて、洗練された雰囲気、文句の付けようのないほどに整った容姿。目から唇から、まるで花のように男を誘う香りがあふれているようではないか。匂いたつ美女、というのはこういう女のことを言うにちがいない。
「道に迷った、旅芸人でございます。仲間たちとはぐれ、しかも日が暮れて参りました。お慈悲でございます、どうか宿を取らせてくださいまし」
殊勝なか細い声も、哀れをさそうものである。
とはいえ、その兵卒は、決して村にはだれもいれてはならないと、きつく言われていたので、情は動かされたものの、素直に諾というわけにはいかなかった。
「だめだ、すぐに引き返せ!」
「お慈悲でございます。どうか」
そのとき、女の声を後押しするかのように、甲高く山々をぬって、狼の遠吠えが四方に響き渡った。
狼に、「例の二人」を追った者たちが襲われたことは、兵士も知っていた。思わず、手にした槍を強く握りなおす。
「ほら、あのように狼すら出ているのでございますよ」
地上の女はさらに言う。いかん。ここで返せといえば、ほかの土地に女が回ったとき、あそこの村はおかしかったと噂になってしまうのではないか。
「しばし待て」
兵卒はそういうと、上長のもとへ行き、二人組みの男女の旅芸人が村の戸を叩いていると報告した。
狼の声がさきほどからこだまとなって、山間を走っている。たしかにこの状態で旅人を追い返せば、無用な噂が麓の里に出回るのは確実であった。
「仕方ない。中に入れろ。ただし、二度と出すことはできぬが」
了解しましたといって、兵卒は櫓へと取って返した。あらわれた女が、絶佳であることは黙っておいた。
そうでなければ、上長は、女を独り占めにしてしまうだろうから。どうせ殺してしまう女ならば、多少はこちらの役に立ってもらわねばならぬ。
暗い楽しみを見つけ、そのときから兵卒の理性が狂い始めた。

「どうやら成功しましたね。あの狼、おそらく呉の芝蘭のものでしょうが、ここでも手助けをしてくれるとは」
「これからどうする。村に入ったら最後、おそらく連中、出すつもりはあるまい」
「それはそうでしょう。ただし、最初はわたしに襲い掛かってくるだろうから、将軍は、隙を見計らって、連中を倒してください。ところで、渡した鼓は、ちゃんと打てるのでしょうね」
「俺に聞くか? 無理だ」
「おやおや、常山真定の趙家にはみやびの趣味はなかったと見える。万が一、なにか芸を披露しろといわれたときは、うまく誤魔化してくださいよ」
「あいにくと、武の気風のつよい家でな。芸事はさっぱりだ。歌も唄えぬ」
「わたしが足を大きく踏み鳴らしたら、あわせて、ぽん、と叩けばよろしい。あとは判断にお任せします」



「わたしは、どこへ向かっているのだ?」
息をぜいぜいと切らしつつ、孔明が尋ねると、芝蘭は、あちらです、といって、さらに鬱蒼とした森を示す。
そこには樹齢百年を越すであろう大木があり、ひときわ異彩を放っている。
「こちら。声を立てないで」
と、芝蘭はてきぱきと孔明に言うと、大木の根元に屈んで、こんこんと、その木を叩く。
すると、おどろいたことに、木の内側より同じく、こんこんと音が返ってきた。
「村が使えなくなってしまったので、ここがわたしたちの仮の宿りです。ようこそ、軍師将軍。歓迎いたします」
芝蘭はそう言うと、ぱっと開いた大木の雨露を見せる。
中は空洞になっており、さらに、根元から深く掘り下げられ、大木のちょうど真下にある天然の洞窟に繋がっているのだ。
垂れ下がる根に注意しながら梯子を降りると、中には数人の細作とおぼしき者たちの姿があった。孔明の姿を見て、彼らは狭いなか、立ち上がると、作法どおりの拱手をする。
芝蘭もそれにならって、あらためて孔明に拱手をした。
「軍師将軍、諸葛孔明さま」
「いかにも。そなたたちは、呉の細作であろう。なぜ、わたしを助ける」
「われらがお助けするのは、あなたさまのみ。魏の思惑は、我らは掴んでおります。劉左将軍の隠し種を帝位につけて、無血のまま蜀を併呑し、勢いで呉を攻める、という策略でございましょう。
そのためには、あなたさまは邪魔になる。ほかならぬ、劉括という子供の母親の仇であるし、劉左将軍はそのうえ、あなたさまを息子のように思われていなさる。あなたさまが蜀にありつづけるかぎり、彼らは野望を達成できない」

孔明は、芝蘭たちもまた、曹丕と陳羣らが弄した策の、うわべだけに踊らされていることを知った。
じわじわと曹家が、劉氏よりうばったものを、いまになって、たやすく手放すはずはない。
彼らは、大掛かりなウソを仕掛けて孔明を追いつめ、味方に組み入れようとしたのだ。ウソがあまりに大掛かり過ぎるため、孔明もそれを見破ることが遅れたのだ。
だが、果たしてこの事実を、呉の細作たちに洩らしてよいものか。
彼らは確かに命の恩人ではあるが、敵である事実はうごかせない。

「自分たちを守るために、おまえたちはわたしを助けた、ということだな」
「左様でございますわ。ご同行なさっていた、小男のほうは、残念でございましたが」
追っ手の目的が、ほかならぬ、小男のほうだと知ったら、この娘と、そして仲間たちはどう思うかな、と孔明は思った。
細作たちは、どれもみな若い。
二十前後、偉度と同じくらいであろう。
あのとき、義陽の村であらかた子供たちを救い出し、ある者は故郷へ、ある者はそのまま手元に置いて大切にあつかってきたのだが、いち早く江東へ向かっていた子供たちなのであろうか。
わが手からこぼれた子供たち。そう思った途端、孔明は彼らを他人とは思えなくなった。

芝蘭は、傍らにいる大きな銀の毛並みの山犬を撫でながら、孔明に言った。
「ご安心くださいませ。われらが主は、孔明さまをお助けし、かならず巴蜀へお返しせよとおおせでございます。万が一、あなたさまを狙い、刺客が追ってくるといけないので、成都までかならず無傷でお返しせよ、と」
「つまり、わたしは魏に対する呉の盾、というわけだね」
左様でございます、とその場にいた細作たちが頭を下げた。
「老婆心ながら申し上げますと、費将軍と李将軍には、ここに軍師将軍がいらっしゃることを悟られないほうが、よろしいかと思われます」
「なぜだね」
「あのお二方は、盗賊を一網打尽にし、大手柄を立てようと、着々と策を進めてらっしゃるのです。そこへ、あなたさまが顔を出されたら、おそらくお二人は、手柄を横取りされるのではと勘違いをし、あなたさまに害を為すやもしれませぬ」
「待て待て、そのようなことがあるか」
と、孔明は、芝蘭の言葉を留めた。
「李将軍が、中央復帰を狙い、大手柄を目指しているのは、わたしも把握している。だが、わたしがそこに現れたというだけで、恐慌に陥るような、小心者ではないぞ」
すると芝蘭は、あきれたような顔をして、首を振った。
「お人よしの軍師将軍さま、あなたさまは策士であるはずなのに、策士のこころをご存じない。李将軍は、あちこちに保険をかけてらっしゃいます。もしも盗賊を抑えることができなかったら、そのまま魏か呉に降るための手を打たれておいでですわ」
「まことか?」
「盗賊を鎮圧できたら、中央へ華々しく帰還。失敗したらそのまま他国へ逐電。いまの世では、めずらしい処世ではございませんわ。広漢の地は広いとはいえ、こうもわれらの動きを、李将軍が気づかれなかったというのは、おかしな話ではございませぬか」
「そうだ、そもそも、それがおかしい」

広漢を賊が荒らしまわったのは、そもそも広漢を無法地帯にし、曹丕ら精鋭の兵たちが隠密に侵入するのを容易くするための策の一部であった。
それを抑えるために、李巌は広漢に派遣されたのであるが、大手柄を狙って動かない。
いや、ほんとうにそれだけの理由で動かないのか。曹丕は、李巌が動かないほうが得策だと手紙を書いて、動きを牽制したのだと言っていたが、李巌が動かなかった理由は、ほんとうにそれだけか。
そも、曹丕を襲い、連れ去った連中は、何者だ? 
曹丕の弟たちなのだろうか?

「芝蘭よ、おまえを偉度の妹として尋ねる。そなたから見て、さきほど我らを襲った者は、何者であったかわかるであろうか」
孔明の質問が意外であったのか、芝蘭は、慎重な娘らしく、じっと考えているようであったが、やがて、孔明の目をまっすぐと見据えて言った。
「おっしゃることの意味が判りません」
偉度もそうであったが、壷中の子供たちというのは、相対するときに、全神経を研ぎ澄まさせて対さなければ、気圧されてしまうほどの迫力を持っている。
偉度は最たるものであるが、この娘もおなじ係累のようである。
呉の細作であるのが惜しい。
文偉が惚れるのもわかるな、と思いつつ、孔明は、慎重に言葉を選びつつ、言った。
「包み隠さずそなたたちには打ち明けようぞ。先刻、わたしと逃げていた小男。あれは、ほかならぬ、魏王の長子・曹丕であったのだ」
狭い急ごしらえの地下は熱い。そのなかにひしめく細作たちに、緊張が走ったのがわかった。
「ウソではない。事のカラクリを、すべて明かそうではないか」
そうして、孔明は、呉の細作たちに、曹丕の策の真実を、ひとつひとつ明らかにしていった。

これも「孤月」の続編的な作品…ですね。
未読の方、孔明がなぜ芝蘭にすぐに警戒を許してしまうのか、「孤月的陣」をお読みくだされば、
その理由があきらかになります。m(__)m


つづく

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