12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

日がいよいよ西にゆっくりと傾きかけたころ、息の詰まるような静寂に包まれた広漢の終風村は、常より大きく響いた、どしん、という音に、一斉に動き出した。
それは、蔵に積んでいた米俵が崩れ、地面に落ちたような音にも聞こえた。
だが、蔵に米俵はあったものの、崩れないようにきちんと積み上げてあったし、また米俵を移動させる作業の予定もないことを思い出した兵卒たちは、いっせいに顔を見合わせ、音のした方角へと飛んで行く。
終風村にあつめられた兵は、みな特別に調練を受けた精鋭ばかりであった。無駄口のひとつも叩かずに、彼らは目指すところへと飛んでいく。
村の端にある、楼閣のところである。
楼閣はすでに大騒ぎとなっており、ぴんと張り詰めた糸が切れ、緊張が飽和したような状態となっていた。
楼閣の入り口には兵卒がいたが、楼閣の中を守っていた兵卒が飛び出してくるや、これは一大事と瞬時に判断し、ともに持ち場を離れて、音のした方角に向かう。
緊張が高まっていくのと同時に、兵卒たちのあいだには、安堵ともいうべき空気がひろがっていた。これで無事に故郷へ帰れる。
それだけではない。敵方の軍師が死に、これで天下がふたたび統一される。平和な世の中がやってくるのだ。
兵卒たちは、みな、劉括という子供の出自や、約束されている未来について知っていたし、そこに希望を託している者たちばかりであった。
彼らはそれぞれがそれぞれに、乱世によって受けた傷をどこかに抱えている。
劉括という子供には、とりたてて希望をもたらしてくれるような片鱗はどこにもなかったし、むしろ、あの覇王曹操の事績を、こんな小さな子供が受け継いで大丈夫なのか、という不安がある。だが、そこに目をつぶり、あえて彼らはやってきたのだった。
中から飛び出してきた兵卒たちが、駆けつけてきた兵卒たちに声をかける。
「諸葛亮が、楼閣から飛び降りたらしい。おまえたちは、諸葛亮の部屋の真下を見てくれ。おれたちは、ほかの連中に知らせにいく」
「うむ…やつめ、いよいよ覚悟を決めたか。もうすこし粘るかと思ったが。きっとほかの連中も、喜ぶにちがいない。早く知らせてやってくれ」
わかった、といって、楼閣の内部を兵卒たちは連れ立って、無人の村を駆けていく。
自分以外の兵卒の、地面を蹴る足音を四方八方に聞きながら、みながそれぞれ、あたらしい時代に向けての高揚感をおぼえていた。そして、その新しい時代のはじまりに、自分たちが貢献しているのだという誇りが、彼らをなお、興奮させていた。

足がもつれそうになるのを何度も励ましながら、孔明はひたすら駆けていた。
もしも、はしこい者ならば、周囲に気を配って目立たぬようにすることも出来たであろうが、もとより生真面目で不器用な孔明には、そんなことはできない。
かぶった兜も、鎖帷子も、実際で見るのと、装着するのとではまったくちがって、重いし、動きがままならない。これに厳しい調練がくわわるのだから、新兵が不安に怯えて故郷を恋しがるのも無理はないな、と、妙に一部だけ冴えている脳裏のなかで思いつつ、孔明は男のあとにつづいて走った。
その背を見ながら、生きて帰れたなら、工房に指示をして、軽くて丈夫な鎖帷子の作成を命令しようとぼんやり考えた。
自分の吐く荒い息で、耳朶が塞がっている。
「ずいぶん流暢に河北のことばを話される。何処で覚えたのです」
前方を行く男が、孔明の速さにあわせて、隣に並んで、尋ねてきた。
「だれに教わったというわけでもない。旅をしているうちに、自然とおぼえたのだ。これでも耳はよいのだよ」
「もうすこしで、村の侵入者を見張るための櫓が見えてきます。そこの兵卒たちも楼閣に向かわせましょう。あとは、村を出ればよいのです」
「そう簡単に行くだろうか。首尾よく村を出られたとして、わたしはこのあたりに詳しくない」
「大丈夫、村を出た先に、樵が住んでおります。そいつに金をやって、道案内をさせましょう」
小男の背中を眺めつつ、なぜだ、という質問を、あえて孔明は封じ込めていた。

もともと、孔明は、天蓋の布を裂いて、紐を作り、それをわざと途中で裂いて、自分と同じくらいの重さのものを地面に落とし、それから兵卒や陳長文たちがそちらに気をとられている隙に、楼閣を脱け出す算段であった。
そうして扉の向こう側の人間の気配に注意しながら、せっせと準備にはげんでいたのだが、そこへ、さきほど、みごとな舞を披露した芸人が、ひょっこり顔をだしたのである。
しまった、見咎められたか、と観念した孔明であるが、小男は、こう言った。
「お助けいたします」
とはいえ、そうか、ありがたいと単純に喜べる孔明ではない。
沈黙していると、男は、身の上を簡単に話しはじめた。曰く、
「わたくしはしがない旅芸人の子でありましたが、芸を深く愛する魏王さまに拾われ、たいそうご温情をいただきました。それゆえ、いかに天下のためとはいえ、あの方の築き上げたものを、劉姓というだけで、あのように傀儡にしかならぬと明らかにわかっている子供に譲らねばならないなど、納得がいきませぬ。陳長文さまにも、ひとかたならぬご恩がございますが、芸人にも義の心がございます。魏王さまは、わたくしにとっては父。父に背くことはできませぬ」
こんどは、『さま』か、と思いつつ、孔明はとりあえず、この青年の言うことを聞くことにした。
ともかく、楼閣から脱け出すことが先決である。ここに留まる限り、確実に命はないのだから。

孔明は、自分が途中までこさえた紐を、頃合を見計らって下に垂らし、そして布団を首括り用の糸束でまとめたものに自分の上着を着せて、地面に投げ捨てた。
そうして何事かと部屋に飛び込んできた兵卒や、陳長文らが欄干から外を覗いている隙をみはからって、ともに連れ立って部屋を出た。
途中、青年がこっそり用意していたという、兜や鎖帷子などの一式にすばやく着替え、兵卒の振りをして、上手に楼閣から脱け出した、というわけである。

青年は、息を切らしている孔明の肩越しに、だれも追いかけてこないことを確認して、兜の下で、にやりと不敵にわらった。
孔明はもとより、そんな気分ではない。装束は用意されていたとはいえ、武器は用意されていなかった。用意できなかったと青年は言ったが。
あまり息を切らせていると不信に思われる。
孔明は懸命に息をととのえ、見えてきた櫓の兵卒に、軽く手を振って合図を送ってみた。すると、向こうも何事かという顔をして、櫓から声をかけてくる。
孔明は、さきほど披露した、河北の訛りで兵士たちに言った。
気をつけないと、うっかり蜀の訛りが出そうになる。孔明は董和のすすめにより、人前ではなるべく蜀の言葉を使うようにしていた。周囲は荊州出の文官ばかりであったから、下手をすると、まったく蜀の言葉に触れる機会がない。だからこそと思い、注意をしてつかっているうち、かえって蜀の言葉をおぼえたのである。
「諸葛孔明が楼閣より身を投げた。ここは俺たちが守るゆえ、おまえたちもその目で確かめてくるといい」
櫓の上の男は、一瞬、声を詰まらせたが、しかしすぐに冷静に言った。
「いいや、だめだ。なにがあってもここから離れてはならぬとの命令なのだ」
優秀だな。焦りつつ、孔明は、櫓のうえの兵士に感心した。
だが、優秀であるからこそ、取り除かねばならぬ障害だ。孔明は、ちょうど太陽を背にするようにして立ち、表情のわからぬ兵士たちに、慎重に言った。
「この天下の命運が決まったのだぞ。その目で見たいとは思わぬか」
兵卒は、しばし逡巡したあと、やはり慎重に答えた。
「ちゃんと、俺の代わりをしてくれるか? 兵卒長に言うなよ?」
「言わないとも、兄弟」
ならば、と兵卒たちは櫓を下り、楼閣のほうへと急ぐ。
孔明は、兜を目深にかぶって、顔を見られないように注意をしたが、もとより、兵卒たちは、相手がまさか孔明だとは思っていないから、まともに目を合わせることすらなく、楼閣のほうへ行ってしまった。
もしも成都に帰れることになったなら、わたしの兵は、人を確認するときは、かならず目を見るように訓練しよう。
いろいろ勉強になるものだなと、ひたすら前向きな孔明は、今後のことを含めて、いろいろ考えた。

さて、櫓を守っていた兵卒たちが行ってしまうと、あとは村を出るばかりである。とはいえ、徒歩で逃げたなら、すぐに追われてしまうだろう。
楼閣に、孔明の姿がないことが、そろそろわかる頃合だ。もとより殺される運命にあると兵卒たちは思っているのだから、あざむかれた兵卒たちが追いかけてきた場合、すぐさま殺される可能性が高い。
馬が必要だ。
しかし、芸人の青年は、馬を探す孔明に、素早く言うのであった。
「いけませぬ、このあたりは悪路が多い。それに山深いなかで、道らしい道はほとんどございませぬ。馬は、かえって煩わしいでしょう。森を行くのです。森を抜けて、広漢の李巌の陣まで参りましょう」
なぜ李巌の陣の位置を、ただの芸人風情が知っているのだ。
その質問を口にするのは愚かであろう。ともかく、この村を出ることが先決である。
孔明は、素直に青年の言うことに従うことにして、ともに足早に村を出た。背後より、いまにも、「そこな二人、待て!」の声がかかるのではとひやひやしたが、静かなものであった。

いや、静か過ぎる。
舐められたものだな、と孔明は腹が立ったものの、絶体絶命の危機に際して、誇りなんぞ荷物になるだけである。
そう言ったのは、劉備だったか、それとも? ああ、子龍か。長坂の戦いのおり、そんなことを口にしていたことがあった。そういうものかと感心するばかりであったが、もっと詳しく聞いておくべきだった。
いま、この状況に子龍が置かれたら、どうするだろう。
鬼神のごとき働きをみせるあの男のことだ。やはり同じように、この青年に黙ってついていくにちがいない。そして、その先は、どうするだろうか。

青年は、迷うことなく、村を出るとすぐに暗い森へと孔明を案内し、倒木や草むらに足のとられる樹海の道を、ぐんぐん進んでいく。たしかに悪路で、孔明は懸命に足を前に進めるものの、障害物が多すぎるため、先に進むことがむずかしい。
青年は、芸事で足を鍛えているのか、息を切らせつつも、速度は落とさず、どんどん先に進み、遅れがちな孔明のために障害を取り除いたり、あるいは手を貸したりと、こまめに尽くしてくれる。
その双眸には、余裕などどこにもない。真剣そのものの眼差しであった。
この青年が、本当は何者かはともかくとして、青年なりに必死なのだ、ということだけは伝わった。
必死で真剣なものというのは、利害云々をこえて、情につよく訴えるものだ。
孔明もやはりそうで、おのれの推測が正しくないほうがよい、とさえ思ってしまう。
だが、すぐに気持ちを引締める。いま目の前にいる青年は、自分に、そんな隙を作らせる男なのだ。

孔明は、ふと足を止めて、振り返った。
森にあちこち満ちている、ちいさな生き物の息遣い、風の渡る音、山の動く音のほかに、獣が走ってくる音が聞こえる。極度の緊張のために、五感が研ぎ澄まされているのだ。
これは、追っ手がかかったか? 森に逃げた孔明たちを追うために、猟犬が放たれたのかもしれない。もし自分が追う立場の陳長文ならば、ためらわずに猟犬を放しただろう。
犬は言葉が通じないので、当然のことながら、孔明お得意の口で丸め込むという作戦がとれない。人の情も解さない。優秀すぎる追っ手というわけだ。
木に登ってやり過ごせというのは素人考えで、よく躾けられた猟犬というのは嗅覚がするどいので、すぐさま木上に逃げた人間を見つけ出す。兎や狐のように、犬に追われてかみ殺される、という最期だけは避けたかった。
醜い死と、醜い生、どちらも醜いのであれば、ためらわず、生きることを選ぶ。
「軍師、なぜ足を止められる?」
青年が肩をぐっと掴んで、孔明を進ませようとするが、孔明はその手をすばやく振り解いた。
「犬が放たれたらしい。逃げても無駄だ」
犬、と聞いて、青年はあえぐように、莫迦な、と言って、木々の向こうに押し寄せてくる気配を察し、顔色を変えた。
「陳長文というのは、なかなか厳しい男だな。さて、それでもわたしは生き残って、なんとしても蜀へ帰りたいのだが」
「ならば、お早くお進みくだされ」
「無駄だ。犬というのは、下手な兵卒よりも、よほど優秀な兵士なのだ。どれだけもがこうと、アレだけは振り切れぬ。ここでかみ殺され、あわれな肉片となり、最期を迎えることであろう」
「さきほどまで、生きるために、さまざまな努力をされていた御方とも思えぬお言葉。さあ、諦めてはなりませぬ」
励まし、さらに先へ進ませようと、手を伸ばしてくる青年に対し、孔明は、懐に隠し持っていた短剣を突きつけた。
青年の顔が、片側だけ、びくりと強ばる。
その短剣は、自害すべしと陳長文に渡されたものであった。
「欺く相手が油断のならない男ならば、隠し持つものが何もないか、調べるべきであったな」
「わたくしを、殺すと? ですが軍師、貴殿は一度もその手で直に人を殺められたことがないはず。しかも、そのような短剣では、人を殺すことはむずかしい」
じり、と青年は、言葉をつなぐ間も、孔明との間を詰めていく。
孔明は、短剣を構えたまま、緊張した面持ちの青年が、ゆっくりこちらに近づいてくるのを見つめていた。
「その物騒なものはしまって、さあ、ともに参りましょう」
短剣を握る孔明の手を、封じるために青年の手が伸ばされる。
孔明は、すばやくその甲を、短剣の切っ先で傷つけた。青年が、あわてて腕を引っ込め、はじめて激しい表情で孔明をにらみつけた。
「なにをなさる!」
「そなたと対等に話をするためだ」
「対等?」
と、青年は皮肉げに唇をゆがめて見せた。
さきほどもそうであったが、この青年は、表情が動き出すときに、片側だけが正直に物を語る。本来は不器用な性質なのに、うまく立ち回らねばならぬ立場にあるため、本性を隠そう、隠そうと懸命になった結果、表情に癖がついてしまったのだろう。
食事を運んできたときにした、兄弟の話も、本当におのれの家族のことを反映させた真実であったにちがいない。
「対等というのがおかしいかね。しかしこうでもしなければ、そなたはまともにわたしと話をしようとはしないであろう」
「忘恩も甚だしいとはこのことですぞ。わたくしは、貴方を逃がして差し上げた」
「そうかな。もともと、わたしを死に追いやるために連れ出したのだったら、どうだ」
「なぜそのような。貴方は気が動転されている。だからおかしなことを考え付くのだ」
「劉括という少年が、本当に主公のお子かは、わからぬ。しかし、わたしにはどうしても、曹操がおのれの地盤を、赤の他人、それもあのように、祭り上げられるためだけに存在しているような子供に譲るとは思えない。それに、そなたらがなぜ、法孝直ではなく、わたしを攫ったのか。単に、劉括の母をわたしが処刑したから、という理由ではなかろう。わたしは、本来、殺されるはずでは 『なかった』のではないかね」
「なにを根拠にそのような」
「この策は、大胆にすぎる。最近の曹操は、守りに入る一方だ。曹操の執政からすると、この策は浮いて見えるのだよ。この策は、曹操ではなく、陳長文でもない。そなたが練ったもの。ちがうか」
「芸人風情に、なにができるとおっしゃるのか」
「芸人などではなかろう。その『芸人風情』が、天下の陳長文を呼び捨てになどできるものか。そなたは喋りすぎる。わたしならば、敵方の将を捕らえたなら、芸人などに身辺の世話をまかせぬ。うまくわたしを誘導したつもりであろうが、わたしは、単にそなたの出方を見ていただけだ」
「貴方のほうが上手だとおっしゃるのか、この状況で? そのような短剣では、一撃でわたしを殺すのはむずかしい」
「そうだな。何度も急所を中心に刺さねばなるまいよ。ただの短剣ならばな」
孔明のことばに、青年の顔の片側が、びくりと震えた。
「今後は、わたしのような性質をもつ人間に、不用意に剣だの毒だのを渡さないことだ」
青年の足元が、ぐらりと揺らめく。息苦しくなってきたのだろう。ぜいぜいと浅い息を吐き、悔しそうに目を細めて孔明を睨みつける。
「剣に毒を塗ったか」
手足を震わせ、睨みつける青年を、孔明は冷徹に見下ろした。
「わたしは力がなく弱い。だから世では卑怯と言われる手段をどうしても使わざるを得ない。もし本当に人を追いつめたいと思うのなら、完全に出口を塞いでしまうのではなく、一箇所だけ、出口を作っておくのだ。あらかじめ、おのれの都合のいいふうに作られた出口をだ。自分の意思で逃げたように思わせて、気づいたときには蟻地獄のように、抜け出せなくなっている。そうなれば、もはや抵抗する気力も沸かない。策とはそういうものだ」
孔明は、膝をついて、そばにある倒木に手をかけ、苦しそうに前かがみになり、脂汗を垂らしている青年のそばに寄った。そして、青年の帯びていた剣や、紐など、武器になりそうなものをすべて奪っていく。
「わたしを生きて捕らえることができたなら、最高の戦利品となっただろうな。法孝直ではなく、わたしを選んだのは、わたしのほうが、中原で名前が通っているからだ。『諸葛孔明』を降すことができたなら、そなたの地位は確実なものとなり、ほかの兄弟たちも、文句をつけることすらできなかったであろう」
孔明の皮肉に、青年は苦しそうにうめきながらも、苦笑いを浮かべた。

かさり、と森に敷き詰められた落葉を踏みしめる音がする。
あらわれたのは、猟犬ではなく、村から追ってきた兵卒たちであった。いや、孔明が楼閣から出た時点で、彼らは距離を置いて、ずっとこちらを観察していたにちがいない。
孔明は、慌てることなく、奪った長剣を抜き放ち、青年の首につきつけた。
「下がれ! 曹公子がどうなってもよいか!」
鋭く決め付けると、無表情に孔明の隙を狙っている兵卒たちの足が、ぴたりと止まる。
自分の声が、こだまとなって森に響き渡り、おどろいた野鳥が、ばたばたと羽ばたいていった。
剣を突きつけられながらも、青年は浅い呼吸を繰り返しながら、背後の孔明に尋ねてくる。
「いつから気づいた」
「すまないな。初対面からだ。わたしは劉玄徳に仕える以前に、一度だけ許都へ行ったことがある。そのときに、言葉こそ交わさなかったが、そなたの父上を間近で見る機会があった。そなたの声は、そなたの父上によく似ている」
青年は、声を立てずに笑った。
「曹操が、おのれの跡継ぎを、長子のそなたにするか、三男にするか、迷っているという話は知っていた。洛陽でひと悶着あることを期待していたのだが、まさかわたしにそれが及ぶとは思ってもいなかったな」
「長子ではない。昴という、兄がいた。父は、戦死した兄か、病を得て死んだ弟の沖を世継ぎにと願っていたのだ。ところが、ふたりとも早世してしまい、世に叶わぬことがないと自負していた父上も、ほかならぬ世継ぎには恵まれなかったというわけだ。わたしは最初から、選外だったのだよ。正嫡の長子と決められても、いつも薄氷の上にいるようなものだ。大きな勲功が必要なのだ。父上と、世を納得させることのできる、大きな勲功が、な」
「それで、わたしを捕虜にして、うまく降らせることができたら、と思ったのか?」
「普通の策では、貴殿はすぐに見破ってしまうであろう。だから、一度捕らえて命を奪うと怯えさせておき、命乞いをしてきたら、殺すつもりはなかったと許してやる。そういう計画だった。だからさまざまに情に訴えてもみたのだ。しかし、貴殿は昼を過ぎてもなお、あきらめる気配がない」
「そこで、わたしの逃亡を助ける振りをして、追っ手にかかり、絶体絶命のところを助けてやり、わたしを心服させて、堂々と魏に帰国する、という手段に変更したわけか。劉括、あれも偽者か」
「あいにくと、あれは本物だ。わたしの本当の思惑は、わたしと長文しか知らぬ。兵卒たちに知らせてしまうと、どこから漏れるかわからぬ。この策は、いかに貴殿を追いつめるかにかかっていたからな」
「残酷なことをしたものだな。兵卒たちは、わたしさえ死ねば、すくなくとも蜀の地は、戦をすることなしに併呑できるとしんじているだろうに」
「こんな面倒になるのであれば、手っ取り早く、魏に連れて行ってしまうべきであったよ。だが、父はこの計画に大反対をしていたし、ほかの兄弟たちに計画を気づかれたら、邪魔をされる可能性があった。
ならば、敵国で堂々と策を展開すればよい。そこで拠点をつくるために、細作を動員し、広漢を盗賊に荒らさせた。我らとしては、都合のよいことに、広漢を任されたのは、貴殿と不仲な李巌であった。盗賊の猛威のふるう地なれば、地元の民さえ近づかなくなる。
ところが、李巌は思った以上に働かず、たまりかねた民が、あろうことか荊州の劉璋の母に訴え、それが呉に届き、面倒なことに、呉の細作たちが広漢に入ってきた。しかしうまい具合に、呉の連中が、村ひとつまるごと入れ替わる、という芸当をしてくれたので、それにぶら下がる形で、われらも入蜀したというわけさ」
吐き気がこみ上げてきたのだろう。曹操の長子、曹丕は、激しく咳き込みはじめた。
孔明は、前方にいる追っ手たちから目を離さないまま、落ち着いてきた曹丕に言う。
「李巌は、貴殿らの動きをどこまで知っている」
「一通、手紙を書いただけだ。もしもこのまま貴殿が動かないでいれば、数ヵ月後に天下に異変が起こったとき、貴殿だけは栄誉に預かることが出来よう、ということだけ記した」
「よくも調べたものだな。中央復帰に焦る将に、意味ありげな文書をおくれば、それは動きを止めるであろう。どちらにしろ、李巌は盗賊たちを一網打尽にするつもりであったから、動くつもりはなかった。手紙だけであろうな」
「そこまでは詳しく知らぬ。長文が手配してくれたからな。それにしても軍師将軍、貴殿は、噂以上にひどい男だな」
だんだんと呂律が回らなくなっている曹丕である。肩を上下して、どんどん回ってきた毒と戦っているのがわかる。
「毒でいまにも死にかけている男を人質に取るとは」
「連中に解毒剤をもらえばよかろう。さあ、そなたからも命令をしてくれ。追っ手を下がらせろ」
「出来ると思うか?」
「ならば、ここでわたしと共に、広漢の森の肥やしになるのだな。そなたは兵卒たちを騙した。彼らには怒りを晴らす権利があろう」
曹丕は、悔しいのか、苦しいのか、獣のような唸り声をあげると、じりじりと距離を詰めようとしている、終始無言の追っ手に言った。

「軍師将軍の命に従うがよい。ここは下がれ」

だが、じりじりと近づいてくる追っ手たちは、ひと言も発せず、まるで曹丕のことばが聞こえなかったように、前進をしてくるのであった。
孔明は、得物を手に、ひたひたと近づく兵士たちの無表情に見える顔のなかに、押し殺された殺意を敏感に感じ取った。陳長文が追えと命令したのならば、曹丕を危険にさらすことをおそれ、見つけ次第捕縛せよ、と命令するはずである。
しかし、この兵卒たちは、はっきりと二人にたいして殺意を持っている。
「よい部下をお持ちだな」
孔明は言うと、長剣の拘束から曹丕を解放してやり、そして、ほかならぬその長剣を曹丕に手渡した。
おどろく曹丕に、孔明は素早く言う。
「どうやら、そなたの策は破綻しまくったようだぞ。わからぬか、彼らは、わたしとそなたを狙っている」
まさか、という顔をして、長剣を手にしたまま、曹丕は、孔明と、それから追っ手たちを交互に見た。
「先ほどの口ぶりからいけば、そなたのほうが戦い慣れているのであろう? 戦いたまえ。不本意であるが、まだしばらくは手を組む必要がありそうだ」
曹丕は、うろたえつつも、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「あきれるほどに、ひどい男だな、諸葛亮。わたしは毒を得た身ぞ。戦えると思うか?」
孔明は、その声に肩をすくめて、言った。
「戦えるだろうとも。短剣に、毒など塗っておらぬもの」
「なに?」
「毒が塗ってある、というのは嘘だ。見事に引っかかってくれたので、感動することしきりだ。貴殿はすこし、手の甲に切り傷が出来ただけだ」
「だが、わたしの具合は、ほんとうにわるかったぞ」
「気のせいだ。暗示による効果だな。呪い師がよくやる手だ」
「わたしをたばかったのか!」
「そのとおりだ。さあ、立て。どうやら向こうも、こちらがカラクリに気づいたことを感づいたらしい」
「莫迦な。わたしはともかく、貴殿はそんな短剣で、どうやって戦うつもりぞ」
「戦うつもりなんぞない。逃げるのさ」
うん? と怪訝そうにする曹丕に、孔明は、にっこりと清清しい笑みを向けると、くるりと背を向け、一目散に走り出した。
「貴様! わたしを置いていくか!」
「ならば走れ! 休みすぎたくらいに休んだであろう!」
そう言って、孔明はともかく行き先のわからない森を駆け始めた。
道もわからず、徐々に日が落ち、暗さも増しているが、ともかく生き延びるためには、走るしかない。
文偉が逃げ切ったのだ、わたしだって逃げ切れるさ、と、必死に自分に言い聞かせながら。

12000HIT御礼企画だったのか…と、ついさっき気づいたはさみの。
「はさみの世界」は荒唐無稽なお話だらけですが(ホントにね)、これは中でも特異なほう…かな?
あんまりよそさまのHPではないだろうなぁ、という作品ということで、
なにか間違っているかもしれませんが、寛大なお心で、ひとつおゆるしくださいませm(__)m

つづく

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