12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
七
さて、ふたたび時間をさかのぼる。
広漢までの道程で、日をまたぎ、昼夜をとわず、趙雲は馬を走らせた。
しかし、さすがの愛馬もばててきた。少し休ませねばならない。
焦る気持ちをおさえつつ、道のそばの人家を探した。食糧は持ってきていたから、水を分けて欲しかったのである。
人家の明かりが見えたので、近くへ行ってみると、ちょうどよい具合に、豪農の屋敷であるようだ。扉を叩くと、すぐに家人が出てきた。同時に、厨で夕飯の支度をしているのか、よい香りがただよってくる。
家人は趙雲を見るなり、相好を崩して、中へと招き入れる。
夕飯の支度をするには、遅すぎる時間だな、と思いつつ、趙雲は招かれるまま、門をくぐった。立派な構えの屋敷の中では、忙しそうな家人が、右往左往しているのが目につく。
客であろうか、と趙雲が尋ねようとしたところ、家人が主人を連れてきた。
篤実そうな丸顔に、立派などじょう髯を生やした主人は、婚礼のときにしか着ないであろう、あまり似合っていない派手な礼装でもって、丁寧に趙雲に礼を取る。
慶事でもあったのだろうか。家人たちはみな、こちらに温かい笑みを浮かべてきて、この歓迎振りがかえって恐ろしいほどだ。
「いま、お達しの通り、わが家でも豚を屠っております」
と、前置きもなしに主は言った。どうやら、趙雲と偉度を、だれかと勘違いしているようだ。
「すぐに焼き立てをお持ちいたしますゆえ、公子には、もう少々お待ちくださいとお伝えくださいませ。あと、この豚を献上したのは、陳でございます、陳、陳ですぞ? ゆめゆめこの名をお落としになされませぬよう」
趙雲と偉度は顔を見合わせた。
「すまぬが、貴殿は人違いをされておる。それがしの名は翊軍将軍・趙子龍。こちらは軍師将軍・諸葛孔明の主簿、胡偉度だ。急用があって、広漢へ向かっているのであるが、水を分けてもらおうと寄ったのだ」
陳は人間が出来ているらしく、それでも失望の色は浮かばせなかった。ものめずらしそうに、趙雲と偉度を交互に見る。
「諸葛孔明さまのご尊名は、つねづね拝聴しております。そちらの配下の方でいらっしゃる? なればやはり、歓迎いたしましょう。これ、このお二方を客間へ」
と、陳が家人に命令しようとするのを、趙雲は留めた。
「お待ちを。貴殿はさきほど、われらをどなたと間違われたのか?」
「はあ、劉公子の部将の方かと。貴方様がずいぶんご立派なお方なのでついつい。将軍様とは知らず、ご無礼をいたしました」
お世辞も忘れないところが、世渡り上手だ。苦笑しつつ、趙雲はさらに尋ねた。
「劉公子というと、劉封どののことかと思われるが、この村に滞在されているのか?」
「左様でございます。広漢へむかわれる途中であったのが、なにやら奥の歯が、虫歯になって、公子が寝込まれてしまわれたとか。そこでこの村でお休みなられると」
「虫歯?」
趙雲は、一帯にただよう馥郁とした薫りに鼻をひくつかせつつ、開いた門の向こうに見える、ひときわ明るく篝火が灯された一角を見た。
「あちらは村長の屋敷でございまして、なにせ大勢でいらっしゃいましたので、あちらの家だけでは手が足りず、わたくしめもお手伝いをさせていただいている、というわけでございます」
「イナゴだな…」
「は、なにか仰いましたか?」
陳が怪訝そうにするのも構わず、趙雲は礼を言って、陳家を出た。
と、門の横に、荒い息をしている者が馬と一緒になってへばっており、見ると文偉であった。
趙雲を見送りにきた陳は、文偉の様子にぎょっとしたようだが、趙雲は、これは費家の跡取りであるから、もてなしてやって欲しい、と頼み、村長の屋敷へと向かった。
あたりは暗かったものの、村長の家があまりに明るく賑やかであったので、案内がなくても、趙雲と偉度はまっすぐそこへ向かうことができた。
見ると、村長の家では、劉封の近衛たちが酒宴に興じており、まともに近衛の役目を果たしているものは、一人もいない、という有様であった。屋敷の周りには近衛兵たちが酔いつぶれ、めいめいが地べたに座り、好き勝手に騒いでいる。もしも自分の部隊であったら、部隊長は鞭打ちのうえ、全員を一ヶ月の特別調練に送るところだ。
それでも酔ってご機嫌になった近衛兵は、村長の屋敷に入ろうとする趙雲を止めようとやってくる。が、目が合った途端、近衛兵は顔を強ばらせ、一斉に引き下がった。
「劉副軍中郎将はいずこに?」
近衛兵たちは、みな劉封と同じ年の若者が大半である。未来の蜀の主の近衛ということで、気が大きくなっているのだろう。趙雲が睥睨すると、それまで賑やかだったものが、徐々に波紋が広がるように静かになっていった。
近衛兵の一人が、中に居られます、と亀のように首をひっこめつつ言った。
屋敷の中は、さらに乱れた有様となっていた。
家人たちは蜂のように忙しそうに屋敷を動き回り、近衛兵たちの応対に追われている。
みな、自分たちの饗宴に夢中になっており、趙雲の来訪に気づかない。
さらに奥に入っていくと、村長と思しき男が、愛想笑いを浮かべつつも、困りきった目をして、おろおろとしているのが目に入った。
見ると、だらしなくも鎧を脱ぎ捨て、大きく胸をはだけさせ、だらしのない姿をさらした劉封が、客間の中央で酒を煽りつつ、あきらかに村娘とわかる、若い娘たちばかりをはべらせて、酒を強要したり、あるいは妓女にするように体に触れようとしたりしている。
さらに、おぼつかない手で楽器に触れ、辛うじて音楽らしきものを奏でている娘に怒鳴るようにして命令をし、あるいは卑猥な冗談をぶつける。部屋の中央では、着飾った娘に、舞をまわせたりしているのであるが、気の毒な村娘たちは、公子と、その近衛の傍若無人なふるまいに怯えて、どれも、いまにも泣きそうな顔をしているのであった。
そんなこともお構いなしに、劉封と近衛たちは、やんやと下世話な言葉で娘たちを囃し立て、もっと過激な見世物をと、横暴に要求している。
なかでも、すっかり出来上がっている劉封は、声高に言った。
「もっとしっかり腰を振って見せるがいい。もしも俺の目にかなったら、ともに成都に連れて行って、贅沢をさせてやるぞ。運がよければ、俺の妾の一人にしてやってもよい。俺を存分に楽しませてみせろ。未来の帝の義兄の妾となれるのだ。さあ、しけた面をしていないで、もっと派手にやってみせるのだ!」
その声にかぶせるようにして、低い場違いな声が響いた。
「未来の帝、というのは、当然、劉禅さまのことであろうな?」
趙雲の声は、鋭い刃のように、場の空気を両断した。
部将たちは仰天して腰を浮かせ、娘たちは、驚いて、村長の周囲に駆け寄ると、みんなで集まってしまった。
うろたえる部将たちに、後ろからついてきた偉度が、嫣然とした笑みを浮かべながら、物騒なことを言う。
「わたしが刺客だったら、あんたたちのうちの三人くらいは、まちがいなく軽く首を落としていたね」
劉封は口をあんぐりと開けて、うめくように言う。
「趙…子龍。それと、軍師の主簿か? なぜここに?」
「歯痛のお見舞いだ」
言うと、趙雲は杯を手から離さず、ぼう然としている劉封の胸倉を掴み上げ、そのまま引っ張り上げた。
劉封は、さほど背の高くない青年だ。
趙雲が力づくで引っ張り上げると、ちょうど劉封の足は地面から浮く形となった。
「しばらく見ぬ間に、ずいぶん殊勝になったものではないか。劉家の家督をあきらめて、弟君を支える決意を固めたと見える」
劉封が、蛙のような声をあげて、怯えたまなざしで趙雲を見、酒臭い息を荒く吐き出す。
趙雲は苛立ちをこめて、その身を揺すった。
「いまの問いに答えよ。おまえのいま言った帝、とは、だれのことだ?」
「りゅ…りゅう…」
「劉括、ではないか」
劉封の目が、恐怖で見開かれた。それが答えであった。
「愚かな陰謀に加担したものだな」
趙雲は、このまま劉封の首をへし折ってやりたい凶悪な気分に駆られたが、あとあとのことを思い、ぐっと我慢をした。そうして、劉封を投げるようにして、乱暴に床に落とす。
痛みにうめく劉封を、趙雲は冷たく見下ろした。
「魏の細作は、文偉を始末するために成都に入った。しかし大人数なので目立つ。そこで、おまえは彼らが目立たぬよう、妓楼を借り切って、おのれの名を利用して、彼らを匿ってやった。
高級妓楼をおまえが利用できたのは、おまえが金をだしてくれたからではなく、魏がご親切に出資してくれたからだ。
それだけではなく、おまえは軍師の誘拐をも手伝った。そうして向かう先は広漢の終風村。ちがうか?」
「わるいが、こちらにも情報網というものが存在してね、あんたの分かりやすい行動のおかげで、すぐにカラクリがわかったよ」
偉度が口を挟む。その揶揄するような口調に、部将たちが色めきたったが、まるで平然として、逆に彼らを見回す。
「おや、われらをここで始末して、口止めするかい? だとしたら、村人も全員殺さねばなるまいね。そうしたら、さすがに太守が黙ってないよ。
まったく、あんたがたは隠密行動って言葉を知らないのかい? さっさと終風村に向かえばよかったのだ。そこでは、魏の仲間が、あんたたちを、もっと楽しく歓迎してくれただろうに」
「偉度、あまり挑発するな」
たしなめて、趙雲は、悔しそうに顔をゆがめる劉封を見下ろした。
「終風村にいるのは、何者だ? 陳羣か?」
陳羣は魏の大物である。御史中丞の陳長文。曹操の智者のうちでも、知らぬもののない名家の人間であり、とくに世人のあいだでも、名声の高い男だ。
その大物が、堂々と蜀の地に入り込んでこられたのは、内部の手引きがあればこそだ。そして、村人がごっそりと呉の細作と入れ替わっている終風村という、格好の隠れ場があり、しかも村の一帯は、盗賊たちの横行する無法地帯である。
魏の人間が嘲弄しているのが、目に浮かぶようであった。
おのれの主張ばかりして、劉備たちが必死で築き上げたものを、あっさり否定してみせる。とても後継者にはふさわしくない器の持ち主である。
しかし敵からすれば、おおいにありがたい話だろう。これが劉備の長子よと嘲い、その扱いやすさに呆れている姿も目に浮かんだ。
怒りのまなざしを向け続ける趙雲に、劉封が、唸るように言った。
「わたしがしたことは、『幼なじみ』を歓待したことだけだ」
「ほう、ならば、おまえはいま、どこに向かっているのだ?」
劉封は黙り込み、顔をそむけ、唇を噛んでいる。
だんまりを決め込むらしい。
しかし、趙雲は、劉封をゆっくり問い詰めているつもりはなかった。
時間がない。
腕を伸ばし、ふたたび劉封の胸倉を掴み上げ、そうして、したたかに、その頬を拳で殴りつけた。ばき、と骨の折れる鈍い音がした。
村娘たちが一斉に悲鳴をあげる。
部将たちが、趙雲の振る舞いにいきり立ち、詰め寄ろうとする。
「鎮まれい!」
趙雲は大音声で呼ばわると、その場のものたちが、一斉にぴたりと口を閉ざした。
異様な静けさが村長の屋敷を包んだ。
視線という視線、すべてが趙雲に集まってくる。そのどれもが、山林に住まう虎を見るような、怯えたものであった。
劉封は、というと、床に投げ捨てられたと同時に、鼻と口を押さえて体を震わせている。両方からそれぞれ血の筋が垂れて、地面にぽたぽたと雫を落としていた。
「此度のこと、俺が成都に帰ったなら、すぐさま主公にご報告申し上げる」
劉封は、おびえながらも、趙雲の言葉に、目をぱちくりとさせている。
趙雲は息を付き、しばしためらったあと、驚異的な忍耐力でもって、もう一度くりかえした。
「よいか、俺が成都に帰ったなら、だ」
劉封は、なにか口にしようとしたが、とつぜんむせ返り、言葉を発することができなくなった。
げえげえと口いっぱいにひろがる血を吐き出し、そして最後に、べえっ、と白いものを吐き出した。
折られた歯であった。
「よかったな、歯痛が治ったではないか」
冷たく言うと、趙雲は踵を返す。
嵐のようにつよい感情に呑まれつつも、趙雲は、それでも劉封に自分がとどめをさすことは出来なかった。
劉禅もそうだが、劉封も、少年の時からよく知っている。
この青年がこれほどに曲がってしまったのは、彼自身の資質に問題があるだけではない。この青年は、とことん運が悪いのだ。
哀れだと思ったとたんに、殺意も、かろうじて抑えられるまでに減った。
趙雲が劉備に報告することをおそれ、劉封は、どこぞへ逐電するかもしれない。
それでもいい。
むしろ、そのほうがよい、とさえ趙雲は思った。やはり知っている者の死は、厳しい。
そうして、趙雲が、村長の屋敷から出ようと踵を返すと、劉封の言葉が追いかけてきた。
「趙子龍、俺は、彼らの言葉が間違っているとは思わない!」
「なんだと?」
「たった一人の犠牲でよいのだと、彼らは言っているのだ。たった一人だぞ! それで、もう戦乱の世を終わらせることができるのだ!」
趙雲は振り返ると、血まみれの口を押さえつつ、激情に駆られている青年を一喝した。
「たわけめ、甘言に乗せられたか! たった一人ですべてが済むものか。やつらは軍師を除いたあと、蜀を併呑するつもりであろうが、主公はたやすく魏の前に頭を下げるお方ではない!」
「いいや、父上とて、劉括を見たら、心を変える。劉括は、まちがいなく養父の御子。顔を見ればわかる。実の子を、漢王朝の帝位につけることができるのだぞ。父上の志は果たされるではないか! おまえは、他人である軍師のために、養父が、己が子を旗頭にしている魏と戦うと思うか?」
「愚かな…」
「なぜ、この策が駄目だと決め付けるのだ? 父上の御子さえ、帝位を襲ってしまえばよいのだ。曹操はもう年だ。曹操は、老齢にさしかかったにもかかわらず、いまだに後継を指定しかねている。おそらく、なんらかの形で、曹一族は紛糾するにちがいない。その機を狙って、俺たちは魏に屈したように見せかけ、曹一族に反旗を翻すのだ!」
「紛糾しなかったら?」
「させればいいじゃないか」
劉封は、心当たりでもあるのか、にやりと訳知り顔の笑みを浮かべて見せる。
趙雲は、知らないあいだに策謀の味をおぼえていた青年を、薄気味わるく見下ろした。
もともと、あまり仲がよくなかった、というのもあり、その身辺がどうなっているのか、関心をよせてこなかった。が、知らぬあいだに、この青年の周囲には、どうやら悪知恵ばかりが働く連中が、集まってしまっているようだ。
朱に交われば赤くなる。劉備は悪を断固として拒否できる、つよい意志と判断力に恵まれているが、この青年は、養父から、その姿勢を学べなかったらしい。
もしかして、こいつは、俺の想像以上に、魏とつながりがあるのではないか…?
疑念にかられる趙雲をよそに、劉封は得意になって長舌をつづける。
「魏には、自分たちが有利になる策だと、油断させておけばいい。 最終的な勝利は我らが掴む。いまよりずっと、天下が近くなるぞ! なにせ父上の御子が帝になるのだからな!
魏は、孔明が死にさえすれば、我らを許す、と言っているのだ。軍師の死は、無駄にはならぬ。俺たちの格好の隠れ蓑となってくれるのだからな。我らはひたすら待っていればよいのだ。そして機を狙って策を成功させれば、劉氏は甦ることができる。天下のため、いや、おまえの仕える劉氏の繁栄のため、ここは見逃せ。成都に帰るのだ!」
趙雲は、ふたたび暴れたがる拳を、叱りつけるようにぎゅっと握り、きつく劉封をにらみつけた。
「だれに唆されたのかはしらぬが、おまえは甘い。おまえのような浅慮者の思惑なぞ、あの大国は、木の葉を車輪で踏み潰すかのように、たやすく砕いてしまうであろう。それに、俺は、たとえ蜀の全員が降伏しようと、降伏などせぬ。一人でも戦う」
「愚かな…劉氏の繁栄を考えろ。そうしたら、おまえは反対なぞ出来なくなるぞ。本当に劉氏のことを考えているのは、この俺だ。血がすべてではなかろう。悪いことは言わぬ。俺に付け! 劉氏あってこその漢王朝、そして民だ。負け犬にならぬうちに、俺と組むのだ」
「その劉氏とて、股肱の臣がいなければ、なにもできぬ身ではないか」
「ふん、いよいよ本音を出したな、この忠義面をした叛徒めが!」
「なんだと?」
趙雲が顔色を変えたことで、劉封は得意になり、血まみれの顔を悪鬼のように歪ませて、笑った。
「おまえは、忠義の士などではない、趙子龍。俺の話を聞けないことが、その証拠だ! おまえの怒りは、俺が軍師を魏に売ったから、そこまではげしくなっているのだ。おまえは、本当は、父上よりも孔明のほうがずっと大事なのだ。
父に忠誠を尽くしているフリをして、おまえはとっくの昔に父上の家臣を辞めて、孔明の子分に成り下がっているのだ! そのおまえが、俺の話などまともに聞けようはずがない!」
「………」
趙雲は、言葉を発しようとした。
しかし、なにも言うことが出来ないおのれに、まず愕然とした。その様子を見て、ますます劉封は陰湿な笑みを浮かべる。
「地の果てでも、どこへでも、好きなところへ追いかけていくがいい! おまえが終風村につく頃には、首だけになった軍師が、おまえを出迎えてくれるだろうさ!」
趙雲は、動揺を押し隠しつつ、劉封の甲高い嘲笑を背に、村長の屋敷を出た。
畑を突っ切るようにしてつづく村の道をたどり、最初に馬をつないだ陳家へと戻る。
畑のあちこちで、虫の声がしている。寂しげな雉の声が、けん、けん、と夜闇に響いていた。
「顎を砕いたかと」
と、偉度が後ろから追いかけながら、言う。
「俺の一存で処罰はできぬ」
答えつつ、趙雲は、口を利きたくない気分であったので、ますます足を速めた。
思いもかけない反撃を受けた、と思っていた。忠義の士ではない、と言い切られたとき、とっさに言い返すことのできなかった自分が理解できなかった。
劉封の、魏の策の裏を掻こうとする劉封の考えには、一理ある。うまくいけば、天下はふたたび劉氏のものになるだろう。
孔明さえ犠牲になれば…
「駄目だ」
思わず口に出して、追いついてきた偉度に顔をのぞかれる。しかし構わず、趙雲は歩いた。
そんな天下に意味はない。諸葛孔明という人間一人に責任を負わせ、まるで祭壇にささげた生贄のようにして、屠るなど、させてはならぬ。
だが、奥のほうから、劉封の声、そして御者の声がささやいてくる。
たった一人の犠牲で天下が安んじる。
天下のため、劉氏の繁栄のため。
諸葛孔明さえ死ねば。
乱世が、終わるというのか。ありえない。
………いや、なにがありえない、というのだ?
乱世が終わる、ということか? 劉封が狙う曹一族の滅亡か? 劉備の子が帝位を襲う、ということか?
どんどん心の中を問い詰めていくと、思いもかけない恐ろしいものが引き出されてしまいそうで、趙雲はぞくりと身を震わせた。
しかし、胸にある物は、まちがいなく、自分の本心であった。
いまは見ないほうがいい。なすべきことをするのだ。
「まったく、認めておしまいになればよいものを」
「なにをだ?」
苛立ちもあらわに趙雲が尋ねると、偉度が、闇のうしろで、鼻で笑ったのがわかった。
「気づいてらっしゃらないのであれば結構。ならば、一生、気づかないでいなさい」
「いちいち、意味ありげな言葉を吐くやつだな」
「性分なんでね」
それきり偉度は黙り込み、趙雲も言葉を発しなかった。
時間を、ふたたび広漢の終風村に合わせる。
孔明は、変わらず欄干の外をながめていた。
試しに、天蓋を引っ張って、紐を作ってみたけれども、やはり地上に届くには短すぎるものとなった。
とはいえ、無理に下に届くように作るのは、あの舞の達者な青年が言うとおり、材質的に無理がある。孔明の体重に耐えられるような布ではない。
太陽は、徐々に西の空に傾き始めていた。
徐庶とともに、曹操と袁紹が対戦をした官渡へ、足を運んだことがある。
もちろん、物見遊山などではない。少年のころに染み付いた、『曹操は残虐きわまりない男』という印象が、果たして正しいのか、成長した目で確かめたかったのだ。
孔明にとって、曹操は、乱世を支える英雄のひとりではなく、乱世の大地に生じた、現在もなおつづいている『現象』であった。明確な意思を持つ、巨大な台風。そんな印象がある。
司馬徳操の門人たちは、みな曹操を語りたがったが、孔明は、彼らの意見を聞いても、沈黙しているだけであった。
語る言葉が見つからなかったのである。
故郷を破壊した男だから、許せないから、批判する、というのも感情的でぶざまに思えたし、かといって、知った顔をして、意見を言う気にはなれなかった。
袁紹と覇権を争い、いよいよぶつかった、という話を聞いたとき、孔明もまた、世人と同じように、袁紹は曹操に滅ぼされるであろうと思った。
いや、そう願っていた、というべきかもしれない。
しかし矢継ぎ早に伝えられる北からの情報は、思いもかけない話ばかりであった。
最終的に曹操が勝ったと聞いたとき、孔明は、自分の予想が外れたことをひどく恥じた。
だれに吹聴していたわけでもないが、どこかで自分の分析力を、過剰に評価していたのだろう。
世間は、曹操の劇的な勝利に、みな一様におどろき、ある者などは、曹操こそ天下の大器、覇王の風ありと絶賛し、ある者は、これで漢王朝は、賊の手に落ちて、滅びるであろうと、世の無常をなげいた。
孔明の場合は、まるで自分が曹操に負けたかのような敗北感を感じていた。
居ても立ってもいられなくなり、渋る徐庶を説得して、戦の終わったあとの官渡へ行った。
官渡で孔明が見たものは、意外なものであった。
やはり、日が照っていた。
ほうぼうに、すでに腐り始めている兵士たちの死体があり、それを黙々と片づけている、近隣の農民たちの姿がある。
その周囲を、カラスがぎゃあぎゃあと騒がしく死肉をあさろうと狙っており、それを払うためと、なかば遊びの為に、子供たちが石を投げる。
奇妙な光景であった。
戦の直後の光景ならば、もっと酸鼻のきわまるものであっただろうが、孔明が足を伸ばしたときは、曹操は軍を引き下げたあとであった。
しかし、その、すでに日常を取り戻しつつある人々の姿を見たときに、唐突に、これが世の中なのだ、と思った。
曹操が、あれほど残虐な行為をはたらいて、世間の評判を著しく落としたというのに、それでもなお、着々と覇権をひろげているのは、なぜか。
やはり、曹操は『正しい』からではないのか…いや、これも表現があたらない。つまり、時代に適っているのではないか。
襄陽から、官渡に至る道のりは、決して平坦ではなかったけれど、曹操の軍が目を光らせている土地は、おどろくほど快適で、危険が少なかったのも事実だ。
徐州の大虐殺は、悪である。それを指導したのは曹操である。その事実は忘れてよいことではない。
だが、もっと大きな目で見れば、『曹操という人物を中心とした勢力』が成し遂げようとしているものは、天下にとって、よいことなのではないか。
自分は、感情にとらわれすぎて、曹操を中心とした勢力の本質を、なにも見ていなかったのではないか。
そうして孔明は、それまでの姿勢をあらためて、だれよりも熱心に魏の動きを見るようになった。
曹操の家臣たち、彼らを曹操がどう使い、彼らが曹操をどう扱っているか、彼らの考え、彼らの行動、そして聞こえてくる、醜聞めいた政争劇等々…
曹操は、帝を廃して、自分を帝位につけようとしている、漢賊だ、という風評が主流になりつつあったが、孔明はそれには与しなかった。
そんなに単純な野望を抱いている男ではない。曹操は、世の中を自分の好みに変えるために、躍起になっているのではない。曹操は、漢という国に染み付いた穢れをすべて祓い、まったく新しい国を作ろうとしているのだ。
自分の優秀さを誇るためではない。薄っぺらな野望で曹操は動いていない。後世のことをも視野にいれ、この男は動いている。
乱世を、自分の代で終わらせて、民を安寧にみちびくこと。
だが、あくまで漢への回帰をねらう孔明と曹操とでは、理想とする行く末に違いがあるが、そこに至るまでの動機や、思考は、実によく似通っていた。
それに気づいたとき、孔明は結論した。
北は、曹操がいるから、もうよい。
天下には、人が足りない。人が足りないのに、土地が広すぎる。
この全土に飛び火した戦火を消し止めるには、ひとつの勢力にすべてを任せるには無理がある。自身があまりに優秀すぎるので、曹操は、すべてを自分で行う傾向がある。そのために曹操ひとりに権力が集中し、領土が拡大すればするほど、その動きが鈍くなっている。おそらく、曹操一代で、天下を統一させることはできないであろう。
ならば、曹操の手の届かない土地は、自分が治めようではないか。
このひそやかな野望を語ったことはない。
野望、あるいは大望、というべきであろうか。
この大望の果てに生まれたのが、天下三分の計である。
この策の下地になった、孔明の想いに気づく者はいない。孔明が慎重に隠してきたからだ。
知られぬまま、ここで死ぬというのは、あるいは幸せなことかもしれない。劉備の忠臣…言い換えるならば、漢王室への忠を最後まで貫いた者として死ねるのだから。
太陽が沈むのと共に、死がやってくる。
おのれの死を完全に否定して物事を考えているためか、それとも、この期に及んで現実逃避か、孔明は、いままでになく死が迫っているこの状況において、ずいぶん冷静に対処できている自分の心をもてあましていた。
まるで自分が二つに裂かれてしまったようである。
やはり、血というのは強いのだろうか。劉氏の血? ふざけているではないか。あんな、右も左もわからぬ子供を操って、傀儡政治を行うから、邪魔者は死ね、という。
劉氏の血さえ引いていれば、どれだけ無能であろうと帝位を取れるこの理不尽さ!
なにを言っているのだろう、いよいよ錯乱か?
劉氏のだれが帝位にあろうと関係がない。彼らは象徴であればよい。万民が仰ぎ見て、安堵できる大きな存在であればよいのだ。
皇帝は、民にとっての太陽のようなもの。自分はその手足であればよい。
だが、手足がもがれようと、人は生き残ることができる。
孔明は、大きく息を付き、自分を叱るようにして、どん、と欄干を叩いた。
こんな袋小路のような思考にはまって、落ち込んでいる場合ではない。逃げるのだ。どんな形であろうと逃げるのだ。
孔明は、さきほど作った紐を見た。
そして、首括り用の絹の糸束を見る。
いちかばちかだ。どうせ死ぬなら、あきれるほど不様に、生への執着をみせて、死んでやろうではないか。自分が、いまここに生きているのは、徐州で死んだ民の代表として、虐げられてもなお、前へ歩こうとする、民の代表としての自負があるからだ。
新帝とやらに、民の誇りというものを見せてやろうではないか。
成都から広漢までの道のりは結構ありますので、
孔明は薬で何度も眠らされて連れてきた、趙雲はそれを一日遅れで追っている、という設定です。
ですから趙雲が懸命に追いかけているとき、孔明は薬でぐうぐう寝ていたんですね。
ちと分かりにくい構成ですが、今後の展開にどうぞご注目ください。
Q・ヤツはヤツで確定ですか? A・そう言うことにしておいて下さい?(←気になるハテナマーク)
つづく