12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
六
さて、話は、少々時間をさかのぼる。
趙雲は、孔明を迎えにいくべく、出立の支度をすると、屋敷に向かったのであるが、しかし諸葛家の門番は、趙雲の姿を見て、怪訝そうに眉をしかめた。
「軍師は、趙将軍の自邸にお泊りになったのでは?」
「なんだと?」
「ゆうべ、趙将軍のところから、使いが参りまして…」
と、みなまで言わず、門番の顔色が変わった。
同時に、趙雲の心臓が跳ねた。まさか。
門番は、やはりこれも偉度によって躾けられた家人であったから、察しのいいところで、自分たちが失態をしたことに気づいたのだ。
そうして、怯えた声で尋ねてくる。
「軍師は、そちらにいらっしゃらなかったのですか?」
「おらぬ。使いというのは、何者だ?」
「いつもの男でございました」
いつもの男、というのは、荊州時代から趙雲が使っている男である。
その男、そういえば、今日は姿を見ていない。そしてさらに、孔明の馬車を引いていた御者も、屋敷に戻っていないという。
孔明のすべてを理解しているわけではないが、家人に嘘をついてまで、泊まりに行く先があるとは思えない。
焦る気持ちを抑えつつ偉度に連絡を取ると、さすがに行動がはやく、偉度は成都を出ようとしていた御者と、趙雲の家の家人を捕まえて、屯所へ引っ立ててきた。
屯所に駆けつけると、すでに二人はすべてを吐いたあとであった。
偉度は二十歳をすぎたばかりの青年であるが、孔明に厚く信任されており、公私にわたって孔明を支えている。
その能力たるや一軍の将にも勝るのであるが、本人は表に出ることをきらって、裏方に徹しているのだ。
趙雲の顔を見るなり、偉度は前置きもなしに早口で、二人を罵る。
「呆れるじゃありませんか。たった一晩で、こいつら揃って気がちがってしまったらしい。こいつら、魏にそそのかされて、軍師を攫って、連中に渡した、というのですよ。
呆れたことに、連れて行った場所はどこだと思います? 広漢の、終風村だというのです」
と、偉度は捕縛した二人を軽蔑しきったまなざしで見下ろす。
捕縛した二人は、趙雲が連絡をうけて駆けつけたときには、すでに拷問を受け、洗いざらい白状したあとであった。
もしも孔明がこの場にいたならば、短慮な真似はするなといって、偉度をきつく叱ったであろう。情報を素早く引き出せたことを評価しつつも、趙雲は、孔明がいなくなった途端に、これか、といささか危うさをおぼえた。
「さあ、将軍に、わたしたちにした話をくりかえすのだ」
裏切った仲間には、容赦はしない、という思考は、偉度の精神に沁みこんでいるようである。
偉度が言うと、かつて仲間であったはずの御者は、のろのろと口を開く。
「俺たちは、天下を救うために、やむを得ずそうしたのだ。あらたな帝をむかえ、漢王朝を再興させるためには、犠牲はやむを得ぬ」
「わけがわからぬ。正気か?」
趙雲が苛立ちの籠もったまなざしを偉度に向けると、偉度は、肩をすくめてみせた。
「まったく、あんたも自分を見失ってどうするのさ。さあ、続きを」
「戦乱の世を終わらせるために、曹公はいまの帝を廃し、あらたに劉氏の帝を迎えることを決められた。しかしそうなれば、皇叔たる主公も黙っておられぬ。またあらたな火種となるであろう。そこで曹公は、ひそかに鄴にて育てられていた、主公の長子の劉括さまに、帝位についていただくことを決められたのだ」
「主公の長子だと? 若君のほかに、お子がいて、それがあろうことか、曹操の手元で育てられていた、というのか」
「本来は殺されるところであったのを、陳長文が助けて養育していたのだと聞いた。御年十二になられる、実に聡明な御子だという。曹公は主公の御子を帝につけることで、魏と蜀の融和をはかろうとされているのだ」
「そこで、なぜ犠牲が必要で、おまえたちは軍師を略取せしめたのだ?」
「軍師は、劉括さまの母上を、新野にて捕らえ、処刑したからだ。曹公は、新帝を即位させられるにあたり、我らのこれまでのことは水に流す、ともに来朝し、帝をお助けせよと仰っておられる。だが、帝の母上を殺した者だけは、許すことができぬ、と。しかし、主公は軍師を厚く信頼しており、この話を持ちかければ、きっとそのようなことはできぬと、曹公のお話自体を蹴る危険性があった。そこで仕方なく、軍師を捕らえ、新帝の母を処刑した罪で処断してから、主公にお知らせすることになったのだ」
「新野で、軍師が母親を処刑? なにかの間違いではないか。あるいは人違いだ。軍師が、たやすく人を処断するとは思えぬ」
しかし、顔が腫れ上がった御者は、趙雲の問いに首を振った。
「軍師は非情なお方だ。身分は低く、曹公に仕えていることもあり、夫に会いに来たご母堂を捕らえると、新野を探っていた細作だと言って、処刑されたのだという」
「そのような話は聞いたことがない」
すぐさま趙雲は否定する。すると、男も負けじと食い下がる。
「なぜお分かりになる! 四六時中、軍師のそばにいたというのならともかく、軍師のすべてを貴殿が把握しておられるというのか」
「そうだ」
これもまたきっぱり言ってのけると、趙雲は偉度に、表に出るようにと目で知らせた。
その背中に、御者が言葉を浴びせてくる。
「たった一人! たった一人の男が犠牲になれば、乱世が終わり、みなが助かるのだ! これ以上の血を流すことなく、すべてが終わるのだぞ。たった一人の男の命を惜しみ、天下を安んじることのできる機会を、みすみす捨てる、というのか!」
外に出ると、あきれるほど平和なことに、空は晴れ、ゆるやかな風が吹き、それにのって、白い蝶がひらひらと舞っていくのが見えた。
男たちのした話があまりに荒唐無稽で思いがけなかったために、趙雲は、部屋の外にはいつもの平和な光景があることを、ありがたく思った。
偉度は、おのれの失態に恥じ入っているのだろう、それを誤魔化すためでもないだろうが、わざとぶっきらぼうに嘆いてみせる。
「やれやれ、あいつは、わたしなどよりずっと年長で、世間というものをよく知っているし、分をわきまえた男だと思っていたのに、あんなたわ言にたやすくひっかかり、恩人をあっさり敵に売るなんてね。これだから、人なんて物は、信用しちゃいけない」
「おまえ、それを軍師の前で言うなよ」
わかっています、と偉度は言って、大きく息を整えた。悪態をついていても、本意ではないのだろう。
「さて、あれだけ言い切ったからには、軍師が新帝の劉括とやらの母親を殺した、なんて話はでまかせと見てよろしいのですね?」
「同じ罪人を処罰するにも、軍師は、女は罪を軽くする傾向がある。新野でも罪人の裁定はしていたが、もしも処刑せねばならぬほどの罪状を犯した女がいたとしたら、それは俺もおぼえているはずだ」
「あなたがしらないところで、そんなことがあったのかもしれない」
「ない。有り得ない…いや、女を処刑したといえば、一度だけ、曹操の刺客が忍び込んだときがあった」
おのれで口にだし、趙雲は電光に打たれたように思った。あの女、むかし鄴にて、劉備の情けを受けたと言っていた。もし、その女のことを指すのなら?
様子のかわった趙雲を見て、偉度が小首をかしげて、どうしたのかと尋ねてくる。趙雲は、かつて新野で起こった事件のあらましを話して聞かせた。
「なるほど。さすがに新帝の母が刺客だった、なんて事実は公にできないから、軍師を悪者に仕立て上げているわけか。軍師をさらった理由がわかったところで、なんだって陳長文ともあろう者が、こんな無茶な策謀をめぐらせているのでしょうね。それに、曹操が、憎い敵の子を帝位につけてやる、なんて慈善事業をすると思いますか」
「有り得ぬ。もし本心だとしたら、曹操は狂ったにちがいない」
本当であれば喜ばしいことだが、趙雲は、曹操という男が、そんな感傷的な真似をするとは思えなかった。
曹操は武芸や政務のみならず、文芸においても卓越した才能を示している。おそらくこの世で、もっとも人間というものを冷静に見ている男だ。だからこそ、新帝の即位、などという話は妄言にしか聞こえなかった。
本当であったら、どれだけ素晴らしいか知れないが、いい話というのは、かならずどこかで人を裏切るものだ。
それが事実だと仮定して、まず、蜀は無血状態で魏に併呑される。
つづいて、赦す、赦すとはいいながら、馬超たちの立場は危うくなり、結局なんらかの罪をむりやり着せられて、刑場へ引っ立てられる。
そうしてあらかた粛清がおわったあと、魏と蜀の両方を手に入れた曹操は、新帝の後見人としてふたたび権力をふるい、残る呉を平らげるであろう。
結局、曹操が一番得をするのだ。
曹操が、最初に孔明を始末しようとしたのは正しい。
孔明は蜀においての要なのだ。この要が壊れてしまえば、あとはみなバラバラになってしまい、曹操の思惑どおりになるだろう。
だから捕らえた。そして…
「彼らはすぐに軍師を殺さないでしょう」
「なぜわかる」
「曹操は、才能を持つものに厚い。相手がむしろ、曹操だったら幸運ですよ。もしこの策謀を曹操自身がめぐらせているのであれば、おそらく軍師を味方につけるべく、いろいろ懐柔策を用いると思うのです」
「金も女も役には立たぬぞ」
「しかし、命がきわめて危うい状況になったらどうです。あの方は、生きるのが大好きな人ですからね、ひとまず生きるためならば、案外、あっさり曹操の前に膝を折るかもしれない。そうして、仲間になったフリをして、わたしたちのことろへ戻ってくる」
偉度の推理に、趙雲は首を振った。
「軍師は、そのような変節漢のまねごとはせぬ。こと、相手が曹操となれば、全身全霊をかけて、おのれの誇りを見せようとするであろう」
自分で言って、ぞっとした。孔明はもしかしたら、すでにこの世の者ではないのか?
「まあ、生きていることはたしかだ。もし殺すのが最初からの目的ならば、さっさとその場でそうしていただろうし、おそらく何か他に目的があるのでしょう。さて、こんなところでおしゃべりをしていても仕方がない。行きますよ。もしかしたら、途中で連中に追いつくかもしれない」
「広漢の終風村か…まちがいないのであろうな?」
すると、偉度はちらりと趙雲を見て、艶めいた笑みを浮かべる。
「確認している暇はない。しかしね、どうもこの話は、もっといろいろ裏にあるような気がしてならない。根拠はなにもなく、勘なのですが」
そうして、趙雲は、思いもかけず胡偉度と二人旅をすることとなったが、もはや旅などとはいえない強行軍である。
互いに、もっとも足の速くて丈夫な馬を用意し、ほとんど取る物もとりあえず、という形で成都を出ようとすると、長星橋のところで、見慣れた青年が、旅装束に身を包み、やはり馬にまたがっていた。
「文偉、おまえもどこかへ出かけるのか」
旅装をしている文偉にそう問いかけると、文偉は、笠を取って、前置きもなしに、いつになく張り切った声で言った。
「わたくしも、お供をさせてください」
思わず趙雲と偉度は顔を見合わせた。
孔明が魏の細作にさらわれた、という話を知っているのは、法正と董和のみである。
法正の判断により、劉備に知らせることは伏せることにした。
劉備はときどきひどく激情に駆られることがあるので、この報を聞けば、広漢に向けて軍を動かす、などと言い出すかもしれない。
趙雲としては、行動が大きくなればなるほど、かかる時間も増えてしまうので、それは避けたいと思っていた。最悪の場合は、もちろん軍を動かすことを自分から諸将に訴え、劉備をも動かす。だが、いまは駄目だ。
董和は、趙雲と偉度に、二人だけで先に終風村に向かうことに対し、あくまで二人は偵察で向かうのであり、二人での対処が無理と判断したら、早々に引き上げ、援軍を頼むようにと念を押し、慎重な董和らしく、誓紙まで取った。
董和も、魏の対応について、疑問を持っているらしい。
たった一人が犠牲になれば、乱世は終わる。
耳のなかに、御者の言ったことばがいつまでも耳に残っている。
そうだろうか。本当にそんなことが可能なのだろうか。
文偉の真剣そのものの思いつめた様子に、偉度はあきれて言った。
「まったくバカ坊ちゃん、遊びにいくのではないのだ。このあいだベソ掻いて帰って来たくせに、また恐ろしい目にわざわざ会いにいくという。
あんたの想い人はさっさと呉に帰ってしまったよ。わかったなら、家に帰って恋文でもしたためているのだね」
偉度の言葉に、文偉は、酢を頬にいっぱい頬張ったような顔をした。
「でも、居ても立ってもいられない。それに、予感がするのだ」
「どんな予感だ」
「あれからわたしも考えた。呉と魏は決裂し、呉は故国へ帰っていった。しかし、魏がそれで黙っているだろうか。わたしがもし魏の人間ならば、報復の為に、呉を追いかけると思う。もしかしたら、芝蘭は捕らえられてしまったかもしれない」
偉度はあきれて首を振る。
「ああ、いやだいやだ。恋する男の妄想は、妙に筋が通っているだけに厄介だ。悪いがね、あんたとここで論戦を張っている暇はない。わたしたちがどこに行くのか、なぜ知っている」
「…あなた方が幼宰さまのお屋敷にいらしているときに、わたしも休昭の家に遊びに来ていたのだ。知らなかっただろう」
「なるほど。趙将軍、どうなさる?」
どうもこうもない。文偉は体力に乏しい文官だ。物見遊山ではあるまいし、付いて来られても、足手まといになるだけだ。
「文偉、帰れ」
それだけ言って、趙雲は文偉から離れると、長星橋を抜けて、一気に成都の郊外へと走り出した。偉度もそれにつづけてやってくる。
「おや、ついて来ますよ。なかなか根性がある」
ちらりと後方を振り返ると、馬を必死で励ましつつ、懸命に追いついてこようとする文偉の姿があった。健気なのは認めるが、しかし、いまはその想いに応えている暇はない。
趙雲と偉度は南東に向けて、ひたすら馬を走らせた。
部屋の中は、脱出に使えそうな道具は、徹底して、なにもない。
もちろん、山奥の村の楼閣に、隠し扉などという、気の利いたものはない。
それはそうだろう。自分が逆の立場だったら、なにもない部屋に閉じ込める。
孔明の手には、いま、陳長文が、自害を促すために残していった短剣がある。これを使って、なんとかできないだろうか。
そう、天蓋を引き裂き、繋いで、紐にする、とか。
首を括るために用意された絹の糸束が、役に立つ。
さっそく天蓋をはがしにかかった孔明であるが、そこへ、扉がすっと開いた。
同時にぷんと食欲をそそるよい香りがする。
食事が運ばれてきたらしい。
今日中に死ね、と言っている相手に対し、食事を用意する、というのも皮肉ではないか。陳長文というのは残酷な男だ。
心の中で悪態をつきつつ、見ると、配膳の男は、馬光年や陳長文ではなく、小柄で、風采のあがらぬ青年であった。
一人であったが、孔明に人質に取られることを恐れているのか、腰に立派な剣を携えている。着物から見える腕の太さからいって、なかなか力の強そうな男だ。
「その布は、脆いので、貴方様が体重をかけたら、すぐに千切れてしまうでしょう」
と、青年は、口元に笑みを浮かべながら言った。よい声をしているな、というのが、孔明の第一印象であった。
「寝具は同じ材質を使っておりますので、どれを紐にしようと同じこと。補強をするために多く布を取れば、下にたどり着くまでの長さにはならない。無理に紐を作って逃げようとしても、途中で切れて、墜落死。眠れる龍とまで評された貴方様には、ふさわしくない最後となりましょう。ならば、ご立派な最後を選ばれよ」
「立派な最後、か。生きようともがくことは、不様だろうか。火花のように鮮やかな最後で散るよりも、ブタになってもしぶとく生き残り、天寿をまっとうしたほうが、本当は尊いことなのではないかと思うのだが」
青年はこの言葉を聞くと、ちいさく声をたてて笑い、食事の膳を、ちいさな卓へと運ぶ。
そして、さきほど陳長文が置いていき、すぐさま孔明が破壊した毒入りの瓶でよごれた壁を見た。
「お噂以上に、貴殿は凶暴な御仁のようだ」
「活発と言い直していただこう」
青年は、はじめて部屋に入ってきたのか、めずらしそうに周囲を見回し、最後に、文机のうえに手付かずになっていた文庫を見た。
「手紙くらいはお書きなされ。なにかひとことでも、ご一族に残されないと、かえって恨まれますぞ」
余計なお世話だ、と思いつつ、孔明は青年の言葉を無視して、欄干から外をながめた。
天蓋の布が脆い、という男の言葉が本当だとして、無理に束ねてもこの高さ、下まではとうてい届かないだろう。だから見張りがいないのだ。
このすぐ下の部屋はどうなっているのだろう。
その思いに答えるかのように、すぐ下で、甲冑のものとおぼしき金属音が聞こえてきた。武装の兵卒が、下で動き回っている音だ。
楼閣のすぐ下は地面になっていて、砂地の道になっており、ぐるりと土塀が周囲をかこっている。
塀の外はすぐに崖になっており、崖の先には、青々とした木々が、雲のおだやかに流れる青空のもと、風にそよいでいる。それが果てしなく、地平の彼方まで続いているのだ。
声を枯らして助けを呼んだとしても、かえってくるのは、こだまばかり。
「貴殿には、たしか、呉に仕官している兄上がおられたはず。そちらに手紙を書かなくてよろしいのですか」
「書くことがない」
孔明はキッパリ言うと、青年は、さらに愉快そうに笑った。
その声につられて孔明が振り返ると、青年は丁寧に、卓の上に膳を配している。孔明は、その手を見た。あまり風采のあがらぬ男であるが、手は意外に細長く、うつくしい指をしていた。
「冷めてしまうまえにお食べなさい。だいじょうぶ、毒など入っておりませぬ。もしもお疑いならば、わたくしと半分に分けてたべる、というのは如何か」
「腹が減っては、戦はできぬ、と申す。いただこう」
孔明が素直に卓についたので、青年は畏まって、一歩下がる。
孔明がおどろいたことに、用意された食事は、いずれも蜀の料理ではなく、孔明の故郷である徐州の料理をできうる限り再現したものであった。心づくしの最後の食事、というわけである。
「兄上と仲がお悪いとは、初耳でございますな。たしか、異腹の兄弟であるのでしたか…羹は熱いのでお気をつけて」
「大事無い、ちょうどよい熱さだ…よくご存知だな。どこにでもある話であろうが、父と叔父はわたしを家長にと遺言された。しかし、兄上はそれを承服されず、いまだにそれを引きずっておられる」
「兄上からすれば、そう思われることでしょう。なにゆえ、長男たる自分が健在であるのに、なぜ弟が、と。しかし、仲直りはされたのでは?」
「これからする予定だ。兄上は、わたしが家長の器ではないと思われておる。勘気を解くために、いろいろやってみたが、駄目だった。ならば、兄上が納得するような器に、わたし自身を変えればよい。世人が認める男になれば、兄上も納得されようから」
「なるほど、前向きですな。だから貴殿は、劉禅どのに肩入れをされているのでは?」
孔明は、箸を止めて考え込み、それから首を振った。
「いいや。わたしはわたし、若君は若君だ。わたしには兄上が試練であるように、若君には、劉封どのという試練がある。似た試練をもつ者として、もちろん同情はあるが、わたしが若君に肩入れをするのは、同情からではない。
しかし、ずいぶんわたしのことを気にかけてくれるものだな、日が落ちたなら、処刑してしまおうと考えている男だというのに。貴殿も、なにか兄弟同士の確執で、悩んでおられるのかね、偽の配膳係」
ほう、と配膳係は眉をしかめた。孔明は羹をすすりつつ言う。
「水仕事を生業にする者にしては、貴殿の手はあまりに手入れが良すぎる」
「見た者すべてに、『偽者』と言いがかりをつけているのではないのですかな。長文が怒っておりましたよ」
『長文』、か。
「それは失礼、あとでお会いする機会があれば、謝らねばなるまい。ところでニセモノ氏、わたしが食事を終えるまで、そこにいるつもりかね」
するとこれといった特徴のない風貌の男は、腰の剣を手にした。
孔明は、咄嗟に、体を硬くした。こいつは処刑人か。
しかし、青年は、孔明の様子に頓着するふうでもなく、剣を腰から外すと、深々と孔明に礼を取る。
「たしかにわたくしは配膳係ではございません」
「では、何者かね」
「いまから、舞いをお見せいたします」
そう言うと、青年は袖の始末をして、それから、朗々とした声で歌いながら、見事な舞いを披露しはじめた。
驚いたことに、その口にした歌は、梁父の吟であった。
「歩して斉の城門を出で
遥に望む 蕩陰の里
里中に三墳有り
塁塁として正に相い似たり
問う是れ誰が家の墓ぞ…」
見事な舞であった。
青年が、どん、と床を踏み鳴らすたびに、あざやかに、幼い頃の徐州の思い出が甦ってくる。
まだ苦しみも悲しみも知らなかった、穏やかな頃の記憶だ。
すべてが終わったとき、孔明は袖で涙をぬぐい、目の前の青年に賞賛の拍手を送った。
「見事であった。これほど見事な男舞を舞える者は、天下にそうはおるまい」
「剣を奪って、わたしを人質に取ることも忘れるほど、でございますか」
青年に言われて、初めて孔明は、そうすることもできたな、と思った。
だが、すぐに苦笑を浮かべて首を振る。
「甘いといわれるかも知れぬが、これほど見事な芸者に野蛮な振る舞いはできぬ」
青年は、にっこりと嬉しそうに笑うと、ふたたび孔明に礼を取った。
「この舞が、貴方様の最後の慰めになればと思い、心より舞わせて頂きました」
「ありがとう。しかし、これが最後にはならぬ」
青年は袖から顔をあげ、孔明を見る。
「逃げると仰る?」
「そうだ。貴殿の舞で、故郷の琅邪を思い出していた。気候のよい、美しいところだ。そこには父がいて、姉たちがいて、弟がいて、幼なじみがいた。わたしは毎日、子犬のようにあちこちを跳ね回って遊んでいたよ」
「帰りたいとは思われませぬのか」
「思う。天下を安んじることができたなら。だが、ふたたび同じ光景を見ることはできまい。だれもわたしの周りからいなくなってしまった。わたしの故郷を破壊したのは、貴殿らの主君、曹操だ」
「故郷の仇を討つ、と?」
青年に指摘され、孔明は首を振った。
曹操による大虐殺のために、徐州での生活は完全に破壊されてしまった。
その後の流転の生活、荊州に至るまでの恐怖、どれも忘れたことなどない。
だが、それが曹操に仕えなかった理由ではない。
「曹操のしたことは、許されることではない。だが、わたしはそこにこだわっていない」
「ならば、なぜ曹操を拒まれる?」
「北は曹操だけでよいからだ」
青年は、意味が飲み込めなかったのか、眉根を寄せて、考え込む。
しかし、孔明はそれ以上、おしゃべりに興じるつもりはなかった。
見事な舞を披露されたことで、いささか、らしくもなく感傷的になっていたらしい。
「食事をどうもありがとう。夕刻まで時間がないので、一人にしてほしい」
「こう申し上げるのはおかしいかもしれませぬが、お気を落とされますな。貴方様が亡くなられたあとは、劉括さまが天下に平和をもたらすことでしょう」
「そう思うか?」
その問いに、青年は答えることなく、部屋を去っていった。
魏・呉・蜀入り乱れての、やっとこさ三国志らしい話となりましたが、
なんだか大丈夫ですか、コレ? という大風呂敷! だからこそ先が見えません!次回をお楽しみに!
Q・こんな話、聞いたことありません A・はさみのもありません。元ネタは後主伝より。
つづく