12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
五
目を覚ました孔明は、ずっと背中のあたりに付きまとっていた気だるさが、なくなっていることに満足した。
小鳥のさえずりが聞こえてくる。
だれか、気の利いたものが窓を開けてくれたらしい。
さわやかな冷気が吹き抜けて、起き目覚めたばかりの体の上をそよいでいった。
よい朝だ。出立にはちょうどよかろう。
そんなことをまず先に考えながら、ぼんやりしたまなこに映る光景に焦点をあてる。
うす紫色の天蓋の布が風にたわんでいる。
布が風にそよいで、隙間から欄干が見えた。
おかしいな。
孔明は、清潔で居心地のよい寝台に横になりながら、目の前にある光景の違和感を、徐々に受け入れていく。
天蓋も天井も、風によって生じる隙間から見える、鮮やかな緑の風景も、どれもこれも見覚えのないものばかりだ。
ここはいったい、どこなのだろう。
そう思い至った時点で、孔明は、軍師将軍としての顔を取り戻した。
起き上がり、寝台を出て、天蓋をかき分ける。
よほど熟睡していたと見えて、体が軽い。
見晴らしの良い欄干から吹き付ける風は、爽快でつめたく、あきらかに成都のものではない。
欄干からは、こじんまりとはしているが、家人たちが丹精にしてくれている、毎度おなじみの庭ではなく、こんもりと木々の生い茂った、あざやかな新緑の山々を見下ろすことができる。
状況がつかめず、孔明は欄干を移動して、ほかになにか見えないかを探ったが、あるのは山ばかり。
人家はない。
人家から立ち上るであろう煙も見えない。
ここで混乱する孔明ではない。すぐさま欄干から下を見下ろす。
どうやら、自分はとある屋敷の、楼閣のてっぺんの部屋にいるらしい。
しかし周囲に人の気配はなく、欄干の床板も、ながらく掃除をしていないらしく、裸足の足に、かわいた土埃がついた。
人の気配もなければ、人の声もしない。
どころか、物音ひとつしないのであった。
思い当たって、床板の足跡が、自分以外のだれかのものがついていないかを確かめるが、残念なことに、くっきりと残っているのは自分のものだけである。
孔明は、足の裏の違和感に顔をしかめつつも、ふたたび部屋に入り、それから自分の眠っていた寝台や、そのほかの家具を調べ始めた。
調度品の趣味はよいが、決して高価なものではない。
部屋の掃除は行き届いているらしく、欄干と部屋をつなぐ戸口の桟もさほど汚れていないことからして、だれもいない、ということはなさそうだ。
楼閣は、二つの部屋に区切られるかたちとなっており、そちらにつづく扉を開けようとして、孔明は、ふと耳をすませた。
だれかがいる。
安堵すると同時に、つよい恐怖を覚えた。
傷つけられた形跡はない。目が覚めたあと、自由に動き回れるようにしているし、部屋も清潔で快適だ。
何故自分がここにいるのか、さっぱりわからないのだが、相手に敵意や殺意は、いまのところない、と見てよい。
だが、あくまでもいまのところ、だ。
戸口の向こうにいる者たちは、ひそひそと会話を交わしているが、はっきりした言葉は聞き取れない。
自分の処遇についての相談をしているのだろうか。
これで、じつは記憶が曖昧になっているだけで、ほんとうは誰かの屋敷に招かれて、そのまま眠ってしまったのでした、という話であれば、笑って済ませる話だが…
たしかに、左将軍府の仕事を、病人を出すほどの異様な速さでこなして、広漢へ行く余裕をつくったところまでは覚えている。
宮城へ行って、あとの処理を法正に頼み、帰ろうとしたところを趙雲に捕まって、怒られたあとに、一緒に広漢へいく、という話をしたところまでは、はっきりしている。
そのあと、四方山話をしながら、一緒に宮城を出て、市を抜けて、途中で別れて、屋敷に戻って…
いや、戻ったのだろうか。そこからがあやふやだ。
そういえば、顔色がわるいと誰かに言われた。
子龍だったか?
御者?
いや、子龍ならば、早く屋敷に帰ろうとせかしただろう。そうではない。御者か、だれかかがそう言って、すこしおやすみなさいと馬車を止めたのだ。
休んでいるところへ、行商人ふうの親子連れが、こちらに気づいてやってきた。
父親のほうが、お疲れのようだからといって、声をかけてきて、商っている薬湯を飲んだらよろしいと言ってきた。
疲れに利く、といって自分もそれを飲んでみせたし、子供にも飲ませた。
そこで安心して、薬湯を受け取った。
そうだ。そこで強烈な眠気におそわれて、御者に、屋敷についたら起こせと命じたのだ。
だが、御者め、唐突に物忘れがひどくなったのか、自邸ではなく、こんな山奥に主をつれてきた。
御者は、荊州時代からつかっている、家人の中でも古参の男だ。
御者が裏切ったとは思えない。孔明の家人は、ほぼすべて、なんらかの形で訓練を受けている者たちばかりであり、彼らは主人の孔明に心服している。孔明にとっても、彼らは単なる使用人ではなく、家族のようなものであった。
扉を叩き、向こう側にいる相手に、自分が起きたことを知らせようかと思ったが、相手の正体がわからない以上、不用意な真似はしないほうがいいだろう。
まず見極めなければならないことは、ここはどこで、なんのために連れてこられたのか、ということだ。
まあ、人を眠らせて連れてきたのだから、聞いて、こちらが喜ぶような内容ではあるまい。
いつまでも寝巻きではみっともないと、孔明は寝台に戻って、用意されていた服に着替えた。
色が地味なので、趣味ではないな、と思ったが、袖を通してみると、抜群に着心地がよい。衣の形も洒落ており、なかなか高価なものと知れる。しかも、身の丈にぴったり合った。
害意はないのだ。
孔明は、ますます自分を捕らえた者たちの意図がわからず、考えるために寝台に座った。
自分に敵は多い。
役職以上のことをこなしているので、でしゃばりといわれて反感を買っているし、下々にも、厳しい将軍だといわれて敬遠されている。刑罰も、ほかの官吏が下すより厳しいので、逆恨みも買っているようだ。
上から下まで、思い当たるところが多すぎて、ずばりこれだと言い切ることができない。
判断材料がなさすぎだ。
ふと、扉が、がたがたと開き、孔明は身を固くした。
足音はみっつ。天蓋の向こうにある影は、男の物がふたつ、子供の物がふたつ。まちがいなく、声をかけてきた行商人の親子だろう。
だが、その先頭に立つ男の影を天蓋越しに見て、孔明は直感的に、予想していた以上に、自分は深刻な状況にいるのだ、ということを知った。
男の身なりはすばらしく、派手ではないが、じつに品のよい正装をしていた。
地方によって、正装にもいろいろ幅があるが、その男には洗練された中央の空気がある。
魏の人間だ。
するとここは、漢中より北なのか?
「お目覚めですかな、軍師将軍」
深みのある、穏やかな声だ。聞き覚えはない。
孔明が天蓋から出ると、男がすこし、息を呑んだのが感じられた。
初対面の男が、自分に対し、そんな反応を示すのはいつものことだ。
世間の諸葛孔明、という印象は、ひどく奇矯なものが一人歩きをしている。
琅邪の出、ということも大きいのだろう。
実務においての孔明の獅子奮迅の働きが、きわだっているということもあり、諸葛孔明というのは、人間離れしたところを持っている男だ、という印象を、世人は持っているようだ。
市井のひとびとは、そのほうが面白いから、というのもあるだろうが、どちらかといえば、神秘的な印象を信じる。
しかし一方で、有識者はその話を否定し、神秘家で術士のような孔明像を否定する傾向にある。
ところが、実際に孔明という人間と対峙すると、ほとんどの者は、噂を否定しなくなる。
もとより、孔明は術士ではないが、その振る舞いや風貌が、どこか夢幻の世界にいるような印象を与えるからである。
男とも女とも区別のつかぬ柔和な美貌と、陽気と妖気をあわせもつ、ふしぎな男。
孔明は、自分でも、こんな人間、天下に二人といなかろう、と自負しているので、男の示した反応は、当然だと思った。
蜀の人間は、孔明にすっかり慣れてしまっているので、いまさらなんとも言わないが、たまに他国者と会うと、こんな反応がかえってくる。
さて、孔明の顔をまじまじと見入っている男である。
人の顔を凝視するなど、無礼な態度であるが、それを不快に思わせない、高い身分をにおわせる品のよさがあった。
年齢は孔明より一回り上だろうが、肌艶もよく若々しい。
落ち着いて堂々としており、信頼できそうな、己の信念をたやすく曲げない者どくとくの、しっかりした印象を残す風貌をしていた。
男は、孔明に対し、慇懃に礼をとると、言った。
「斯様なかたちでの対面をお許しくだされ。時間がないために、やむを得ず取った行動でございます。これもすべて万民のため、天下のため」
孔明は柳眉をしかめて、その礼を返さなかった。
いきなり自分を略取した、という点を認めたことについては評価できるが、その理由が天下だの万民だのと、あいまいすぎる。
「貴殿のご尊名をお伺いしたい」
「御史中丞、陳長文」
孔明は、自分の血が一気に下がるのを感じた。
曹操を支える知の三本柱。
そのうちの一柱、陳長文。名族陳氏の主である。
ここは、魏なのか。
なんとか冷静な矜持を保とうと、おのれを叱りつつ、目の前にいる、小柄な男を見下ろす。
そして、尋ねた。
「わたしがここに連れてこられたのは、曹公のご命令か」
「いいえ。すべては我が一存のこと。曹公はなにもご存じない」
「なぜわたしを?」
陳長文は、ちらりと横にいる親子を見る。
成都では行商人に身をやつしていたが、いまはそれぞれ立派な風体をして、特に子供のほうは、まるで公子のように贅沢な衣裳をまとっていた。
愛嬌のある、かわいらしい子供である。この場の緊迫した空気に、子供の背後に控えている男…父親ではあるまいと孔明は判断した…は畏まっているのに、子供は怖じることなく堂々としている。
劉禅と同じか、すこし年上だろう。
「天下の乱れを憂う士として、貴殿にどうしても話があったのだ。孔明どの…そうお呼びしてもよろしいだろうか…わたしはかつて徐州に身を寄せたこともあり、琅邪に足を向けたこともある。
なにより、以前は劉左将軍にお仕えしていたこともある。いろいろと、共通するところも多い」
陳長文が劉備に仕えていたのは事実だ。
しかし、その意見が聞き入れなかったために、劉備から離れて野に下り、呂布が滅ぼされると曹操に仕えた、という経歴の持ち主だ。
陳長文が魏のなかでも重鎮に上りつめたこともあり、遠慮をして過去を語る者は少ないが、劉備が陳長文を重用しなかったのは、その徹底した現実主義が、肌に合わなかったからだ、と評する者もいる。
そうであろうな、と本人を見て、孔明は思った。
おおよそ、夢や志のために身を犠牲にしたり、あるいは一族を犠牲にしたりするような身の処し方はできない性質だろう。
だが…
「曹公の命令でないというのなら、わたしを攫ったのは、貴殿の指揮か」
「そうだ」
陳長文は重々しく肯いたが、その言葉に嘘が含まれていることに、孔明はすぐに気づいた。
陳長文はどこか納得していない顔をしている。
それは、孔明が想像していた以上に若かったから、などという単純な理由ではなく、この状況そのものに納得していないようだ。
「わたしは蜀の代表として、貴殿らに召喚を受けた、ということか。
白羽の矢が立ったのは光栄であるが、貴殿らの用件をお聞かせ願いたい。もしも我が意に添わぬような話なのであれば、早急に成都に帰らせていただく。なにせ忙しい身なのでね」
孔明の強がりに、陳長文は苦笑をする。
その顔は、まるで駄々っ子のわがままに困っている父親のようであった。
「帰る必要はない。ここは蜀だ」
「なに?」
「ここは、貴殿が向かおうとしていた、広漢の終風村だ。貴殿の用事なら、我らが済ませよう」
と、陳長文は子供の後ろにひかえる男に促した。
「広漢を『荒らしまわった』盗賊の首領・馬光年だ」
鋭敏な孔明は、陳長文のいわんとすること、魏の思惑をすぐに見破った。
魏は、李巌の焦りと野望につけ込んで、広漢に細作を忍び込ませ、盗賊を組織させ、近隣を荒らしまわらせた。
そうして、広漢を無法地帯にすることで、劉備の名声を落とさせた。
ところが、盗賊の所業にたまりかねた終風村の村人たちが動いたことで、呉の細作が動いてしまう。
魏としては、呉に介入されるのは厄介だった。
そこで手を組むことをもちかける。
おそらく、頃合を見て、彼らも始末するつもりだったにちがいない。
さらにそこへ、費家より文偉がやってくる。
文偉が戸籍のことに触れたことで、馬光年は、策が破綻するのを恐れ、呉の細作の芝蘭が止めるのも聞かず、文偉を殺すことに躍起になる。
ところが、それがきっかけで、呉は魏に不信を抱き、敵に回った。
そのために、魏は大胆に動き回らざるを得なくなった。
だが、目的はなんだ?
この大掛かりな仕掛けの動機は?
「貴殿には隠し事はせぬ。真実をすべて明かそう」
「貴殿は何者だ?」
陳長文は眉をしかめて孔明を見る。
孔明は冷たく陳長文を見下ろした。かぎりない憎悪でもって。
「陳長文といえば、天下に知らぬものはない高潔の士として知られているはずであるが、貴殿は下劣な策で、わが国の民を危険に晒し、悲嘆を味あわせた。斯様な男が、まこと陳長文とは思えぬ」
「私が偽者だというのかね」
「貴殿がまこと陳長文という証左をみせるがよい。私は、正体のわからぬ無礼者には頭を下げぬ」
それまで、堂々としていた陳長文の表情が、あきらかに不快を大きく表にあらわした。
孔明はそれを見届けると、踵を返して欄干に立つ。
「終風村か。なかなかよいところではないかね。だが、ここは蜀の地、われらが所領。細作ごときが、いつまでもうろついてよきところではない」
「私が、細作だというのか!」
「呉か魏かは知らぬが、下手な芝居はよすがよい」
「愚かなり、諸葛亮! その目は節穴か!」
「さて、人を見る目はあるつもりだがな。このようにわたしを薬で眠らせ、終風村に連れてきたくせに、真実もなにもあったものではない。
おまえたちの呼ぶ真実とは、おそらくひどく軽く、小汚いものであろうな」
言いつつ、孔明は欄干を見下ろした。
あいかわらず人の気配はない。
ここからは人家が見えないから、おそらく村の外れにある建物なのだろう。
終風村の規模はわからないが、魏の細作、あるいは兵士たちが、そこかしこに息を潜めているにちがいない。
おそらく、孔明を監視するために。
孔明は、背後にいるこの男が、細作の化けた者などとは、微塵も思っていなかった。
もし偽者であるならば、陳長文の名を持ち出すことの意味がわからない。
自分を寝返らせるためならば、こんなやり方は逆効果だし、まったく面識のない陳長文を使者に出すよりは、徐庶を出したほうが効果的だと、彼らは知っているはずだ。
孔明と徐庶は、いまだに手紙でやりとりを続けている。それを魏は掌握しているからである。
狙いが自分ではないとすると、彼らはなにを企んでいるのだろう。
「そこから飛び降りて、鳥のように成都に帰られたら如何か。止めはせぬ」
と、怒りの余韻をなんとか宥めている風情の陳長文は、大きく息をつきながら言った。
なるほど、これで決定した。
狙いはわたしではない。
だが、いい傾向ではないことはたしかだ。
狙いが自分でないとして、なぜここに連れてこられたのか。
そして、なぜ自由にさせている?
「できることならばそうしておりますよ。ところで陳御史中丞、貴殿らの用件をお聞かせいただきましょう」
「食えぬ男だな。おのれが虜になっている状況が、わかっておるのかね」
孔明は沈黙した。
分からないことに迂闊に返事をするべきではない。
「では、時間がないので、早速、最初の話にもどさせてもらうとしよう。前置きは無しだ。貴殿は、伝聞とはちがって、ずいぶん短気な男らしいからな」
「まさか、その話が天下のため、というものではないでしょうな」
孔明は欄干を背もたれにして、山風に髪をなぶらせて陳長文を見た。
わずかな仕草の差も見逃してはならない。
この男の、魏の意図がどこにあるのか見極めなければ。
「時間がないので、よく聞きたまえ。我らは蜀との平和的な統合を目指しているのだ。我らはあまりに長いあいだ、互いに互いの苦しみを増すことに時間も人も費やしてきたと思わぬか。
民は疲弊し、大地は荒れ果てておる。そのことに、曹公も深く憂いておられる。それは、貴殿の主公も同じであろう。もし、天下万民の納得しうる形での統合が可能になったら、どうかね」
「もはやこれだけ事態が複雑化したなかで、だれもが納得する統合など有り得ぬ。われらは曹操の前には膝は屈せぬぞ」
「有り得ないなどと、なぜ決め付けるのかね」
言いつつ、陳長文は、それまで控えてきた子どもを手招き、側に呼び寄せた。
「この子をよく見たまえ」
言われるまま、孔明は少年を見た。
曹操の息子の一人だろうか。
孔明が目を向けると、その少年は、孔明と陳長文の会話は聞こえていただろうに、人懐っこい笑みを浮かべた。
孔明は、まさか、とその顔を凝視した。
その少年は、育ち盛りであったから、そのうち手足も伸びるであろうと思われる。もし手足が長く伸びきって、顔に男らしさが宿ってきたら…あの特徴的な耳は似なかったけれども、きっと、そっくりになるのではないか。
「劉左将軍の長子であられる。御名は括と申される」
「長子?」
「左様。かつて劉左将軍が鄴に身を寄せていた際に、寵愛した女人が産み落とされた子である。
曹公は、天下の乱れに憂いたためと、この括さまの明敏かつ稀な大器に感動されて、ついに、この劉姓たる括さまに、漢王朝の帝位についていただくことをご決心なされたのだ。
そこで、貴殿らには、括さまが帝位におつきあそばされる際には、すみやかにその臣となり、洛陽に来朝いただきたい」
あまりの話に、孔明は呆然とした。
同時に、陳長文が嘘をついていることを確信した。
これだけの大きな話を、陳長文ひとりの一存で動かせるはずがない。
曹操が、おのれの築き上げてきたものを、簡単に他人に譲るはずがないのだ。
まして、これほどの天下の乱れを、ある意味だれよりも嫌った曹操という男が、その原因をつくった漢王朝を利用こそすれ、いまさら敬う真似をするはずがない。
曹操も本心のところでは、思っているはずだ。
いまの状況で、天下はひとつになれはしない、と。
「なぜわたしにこの話をするのです? 正式な使者を立て、まずは劉左将軍にお話をするのが筋というものでしょう」
「劉左将軍にお話をする前に、貴殿にどうしても話をする必要があったからだ」
陳長文は、またも少年を促した。
すると、劉備の長子という少年は、ふところより、何かを取り出し、孔明に向けて差し出した。
外から差し込む光が、少年の手に持つものを鈍く光らせる。
風が吹き、それについた小さな鈴が、揺れて、ちりん、と鳴った。
銀の櫛であった。
「劉括さまのご母堂は、新野において、貴殿によって処刑された」
孔明は、銀の櫛を凝視したまま、陳長文の声を聞いていた。
軍師になったばかりのときに、刺客に命を狙われたことがある。
その刺客こそが、劉括の母というのか。
孔明は劉括の表情を読もうとしたが、おのれの母の仇である孔明をみるまなざしには、なんの表情も浮かんでいない。
孔明は、自分に杯を差し出してきた際の、少年の様子を思い出していた。
劉禅より年上のはずなのに、たどたどしい口調、ぎこちない仕草。
そうして、あまりに状況を把握していない、この朗らかさ。
ぞっと孔明の背筋に戦慄が走った。
明敏が聞いて呆れる。
この少年は、だれかの助けがない限り、ふつうの生活もおぼつかない者だ。
周囲のことがなにもわからないことをいいことに、利用しようとするその性根が恐ろしい。
孔明は少年に同情したが、不意に少年は孔明に言った。
「余は貴殿を許さぬ」
しかし、そのまなざしには憎しみも嫌悪もない。
ただ、諸葛孔明にはこう言えと、教えられているだけなのだろう。
そうして孔明は、さきほどから陳長文が、くどいほどに『時間がない』と言っている理由について、理解した。
時間がないのは、彼らに時間がないのではなく、孔明に時間がないのだ。
「我らは、劉括さまを主君と仰ぐならば、蜀の臣のこれまでの行状をすべて許す。だが、未来の帝の母を処刑した貴殿だけは、このままにしておくわけにはいかぬ。
しかし、貴殿の名声と、劉左将軍に見せた忠節に鑑み、罪人のごとく引っ立てて、処刑することはせぬ。その代わり、貴殿に死を選ばせてやろう」
そして、後ろに控えていた馬光年が差し出した盆の上には、三つのものが載っていた。
白絹の糸束、短剣、毒であろう液体の入った瓶。
こみ上げてくる怒りを抑えつつ、孔明は言った。
「慈悲深いことよ。どれでも好きな方法を選べ、というのですかな」
「貴殿には今日一日の猶予を差し上げよう。もし決心がつかないというのであれば、今宵、日が落ちたあと、貴殿は我が手にて処刑する。
お逃げになろうとは考えますな。呉の細作どもは、みんな国へ戻っていきましたので、このあたりには我らしかおりませぬ」
陳長文は馬光年より盆を受け取ると、小さな卓に載せて、それから淡々と言う。
「心残りはさぞあろうが、これも運命とあきらめられるがよい。書をしたためることは許すゆえ、いまのうちに遺言でも書いておくのだな。
自害の決意がついたなら、わが部下が表に控えておるゆえ、言うがよい。最後に食べたいものがあれば、それもできうる限り用意させよう」
孔明はそれには返事をせず、陳長文をきつくにらみつけた。
だが陳長文は動じず、さも自分は悪くない、とでも言いたげな顔をして、部屋から去っていった。
だれもいなくなるや、孔明は盆を掴み、壁に思い切り、三つの道具を叩きつけた。
壁に、毒のつくった汚いしみが広がっていく。
孔明は、はげしい怒りに捕らわれていた。
魏に対してもそうであったし、やすやすと、その手に落ちた自分が許せなかった。
そうして、欄干から太陽を見上げる。
まだ日が落ちるまでには、時間がある。
考えるのだ。ここから脱出する方法を。
大物ゲスト、初登場。はさみのは「三国志占い」でなぜかいつもこの人になります。
急展開な物語、次回はさらに加速します。お楽しみに!
Q・趙雲&偉度は、なにやっとるのですか? A・おうちでおとなしくしているはずがありません。次回登場!
つづく
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