12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
四
夕闇の市は、雑多に混みあい、昼間ならば、容赦ない白日が正体を暴き立ててしまう物も、黄昏どきのあいまいな光線は、ぼんやりとその輪郭を、ひとびとの視界から隠してくれる。
「ねえ、子龍、あちらの店を見て来てもかまわないだろうか。ちゃんと目の届くところにいるよ」
と、劉禅が指で示した先には、籠いっぱいにヒヨコを入れた店が立っていた。
ざわついた市のなかでも、ひっきりなしにつづく蒲公英のような色の小鳥たちの声は、とくに耳に訴えてくる。
趙雲が、よろしいでしょう、と言って肯くと、劉禅は、にっこりと、うれしそうな笑顔を向けて、ぱたぱたと軽やかな足音をさせて走って行った。
趙雲は、ひさしぶりに市場にやってきた公子の、楽しそうな姿を見て、知らず、微笑んだ。
劉備が年を経て得た、健康に育ちきった、はじめての子、ということもあり、劉禅は、過剰なほど大切に育てられている。
しかも、かつて孫夫人に略取されかけたことがあったために、その養育をつとめる者たちは、いっそう頑なになって、劉禅を宮城に閉じ込めるようにして育てていた。
劉禅は、趙雲を赤子のときから知っている、ということもあり、まるで実の兄のように…いや、実際のところ、親子といってもいいほどの年齢差であったが…慕ってくる。
それは臣下として、誇るべきことがらであったが、しかし、趙雲の内面は複雑である。
不意に、ぽんと肩を叩かれ、思わず身構える趙雲であるが、この自分の不意をつく、などという芸当のできる人間は、成都にも数人しかいない。
見ると、副将の陳到であった。
頭に笠をかぶり、平服で武器すらもたず、かわりに持っているのは白菜の束。あきれるほど特徴のない素朴な顔に、きらきらと好奇心に輝く双眸が光っている。
「奇遇でございますな。将軍が、市に来ているとは、お珍しい。もしや、逢引きでございますかな?」
興奮しているのか、なんなのか、陳到は『逢引き』の言葉だけをやたらと声高に言う。そのため、市場の往来のひとびとが、何事かと視線を向けてきた。
「声を落とせ、みっともない。俺の用事は」
と、趙雲は、ひよこの店に向かった劉禅を示した。
笠を上げて、劉禅の姿を見た陳到は、あからさまにがっかりして、「なあんだ」といった。
趙雲とあまり変わらぬ年頃だというのに、十は老けて見える陳到は、近頃、おのれの部下たちを、評判のよい町娘と娶せるのを趣味にしていた。最終目的は、自分の紹介で趙雲を結婚させることらしい。
「公子がお珍しい。よく、おばばたちがお許しになりましたな」
「まあ、いささか苦労はしたが、おばばたちは、これも市井の様子を知るためと説得をして、公子を連れ出すのに成功したのだ。なんだ、その目は」
「いや、趙将軍はあいかわらず、馬と子供の面倒は、よく見られるお方だな、と。公子は、われら家臣のうち、趙将軍に、いちばん懐かれておりますからな。なにせ、赤子であったあのお方をお助けした、長坂の英雄なのですから」
陳到は、上司の誉れ高いことが、自分のことであるかのように、嬉しそうに声をたてて笑った。
無邪気な陳到が向けてきた言葉は、ほかの者から、嫉妬混じりによく向けられる言葉でもあるが、趙雲は素直に肯けず、うむ、と曖昧に言葉をにごした。
長坂の戦いにおいて、混乱し、戦場に取り残された幼子を、趙雲が単騎で救い出したことは、いまもって語り草となっているが、趙雲が気にしているのはその後のことである。
劉備は、趙雲が救い出した劉禅を見て、子供が助かったことよりも、おまえが戻ってきてくれたことがうれしい、と言った。
家臣として、これほど、ありがたい言葉はほかにない。
趙雲はひどく感激したものだが、しかし、おのれの武勇譚が、格好の材料として、兵卒たちへの鼓舞に使われるようになり、講談師に使われるようなり、そうしてどんどん誇張されるにつれ、趙雲はむしろ口を閉ざし、人が、あまりおのれのことを過度に賞揚しないよう、目立たぬように振る舞うようになった。
「趙将軍は、公子に気を遣いすぎですぞ」
と、顔を曇らせる趙雲に、妙に鋭い陳到が、ずばり言う。
「公子は聡明なお子ゆえ、父君が、なぜそのような言葉を趙将軍に向けられたのか、ちゃんと理解されているでしょう」
「そうだろうか。子供ならば、まずは自分が助かったことを、父親に喜んで欲しいと思わないだろうか」
「考えすぎでございますよ。大人が思う以上に、子供というものは聡い。むしろ、おのれが、趙将軍のようなお方に助けられたことを誇りに思っておられる。でなければ、あのように慕ってこられないでしょう」
無類の子煩悩の陳到にいわれると、趙雲も、わずかに慰められる。
そして、その言葉が、ほんとうにそのとおりであればよいな、と思う。
趙雲は、自分があまり父母の愛情に恵まれなかったがゆえに、その姿を、どこかで劉禅にかさねていた。
劉禅が生まれてからの劉備というのは、まさに劉禅が母の胎内から、幸運をも一緒に連れてきたのではないかというほどの昇り竜。
しかし皮肉にも、劉備はそれゆえに、家庭をまるで顧みる余裕がなかった。
ほとんど共に暮らすこともなく、いまもって、滅多に顔をあわせることもない。
そして、育ての母、糜夫人は戦乱でなくし、生母はほどなく死亡、養母の孫夫人も、ほかならぬ趙雲の失態ゆえに(と、趙雲は自身を処断している)、失った。
さらに、趙雲の武勇譚とともに聞こえてくる、父親の言葉。
自分は、この少年から、母親だけではなく、父親までも奪ってしまったのではないか。
「だが、俺は気になることがあるのだ。公子は、俺が宮城に上がると、かならず姿をあらわして声をかけてくださるのだが、そのときに、ひとことも主公のことを話されない。呉夫人のこともそうだ。
その代わり口に上るのは、自分を育ててくれている側仕えの者の話、あるいは宦官などの話だ」
「それは、公子がむずかしい年頃になられた証しでしょう。
男の子というものは、長じれば長じるほど、親の話はしなくなるものでございますよ。それはどんな孝行息子とて同じこと」
「そうだろうか。思えば、公子から、主公の話が出たことは、ほとんどないように思える」
そこに趙雲の危惧がある。
そもそもからして、劉禅の視界に、劉備はいないのではないか。
趙雲が戸惑うほどに、劉備と劉禅の関係は希薄なのだ。
これはさすがに、だれにも口にできないでいたが、趙雲は、劉備が、子供は放っておいても育つと、勘違いをしているのでは、と危ぶんでいた。
劉備の義弟たる関羽や張飛。
かれらの子供たちは、うらやましくなるほど、のびのびと、立派に育ってはいるが、それはなにも父親が立派なので、その背を見て、子供たちが自然に立派に育ったのではない。
彼らの家庭には、夫を敬愛する妻女がおり、その彼女たちが、夫を助け、子供たちを育て、支えているのだ。
劉備が、群臣にすすめられ、あらたにむかえた呉夫人は、劉備に似合いの、家庭的な夫人ということだが、なさぬ仲の子、しかも多感でむずかしい時期をむかえた子を、どこまで支えきれるであろう。
呉夫人は、劉禅の義弟にあたる、おのれの腹を痛めた幼子の養育もしなければならないのだ。
自分にその権限さえあれば、もっと劉禅と関わって、しっかり支えてやりたいとさえ、趙雲は思う。
劉備にその願いを申し出れば、意外にあっさりと受理されるかもしれない。
しかし、趙雲は、いまの役職を返上し、劉禅のための主騎になることに、踏み切れないでいた。
「趙将軍、あれを」
陳到の声が、強ばり、見ると、店の店主とひよこを選んでいた劉禅が、立ち上がって、笠で顔を隠した武人ふうの男と話をしていた。
往来のにぎやかさにまぎれて、どんな言葉を交わしているかはわからない。だが、ずいぶん親しそうである。
顔見知りなのだろうか。
趙雲が劉禅のところへむかおうとした途端、男の様子が変わった。
なにやら激昂したらしく、なにか言葉を劉禅に投げつけると、戸惑っている劉禅の肩を、どん、と強く叩いた。
「叔至、頼む!」
お任せを、と低くつぶやくと、抱えていた白菜の束をうっちゃって、笠の男を、鳥のような素早さで追いかけた。
趙雲は、陳到の買い物を拾い上げ、そうして、地面にしりもちをついている、劉禅のもとへとむかった。
「大丈夫でございますか、若君」
劉禅は、しりもちをついたまま、ぼう然と、男と、陳到が走り去ったほうを見つめている。
「お怪我はございませんか」
趙雲の言葉に、劉禅は、ううん、と首を横に振って、それから、不意に、泣きそうな顔になって、うつむいてしまった。
「かえる」
「着たばかりではございませんか。あの狼藉者は、きっと捕らえて見せましょう。
ヒヨコはよろしいのですか? それがしが引き取りますゆえ、遠慮せずに、買われたらよろしい」
「ヒヨコはまたにするよ。弟たちが喜ぶかと思ったけれど、そんな気分ではなくなってしまった」
「ならば、ほかの店を回りましょう」
趙雲が肩を掴んで、包み込むようにして助け起こすと、劉禅は、やはり視線を下に向けたまま、首を横に振った。
「いい。もう、かえる。かえって勉強する」
「勉強?」
この、父親ゆずりの素直さをもつ少年は、人が進めるままに書を読み、暗記し、答える。
それが身についているか、となると別の話であるが、どんな課題を出されても、文句もいわずにこなすのは、美点であった。
「もう日が落ちるのに、勉強をされるとおっしゃるのですか」
うん、と肯いて、劉禅は、趙雲の手をやんわりと振りほどいて、とぼとぼと、市場を出ようとする。
たまに、市場の商人たちが、威勢のよい声をかけてくるが、それすらも知らぬ顔である。
趙雲は、突然の劉禅の変わりように戸惑い、笠の男に狼藉を働かれた市場がいやならば、自分の屋敷の厩で飼っている、子ロバやら子馬を見せてやろうかと思ったが、劉禅は、意外に意固地なところをみせて、やはり、かえる、の一点張りであった。
「子龍、叔至は、あの方を捕らえるであろうか」
劉禅のことばに、趙雲は、おや、と思った。
狼藉者に対して『あの方』とは。
「叔至は、あれでも、それがしの部将のなかでは、もっとも武芸達者でございます。おそらくひっとらえて参りましょう」
「捕まらないほうがよいのに」
と、劉禅は言った。ますます趙雲は怪訝に思ったが、うつむき、じっと思いつめた目をした少年は、あまり話をしたくない様子であったので、深く尋ねることはやめた。
では、またにしましょう、と言って、趙雲が劉禅を、連れてきた馬車に入れていると、ほどなく、息を切らせた陳到が帰って来た。
それを見て、趙雲はおどろいた。
まさか、叔至が、見失ったのか?
「それがしでは判断しかねましたので、追うことを中断いたしました」
と、陳到は、この男らしからぬ深刻な顔をして、言った。
その意味ありげな言葉に、趙雲は、劉禅の世話を御者に頼むと、会話の聞かれないところへと陳到をつれていく。
「どういうことだ?」
「劉副軍中郎将でございました」
趙雲は、仰天し、さらに陳到の腕を掴んで、劉禅の乗る馬車から離れる。
「まことか」
劉姓は天下にあまたいるが、副軍中郎将を拝領する劉姓の男、といえば、蜀には一人しかいない。
劉備の養子にて、長子の劉封である。
「なぜだ」
「劉副軍中郎将は、逃げはいたしましたが、途中から追っているのがわたくしと気づきますと、足をゆるめまして、その後、悠然と妓楼へ入っていきました」
「妓楼、とな?」
「踏み込むにしても、将軍にお知らせしてから、と思いまして。それに、気になることに、その妓楼、ただの妓楼ではなく成都でも一、ニを争う高級店でございます。
そこの下働きの娘をつかまえまして、劉副軍中郎将が、ここによく出入りしているのかと尋ねますと、ここ数日はそうだ、と。
荊州の昔馴染みがやってきたとかで、ともに連日泊り込み、おおいに賑やかにしている、とのこと」
「昔馴染みか。しかし、おかしいな」
趙雲の疑惑に、陳到もおおいに肯く。
「劉副軍中郎将は、たしかにお若いのに立派な軍功をあげられて、それなりの報酬を得ておられる。
しかし、妓楼に大人数で連泊できるほど、内容のある収入ではないはずです」
「二つ、可能性がある。ひとつは、劉副軍中郎将が、見栄を張り、昔馴染みを高級店へ泊めさせてやっている、という可能性。あの性格からすれば、おおいに考えられることだ。
二つめの可能性は、昔馴染みのほうに金があり、逆に奢ってもらっている、という可能性だ。その、昔馴染みという相手のことは、探れたか」
「そこまでは。しかし、あまり感心せぬことに、昔馴染みという男、子連れで妓楼に連泊しているとか。しかもその子供、まだ十歳になるかならぬかの、少年だというのです」
「筋のよくない相手、ということか」
言いつつ、友を選ばぬところは、昔からかわらぬ、と趙雲は苦く思う。
趙雲の知る劉封という青年は、劉備の養子に迎えられたころは、もっと溌剌としていた。
それが、孔明が軍師に迎えられ、時をほぼ同じくして、劉禅が生まれてから、様子がおかしくなってきた。
劉禅が生まれたときは、幼い弟の後見になろうと、それなりの立派な自負を持っていたらしい。
しかし、劉備は、養子の劉封より、赤の他人である孔明に目をかけ、孔明は自然と、劉禅の後見のような立場になっていった。
ただし、孔明がでしゃばってその地位を劉封からうばった、というのではない。劉禅が義兄よりも、やはり他人の孔明のほうになついた、ということでもあるし、劉封の主張のつよすぎる性格と、うかつな言動が、劉備の不審を招いた、ということである。
そのような経緯があるために、劉封は孔明を恨んでおり、劉禅を恨んでいる。
劉禅は、義兄の気持ちを敏感に察して、ますます劉封から離れ、孔明はそれを庇う。
孔明の手が足らないときは、孔明がもっとも信頼する武将であり、劉禅を命がけで救った勲功をもつ趙雲に、白羽の矢がたつ。
そして、劉封は、趙雲も憎むようになる。
「如何いたしましょうや。いかな劉副軍中郎将とはいえ、弟君にあのような狼藉を働かれるとは、ゆるせませぬ」
「単なる兄弟げんかと片づけられる年齢差ではないからな。かといって叔至、ことを騒げば、劉副軍中郎将を後継に推す者たちが騒ぎ出すぞ」
「すばり、軍師将軍の敵たちですな。
まったく、荊州では龐軍師を推し、龐軍師が戦死なされると、今度は益州にやってきて、劉副軍将軍を推して、軍師の権威を弱めようとする。
奴らはいったい、なにがしたいのでしょう」
「それこそずばり、軍師の邪魔がしたいのさ」
面倒になりそうな気配を感じ、趙雲は、劉禅を市に連れてきたことを後悔しながら、ひとまず、宮城へもどって、劉禅を側仕えの者たちに託した。
劉禅はしょげかえっており、趙雲は、おおいに周囲の者たちに責められたが、劉封のことは言わなかった。
馬車のなかで、劉禅に、口止めをされたからである。
劉禅は、兄が自分を突き飛ばしたのは、酔っ払っていたからだ、と言った。
趙雲は、勘のよいところで、突き飛ばしただけではなく、劉封は、暴言も劉禅に投げつけたのだろうと見当をつけたが、問い詰めると、少年は泣き出しそうであったので、ほかの面から探ることにした。
そして、取って返すようにして、すでに店じまいのはじまっている、市へ戻る。
ひよこ売りはまだ残っていて、商品のひよこたちのさえずりを聞きながら、悠然と夜闇のなかでひょうたんの水を飲んで休んでいるところであった。
「おい、ひよこ売り。聞きたいことがあるのだが、よいか」
ひよこ売りは、へえ、なんなりと、と言って、趙雲に顔を向けた。
「なんでございましょう、旦那様」
「うむ、さきほど、おまえの店の前で、少年が男に突き飛ばされたのを覚えておるか」
「はあ、覚えておりますとも。ひどい酔っ払いでしたな。あの男が、なにかしでかしたのですか」
「そのようなものだ。聞きたいのだが、そのとき、男は、あの少年になんと言っていたか、聞いておったか」
「妙なことを口走っておりましたので、覚えております。坊ちゃんのほうは、うちのひよこが可愛いだろうといって、男にみせてやっていたのに、あの酔っ払いときたら、『おまえのような愚か者なぞ、そのうちにこの国から追い出してやる』と言い放ったのですから」
まったく、子供に言う言葉じゃございませんなぁ、とひよこ売りは嘆かわしそうに首を振る。
だいたいの予想はつけていたが、趙雲は、あまりに直情的な劉封の言葉に暗然とした。
そして、それを告げずに、沈黙した劉禅のことを思った。
愚か者、と言われたので、劉禅は単純に、勉強をしなければと、思ったにちがいない。
さらに、国から追い出してやる、などと嘯いたとは、迂闊もよいところ。
つまり劉封は、義弟を追い出し、自分が劉備の後を継ぐのだと、堂々と、当の本人に向かって宣言したも同然だ。
自分ひとりの胸のうちにしまってよい話ではない。
だれに告げるべきか。
劉備か? 孔明か?
答えは向こう側からやってきた。
「おや、趙将軍ではありませんか。このような時間に、この界隈にいるとはお珍しい」
言葉遣いの丁寧なのにだまされてはいけない。口調は思い切り、趙雲を揶揄している。
「おまえのそれは、どうして直らぬのかな」
「三つ子の魂なんとやら、でございますよ」
胡偉度は、洒落た形をした、複雑な編み方の笠から顔をあげて、にいっ、と人懐っこく笑った。
「おまえこそ、この時分になにをしている。聞けば、左将軍府では、むずかしい案件が集中し、軍師の主簿のひとりは、高熱を出して寝込んでいるほどだという話ではないか」
それを聞くと、偉度は侮辱されたかのように、顔をしかめた。
「わたくしを、ほかの主簿と一緒にされては困ります。これでも仕事で動いているのですよ。貴方さまは、女漁りでございますかな」
「……」
趙雲は黙って、怒りを抑えた。
この青年、趙雲を怒らせることを無上の楽しみにしているのだ。
「あなたのその顔が出たところで、冗談は止しにしましょう。
軍師から聞いてはおられませぬか、先日、費家が賊に襲われたという話」
「なんだと? で、文偉は無事か?」
「みな無事ですよ。おや、ご存知なかったのですか」
といって、偉度は後れ毛を指先でくるくると手巻いてみせる。
年々、気味が悪くなるほど、偉度は孔明に振る舞いが似てきている。
「知らぬ。どういうことだ? 賊とは、いったい何者なのだ?」
「ああ、もしかして薮蛇だったのかな…」
言いつつ、偉度は趙雲に事情を話はじめた。
趙雲は、怒りのあまり、ろくに眠られぬまま、早朝に起き出して、おびえる家人たちに出立の準備をさせ、それから一番に左将軍府へとむかった。
趙雲の剣幕に、左将軍府の文官たちはすっかり肝をつぶしていたが、趙雲は無視し、孔明の所在を尋ねた。
孔明は、仕事の仕上げとして、法正のところへいって、最終的な詰めの作業をしている、という。
それを聞くや、趙雲は馬を飛ばして宮城へ行き、ちょうど法正のところから辞去しようとする孔明を見つけた。
それこそ、顔を見たら、今度こそ殴り倒してしまうかも知れぬ、と思っていた趙雲であったが、法正と力のない声で話をする孔明の、いつになく疲れた様子を見たら、毒気を抜かれてしまった。
あの法正すら、いつもならば、表面はにこやかにしつつも、孔明に嫌味三昧を浴びせるところであろうに(それが法正の仲間意識の表現方法なのだということに気づいたのは、つい最近のことであるが)さすがにそれでは、単なる弱い者いじめと思っているのか、いつもより態度が控えめだ。
「許長史が、またも死相が出ていると騒いでおられなかったか」
「それほどひどい顔をしておりますか」
「陰気そのもので見るに耐えぬ。近くに立っていれば、こちらの運気まで下がりそうな。
はた迷惑なので、早々に屋敷に替えられて、ゆっくり休まれるがよかろう」
最後のひとことだけでよいものを、どうして余計なことばをたくさんつけるのであろう、と趙雲は首をかしげた。
しかし、いつもの孔明ならば、法正のことばに数倍は応酬するところであるが、力なく、そういたします、といって、場を辞去する。
いつもならば、嫌味で、さっさと踵を返してしまう法正も、孔明のふらふらした様子に、きちんと見送りの体勢を取っているのが、妙に微笑ましい。
孔明は、心身ともに疲れきっているのか、視線もぼんやりとして、眠りながら歩いているのではないかというほどだ。
そんなふうであるから、廊下に待機していた趙雲を見つけたのは、法正のほうが先だった。
「おや、翊軍将軍、お久しゅう」
趙雲は、蜀の文官の頂点たる、法正に礼を取った。
孔明すら、実質上の地位も、権限も、法正には敵わない。
法正は、性格上はさまざまに問題があるが、政務にかかわる能力に関しては、孔明をも上回る実力の持ち主なのだ。
とはいえ、孔明のほうが上、と世人が錯覚しがちなのは、やはり孔明のもつ圧倒的な存在感が、あまりに明るい印象を残すからであろう。
「よきところへ。貴殿の軍師が死に体ぞ。行き倒れになる前に、回収してはくれぬか」
「承知いたしました。ご迷惑をおかけして申し訳ござらぬ」
「迷惑も迷惑、いつもは満月のように煌びやかな男が、斯様にしょぼけている様子を見るのは、正直、心苦しいものよ。
まったく、呆れるではないか。軍師将軍は、ほかの者たちが一年かかって仕上げる案件を、なんと三日ですべてこなしてしまわれたのだよ。
とはいえ、決裁は我らがするのだ。我らも軍師将軍の仕事に合わせて、一年分を三日でこなさねばならぬ」
「尚書令ならば、たやすく仕上げることができましょう。もしかしたら一日でこなせるやもしれませぬな」
法正は、趙雲が、武将にしては口が立つ、ということを忘れていたらしく、む、と顔をしかめた。
「軍師どの、尚書令のお言葉どおり、今日は屋敷へ戻りましょう」
いつになく畏まった趙雲の言葉に、孔明はどんよりした目を向けてきた。
「声をたてられぬほどに疲れておられるのですから、無理はいけませぬ」
と、趙雲は、自分にできうる限りの、最高に優しい笑顔を浮かべてみせた。
法正は、忙しいので失礼する、といって、さっさと執務室に戻っていく。
残された孔明は、ぼんやりした表情が、雪が融けるようになくなって、あきらかに恐怖とも表現できるような、強ばった顔になった。
「どうされました?」
趙雲が、優しげな、しかしその実、目がまったく笑っていない笑顔を向けると、孔明は、蛇ににらまれた蝦蟇のように冷や汗を流しつつ、云った。
「あなたこそ、どうした。なにをそんなに怒っている?」
「御胸に手を当てられて、どうぞごゆっくりお考え下さい」
孔明は、おっかなびっくりと、それでも素直に胸に手を当てて、なにやら思案している。
「このあいだ、たけのこをもらった礼が、十分でなかったから、か?」
「たけのこなんぞは、どうでもよろしい」
「さっぱりわからぬ。では、もっと以前のことであろうか」
「いいえ、ここ数日のことでございます」
孔明は、こめかみをひきつらせつつ、おずおずと言った。
「もしかして、費家のことか?」
「それだ! この大馬鹿者めが! なぜ俺に知らせない!」
戦場で見せるような大音声を響かせたので、廊下を行く宮女はもちろん、それぞれ部屋で仕事をしていた文官、武官までが、仰天して顔を出す。
趙雲は、それら全員の視線を、虎のようなひと睨みで退散させた。
孔明は、怒鳴られたことで、顔を赤くしつつ、抗弁する。
「仕方なかろう。あなたも忙しい身であるし、いつまでも、あなたばかりに頼っていては、後進が育たぬ。
それゆえ、今度は偉度や公琰に任せたのだ。決して、仲間外れにしたのではないぞ」
「殴るぞ」
「おや、ちがうのか」
「ちがう! 俺は連絡がなかったということを怒っているのではない。もしも、別の件であったなら、俺はおまえの考えに賛成しただろう。
だが、此度の件、もしも費家のだれかが傷ついていたら、どうなったと思う?
費家は劉璋についていった者と、主公に従った者とに別れている。もし益州の費家に何事か起これば、それこそ劉璋に従った費家の、そして、おまえの政敵どもが、おまえを引き摺り下ろし、攻撃する、格好の材料とするだろう。
なぜ、文偉を囮にするような真似をした。それに終風村のからくりについても、時間をかければ、危ない橋を渡らずに調べることができたはずだぞ。
李正方に遠慮しているというのなら、それこそ俺を使えばよかったのだ!」
孔明は、趙雲の言葉にしばし唖然としていたが、やがて、ふうっ、と大きく息を吐いて、云った。
「わたしは、あなたがどういう人だったか、しばらく忘れていたようだよ」
「思い出したか」
「思い出したとも。すまないな、子龍。そんなふうに怒ってくれるのは、あなただけだ。たしかに浅慮であった」
孔明は言うと、いささか気まずそうにはしているものの、素直に頭を下げてきた。
昨日から、それこそ怒りで居ても立ってもいられなかった、というのに、孔明本人に会い、素直に頭を下げられたことで、趙雲は嘘のように、気持ちがおちついた。
そうして、孔明に仲間外れにしたのではないと指摘されたものの、じつはそれこそが怒りの元だったのではないかと思い、気恥ずかしくなってきた。
「…うむ、俺も言いすぎた」
「そうか。よかった。これから大仕事があるというのに、あなたと仲たがいしてしまったら、気になって、身動きが取れなくなってしまうからな」
「大仕事?」
趙雲が鸚鵡返しにすると、孔明は、周囲の目を気にしつつ、大きくうなずいた。そうして、移動しながら言葉をつづける。
「偉度から、若君の件は聞いたよ。偉度があなたに終風村のことを話したこともね。
それで、おそらくあなたが、そろそろ現れるのではないかと思っていたのだが、予想以上に早かったな。しかし、助かる」
「どういうことだ」
「偉度からの報告で、劉副軍中郎将が、今日、成都を発ったらしい。
表向きは、昔馴染みを荊州に送っていく、ということだが、おそらく、彼らの行き先は、広漢ではないかとわたしは睨んでいる」
「広漢…終風村か?」
「呉の細作の娘が正直者だと信じるならば、終風村のことは捨て置いてもよいと思う。
だが、気になるのは、魏の細作の動きだ。彼らは、なにが目的で終風村にやってきたのだろう?
劉封どののことといい、どうも気になるのだ」
趙雲は、孔明の話し振りから、なにを考えているか、気がついた。
「左将軍府の仕事を異常な速さでこなしてみせたのは、みずから広漢へ赴くためか?」
孔明は、にっこりと晴れやかな笑みを向けた。
「その通り。李正方と、盗賊たちの件についても、話ができるし、終風村の件もこの目で確かめることができて、一石二鳥だ。どうだ、付いてくるか」
「付いていくのはもちろんだが、その前におまえを止めるべきだろうな」
すると、孔明は声をたてて、ほがらかに笑った。
「あなたならば、そんなことに意味がないと、いちばんよく知っているじゃないか。
さて、尚書令どのがおっしゃったとおり、いまのわたしはひどい有様なので、すこし屋敷で眠らせてもらうよ。
出立は明朝だ。それまでに、あなたも準備していてほしい」
なんだか新野にいた頃にも、こんなことがあったなと思い出しつつ、趙雲は、妙に浮き立つおのれの心を、静かに叱りつけた。
本編突入。これにあたり、「あの話」もHTML化しました。すこし見やすくなった…かな?
単純な続編にはしないつもりですので、どうぞつづきを見てやってくださいませm(__)m
Q・バカ坊ちゃんズはどうしているのですか? A・おうちでおとなしくしています。
つづく