12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

「相変わらず、あのひとはめちゃくちゃだ」
文偉がつぶやくと、伯仁の、この世のものとも思えぬ琴の音に、じっと我慢していた休昭は、泣きそうな顔をして同意した。
「文偉、このまま伯仁殿に琴を続けさせていれば、刺客どもも恐れて、屋敷に近づかないかもしれないぞ」
「手習いをはじめてもう二ヶ月になるのに、まったく上達しない。伯父上はある意味、天才かも知れぬ」
「天災のまちがいだろう。公琰殿、よく平気だな」
休昭が感心するのも道理で、公琰は、伯仁の隣の席で、じっと、伯仁の奏でる音のひとつひとつを、忍耐づよく確認するようにして、うん、うんと肯きながら、それこそ樹海の獣道を思わせる、予想のつかない旋律を追っている。
休昭は、文偉の二つ年下であるが、同年に仕官したので、互いに字を呼び捨てで呼び合っている。一方の公琰は年上であり、同じ年に仕官した、というような共通項がないので、『殿』をつけて呼んでいる。
「そういえば、公琰殿がご家族のことを話されたことがないな。休昭、あるか?」
「うん、そういえば、ないな。偉度殿もないけれどな」
その胡偉度は、さほど広くない費家をくまなく見て回り、部下だという、あきらかに細作とわかるものたちを、四方に配置している。
「ただの文官ではなかろうと、父上は仰っていた。剣を振るうところを見たことがあるが、あれはたしかに並みではない」
「なんだ、剣が不得手なのは、この場では、俺とおまえと伯父上だけか」

文偉は、毎日夕方になるとはじまる、伯父の魔の旋律に飽き飽きしていたが、公琰は、本当に伯仁の相手を楽しんでいるようだ。
その穏やかな顔を見て、文偉は、自分が休昭の父親の董和に抱いているような感情を、もしかしたら公琰は伯仁に抱いているのかもしれないな、と思った。

そういえば、軍師将軍も、いつだったか、おまえは伯父上を大切にせねばならぬよ、と酔ったときに仰っていた。
あとになって、軍師将軍は、親代わりであった叔父上を悲惨な事件で亡くされた、ということを、人づてに聞いて、納得したものだが。

…などと思い返していると、不意に、どこからか犬の遠吠えが聞こえてくる。
終風村で見た、屍を食い荒らす犬の姿を思い出し、思わず文偉は身を固くする。
伯仁も、琴を止めて、思わず腰を浮かせている。
伯仁には、おそろしい野犬が成都に入り込んでおり、この屋敷にも現れるかもしれない、と伝えてあった。半分は嘘ではない。
公琰は、その場にすっくと凛々しく立ち上がると、野犬の雄叫びが尾を引く空を、じっとにらみつけた。
そうして、偉度と目を合わせ、うなずく。
文偉としては、そのさまが、なんとも絵になっていて格好がよく見える。
また、ちりちりと、胸を焼くような厄介な気持ちを持て余していると、偉度の声がかかった。
「坊ちゃんがた、あんたたちは、伯仁殿といっしょに、屋敷に入ってらっしゃい。あとは、こちらでするから」
文偉は、状況判断の甘い青年ではない。
むしろ逆なのであるが、この場合、若さが邪魔をした。
「でも、ここはわたしの家だ。あなた方を外に放り出して、自分たちばかり中で震えているわけにはいかない」
偉度は、やれやれ、というふうにため息をつくと、手を腰にあてて、子供にするように諭してきた。
「また、意地を張りなさんな。相手はもしかしたら、手練れの刺客かもしれないんだ。あんたたちみたいなお坊ちゃまたちが相手をするのは無理だよ」
「貴方だって、軍師将軍の主簿、文官じゃないか!」
偉度は意味ありげに、妙にさびしそうに笑うと、肩をすくめた。
「たしかにそうだが、わたしは、あの軍師将軍の主簿だということを、忘れてもらっては困る」
でも、と更に抗弁しようとすると、意外なことに、あずまやにいた公琰が割って入ってきた。
「ならば、わたしもともに屋敷に入り、文偉殿をお守りする、というのはどうだ。偉度、外は頼めるか」
「やりましょう。そのうち仕事を片づけた軍師将軍も飛んでくる予定だから、なんとかなるかもしれない。まあ、あてにはしてないけれど」
「拗ねるな。かならず来るさ」
妙に親しげな二人の会話を聞きながら、文偉は、まるで公琰に、自分の心のうちを読まれたような、決まりの悪い思いをしていた。
しかし、やってきた公琰は、文偉のことを特に気にするふうでもなく、足を止めている文偉と休昭に対し、
「ほら、はやく入るぞ」
と、声をかけてくる。
度量の広さを、また見せ付けられたような気がして、文偉はガッカリした。

先に屋敷に入っていく公琰の背中を見て、文偉は思った。
自分と公琰と、いったいどこが違うのだろう。生まれ持ったものだというのなら、もう努力のしようがないけれど、もし修練によって埋められるものなら、どんな努力だって厭わない。
「なんだか、人間というのは悲しいな」
と、隣に並んでいた休昭が、どきりとするほど奇妙なことを口走る。
「どういう意味だ?」
「べつに…己と他者を比較することをしなくなったら、心は軽くなるだろう。けれど、同時に克己心もまた、失われてしまうのだ。どちらがいいのかな」
「なあ、もしかして、俺は顔に出ているのか?」
すると、休昭は、やわらかな風貌に、優しげな笑みを浮かべて、友の肩を叩いた。
「出ていないよ。わたしだから分かるのだ。けれど、すこし安心した。おまえは悩みがないように見えていたからな」
「悩みならば、山のようにあるよ」
そう答えると、休昭はからからと声をたてて笑った。
「それはすまなかった。わたしの観察が足りなかったようだな。でもこんなことを言うとおまえは怒るかも知れぬが、わたしは悩んでいるおまえのほうが好きだ。
だから悩むのを止めるなよ。でなければ、たぶんおまえは、ただの能天気になってしまうからな」
「…休昭、俺の中のおまえって、どんな男なのだ? それに、なんだかいつものおまえらしくないな、そんなことを言うなんて」
「軍師将軍に言われたのだ。あとで後悔しないように、相手に伝えて嬉しいと思うことは、すぐその場で相手に伝えよとな」
そうか、となんとなく照れつつも、文偉は『後悔』という言葉にひっかかっていた。
「なあ、休昭。軍師将軍は、おまえにそのことを話したとき、もしかして、俺が死ぬかも、ということを前提に、話をしていなかったか?」
「深く考えるなよ。あの人はあのひとで、考えがあるのだ」

二度目の犬の遠吠えが聞こえた。今度は近い。
「おそろしい野犬とは、いったいどのような物なのだろう。熊のように大きなものなのだろうか」
と、事情を知らない伯仁は、不安そうにつぶやく。
伯仁は、終風村の村人には、猪肉を届けてもらう際に会っていたが、終風村の長は、馬光年という名前ではなかったはずだ、と言った。
孔明の言いつけもあり、文偉は、この伯父に、終風村で経験したおそろしい体験は伏せていたので、伯仁のもっぱらの感心は、老け込んでいた、という費観のほうに向いていた。
「どうであろう。長星橋の者が教えてくれたのだが、江東で取れる海草が、若返りにいいらしいのだよ。
少々値が張るようなのだが、送ってやったら喜ぶだろうか」
「従兄殿は喜ばれるでしょう。配置換えがあればよいのですが…」
「李将軍というのは、そんなに癖のある男なのかね。公琰君、きみも確か荊州だったな。なにか聞いてはおらんかね」

尋ねられた公琰は、愛用の長剣を抱えるようにして壁にもたれかかり、胡坐をかいていたが、しばし考えたあと、慎重に口をひらいた。
「評判は良かったり、悪かったり。つまり、二面性のある男、というわけですよ」
「ふむ?」
「あくまでわたしの印象なのですが、不器用な軍師将軍、と表現すればうまく言い表したことになるのでしょうか」
「つまり、能力は高い、と」
公琰は、こくりと肯く。
「世人の評価が高いのもうなずける、華をもたせたくなるような雰囲気のある御仁です。ただし、短期間に主を替えすぎた。強いものになびく臆病者、という印象を世間につけてしまったのです。
おなじ荊州の人士の中にも、李正方どのを軽んじる見方があるのは、事実です。
だから、焦っておられるのです。元劉璋の家臣で、裏切り者という印象を払拭し、一気に中央に返り咲くためには、派手な勲功を立てるしかない」
「で、広漢の盗賊どもを一網打尽にしようと?」
「おそらくは。しかし、そこを盗賊どもに付けこまれているのかもしれませぬ」
と、自分で口にしておきながら、公琰は、ふと眉根をよせて、片手で、自分の口を覆うような仕草をして、じっと考え込む。
「文偉、馬光年と戸籍の話をした、といったな?」
「ええ、たしかに。劉璋時代の戸籍は、どうも役人の仕事がいい加減であてにならないから、きちっとしたものを作らねばならないと、以前に軍師将軍が全文官をあつめて、訓告なさっていたでしょう。
法尚書令がめずらしく全面的に賛成されたので、来春には調査がはじまる。そのことを話題にしたのです」
「馬光年、あるいはほかの村人はなんと?」
「特には…いや、すこし場が静まったかな。もともと、村人たちもあまり口を開かなかったので、気にしなかったのだけれども」
「おまえは、それがいつになるかを彼らに説明したか?」
「いいえ、そこまで詳しくは」

そのとき、庭のほうからはげしい剣戟が聞こえた。
思わず立ち上がり、戸口を開こうとする文偉に、公琰の鋭い声がかかる。
「文偉、開けるな!」
しかし、一瞬おそかった。
文偉が戸口を開くと同時に、白い閃光が走った。
それが刃だと気づいたときには、凶刃は目の前に迫っていた。
公琰の舌打ちが、真後ろで聞こえる。身動きが取れない。

ざっ、と鈍い音がして、凶刃が消えた。

見ると、一瞬にして、文偉の前に立ちはだかっていた男は、背後から胴体を真っ二つにされ、床に転がった。
ぶわっと血の匂いが、風とともに襲ってくる。
血しぶきの向こうで、男を切り伏せた剣を持つのは、ほかならぬ胡偉度である。
「まったくバカ坊ちゃんどもめ。大人しくしていればよいものを」
「ス、スイマセン」
思わず声をそろえて謝る文偉と休昭であるが、偉度は、ふん、とひとつだけ鼻を鳴らすと、つぎの敵を目指して、風のように去っていった。

さほど広くない費家の庭が、いまや戦場となっていた。あちこちで剣戟が聞こえ、偉度の指示により、細作と思しき男女と、盗賊らしい風体の襲撃者とが刃を交えている。
戦のあとの光景ならば見慣れているが、戦場そのものにはまったく慣れていない文偉には、屋敷の中と外とで、まったくちがう世界が展開している錯覚さえおぼえた。
公琰は、その光景に眦をつよくしつつ、手にしていた長剣を、すらりと抜き放った。
「律儀におまえを追って、屋敷にまで現れたらしい。文偉、休昭、おまえたちは後ろへ」

言われるまま後退すると、なにか柔らかいものを踏んだ。
ぎょっとして振り返ると、自邸のとんでもない状況に、すっかり目を回してしまった伯仁が倒れていた。
「伯父上!」
助け起こそうと声をあげた文偉であるが、それが裏目に出た。
賊が、文偉の声にするどく反応してしまったのである。
「いたぞ、費家の主と若造だ!」
「大人しくしていろと言っただろう!」
公琰は、さすがに苛立ち混じりに叫ぶと、襲い掛かってくる賊の刃を跳ね除ける。

賊はいったい、何人なのか? 
偉度が配置していた細作も、獅子奮迅のはたらきをみせているが、賊のほうが、数が多いようである。
「休昭、そちらを持ってくれ。伯父上を安全なところへお連れするのだ!」
「莫迦! それはわたしに任せて、ひとまずおまえだけでも逃げろ!」
休昭は真っ赤な顔をして、伯仁を助け起こしながら言うが、文偉に、友と伯父を見捨てて、逃げる、などという薄情な真似ができるはずもない。
そうして、逃げるのも敵わず、立ち去ることも敵わずで、身動きがとれなくなっていると、視界の隅に、公琰が防いでいた刺客のうち、防ぎきれなかった者が、わずかな隙をついて、文偉たちのところへやってくるのが見えた。
文偉は、自分があまりに迂闊だったことを呪った。
屋敷に籠もったさいに、すっかり安心して、武器の類いを手放していたのである。
それほど文偉というのは楽天的な青年であった。
今度は、胡偉度も間に合わない。
偉度はといえば、仲間の細作たちとともに、次から次へと、塀を乗り越えて降って来るように増えてくる刺客と戦っている。
「お覚悟!」
刺客は言うと、文偉めがけて刃を付きたてる。
体は強ばり、悲鳴をあげることすらできず、目を逸らすことも、つぶることもできない。
ほんの一瞬のうちに、刺されたらどれほど痛いか、なんとか身をひねったらどうなるだろう、残された伯父はどうなるだろうということなどが、すさまじい速さで脳裏を掠めていった。

銀色の影が、ふと薄闇の空を抜けていく。
それがなんであるかわからず、文偉はぼう然と、眼前にある、一幅の絵のように非現実感をたたえた光景を見つめていた。
自分がいて、腰をぬかした自分の足があり、その目の前に、銀色の狼がいる。
銀色の毛を逆立たせ、長く太い尻尾をぴんと伸ばし、文偉を狙う刺客めがけて、威嚇の牙をむいている。
そして、刺客は片手を押さえて、蹲っている。
銀狼の牙によって傷つけられたのであろう。
銀狼の姿に、刺客は怖じつつも、忌々しそうに舌打ちをして、費家の塀を振り返る。
文偉もそれにつられるようにして、目線を移した。
塀の上に、終風村で会った、あの芝蘭の姿があった。
薄闇の空を背景に、毅然と修羅場の上に君臨するさまは、まるで山の女神が降臨したかのごときであり、潰れた瞳の傷も隠すことなく堂々と晒し、きつく刺客たちを見下ろしている。
芝蘭の、凛とした声が、剣戟の耐えない修羅の庭にするどく響いた。
「卑きょう者! なにも罪のない者を巻き込んで、あまつさえ命すら奪おうとするとは、恥を知れ!」
「黙れ、裏切りもの! 日和見の二枚舌どもめが! 我らの邪魔をするな!」
と、黒装束の頭巾を脱ぎ捨てて、叫んだのは、終風村にて文偉たちをもてなした村人のひとりであった。
「黙るのはおまえたちのほうだ! 甘言に乗せられ、おまえたちと組んだわたしたちに咎があったのだ。血に餓えたけだものめ! さあ、みんな、曹操の狗どもの咽喉笛を切り裂いておやり!」
芝蘭の声を合図に、塀の上に、つぎつぎと、新手の刺客たちがあらわれた。
彼らは、立ち位置の利点を活かして、手刀や弓でもって、上空から刺客たちを狙っていく。
たまらないのは、胡偉度をはじめとする、味方の細作たちである。
本来ならば戦わねばならぬ相手と接近しているがために、飛んでくる手刀を避けたり、あるいは矢を振り払ったりしなければならず、しかも目の前の刺客たちは、上空からの攻撃を受けながらも、容赦なく、隙あらば斬り付けてくるのだ。

「蜀の者たちよ、聞きなさい! わたしたちは、貴方がたと戦う意志はない! ともに曹操の狗と戦おうではないか!」
芝蘭の声に、何本目かの矢を地面に振り落とした胡偉度は叫んだ。
「都合のいいことを申すな! いまわれらと戦う者が曹操の狗ならば、おまえたちは何者ぞ!」
「江東訛り…孫権の狗であろうよ」
と、公琰が、芝蘭の代わりに答えた。芝蘭は、口をぎゅっと引き結んで沈黙を守っている。
しかし、その沈黙こそが、公琰の言葉に対する答えであった。
「なるほどな。魏と呉が連合していたが、仲間われをはじめ、よい風を得ようと、呉がまたも我らに助けをもとめにきた、というわけか!」
いいざま、胡偉度は、鮮やかな手並みで、そばにいた魏の刺客を切り伏せた。
そうして、仲間たちに下知をする。
「兄弟たち! 聞いての通りだ。目の前の敵を打ち滅ぼせ!」
偉度の声に応えるように、ふたたび剣戟がはげしくなり、ついで、芝蘭の操る銀狼が、雄雄しく遠吠えをした。
多勢に無勢、ということもあり、魏の刺客たちはつぎつぎに討ち取られ、費家の庭に、無残な屍をさらした。

最後の一人が、逃げようとするところを、偉度の手刀でもって倒されると、公琰は、長剣を鞘にしまって、塀の上で仲間たちに指示を出していた芝蘭に呼びかけた。
「さて、今宵限りのことかもしれぬが、貴女方とわたしたちは仲間だ。そのようなところにいないで、降りてこられては如何か」
しかし、芝蘭は、皮肉げに苦笑すると、首を振った。
「無礼を承知で、ここにいさせてもらいましょう。馴れ合いはしたくありません」
「では、名乗るくらいはさせてほしい。わたしの名は蒋公琰。文偉の友人だ。まず、文偉を三度にわたって助けてくれたことに礼を言う…」
そうだ、と文偉は屋敷から這うようにして出て、頭上の芝蘭に叫ぶようにして言った。
「待った! 先にわたしに言わせてくれ! ありがとう、芝蘭! 貴女のお陰で、わたしは生きながらえることができた。貴女はわたしの命の恩人だ!」
それまで、近づきがたいほどに威厳のある矜持を保っていた娘は、文偉の登場に、笑ってよいものか、それとも無視するべきか、困っているような、フクザツな表情を見せた。
「貴方を助けたのは、無意味な死は、好まないからですわ」
「しかし、費観殿の部下は救わなかった」
偉度の皮肉を利かせた声に、芝蘭は、おおいに眉をひそめる。
「費観の部下など、民を見殺しにするくせに、威張ってばかりいる、ろくでなしですもの」

偉度は、血にべっとり濡れた衣を始末しつつ、乱れた結髪をまとめていた頭巾をほどいて、豊かな黒髪を風に流した。
そのさまは、見るものを意識してのことでもないであろうが、どこか色っぽく、芝蘭に意識は向かいつつも、一瞬だけ、文偉は偉度に目をうばわれた。
そうして、あわてて、コレは男だ、と思い出し、芝蘭を見る。
そんな文偉を、芝蘭はじっと見つめていたようだ。
ふたたび目が合うと、芝蘭はすこし怒ったような顔になった。

公琰は、そんな二人をよそに、前に進み出る。
「芝蘭どの、これからわたしが言うことに、誤りがないかどうか聞いて欲しい。
広漢の周辺は、盗賊どもが横行している。村々は襲われ、被害は絶えないというのに、盗賊討伐の任を果たすべき李将軍は、中央復帰の野望が強すぎて、大手柄を狙い、なかなか討伐にかからない。それゆえ、広漢は無法地帯に等しい状態になっている。
そこへおまえたちは目をつけた。魏か、呉か、どちらが先に話を持ちかけたのかは知らぬ。おまえたちは蜀に潜入するため、互いに手を組んで、村をまるごとひとつ、自分たちのものにしたのだ。
魏は、呉ほどにこちらの地理に詳しくない。呉は、魏ほどに多くの手勢を持っていない。蜀としても、まさかひとつの村の村人が、そっくりそのまま、刺客と入れ替わっているなどとは思わぬから、すっかり油断し、おまえたちは思うさま動けた、というわけだ。
終風村が選ばれたのは、費家の所領であったからだ。費家の族姑は、劉璋の母。そして劉璋は、いまだ蜀への帰還を狙っている。おまえたちに終風村の情報を教えたのは、劉璋だろう」
「公琰殿、諸葛孔明が、その才に惚れこみ、育てているという、その評判は伊達ではないようですね。だいたいそのとおり」
芝蘭は、隻眼で、鷹のような鋭いまなざしで、公琰を見る。
「李正方は、中央へ返り咲くための大手柄を狙って、たびたびの広漢の住民たちの懇願にもかかわらず、盗賊たちを討伐しようとしなかった。
終風村の住民たちも、なんども盗賊たちに村を襲われ、すっかり絶望してしまったのよ。
そこで、かつての領主であった費家の者…費観に頼んだのだけれど、費観は費観で、むずかしい立場におかれているから、終風村の村人たちの声に応えることができなかった。
思い余った村人たちは、荊州に移住した費家の族姑に陳情に行ったのよ。費家の族姑は、かつての領民たちの窮状に怒り、やはり劉備に益州は任せておけないと、わたしたちにこの計画をもちかけてきたの」

「なんと、族姑さまが…」
文偉は絶句した。聡明で優しい女人であったが、その優しさは、益州に留まった同族には向けられなかったらしい。
「われらが主・孫仲謀さまは、同族よりも領民を優先させて、なんとか救って欲しいと訴えてきたあなた方の族姑の話を聞いて、いたく感動されたの。
とはいえ、李正方も無能ではないから、わたしたちが、普通の形で蜀に入ることがむずかしかった。そこで、終風村の村人と相談して、村をまるごと譲り受けることにしたのよ。そうして、こっそり村人と入れ替わったの」
「大胆だな…しかし、それならば、魏と手を組む必要などなかったであろう。現に、こうしておまえたちは仲間割れをして、殺しあっている有様だ」
「わたしたちは、困っている者たちを、助けるためにやってきた」
芝蘭は、誇り高いその表情を、憎しみに歪ませて、言った。
「魏は、どこからかわたしたちの計画を探り当てて、蜀に計画をばらされたくなかったら、手を組め、と言ってきた。
蜀の地で、蜀と魏に挟み撃ちにされたら、いかにわたしたちとて、ひとたまりもない。そこで仕方なく、手を組むことにしたの。そこへ、貴方がやってきた」
と、芝蘭は文偉を見る。その目は、公琰を見るときより、優しい。
文偉の隣には、戦闘のあいだ、ずっと文偉を守ってくれた銀狼が、よく躾けられた犬のようにお座りをして、芝蘭の命令を待っていた。
「わたしたちは、あなたの旅の目的が、決してわたしたちの害にならないと知ったので、普通に貴方を帰して差し上げるつもりだった。けれど、魏の馬光年は、どうしても貴方を殺すといって聞かなかった」
「戸籍の件だな」
公琰の言葉に、芝蘭は肯く。
「そうよ。諸葛孔明が計画しているという戸籍の話を聞いて、馬光年は小心者なので、すっかり動転してしまったの。
あいつらが、なにを企んで終風村に入り込んだのかは知らない。
けれど、彼らにとって、いま、自分たちを調べられることは、危険だと判断したのはまちがいないわ。あいつらは、戸籍調査をするために、文偉さま、貴方が孔明直々の命令を受けて派遣された者だと勘繰ったのよ。
馬光年は、貴方と伯父君が、董幼宰を通じて、諸葛孔明と親しくしていることをも知っていたわ。やつらは、諸葛孔明を極端に恐れているの」
偉度は、芝蘭の言葉におおいに納得しつつ、いつもの冷笑的な笑みを浮かべた表情で、芝蘭を見あげた。
「なるほど、馬光年は、だからこそ費文偉を消そうと躍起になり、生きていると知ると、必死になって成都にまで追いかけてきた、というわけか。
すべてがわかったところで、姑娘、あんたがそこまで詳しく手の内をさらすということは、我らになんらかの頼みがあると見てよいのかな」
「そのとおり。正体が知れた以上、わたしたちは、終風村から引き上げるわ。孫権さまは、貴方がたとの仲が、必要以上に険悪になることを喜ばれないの。
今度のわたしたちの計画は、あくまで費家の族姑の心意気に応じたものよ。もう十分だわ。
その代わり、広漢の民を助けてあげて。終風村の村人は、いまは荊州の劉璋のもとにいるけれど、みんな故郷に帰りたがっているわ。李正方を説得するなり、代わりの武将を派遣するなりは、味方の貴方がたなら、たやすいでしょう?」
「ふん…まあ、立派な動機だけれど、それをわたしたちが、はいそうですかと承諾するとでも? 
少なくとも、あんたがたは、一度はわたしたちに刃を向けたのだ」
「そうね。でも、貴方はわたしたちの頼みを、きっと諸葛孔明に伝えてくれるわ」
「買いかぶられたものだな。我らの手勢が、おまえたちを成都から出さぬ、といったら?」
芝蘭は慈母のような笑みを浮かべると、偉度の目をまっすぐと見て言った。
「あなたの兄弟たちを知っている。みんな、あなたがどんな人だったか、教えてくれたわ。わたしたちにとっても、あなたは兄のようなものよ」

とたん、偉度のそれまでの冷笑的な表情が崩れ、あきらかに強ばった。文偉は、芝蘭の言葉の意味がわからない。そういえば、偉度の兄弟は、荊州に留まっているのだっけ、とぼんやりと考えていた。

「それは、ずるいんじゃないか」
「戦わずにすむ、ありとあらゆる手段を講じて、それでもダメなら戦え。
あなたが、兄弟たちに言った言葉よ。さあ、わたしたちはこれで帰るわ。さようなら兄上。そして」
芝蘭は、ちらりと文偉を見て、優しい笑顔を見せた。
文偉がなにか言葉をかけようと口を開くその寸前に、ぱっと身を翻すと、そのまま屋敷の外へと消えてしまった。
芝蘭の銀狼も、芝蘭を追うようにして、木々をつたって上手に飛び上がり、塀を飛び越えて、そのまま去ってしまった。

「やれやれ、これでは追うこともできやしない」
と、偉度は苦い笑いを浮かべて、芝蘭の去っていったほうを見あげている。
遅れて、屋敷から出てきた休昭が言った。
「公琰殿が、『公琰殿』で、文偉は『文偉さま』か。好かれたな、文偉」
「そうだろうか。そうだといいな」
文偉の言葉に、偉度、公琰、休昭の三人は、仰天して視線を集めてくる。
しかし文偉は、彼らの顔を見返して、言った。
「だって、そうではないか。とても綺麗な娘だ。ずばり言うなら、好みだ」
「…バカ坊ちゃん。あの娘は呉の細作だ。しかもあの若さで長をつとめている、やり手だぞ。下手に近づいたら、それこそ骨抜きにされて、散々利用されたあげくに長江の魚の餌だ」
偉度の言葉に、文偉はむっとして反駁した。
「でも、わたしを三度も助けてくれた。わたしのような、利用価値などなにもない男をだぞ? たしかに細作かもしれぬが、きっとなんらかの事情があるにちがいない。
それに、あの娘の高潔な要求を聞いたか? 敵地にて、あんな要求を出せるなど、並みではない。ああ、あんな綺麗な賢い娘がどうして呉の人間なのだろう」
「綺麗、か。すごいヤツだな、おまえ」
と、公琰は、素のままに心の底から呆れた、という顔をしている。
「すごい美人だろう。そうは思わなかったか」
「半分だけは、たしかに」
「公琰殿は目が悪い」
と、文偉は言って、ふと、とてもよいことを思いついた。
「そうだ、偉度。さっきの話、軍師将軍にお伝えするのだろう?だったら、文偉が妻に迎えたい娘を見つけたらしいが、相手の職業が、呉の細作なので困っている、とついでに伝えてくれ」
「バカ。そんな話を軍師にできるか」
「なぜだ? たしか軍師は呉に兄上がいらっしゃるはず。あちらに親交の深い者も多いと聞いたぞ。なんとかなるのではないか?」
「頭が痛くなってきた。休昭、この恋に浮かれたバカを屋敷に閉じ込めておいてくれ」

休昭は、むっとして偉度に詰め寄ろうとする文偉を止めつつ、尋ねた。
「たしかに文偉も頭を冷すべきだろうが、ひとつ、ちがうことを尋ねてよいだろうか。貴方はさっき、あの娘に『兄上』と呼ばれていた。貴方はいったい、何者なのだ?」
すると、偉度は、乾いた血でぱりぱりしはじめた髪を、うるさそうにかきあげつつ、休昭に答えた。
「好奇心は身を滅ぼす元だよ。どうしても知りたいというのなら、そうだな、あんたが父親より偉くなったら教えてあげよう」
「そんな先まで待てない」
「じゃあ、せめて、軍師将軍に全面的に信頼される人間になるのだね。
さて、わたしはちょいと風呂を借りるよ。それから左将軍府に行ってくる。まったく、結局、残業でこられないなら、使いのひとつでも寄越せばいいのだ」
と、ぶつぶつ言いながら、偉度は休昭を煙にまいて、去っていった。


孔明は、筆を置いて、やれやれと呟きつつも、窓越しに見える、すっかり暗くなった空を見て、偉度や公琰は、腹を立てているだろうなと情けなく考えた。
本来ならば、なにを置いても文偉の家に駆けつけるところであるが、今日にかぎって、孔明でなければ決裁のできない案件が、夕暮れ以降に、集中して届いたのである。
こればかりは、ほかのだれに任せる、というわけにもいかなかったのと、文偉ならば、逆に公琰や偉度たちがいればなんとかなろう、と判断し、切り捨てたといえば聞こえが悪いものの、二人を信用してまかせることにしたのであった。
とりあえず、この時間まで、なんの使者も費家からやってこない、ということは、彼らが無事である証拠であろう。
偉度がふくれているだろうことは、いまから予想がついたので、さてなんと言い訳をしたものかなと孔明が考えていると、ふと、どこかでちりん、ときれいな鈴の音がした。
顔を上げてみると、そこには、孔明に付きあって、残業をしている主簿たちしかいない。
はて、だれかの装飾品が、なにかにぶつかってした音だろうかと、孔明はひとまず捨て置いて、仕事のつづきをしようとしたが…

また聞こえた。

しかも、音は、室内からではなく、廊下のほうから聞こえる。
きれいな音ではあるが、職場には似つかわしくない。
さて、こちらは必死に仕事をこなしているというのに、だれが、鈴などという、浮かれた装飾品を持ってうろうろしているのかなと、持ち主に注意をするべく、孔明は立ち上がって、廊下を見たのであるが、そこにはだれの姿もない。
いや、だれの姿もない、というのはあたらないであろう。
姿は見えないけれど、たしかに人のいた気配が感じられる。
床を踏みしめた人の足音が、しんと静かな建物に、まだ残っていたからだ。
「軍師、如何なされましたか」
「鈴の音が聞こえなかったかね」
すると、このところの忙しさゆえに、目の下にクマをつくっている主簿たちは、互いに顔を見合わせ、答えた。
「申し訳ございませぬ。書面に気をとられておりまして、気づきませなんだ」
孔明は、いささか毒気が抜かれた気がして、草臥れ気味の部下たちを見遣った。
「そうか。先も見えてきたことだし、わたしもおまえたちに倣って、集中することにしよう。邪魔をしてすまなかったな」
本心では、すまないと思っているくせに、出てきた言葉が思わず尖がったものになってしまい、孔明はすぐさま、しまったと後悔した。
が、さいわいなことに、主簿たちは、頭が朦朧としているらしく、いつもならば恐縮したであろうが、孔明の言葉に反応する余裕もないようだ。
安堵して、孔明は、後ろ手で扉をしめて、自分の席にもどろうとしたが…

また、聞こえた。

あわてて廊下に顔を出したが、やはり、だれの姿もなかった。
鈴の音。
咽喉元に魚の小骨がひっかかったような、気分の悪さを感じつつ、孔明は今度こそ扉を閉めた。

ながーい前フリがおわりました(>_<)。次回より本編です。
このお話は、はさみの世界に馴染んでいただいたお客様には、すぐピンと来るかもしれませんが、
「あの話」の続きです。え? なんだかわからん? さあて、なんの話の続きかは、お楽しみに…
(Q・なんではさみのは、繋げるのが好きなんですか? A・繋げるのが好きだからです)

つづく

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