12000HIT&一周年謝恩企画
風の終わる場所
ニ
文偉の伯父・費伯仁は、もともと風流な人ではないのだが、浮世離れした人ではある。
ようやく世情が落ち着いてきて、夜中にぐっすり眠れることになったというので、仕事から帰ってきた後は、庭のちいさなあずまや(文偉は『あばらや』と呼んでいたが)に古い琴を持っていき、そこでなんとも珍妙な音を奏でる。
最近招かれた諸葛家の宴席で、孔明が格好よく琴を弾いていたのを見て、費伯仁も影響されて、琴をはじめたのである。
しかし、その腕は如何ともしがたく、文偉は、最近、家に小鳥が寄り付かなくなったことを憂いていた。
それはともかく、琴を弾き鳴らしていた伯父が、ふとその手を止めて、甥っ子に言った。
「そういえば、今年はアレがまだではなかったかな」
「アレ、と申されますと?」
「ほら、猪の干し肉だよ。いつもなら、この季節に終風村より届くだろう。今年はどうしたのだろうな」
終風村は山深くにあるちいさな村であったが、水に恵まれており、良質の作物が取れるため、領地を没収される前までは、費家の経済をうるおしてくれた村であった。
現在、没収されてまったく無縁になってしまったが、律儀な村人は、かつての領主である費家に、山の神への捧げものとして奉じたいのししの肉の干したものを、毎年届けてくれるのである。
「我々のことは、もう忘れられてしまったのかねぇ」
と、ひどく寂しいことを伯仁は言った。が、すぐに思い出すと、甥に言った。
「そうだ、文偉、最近、退屈していると言っていなかったか。おまえ、ちょっと足を伸ばして、終風村に行って、様子を見ておいで。
言えるようならば、猪肉のことはもうよいからと伝えてきておくれ」
伯父のひと言で、文偉は翌日より成都を発って、終風村に行くことになった。
ついでに、広漢のほうに派遣されている従兄に陣中見舞いをすることになった。
従兄というのは、李巌の副将としてついている費観のことで、真面目な費一族の礼にもれず、熱心な働きをみせて、若いのに、あっという間に将軍職を拝領することになった。
世間的には成功した人物のように見えるのだが、実際は、費観は必死なのである。
劉璋の娘を妻にもつ費観は、李巌にしたがって、いち早く劉璋をうらぎったものの、それでも劉璋に関わりが深すぎるというので、つねにまっさきに疑われる存在であった。
疑惑を払拭するため、妻子をまもるため、必死になって働いて、そうしていまの地位を築いたのである。
何日かの行程のあと、広漢の費観を尋ねると、一回り年上の従兄は、文偉が我が目をうたがうほどに老け込んでいた。
費観の上司は李巌といい、かつては荊州の劉表のもとで勇名を馳せていたが、曹操の南下や劉備の荊南支配によしとせず、劉璋のもとに走った男である。
そして、劉備が益州支配に乗り出すやいなや、旗色悪しとみて、すばやく劉備に鞍替えした。
ある意味、危機回避能力の高さはすさまじいとさえいえるが、李巌は最前線に立っているようで、じつは目の前に困難がたちはだかると、我先にといちばんに逃げ出す性質をもっている。
その上司のもとで、生真面目な費観はだいぶ振り回されているようであった。
自分たちの貧乏暮らしなど、この従兄の背負っているものにくらべれば、まったくたいしたことはないと、かえって恐縮しつつ、文偉は従兄の歓迎を受けた。
劉璋の一族は、追放という形で荊州へ追われたが、その処置はいたって穏便なもので、財貨のほとんどを持ち出すことをゆるされた。
なので、費一族もそれにつづけば問題はなかったのだが、身内であるがゆえに、劉璋への失望感というものは、だれよりも強かった。
それに、益州という土地と、そこに住む人々に義理を感じているがために、劉璋のあとを追わなかったのだ。
文偉が感動したのは、劉璋の娘たる費観の妻は、実家のあとを追わなかったことである。
かつての奥様ぶりはどこへやら。
すっかり武将のよき妻の様子で、質素な暮らしに身をやつしながら、けんめいに夫に従う姿を見せた。
成都のようにご馳走はだせないが、といいながらも、振る舞ってくれた手料理は、実に心がこもっており、費観もその妻も、文偉から、なつかしい成都の様子を聞きたがって、その話は夜更けまでつづいた。
広漢に馴染んでいる従兄なら、終風村でなにか変わったことがあったか、知っているかもしれないと尋ねてみると、とたんに従兄は顔を曇らせた。
「力になれなくてすまぬ。わからぬのだ」
「どういうことでございますか。李将軍の副将たる従兄殿がわからぬとは」
「うむ、終風村の一帯は、このところ李将軍がじきじきに見ておられる。成都にも、広漢のあたりで賊が増えていることは伝わっておろう。李将軍には、ひみつの策があるらしく、賊を放置されているようなのだ。そのため、我らは手が出せぬ」
「これは奇異なこと。賊を放置して、どんな利があるというのでしょう」
ここだけの話にしてくれよ、と従弟をたしなめつつ、費観は言った。
「李将軍は、焦っておられるのだ。荊州では、このひとの右に出る者なし、とまで謳われたお方が、いまはどうもぱっとせぬであろう。李将軍からすれば、これほどに軍師将軍のご威光がすさまじいものとは想像していなかったようなのだ。それゆえ、大きな手柄を立てようと思っておられる。そこで、広漢の一帯の賊を一網打尽にして、より名声を高めようと考えておいでのようだ」
「なんと、それでは賊は野放し、というわけでございますか」
「もちろん、わたしの目の届くところでは、賊の好きなようにはさせぬ。李将軍がなんとおっしゃろうと、民があってこその我らではないか。しかし文偉よ、おまえが終風村に行くというのであれば、わが部下を何名か連れて行くといい。おまえになにかあれば、族父に申し訳ない」
そうして、費観は文偉のために部下を二人つけてくれた。
そうして文偉は終風村に向かったのであるが、途中までは晴天であったのが、やがて雲行きがあやしくなってきた。
そこで、峠に入る手前のちいさな祠で雨をやり過ごすことにしたのであるが、そこに、先客がいた。
祠に祭られているのは、旅人を守るとされる行神であった。しかし、峠の道自体、通る者がすくないのか、祠は打ち捨てられたままになっているようである。
雨雲が迫り、夜のように暗くなった道の向こうを見ると、蛇のようにうねった道は、木々によってところどころ遮られていた。
祠の先客は、頭から衣をかぶって身を隠している女人で、身なりはそう悪くないものの、伴もいないことから、格式の高い家の娘ではなさそうだ。
ここまでの旅程で、文偉は盗賊の気配を感じさせるものに行き当たらなかったものの、それでも、ここから先は、夕闇も迫ってくるし、人の気配もすくない。
もし方角が一緒なのであれば、途中まで送って行ってやろうと思い立ち、文偉は声をかけた。
「失礼だが、この先、どちらへ参られる?」
「家に戻る途中でございます、旅のおかた」
若い、涼やかな声の持ち主であった。顔を隠してはいるものの、布の隙間から、形のよい鼻梁とふっくらとした赤い唇がのぞいている。
俄然、興味をそそられて、文偉は、さらに尋ねた。
「わたくしどもは、これより終風村に参るところでございます。貴女様のお屋敷はどちらに?」
「屋敷などという、立派なものではございませぬが、終風村でございます」
と、はじめて女はこちらを向いた。
そのとき、ぴかりと空が光り、稲妻が大地を照らした。
そして、文偉は、女の顔をはっきりと見た。
美しくも、無残な顔であった。くちなしの花のように白い顔に、鮮やかな赤い唇をもつ娘だ。
しかし、娘の右目はつぶれて酷い傷となっていた。
文偉の表情で、娘は察したらしく、悲しそうな顔をして、布で顔を隠す。
「見苦しいものをお見せいたしました。そういうわけですから、わたくしを襲おうなどという者はおりませんの。どうか放っておいてください、旅の方」
「どういうわけ、というのです。貴女はとてもお美しい。わたしが盗賊ならば、攫って妻にすることでしょう」
「お戯れを。見たところ、土地の方ではありませんわね。終風村に、どんな御用事なのですか?」
かくかくしかじか、と文偉は娘に用事を話した。村人ならば、猪肉が献上されなくなった理由を知っているかもしれない。正面切って問うのは決まりが悪いが、この娘からこっそり聞けるのであれば、と文偉は思った。
文偉からすれば、たいした話ではないのであるが、話を聞いた娘のほうは、あきらかにうろたえているのがわかった。
「あいにくと、わたくし、事情を存じませんの。村人に聞いても、きっとお分かりになりませんわ。ええ、だれも知らないと思います。
村へ行っても、きっと無駄足だと思いますわ。お帰りになられたほうがよろしいのじゃありませんこと? だって、天気だってこんなふうですもの」
「そういうわけには参りませぬ。伯父の言いつけなのですから」
と、雨足がだんだん弱くなってきた。
すると、雨の帳の向こうから、傘を被った男が、のしのしと荒々しい足取りで近づいてくるのが見えた。女は、あわててふたたび顔を隠す。
「どうなされた、旅のお方」
「雨のために往生しておりました。あなたさまは?」
「この先の、終風村の長をしております、馬光年と申します。娘の芝蘭を迎えに参ったのですが、あなた方はどちらへ?」
「おお、貴方が終風村の。長年、お名前だけは存じておりましたが、直にお会いするのは初めてでございますな。わたくしは費文偉。伯仁の甥にございます」
費家の名前を出せば、なにかしらの反応が出るであろうと期待した文偉であったが、村長の馬光年は、さようでしたか、とかんばしくない返事をかえしてきた。
奇異に思いつつ芝蘭を見ると、これも落ち着かない様子である。
おかしいなとは思ったものの、馬光年の印象はたいへん落ち着いており、信頼できるものであった。村長は、それでは、雨の弱くなっているうちに、村へいらっしゃいといって、娘と文偉、それから従者たちを連れて、村へと向かった。
雨はしばらく糸雨であったのだが、文偉たちが村に着くと同時に、ふたたび土砂降りとなった。
一軒先も見えないほどの豪雨である。
村長の屋敷に招かれた文偉は、まず、屋敷中に炊かれた、香の薫りの濃さに驚いた。なにか凶事でもあったのだろうか。
家人が出てきて、雨に濡れた文偉の世話をしてくれるのだが、その仕草も、どうもぎこちなく、雨のために家が暗い、というのもあるが、どこになにがあるのか、家人同士で話し合って捜している、というありさまであった。
芝蘭という娘は、家に着くなり奥のほうへと去ってしまった。
どうも、悪いときにお邪魔しているようだ、と気まずさをおぼえた文偉であるが、この雨の中、いまさら帰るわけにもいかない。一晩だけ、宿を借りて、朝になったら早々に村を出ようと思った。
村長の馬光年だけは気のよい男で、文偉が成都から来たと知ると、今宵は宴を開こうといって、てきぱきと家人に采配をはじめた。
家には芝蘭のほかは女手がすくないらしく、馬光年には妻がいない様子である。
やがて、宴の準備がされたが、雨のなか、村人があつまっているらしく、遠方からやってきた文偉のために、村の娘たちも着飾ってあらわれて、いろいろもてなしをしてくれた。
しかし奇妙に思うことは、彼らはたしかに歓迎してくれており、みな一様に、にこにこしているのであるが、口数はすくない。とはいえ、文偉が奇妙に思うことがあったとしても、酌にあらわれた娘を見たら、そんなものは吹っ飛んでしまったであろう。
よくぞこの山奥に、というくらいに美しい、山の精の化身のような娘があらわれたのだ。
名を紫芝という。匂いたつような色香があり、物腰は宮女のように雅やかで、見とれるほどに垢抜けた娘であった。
芝蘭の姉娘ということで、芝蘭の右目のことを思い、文偉は、あの傷さえなかったら、あの娘もこれほど煌めいたのであろうと残念に思った。
そうして、宴は、いささか賑やかさにはかけるものの、穏やかに過ぎていった。
その夜更けである。
更衣のために目がさめた文偉であるが、ふと、部屋にだれかがいる。
「だれぞ」
誰何すると、部屋に忍び込んだその影は、ゆらりと揺らめいて、文偉のところにやってきた。
おどろいたことに、紫芝であった。纏うものは、うすい衣一枚で、下手をすれば、はっきりと体の線があらわになる。
艶めかしい姿が唐突に迫ってきたのにどぎまぎしつつ、文偉は、間抜けな問いをした。
「そなた、ここでなにをしているのだ?」
だが、紫芝は答えず、意味ありげな艶やかな笑みを浮かべつつ、髪飾りを、ひとつ、またひとつとはずしてく。そのたびに、豊かな黒髪が、ほつれて肩に流れ落ちていく。
これは、もしかして。いや、もしかしなくても。
文偉とて、もう二十になる青年であるから、女を知らないわけではない。
しかし、これほど積極的に女から誘われる経験は、はじめてであった。しかも、相手はめったにお目にかかることのできない絶佳ときている。
あまりの嬉しい状況に、すっかりどぎまぎしていると、不意に、紫芝の顔が、大きく見開かれた。
「どうした?」
暗がりで、ムカデでも踏んでしまったような顔をしている。
文偉の問いに答えることもなく、紫芝は、そのまま、白目を剥いて、ぱたりとその場に倒れてしまった。おどろいた文偉が駆け寄ると、鋭い制止の声がかかった。
「だめ、近づいてはなりません!」
さらに仰天したことに、戸口の帳をかきわけて、芝蘭がそこにいた。手には、先端に針の仕込まれた、ちいさな桐のような武器を持っている。そうして、いまは、目を隠さず、鼻と口を布で隠しているのであった。
「このひとは、全身が毒なのですわ。馬光年が育てた、体中に毒の沁み込んだ暗殺者なのです」
「なんと?」
「美貌で男を釣って、閨に入ったところで、毒を移して殺してしまうのです。吐息も涙も、唇も、すべてが毒なのです」
唐突な話に、状況がつかめずうろたえた文偉に、芝蘭は前に進み出ると、いきなり、杯を差し出した。
「さあ、お飲みなさい」
「これも毒か?」
「いいから、早くお飲みなさい! 馬光年がやってきます。その前に早く!」
「待て。そなたは、馬光年の娘ではないのか。紫芝は、姉ではないのか。どうなっている?」
芝蘭は、躊躇していたが、やがて、決意したらしく、きっ、と眼差しを強くして、まっすぐ文偉を見た。その瞳は純粋で、夜闇に星のように輝いていた。
「わたくしが、きっと貴方をお守り申し上げますわ。ですから、どうぞこれを飲んでくださいまし!」
文偉は、ごくりと生唾を飲んだ。
芝蘭が、己を殺そうとしているとは思えない。だが、この状況は一体、どう考えればいいのだ?
「さあ、お早く!」
ままよ。
文偉は覚悟を決めて、芝蘭の勧める杯を飲んだ。
とたん、頭をぶん殴られたようなはげしい衝撃と、息苦しさをおぼえ、文偉は悶絶した。涙があふれ、呼吸ができなくなる。にじんだ視界に、芝蘭と、馬光年の姿が見えた。
『やっぱり一人ぐらいは残しておくべきだった…』
『仕方ないだろう。急だったのだから。それより、早いところ始末をしてしまえ』
『兵卒が捜しにきたりしないだろうか』
『大丈夫、奴らは動かない、さあ、早くするのだ』
ざっ、ざっ、と軍隊が土を蹴って進む音が聞こえる。
俺はどこへ行くのだ。捕虜になったのか?
俺みたいな貧乏書生なんぞ、人質になる価値もないというのに。
そんなことをぼんやりと考えながら、文偉は、体中がひどく冷たく、そして重たくなっていくのを感じていた。
「若様…若様…」
揺り起こされて、ようやく文偉は目を覚ました。ひどく頭痛がする。吐き気もひどい。
俺はどうしたのだ、と口を開こうとして、唇に溜まっていた土が口の中に入ってきた。思わず咽る。
「しぃっ! お静かに。奴らが戻ってきてしまいますわ」
奴らとは? 痛む頭を抑えつつ、文偉はなんとか目を開いた。
雨はいつしか止み、群雲のうえに、青白い月が昇っている。そうして、間近にあったのは、芝蘭の心配そうな顔であった。
「よかった。薬が利きすぎてしまったのかと。時間がありません。奴らが気づく前に、早くここからお逃げください」
芝蘭のすぐそばで、獣の荒い息遣いがしている。それも一匹や二匹ではない。
ようやく意識がはっきりしてきた文偉は、起き上がり、そして周囲を見て、絶句した。
まず、自分は掘り返された穴の中にいた。前身泥だらけである。自分は、いまのいままで、土の中に埋められていたのだ。全身を、なんとも形容しがたい、悪寒がつらぬいた。死者のように葬られていたのだ。
傍らには芝蘭がいて、その背後には、狼のような獰猛そうな犬の群が控えている。
そして、自分の横たわっていた穴には、費観がつけてくれた従者たちの、物言わぬ骸があった。
「これは、おまえがやったのか?」
文偉の問いに、芝蘭は悲しそうに目を伏せた。それを攻撃と取ったのか、背後に控える犬たちが、文偉に威嚇の唸り声をあげる。
「くわしくお話をしている時間がございません。若様は、いますぐ成都へお戻りくださいませ。そして、二度とここへ戻ってきてはなりませぬ」
「なぜ?」
「殺されてしまうからですわ。ここは群狼の村なのです。あちらの道を行けば、村の人間に気づかれることなく、広漢へ戻ることができます。ですが、費将軍のもとへ立ち寄られてはなりませぬ。だれにもお会いせず、まっすぐ成都にお戻りを」
「従兄に会うなというのか? しかし、かれらは従兄の部下であったのだ」
「だからこそでございます。どうぞ、この芝蘭を、もう一度信じてくださいまし」
文偉がしかし、とためらっていると、芝蘭は、意志の強そうな唇を、きゅっと引締めて、背後にいる犬たちに、鋭く命令した。
「さあ、おまえたち、この者たちの骸を引きちぎって、だれのものかわからぬようにして!」
犬たちは、芝蘭の声に忠実に、そして獰猛に、従者たちの体に襲い掛かっていく。そのあまりの凄惨な光景に、文偉は絶句するしかない。
「な、なぜこのようなことを?」
「こうすれば、骸がだれのものか、確かめられなくなるからですわ。これで少しは時間が稼げるはず。若様、どうぞお早く、お行きくださいませ」
腰が抜けていた文偉は、なんとか立ち上がり、芝蘭の言う道へ、夢遊病者のようにふらふらと歩きだした。
が、芝蘭のことが気にかかり、足を止めて、振りかえる。
「俺を庇った、そなたはどうなる?」
「どうにもなりませんわ。ただし、貴方様がいつまでもそうしてらっしゃると、わたくしも心が変わって、犬をけしかけるかもしれませんわね」
そうして、芝蘭は、厳しい顔を文偉に向けて、叫ぶように言った。
「行って!」
その声に弾かれるようにして、文偉は芝蘭の示した道を走り出した。
費観のもとへ行こうと何度も考えた。
しかし、二度も命を救ってくれた、芝蘭の言葉が重くひびいて、結局、言うとおり、広漢では、誰にも姿を見られぬよう気をつけながら、ひたすら、成都を目指した。
ようやく、目に馴染みのある成都のそばにまでやってきたとき、文偉は背後より、まさに芝蘭が形容したように、群狼のような連中が追いかけてきたことに気がついた。
なぜだ。
道中、何度とその問いを繰り返したか知れない。しかし、答えはない。
ともかく、彼らが自分を狙っている、ということだけは、ハッキリしている。
文偉は、成都に入る直前に、農夫からロバを盗んで、これに飛び乗り、そして一路、軍師将軍の屋敷を目指した。
あとから考えれば、屯所へ向かえば話が早かったのかもしれないが、ともかくまっ先に思いついたのが、孔明のところだったのである。
ところが、連中はおそろしく足が速く、成都に入る直前、衣を引っつかまれて、捕まりそうになった。しかし、天の助けというべきであろう。ちょうど前方より、夕闇の残滓に、きらきらと輝く得物をかかげた者たちが、ちょうど成都の正面から出てくるのが見えた。
それを見て、追っ手は、耳にはっきりわかるほどそばで舌打ちをして、手にした文偉の衣を乱暴に引きちぎると、一端、消えて行った。
兵卒ならば、助けを請おうと思った文偉であるが、前方よりやってきた者たちの正体を見て、おもわず笑ってしまった。それは、農具をかかえた、郊外の農夫たちだったのである。逢魔がときで視界があやふやだったこともあり、追っ手は武器を手にした兵卒と勘違いして退散したのだ。
しかし、油断はならない。すぐにでも、連中は追いかけてくるだろう。
一刻も早く軍師将軍のもとへ…そうして文偉は、なんとか帰還を果たしたのであった。
「屯所に行けばよかったものを」
偉度のぶっきらぼうな問いに、文偉は、思わず反駁する。
「仕方なかろう。屯所の当番は、たしか今月は魏将軍であったはず。わたしの話をまともに聞いてくださるかどうか、不安があったのだ」
「なるほど、文偉らしいな。追われて混乱しているなかでも、ちゃんと先のことを考えていたのか。しかし奇妙なものよ。村人は、なぜにおまえを狙ったのだろう。軍師、狙いはもしや、費観であったのかもしれませぬな」
偉度の問いかけに、孔明は、うむ、と生返事をして、傍らの蒋公琰にたずねる。
「そなたはどう見る」
「村の正体はわかりませぬが、しかし、彼らが何かを隠そうとしていたのは事実でございましょう。しかも広漢から、成都まで追ってきたとなれば、相当なものでございます」
「文偉よ、よく思いだせ。村長という馬光年に宴に招かれた際、どのような話をした?」
「四方山話でございます。成都の最近の様子とか…ああ、戸籍をあらたに作る、という話をいたしました。あと、橋梁の工事の話を少々」
それを聞くと、孔明は、ふむ、と呟いて、腕を組み、なにやら考え込んでいる。
「芝蘭という娘だが、どんな娘であった? 隻眼という以外に、なにか特長はなかったか?」
「江東の訛りがございました」
「江東の…そうか。ほかの村人たちは?」
「それが、馬光年以外は、ほとんど口を利きませんでした。従者たちと言葉を交わした者もあったようですが、従者たちが殺されてしまったので、わかりませぬ」
「費家の者は、いままで終風村に足を踏み入れたことはなかったのだな?」
「ございません。村人がこちらに来るばかりでございました」
そうか…と、孔明は呟くと、なにやら沈思している様子だ。
その様子を、息を詰めて見守っていると、孔明は、突如として立ち上がった。
期待をこめて、休昭が孔明に尋ねる。
「軍師、なにか妙案でも?」
「いいや、まったくなにも思いつかぬ」
文偉は思わず休昭と顔を見合わせた。
打てば響く、の明快さをもつこのひとが、ずいぶん歯切れの悪いことだ。
孔明は、ぱっと文偉を見ると、言った。
「文偉、襲われるのだ」
「は?」
唖然とする文偉の代わりに、公琰が答える。
「囮、ということでございますか」
孔明は、わが意を得たり、というふうに、深く肯く。
「そのとおり。本当ならば、広漢にまで足を運べばいちばん早いのであろうが、そんな暇はない。しかし向こうがわざわざ来てくれているのだ。だったら、丁重に出迎えて差し上げればよかろう。茶菓でもってもてなす、というわけにはいかぬがな」
そして、孔明はちらりと、自分の机の上に積まれた竹簡を見て、軽くため息をつく。
「わたしはいますぐには動けぬ。わたしの代わりとして、公琰を派遣する。偉度、公琰を補佐せよ。休昭も文偉を助けてやれ。わたしも仕事を片付けたらすぐに行く」
「お待ちを。どこへ?」
孔明は、なぜそんなことを、と言わんばかりの呆れ顔で、文偉に言った。
「決まっておろう。そなたの屋敷ぞ。ああ、伯仁殿には内密な。あの御仁に知らせたら、きっと寝込んでしまわれるから」