12000HIT&一周年謝恩企画 

風の終わる場所

「どなたか! どなたか開けてくだされ!」

巨大な満月が出ている夜であった。
成都の夜空に、これほど鮮やかな月が出ていることは珍しい。
月は、青白い姿を、威圧するかのように不気味に天空に輝かせ、地上の人々を見下ろしていた。
まるで巨人のまなこのように。

息が荒い。
それはそうだろう、息ができているのが不思議なくらいだ。
自分は生きているのか? まだ毒は回っていないのか? この扉を叩いているのは、誰の手だ? 本当に俺の手か? 俺はもう亡霊となって、いまだ村から逃げようとしているだれかの姿を、うしろからじっと眺めているだけではないのか?
裏木戸が、不意にぱっと開いた。
そこに立っていたのは…
「文偉! このような夜更けにどうしたのだ」
「軍師将軍こそ…」
嗄れた声は、まちがいなく自分のものだ。生きているのだ。
まさか屋敷の主人、みずからが、裏木戸を開けてくれるとは思わなかった。
屋敷の主人、諸葛孔明は、髪を下ろし、後ろでゆるくひとつに束ね、寝巻きのうえに、上衣を羽織った出で立ちである。手紙をしたためていたのか、紙燭をかかげるその指先が、わずかに墨で汚れている。
文偉は、その超然とした、月にも負けぬ圧倒的な存在感を見せる、美貌の上役の顔を見て、心から安堵した。
安堵して、そのまま中に向かって、ばたりと倒れた。

心地よい香木の匂いに揺り起こされるようにして、目を覚ました。
「軍師、目を覚ましたようだ。文偉、わかるか?」
と、声をかけてきたのは、ほかならぬ、親友の父・董和であった。
四十も半ばにさしかかる年頃の董和は、同年代である文偉の伯父の費伯仁と比べると、ずいぶん若々しい。
文偉は、口に出したことはなかったが、董和の厳しそうな面差しと、それでいて優しい目や、威厳のある響きの良い低音の声などが好きであった。
幼いころに亡くなった父を思わせるからだ。
伯父にいわせれば、亡父は、ずいぶんなお調子者だった、ということだから、堅実な董和とは、まるでちがったかもしれないが、それでも、文偉からすれば、董和は理想の父親なのである。

いや、しかし、どうして自分は董家にいるのだろう?
たしか、軍師将軍のお屋敷を目指していたはずで、たしかに裏木戸から出てきたのも、軍師将軍ではなかったか…
「休昭は?」
思わず董和に問いかけると、董和は声をたてて笑った。
「なんだ、勘違いをしておるようだな。ここはわたしの家ではない。軍師将軍のお住まいだ。
夜更けに自ら押しかけてきておいて、忘れているとはひどいヤツだな」
申し訳ありませぬ、といおうとしたが、咽喉が渇いて、うまく声がでない。
それを察したか、董和は、文偉の頭を抱え上げると、水差しで水を飲ませてくれた。
異常なまでに通りがよくなっている鼻腔に、部屋に焚かれた香木の、清清しい香りが染みとおる。
思わず目を閉じると、董和は言った。
「ずいぶんひどい目に遭ったようだな。軍師も、おまえの有り様に、驚いておられたぞ。
たしか伯仁どのの御用で、郊外に出かけていたのではなかったのか」
「左様でございます。幼宰さま、なぜここに?」
「軍師と仕事について話し合っておったら、いつの間にか夜更けになっていたのだよ」
「ご両人ともあいかわらず」
熱心でございますな、と文偉は続けようとしたが、力が入らなかった。毒のせいだろうか。
「毒を飲まされました」
「なに?」
「村人に、甘露だと言われて…迂闊でございました」
「村とは?」
「劉璋がまだこの地にいたころに、姑が所有していた、費家の領地内にあった村でございます」
まぶたが重たくなってきた。異常に眠い。董和の声が、だんだん遠くなる。
「その村は、狼藉ものばかりが暮らしているようだな」
そういいながら、屋敷の主、孔明が、さきほどまで文偉のまとっていた衣服を拡げつつ、部屋に入ってきた。
孔明の身なりも、さきほどまでの就寝前を思わせるくつろいだものから、公務のときに見せるような、きっちりしたものに変わっている。
髪はきれいに結い上げられ、衣はいつもの絹の凝った刺繍入りの衣裳。
自分のような目下の者にさえ、礼を失しないようにしようという、このひとの身づくろいに対する執念はたいしたものだ。

その孔明の両手には、ずたずたに引き裂かれた己の衣があった。
いまさらながら、客観的に自分の上衣を見て、文偉はぞっとする。
いま、こうして無事に横になっていられるのが不思議でならない。
孔明の姿を視界におさめつつ、文偉は、おのれの睡魔と懸命に戦った。
眠ってはならない。軍師将軍に、礼を欠く真似をしてはならない。
孔明は、文偉の傍らにやってくると、小首をかしげるようにして、横たわる文偉の頬に触れた。
覗き込んでくる顔は、月光のように冴え冴えとしている。
ふしぎな人だ、と文偉は思う。
容貌はあくまで柔和で優しげなのに、女々しさはなく、宦官のような不自然さもない。
かといって、男性的な特長は外貌にはほとんどあらわれていない。
男でも女でもない、なにか中間の、我々とは違うところに区別されるべき人のように見える。
それでいて、この人のそばにいると、なぜにこんなに落ち着くのだろう。
父母のそばで無邪気にしていた子供の頃を思い出す。
あの安心感を、このひとは思い出させてくれる。
「眠ってよいぞ。詳しい話は、明日聞こう」
自分の頬をなでる冷たい指先の感触が心地よい。そのうえに、孔明の深い声が聞こえた。
その声に、文偉はますます安堵し、睡魔がいよいよ強くなる。
ひとたび目を閉じてしまえば、あとは泥のような眠りが待ち受けていた。


「これは、複数のものが追いかけてきて、着物の裾を引きちぎった、としか思えないな」
と、董和は怒りを込めてつぶやいた。
面倒見のよい董和にしてみれば、一人息子の休昭の親友である文偉もまた、息子同然の者なのだ。
「伯仁殿のお屋敷には、人を遣りました。平和に寝静まっていたようですよ」
と、孔明は、寝入った文偉から、紙燭を遠ざけてやる。
「文偉はどこで襲われたのだろう?」
「村に出かけていたと申しておりましたな。おそらく、その帰りに襲われて、その足で、我が屋敷にやってきたのでしょう。
どうだ、偉度、表に曲者はいたか?」
董和がぎょっとしたことに、孔明と自分と、眠り込んだ文偉しかいない、と思い込んでいた部屋に、いつの間にか偉度がいたことだ。
偉度は、音もなく戸口を開けて、董和が気づかないうちに、部屋に入り込んでいたらしい。
秀麗な顔に、相も変らぬ不敵な笑みを浮かべ、孔明の問いに答える。
「呉と魏の細作以外は、だれも」
「なんと、そんなものがウロウロしているのか」
董和が驚くと、孔明は肩をすくませた。
「いつものことですよ。むしろ、連中がいなくなったら、そのときは異常事態ということでしょう」
「連中は、中には入ってこられやしないからご安心を。どうせこっちだって、それぞれ曹公と孫権のところに、似たように人を配しているのだからね。
やあ、費家のおぼっちゃまはご就寝か。毒を飲まされたって?」
「これ、笑い事ではない。呉と魏の細作がいつものとおりだとすると、彼らが文偉に何かを仕掛けた、というわけではないか」
「文偉のような下官に、連中がなにをする、というのだ」
董和が反駁すると、孔明はわかっていないな、というような目線を送ってよこした。
「お忘れか。文偉は劉璋の一族に連なる者。劉璋はいまだ存命で、政治的に利用しようと考える者が跡を絶たない状態なのですぞ。
本人の意思に関係なく、文偉を使って、敵が、何がしかの工作をしかけてきてもおかしくはございませぬ」
「む…そうであったな。伯仁殿と文偉がいつも慎ましくしているので、その事実をついつい忘れがちになるが」

費家は、劉備が益州を治めることになる直前まで、劉璋の姻戚として、かなり裕福な暮らしをしていた一族なのだ。
それが一転、一族の大半は成都から追放される憂き目にあい、劉備に従うことになった費家は、領地のほとんどを没収されてしまい、貧乏暮らしを余儀なくされている。
董和は、伯仁は野心のない堅実な男であるし、文偉自身も有望で素直な青年で、しかも孔明がいたく気に入っているようであるから、以前に没収した土地の、半分でも還してやったらどうかと打診したことがあったが、孔明は素っ気なく、
「わが主公の治世下にあって、費家になんら功労のない以上、特別扱いはできませぬ」
と突っぱねた。
たしかに道理はそのとおりだ。
地位や報酬の点で、費家は特別扱いをされていないが、そのかわり、孔明は文偉を非常にかわいがっている。
文偉や伯仁も、それで特に不満はない様子だ。

「村、といったね。もしかして、広漢の村のことじゃないだろうか」
と、偉度が言った。
この、いまもって前身の不明な青年は、文偉の身にまとっていた衣を見て、つぶやく。
文偉より、いくつか年上の、いささか老成している感のある、水仙の花のような青年は、やはり文偉を気に入って、友のように思っているフシがあった。
容貌も性格もまるでちがうが、孔明と偉度は、ときに映し鏡のように見えることがある。
「なにか知っているのか」
「ええ。広漢のほうは、最近は盗賊がひどく周囲を荒らしまわっていて、たしか終風村というのが、むかし費家が所有していた村のはずですよ」
「賊だと? 広漢一帯の治安を担当しているのは、だれだ?」
董和の険しい顔に、偉度は、孔明そっくりの仕草で肩をすくめてみせる。
「李正方殿ですよ。あのひとは、相変わらず、仕事が遅い。周りの迷惑もかえりみず、派手な一発を狙っているからね」
「口が過ぎるぞ、偉度。おまえは表へ行き、曲者がいないか、皆を統率して、もう一度よく調べるように」
偉度は、孔明に言われて、さすがに口を尖らせたが、それでも素直に表に出て行った。
孔明は、やれやれ、というふうに肩をまわし、董和のほうに向き直る。
「さて、幼宰殿、すっかり目が覚めてしまったから、さきほどの話の続きとまいりましょうか。此度の工事の経費についてなのでございますが…」


二度目に目が覚めると、董和が呼んだ、親友の休昭がいた。
そのおなじみの人の良さそうな顔を見て、文偉はようやく生きた心地がした。
「毒を飲まされたのだって? 朝餉はどうする? 軍師は、粥を用意してくださったようだが」
「すこし食べる。なにせ、村から逃げたあとは、なにも食べていないのだ」
「村か。たしかおまえ、終風村に行くと言っていなかったか。そこか?」
「ああ。まったくひどい目にあった。命があるだけでも奇跡のようだ…」
そこまで言って、文偉は、不意に涙をこぼした。
いつもは明朗で、どこか抜けているのでは、とさえ思えるほどの文偉の気弱な様子に、休昭はうろたえる。
「おい、どうした? どこか痛むのか?」
「痛むのではない…休昭。俺についてきてくれた従者は、みんな死んでしまった。奴らがやったのだ」
「やつらとは、村人か?」
身を乗り出し、自分の腕に掻きこむようにして、涙をながす文偉をなだめる休昭に、文偉は子供のように肯いた。
「なにがあったのかは知らぬが、自分を責めるな。おまえの着ていた衣を、わたしも見た。
あんな狼藉を働く者たち相手に、毒を飲まされながらも、よく逃げ切って、戻ってこられたものだ。自分の勇気を誉めてやれ」
文偉は、涙しながらも、思わず笑みをこぼした。
この友は、だんだんと自分の父親に物言いが似てきているが、それに自分で気づいているのだろうか。
「大丈夫だ、落ち着いてきた」
「文偉、軍師将軍は、おまえの目が覚めたら、すぐに左将軍府に来るようにと言っていた。
表には、父上が用意してくださった兵卒がいるから、安心しろ。立てるか?」
「すまないな、不様なところを見せた。俺も混乱しているのだな。しっかりしなくては」

文偉は、休昭に助けられるようにして、起き上がると、表に待機していた兵卒たちに囲まれるようにして馬車に乗り、そして左将軍府へと向かった。
兵卒の数は、さすが慎重で懸命な董和が用意しただけあり、一部隊がそっくりそのままやってきていた。
これでは、どんな刺客も文偉を狙うことはできなかっただろう。
左将軍府に到着すると、孔明の主簿である偉度が待ち受けており、柱にもたれた格好で、いつもの、戸惑うくらいに意味ありげな笑みを浮かべている。
「やあ、坊ちゃんがた、お待ちしておりましたよ」
「偉度殿、軍師将軍は?」
「あちらでお待ちかねですよ。あんたたちの友だちの蒋公琰も一緒だけれど」
思わず、文偉と休昭は、顔を見合わせる。
「公琰殿は、いつ戻ってきたのだろう?」
「やはりあのひとが、軍師将軍の直命で各地を放浪している、という噂は、本当らしいな」
「腕に覚えのある人は羨ましいよ」

休昭に助けられながら廊下を歩きつつ、文偉は苦笑する。
そうだ、もし自分の腕っ節が強ければ、こんなことにはならなかったのに。
そうして、孔明と公琰のいるところへ行かなければならない、ということも、文偉の心を重くした。
孔明は上役であるから別格として、文偉は、親しくはしているけれども、公琰がいささか苦手であった。

理由は、ほぼ同年の公琰の能力の高さであった。

文偉は、目に見える形で、自分以上の能力を備えている公琰が苦手であった。
公琰は、すさまじいまでの記憶力、弁舌の才能、滅多なことでは動じない、どっしり構えた風格、冷静なようでいて、そのじつ、情に厚く、熱い血の、すべてを持っている。
中華の大半の言語を難なく使いこなすことができ、加えて、博識。剣の腕も、並みの兵卒以上である。
一見すると朴訥で、冴えているように見えないのであるが、付き合ってみると、公琰がどれほど優れているか、そしてどんなに『イイヤツ』かがすぐにわかってくる。
その人柄に魅了される者は多い。
周囲は、孔明が目をかけている若者のなかでは、自分が一番目をかけられている、と思っているようだが。そうではないことを、文偉は感づいている。
一番ではないから、なんだ、という話でもあるが、周囲が思っている以上に孔明に心服している文偉としては、孔明の信頼を自分より勝ち得ている公琰を妬ましく思う。
事情があり、公琰は公務につくことなく、成都を離れていることが多いのが幸いだ。
もし、公琰が自分と同等の線に並んでいたら、文偉は嫉妬のあまり、道を踏み外しているかもしれない。
明朗な性格こそ、費文偉という若者の一番の特徴であることは、おおいに自負するところであるが、その自分に、こんな暗い部分があるということを、いちいち気づかせてくれる公琰が、文偉は苦手なのだ。
イイヤツだと思っているだけに、余計に辛い。
思わずうめくと、肩を貸している休昭が、不安そうに顔をのぞきこんでくる。
「どうした、どこか痛いのか?」
さすがに、心が、などと気障なことは言えず、文偉は、大丈夫だよ、と答えるしかなかった。

孔明の執務室に入ると、中央に孔明、その脇の、文偉から見て左側の席に、公琰は座っていた。
旅装のままで、侠客のような、髪を粋に結った、なんとも洒脱な格好をしている。
髪をむすんでいるのも、玉が先端についた派手な紐だ。
傍らには愛用の剣が置かれており、鋭くもどこか優しげな瞳が、文偉とぶつかった。
孔明と公琰は、文偉がやってくると、ほぼ同時に腰を浮かせ、文偉を助けようとした。
なんとありがたい方々か、と感動しつつ、文偉は休昭の手を借りながら、何とか自力で孔明の前に進みでた。
「楽にするがよい。無理をしてはならぬぞ。本来ならば、わたしがおまえの元に行かねばならぬが、このとおり身動きが取れないのでな」
と、孔明は傍らに積まれた竹簡を軽く叩いてみせた。
「お気遣い、かたじけなく存じます。怪我はほとんどございませぬ。
ただ、毒が抜けきっていないだけのこと」
「毒、か。熱もさほどない様子。しびれ薬の類いであったのかな」
と、公琰が孔明と文偉を交互に見比べつつ、言った。
「文偉をなんとしても成都に返したくなかったのであろう。
しかし、殺すつもりはなかった、ということか」
「いいえ、連中は、わたくしを殺めるつもりでございました」
文偉の言葉に、なんと、と呟き、今度は孔明と公琰が顔を見合わせる。
「本来ならば、命を奪う毒を飲まされるはずであったのです。
それを、摩り替えてくれた者がおりまして、わたしはその者に命を救われたのでございます」
そうして、文偉はこれまでのことを話し始めた。

つづく

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