七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 二十三回目
その声に、最初に反応したのは、銀であった。
「かあさま、とうさまがいらっしゃった!」
子供に言ってきかせるための、嘘だった。
いくら陳到とはいえ、むかし、森に一人ではいって行ったときとは、状況がちがう。
この広い大地のなかで、ほんとうに助けにやってくるとは思っていなかった。
この人は、ほんとうに。
感激し、言葉を継げないでいる紅霞であったが、そのあいだにも、敵は、早くも糜竺たちにむけて、攻撃を仕掛けてきた。
糜竺と一族、そして部下は、これに弓でもって対抗するのであるが、樊城から差し向けられた兵団は、おなじく弓馬を得意とする突撃騎兵であったらしく、糜竺たちが弓を放ったのに呼応するように、容赦なく弓を浴びせかけてきた。
紅霞は、ちょうど陳到たちと、樊城の兵士たちの双方の中央で、その兵力をながめるようなかたちとなった。
数の上では、樊城側のほうが多い。
いかにも精鋭といった雰囲気をただよわせた兵卒たちだ。
対する陳到を先頭に走る一団は、数がすくないうえに、まとまりに欠ける。
それに、目立つ、南方の鎧をまとった男たちが多くふくまれている。
その奇抜な姿からして、正規軍ではなく、傭兵であろう。
樊城の兵卒たちからは、はっきりと、自分たちに向かってくる陳到たちが見えたはずである。
しかし、怯むことなく、突撃してくる。
先頭にいく、おそらく指揮官であろう男から、こんな声が聞こえてきた。
「射ちかた、止め! 四方を囲め、みな、生け捕りにせよ! 命さえあれば、どのようにあつかってもかまわぬ! 右翼の兵は、俺につづけ! 劉備の兵を、木っ端微塵にしてくれようぞ!」
指揮官の声に、潮のように、猛々しい声と、歓喜の声が応じた。
糜竺たちの運んでいたものは、ごくごくわずかな物資であったから、掠奪するにしても、たいしたものは取れない。
おそらく、兵卒たちには、糜夫人に付き添っていた女官たちの、場にそぐわぬ煌びやかな姿が目立ったのであろう。
これを好きにしてよいとお墨付きをもらったのであるから、喜ばないはずがない。
そして、右翼の兵、というのは、おそらく突撃騎兵の要をつとめる兵士たちらしく、その鎧装束から身に纏う空気、馬の扱いのたくみさなどは、ほかより群を抜いている。
騎兵たちは、陳到たちの真正面から、一本の巨大な矢のように体型をととのえて、これに突撃し、中央突破をしたあとに、残った兵卒たちを片付ける作戦に出たようだ。
天晴れなのは糜竺と、その一族で、その中央にありながらも、微動だにしない。
味方の登場に喜ぶでもなく、ひたすら糜夫人を囲うようにして陣形を取り、弓を樊城の兵たちに向けて射つづけている。
侍女たちも、糜夫人から離れることはなく、みな、覚悟を決めた面差しで、敵を見据えた。
紅霞は、その姿を見たとき、心を揺さぶられた。
たしかに、自分の胸には、いま、劉備の子がいる。
しかし、このかれらを黙って見捨てて、自分ばかり逃げてよいものか?
その迷いが、紅霞の行動をにぶらせた。
「かあさま!」
銀の悲鳴に、はっと我にかえれば、樊城の騎兵が、こちらに向かって、まさに刃を振り上げようとしているところであった。
そこは七年間の平和を享受していた身とはいえ、細作の長まで勤めた女である。
すぐさま手にしていた剣でもって、剣をなんとか受け止め、弾き返す。
が、同時に、じん、と腕がしびれる。
剣の衝撃とは、こんなに重いものであっただろうか。
その感触は、同時に、平和な日々が、これで本当に終わったのだということを、紅霞に報せるものでもあった。
男が、目ざとく、紅霞の胸に縛り付けられているようになっている阿斗を見る。
「女! その赤ん坊は、誰の子だ?」
「わたしの子だ」
男の目をまっすぐに見据え、威嚇するように告げる紅霞であるが、男は、意地悪くも凄惨な笑みをみせて言った。
「いいや、あそで死にかけている女を、なぜみんなして、かばうのだ。あれは、劉備の妻であろう。劉備には、その餓鬼とおなじくらいになる子どもがいたはず。
それは、劉備の子だろう! そいつを俺に寄越せ! そうしたら、おまえは助けてやろう!」
「ぬかせ!」
拒絶のことばを吐くものの、それで男に勝てるかとなったら、これは別だ。
七年前であれば、どうであったかわからない。
さいわいにも男は、勲功の独り占めを狙っているらしく、ほかの仲間は、紅霞のほうに気づかず、糜竺たちのほうに集中している。
その様子に舌打ちしつつ、剣を構えてみるものの、やはり、七年もの歳月、そして、二人もの子を産んだあとの紅霞と、日々、鍛錬をくりかえしてきた男との差は歴然としていた。
銀だけでも降ろし、御子を託して逃げさせるか?
目のはしに、陳到たちがこちらにどんどん近づいてくるのが見える。
だが、それも中央突破を狙う騎兵たちが川のように行く手をはばみ、思うように前進できないでいる。
糜夫人は、かつては敵であった自分のため、みずから安車をゆずってくれた。
あの揺れのすくない安車があったからこそ、いまの自分の命があり、銀がいるのだ。
そうして、この胸には、その糜夫人が守ろうとした子どもがいる。
平和の反動。
ならば、それでもかまわぬ。
紅霞は、自分と阿斗を結び付けていた紐を、ほどくのももどかしく、刃で切ってしまうと、銀に言った。
「よくお聞き、いますぐ御子をつれて、おまえはここから、父上のところへお逃げ!」
「かあさまはどうなさるの?」
心もとなげな娘を安心させるように、紅霞は、恐怖につつまれているなかでも、自分を奮い立たせて、笑顔をつくった。
「大丈夫です、きっと、おまたちに追いつきますよ。いまは、この男をやり過ごさねばなりません。さあ、きっときっと、御子をお守りして、おとうさまのところへ行くのですよ!」
そうして、まるで馬から突き落とすように性急に、銀を降ろし、そうして阿斗を与えると、男が銀を追うひまを与えないようにするために、すぐさま馬腹を蹴って、男に猛然と向かっていった。
鎧も何も身につけていない。
たった一回の防御を失敗しただけで、命取りだ。
それでも、紅霞はかまわず、剣を男に打ち込んだ。
自分たちが、懸命に築いてきたものを守るため、そして、それをあっさりと奪おうとする、この理不尽な暴力への怒りを籠めて、精一杯、打ち込んだ。
「蚊がうなっているような剣だぞ、女!」
せせら笑いつつ、防御に徹していた男が、紅霞の剣筋を見切ったのか、反撃をはじめてきた。
「多少は使えるようだが、そのような力では、俺を追い払うことさえできぬ!」
笑いながら、男は紅霞をまるでなぶるように、じわじわと後退させていく。
男の背中の向こうでは、突撃騎兵の攻撃をうけて、苦戦している新野側の兵たちの姿があった。
あのなかに、陳到もいるにちがいない。
ほんの少しの距離なのに、その姿を見ることすら、いまの紅霞には叶わなかった。
本気を出して打ち込んでくる男の剣を、紅霞はもはや、防ぐどころか、その動きに合わせることだけが精一杯となっていた。
腕や足を、すこしずつ切り刻まれた感覚がある。
子を守らねばという一心のためか、傷の痛みはほとんど感じることはない。
じんじんと腕がしびれて、手が思うように動かなくなっていた。
銀はどこまで逃げられたであろうか。
振り返り、その姿を確認したいが、もとより、脇見をする余裕もあるはずもない。
「これで仕舞いだ! 死ね!」
男が、叫びながら、紅霞にむかって、大きく剣を振り上げてきた。
と、そのとき。
上空から、まるで石つぶてのようなものが落ちてきた、ように、紅霞には思えた。
それは、男の目を傷つけ、そうしてひるんだところを、さらに体勢を持ち直して、飛び立っていく。
雀だった。
銀が逃がした、雀の欣欣が、これまでの恩返しとでもいうのだろうか。
男の目をくらませるために上空から攻撃してきたのだ。
いまだ。
紅霞は、もはや勝負を受けられない自分の体を反転させ、馬を走らせた。
見れば、銀は、子どもながらもけんめいに、御子をかかえて、戦場から逃げよう、逃げようと、がんばって走っているところであった。
その背中をめざして馬を走らせる紅霞であったが、片目をおさえながらも、怒りに燃えた男が、獣じみた雄叫びをあげて、やはり猛然と紅霞に向かってやってくる。
いけない。今度こそ、殺される。
恐怖をおぼえつつも、逃げつづける銀のため、紅霞は馬を止め、ふたたび男に向きなおる。
もしも紅霞が、そのときの自分の姿を見ることができたなら、あまりのひどさに唖然としたであろう。
髪は乱れ、肘や膝はもちろん、太腿や腹に切り傷があり、ところどころ、血ににじんでいる。
だというのに、その目はらんらんと、闘志に燃えているのだ。
子を守ろうとする母の、執念の目であった。
男は、怒りに燃えて、紅霞にむかってやってくる。
この一撃は、避けられまい。
盾も持たず、鎧も纏っていない自分が、この剣を受ければ、どうなるかは、かつて自分も剣を握った身である。わかっていた。
それでも、足はまっすぐに、男のほうに向いていた。
いつでも逃げないで、ここまでやってきたのだ。
最後もまた、逃げない。
そうして男を凝視していると、男の肩越しに、なんとも珍妙な光景が目に入ってきた。
まるで川のようになって、新野側の兵卒の陣立てを乱していた突撃騎兵であるが、いまや逆転し、突撃騎兵のほうが陣立てを乱されているのである。
そうして、蜜にむらがる蟻のように押し寄せてきていた樊城側の兵士たちを押しのけているのであるが、そのなかでひとり、とくべつに獅子奮迅のはたらきをみせていた騎兵が、いまだ地べたに座り込んでいる糜竺、そして横たわる糜夫人らも飛び越し、さらには敵将までも、まるで天を飛ぶようにして追い越して、虎のように雄雄しい咆哮をあげて、こちらに向かってやってくる。
まるで、馬に翼が生えたような身軽さである。
そうして、馬の前足が地面につくか否かの、そのほんの一瞬のあいだに、馬上の男は、紅霞にせまる敵の首を、手にした槍でもって、一撃のもとに跳ね飛ばした。
はげしい血しぶきの向こうに見たのは、それこそ血にまみれ、修羅の巷を越えてきた、夫たる陳叔至の、鬼神のような姿があった。
その、特長のないことが特長の、おぼえ辛い顔立ちは、ぞっとするほど、冷徹な武人そのもの、怒りや暴力による高揚のない、しずかな表情となっていた。
「無事か」
問われて、紅霞はうなずいた。
いつか、袁譚とともに、兵卒の調練を見学した。
そのなかに、陳到がいた。
じつに特長のうすい、そして名前も平凡なこの男がもつ、忘れがたいほどの見事な武芸の才を目にした瞬間、この男を、自分が育ててみたいと、つよく思った。
どうやら、あのときに感じたものは、見事に当たっていたらしい。
部下であり、弟子であり、子のようでもあり、そして夫であり、娘たちの父。
紅霞がうなずくと、陳到は、とたんに、それまでの凛々しい表情を一変させ、滂沱と涙をながしながら、
「良かった、それならば、良かった」
と、まるで子供のように、戦場の真ん中で泣きだした。
こんどは、紅霞はあきれて言葉を失くした。
と、同時に、本来ならば、家族よりも優先させて助けなければならない糜竺や糜夫人といった要人には目もくれず、ひたすら妻を助けるために突っ込んできた。
ああ、この人は、生涯、出世だとか、栄誉だとか、そういうものには縁のない人だろうなと、紅霞は思った。
けれど、それでもいいと思っている。
栄誉も、恩義さえも無視して、家族のためにしか戦わない。
そんな男が、世の中に、ひとりくらい、いてもかまわないだろう。
「涙をお拭きなさい。まだ、戦いは終わっていないというのに」
紅霞がさとすと、しかし陳到は、涙をぬぐいつつも、答えた。
「けれど、おまえたちが無事なのが、うれしくて、うれしくて、たまらぬのだ。おまえが北に帰ってしまうと、ずっとおそれておった。
銀たちが生まれて、その心配がなくなったと思ったら、こんどは曹操だぞ。これが泣かずにおられようか。ともかく無事であってくれてよかった」
「わたしが、北に帰ってしまうかもしれないと、ずっと恐れていた?」
七年目にして知る事実に、あきれて紅霞が問い返すと、陳到は、幼子のように、こくりとうなずいた。
「わたしのような、地位も名もなければ、顔もあきれるほど十人並みで、たいした働きもできない男に、おまえのような立派な妻が、いつまでも、そばにいてくれるはずがないと思っておった。けれど、おまえは帰らないでいてくれた」
「当たりまえではないの。郎君こそ、わたしを北に帰したがっていたのでは?」
「ばか者! ああ、いや、いまのは、無し! おまえは、莫迦ではない。ばかは、わたしだ。おまえがそんなふうに思っていることに、気づいてやれなかったのだから、莫迦だ」
「あなたという人は」
あきれを通り越して、紅霞が思わず笑みをこぼすと、陳到もまた、涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ほころばせた。
その背後では、半数以下に減っている騎兵と、いまもなお戦っている趙雲が、
「叔至―! さぼっていないで戦えー!」
と、怒鳴っているのであるが、じつは、これはいつものことであったりする。
「ちちうえ!」
御子をかかえて、銀が父母のもとにもどってきた。
趙雲の命令そっちのけで、陳到は、馬を下りると、駆け寄ってきた銀を抱き上げて、ぎゅっと抱きしめ、ほおずりした。
血まみれのそのすさまじい姿でも、銀はすこしも恐ろしくないらしい。
「やっぱり、助けにきてくださった。かあさまの言ったことは、ほんとうね」
「そうだとも、わたしは、おまえたちさえ無事でさえあればよい。おまえたちが、平和に暮らしてくれればそれでよい。ほかには、なんにも要らぬ」
「銀も、ちちうえとははうえが、おそばにいてくださるのであれば、なんにもいりません」
健気なことを口にする銀に、ますます陳到は目を細めて、よしよし、などと言いながら、銀を抱きしめる。
かわいくてかわいくて、仕方がないらしい。
その様子を、ほほえましく眺める紅霞。
それは、まさに理想の家族の姿であったかもしれない。
ほとんど無視されて、陳到の足元で寝そべっている阿斗と、怪我を押して戦う趙雲たち、覚悟を決めたのが一転、孔明の姿を見て、奮起をし、老体に鞭打ち、みずからも弓をつがえて、生き残った郎党とともに、瀕死の妹を守るため、敵と戦う糜竺の姿を、その光景から除けば。
そうして、陳到の姿を、青竜たちの護衛兵に囲まれるかたちで眺めている孔明は思った。
陳到は、たしかに腕は立つけれど、大将には決して任命しないようにしよう、と。
終章
孔明は、もはや息も絶え絶えとなっている夫人の横に屈み、しずかに語りかけた。
「わたしがおわかりになりますか。諸葛孔明でございます」
すると、夫人は、おだやかな笑みさえ浮かべて、孔明を見るのであるが、その瞳孔は、確実に死に向かっている人間のそれであった。
いやでも、樊城で横死した叔父の、最期の顔が浮かぶ。
あのひとも、こんなふうに笑った。
怖がるなとでもいうように。
「耐えてください。じき、主公がこちらにやってまいります」
糜夫人の口が、かすかに動こうとする。余計な力を入れさすまいと、孔明は、すぐさま、銀に手ぶりで示して、阿斗の元気な姿を夫人に見せた。
「御子はご無事です。なにも心配なさいますな。この孔明が、かならずや、御子をお守りして、主公のもとへとお連れしましょう」
「泣いてはなりません」
孔明は、ぎょっとした。
安車の下敷きとなり、下半身がねじれたようになってしまっている糜夫人であるが、その声が、とても怪我人のものではなく、しっかりとしたものであったからである。
「天は善行を施した者に、かならず報いると聞いておりましたけれど、ほんとうにそのようです。
わたしは、もうじき、死ぬでしょう。けれど、苦痛はなにも感じません。主公のお顔を、最期に見ることができたらいいのだけれど」
「使いは出しました。主公はすぐにこちらに」
「殿方が泣くのを見るのは、あまり好きではないのですよ」
と、死に行かんとしている女は、冗談めかして、孔明に言う。
孔明は、この、これまでほんの数回しか言葉をかわしたことのない女人のために、泣いていた。
気丈で、優しい女が、どうしてこんな死に方をしなければならないのか。
その無情さのために、泣いた。
「軍師どの、主公に会うまではがんばるつもりですけれど、そのあいだに、静かになってしまうことが怖いの。お話をしましょう」
「なりません、あまりお話をされては」
と、紅霞が口を出すのを、孔明は止めさせた。
「神経が完全に分断されてしまっているのだ。夫人がおっしゃることはほんとうだ。痛覚はなくなっている」
「そうよ。だから、お話をさせて。みんなの泣き声を聞きながら、死ぬのはいや。
今日は、とても綺麗な空だこと。わたしはここ数年、ほとんど具合が思わしくなくて、あまり外に出られなかったから、こんな綺麗な空を見ることができてうれしいわ」
「はい。雲ひとつない空です」
糜夫人の差し伸べてきた手を、両手でつつみこむ。その手は、おどろくほどに冷たい。
この人は、主公にお会いしたい一心で、なんとか魂をこの世に繋いでいるのかもしれないと、孔明は思った。
孔明の背後では、糜竺が、妹の姿を直視できずに、男泣きに泣いていた。
その姿が、たまらななく悲しい。
趙雲は、孔明のかたわらにいて、涙を流さず、しかし、消え行く命のなにひとつも見逃すまいと言うふうに、じっと糜夫人の姿を見つめていた。
「わたしは、昔、ひとりだけ子を産んだことがあります。徐州で授かった子でした。けれど、生まれてまもなく、死んでしまった。そのとき、わたしは、呂布の人質になっていて、恐ろしくて、うまく子のために乳を与えてやれなかったのです。
虜になっているわたしたちが、ちょうどよい乳母を雇うこともできず、呂布も、それを許しませんでした。
かわいそうな子でした。名を与えられることもなく、わたしのほかは、だれも思いだすことのない子です。生きていてくれたなら、きっと、立派に成長して、阿斗のよい兄となったことでしょう。
はじめて、主公からあなたを紹介されたとき、あのときの子が、生きてくれていたなら、こんなふうになったのではないかしらと、わたしは想像したわ。あなたとは、あまりお話する機会がなかったけれど、あなたの姿を自分の子にかさねて、いろいろと空想するのが楽しかった。
わたしはもっと丈夫で、子どもといっしょに、遊んだり、たまには喧嘩をしたり、広い野に遊びに出かけて、娘のときにそうしたように、木の実をどちらが多くとれるか競争するの。
そうして、成長した子は、兄上に弓をならって、その腕は、だれにも負けないくらいになるのよ。みなの前で、子どもが的をすべて正確に射ると、城中のだれもがびっくりするの。そうして、子どもは、わたしに、得意そうに手を振るのです。
最後だから打ち明けましょう。わたしは、甘のおねえさまが、すこし妬ましかった。だって、わたしより年上なのに、立派なややを授かったのですもの。
わたしの子はひとりきり。徐州で死んだ、あの子だけよ。そんなみにくい気持ちが邪魔をしたのかしら。阿斗は、わたしのあの子の代わりにはならなかった。
あのひどい虐殺のあった徐州で、よく生き伸びて、ここまで立派になったこと。あなたを見たとき、そしておなじ徐州の出だということを知ったとき、わたしは、死なせてしまった子が、戻ってきたような気がした。
幻だということはわかっていたけれど、あなたには、なぜかしら。夢を安心して託せるなにかがある。でも、あなたからすれば、わたしの思いは、勝手なもので、邪魔なものでしょうね」
孔明は、首を振って、そのことばを否定した。
「いいえ。わたしは、父の二番目の子として生まれましたが、正妻腹ではございません。母の名も、顔も、父は秘したまま亡くなったので、わたしには母がいないのです。
もしもお許しいただけるのならば、孔明もまた、貴女様を母と思いたく存じます」
すると、この、老いの兆しよりも、みずみずしい少女のような明るさのほうが勝っている貴婦人は、心からうれしそうに笑った。
「うれしいわ。死ぬ間際に、ほんとうに立派な子ができた。ならば、わたしのわがままを聞いてくれるかしら」
「なんなりと」
「わたしを母と思ってくれるというのであれば、主公はあなたの父となり、阿斗は、あなたの弟となりましょう。二人を、かならず助けて、その望みを叶えてあげて」
「わかりました。かならずや」
孔明がつよくうなずくと、糜夫人は、さびしそうに笑った。
「いま、わたしは、とんでもなくひどいお願いを、あなたにしたのかもしれないわね。あなたは、きっと約束を守ってくださるでしょう。
そうとわかっていて、こんなわがままを言うわたしを、ゆるしてちょうだいね」
「お恨みすることなど、生涯ありません。お誓いいたします」
「ありがとう。予感がするの。わたしは、こんど目をつむったら、いままでで、いちばん素敵な夢を見ることができる気がする。
ひずめの音がするわ。主公が来たのね」
夫人の声に、孔明が声をあげると、たしかに、新野城の方角から、馬を疾駆させている一団がこちらに向かっているのが目に入った。
曹操から、ともに逃れようとしている民を、とりあえず張飛に任せて、自分だけ、わずかな手勢で、糜夫人の急に駆けつけてきた、劉備たちである。
孔明は、夫人の手を、さらにつよく握り、はげました。
「主公が参りました! いましばし、頑張ってくだされ!」
孔明の励ましに、糜夫人は、死にゆくひととは思われないほどに、空にかがやく夏の太陽にも負けないほどに、まばゆくほほ笑んで、言った。
「元気を出しなさい、あなたには、太陽のようにあってほしい」
劉備が到着したあと、糜夫人はすぐに息を引き取った。
その亡骸に取りすがるようにして、人目もはばからず、大声で泣く劉備を見つめつつ、孔明もまた、静かに涙を流しつづけた。
「春が逝く」
となりで、趙雲がつぶやいた。
(C)Hasamino Nakama 2006