七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 二十回目
「どうなってやがるんだ、これは」
樊城より急ぎもどってきた劉備は、まちかまえていた農民たちに大歓迎を受けたが、それはあまりに熱狂的にすぎて、主騎として随行した張飛が、手にした蛇矛でもって、劉備にすがろうとする民を打つそぶりをみせなければ、馬からひきずりおろされてしまうのではないかというほどのものであった。
それは、慕っている領主をむかえる民衆の熱狂などではない。
それをすでにとおりこし、自分たちを救い、奇跡を起こしてくれる『神』の到来を歓喜するものであった。
その熱から逃げるようにして城内にはいったあと、孔明と趙雲は、数日ぶりに、ようやく見ることのできた劉備と張飛たちとの再会をよろこびあった。
劉備としては、一度、劉琮らのいる樊城へ、孔明の姿をもとめて南下したわけであるが、曹操来襲の報を、そして孔明が新野にもどったというしらせに、あわてて、ふたたび北上し、つまりは来た道をもどって、新野にもどってきたことになる。
おたがいに、異常な数日間であった。
そうして、この数日間の情報をかわしあう。
いまやほとんどが江夏にむけて脱出し、人もまばらな新野城の一室において、劉備は孔明の話を聞いた。
孔明の話には無駄がなく、かたわらで聞いている趙雲は、孔明の知らないことをわずかに補足すればよい程度であった。
劉備のほうからは、やはり『風狗』は生きていたことと、なにか探している様子であったことと、樊城はすでに曹操を受け入れる体制に切り替わろうとしているのだという話を、孔明たちは聞いた。
「問題は、これからでございます。すでに関羽とともに、奥方さまたちと城のあらかたの文官は、江夏にむかっておりますゆえ、これはおそらく心配ないでしょう」
「外の連中か」
劉備はため息をつくと、座る椅子の肘掛の一方にかたよって、ため息をついた。
部屋には劉備と張飛、それから趙雲と孔明といった主だった将と、青竜を見張っている陳到以外の将があつまっていた。
劉備は、孔明にむかってたずねる。
「たとえばだぜ。おまえが用意してくれていた食糧だの、馬だの荷車だのは、外の連中もつれていった場合、どれだけもつ」
「一日ともちますまい」
きっぱりと、孔明は言った。
孔明は、最低限の人数しか、すでに新野に残していなかった。
つまり、残していた食糧も、その最低限分だけなのである。
それを、外にいる数万ともいえるひとびとに分けてしまったら、一日ともたないであろうことは、あきらかであった。
「ちょいと邪魔をさせてもらうぜ」
と、ささやかな群議にあらわれたのは青竜である。
そのあとを、申し訳なさそうに陳到がついてくる。
どうやら、止めたにもかかわらず、青竜に押し切られたようであった。
青竜は、鷹揚な雰囲気がありながら、じつは押しが強い。あの陳到ですら止められなかったのである。
「峰台からこっちに合流してきた兵卒たちが、表でぶったおれているぜ。でもって、いまだにあんたがここにいると聞いて、今度は息が止まりそうになっている。
気の毒だから、なにかはげましてやりたいんだが、俺は、連中になんて言ってやればいいかね」
「峰台に配置していた兵卒たちが戻ってきたか。曹操は、どれくらいまで迫ってきているか、なにか言っていなかったか」
孔明がたずねると、青竜は、かたをそびやかし、答えた。
「あんたたちだけだったら、奇跡的に江夏まで逃げ切れるだろうよ。曹操は、まずは樊城とその周辺を押さえなくちゃいけねぇはずだから、一気に江夏までは来れねぇだろう。
が、もしも、表にいる連中を連れて行くなんてかんがているのなら、一日で追いつかれるな」
一同には、曹操がそこまで身近に迫っていることに対するおどろきよりも、やはり、という空気がつよい。
だれもが顔をこわばらせ、頭をかかえているようにしている劉備を見つめる。
孔明だけは、策が浮かんでいるようであるが、となりにいる趙雲からすれば、言い出しかねている、というふうであった。
それはどうやら、劉備や、孔明自身の信条にさからうものであるらしい。
つまりは、あつまってきた民を見捨てて逃げる、ということである。
だが、通常で考えれば、それこそが上策なのだ。
かれらについてこいとは、だれも命令していない。
かれらは、流言によって、『勝手に』もどってきてしまったのだから。
とはいえ、孔明はそれをはっきり口に出すことをためらっていた。
そこがこの軍師という肩書きが、じつは似合っていない青年の弱さである。
いままでおのれの家族のように思ってきた民を、危機に際して突き放すことができかねているのだ。
「三つの策があるのだが」
まるで、そんな孔明のそんなこころを代弁するかのように、青竜が口をひらいた。一同の目が、この奇体な傭兵隊長の顔に注がれる。
そこには、奇妙な風体を、むしろさまに見せてしまうほどの、妙な威厳と自信が見てとれた。
「まずはひとつめ。こいつは当然の策だが、表にいる連中は無視して、とっとと新野から逃げる。表にいる連中が、曹操に新野に入ってくるなと石でもなげねぇかぎり、曹操がやたらめったら表の人間を殺すことはねぇだろうよ。なにせ、劉表はもう死んでいる。そうだろう」
そう聞いて、劉備のほうがおどろいたようであった。
「おまえは、なぜ知っているんだい」
すると、青竜は、ひとなつっこい顔を、にっと笑わせて、言った。
「こういう情報にこそ敏感でないと、傭兵の隊長なんていうのは、やっていられねぇんでね。樊城にいる劉表が、だいぶまえから悪いということは聞いていた。それが、ここ数日、樊城の采配をふるっているのは劉表じゃなく、外戚の蔡瑁だ、って聞いたからね。こりゃ、とうとうお迎えがきたのだと思ったのさ。ちがうかい」
青竜のことばに、劉備は、感心しながらも顔をこわばらせ、首を横に振った。
「いいや、いい読みだ。当たっているぜ。それはともかく、民をそのままにしておいて、曹操が、表の連中に手を出さないという保障はあるかい」
「ありませぬ。むしろ、民は流言によって、すっかり怯えております。それこそ、曹操があらわれれば、恐慌をきたして、『石でも投げ』かねない」
と、ことばを添えたのは、孔明であった。
「さて、それじゃあ、にばんめの策だが、表にあつまっている連中のなかから、若いのを選んで、これに武装をさせて、それぞれの集落を守らせつつ、移動する。
ほとんど裸のまんま連れて行くよりはマシだろう。つまりは急ごしらえの軍隊をつくって移動する、という策だな」
そのことばに、劉備が愁眉をひらいたが、孔明は、沈痛な面持ちで首を横に振った。
「いいえ、よい策ではありますが、時間もありませぬし、それに、彼らに渡せるほどの武器は、われらは持っておりませぬ」
「予備もねぇのか」
「樊城から、関羽の率いる先発隊を襲ってくる軍が出る可能性のほうが高かったので、そちらに予備は渡してしまったのです」
孔明としては、完全な読みちがいだったわけである。
すでに蔡瑁、そして『甥』である劉琮は、曹操に対する降伏を決めている。
軍は余る。
そこで、逃げる劉備の妻と関羽をとらえ、曹操へ差し出すことを考える可能性があったのだ。
曹操が、かねてより関羽を配下にくわえたいと公言していることは、劉琮は知っている。
可能性は大きかった。
青竜は、運がねぇ、というふうに、首を振った。
「それじゃあ、仕方がない。さんばんめ。『仁徳の劉玄徳』どのは、その名のとおり、かれらを見捨てず、かれらを連れて、江夏へ逃げる」
だれもが黙り込んだ。
趙雲は、ちらりと隣の孔明の蒼白な横顔を見る。
それはなりませぬと、軍師ならばそう言いたいにちがいない。
だが、劉備にはそれができないということは、趙雲も孔明も知りぬいている。
民にかぎりない仁愛を示す男であるからこその劉備であるのだ。
そこにたとえどんな危険があったとしても、あえて無視して、蛮勇ともいうべき義の道をとるのが劉備なのだ。
劉備のほうはというと、座にすわった姿勢で、ひざのうえで手をぎゅっと掴んでいたが、やがて、重く口をひらいた。
「いまから言う。儂にこれ以上、ついていけねぇというやつは、遠慮なく曹操のところへ言ってくれ。
孔明や徐元直がかねてから言っていたように、曹操は、有能なやつが好きだ。でもって、自分にさからわないやつがもっと好きだ。だから、降れば降ったで、曹操はきっとよろこぶ。儂もうらまねぇ」
そこまで言うと、劉備は、息をひとつつき、言った。
「民を見捨てていくわけにはいかねぇ。孔明のいうとおり、あれだけ興奮している連中だ。曹操があらわれたら、混乱をおこして、曹操に刃向かっちまう可能性がある。領民は、領主にとって子どものようなもの。儂は、領民を見捨てていくことはできねぇ。
莫迦だとは思っているが、それが結論だ。そういうわけで、みな、すまねぇ。苦労をかけることになるが、いまから出立し、関羽を追う。すぐに準備にとりかかってくれ」
劉備のことばに、一同はすぐさま動き出したが、その場のだれもが、曹操に降るために動くものはなかった。
ただ、ぽつねんと、取り残されたように、銀兎が表で立っていた。
劉備は、銀兎の姿をみると、おどろきと、なつかしさを両方うかべて、言った。
「元気だったかい、銀兎。おまえも残っていたのか」
銀兎の名をきいて、民を部隊べつに分ける作業にとりかかろうとしていた孔明が、趙雲に小声でたずねてきた。
「あれが、噂の元舞姫の銀兎か」
「うわさ?」
「叔至の話がうますぎたのかな。なんだかわたしまで、旧知であったような感じがする。しかし、たしかに年上であるが、愛らしい女人であるな」
「ああ、そこは否定しない。銀兎の夫は、北、つまりは曹操に向かうことに決めたのだ。先に子どもたちといっしょにすでに北ヘ向かっているはずだ。銀兎が無事に家族に合流できるように、だれかをつけてやらねばならぬな」
それを聞き、孔明は、書きつけていた竹簡の筆をぴたりと止めて、柳眉をきつくしかめる。
「なんだと、それはまことか。聞いておらぬ」
「聞いないもなにも、女一人で北ヘ向かわせるわけにもいかんだろう。ここまで無事に戻ってこられたのは、青竜たちが同行していたからだぞ。うん、そうだな、連中のだれかに、銀兎を頼むか」
「それは薄情というものだろう、子龍。あなたの部隊のだれか、旧知の部将をつけてやるべきだ」
言ったあと、孔明はため息をつきつつ、なんたることであろうか、信じられぬ、唐突すぎる、など、ぶつぶつつぶやいている。
趙雲としては、叔至は果たして、孔明にどこまで話をしたのかなといぶかしく思うところである。
そんなやりとりをしていると、劉備たちとの別れをすませてきた銀兎のほうが、孔明たちにちかづいてきた。
「行くよ。今度こそ、本当にさようならになるね、趙将軍。それじゃあ、元気で」
「おまえも息災でな。夫と子どもによろしく伝えてくれ」
「うん、わかっている」
銀兎としては、自分の夫が劉備から離れるという決断をしたことに、すくなからず恥を抱いているようであった。
そんなことはない、生きていくため、そう決めたのだろうと、趙雲は咽喉までことばを出しかけたが、やめておいた。
この女もまた、いま、過去と決別をしようとしているのである。
余計な思い出を作る必要はないだろう。
孔明のほうはというと、おなじく部将たちの手配をして、あれこれ忙しそうに動き出した陳到のほうを、裏切られたような、かなしげな顔をして見ている。
銀兎は、さようならと別れるまえに、昔と変わらぬ、蕩けてしまいそうなほど甘い笑みをうかべて、言った。
「あたしにはね、妙な癖があってね、好きなひとができると、そのひとに、こういう質問をするのさ。
『月がほしいから月をとってきてくれないか』って。あんたにはできなかったけれど、もし、あんたがそういう質問をされたら、どうしていた? そっちの軍師さまも答えてみてよ」
この慌しいなかでの、場違いな問いであったが、律儀に孔明は、しばし首をひねると、やがて答えた。
「うむ、月がほしいというのであれば、月まで行くことができる機械かなにかを作ろう。しかし、それにはまず、世の平穏を取りもどすことが大事だ。それまで待ってくれという」
孔明らしい答えであったが、銀兎は、おおいに眉をひそめて、大きく首を振った。
「だーめ、だめだめ。軍師さま、アンタ、ぜんぜんなってない、まるでだめ。もてたことないでしょう」
「まるでだめ…」
それなりに落胆している孔明をよそに、趙雲は答えた。
「俺とてつまらぬ答えしか用意できぬぞ。『月なんぞ用意できぬゆえ、それにかわるなにかほかのものを言え』」
すると、銀兎は、けらけらと明るい笑い声をたてた。
「ほんとうだ、つまらない答えだね。あたしはやっぱり、あんたを選ばなくて正解だったかもしれない。
あたしのいまの旦那はね、あたしがそういったら、水を張った盆を用意して、そこに月を映して、こう言ったんだよ。『いまはこれしか用意できないけれど、いつかおまえのために、銀の盆にのせた月をおまえにやろう』ってね。まだ銀の盆なんてもらっていないけれど、そのうちきっと、もらえるようになると思っているよ。あたしの夫だもの」
銀兎がいうかたわらでは、孔明が、憮然とした表情で、叔至め、なかなかやりおるな、などとつぶやいていた。
銀兎の心を勝ちえたことをうらやましがっているのではなく、なかなか気の利いた回答を示したことにたいする嫉妬らしい。
「さて、あたしはそろそろ行くよ。最後に役に立ててよかった。もうひとりの『銀兎』にもよろしく伝えておくれね。
叔至さん、忙しそうだし、なんだか別れのあいさつをしたら、あたし、泣いちまいそうだからさ」
「はい?」
そのことばに、目をぱちくりとさせているのは孔明である。
どうやら、孔明は、陳到の話を途中までしか聞かなかったことが、それで証明された。
混乱する孔明をよそに、銀兎は、ふところから錦のちいさな袋を取り出すと、趙雲に取り出した。
「これを餞別にあげるよ。あたしのお守り。これがあると、戦場で傷ひとつつかないんだってさ。たしかに、兄ちゃんは、それを持っているあいだは無傷だったから」
そうして受け取った錦の袋は、かなり年季が入ったものらしく、端がところどころほつれてしまっている。
かなり古く、そして多くの人の手に渡ったものだとしれる。中には、なにか石つぶのようなものが入っているようだ。
「かたじけない。ありがたく頂戴しよう」
趙雲が言うと、銀兎は、目じりに、すこしだけ泪をなじませて言った。
「あんたの『ありがとう』で、はじめて心がこもっていた『ありがとう』を聞いた気がするよ。今度こそ、ほんとうにさようなら」
そうして、銀兎は、孔明の指示どおり、趙雲の古参兵のなかから、信頼できるものを選りすぐって、北の曹操の部隊へ降伏するために向かった一行に追いつくまでの随行としてつけてやった。
銀兎がいってしまうと、趙雲は、いちどは銀兎がくれたおまもりをふところにいれたのであるが、ふと思い立ち、物資の残量と配分、それから兵卒の陣形の修正をかんがえている孔明に近寄ると、むぞうさに、錦の袋を、押し付けるようにしてわたした。
「銀兎からもらったものだ。袁術に仕える武人であった兄からもらったものだそうだ。これを身につけていると、戦場で怪我をしないですむそうだ。持っていろ」
孔明は、とりあえずはそれを掌で受け取るものの、しかし、困惑したように、趙雲を見る。
「わたしよりも、満身創痍のあなたが持っていたほうがよい気がするが。だいたい、馬に乗れるのだろうな?」
「すこし胸の骨が痛むだけだ。問題はない」
「子龍、それは重傷といわないか」
いいつつ、孔明はなにげなく、てのひらで錦の子袋をもてあそんでいたが、ふと、怪訝そうな顔になり、目を落す。
「これは中になにが入っているのかな」
「石のようだな」
孔明は、錦の袋をひらくと、近くにあった台のうえに、中身をぱらぱらとこぼしてみた。
大小の大きさのちがう、奇妙な玉石であった。
奇妙というのは、たしかに見事なまでにうつくしい翡翠なので、この欠片ひとつ売っただけでもひと財産築けるのではないかというほどであったが(銀兎は中身を開けてみなかったらしい)、そんなものがいくつも入っていたことも奇妙であるし、なにより、それぞれの形がバラバラであることが奇妙であった。
なにかを象ったわけでもない。なにかを模したわけでもない。
そして磨きぬかれた部分もあれば、欠けて、そのままになっている部分もあるようだ。
孔明は、おもしろいな、と子どもの玩具をみるような目でそれを見つめていたが、ふと、玉石のなかでも大きな物のひとつを手に取った。
「子龍、これは、なにに見える?」
孔明の指先にあるものは、先端に笠がついているような、どこかきのこのような形をした石であった。
だからすなおに、趙雲は答えた。
「きのこだな」
「きのこの先を見てくれ。なにか、文字が彫ってあるようにみえないだろうか」
「文字? ああ、そういえば、そう見えなくもないが」
ふと、孔明は突然に思い立ったらしく、自分のふところからも、真新しい絹の袋を取り出して、先にならべた石のよこに並べてみせる。
それは、、魏の役人である朱季南が、別れ際に、これは用がないものだからと、趙雲と孔明に託していった、『風狗』にあわれにも殺されたかれの妻の身につけていたという耳飾りであった。
机にならべられたそれを見て、趙雲は目をうたがった。
おどろいたことに、その耳飾りと、形のばらばらな石。この石の色合いも材質も、ぴったり同じものにみえたのだ。
そうして、孔明は、耳飾りのかたほうを、きのこのような形をしている意志の、くの字に曲がっている部分に、反った部分を重ねてみせる。
ぴったり合う。
耳飾りとして研磨されてしまっているから、完全にとはいえないが、この石が、もともとおなじ、ひとつのものであったことは、しれた。
おなじように、耳飾りの片方を、ほかの石にかさねてみると、やはりこれも一致する。
「これだ。これであったのだ」
と、孔明は興奮しつつ、頬を上気して、目をかがやかせ、まるで少年のように趙雲に言った。
「子龍、わたしは花安英のひみつの地下室に案内されて、風狗が崇めている奇妙な神の祭壇をみたのだよ。そこには、女の切り取られたからだの一部と一緒に、こうした石がそなえられていたのだ。
そうだ。あれとおなじ色、おなじものだ。きっとこれらのどれかに、あの石も、ぴったりはまるにちがいない」
「石が? しかしなぜ石なんぞを。たしかに高そうなものではあるが」
うろたえる趙雲に、意気込んで孔明は言う。
「そうだ。このままではただの石の欠片のあつまりにすぎぬ。しかし、これはあつまれば、ただの石ではなくなるのだよ。
子龍、このおまもりは、銀兎が兄から譲り受けたものだと言っていたのだな? つまり言い換えれば、代々、袁術に仕える家の者が、銀兎に託したものだった」
そこまで言われて、趙雲は、はっとした。
「もしや、これが、夏侯蘭たちが探していたものなのか?」
そのことばに、孔明は大きくうなずく。
「夏侯蘭たちが襲ってきたのは、やはり狙いは銀兎であったのだ。だが、銀兎本人ではない。袁術に仕える武家の娘がもっているお守りの中身。それこそが、かれらの目的であったのだよ。それは、どうしても取り戻さねばならないものだった」
「なぜだ」
「これが、許都のあのお方にとって、なにより大事なものであるからさ」
「つまり」
趙雲の脳裏に、董卓が洛陽を炎上させて逃亡したという際に、孫堅がたまたま見つけたという、玉璽の話が浮かんだ。
その後、玉璽は、子の孫策の手にわたり、孫策は、玉璽を担保に、袁術から兵卒を借り受けた。
そうして玉璽をえたからこそ、袁術は偽帝を名乗ることができたのである。
しかし、その後、袁術はほろび、同時に玉璽のゆくえもわからなくなっていた。
なにを犠牲にしても惜しくないほどに、取り戻そうとしている漢王室の象徴。
だからこそ、無惨にそれを持って、散り散りになった女たちは殺された。
その無情な話に、趙雲は、怒りと、いい知れぬ不気味さに身を震わせる。
歴史の重さ、漢王室に対する尊崇。
そんなものは理解している。長兄から徹底しておそわったものであり、劉備もつねづね唱えていることだ。
しかし、歴史を守るために行っていることが、これなのか?
罪の無い女たちを殺しまわることが、正義だと、許都の者たちはいうのだろうか。
「しかし、なぜ、この七年間、なぜ銀兎は襲われずにいたのだ」
「子龍、この七年というのは、貴方がたにとっては、荊州で落ち着いて力をつける時期であったのとおなじように、想像してみるといい、許都のあの方も、袁紹に勝って、権勢をさらに増した曹操と対抗するために汲々とする日々であったにちがいない。
そんなふうであったから、銀兎を狙っている余裕がなかった、と考えたらどうだ。なにせ許都から新野、近いようで遠いからな」
「では、ここにきて、急に『風狗』が娼妓たちを殺しまわったのは?」
孔明は、おおかたの見当をつけている趙雲にあわせて、こくりとうなずく。
「そうだ。許都の帝は『風狗』を味方につけることで、許都と荊州のりょうほうの都市で、自由な行動をとれる刺客を手に入れた。
そこで命令したのだ。おそらく、袁術が死んだ際、その手にしていた『もの』は、銀兎の父の判断により、ばらばらに砕かれ、信頼できる女たちにそれぞれ配られ、分散されてしまったのだろう。
袁術の死後の混乱は悲惨をきわめ、かつては宮女として、あるいは貴族の子女として過ごしていた女たちも、苦界に身を沈めるものがほとんどであった。
風狗はそれを執拗に探し出し、また、おのれの胸の悪くなる趣味もふくめて、女たちを襲い、きり刻み、この石を取りもどしたのだ」
「待て。風狗は新野にもあらわれたのだぞ。なぜ斐仁の買った女を襲った。あれも石を持っていたというのか」
そこまでいいかけて、趙雲は思い出したことがあった。
「そうか、風狗は新野にやってきたものの、石を持っているのが、どちらの『銀兎』なのかが、わからなかったにちがいない。ほんものにしても、にせものにしても……とくに、にせものの『銀兎』には、武芸の達人が夫としてぴったり守っているわけだから、手を出せなかった。そこで、腹いせに斐仁の買った娼妓をあんなふうに惨殺したのだ」
納得する趙雲であるが、孔明は怪訝そうに首をひねっている。
「ほんものとか、にせものとか、武芸の達人とは? さきほど去っていった銀兎は、叔至の妻ではないのか。だって、叔至の妻の名は、銀兎であったはず」
「銀兎はもう城を出たが、叔至はそこにいるだろう」
趙雲に指摘されて孔明がふりむくと、たしかに叔至は、寝不足もなんのその、ここぞとばかりに、元気にうごきまわっている。
「おや? 聞きまちがいだったか? それともわたしの記憶ちがいか? 叔至の妻の名は『銀兎』だろう」
「とりあえず戸籍上はな。荊州におちついたものの、蘭たちがまたあらわれるといけないので、混乱させるように、『銀兎』と名乗るようにしていたのだ。まさか七年後に、それが功を為すとは、おもわなかったが」
「まて、すると、叔至の妻は、だれだ?」
そんなやりとりをする二人のあいだに、関羽の旗印をつけた急使が、弾丸のごときいきおいで、劉備たちのもとへやってきた。
そのただならぬ様子に、孔明と趙雲は顔をあわせる。
やはり予想どおり、樊城の軍がうごき、関羽の部隊が襲われたのではないか。
「申し上げます、関将軍はご夫人方と江夏へ向かわれたのでございますが、途中、なにものかに襲われ、糜夫人の一行を見失ったよし!」
ざわっと、その場の一同がざわめいた。
「どういうことだ。なにものかとは、なんだ。樊城のものではなかったのか?」
きつく孔明がたずねると、急使は息を切らせつつも、答えた。
「わかりませぬ。あまりに突然でありましたから。ただ、相手が子どものように見えましたので、それで関将軍も一瞬、ためらわれてしまい、反撃がおくれてしまったのでございます」
孔明と趙雲は、ほぼ同時になかよく舌打ちをした。
「壷中だ! 糜夫人をとらえ、曹操に人質として差し出すつもりか!」
「主公! お願いがございます!」
と、前に進み出たのは、それまで各部隊に指示をだしていた、陳到であった。
「糜夫人には、我が妻と娘も同行していたはず。これを助けにいかねばなりませぬ! 事態の重さは、よくわかっております。しかし、わたくしに数騎をお与えください! かならずこれを救出してみせますほどに!」
さすがの劉備も、陳到の心情は理解できるながらも、即答できないでいる。
そこへ、さきほどから押し黙り、新野の動きをみていた青竜が口を開いた。
「あんたがたの部隊を動かせないというのなら、俺たちのだれかが、そのひとについてやってもいいぜ」
「いえ、主公、その役目、この孔明にもご命令くださいませ」
と、孔明は、自分の帯を飾っている、みごとな翡翠飾りを手にとって、気遣わしげな顔をしていう。
「文官で剣をもたぬ身ではありますが、見過ごしてはおられませぬ。どうぞ、お許しをくださいませ」
「お待ちを。軍師が行くというのならば、主騎であるそれがしも随行せねばおかしい」
「子龍、馬に乗れるのだろうな」
「ちゃんと義陽から新野まで馬で来ただろう。大丈夫だ」
そんなやりとりを聞いていた劉備であったが、やがて口をひらいた。
「よし、わかった。この件は、叔至、孔明、趙雲と、青竜さんといったか。あんたたちに任せたぜ。ほかの連中は、全力で民を守りつつ新野を出る」
そうしてことばを切って、劉備はそこではじめて家族を危険に晒されている男としての、心配そうな表情をうかべて、言った。
「すまねえな、おまえたち。本来なら一部隊くらいつけたいくらいなのだが、いまは回している余裕はねぇ。頼んだぜ」
「いいえ、かならずや、大恩ある糜夫人をお助けし、妻と娘をとりもどしてまいります!」
そう意気込んで答えたのは、陳到であった。