七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 十九回目
「なんだろう、いまの音は」
緊張をふくむ孔明の声に、趙雲は反射的に腰を浮かし、同時に、五体のほぼすべてが、この軍師のひとことひとことに、いちいち反応するようになっているおのれを、ちいさく笑った。
「地鳴りのように聞こえたが」
孔明は、曹操が、いよいよ押し寄せてきたものではないかと疑っているらしい。
しかし、軍靴と、そのほかの起こす地鳴りの音を聞き分けなれている趙雲は、そうではないことにすぐに気づき、孔明にそこにいるように指示すると、自室を出た。
そろそろ夜が明ける。
紫色の空のもと、北でずっと燃え続けていた烽火台の火はもう消えている。
これは、烽火台に配置していた兵卒たちも、戻って江夏に逃げる部隊に合流するようにと孔明が指示を出したためである。
すべてが劉琦のまつ、江夏に向かっているのだ。
江夏はいまや、曹操に反抗する荊州人のための中心地になりつつあった。
長い夜であった。
争乱と狂乱の数日間。過去との決別と、あらたな敵の正体を見極めるための、おそらく生涯でも忘れられることのない日々となるであろう数日間。
おのれの人生の、その一区切りがつこうとしているのを、趙雲は、明け染めている東の空を見つめ、そしてここちよい冷気を肺一杯に吸い込んで思った。
あらたな戦いがはじまるのである。
ふしぎと疲労はなく、うすい紫色のそらにたなびく茜色の雲を見つめていると、力さえ沸いてきた。
これは、さきほど孔明が指摘した、あまり巨大すぎる敵の存在とは無縁ではないだろう。
恐怖はない。
おのれの人生に、すくなからず影響を与え続け、阻み、悩ませてきたもの。
来るなら来いという、挑戦に満ちた心が湧いている。
それは強がりではなく、こころからそう思っていた。
おそらく、自分は、負けはしないであろう。
因習にしばられ、人を人とも思わぬ、暗い太陽の下で、いまも息をひそめて生きる者たちに、あの真白い太陽の化身のような龍にしたがう自分が、負けるなどとは思えなかった。
曹操が何百万とやってこようと、きっと、おのれは死なない。生き延びてみせる。
「おお、趙将軍、よいところに」
と、声をかけてきたのは、陳到である。その背後からは、孔明が気にしていた、そして、自室から出てからなお、一層つよく聞こえてくる、潮のような音が聞こえてくる。
音。いや、これは声だろうか。
大気に満ち満ちている、このいような緊迫感。戦場の最中に満ちる、痛みさえおぼえるほどの、刺すような空気。それによく似ている。
いやな予感がした。
「なにごとだ」
趙雲が声をかけると、陳到は、めずらしくも、その表情のあまり変化の無いかおを、趙雲にむけてこわばらせた。
これも劉備を待ちかねて眠れなかったらしく、どこか疲れた雰囲気をただよわせているが、覇気が無いわけではない。
そうだ、これも、ずっと、孔明を相手に昔話をして起きていたのだな、と思い出しつつ、すこしだけ寝台に横になって、こわばっていた体を伸ばすべく、肩をかるくまわしながら、趙雲はたずねた。
「主公が戻らぬので、兵卒どもが騒ぎ出したか」
趙雲の問いに、陳到は首を振った。
「いいえ、兵卒どもは、おとなしいものです。それよりも」
言いながら、ちらりと、陳到は、自分の背後に、隠れるようにして立っている女と、そのうしろの男たちを目で示す。
その女の姿を見て、なにも心にざわめくものがなかったといったら、嘘になる。
その女、銀兎は、まぎれもなく、官渡から荊州にいたるまでの、そして、新野での数年間の日々に、たしかに存在している、趙雲自身の過去の一部であったからだ。
七年という月日を感じさせない銀兎の姿をみたとき、趙雲は、陳到のことであるから、今生の別れをさせるべく、わざわざ、逃がさずに連れてきたのではないかとさえ疑った。
銀兎が、すでに夫と子をもつ身でありながら、趙雲のことも忘れかねていることは、ほかならぬ趙雲自身、じつは気づいていた。
気づきながらも、なにに発展することもなかった。
当然である。
銀兎は自分の部下の妻なのであるし、これに手をだしたあげくに、もはや劉備を見限ると言い切って北へいくという男についていくと決めた女に、未練たらしく、ぐずぐず言うつもりは毛頭なかった。
そう、すでに、銀兎はすでに趙雲の過去の一部にすぎないのだ。
その心を薄情という者もあるかもしれないが、しかし、趙雲にとって、銀兎たちがいた七年前、そして孔明があらわれるまでの七年間は、いまや、ひどく印象の薄いものにさえなりつつあった。
それほどに、今日までの数日間が、趙雲にとって強烈すぎたのだ。
たった数日で、根本からなにもかもが、変わってしまった。
女というものは、趙雲が、ときにうんざりして避けたくなるほどに敏感だ。
そのときもそうで、銀兎は、趙雲が自分を見る、そのまなざしに、なんの感慨も浮かべてないのをすばやく見てとったらしく、顔をくもらせた。
それをごまかすように、なるべく突き放した口調にならないように気をつけながら、趙雲はたずねた。
「おまえは北へ向かったのではなかったのか」
趙雲の気遣いが伝わったのであろう。銀兎は、やるせなさそうな笑みを浮かべた。
「北へ行く途中だったんだけれどね、戻ってきたんだ」
昔のままの口調で、銀兎はいう。
荊州に曹操があらわれたなら、これは劉備には、勝ち目はない。
そう判断した一部の人間が、一族をひきいて新野を出ていることを、趙雲も孔明も、そして劉備すらも知っていた。
かれらの志による判断なのであるからと、これを止めようとしなかった。
そこを無理に止めないのが、劉備という男の、最大の魅力なのだ。それも孔明はわかっているから、ならばご無事でとさえ言って、かれらが出て行くのにまかせた。
出て行く者たちのなかに、銀兎と、その家族もいたのである。
銀兎を見つめていると、自分もまた、七年前となにも変わっていないような錯覚をおぼえる。
それほどに、銀兎に、加齢というものとは無縁の女であった。
豊かな黒髪も、どこか幼さの抜けない甘い、舌足らずの喋り方も、銀の鳩のような足運びも、なにひとつ変わっていない。
銀兎は、趙雲を安心させるように、顔を上げると、顔を明るく笑わせて、答えた。
「安心してよ、あたしだけが心変わりして、子どもたちを置いてきたなんて薄情な話じゃないんだ。どうしても、あんたたちに知らせたいことがあったんだよ。
ひとりだけじゃないよ。そこにいるひとたちも、護衛してくれたからさ。それに、降伏する兵には、曹操は寛大だって聞いていたし、心配なんて、なにもないんだよ」
それは、銀兎が、自身と、自身の、いまは離れ離れになってしまっている家族に言い聞かせていることばのようにも聞こえて、趙雲は痛々しく思った。
曹操が、ほんとうに降伏したものには寛大に振る舞うかは、あくまで予想の範囲でしかないのだ。
「あたしたち、北へ向かっていたんだ。そうしたら、途中で、さわぎが起こってね、やっぱり、新野にもどる、って言い出した人たちが出始めたんだよ」
「なぜだ? 道が塞がれていたのか?」
「そうじゃないよ。だれが言い出したのかわからないのだけれど、このまま北に向かうと、曹操軍がまちかまえていて、財産はぜんぶうばわれて、奴隷にされるか、殺されるかしてしまうだろうって言い出したんだよ。それもひとりやふたりじゃなかったんだ。みんな、あんまりあちこちで、そんなことを言うやつがいるから、惑わされてしまって、やっぱり新野に帰るって言い出したんだよ」
趙雲は、わざわざ安路をもとめて北へむかったはずなのに、もどってきた者たちの心情を理解することができず、あきれて言った。
「新野に帰ってどうするつもりだ。曹操は、むやみやたらに野畑を荒らしはすまいが、危険であることにはちがいない。先に降伏したほうが安全だというのに」
「あたしもそう思ったよ。けれど、だれだか知らないけれど、まただれかが、やっぱり曹操は極悪非道なやつだから、このままじゃ徐州の民みたいにみんな死ぬ。守ってくれるのは新野の劉予州だけだから、やっぱり新野に戻ろうって言い出して、それに同調したひとたちが、おおぜい、新野にもどってきちまったんだ」
趙雲は、ぞっとしながらも、絶えず聞こえてくる、潮のような音、あるいは気配の正体を知った。
これは、流言にまどわされて、新野に『戻ってきた』農民たちの声だったのだ。
「あたしは、軍師や叔至さんたちのことばのほうが正しいと思ったし、ほかの士大夫や豪族のひとたちも、止めたんだけど、みんな聞いてくれなくって、このままじゃいけないと思ったから、あたしは、家族を北に先にやって、このことを知らせようとして、もどってきたんだ。
そうしたら、新野に戻るところで、このひとたちに声をかけられてね、護衛をしてやるから道案内をしてほしいというんだよ。渡りに船ってやつで、ここまで、いっしょに来たのさ」
趙雲は、銀兎を護衛していたという男たちのほうを、ちらりと見た。
陳到も、あきらかに、銀兎よりは、男たちへの対応に困っている様子であるのが、その目線で知れた。
厄介ものがやってきた、と言う顔をしている。
かれらは、武器はもっていない。
門衛たちが、どうやら、かれらから武器という武器をすべて預かっている様子で、薪をかかえるようにして、剣だの槍だのといった武器をかかえて、かれらの背後にいる。
趙雲は、あらためて男たちを見た。
見たことの無い顔、そして、異相にして異形である。
見るからに南方系の蛮族を中心とした、流れ者の一団だ。
敵愾心はかんじられないが、それの、どの顔つきからも、ただものではない、かなりの場数を踏んできた傭兵たちであるということが知れる。
だれがどう見ても、それこそ、官渡どころの話ではないほどに、劉備の負けが確定しているこの戦に、傭兵がわざわざ味方をしたいとあらわれたとは、趙雲は思えなかった。
そうして、銀兎を脇にやり、真正面から、頭目らしい、頭のてっぺんで髪をひとつにまとめ、さらにそれに、色とりどりの三つ網の紐を加えているという、奇体な髪型をした男にたずねる。
目線を、さほど動かさなくてすむ。
趙雲の身の丈は八尺あったが、その男もおなじくらいの巨体であった。そして、おなじように、奇妙な文様のほどこされた、鎧の下にある身体は、相当にきたえられているものと知れる。
「銀兎を無事にとどけてくれたそうだな、感謝する。俺の名は趙子龍。劉予州の主騎にして、この城の全権をあずかる軍師、諸葛孔明どのの主騎である。貴殿らは何者か」
単刀直入のそのことばに、頭目であるらしい、八尺はある、肩幅のがっしりとした、奇妙な、渦巻き文様が全身にほどこされた鎧をまとった男は、にやりと不敵に笑った。
これは、挑戦を受け取ったというのではなく、趙雲の堂々とした反応に、満足したからのようである。
「あんたが高名な趙子龍か。かつて白馬義従で鳴らした男だな。名前は聞いている。新野では、武芸の才では、並ぶものがないほどであるとか。
俺たちは、揚州より派遣された、あんたたちを助けるためにやってきた男だ。そうだな、名前は、青竜とでも」
と、男は冗談めかして言う。
青竜は、中華に住まう者ならだれでも知っているとおり、東方を守護する聖獣である。
「本名は名乗れぬのか」
不愉快さをにじませて言うと、男は、素直に、すまなさそうな顔をして言った。
「すまぬ。俺たちの風習のひとつ、とでもいおうかな。いまは本名を明かすことはできぬのだ」
「つまり、信用できる人間にしか、その名は与えられぬ、ということか」
挑戦的な趙雲のことばにも、青竜は、こまったように、頭のてっぺんでまとめあげた髪を掻くばかりである。どうやら、そこに作為や悪意はない様子だ。
「子龍、なにがあった」
呼びにいくまでもなく、孔明そのひとが、趙雲の部屋から顔をだした。
とたん、それまで厚い壁にも似た、固い趙雲対応に苦慮していた青竜の、当惑気味の顔が、ぱあっと晴れやかなものに変わった。
「あんた! あんただろう!」
と、青竜は、さすがの孔明もたじろぐほどのなれなれしさで、両手をひろげて近づいてきた。
趙雲が止める間もなく、青竜は、あらわれた孔明の両手を取って、親しい友にするように、ぶんぶんと上下に、なんども振ってみせた。
そうして、目線は、孔明の相貌からはずそうとしない。
趙雲としては、めずらしいなと思うところである。
孔明の相貌を前にしたとき、人はたいがい、気圧されてことばをなくすか(自分がそうであった)、あまりに圧倒されて、目をそらすかのどちらかであった。
孔明の発する、つよい光にも似たまばゆさを真正面から受け止めて、なおかつ凝視できるこの男、なかなか度胸があるようだ。
青竜は、満面の笑みをうかべて、言う。
「いやあ、すぐにわかった。あんたが諸葛孔明だな。そうだろう。噂には聞いていたが、これはおどろいた。
正直なところ、俺はあんたみたいにきれいな男を見たことがない。朝陽がそのまま人の形になったみたいだ。あんたみたいなのを、希望の化身というのだろうよ。ああ、これはうれしいや」
誉めすぎである。
孔明は当惑しきって、両手をにぎられたまま、顔をむけて、説明を趙雲にもとめてくる。
趙雲は、陳到や、銀兎、そして本人から聞いた話をまとめて、端的に孔明に状況を説明してやった。
とたん、孔明の顔は曇る。
「農民たちが戻ってきたというのか?」
その声に応じるかのように、新野城の外のほうから、不気味なざわめきが聞こえてくる。
荒れ狂う川のさざめきにも似たそれは、まちがいなく人のものである。
銀兎の説明によれば、流言によって、わざわざ戻ってきてしまったという、農民たちのたてる音声であった。
「ばかな」
ちいさくつぶやくと、孔明は、その様子をうかがうべく、城の一帯が見渡せる楼閣へと走り出した。
趙雲もそれにつづく。
青竜もついてこようとしたが、趙雲は陳到に言って、かれらがそこから動くことがないよう、指示をした。
まだかれらを信用するには足りなかった。たしかに風体はそれらしいものの、やってきた動機が、あまりに傭兵らしくなかったからである。
さきに楼閣に上りきった孔明のうしろ姿を、おそらく趙雲は、生涯、忘れることはないだろう。
孔明は、ついてきた趙雲を振り返ることはなかったが、その背中は雄弁に、ひとつのことを物語っていた。
甘かった、はめられた、と。
つよい後悔と悔しさが、その背中ににじんでいる。
柱にもたれるようにして、なんとか立っている、という風情の孔明のとなりに、趙雲も並んでたつ。
そうして、楼閣をみおろし、孔明が、ことばをなくしている理由を知った。
新野城は、いまやぐるりと、敵ではなく、もどってきた農民たちに取り囲まれている状態であった。
おそらくは家財道具一切をかかえてきたのだろう。大量の道具をかかえた民の黒い頭が、波のように、無数に見えた。
まるで地平が黒い波に覆われたようである。どれだけの数があつまっているのか、それすらもわからない。
横をちらりと見れば、孔明の表情は、驚愕と、そして、みたくなかったことに、絶望に彩られている。
「予想すべきであった。動くべきであったのだ」
と、孔明は、自分を責めるようにしてつぶやいた。
それをかばうように、趙雲は横から言う。
「この状態で、だれが動けた。もし俺たちが、これを予想できていたとしても、きっと身動きも取れずに、おなじことになっていただろう」
しかし、孔明は、民の群から目を離さず、苦しそうに顔を横に振った。
「それでも、これほどの数にはならなかったかもしれない。壷中の残党どもは、とっくの昔に許都の本拠の指示をうけて、動ける状態になっていたのだ。
それをうかつにも、われらとおなじように混乱の中にあるだろうと、勝手に思い込んでいたわたしがいけないのだ」
「許都の壷中……帝の指示だというのか」
孔明はこくりとうなずいた。
「いちばん、効率よく、われらを消すことができる作戦だ。曹操という男の気性を知っているからこそできることであろう。この者たちは、きっと死ぬだろう。われらも、それに巻き込まれてしまうかもしれぬ」
曹操の今度の南下は、あくまで天下統一のための行動である。
そして、曹操はもう歳だ。
曹操は、単なる冷酷残虐な殺戮者ではないのだ。
徐州のときには、父親の仇討ちという理由があった。そして、若い彼にとって、その名前を轟かせるための行為としての意味もこめての虐殺でもあった。
そう、公孫瓚が、蛮族を白馬義従に殺しまわらせていたのと、その動機はかわらない。
だが、いまはちがう。
押しも押されぬ中原の覇者である曹操には、いまや、むやみやたらに、民を虐殺をすて、世論を敵にまわす理由がなかった。
第一に、荊州を痛めつけて疲弊させることで、曹操には益がない。
人員も物資も豊かな荊州であるからこそ、そこを足がかりに江東と益州をのぞめるのだ。
荊州を無駄に痛めつけたら、それこそ、自分で自分の足の腱を切るのと同じだ。
降伏する者には、おそらく寛大にあつかうであろう。
ただし、だ。
反抗する者には容赦はしない。この場合、反抗する者というのは、劉備とその一派である。だからこそ、かれらは命がけで逃げる必要があった。
こういいきってもよかっただろう。
つまり、曹操のこのたびの南下には、荊州の民は、抵抗しない限り関係がなかっただろう、と。
だからこそ、孔明も劉備も、もし曹操がやってきても、狙われるのは自分たちだけで、民が、徐州のときのように虐殺されるようなことはないだろうと判断していた。
その判断ゆえに、徐庶が軍師であった時から、孔明たちは、おちついて逃亡の準備を進めていたのである。
だが、こうなっては駄目だ。
逃げる、つまりは、曹操に抵抗するのだと態度で示してしまったら、駄目だ。曹操にとっては、かれらは『敵』に見做される。
敵には容赦しないという『冷徹さ』こそが、曹操の曹操たる所以である。
ここで寛大さを示す意味が、逆にない。
反抗する者はこうなるのだぞと、これから狙うであろう、江東や益州にたいしての見せしめにするはずだ。
孔明はそこを読みこしていたからこそ、自分たちだけ逃げる準備を進めていたというのに、農民たちは、みずから戻ってきてしまった。
「いまから村に返そう」
ちいさくつぶやくと、孔明は、楼閣をのぼってきたときとおなじように、絹の衣をひるがえして楼閣を下り、新野の城外につどう民のもとへと向かおうとする。
しかし、その行動で読んだのか、門へ向かおうとする早足の孔明へ、青竜が、揶揄するように声をかけてきた。
「帰れといっても無駄だと思うぜ。むしろ、『わしらを見捨てるための方便だろう』とかなんとかいって、暴動になりかねないね」
孔明はぴたりと足を止めると、険しい表情で、青竜を振りかえった。
「やってみなければわからぬであろう。なぜ、そういい切れる」
すると青竜は、肩をすくめてみせた。
「やるだけ無駄さ。なにせ、あいつら、すっかり信じきっているからな。『曹操は苛烈な男で、男を見れば殺すか奴隷にし、女とみれば犯され、あるいは奴婢にされ、子どももおなじく捕虜にされるか宦官にされる。徐州の民はそうだった。川が死体でうまって、向こう岸まで歩いていけるほどだった。荊州もきっとそうなるだろう』ってな」
孔明は、おそらく徐州での記憶をよみがえらせたのだろう。
一瞬だけ、やつれの見える秀麗な顔に、ひどくきつい表情を浮かべたが、自分をおさえるように、ひと息つくと、答えた。
「たしかに徐州はそのとおりの有様であった。しかし、荊州もおなじになるとはかぎらない。あのときとはちがう」
しかし青竜は、その奇体な風体からは想像がむずかしいほど、冷静に淡々とこたえた。
「ちがうと、俺たちはわかっている。なぜなら、俺たちは、曹操ってやつがどんなやつで、なにを考えてここにやってくるか、ちゃんとわかっているからさ。
けれど、表にいるやつらは、そんなことをいきなり説明されてもなんにもわからない。あんたが出て行って、かくかくしかじか、こうだから、おとなしく村に帰ってのんびりしていろと説明したところで、はいそうですかとおとなしく帰るものか。
十人かそこいらだっていうのならともかく、人数が多すぎるぜ。それに、人間、切羽詰ると、とんでもねぇことしやがるからな。あんた、連中の八つ当たりの標的にされて、なぶり殺しにされちまうかもしれないぜ」
そんなことはさせるかと、趙雲は言おうと思ったが、横から口を出したのは銀兎であった。
「軍師、口は悪いけれど、そのひとの言うとおりだと思うよ。あたしが戻ってきたのは、そこなんだよ。あっちこっちで、『曹操がきたら、みんな殺される。劉備なら守ってくれる』って言いまわっているやつらがいたんだ。そいつら、子どもだったんだよ」
銀兎のことばに、孔明以下、趙雲、陳到は顔を向けた。
三人の脳裏に、嫌な予感が走る。
「なんだか、あたしたちが荊州に逃げてきたときと、似ているとおもって、気味が悪くってさ。だって、また子どもなんだもの」
「触れまわっていた者たちに、見た顔はあったか」
孔明の問いに、銀兎は緊張した面差しで答えた。
「見覚えはないよ。けど、ほんとうに、みんな、子どもだったんだ。妙に口が達者で、あれはわざと騒いでいたんだよ」
「やはり『壷中』だ。先手を打たれた」
悔しさと無念さをにじませ、孔明がつぶやいた。
壷中と読んでもよいのかわからないが、おそらくは許都にいる漢帝国の亡霊にあやつられた子どもたちは、劉備を曹操に始末させるための、いちばんよい方法をとった。
徐庶と孔明は、かれらが思った以上に優秀であった。だから、曹操の動向をほぼ正確に見抜き、すでに逃走の準備を春からはじめていた。
劉備だけでは逃げられる可能性がある。だからこそ、足枷をつけてやればよい。
それは、民という名の足枷である。
劉備は民を見捨てることはできない。なぜなら、見捨てることができないからこその『義人』であるからだ。
そこを見越しての、民の陽動である。
これで機動力は大幅に下がることになる。
趙雲は、目線をおとし、ぐっと拳を握る孔明の姿を見た。
なにを考えているかは、だいたいは想像がつく。
壷中への恨みでも、曹操への恐怖でもない。
自分にたいする怒りであろう。
樊城で捕らわれ、義陽にさえ行っていなければ、劉備とともに、すぐに新野を出ることができてさえいたら、この作戦は成らなかったはずである。
民ではない。自分が足をひっぱったということに対しての、苛立ちが、孔明の表情にあらわれていた。
それにしてもわからないのは、許都の壷中(名前がわから無いので、あえてそう呼ぶが)から、どうしてこうも、恨まれねばならないのか、ということだ。
樊城の壷中を壊滅においやったことが、それほどに逆鱗に触れることであったのか。
それにしては、相手の出方が早すぎる。
孔明は、しばらく沈痛な顔をして地面を見据えていたが、やがて覚悟を決めたように、顔をあげて、言った。
「こうなった以上は、なにか策を考えねばなるまい。みなで江夏に逃げるしかないのだ。だが、そこへ向かうための船も、食糧も、かれらの分はない。かれらを守れる兵すらないのが問題だ」
その孔明に、それまで、その様子を観察していた青竜が言った。
「兵なら俺たちがいるさ。どうだい、雇う気になっただろう。いいや、あんたは、俺たちを雇わなくちゃいけなくなったわけさ。料金は、後払いでいいぜ。俺は、あんまり金にはこだわらない主義なんだ」
「それはありがたい主義だな。すまぬが、貴殿の力を借りることになりそうだ」
「商談成立だな。よろしくたのむぜ」
言いつつ、青竜は片手を伸ばしてきたので、孔明もまた、その手を差し出し、ふたりは固く握手をかわした。
それをみつつ、趙雲は、青竜というこの男、どこまで信用できるかな、と思った。
この男が壷中とつながっていないという証拠はなにもない。
じつは、この男も壷中とつながっていて、孔明を狙うために、傭兵として近づいてきていたのだったらどうする。
気の回しすぎであろうか。
しかし、長年の勘が、青竜という本名すらしれない男が、嘘を身につけている男だと告げていた。
そのとき、門の外から、ひときわ大きな声が聞こえてきた。
孔明も趙雲も、ぞくりと身をふるわせた。
いよいよ、曹操軍が、地平から姿を現わしたのではないかと思ったのである。
身構えるかれらであったが、ほどなく、それは歓喜に転じた。
よくよく聞けば、民からあがっている声は、悲鳴ではなく、悲鳴にかぎりなく似ている、歓声なのであった。
ひとびとが、劉備の名を歓呼している。
劉備が樊城より戻ってきたのだった。