七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 十八回目

だれも追いかけてくるものはいない。
女ひとり、鬱蒼とした夜の森に一人ではいれば、どういう結末が待っているか、あの群集は理解したからこそ、追ってこなかったのだろう。
それまで、必死におのれをごまかして、気づかないフリをしていた刀傷が、もうごまかしようがないほどに激しく痛みはじめていた。

護身用だと言いわけをして、杖の代わりにしてきた剣を地に突き刺し、そのまま崩れ落ちるようにして膝をつく。
傷が開いたのかもしれない。これだけ歩いたのだから、そうだろう。
死ぬのかもしれないなと、まるで他人事のように、紅霞は考えた。

傷の痛みに苛立ちがはしる。
とはいえ、苛立ったところで、助けてくれるものはないのだ。

思えば、自分の人生はそのくりかえしだった。
生まれ故郷を、なつかしく思い出したことはない。
奴婢の子として生まれた紅霞は、自分の父親の名と顔を知らないで育った。
母親は、うつくしいが心の弱い女で、紅霞が村を出るまでは、何人もの男に言い寄られては、簡単に身体をまかせて、飽きられて捨てられるということをくりかえしていた。

村を出たいという一心で、紅霞は、たまたま訪れた行商人に近づいて、一緒に都へ連れて行ってもらった。
行商人はとても優しかったし、まだ幼かった紅霞は、この男の妻になってもよいかもしれないと、甘い期待を抱いたものである。
しかし、よくある話で、都につくなり、行商人には妻がいるということがわかり、紅霞はあっさりと捨てられた。
なにも持たぬ娘ひとりが容易に生きていけるほど、都はやさしい場所ではなかった。

ほどなく、紅霞の身は苦界に沈んでいた。
望んでそうなったわけではない。いつか陽の当たる場所に出てやるのだと、あてのない望みを胸に秘め、紅霞は、男たちを何人も渡り歩き、自分の美貌をみがいていった。
もちまえの負けん気と、生真面目な性質が、うまく向上心とかみあった。
妓女としてすごしながらも、紅霞はひととおりの芸を身につけ、文字を習得し、並みの士大夫とふつうに論議をかわせるほどの教養を身につけていった。都には、女が教養を身につけることを厭わない、田舎よりもずっと自由な風潮があった。
紅霞は貪欲に前に進んだ。
自分の形を変えていくために、男を選んで、そして捨てては、あたらしい男に乗り換えた。
その脳裏には、つねに母のことがあった。
はかなげな容姿、そして利用しやすい否といえない弱弱しさゆえに男に目をつけられ、付け入れられ、飽きられては、捨てられている、利用されるばかりの女。
自分はああはならないのだと、紅霞はつよく思っていた。
妓女として、堕ちた身かもしれないが、それでも、母のように、自分は男に利用されているのではない。
自分が男を利用しているのであると、そう信じていた。

男たちを渡り歩いていくうちに、やがて、袁家の長子の目に止まり、うまくその妾になることができた。
おのれの手で得た機会を、紅霞は逃さなかった。
なんでもやった。
最初はしおらしく沈黙を守り、慎重に、袁譚の周囲を観察するところからはじめた。
袁譚がどのような状況におかれているのか、だれが敵で、だれが味方か。
袁譚の問題はなにか、なにを解決してやれば、この自分の地位は安泰になるのか。

思えば、やりすぎたとも言えるかもしれない。
しかし、紅霞には焦りがあったのだ。
たしかに、自分はうつくしい。
しかし、そのうつくしさは、いつまでも続くものではない。
袁譚の子でも身ごもらぬかぎり、やがては捨てられてしまうだろう。
そう、母のように。

捨てられないですむには、どうしたらよいかと、紅霞は懸命にかんがえた。
かんがえた末の行動が、袁譚のために、細作たちをつかって、群臣の動向を見張ることであった。
もともと、社会の底辺から這い上がってきた紅霞である。人の裏表を知り尽くしている。
長子の袁譚が、父の袁紹のあとを継ぐことに、難色を示している家臣のもとに、細作を派遣し、その秘密をさぐらせ、それをネタに脅迫する。
これにより、袁譚の立場は、ずっと良くなった。
当然、袁譚は紅霞への寵愛を深める。

紅霞にとっては、なんともいえない充足感があった。
居場所のない自分が、三世五公と謳われる名家袁氏の、未来の当主の、なくてはならない存在となっているのである。
おそらく、袁譚の子を産んでいるほかの側室たちとて、これほどの功績を得てはいなかろうし、信用も得てはいないだろう。

とはいえ、その充足感をつづかせるには、足を止めてはならないという条件があった。
足を止めてしまえば、予想される未来は暗いものである。
紅霞は、自分の立場を守るために、どんどんと、暗部へとおのれを押し込んで行った。
進めば進むほどに、おのれの立場が、かえって危うくなっていることには気づいていた。
知りすぎた者は、いつかは消されるということに、気づいてはいたのである。
それでも、その不安を消していたもの、そして心の支えにしていたものは、おのれでも呆れることに、袁譚から受けていた寵愛であったのだ。
このままでは危ういと、つねに響く心の声を気にしながらも、紅霞はただひたすら、歩き始めた道を行くしかなくなっていた。
たとえそこで、立ち止まって悲鳴をあげたとしても、助けてくれるものはだれもいないのだ。

そうして、歩きつづけて、多くの者を傷つけ、そしてうらみも買って、それでも懸命に、唯一の愛情に縋るようにして生きてきたというのに、裏切りは、あまりにあっさりと行われた。

あまりに若くうつくしい、どこか生気を感じさせない、造花のような子どもたち。
子どもたちの出現により、寵愛ばかりではない、おのれの守ってきた役目すら、紅霞は奪われた。
抗議の声すらあげることもできなかった。
異議をすこしでも唱えたなら、それを理由に、逆にもっと危うい立場に追い込まれる危険があった。
想像していた以上に脆かった、おのれの立場に呆然としながらも、紅霞は、事態をただ見ていることしかできなかった。

所詮は、なにも後ろ盾を持たない、妓女なのだ。
そのことを突きつけられて、紅霞は無力感に打ちのめされた。
なんのことはない。
男を利用しているのだと思っていたのに、結局は、母と同じように利用されていたのか。
この身がいずれは危うくなるであろうことは予感していたのに、ただひたすら、母と同じように捨てられてしまうのがおそろしくて、頼りないものに縋って、かえって、同じように捨てられている。
ほかの道は、まだまだたくさんあったはずなのに、どうしてここにわたしは来てしまったのだろう。



傷の痛みがじわじわと強くなっていき、紅霞は深く息をはいた。
耐えたところで消える痛みではない。苛立てば、なおひどくなる。助けてともとめても、だれにも助けられないものだ。

ふと、とつぜんに紅霞は理解した。
そうか、だからこそ、わたしは、寒蝉を、あれほどにいじめたのかもしれないな。
妙になんでも受け流してくれる男であった。
なんの特徴もない、面白味に欠ける容姿と同様に、従順でつまらない男だと、最初はあなどっていた。
しかし、この、妙にへりくだった、どこにいようと、だれのなかであろうと、不思議と場になじめてしまう男は、紅霞の苛立ちを、つねにあっさりと、すべて受け入れて、いつでも平気な顔をして立っていた。
どんなになじっても、八つ当たりをしても、寒蝉が紅霞から離れていくことはなかった。
おかしな男だと思う。
ふつうの男だったら、紅霞のわがままにすっかり呆れて、離れていってしまうところだろうに。

わたしは、結局のところ、あの男に甘えていたのかもしれない。
いまさらだが。

痛みをまぎらわせるために息を吐きつつ、紅霞は、おのれを取り囲む気配に心を研ぎ澄ます。
ひとつ、ふたつ、いや、かぞえきれないほどたくさん。面倒な。四方を囲まれた。
血の匂いを嗅ぎつけてきた狼、あるいは野犬の類いか。
思わず紅霞は苦い笑みを浮かべていた。
やれやれ、最後の最後で、こちらの言葉による説得も、色仕掛けも通用しない相手があらわれるとは。
たとえここで死ぬにしても、せめて立ち上がって、自分を殺そうとする者たちの顔をしっかりと眼窩におさめたいと、紅霞は思った。
立ち上がろうとすると、傷口が悲鳴をあげてくる。
おとなしくしていろ、もうじき楽になるのだからと言い聞かせ、膝にぐっと力を籠める。

夜露に濡れた草木の、青臭いにおいが、ふしぎと心地よい。
脂粉にまみれて死ぬよりは、ずっとよい死に場所かもしれぬ。
杖のように地面に突き立てた剣に縋るようにして、紅霞は立ち上がった。
その視界に、闇に不気味に浮かび上がる、数々の金色に光る目が見えた。
自分の死が。
たくさんの者の生死をにぎっていた。それが快楽であったことすらある。
実際にこの手で、死を贈ったものとて、少なくない。
だというのに、この期に及んで、その者たちの顔を思い出すことはできなかった。
脳裏に浮かんだのは、袁譚の顔でも、都での華やかな暮らしでも、それを彩った男たちの姿でもなかった。

奇妙なものだ。どうしてこんなふうに思うのだろう。
まだ生きていたいなどと。
この期におよんで、死にたくないと、怯えている自分がいる。
紅霞は、傷の痛みを耐えながら、おのれの心に舌打ちをした。
いまさら、未練がこの世にあるというのか。なにをやり残しているという。公子への報復か。
それとも、自分から公子を奪った、あの妖童への報復か。

思い浮かべて、しかし、紅霞はそれをみずから否定した。

そうではない。
この心は、そんなことを望んでいない。
最初から、綱渡りにも似た生活をくりかえしてまで望んでいたのは、金でも、栄光でも、まして栄誉でもなかった。
望んでいたのは、そうだ、母とはちがう生活。
男に振り回されることもなく、日々を穏やかに過ごせる、そんな生活だった。
それを手に入れようと、頑張って、迂闊にも頑張りすぎて、こんなところにきてしまった。
いちばん欲しかった物に、やっと気づけた。それなのに、死ぬのか。

紅霞は、皮肉な状況に、笑った。
その笑い声につられたわけでもないだろうが、叢にひそむ狼たちが、一匹、また一匹と、くさむらから悠然と姿をあらわす。
こちらが傷ついていると、匂いでわかっている。
だからこそ、大胆に姿をあらわしたのだ。
月に浮かびあがる狼の姿と、その美しささえある真白い牙が、ゆっくりと剥かれていく。
そして凶悪な狩人たちは、その地を蹴った。


自分に向かってくる狼の姿が、ひどくゆっくりに感じられた。
もう終わるのだ。もうすこしで。
紅霞が覚悟をすっかり決めたとたん、それを打ち払うように、ギャン、と狼の絶叫が耳元でした。
同時に、太鼓をすぐそばで打ち鳴らされたような、大音声が紅霞の意識を呼び覚ます。

「この莫迦女! なぜに勝手なことをする!」

気づけば、紅霞に向かってくるはずであった狼は、陳到の繰り出した剣でもって、見事な腕で、宙に切り伏せられていた。
そして、いまは地面に倒れ、わずかな命が残る証しとして、小刻みにふるえている。

陳到の叫びによって、周囲にざわめいていた狼たちの気配が、さらに大きく森を動かしていく。
思わず、紅霞は、おのれの傷の痛みもわすれて、たずねていた。
「寒蝉、おまえ、なぜ。銀兎はどうした」
問えば、陳到は、毎度おなじみの、おそらく、自分でなければ、その特徴をさがすことすらむずかしいであろう平凡の極みの顔を、めずらしく怒りにゆがませて、答えた。
「なぜもなにもない! あれは無事だ! まったく身代わりなど、なにを考えているのだ! その傷でどこへ行く! 死ぬつもりか!」
そのつもりであったと答えたなら、泣き出しかねないほどの顔を、陳到はしていた。

おもわず紅霞は苦笑する。
この男は、いったい、なんだってわたしのためなんかで、こんな顔ができるのだろう。

「わたしは、おまえを死なせぬぞ!」
いいざま、陳到は、仲間を倒されたことで、いっせいに襲い掛かってきた狼たちに向け、白刃をひらめかせていた。
そして、よほど腹を立てているものか、いまだ木陰に隠れて姿をあらわさぬ狼たちに、ことばなぞ通じはしないだろうに、叫ぶ。
「この臆病者ども! 隠れていないで出てくるがいい! この陳叔至が、おまえたちを残らず討ち取ってくれようぞ! 出てこい!」

それに応じるとでもいうのか、狼たちが牙を向いて襲いかかってきたので、陳到は、これを一閃のうちに切り伏せた。

まるで、曲芸のようであった。
右からやってくるもの、左からやってくるもの、足元を崩そうとするもの。
紅霞を狙おうとするもの。
下手な兵卒などよりも、よほどありとあらゆる攻撃をくりだしてくる狼を、陳到は、ひとりで、ほとんど苦労もなく倒していた。
その姿は、単に技量に優れているからというだけのものではない。
地面に腰を下ろした状態で月光に映え、血風を巻き起こす陳到の姿は、紅霞には、神が降りてきたかのようにさえ見えた。

この男は、もう、自分をはるかに超えていると、紅霞は理解した。
自分が見つけた男、自分が育てた男である。
部下に対するというよりは、どこか母が子にもつ感情であったのに近い。
狼の群れに、仲間意識というものはあるのだろうか。
だとしたら、闇に憎悪に光る金色の目は、すべて陳到に向けられているわけだが、それらをものともせず、陳到は槍をふるいつづけた。

傷がいえたわけでもない。
敵がいなくなったわけでもない。
ただ、寒蝉が目のまえで戦っている。
いや、もうこの男は、袁譚の細作のひとりである寒蝉などではなく、自らの意志で、考えて、自分の道をあるきだした、陳叔至というひとりの男であった。

陳到が、戦っている。
それだけで、紅霞は、自分が救われるのだと感じた。
深くはわからない。けれど、もう大丈夫だと、心の底からそう思えたとき、紅霞の双眸より、あたたかい物が流れていた。
涙はいつも、冷たいものだった。
癒えない傷が血のかわりにながす、冷たいこころをすこしでもやわらげるための、ただの水であった。
いまはちがう。助かりたいと、本気で思った。
助かって、もっと生きて、まだまだ世の中を見たい。

自分は、世界の一端をにぎって、まるですべてを知ったような気になっていた。
けれど、本当は、なにひとつ、いちばん知りたいことを知らなかったのだ。
泣きながら、助けてと口にしていたと思う。

すると、激戦の最中でありながらも、陳到はそれをするどく聞きつけ、
「安心しろ! おまえは、必ずわたしが助ける!」
と、言い切った。
そして、紅霞はまた涙を流した。



紅霞の涙を見たときに、陳到は、もうだれの涙も見たくないと思った。
狼たちをすべて打ち倒し、残りを森の奥に追い払ってから、つめたい地に伏した紅霞をだきあげたとき、その口と鼻から、ゆるやかでも吐息があったことが、どれだけうれしかったかしれない。
陳到は、まるで卵をはじめてかかえる童子のように、たいせつに紅霞を抱えあげて、劉備の陣へもどっていった。

あのときの、紅霞のふたたび裂けた血のにおいと、夜気のしめった空気と、下界の様子もしらずに白光をきらめかせる星たちの姿を、陳到はいまでもおぼえている。
そして陣にもどると、どうして戻してきたのだと、抗議を声をあげる群集をまえにして、土下座までして、この女を助けて欲しいとたのんだ。
陳到にとって、紅霞は、『つまらない一兵卒』でしかなかった、家族の者も友人さえも、まったく見過ごして忘れてしまうような自分の美点を、あますところなく引き出してくれた恩師であり、そしてまた、おなじ主君に仕え、苦労をともにした同僚であり、そして、そこから生まれる、さまざまな心の動きを共有した、とくべつな存在なのである。

陳到はいままで、だれに問われることもなければ、語ることすらなかったことを、ひとつひとつ、ときには、つかえながらも、けんめいに言葉をさぐって、説明した。
批難の声がなかったわけではなかったが、陳到は頭を下げつづけた。
それまで、単に流されて生きてきた。
紅霞によって一兵卒から細作にえらばれたときでも、俸禄があがって、よかった程度のことしか考えなかった。
どのような危機にあろうと、奇妙に自分に自信があったから、怖じることもなかった。
それは、紅霞によって教えられた技術ゆえなのである。
紅霞がいなければ、いまの陳到はいない。
いや、紅霞が、陳到のすべての支えであり、中心だったのである。

どこにでもいることが特技であった細作は、いま、真剣に、真正面から自分の姿と向き合い、そして、それこそ生まれてはじめて、自分以外の、ほかのだれかのために命乞いをした。
心のなかで、もしも受け入れてもらえないときには、まわりの全員を殺めてもかまわないと思うほど、思いつめた凶悪さを秘めたまま。

陳到の情熱が通じたか、糜夫人、そして趙雲や関羽、さいごには劉備の口ぞえもあり、紅霞こと、銀兎は、荊州へと先を急ぐことになった。
混乱をふせぐため、そして敵の目をくらませるために、紅霞は『銀兎』となのり、ほんものの銀兎は、『紅霞』と名乗った。
つまり、名を交換したのだ。
ほんものの銀兎は、なじみない名前に戸惑っていたようであるが、ほんものの紅霞のほうは、陳到が心配するより、ずっとたやすく状況に馴染んだ。

そうして、どんどんと、『銀兎』の傷は癒えていった。
医師が、もう助かるまいと思っていたがと、本音を吐露しておどろいてみせるほどに、よくなったのである。

荊州に至る道のなかで、なにもなかったといったら嘘になる。
趙雲がいうとおり、劉備軍の家臣は、古くから仕えている者がたいはんで、仲間意識がつよいぶん、新入りには、なかなか溶け込めないところがある。
まして、刺客に狙われている女を同行している陳到への風当たりはつよかったが、そこは劉備と関羽、そして趙雲が、うまくかばってくれた。
陳到は、趙雲と関羽には、生涯、なにがあろうと、けっして裏切るまいと決めた。

糜竺の必死の交渉のけっか、劉備は劉表と対面し、荊州の最前線である新野城にとどまることをゆるされた。
つまり、勝つのが袁紹、曹操、だれであれ、荊州に南下するものがあった場合、体を張ってまっ先に戦ってくれるのであれば、そこに留まるのを許そう、という配置である。

戦は終わり、天下のだれもがおどろいたことに、曹操が勝った。
しかし曹操は、その勢いを南には向けず、北方を平定することに集中した。
さいわいというべきか、その事業には、七年の歳月が費やされた。
そして、劉備軍、すなわち陳到には、七年の安息が与えられた。
短いようで長かった七年間であった。
しかし、これが長く続かないだろうとは、だれもが思っていた。

終焉と破壊の気配をただよわせてあらわれたのが、幕切れという言葉の似合わない、むしろなにかの始まりを告げるような、あの太陽のようにまばゆい美しい軍師で、かれがあらわれて、そして奇怪な事件がおこり、ほんの数日のあいだに、すべてが引っくり返った。
七年間の平和は、おおくの無辜の民の死のうえに築かれていた、まやかしのものであった。
陳到はそれを知ったとき、知らなくても済んだかもしれないその事実を、あざやかなまでに暴ききってみせた諸葛孔明を、ちょっぴりうらんだほどだった。
そのことさえなければ、新野での暮らしは、おそらく生涯でも、とくに輝かしいものになったのだろうに。



そんなことを考えながら火をかきまぜていると、ふと、だれかが近づいてくる足音がする。
歩哨にしては、足音が軽すぎた。
軍師ではなさそうだ(あのひとは颯爽と歩くので、すぐにわかる)。
だれであろうと、火かき棒で火をかきまぜる手を休め、顔をあげた陳到は絶句した。

そこには、『銀兎』がいた。
新野に住まう女子どもは、劉備の夫人、そして関羽とともに、すでに江夏に向かったはずである。
目のまえの姿が幻であればよいと思いつつ、陳到は腰を浮かせて、『銀兎』にたずねた。
「なぜおまえは、ここに」
そうしぼり出すのが精一杯であった。
『銀兎』いや、いまは『陳紅霞』と名乗るこの女は、七年前と変わらぬ、少女のようにみずみずしい姿を保っている。
豊かな黒髪もそうであるし、しどけない仕草も、甘い声も、鳩のようなちいさな足も、そのままだ。
『銀兎』が歩いているだけで、まるで踊っているようだと、いまでも陳到は思う。

「おまえだけか。子どもたちは」
「子どもたちは、先に逃げているよ。けれど、あたし、どうしても気になって。なんだって、あんた、新野に残っているのさ。早く逃げないと、今度こそ、曹操に殺されるよ」
陳到は正直、銀兎のまごころに打たれると同時に、あきれた。
銀兎としては、七年前、自分の身代わりになってくれた紅霞と、そして、銀兎を助けるために群集の前で頭をさげてくれた、陳到への恩返しのつもりなのだろう。
「わたしは大丈夫だ。樊城に出かけられたきり、戻らない主公をお待ちしているだけだ。もしも主公が戻られたら、すぐにここを出る。おまえは、いますぐ新野を出ろ」
「わかっている、わかっているけれど、それだけじゃないんだよ」

言いながら銀兎は、自分の背後にいる男のほうに、陳到が気づくように、ちらりと目線を向ける。
銀兎の視線を追えば、そこには、なんとも形容しがたい、派手な男が立っていた。
おそらく南方の蛮族の衣裳なのであろうが、悪趣味ともいえそうな、派手な色合いに珍妙な柄のころもを鎖帷子の上から羽織り、漢族の武将がみなそうするように、片肌だけ脱いでいる。
髪型も奇抜なもので、髪を高くてっぺんで結い上げたあと、そのまま巾でまとめることなく、馬の尾っぽのように背中に垂らし、その垂らした髪に、複雑に美麗な組みひもを編みこんでいる。
生来のくせ毛であるらしく、顔にかかる髪は、ゆるくたゆんでいた。
身の丈八尺はあるだろう。
肩幅が大きいために、自分も八尺ちかくある陳到より、ずっと大きく見える。

男は不敵な笑みをうかべながらも、背後に数名の部下を引き連れていた。
この部下たちもまた、男とおなじように奇妙な出で立ちをしており、頭をすべて剃りあげたうえでわざわざ入墨をほどこしているものや(罪人ではないらしく、入墨の模様は、その加護を得ようとしているものか、洗練された意匠にまで高められた『龍』であった)、とりあえず髪はまとめているものの、肩までしか髪がないために、まるで出来損ないの笠をかぶっているように見える男など、いかにもうさんくさい。

しかし、ふしぎと、かれらからは敵対心は感じられないのだった。
それどころか、かれらは武器を持っていない。
武器のたぐいは、おそらく新野に入場するさいに、敵意はないことを示すために、門衛にすべてあずけたのであろう。
その律儀な門衛は、かれらの武器をかかえて、うしろから迷惑顔をして、ついてきていた。

「貴殿、名のあるお方とお見受けしたが、御名をお聞かせいただきたい」
と、その派手な男は、真夜中であろうに、ひどくはきはきと、よくひびく声で言った。
そのよこで、銀兎がそっと、陳到に耳打ちする。
「ここに戻ってくる途中で会ったんだ。そばに、七百人くらい待機していたよ。みんな立派な馬に乗っていたよ。
傭兵なんだってさ。流賊にしちゃあ、身なりが、わりとマシなほうだと思うけど」

さすがは元舞姫の観察力で、そこは信頼できると、陳到は思った。
傭兵。そして、敵意が無い。
このことからあわせれば、曹操から派遣されてきた、降伏勧告の使者というわけでもあるまい。
戦の気配を聞いて、食い扶持にあずかろうと、さっそくあらわれた流賊の一派にちがいなかった。

「わたしの名は陳叔至と申す。趙子龍の副将をしておる。あいにくと、この城には、いま主公はおられぬ」
すると、大作りな顔に、人懐っこい顔をした男は、眉をひらいた。
「ほう、それでは、貴殿の上役たる趙子龍どのが、この城を預かっておられるのか」
「いいや、趙将軍ではなく、趙将軍が主騎をつとめておられる、軍師の諸葛孔明どのが留守をあずかっておられる」
孔明の名をだすと、あきらかに男の顔が喜色にかがやいた。
「諸葛孔明どのか。その名にはおぼえがある。これはさいわいだ。すまぬが陳叔至殿、われらを諸葛孔明どのに、引き合わせてもらえぬだろうか。われらは見たとおり、流賊でしてな。新野はいま、手薄だときいてさっそくやってきたのだ」
「それはかまわぬが」

慎重に答えつつ、陳到は、引き合わせるべきか否かとかんがえた。
実際に、新野の力は三つに分断されていた。
女子どもを守って逃げている関羽、それから樊城にむかっている張飛と劉備、劉備を待って新野に留まっている孔明たちである。
しかし孔明たちは、この数日間の戦いによって疲労しきっており、いますぐ曹操が現われた場合、太刀打ちできるかは、じつにあやしい。
たとえ七百名であろうと、味方ができることは、よいことだ。

だが、信頼できるのか。
かれらこそ、実は曹操の送ってきた、内部に入り込むための尖兵であったらどうする。

なおも逡巡していると、男は、焦れた様子もなく言った。
「われらを雇う、雇わないのまえに、ほかに是非、お耳にいれておかねばならぬことがあるのだ」
その男の言葉を補足するかのように、銀兎も口をはさんできた。
「そうなんだよ、だからあたしも、子どもを預けて、戻ってきたんだ。新野の農民たちが、ぞろぞろと新野城に集まってきているんだよ。
これって、軍師の指示じゃないよね? あの方は、曹操は、今度は抵抗しない者にはなにもしないだろうって、言い切っていたものね」
新野に農民たちが集まっている。
その言葉を聞き、陳到はくらりと、めまいをおぼえた。

最終回につづく
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