七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 十七回目

目の前にいる、五つ年下の青年は、狂騒の数日間が嘘だったように、疲労の色もさほどみせず、いつもと同じような輝かしさでもって目の前にいる。
その表情は真摯なもので、こちらの表情のわずかな動きも、見逃すまいと神経を張りつめているかのように思えた。

しばしの沈黙。

「なにか返してほしいのだが」
沈黙に耐えかねたのか、それとも人といるときには、じっとしていられない性分が顔を出したのか、孔明は困ったような表情をうかべて趙雲を見た。
その言葉に、趙雲は、孔明の顔を見つめたまま、ああ、と生返事をすることしかできなかった。
あまりに突拍子のない名前であった。
その名前を、口にすることすら、どこかおそろしいことに感じられる。
たとえ漢王朝の威光がおとろえた今日であってさえ、趙雲は少年のころに徹底して漢王朝は敬うようにと教え込まれていたから、すでに帝に実権はないということはよく理解しているものの、どこかでそれを批判することに抵抗をおぼえてしまう。
それだというのに、孔明は、壷中や、そして蘭たちの頂点が、帝であるなどと、奇妙な回答を示してみせる。
趙雲としては、そうだったか、などと膝を打つわけにはいかなかった。

最初は真摯で張りつめたものであった孔明の表情が、どんどん困惑がつよいものになっていく。
その様子から、孔明もまた、自分で口にしたことに、どこかで畏れをおぼえていることがよくわかった。
おそらく、この時代において、帝というものを真に敬っている者がいるとしたら、それはその実体をなにも知らない者たち、つまりは無学な民草だけであろう。
なにもわからないからこそ、盲目的に信じることができるのである。
孔明は学友たちと諸国を見てまわった過去があるから、世がどれだけ乱れているかを、やはり趙雲とおなじように見知っている。
見知っていて、理解していてもなお、やはり同じように、おのれの言葉に落ち着きをなくしているさまを見て、趙雲はすこしばかりホッとした。
あまりに向こう見ずで大胆すぎるものは、命を縮めやすい。
孔明は大胆だけれども、慎重である。
そのことに安堵したのだった。

「おまえ、そのことを、ほかの誰にも言っていないだろうな」
趙雲のことばは意外なものであったらしく、孔明はおどろいて愁眉をひらいた。そして、素直にうなずく。
「言っておらぬ」
「ならば、よし。迂闊に、ほかのだれにも言うなよ。正気を疑われる。とくに、主公のまわりでは駄目だ。反発を食うどころではない。命を狙われるかもしれん」
「命を狙われるとは、穏やかではないな」
「事実だ。いいか、われらの主公は、はっきりと口に出したことはないが、おそらくは心の底から帝をお助けしようなどとは思っておらぬ。それはおまえも気づいているはずだ」
孔明は、趙雲の指摘に、しばしためらったが、わずかに間をおいてから、うなずいた。
「そうだな。気づいている」
「だが、あくまでも主公の掲げる名目は、帝をお助けすることだ。これに惹かれてあつまっている人間は多い」
「だから、沈黙せよと? 意外に容赦ないな」
孔明は趙雲の見せたあたらしい面を、意外に思いつつもよろこんでいるようだ。
頬にわずかな笑みを浮かべている。
そんな様子を小憎らしく思いつつ、趙雲はつづけた。
「いまさら、おまえに取り繕ったことばを向けても意味が無いからな」
「おや、それはいいことばだな、気に入った」
「茶化すな。話を戻すぞ。なぜ、主公に、本気で帝を擁立する気がないと思う」
「帝そのものに、すでに実権がないうえに、実権をまかせられる人格ではないと見抜いておられるからだ」
「そうだ。だからこそ、おまえの話は辻褄があわない。覇権を担うに値しない人物に、壷中や蘭たちを操れるとは思えぬ。曹操が噛んでいるというのなら、またちがうが」
「国を導くちからがあるかどうかと、壷中のような組織をあやつれるかどうかとは、ちがうだろう」
「なんだと?」
「高祖より漢の歴史はつづいて四百年。この長きにわたり、漢王室を支えてきたのは、群臣ばかりではなかったはずだ。漢王室を守るという、ただそれだけを純粋に使命とする組織、そういったものが存在していても、なんら不思議ではない。
たとえ中心となる人物に力がなくても、その周囲に優秀な者があつまっていれば、その集団は立派に機能する。
現に、劉表は心身ともに病み荒み、壷中を組織出来る状態ではなかったが、風狗や、播天流がいたから成り立った。おなじことが、帝を中心にした組織にもいえるのではないか」
「つまり、帝の側近たちが、壷中の元になった組織を、いまもあやつっているというのか」
「おそらく。そう考えると、自然だろう。壷中という組織は、夏侯蘭たちが所属していた組織の模倣だったのだ。
その組織は、正当な劉氏の血統を守ることに身命を注いでおり、そのためには、人の体を拷問まがいの手法で変えてしまうことすら辞さない狂気を持っている。
人は漫然として暮らしているよりも、なにか強い信念、あるいは欲望に取り付かれている状態のほうが、狂気を爆発させやすいものだ。
劉氏の血統を守らねばならぬという、一見すると正義のようではあるが、しかし現実には即しないその信念が、その組織では絶対のものなのだ。つまり、正しくない正義を守らねばならぬということろから始まっているがゆえに、その組織は歪まざるをえない」
「愚かな。そんな組織を編成しているヒマがあるのなら、ひとりでも多くの民を助ければよいものを、そうではなく、帝と、その側近とやらは、おのれの身を守ることだけに専念しているというのか」
「ずばりそうなのだろう。だからこそ、今日の状況があるというわけだ」

孔明はここで言葉を切り、そして趙雲も沈黙した。
証左はなにもないのであるが、ここで帝を頂点とした、劉氏の血統を保たねばならぬという信念に取り付かれた組織がいるとする。
とすると、かれらは『帝の敵』をつぎつぎと排除する方向に動いているはずだ。
しかし劉備も、劉氏のはしくれなのであるし、その組織の信念からいえば、敵ではないといえないだろうか。

「劉氏の血を守ろうとしている連中がいるとして、ならば、なぜ帝はそいつらを使って、曹操を討とうとしないのだ」
「してはいるのだろう」
と、孔明はあっさりと答えた。
「だが、曹操が、かれらを上回るほどの知恵者なのだ。それに、現実に、いまの曹操の力に対抗しうるものはいない。仮に曹操への暗殺が成功したとしよう。
そうしたら、帝が実権を握れると思うか? 
曹操は、見事なまでに、自身の側近に、漢王室への忠心が高いものを排除している。軍師の荀彧が帝の擁護をとなえているようだが、それゆえ、曹操は荀彧と距離をおくこともあるそうだよ。
曹操がそれでも荀彧をそばにおいているのは、荀彧自身の能力を惜しんでいるからであると思う。曹操らしい考え方だ」
「まるで曹操に心服しているみたいだな」
趙雲が言うと、孔明はその目で、ちろりと趙雲をにらんでいた。
「それこそ滅多なことを言うな。わたしは、あの男を理解はしているが、心服なんぞ、これっぽっちもしておらぬ」
趙雲が悪かったと素直に言うと、孔明は小さくため息をついたあと、話をつづけた。
「理解と好意は別なところにあるよ、子龍。それはともかく、おそらく、曹操は、自分が倒れても、つぎに統帥権をにぎる者が帝を擁立しようと考えないように、ちゃんと計画をしているのだと思う。
ほんとうに仮の話であるが、もし曹操が不意に死ぬようなことがあったとしても、つぎにその地位を襲うのは、おそらくは一族のだれか、あるいは夏侯氏のだれかだろう。わたしが曹操だったら、そうするからな」
孔明のことばに、さすがに趙雲は顔色をかえた。
そして、周囲になんの気配もないか、あらためて探ってから、顔を戻す。
「迂闊なことを口にするな。曹操とおまえをなぞらえて、おまえが主公に対しても、そんな考えを持っているのだと誤解されたらどうする!」
すると、孔明は、なにを言い出す、という顔をして、口をとがらせた。
「だから、仮定の話だ。さっきから、どうも及び腰だな。主公と帝はちがうぞ」
「及び腰にもなるぞ。おまえは、口が軽すぎる。軽薄と大胆を履きちがえるな。おまえのいた隆中では、自由な論議がゆるされたかもしれないが、ここはそうではない。劉氏に対して不遜なことを口にするのは、いまだに禁忌なのだ。おまえは、奇妙に人を信用しすぎる」
趙雲のことばに、孔明は不機嫌そうに首をかしげた。
「どういう意味だ」
「言葉のままだ。自分が人の言葉をたやすく流せてしまうように、人もまた、自分のことばを流せてしまえるものだと思うな。
おまえはたぶん、他者の気持ちを、ふつうの者よりもおおく想像できるのだ。相手の心の動きが想像できるから、ひとより多く同情できるので、滅多に本気で怒ったり恨んだりするということがない。
だが、俺を含めて、ほかの者はちがう。ちいさな言葉にいちいち腹を立てて、恨んだり、報復を考えたりする。おまえの言葉には、つよい力があるのだ。的確で容赦が無いだけに、受け止める者に対する影響もつよくなる。
おまえが言葉あそびのつもりで投げた言葉が、殺意すら呼ぶかもしれないということを、自覚しておけ」

打てば響くといった反応をかえしてくる孔明だから、おそらくはすぐに、そうではないと反論してくるだろうとかまえていた趙雲であるが、孔明は一向に言葉をかえしてこない。
見れば、気むずかしい顔をして、腕を組み、なにやらじっと沈思している。
怒ったのだろうかと思いつつ、趙雲は気まずいながらも孔明の言葉を待った。
が、やがて目を開いた孔明の顔には、おどろきと、かすかなよろこびが浮かんでいた。思わぬ反応に、またも趙雲はたじろいだ。
「なんだ」
「なんだもなにも。おどろいた」
「俺の言葉にか」
趙雲が言うと、孔明は、またも勝手のわからぬことに、ちいさく声をたてて笑った。
「それもそうだけれど、あなたの中に、わたしがいることにおどろいたのだよ。徐兄だって、そんなふうに、わたしのことを言ってはくれなかった」
「また妙な言い回しをする。俺のなかにおまえがいるものか。見たままを口にしただけだ」
「だから、あなたはわたしを見た眼だけではなく、内面の奥の奥まで見てくれているのだよ。これはすごいことだぞ、子龍。あなたが強い理由がわかった気がした」
「強いとは、どういうことだ」
「新野に軍師としてやってきてから、武将たち全員の演武を見たけれど、技能では、あなたより優れている者はいる。
けれど、あなたのよさは、実戦で出るのだ。つまり、相手がいると光るのだよ。
なぜだろうと思っていたけれど、やっとわかった。
つまり、あなたは人を見る目がとても長けていて、相手がなにを考え、どう行動するかのおおよその予測を立ててしまえるのだ。
つまり、それだけ正確に人を見ることができるということだよ。だれかに指摘されたことはないか」
孔明に言われて、趙雲はしばし考えたあと、首を振った。
「いいや。ないな」
すると、孔明は少年のように、うれしそうに顔をほころばせた。
「ならば、あなたのよいところを最初に見つけることができたのは、わたしだな。子龍、敵の心を読めるその技術を、普段にも使えば、きっとあなたは、だれよりも抜きんでて優れた武将になれるだろう。
そうしたら、きっとわたしの助けとなってくれるだろうね」
「なぜおまえの」
「こういうものは、先に言ったもの勝ちなのだ。あなたは武将という器だけではおさまらない人になるかもしれない」

孔明は、どうやら無邪気に思ったところをのべているようであるが、趙雲は、その言葉のひとつひとつに、心ではうれしいとおもいながらも、どこかで不吉なものをおぼえていた。
それは自分の心の中にあるものをひどく暗く刺激してくる。
こころよいと思うのと同時に、違和感、あるいは嫌悪感もつれてきた。
この奇妙な感情の正体をさぐろうとすると、心の別なところから、それは止めたほうがいいと警告が発せられる。
そこにもまた、行く手にある不吉な運命が感じられて、趙雲は落ち着かなかった。
もどかしいことに、孔明はそれに気づいていないようすである。

趙雲をよそに、孔明は少年のように目をかがやかせて言う。
「当たっているのだか、当たっていないのだかよくわからない曖昧な言葉をもらうと、不安に思ったり、腹を立てたりするものだけれど、こうもぴしゃりと当てはまると、感心するしかないものだということを、初めて知ったよ。あなたは、本当になんだって、わたしをいろいろ助けてくれるのだろう」
「俺はおまえを助けたのか? なんだかよくわからぬ」
わざと突き放すように乱暴に言うと、孔明は、めずらしいことに、ひるんだ表情を浮かべた。
「すまぬ」
思わず謝ると、孔明のほうがおどろいて、
「いいや」
と、すぐに切り返してきた。

奇妙に白けた空気が、ふたりのあいだに流れた。
こうしたとき、すぐに現実に立ち戻れるのが、武人である趙雲のとりえのひとつである。
咳払いをひとつして、趙雲は表情をあらためると、孔明に言った。
「壷中の裏にあるものがわかったとして、それがいまの状況の何の役にたつ。俺たちが目下、相手にしなければならないのは、曹操だろう」
「だから、曹操であり、壷中…本当になんと言う名前なのかはわからないから、壷中と便宜上呼ぶとしようか…このふたつなのだよ」
「どういうことだ」
「曹操は帝に統帥権が行かないように気をつけている。この状況で、帝や壷中が曹操を追い落とし、国の主導権を回復させることはできないだろう。それは、傍からみているわれらよりも、当の本人たちのほうが、よほど実感して判っていることだと思うのだ」
「それで」
「たとえ曹操を追い落とし、実権を握ったとして、この乱れ切った世の中をまとめる力が自分たちにはないことも、かれらは知っているのだ。
だから、かれらはこう考えているのだ。『曹操をつかって天下を統一させ、そのあとに権威を回復させよう』とな」
「曹操を利用しているということか」
「官渡のときから、もうすでに帝と壷中の方針は決まっていたのではないのかな。漢王朝の復興を願う者たちが、なんだって袁紹の陣のなかに入り込んでいたかの回答がこれだ。
万が一、袁家が曹操を破れば、中原の覇者はだれがなんといおうと、袁家になるだろう。袁家が漢王室をないがしろにするであろうことは、袁術の件からしてもあきらかだ。
劉氏は帝位から追われ、袁氏があらたにこの国の頂点に立つ。そのような事態は、なんとしても食い止めねばと思ったにちがいない」
「袁氏の天下取りを阻止しようと、連中は動いていたというのか。袁譚の周囲に深く潜入して。
いや、それもおかしい。蘭たちは、袁紹の元で細作として鍛えられ、その後、劉虞のもとで壷中に取り込まれた。つまり、袁家を一度は裏切ったことになる。袁家は、戻ってきた蘭たちを、許したということか?」
「許したのだろう。叔至の上役であった紅霞を追い落とした妖童たちをつかって、袁譚を籠絡し、内部に潜入した。有りえないことではない。
叔至から聞いた話でもわかるが、なにせ、袁家は、自分たちの大将の仇である関羽が自分たちの陣にいると知っていても、なにも手出しをしようとしなかったというくらいに鷹揚というか、勝利を信じきっていたためか、感覚が鈍磨していたようだからな」
「ややこしいな。つまり蘭は、袁紹によって刺客となり、武器として劉虞に輸出され、しかし途中で主を鞍替えし、その者の命令により、袁紹のもとに戻ってきたフリをしたと」
孔明はつよくうなずいた。
「そう。ここで曹操の思惑が絡んでくる。曹操は一筋縄ではいかぬ男。壷中の存在を知り、これを利用することを思いつくが、しかし、壷中の側は漢王朝復興を目指しており、曹操を警戒している。
では、曹操はどうするか。
かれらのもっとも大事な人物を人質に取ればよい。つまり、帝だ。
壷中は、仕方なく、曹操のために袁紹の陣内の動きの情報収集をする。しかし、かれらは、ただの曹操のお使いではない。ちゃんと自分たちの仕事もしたのだろう。
劉氏を危うくした袁術の所縁の娘(あるいは品)がいる(ある)と知り、これを地上から消すために動く。だから叔至の奥方は狙われたのだ」



孔明を相手に昔話をしていたせいか、こうしてひとりで焚き火をしていると、袁紹のもとから逃げて、荊州へと向かっていたときのことを思い出す。
火かき棒で灰をかきまぜながら、陳到は、生きもののように美しく踊る炎を、じっと見つめていた。
見つめながらも思いを馳せるのは、先に劉備の夫人たちと逃げた妻と子供たちのことである。

いまごろはどのあたりにいるのだろう。
樊城に近づけば危ういことは判っているから、迂回してひたすら夏口を目指しているはずだ。
たとえここで命が果てることになったとしても、妻と子どもたちは無事でいてほしいと、陳到は心から祈っていた。
そして、火かき棒を掴むおのれの手が、なさけなくも震えていることにきづいた。
曹操がおそろしくて震えているのではない。
妻や子たちとの別れの悲しさに震えているのである。
いつ死んでもおかしくない細作として働いていた。
そのあとに、贈り物のように得た七年間での新野の平穏は、どうやら自分から、かつての牙をもいでしまったようである。
この平穏も、やはり、無辜の民の、血と涙で築かれたものであったと判ってもなお、陳到は過ごした七年間が恋しかった。
人生で、これほどに豊かで楽しかった日々は、もうないかもしれない。

おなじ部将たちのなかには、足手まといになるからと、七年のあいだに連れ添った妻子と離縁した者もすくなくない。
孔明の話によれば、曹操は、徐州のときとちがい、荊州を足がかりに江東を狙うはずであるから、不用意に足元をぐらつかせる材料を増やそうとは考えないだろう、つまり、無抵抗の民を虐殺するようなことはないだろうということだった。
しかし、逃げる劉備とその一行に対しては、容赦しないであろうことは想像がつく。
離縁してしまえば、妻や子どもたちは助かったかもしれない。
だが、陳到にはそれは耐えられなかったのだ。
家族をうしなうくらいならば、死んだほうがはるかにましというものだった。

あの夜も、やはり、こんなふうに、風が出ていた。
逃げる劉備の一行に、銀兎を狙った夏侯蘭とかいう者たちが襲ってきた夜の、そのあとの話である。



銀兎を襲ってきた者たちは、また襲ってくるだろうか。
銀兎は袁術の娘なのか。
劉備を中心に、簡雍と趙雲、そうして陳到が話していると、突然、幕屋の入り口が開かれ、ほかならぬ糜夫人が、息を切らせて入ってきた。
「ああ、子龍殿、叔至殿も一緒でよかった! 大変なのです、どうか、急いで!」
髪を振り乱しあらわれた糜夫人の様子に、劉備は立ち上がり、たずねた。
「なにがあったのだ?」
そのとき、糜夫人の背後から、ぬっと山のように大きな姿がつづいた。関羽である。
「兄者、申し訳ございませぬ。兄者が子龍たちを連れて去って行ったあと、みな、しばらくは大人しくしていたのですが、しかし、死人を葬る段になり、また興奮しだして、こんなことのきっかけをつくった、銀兎という娘を探し出し、吊るしてしまえと騒ぎになってしまったのだ」
「なんですと?」
趙雲と陳到は、たがいに顔を見合わせた。そして、意気込んで関羽にたずねる。
「銀兎は、どうなりましたか?」
「すまぬ、二人とも。みなを抑えられなかった。銀兎殿のいる馬車をみなで取り囲んで、火をかけようとする者まであらわれた」
「なんと! なぜ止めて下さらなかったのです!」
無力な娘にたいする暴力に、怒気をあらわにする陳到に、糜夫人は言った。
「いいえ、雲長殿はよくやってくれました。とりあえずは、だれも傷つけずに済んだのですから」

誰も傷ついていない、という糜夫人の言葉に、安堵した陳到であるが、しかし、関羽のしぶい顔を見て、楽観するのを止めた。
関羽は、おのれの責務を果たせなかったことを恥じているらしく、伏目がちに言った。
「義姉上、誰も傷ついていないというのは、ちがいますぞ。天晴れなのは、銀兎という娘でございます」
銀兎のことを、偽帝のご落胤ではないかと疑っていた劉備は、その名に、すばやく反応した。
「銀兎がどうしたい。ぶじなのだろうな」
「あの娘は、みなに馬車を囲まれると、中には怪我人がいるから、騒ぐのはやめて欲しいと申しまして、みずから、馬車から出てくると、こう言ったのだ。
このままわたしがここにいては、迷惑がかかる。ならば、わたしがここから出て行きましょうと。そして、ひとり、森の中に入って行ったのだ。
その堂々とした姿に、みなも騒ぐことをやめて、いまはおとなしくしておる。すまぬ、二人とも。われらには、なにも出来なかった」
陳到は愕然として、叫んだ。
「莫迦な! 森には野犬もいるであろうし、蘭たちも潜んでいるかもしれぬ!」
「なるほど、こりゃあ、銀兎っていう娘が、袁家の血を引いていても、おかしくないな」
と、簡雍が呑気なことを言うが、しかし糜夫人は、興奮した様子で、涙目になりながら、陳到と趙雲に言った。
「ごめんなさい、二人とも。兵卒をすぐに追わせようとしたのですけれど、みな気が立っていて、わたくしの言うことも聞いてくれないのです。あの子は、いまひとりで森にいるのです。どうかいますぐ追いかけて、助けてあげて!」
返事をする間も惜しんで、陳到は、幕屋から飛び出すと、銀兎と紅霞の乗っていた馬車に向かって、走り出した。
空には、銀兎がほしいと言った月が、銀の光でもって、陳到の足元を照らしてくれていた。


人々はまだ眠らずに、あちこちに焚かれた火を中心に、くつろいだり、あるいは雑談に花を咲かせたりしている。
とても、関羽や糜夫人が言うように、たったいままで、かれらが暴徒と化していたことが信じられない、穏やかな様子であった。
個々では無力な民衆が、ひとたび群集となると、どれだけの力を発揮するか、そのおそろしさを、細作である陳到はよく知っている。
知ってはいるが、まるで何事もなかったかのように過ごしているかれらの姿に、さすがに波立つものがあった。
かれらを責められないことは、頭ではわかってはいるのだが、感情がおさえられないのである。
それでも、自分を騙し騙し、陳到は、かれらのあいだをすり抜けて、馬車まで走った。
暗闇のなかでも、場所の所在はすぐに知れた。
関羽の兵卒が、馬車のまわりで警護をしてくれていたからである。
警護兵は、陳到を阻もうとしたが、いちいち事情を説明していられるほどに、陳到は冷静ではなかった。
かれらを跳ね飛ばすようにして馬車に近づき、その幌をかき上げた。
「紅霞!」
驚いたことに、紅霞はあれほどの深手を追っていたにもかかわらず、起き上がって、馬車の奥で身をすくませていた。
陳到が幌をかき上げると、びくりと身を震わせたが、生きているのはちがいない。
陳到はふかく安堵した。
「わたしだ。怪我はないか?」
陳到がたずねると、奥で身をすくませている紅霞が、問いかけてきた。
「だれ? 叔至さんなの?」
その声を聞いたとき、陳到はまさに心臓が潰されたような、はげしい痛みをおぼえた。
「おまえ、なぜだ? 銀兎なのか?」
「そうだよ、あたしだよ」
声を震わせながら、銀兎は、せまい馬車の中を這ってちかづいてきた。
馬車の側に立つ警護兵のために焚かれた篝火が、はっきりとその大きな瞳を持つ顔を照らし出した。
絶句している陳到に、銀兎は泣きべそをかきながら訴えてきた。
「ああ、よかった。本当によかったよ。来てくれたんだね」
「無事か」
唖然としたまま発せられた陳到の問いかけに、銀兎はうなずくと、なみだに濡れた頬を、陳到の胸にこすりつけてきた。
「怖かったよ。ほんとうに怖かった。みんなして、銀兎って娘を出せっていって、取り囲んでさ、馬車を揺らすんだよ。あたしたち、このまま殺されちまうのかって思った。なんだって、あたしばっかりこんな目に遭わされなくちゃいけないのさ。本当にどうなるかと」
あたしたち。その言葉に、陳到は我に返った。
「銀兎、紅霞は? 紅霞はどうしたのだ? どこにいる?」
銀兎は答えようとして、声にならず、そのまま顔を伏せて涙にむせび、嗚咽をはじめた。
「泣いていてはわからぬ。答えてくれ! 紅霞はどこだ?」
揺さぶると、銀兎は、大粒の涙を流し、顔を大きく崩して答えた。
「ごめんよ、あたしの所為だ。みんなに馬車を取り囲まれたとき、あたし、すっかり怖くなって、死にたくない、死にたくないって騒いだんだ。
そうしたら、紅霞さんが、どうせわたしはもう長くはもたない。このままではおまえも死んでしまう。それではあんたに済まない。幸い、ここの連中は、あたしの顔を知らないだろうから、自分が銀兎になりすますので、大人しくしておいでって、あんなに怪我をしているのに、あたしの身代わりになって、出て行ったんだ」
「なんだと?」
「ねえ、あのひと、どうしたの? まさか、みんなに捕まって、殺されちまったんじゃないよね?」
「いいや」

関羽はなんと言っていただろう。銀兎はひとりで森へ行った、と言っていなかったか? 
あんな深手で、たった一人で、森へ?
「あの莫迦!」
陳到は、銀兎を馬車に置いて、ふたたび走り出した。
月の光も届かない、鬱蒼とした森の中へ。

わたしに済まないとは、なんだ? 
走りながら、怒りと焦りと恐怖がないまぜになって、なにも考えられなくなっていた。
ただひたすら頭に浮かぶことは、どうか無事でいてほしい、という一念であった。

十八回目につづく
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