七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 十三回目
銀兎を襲った者たちが、ふたたび襲ってくるのではと、その気配を探りながらの道中であったが、日が暮れるまで、何事も起こらなかった。
趙雲も、陳到も、ほとんど眠らずにすごしている。
疲労がまったくないと言ったら嘘になるが、敵がどこかに潜んでいるかわからぬ状況では、神経が騒ぎ立て、眠気も襲ってこない。
星がまたたきはじめ、遠方より、不気味な野犬の吼え声が聞こえてくるようになった頃、一行は森のなかで休憩をとることになった。
殿(しんがり)をつとめている関羽から、追撃者がせまっているという報告はない。銀兎たちを襲ったものが、劉備をも追っている追撃者だとすれば、話はちがってくるのだが…
「叔至さん、紅霞さんが、目が覚めたみたいだよ」
と、馬車のなかで紅霞を介抱していた銀兎が、陳到を呼んだ。
蝋燭を分けてもらい、そして馬車に入ると、蝋燭の明かりがまぶしいのか、薄く目を閉じた紅霞の顔が、すこし歪んだ。やはり、血の気がない。
「薬は飲んでくれたよ。あと、粥もすこしだけ」
「食欲はあるのか。ならばよかった。熱のほうはどうだ」
「あんまり下がっていないみたい。頭痛がするって言っているよ。ねえ、もうすこし、馬車の足を遅くすることはできないのかい」
じつは、陳到はそれを考えていた。
劉備たちとはまた別に動いて、紅霞の容態に合わせて、あとから荊州へ向かうのだ。劉備ならば、事情を話せば、こころよく承知してくれるだろう。
「足を弛めてはならぬ。追撃者は迫ってきているのだろう。ならば、わたしたちが単独で行動しているとわかった時点で、連中は襲ってくる。
それに、このあたりは野盗も出るぞ。寒蝉ひとりで立ち向かうのはむずかしかろう」
口を動かしたのは、紅霞であった。
青白い唇を動かして、うっすらと目を開き、陳到に顔を向ける。
「半端な情に振り回されるな。人の力というものは、おのれを守るためだけに備わっているのだと、わたしはおまえに教えたはずだぞ」
「たしかに、言われたことがある」
「ならば、何度も言わせるな。余力があるならば、助けるがいい。しかしそうでないのならば、見捨てよ。わたしは、それでおまえを恨んだりはせぬ」
「なにさ、むつかしい理屈言っちゃって。あたしは、これ以上、だれであろうと死ぬところなんて見たくないよ!」
と、横から口を挟んだのは、銀兎である。
銀兎は、最初こそ紅霞とおなじ馬車に乗ることを怖じていたが、やがて面倒見のよい性格を発揮して、かいがいしく看病をしてくれた。
おかげで、陳到の負担は、だいぶ軽くなったのである。
一方、紅霞のほうは、銀兎の世話を受けながらも、自分を斬った者のことを考え、複雑な思いでいるのが見てとれた。
女だてらに細作の長をしていただけに、なまじなことで表情を表に出さないが、その微妙な変化は、陳到であるから読み取れるのである。
陳到は、紅霞に、銀兎と、銀兎の兄たちの一行が、追っ手に襲撃され、ことごとく殺されてしまったことを説明した。
そして、追っ手が、どうやら銀兎を目指しており、銀兎の兄も、そのことを知っていたふしがあることも説明した。
「たしかに若君の性格からすれば、頭を踏まれたことで、恨みに思って追いかけさせることもあるかもしれないが」
と、紅霞は言いながらも、青白い顔を怪訝そうに曇らせる。
「しかし、それとて後回しにすべきことであろう。この娘の仲間は、たしかに命を狙う不埒な輩にちがいないが、大きく見れば、私憤で動く小物にすぎぬ。天下を得るためには、まずは先に、大所帯で、世の評判も高い劉玄徳を討つべきだ」
「小物で悪かったね」
「すまないな。言葉を選んでおられぬ。おかしなことはもうひとつある。位置的に見れば、連中は、劉玄徳の一行…つまりは、われらをわざわざ追い越して、旅芸人の一座を襲ったことになる」
「やはり、連中はわれらがそこにいると知りながら、あえて銀兎たちを追ったというのか」
陳到が問うと、横になったまま、紅霞は頷いた。
「これだけの大所帯なのだ。しかも、足が遅い。よほどの間抜けでないかぎり、見つけられないということはなかろう。旅芸人を襲った連中にとっては、劉玄徳の首よりも、この娘のほうが重要だったということだ」
「けど、あたしなんて、本当にただの芸伎なのに!」
おのれを狙う者たちに対する恐ろしさに、銀兎は、腕で体を抱き込むようにして、ぶるりと震えた。
「娘、おまえたちを襲った人間は、おまえを狙っていたのだね?」
紅霞が問うと、銀兎は、体を庇うような姿勢のまま、こくりと頷いた。
「兄ちゃんは、そう思っていたみたい。だから、別の子をあたしの身代わりにしたんだ。でも、なぜなのだろう。あたしは、本当にわからないよ」
「おまえを狙うとなると、おまえが若君を踏みつけにしたから、という理由しか浮かばぬが、ほかになにか理由があるのだろうか。おまえの家は、偽帝にお仕えする武人だったというが、おまえの家は、密命を帯びていたとか、ほかになにか特別な理由はなかったのか」
銀兎は、家のことに触れられると、押し黙ってしまったが、紅霞も陳到も、忍耐づよく反応を待った。
どちらにしろ、狭い馬車のなか、重傷者をかかえ、語り合うこと以外、なにもすることがない。
そんななかで二対の目に見つめられれば、気詰まりになって、口を開かざるを得なくなってくる。
しばらくして、銀兎は言った。
「あたしは家のことは、ほんとうに、なにも知らないんだよ」
「自分の家のことだろう」
呆れた陳到と紅霞の顔を見て、銀兎は、年に似合わぬ、諦観のまじった笑みを浮かべた。
「そうだよね、自分の家のことなんだけれど、おかしいよね。でもさ、あたしが兄ちゃんの妹だと知ったのは、つい最近なんだよ」
「おまえは本妻腹ではないのか」
「そう。それまでは、おとっつぁんは早くに死んだっていう、おっかさんの言葉をずっと信じていたのだもの。でも、おっかさんも病気で死んでしまったので、あたしは、好きな舞で身を立てようとしていたのさ。
そうしたら、立派な身なりの人があたしを訪ねてきて、おまえは、わが父が若いみぎりに、屋敷に奉公していた下女に生ませた子であるとかなんとか言って、お屋敷に引き取ってくれたのさ。それが兄ちゃんだったんだよ」
そこまで言って、銀兎は、亡き兄の面影にこみ上げたのか、言葉を切って、鼻をすすった。
しかし、気の強いところを見せて、涙をこぼすことはせず、声をはげまして、つづけた。
「あたしの本当のおとっつぁんは、袁公路さまの宮廷の侍中だったんだよ。引き取ってもらえたときは、こんなのまるで夢みたいだと思ったね。本物のお姫様になれたのだからさ。
ところが、意地悪なことに、やっぱり夢だったのさ。あたしたちのお殿様は、劉備に攻められて領地から逃げなくちゃいけなくなった。あたしのおとっつあんも、兄ちゃんも、けんめいに、同じ家門の誼で助けてくれと、何度も袁紹に使者を送ったのに、袁紹には、のらりくらりとかわされて、ぜんぜん相手にしてもらえなかった。
結局、ようやく色よい返事が来たので、袁紹のところへ向かおうとする途中で、お殿様は亡くなってしまったのだよ。
そのあとは、悲惨だった。要領のいいやつらは、どんどん一行から離れていってしまって、兵も財宝も勝手に持ち出してしまった。あとに残されたのは、女や年寄りばっかり。
ふん、そんな一団が、物騒な街道をしょんぼり歩いていてごらんよ。盗賊にしてみりゃ、お宝がぞろぞろと、襲ってくださいとばかりに歩いているようなものじゃないか。何度も恐ろしい目にあわされた。最初はまとまっていたけれど、そんなことがつづいたから、ご家来衆も、散り散りさ。
あたしのおとっつぁんも、ろくな食べ物も薬もなくて、道中で疫病にかかって死んじまった。おとっつぁんは、ほんとうに立派な、忠義のひとだったのだよ。最後まで、お殿様とおなじ血を引きながら、自分たちを見捨てた袁紹が許せないって言いつづけていた。
そしてね、あたしたちに、高貴の身でありながら、流民に混じって死ななければならなかった帝の無念を、きっときっと晴らしてくれと、遺言したんだよ。
兄ちゃんは、おとっつぁんの遺言を果たすために、同じ親を亡くした遺臣の子をあつめて、旅芸人になりすまして、仇討ちの機会をずっとうかがっていたのさ。
昨日がせっかくのその機会だったってのに、あんたに邪魔されちまってさ」
と、銀兎は、陳到を、そしてちらりと紅霞を見た。その目線に険はない。
どころか、足を崩すと、横になっている紅霞に尋ねた。
「痛むかい? 剣で斬られるって、痛いものなんだろうね。兄ちゃん、あんたを斬るつもりじゃなかったって、すごく気にしていたよ」
それを聞くと、紅霞は深く息をつき、目を閉じた。
「死者を愚弄するつもりはないが、おまえの兄は、仇討ちに向いていなかった。剣筋でわかる。おまえの兄は迷いがあったのだろう。
本気で斬りかかっていたなら、あの距離だ。いまごろわたしの命はなかった。おまえの望みも、父の遺志を継ぐことなのか」
「わからないよ。兄ちゃんが望んでいたから、あたしも協力しただけなのだし…兄ちゃんは、あたしの兄さんってだけじゃなく、やっぱりどん底から助けてくれた恩人でもあるからね、兄ちゃんが良ければ良かったんだ」
「そういうものか」
紅霞も銀兎のことばにうなずいたが、薬が利いたのか、目を閉じてそのまま眠りに入ったようである。
馬車の窓の桟には、あいかわらず雀の欣欣が止まっていて、羽根を休めながら、馬車の中の様子を伺っている。
「兄ちゃんが生きていたら、袁紹がダメなら、劉備をやろうって言ったかもしれないけれど」
と、銀兎は独り言のように陳到に言う。
「あたしには、そんなのは興味ない。死んじまった皇帝陛下とも、会ったことがないし、世の中のややこしい勢力争いにも興味ないんだ。普通に暮らしたいんだよ。
そういうと、だから女は莫迦だって言われるかもしれないけれど、毎日のように、だれかが死ぬのを見ていたら、そう思うようになるものだよ。わかるかい?」
「わかるな」
陳到が頷くと、銀兎は安心したように顔をほころばせた。
「うん、あんたは話がわかる人だって、最初から思っていたんだ。あたしって、こう見えても人を見る目があるんだよ。あんたは、なんていうのかな、信頼できる人だ」
「そうか? それは嬉しいな」
「うん、自信を持っていいよ。さっきの趙子龍より、あんたのほうが、暖かい人だ」
そういって銀兎は笑うが、ふと、顔を冷たくして、目線を落とした。
「遠くで憧れていたほうがよかったな。あの人は、芯から冷たい人だよ。人を、人と思っていない」
「それは言いすぎだろう。そこまで冷たい人間ならば、おまえの仲間の埋葬を手伝ったりしない」
「そういうのじゃなくて、上手く言えないけれど、あの人って、誰にも届かないところに心がある感じがする。あんたには、あたしの言葉が届くけれど、あの人は、自分に都合のいい言葉しか、心の中に入れないというか、そんなふうなんだ」
「難しいことを言うものだな」
「舞姫なんてやっているとね、人と人の係わり合いとかに、自然と目が向くものなのさ。生きるためには、目の前にいる人間が何を考えているか、読まなくちゃいけないから。たまに、趙子龍みたいなヤツに当たることがあるんだ」
「ほう」
「それが小癪なことにね、あんたみたいな人よりも、趙子龍みたいに冷たいヤツのほうが出世するんだから世の中はやりきれないよ。ねえ、叔至さん、あんた、あたしの見立てをいいふうに裏切ってみせてよ。いつか、あの趙子龍を部下にしてみせて」
「うーむ、それは、そうだな、男子たるもの出世は狙うが」
答えつつ、陳到は、いささか照れた。
というのも、深読みすれば、銀兎の見立てを裏切ってみせるためには、銀兎には、ずっとそばにいてもらわねばならないということだ。
気まぐれな舞姫の、思いつきによる言葉なのかもしれないが、陳到は、銀兎の言葉に、年甲斐もなく、心をすこし弾ませた。
「そうだ、あたしが言ったこと、おぼえている?」
と、銀兎は眠る紅霞をちらりと気にしつつ、声を落として尋ねてきた。
「川岸で、月が欲しいといったことか?」
陳到が即答すると、銀兎はうれしそうに、大きくうなずいた。
「ほら、やっぱり、あんたいい人だよ。あたしなんかの話をちゃんと覚えてくれているのだもの。ねえ、月が欲しいっていう意味、わかった?」
「月? あの空に浮かぶ月であろう? あの月には、不老不死の薬を得た嫦娥という女神がいるそうな。その薬のことか?」
陳到は懸命に答えたのであるが、銀兎は声を立てて笑いつつ、首を振った。
「はずれ。月ってね、あばた面しているけれど、わたしは好きなのだよ。死んじまった、おっかさんもそうで、だからあたしに『銀兎』って付けたのさ。知っているかい? 月には兎が住んでいるの」
「月に住む兎か。ふむ?」
「寒蝉」
甘い空想に浸っていると、眠ったと思っていた紅霞に呼びかけられ、陳到は我に返る。
なにやら、気まずい。
「眠っていたと思っていたが…すまぬ」
「なにを謝ることがある、おかしなヤツだ。ところで、娘を襲った賊は、子どものような軽い足音だったと言ったな」
「ああ。北から流れてきた、あの妖童の一団であろうか」
公孫瓚が滅亡してほどなく、子どもを中心とする酷薄な細作の一団はやってきた。
そして、袁譚の寵を、紅霞から奪ってしまったのである。
「わからぬ。連中は、若君に仕えているのだぞ。若君は、劉備を襲うより先に、おのれを辱めた娘を殺せと命令するほどに愚かではないと信じたいが」
と、紅霞は、みずからの皮肉な運命に口を歪めて笑って見せた。
「大人が混じっていたようだというが、姿は見なかったのだな?」
紅霞の問いかけに、銀兎はみていない、と答えた。
「どうもおかしい。銀兎と言ったな。おまえには、おそらく、おのれでも気づいていない、なにかがあるのだ」
「なにかって、なにさ。あたしには、本当になんにもないよ! 隠し事なんて、なんにもしていない。本当だよ!」
銀兎は顔を青くして、大きく首を振った。それを見つつ、紅霞は言う。
「寒蝉、その娘を守ってやれ。やつらは、かならず、またやってくる」
その言葉に、陳到はうなずき、となりの銀兎もまた、おのれを狙う不気味な気配に、口を閉ざすのであった。
そんなふうに時は経ち、やがて正午も過ぎた。
劉備の一行は、いまだ後方に袁紹軍の立てる砂塵を見ることもなく、べつな襲撃者に怯えることもなくひたすら南へと向かった。
部下に有象無象を抱えている、というのは、いい事もある。
劉備の配下のなかには、山賊あがりが複数名まぎれていたが、これがなかなか役に立った。
それというのも、こういった家族連れの逃避行というのは、袁術の例を引くまでもなく、山賊や流民くずれに、格好の獲物として狙われるのが常なのである。
が、劉備の一行の場合は、おかしな話であるが、かつての仲間のいる、『あの劉備の一行』だ、というわけで、山賊側が義理立てをして、遠慮して、出てこないのだ。
おかげで劉備たちが気にすればよいのは、後方の袁紹だけだった。
劉備を先頭に、殿を関羽にして、一行はひたすら南を目指したのであるが、正午も過ぎたあたりから、徐々に一部に遅れが目立つようになってきた。
それは、兵卒の家族たちである。
もともと体力のよわい女子どもが多く固まっている一団だ。先行する騎馬兵との速さが、かみ合わなくなってきたのである。
関羽や劉備のなによりの恐怖は、ふたたび一行が四散し、それぞれに捕らわれて、離散の悲惨を味わうことであった。
だから、それを防ごうと、当然、この足の遅い者たちに合わせて動くことになるのであるが、これが、今度は騎馬で動く兵たちの不満を高めた。
このまま、足の遅い者たちに合わせていたら、すぐに袁紹軍に追いつかれてしまう。
いっそ、二手に分かれて動いたほうがよいのではないか。
糜竺たちが先発として向かった荊州に、先に騎馬兵たちが追いかけていって、そこで足の遅い者たちを待つほうがいいのではないか、というのである。
しかし、劉備はこの提案を蹴った。
騎馬の守りを失った者たちは、もしも追っ手に襲われたときは、どうやって身を守ればよいというのか。
そんな自分勝手な理屈に合わせてはいられない、というのである。
みなが、神経を張りつめていた。
陣内にすこしぴりりとした嫌な空気が生まれる。
こうした場合、現場の者たちと指揮を執る者のあいだをとりもつ、調停役を立てれば、だいぶ改善されるのであるが、疲れ果てた一行のなかでは、その知恵を出すものがない。
そんななか、関羽が、曹操のもとには、こうしたときに解決策を打ち出せる人材が揃っている、とつぶやいたことで、張飛が怒り出し、一瞬、斬り合いになりそうになった、という話が聞こえてきた。
関羽は、張飛の感情的な怒りを無視し、おのれの主張を引っ込めることなく、この陣には、軍師が必要だとつぶやき、劉備もまた、それに倣って、頷いたという。
日ごろは、堅固な絆でむすばれている主従であるが、いつどこで、追いつかれてもおかしくない、という状況で、満足に食事もできなければ、眠ることもできない。
そのため、些細なことで仲間割れも起こってしまうのだ。
そんななか、糜夫人は、具合のわるい甘夫人に代わって、足が遅くなっている者たちを励ますため、あえて自分たちも後列に入り、共に動くことにした。
もともとは、糜夫人のほうが身体が弱い性質なのであるが、気が張っているせいもあるのか、すっかり立場が逆転してしまっている。
これを守るため、趙雲も後続の列に加わることとなり、陳到もそれにつづく形となった。
一行は、必死に南に向かうのであるが、その足の遅さは、夕暮れに入ると共に、さらに目立つようになってきた。
不幸にも脱落する者さえ、ちらほらと出てきた。
しかし、これを助けるために、全体が足を止めてはいられない。
見捨てられたかれらは、このご時世である。盗賊に襲われる危険があることはもちろんのこと、夜になれば、山野にひそむ狼や野犬に襲われることもある。
強行軍のために、病を得る者も増えてきた。
それを乗せる荷車もいっぱいとなり、わずか一日で、劉備の一行は、早くも、その陣が抱えている弱点を露呈する形となった。
軍の全体に気を配り、全体に一貫した策を示すことができる者がいないため、勝手な風聞が発生し、あるいは、思い思いに動こうとしてしまって、まとまることができなくなりつつある。
関羽はよくやっているが、曹操のもとから戻ってきたばかりだという遠慮がどこかにあるのか、その命令は強い調子のものではない。
劉備は、こういうときに先頭に立って号令をかける男ではない。ひたすら受身になってしまうのだ。
そんな状況にあって、弱いものが一番にアオリを喰らって、落伍しまうのである。
南に向かって歩いていくなか、誰かが、そろそろ休憩だと言い始めた。
最前列を行く劉備たちは、遅れた分の距離を取り戻したいため、休むつもりなどなかったのであるが、後列のひとびとは疲れ切っており、勝手に休憩を取り始めてしまったのである。
殿(しんがり)の関羽は、後列と前列の動きがばらばらになってしまっているのを見ると、騎兵とともに前を行く劉備に、後列にあわせて、すこしでもよいから休みを取るべきだと進言するために、最前列に向けて馬を走らせた。
そのあいだの留守は、趙雲が預かる形になったのであるが、しばらくすると、一行の足が、まったく動かなくなった。
休憩をとってよいと、命令があったと言うのだ。それを聞くと、気を利かせてのことなのか、兵卒のひとりが、みなに高らかに言った。
「休憩だ。みな、荷物を降ろし、一箇所に固まれ。食糧は追って配給する。足を止めろ」
すると、他の兵卒たちもそれに呼応して、つぎつぎに、人々に荷を下ろすように伝令して回った。
やれやれ、休憩か、と思った陳到であるが、隣に立つ趙雲の顔は渋い。
「どうなれた。いまのうちに休んだほうがよろしいでしょう」
「それはそうだが、おかしいな。だれが休憩をすると言い出したのだ。関羽殿はまだ戻られていないというのに、先走りに過ぎるであろう」
夏の太陽は沈むのが遅いが、それでも夕刻も近くなれば、輪郭は識別出来るものの、人々の表情をはっきりと見ることはできなくなる。
ほっとして荷物をほどき、足を止める女や年寄りたちのなかには、それでも元気に周囲を駆け回る子どもたちの姿があった。
乾飯を取り出して分け合い、汲んでいた水を飲む者もいるなか、趙雲は、馬首をめぐらせ、表情を強ばらせる。
「叔至、おかしいぞ」
「どうなさいました」
「よく見ろ。数が多すぎる。子どもの数が、だ」
子ども。
そう聞いて、咄嗟に陳到の脳裏に浮かんだのは、銀兎たちを襲った者たちのことだ。
そして、視界のもっとも利かない、闇と光が交じり合う夕闇のなかで目をこらせば、たしかに、薄暗い陽のなかに、濃い影の輪郭だけを浮かび上がらせている子どもたちの数が、多すぎる。
そして、遊びまわっているように見える子どもたちは、徐々に徐々に、糜夫人たちの馬車が停めてある場所に、集ってきているのだ。
糜夫人と、子どもという取り合わせに、すぐには、陳到は関連をつかめなかった。
しかし、糜夫人の乗る馬車の、その粗末なしつらえを見て、はっとする。
もし、自分が追撃者であったら、どう判断するだろう。
貴人を乗せる立派な馬車には、当然、貴人が乗る。
一方、粗末な馬車には、それなりの身分の者が乗るはずだ。
つまり、貴人の馬車には糜夫人が、粗末な馬車には、芸伎の銀兎が乗ると、ふつうは考える。
まさかかれらは、糜夫人が、重傷を負った紅霞のために、馬車を交換したことは知らない。
「くそっ!」
舌打ちをすると、陳到は馬を走らせた。
趙雲も、ほぼ同時に、子どもたちの動きの理由を悟ったようである。
人が、あまりにまばらに座り込んでしまっているために、障害物となってしまい、馬を走らせることができない。
陳到も趙雲も、馬を下り、糜夫人の馬車に駆け出した。
糜夫人に危機が迫っている。
いまは闇と光が交差し、もっとも視界の悪くなる時刻。
それに加えて、この雑多すぎる疲弊しきった空気。
ただでさえ視界がふさがれているなか、あえて問題のなさそうな光景に注意を向けるものはいない。
だれが、子どもが襲ってくるかもしれない、などと考えるだろうか。
みな、自分のことで手一杯だ。
それが、狙いなのである。休憩をして良いという許可は、本当は、誰からも下りていないのだ。
かれらは、人々の疲れが頂点に達するのをまって、じわじわと噂を流して、みなの意を挫いた。
襲撃者は、人々がたとえそれに気づいたとしても、反撃できない状態になるのを待っていたのだ。
させぬ。
糜夫人は、自分の命を狙った男が助けてきた、敵と言ってもいい面識のない女のために、馬車を譲ってくれた。
紅霞を助ける手助けもしてくれた。
ここで恩を返さねば、なんとしよう。
この身は、もはや細作の寒蝉ではない。劉備の将・陳叔至なのだ。
主君の奥方を、命に替えても守らねばならぬ。
糜夫人の馬車の周囲を取り囲み、跳ね回っているように見える子どもたち。
遠目に、子どもたちが、袖に隠し持っていた刃を、つぎつぎと抜き放ち、それが残照を受けて、ちいさな篝火のように、不気味に赤く照り光っているのが見えた。
子どもたちの襲撃におどろく御者を、子どもたちは素早く取り囲み、声をたてぬうちに、地面に引き摺り下ろしたのが見える。
物音のすべてが絶えてしまったように感じる。
子どもたちの気配が伝わったのだろう。
馬車の周囲で休息をとっていた者たちが異変に気づいたのが、遠目からでもわかった。
周囲にいた警護兵も、ようやく事態に気づいたようであるが、その反応は苛立つほどに鈍い。
陳到は、舌打ちをすると、足を止め、そばにいた兵卒の手にしていた槍を奪うと、動きまわる、黒い影のように見える子どもたちのひとりの背めがけて、力いっぱい投げつけた。
投げられた槍は、子どものひとりの背に見事に深々と突き刺さり、ちいさな体が、見えざる針で胸を突かれた虫のように、地面に倒れ伏す。
とたん、まるでちいさな祭りを行っていたような、子どもたちの輪が崩れた。
と、同時に、世界に音が戻ってくる。
最初に聞こえたのは、地面に崩れ落ちた子どものたてた、どさりという音と、つづいては、耳をつんざく女たちの悲鳴であった。
子どもたちは、いまだ体勢を立て直せないでいる。
その隙を逃さず、陳到は、子どもたちのなかに飛び込んでいくと、情け容赦なく槍でもって子どもたちを薙ぎ払いはじめた。
ひとたび攻撃する相手が定められれば、陳到は、情け容赦なく振る舞った。
たとえ子どもといっても、相手は訓練された刺客、明確な殺意を持つ相手、敵である。
子どもは相手に出来ないなどと、躊躇うほどに、陳到は、生ぬるい世界には生きていなかった。
子どもたちは、不意にあらわれた敵に、苛立ちも隠さず、反撃を繰り出してくる。
これほど至近距離においても、闇が濃くなっているために、かれら一人一人の顔がはっきりとわからない。
わからないからこそ、無慈悲に振る舞えるのかもしれない。
小さな、そして残酷な敵をつぎつぎと冷徹に仕留めていきながら、陳到は、ふと、自分もまた、子どもに戻って、残虐な遊戯にふけっているような錯覚をおぼえた。
子どもたちは相当に訓練を積んでいるのか、ネズミのように驚くほど身が軽い。
ときにひやりとすることもあったが、危ういところは、となりで同じく戦っている趙雲が、ほぼ完璧な形で援護をしてくれた。
いつしか、陳到の口はしには、笑みが浮かんでいた。
戦いを楽しんでいるのではない。
それは、いままで正当な評価を受けられずに、ひとりの女の命令を守るため、前線にて孤独に戦っていた男が、ようやく仲間を手に入れられたことを悟り、喜んで笑っているのだ。
趙雲の刃にも、やはり、まるで迷いがない。
相手が子どもだといって、いちいち躊躇ってしまうような者に用事はない。相手は敵なのだ。
手加減をしてやろうなどという、考えすらも脳裏に浮かんでいないその冷酷さ。
敵は討つ。ただそれだけである。いま相手にしているのは、子どもの形をした敵なのだ。慈悲をかけてやる存在ではなく、駆逐すべきものなのである。
陳到の脳裏には、紅霞の、余力があれば味方を助けてやれという言葉が浮かんできた。
そして、おのれの力は、おのれしか守れないものなのだという言葉も。
それが本当に正しいのか、陳到には、まだよくわからない。
わからないまでも、味方を守り、おのれも生き残るという点において、趙雲の持つ冷徹さと、精確な判断力は、信頼できるものであった。
銀兎は、それを冷たいと言ったが、そうではない。
この男の優しさというのは、純粋なまでに、味方を守るというその一点に集中しているのだ。
その目的のためには、それ以外のことにかまけてはいられない。
たった一つのことに、すさまじいまでの集中力を注ぐころができるからこそ、この男は、かならず味方を助けられるのである。
そして、その優しさの対象には、悲しいかな、おのれは含まれていないのだ。
この男は、盾としてのおのれは愛するが、それ以外のおのれは捨てている。
なんという孤独な在り様だろうか。
しかし、ともに戦う友として、これほど最高の者はいないだろう。
いま、それをはっきりと理解した。
それがなにやら嬉しくて、陳到はまた笑った。
一人、また一人と、確実に討ち果たしていくその様は、おそらく血に塗れた、鬼神のように見えたにちがいない。
二人だけの獅子奮迅の働きで、賊の数は、どんどん減って行った。
殲滅することも可能だろうと予測した陳到であるが、ふと、隣の趙雲が、ひとりの相手に、手こずっているのに気がついた。
子どもの中で、ひとり、飛びぬけて動きの良い少年がいるのだ。
その少年は、ほかの子どもたちを下がらせると、趙雲と真正面から対峙する形となった。
みずからは身を屈め、槍を構える趙雲を見据える。
その足取りには、まるでしなやかな獣のように、隙がない。
陳到も参加しようと足を運ぶと、趙雲に制止された。
「こいつは、俺だけで済ませる。おまえは奥方をお守りせよ」
陳到が、わかったと頷くと、不意に、その少年が、くぐもった笑い声をあげた。
「放浪の士が、部下を得たか。出世したな、子龍」
「なんだと?」
隙なく槍をかまえた趙雲の顔が、おどろきでゆがむ。
陳到も、その声にはっとした。
趙雲の胸元ほどしか背のない少年の声は、まるで老爺のようにしわがれていた。
咽喉を潰されてしまったのか?
痛ましい空想をはたらかせ、夕闇の中に少年の姿をもっと見ようとして、言葉を失う。
そこにいたのは、子どもなどではなかった。
子どもほどの背丈しかない、大人の男なのである。
頭でっかちの顔は、陳到らと同じくらいの年頃の男のものであった。