七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 十一回目
夜が明けるまで、劉備とその一行は、ひたすら南へと向かって走り続けた。
追っ手のかかる気配は、いまだない。
夜であれば、濃い闇の向こう側から篝火が見えるのを気にしていればよかったが、白々と明け染めた紫雲のもとでは、地平の彼方に土煙があがってはいないか気にすることとなる。
「いまのところ、追っ手が掛かる様子はないが」
関羽は低くつぶやき、それから、かねてより頭のなかに叩き込んでいた地図を思い浮かべてみた。
落ち着いているようには見えるけれど、錦の髯袋を解いていないのに、自然と手が髯を撫でようとして、空を切るところから、緊張のなかにあることが見てとれた。余人にはわかりにくいが、関羽も極度の緊張のなかにいたのである。
おそらく、劉備以上に、追っ手によって、再び主従がばらばらになってしまうことを恐れたのは、関羽であっただろう。
実のところ、関羽は曹操のもとで虜になり、劉備たちが袁紹のもとに身を寄せていると聞いてから、ずっと、袁紹の元から去った場合に、どこへ向かえばよいのかを考えていた。
しかし、考えることはできても、実行となると、やはり賢いとはいえ、本質は武人である。
世間的にうまく立ち回ることができ、政治にもそれなりに意見がある、という程度。
巷に溢れる情報をよりすぐり、正しいもの、有利なものだけを取り出して、人の意見をまとめる、あるいは、逆に世相を情報によって操るなどということは、まったくもって神業のように思える。
曹操の元で虜になって、その目の前で見たものは、曹操の周りには、武に頼らずに天下を平定しうる智者が多くあつまっている、という事実であった。
彼らは、曹操の前で、怖じることなく忌憚なく意見を述べ、互いに切磋琢磨している。
その自由な空気こそ、曹操の牽引力ともなっているのだ。
転じて、我が陣はどうか。
たしかに、貴門の出の者はいるし、それなりに学問を修めている者もいる。
が、智者となると、どうか。
世を広く眺め渡し、揺らぎない論理でもって(推論ばかりではいけない)全体を引っ張れる、知恵と度胸と大将の気風をあわせ持つ人間がいない。
もちろん、それだけの能力を持つ者など、そうそう天下におるまい。
だが、たった一人でも、智者を得ることが出来たなら、ひたすら他人の力によらねばならない我らも、変わることができるのではないか。
馬の足を緩めないまま、行き先を考える関羽のもとへ、後方にいる糜竺より、使者が遣わされてきた。
「このまま、ただ南進してよいものでしょうか、道を変えるか、あるいは二手に分かれるなどしたらよろしいのではと、主が申しておりました」
「二手に分かれて、以前の失敗があったのだ。みなもふたたび生き別れになることを恐れているであろうし、幸運は、二度はつづかぬ」
幸運というのは、自分や劉備の夫人たちを虜にした相手が、曹操であったということである。
曹操であるから、劉備の夫人たちは無事であったのだし、関羽も、義理を果たしたことで、劉備のもとへ向かうことを許されたのだ。
とはいえ、それをおおっぴらに口にすることを、関羽はためらった。
「だが、道を変えるのは、確かに手かもしれぬ。馬も休ませる必要があろう。一度、軍議をかねた休憩をとろう。兄者には、儂から伝える」
一晩中、けなげに足を動かし続けた馬も、そろそろ倒れるものがあっておかしくない。
しかも道中、連れているのは丈夫な兵卒たちだけではなく、その家族まで一緒なのだ。強行軍をつづけると、女子供のなかには、着いていけずに脱落する者が出てくる可能性もある。
劉備は、関羽の提言にもっともだと頷いて、大勢が休める草原を見つけ、そこで休憩をとることとなった。
末端の兵卒たちは、仮眠を取ったり、あるいは食事を取ったりしているが、主だった武将たちはそうはいかない。
歩きながら、用意された乾飯などで腹をごまかしつつ、劉備のもとに集っていく。
「叔至、俺も軍議に行くが、そちらは大事無いか」
と、趙雲は、馬車の中の陳到に声をかけてきた。
紅霞の顔色は、相変わらずよいものではないが、死相がでるほどではない。
落ち着いた場所で休ませてやりたいが、そうなるのは、数日後であろう。
こうなれば、紅霞の、細作として鍛えてきた体力だけが頼りだ。
陳到は、傍らで、ただ回復を祈ることしかできない。
「向こうで女たちが清水と食事を配給してくれている。おまえも行ってこい。それと、いざというときのために、仮眠を摂っておけ」
「趙将軍、お尋ねしたいのだが、荊州に向かうということは、劉表を頼るということだろう。あちらは、我らを受け入れてくれるのだろうか?」
陳到が尋ねると、趙雲はすこし難しい顔をして、答えた。
「俺も新入りだから、関羽殿らがどう動いているかは知らぬが、まったく歓迎されていないわけではなかろう」
「心もとない話だな。すでにやり取りが出来上がっているのかと思うたが」
「主公とは同じ劉姓ゆえ、そう邪険にされることはなかろうと思う。もし、劉表がダメならば、益州を目指すしかあるまい」
「益州!」
益州、つまりは山深く険阻な巴蜀の地。
汝南出身の陳到からしてみれば、巴蜀と聞けば、もうそこは天下の果て、山海経の世界、珍獣・怪物・怪人のうごめく異空の彼方である。
「それこそ、何ヶ月かかろうかという話ではないか。本気か?」
「劉表と江東は領土をめぐって深い確執があるうえ、江東に向かえば劉表を敵に回すことになる。主公としては、同族と戦うことなど考えもせぬであろう。
それに、主公は孫氏とは没交渉ゆえ、江東へ向かうということはなかろう。となると、やはり選択肢は狭いのだ。しかし、益州へ向かうとなれば、脱落者も増えるであろうな」
なにやら事務的に言う趙雲に、いささか腹を立てつつ、陳到はさらに尋ねた。
「なんとか劉表とうまく交渉することは、できぬのか?」
「軍議でそれを決めるのだろうさ」
ならば、わたしにお任せを、と陳到は立候補したいところであったが、馬車のなかでひとり横たわる紅霞を振り返り、咽喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
自分が居なくなったとたんに、紅霞が見捨てられるようなこともなかろうし、この趙子龍が、そのような振る舞いを許すとは思えない。
とはいえ、離れるのには不安があった。
「おまえは、いまは難しいことを考えるな。新入りらしく、ひたすら、脱落せずに済む方法を考えておればよい」
そう言って、趙雲は、軍議へと向かって行った。
自分とて、新入りではないかと陳到はぶつくさ言いながら、配給で清水と食事を分けてもらい、馬車に戻った。
横たわる紅霞の顔色は、煎じてもらった薬の効果ゆえか、だいぶ血の気が戻ってきている。
とはいえ、袈裟懸けに切られた傷口が、そうそう塞がるわけではなし。
体の汗を拭ってやっていると、甘夫人の医者が、様子を見にやってきてくれた。
そこで、傷口を巻く布を、清潔であたらしいものに替えてもらい、傷の痛み止めと化膿止めを分けてもらった。
馬車の窓を開け放ち、馬車の空気を換えてやる。
窓からは、四角く切り取られた菫色の空が見えた。
逃走中とは思えないほど、穏やかな人々のさざめきが聞こえてくる。
ひょんなことになった。
もともと、特長がない、どこにでも溶け込めるという特性より、細作に抜擢されたのが陳到である。
劉備の陣の中にあっても、その存在を胡散臭く見るものはない。
むしろ、すっかり溶け込んで、まるで劉備の旗揚げ当時から、存在しているような落ち着きぶりである。
関羽は、十万の兵を有していようと、袁紹は曹操に負けるであろうと言い切っていたが、本当にそうだろうか。
当て推量にすぎず、やはり袁紹が勝ったら、袁紹に背いた自分には追っ手がかかり、汝南に留まっている、まだなにもしらない実家の者たちも、咎を受けるのではなかろうか。
袁紹は、太っ腹なようでいて、そこは名家の主、己の駒が己に背くことを激しく嫌う。報復は苛烈になるであろう。
むしろ、その仕打ちを、細作として、裏も表も知り尽くしている陳到としては、どうしても暗い方向に頭を働かせてしまうのだった。
と、窓の桟のところに、ごとりと、なにかが当たった音がした。
石だろうかと思って目を向けてみれば、菫色の空を背景に、茶色の雀がちょこんとそこに止まっていた。
「おまえ…欣欣か?」
陳到からしてみれば、雀は、鳥篭の中にいようと空を自由に駆け回っていようと、みな同じに見えるのだが、なぜだかその雀は、紅霞が可愛がっていた雀に見えた。
雀は、馬車の窓の桟に止まったまま、ちゅんちゅんと囀ってみせる。
思わず、横たわる紅霞に目を落せば、それまで昏倒していた紅霞が、わずかにうめき声をあげた。
「気づいたか」
陳到が意気込んで声をかければ、紅霞はうっすらとまぶたを開き、唇を震わせた。
陳到は、水差しでもって、その乾いた口に水を入れてやる。
すると、紅霞の意識ははっきりしたらしく、何度か瞬きをしたあとに、陳到と、窓のところにいる雀とを、交互に見た。
「命があるようだな」
と、紅霞は皮肉げにつぶやいてみた。
そして、窓の桟に止まっている欣欣に、手を差し伸べる。
すると、雀も心得たもので、ぱっと茶色の翼を広げて、紅霞のもとへ降り立ってきた。
雀は、ちいさな嘴で、つんつんと紅霞の肌に軽くつついて、喜んでいるのか、それとも心配しているのか、ともかくなんらかの意志を伝えようとしているようだ。
紅霞は、そんな欣欣の姿に笑みを浮かべ、それから陳到に尋ねた。
「細かい仕事をするものだ。こいつまで助けてくれたのか?」
「いや、すまぬ。雀までは手を回せなかった。こいつはおまえを慕って自力で逃げてきたのであろう」
そうか、と短くつぶやいて、紅霞はしばらく雀をいとおしそうに眺めていた。
「薬は飲めるか。傷の具合はどうだ」
「痛む」
言いながら、紅霞は包帯に巻かれた己の上半身を、首だけ動かして見下ろした。
「これでもう、胸元が大きく開いた衣は身に纏えぬな。ますます女から遠くなる」
「胸元を見せる衣装ばかりが、女の衣裳というわけではあるまい。おまえならば、なんでも似合う」
すると、紅霞は声をたてて笑った。
「一晩明けたら、ずいぶん口説き上手になったな、寒蝉」
「そういうわけではない。実感を述べたまでだ」
「まあよいわ。『おまえ』と呼んだことも、許す。それより、あれからどうなったのだ」
あれから、とぼかしているが、要するに袁譚が気になっているのだろう。
陳到は、袁譚の振る舞いをありのままに伝えるか、あるいは誤魔化すか迷いつつ、ここに至るまでの経緯を説明した。
一方、軍議のほうは停滞気味であった。
なんにせよ、構想ばかりが出来上がり、実際に荊州に入るという段になって、はたして劉表に受け入れられるかどうかが、不明確だということが問題になったのである。
劉表は、江東の孫氏らと対立しながらも、荊州とその周辺をうまく治め、争いの絶えない中原とは別に、独自の治世でもって、平和を謳歌していた。
その手腕をもって、中原の英雄たちとはべつな評価を与えられている人物である。
「たしかに、荊州は安定しておりますが、安定しているからこそ、我らのように曹操からも袁紹からも追われる勢力を、受け入れることができるかどうか。いたずらに火種を呼び入れることを好むでしょうか」
という慎重な意見と、
「安定とはいっても、あくまで中原において、袁紹と曹操が対峙している隙をぬっての安定に過ぎぬであろう。
荊州には、北に対する防衛線が薄いと聞いたことがある。我らがそれを勤めると申し出て、劉表と交渉するのだ。向こうも、江東との争いで兵は不足しておるはず」
という、突破口はあるという意見との、二つに分かれた。
おおかたの意見は、交渉さえすれば、劉表は受け入れてくれるだろうという側に傾いていたのだが、さて、交渉するとなると、それなりの人物が必要だ。
だれを向かわせるか、という段になって、これまた話が進まない。
背後からは、ひしひしと袁紹軍の追っ手がかかっている。ぐずぐずしてはいられない。
実のところ、なぜ根拠もなしに、ほとんど面識のない劉表を高く評価しているかといえば、それは、彼らの戴く劉備という人物に対する、高い評価への信頼にすぎない。
つまり、
「俺たちがそうであったように、劉表だって、主公と顔をあわせれば、けっして邪険にはできなくなるはずだ」
という考えからはじまっているのだ。
劉表がそう思わなかったならば、話が終わってしまうのであるが、結局のところ、情報も足りず、人材の能力や状況を把握している人物がいないために、根拠の浅い信念と、経験によって判断するしかないのであった。
しばらく、あれやこれやと論じた後、糜竺が、関羽と目を合わせると頷いて、前に進み出た。
「主公、わたくしが参りましょう。劉表麾下には、面識こそございませぬが、信(手紙)を交わしたものが何名かおります。それに、荊州には、徐州から避難した者も多い。我が家門の名が通用することがあるかもしれませぬ」
これに異議を唱える者はなかった。
劉備は、糜竺の補佐として孫乾をこれに加え、いまのところ考えうる最良な人選で、荊州に向かわせることにした。
結局、劉備の配下を眺め渡したところで、立派な使者を務められる者は、数えるほどしかない。
使者になるには、物腰や風采もさることながら、やはり弁舌の才もあり、それなりの背景を持ち、加えて世知に長けていなければならないのだ。
張飛は論外であるし、関羽はその気性がむずかしい。
簡雍は口がたつけれど、余計なこともこぼすからダメであるし、趙雲は若いうえに口が重い。
ほかの者たちも、それぞれ難点があって、結局、糜竺と孫乾しかいないのだ。
糜竺と孫乾が、先立って荊州に向かうこととなり、後を追う形で、劉備たちは出立することとなった。
そのあいだ、陳到は紅霞に、いまにいたる状況を、事細かに説明していたが、すべて聞き終わった紅霞が最初にもらした言葉は、
「奥方様に、あとでお礼を申し上げねばならぬな」
であった。
それを聞いて、陳到はとりあえず安堵した。
あとで、というからには、紅霞が絶望し、自害を考えることはなかろうし、またあるいは、己の運命を悲観し、衰弱するようなことはなかろうと、思えたからである。
紅霞は、血の気の薄い、桃の花びらのような顔をして、馬車の天井を見つめたまま、言う。
「なぜであろう。わたしという女は、いつも一人だけ、こうして生き残ってしまう。望んでいないのに、死に場所も得られず、漂う運命にあるようだ。
故郷を焼き払われてから、生きるためにはなんでもした。後ろを振り向く余裕すらなかったのに、いまこうして、過去のことばかりが頭に思い浮かぶ」
そうして、紅霞は自嘲の笑みを浮かべるのであるが、血の気の失せた顔色に、同じく蒼い唇をゆがませる様は、この世のものとは思われず、陳到はぞっとする。
思わず言った。
「昔のことを思い出すようになったのは、よい徴であるぞ。死ぬときに、一瞬にして人生を思い出すという俗信があろう。あれと同じ…いや、同じではないが、魂魄があらたに生まれようとしていることを、意味するのかもしれぬ」
我ながら、わけがわからぬと陳到はガッカリするが、紅霞には伝わったらしく、力はないけれど、明るい笑みが浮かんだ。
「おまえという男は、おもしろいな」
「初めて言われた」
「だろうな。初めて言う。おまえは、己をつまらぬ男ゆえに細作に選ばれたのだと思っているだろうが、そうではない。
おまえが目立たず振る舞うことができるのは、その凡庸な容姿が原因ではない。おまえには、天性の観察力というものがあるのだ。
人の状態を見、動きを見、時流を見て、その場にもっともふさわしい動きをすることができる。つまらぬ男にはこんな真似はできぬ。
わたしは、おまえが己の非凡さを気づいていないことをよいことに、細作に抜擢したのだが、おまえには武将のほうがよく似合う。いままですまなかったな」
思いがけない言葉に、うれしさや感動よりも、不吉な予感のほうが先に立った。
「止めてくれ。まるで遺言のようではないか」
「死んで欲しくないのか」
からかうような口調に、陳到は憮然として答える。
「当たり前だろう。どうでもよいと思うならば、あのまま置いてきた」
「ならば、生きねばなるまいが、しかし、これから先はどうする。わたしを助けたということは、傷が癒えるまで、わたしを守るということでもある。妻に迎えてやってもいいと思っているのか」
あまりに軽い口調で出た言葉であったが、陳到は、腕を組み、じっと紅霞を見た。
そうして口をへの字にしたまま、しばらく考えていたのだが、紅霞が、顔から笑みを引っ込めて、不安そうに声をかけるまで、みじろぎひとつしなかった。
やがて出た言葉は、
「考えさせてくれ」
だった。もっとマシな、気の利いた返事ができればよいのだが、陳到にはそれが精一杯だったのである。
紅霞は、呆れたような顔をしながらも、笑って、やはりおまえは面白い、と言った。
さて、そろそろ出発だという段になったときである。
軍議から戻ってきた趙雲が、顔色を悪くして、馬車のところへやってきた。
そして、紅霞が意識を取り戻したことを見ると、ほっとしたような顔をする。
「ならばよかった。叔至、先に俺と来られるか。紅霞殿には、奥方にお願いし、だれか侍女をまわしてもらうことにする」
「なにがあったのです? もしや、敵の待ち伏せが?」
陳到が問うと、趙雲は、渋い顔をしたまま首を横に振った。
「南進するにあたり、街道をいくより、裏道を行くことになったのだが、先に荊州へ向かった孫公祐殿から、急使が戻ってきた。道中に、何者かに襲われた旅芸人の一行が倒れており、ことごとく、殺されている様子だというのだ」
それを聞き、陳到の脳裏にぱっと浮かび上がったのは、銀兎のことであった。
「もしや、銀兎たちか?」
「詳しくはわからぬが、生き残りの娘が、銀兎と名乗ったらしい。とはいえ、敵がまだ潜伏しているかもしれぬゆえ、斥候を立てて安全を確かめることになったのだ。
銀兎ならば、俺やおまえならば、面識があるし、うまく話を聞けるであろう。どうだ、頼まれてくれぬか」
「それは構わぬ」
馬車から降りる段になり、しかし、陳到は、これでよいのかと躊躇った。
銀兎のことも、もちろん心配であるが、紅霞のことも気にかかる。
侍女を回してくれるというが、趙雲や陳到が離れるということは、紅霞への守りが薄くなるということだ。
「すぐ戻れるであろうか」
「心配するな。殿(しんがり)からの報告では、まだ、追っ手は近づいてきていない。生き残りを救出し、事情を聞く。話によっては、道を変える必要があるから、逆にいえば、早く戻らねばならぬということだ」
言いざま、励まされるように趙雲に肩を、ぱん、と力強く叩かれて、陳到は武装を整え趙雲につづくかたちとなったが、用意された馬の鐙にまたがりながら、ああ、本当に自分は、劉玄徳に仕える者となり、この趙子龍の部下になったのだな、と思った。
斥候として、趙雲と陳到、それから複数名の兵卒たちとで、細い間道を抜けると、やがて、前方より、孫乾が置いていったと思しき兵卒たちが、大きく手を振って、止まれと示している。
趙雲はその合図どおりに馬を止め、あたりの惨憺たる有様に、顔をしかめた。
生きている者といえば、孫乾が置いて行った兵卒たちと、馬車から切り離されてもなお、行き場所もなく場に留まっている、馬や驢馬ばかりである。
ほかは死屍累々。
この容赦ない虐殺が、それほど昔に行われたものではない証拠に、血の臭いがつよく残っている。
男も女もなく、どれも複数の切り傷があった。
武器を手に襲撃に応じた者もいたようだが、結局、勝てなかったようである。
ちらばる遺体のなかに、銀兎が兄と呼んでいた座長を見つけ、陳到の心は暗くなった。
女たちもことごとく切り伏せられていたが、せめてもの救いは、そのどれにも辱めを受けたあとがなかったことだろう。
言葉を交わしたことはなかったけれど、銀兎と一緒に歩き、笑いあっていた姿を覚えているだけに、その最後が悲惨の局地でなかったことだけが救いだった。
陳到は、ちょうどこちらに背を向けて、岩の上に座っている華奢な背中をみつけた。
あわてて駆け寄り、銀兎のもとへと急ぐ。
声をかけると、銀兎は、ゆっくりと振り向いた。
銀兎のありさまはひどいもので、体中が土と血でよごれていた。
ずっと泣きつづけていたらしく、その顔はすっかり腫れ上がってしまっている。
陳到の顔を見ると、銀兎は、顔をますます崩して、子供のように抱きついてきた。
陳到もまた、銀兎の父親になったような気持ちで、体を支えてやると、なだめるように背中を撫ぜてやり、それから尋ねた。
「なにがあったのだ?」
「わからないの。あれから、兄ちゃんと一緒にみんなと逃げて、まず袁譚は劉備を追うだろうから、あたしたちは裏道を通って逃げればいいって」
しゃくりあげながらも、必死に説明する銀兎の話は、こうである。
袁譚をぶん殴ったあと、とりあえず場に留まっているのは危ういということになり、志を果たせぬまま、彼らは逃げることになった。
銀兎の兄は、
「おそらく、袁譚は、劉備を殺したくてたまらなかったわけであるから、先にこれを追おうとするだろう。袁譚の目が劉備に向いているあいだに、逃げてしまえばいい」
と言って、一気に裏道を行くこととなった。
地理に関して詳しいうえに、人数がすくない彼らのほうが、大人数なうえに大荷物な劉備より、ずっと早く立ち回れた。
裏道から裏道へと逃げていくうちに、いつしか劉備たちを追い越し、もうじき夜が明ける、これならばもう安全だろうと気を弛ませたとき、襲撃がはじまった。
最初、何が起こったのか、銀兎にはわからなかった。
乗っていた馬車の扉がぱっと開き、兄が、連中はおまえが狙いなのだと言って、銀兎を外に連れ出した。
さらに、銀兎と背格好の似ている娘に、銀兎の上衣だけを交換するようにいい、妹の手を引いて逃げた。
そして、襲撃者の手から、座長は果敢に妹を守ったのであるが、多勢に無勢。
自分は体中に刃を受けながらも、銀兎を守るため、体を盾にして、やがて絶命した。
銀兎は、兄の体の下で、必死に身を縮め、襲撃者が立ち去るのを待った。
しだいに、耳に入る剣戟が、ひとつ、またひとつと減っていき、やがて、不気味なほどに静かになった。
それでも銀兎はじっと息を殺していた。
やがて、東の空より紫雲がたなびくころになり、ようやく身を起こしたのであるが、目の前にひろがる光景は、あまりに悲惨なものであった。
「怪我はないか」
陳到が尋ねると、銀兎は、大きな瞳から、ぽろぽろと涙をこぼしつつ、子供のようにこくりと頷いた。そして、
「この血は、みんな兄ちゃんの血だから」
と、悲しいことを口にして、また感極まって、泣いた。