七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 十回目
一堂が気に呑まれて凍りついたままのなか、座長は、袁譚に向かって刃を突き立てんと、突進していく。
袁譚は、すぐさま酔いも醒め、刃から逃れようとするのであるが、動けない。
見れば、それまで大人しく傍らにはべっていた銀兎が、袁譚をしっかり押さえつけているのであった。
周囲の群臣はというと、泥酔しているせいか、事態に気づきながらも、身体を動かせないでいる、という、ていたらくである。
いけねぇや、と、劉備が腰を浮かせたときである。
劉備の隣にいた、紅霞が、酒瓶を投げ捨てると、駿馬のように走り出し、袁譚の前に躍り出た。
とたん、座長のひらめかせた白刃が、ばっさりと、紅霞の胸元を、あざやかに斬り伏せたのである。
幕屋の外で見ていた陳到の頭は、真っ白になった。
目の前の光景が、ひどくゆっくりと動いていく。
刀を下ろしたあと、目の前にいる女に驚く座長と、胸元から鮮血をほとばらせ、倒れていく紅霞と、うろたえている袁譚の姿が見える。
悲鳴は起こらない。
だれひとりとして、身動き一つできず、唖然として、目の前の光景を眺めていた。
陳到は、自分がどうやって幕の中に入ってきたのかを覚えていない。
目の前には、仕損じて、うろたえる座長と、地に伏した紅霞の姿があった。
ぽたり、ぽたりと、座長の持つ白刃から、血がしたたり落ちていく。
紅霞の血だ。
地に伏せた紅霞を抱き上げて、傷を見る。
紅霞の意識はあり、陳到の顔を見ると、すこしだけ、笑みらしいものを浮かべた。
それは喜びの笑みではなく、仕方のない子どもを叱る、母親のようなものであった。
「若君」
陳到は、自分が泣いているのだと思った。
発せられる声が、自分のものではないようだ。
「若君!」
なぜ、袁譚を呼ぶのか、自分でもわからない。
紅霞の代わりか、それとも、捨てられてもなお、忠義を尽くそうとする者の心に触れて、どうしても訴えなければ気が済まないからか。
袁譚は、青白い顔をして、紅霞と、陳到を座から見下ろしている。
その表情には、かつては情けをかけた女への悔恨や悲しみはなく、怯えであった。
「劉備の仕業だ!」
場を破るように、だれかが叫んだ。
それに呼応するように、言葉を失っていた袁譚が、叫ぶ。
「この者らを捕らえよ! 劉左将軍の手の者なる!」
「若君、ちがいます!」
陳到は、いっせいに動き出した群臣、兵卒たち、そして袁譚に、そうではない、と叫ぶのだが、一介の細作の言葉に、耳を貸すものはない。
武器を手に手に、兵卒たちが、劉備と、陳到と、座長を取り囲む。
見知った顔に取り囲まれて、はじめて、陳到は、憤りを覚えた。
どうあれ、袁譚は、この宴から、劉備を帰すつもりはなかったのだ。理由など、いくらでもこじつけてしまえばいい。
「紅霞は、劉備と前々から通じておったのだ。そして、そこな陳叔至は、われらを裏切り、劉備のもとにひそかに降った男だ」
袁譚が決め付けると、満座のなかから、怒りのこもったどよめきが起こった。
そうではないと抗弁したところで、みな酔っているせいか、ひどい中傷や怒号を向けてくるばかりであり、陳到の声に、耳を貸すものはいなかった。
「ちがう、ちがう! わたしは劉左将軍とは関係ない! おのれ、わが復讐を愚弄するか!」
と、いきり立って叫ぶのは、座長である。
紅霞を斬ってしまった衝撃からようやく立ち直って、おのれの危機に気づいたようであった。
単騎ならばあるいは、突破できる自信が、陳到にはあった。
なにせ、いくら腕に覚える武将や脇侍がそろっているとはいえ、こうも酔っているのであれば、普段の実力の半分も出せまい。
しかし、紅霞の息は、まだ続いているのだ。
このまま見捨てるなどできやしないし、劉備や座長、そして銀兎を置いて行くということもできない。
劉備のほうは、あまり呑んでいなかったこともあり、意外なほど落ち着いて、周囲を睥睨している。
そして、主騎たる糜芳が、酔いつぶれて床に伸びているのをみると、ため息をついて、首をふる余裕さえみせた。
「斬り捨てよ!」
袁譚が命じたときである。
「てめぇら、兄者に指一本でも触れたら、この燕人張飛さまがゆるさねぇ!」
大音声で呼ばわりながら、張飛が矛を激しく振り回しながら、斬り込んできた。
横からの急襲に、兵卒たちは、風に薙ぎ払われる砂のように、矛に巻き込まれて地に落ちる。
張飛につづく形で、趙雲が同じく長槍を手に斬り込んできた。
こちらは張飛のような豪快さには欠けるけれども、そのかわり、前にした敵を、ひとりひとり、確実に、疾風のごとき速さで打ち倒していく。
「おい、若君のご家来衆に、あんまり傷をつけるなよ」
劉備は、冗談のような命令を出して、陳到のそばにやって来た。
「よし、一気に逃げるぜ」
この騒ぎの中、袁譚たちに聞こえぬよう、声をひそめ、劉備は言った。
そして、陳到が抱きかかえる紅霞の脈を見る。
陳到は、もはや自分がなにを口にするべきか、わからなかったが、それでも涙声で劉備に応じた。
「関将軍が、この陣より、いつでも出立できるよう、準備を進めてらっしゃいます。お急ぎ下さいませ」
「おう、関羽のことだから、段取りよく準備をすすめてくれるだろうよ。おまえも来てくれるな? いいや、来てくれなくちゃいけねぇよ。このまんまで、おまえたち二人を置いていくことなんざ、できやしねぇ。
今回は、同じ逃げるでも、かならずみんなで逃げるのだ。でなければ、儂は、今度こそカカアたちに殺されちまう」
劉備は、緊張した面持ちながらも、自分で冗談を飛ばして、自分で笑った。
そして、涙と鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになっている陳到の肩を、励ますように叩く。
「さて、道連れがいっぱいだ。おまえは、紅霞をなんとしても守れ。道は、張飛と子龍が開いてくれるから安心してな。紅霞の傷は、まだ浅い。すぐに手当てをさせれば、なんとかなるかもしれねぇ」
そう言って、劉備は、座長のほうを向いて、言った。
「それと、そこでフクシューだなんだと叫んでいる兄さん、死にたくないのなら、途中まで、儂と一緒に逃げるというのはどうだい」
ちょっとそこまで飲みに行かないか、くらいの軽さで誘われ、座長は、目をぱちくりとさせている。
が、やがて、言葉の意味が判ったらしく、顔を茹でた蟹のように真っ赤にして、叫んだ。
「貴様、ふざけるな! 貴様と同行するくらいならば、この場で果てたほうが、はるかにましぞ、このむしろ売りめが!」
「なつかしい、けなし言葉だな。まあ、おまえさんが、袁公路…袁術に恩を受けた身ならば、そう思うのが筋か」
袁術、字公路は、劉備とも浅からぬ因縁のある男であった。
乱世の混乱に乗じ、偽帝を名乗った男であり、袁の姓が示すとおり、袁紹の従弟、つまり袁譚にとっては、『はとこ』に当たる人物である。
袁紹は、この袁術と、帝称をめぐって仲違いした。
帝を称するものの、天下の賛同はまったく得られず、変転する天下情勢に絶えず巻き込まれ、その権勢はどんどん衰えた。
最終的には、己の領土すら維持することすらできなくなり、仲違いしていたはずの従兄の袁紹を頼ることとなったのであるが、そこを攻め滅ぼしたのが、ほかでもない、劉備なのだ。
劉備は曹操から兵を借り、袁術を滅ぼしたあと、徐州で反旗をひるがえし、曹操に対抗したが、激怒した曹操に追われ、主従は散り散りになって逃げることとなった。
そして劉備は、命からがら、わずかな手勢と共に袁紹のもとへ身を寄せることとなり、関羽は曹操の虜となったわけである。
で、さらに紆余曲折を経て、現在にいたる、というわけだ。
本来ならば、従弟を滅ぼしたはずの憎い敵を、賓客としてもてなしているところからして、同族とはいえ、従兄弟同士の確執が、いかに深かったかの証明であろう。
一方で、張飛と趙雲の二人は、竜巻のような勢いで幕屋の兵卒たちを、つぎからつぎへとなぎ倒す。
千鳥足ながらも、襲ってくる武将も、薄をなぎ倒すようないきおいで、あっさりと倒してしまった。
相手がほとんど丸腰に等しく、しかも足腰が酒のせいで弱っている、しかも狭い幕屋のなか、ということもあり、たった二人で、袁譚を守っていた兵卒たち、さらには集められた群臣のほとんどは、打ち倒されてしまう。
彼らは、不様にも、泡を吹いて地面に倒れる結果となった。
陳到が呆れたことには、この二人、劉備の命令を、きちんと守って、最低限しかとどめをさすことをせず、ほとんど昏倒させるのみに止めた、ということだ。
命を奪わぬように、力を制御し、頭を使って戦わねばならないのだから、相当な負担であったはずである。
しかし、それを、難なくやってのけた。
息もほとんど上がっていない。
張飛は、おもしろくなさそうに趙雲を見ると、
「口だけじゃねぇんだな」
と、つぶやいたが、趙雲は愛想なく、
「気をぬくな」
と、応答した。
旗色悪しとみた袁譚は、傍らにいた銀兎の細腕を掴むと、身につけていた剣を抜き放ち、その身に刃をつきつけた。
「鎮まれ、狼藉者ども! この娘がどうなってもよいか!」
袁譚の声に、趙雲と張飛は、ほぼ同時に動きを止め、座長は、悲鳴にも似たうめき声をあげた。
「卑怯な振る舞いを!」
「鎮まれ! 劉玄徳、やっと尻尾を掴んだぞ! 不遜にも、我らの陣をかき回し、その兵を奪おうとする不届き者めが!
裏切りを常とする貴様のことだ。我らに通じるふりをしながら、その実、曹操と繋がっていたことはわかっているのだぞ!」
決め付けられ、劉備は、立ち上がると、袁譚の前に進み出た。
残りわずかな兵卒が、色めき立つが、趙雲と張飛が、劉備を庇うようにして立った。
「曹操? それは誤解ですぞ、儂らは曹操を仇と思いこそすれ、通じてなどおりませぬ。漢王室をないがしろにする男に、なぜ劉姓をもつ儂が通じなければならぬとおっしゃるか」
「だまれ! 劉姓とはいえ、貴様の出自はすこぶる怪しい。曹操に取り入り、我が陣を引っ掻き回して弱らせ、そしてすきあらば、我らの首を取って、曹操に献上するつもりだったのだ。曹操と組んで、自らが帝位に上りつめるためにな」
「そりゃあ、おもしろい筋書きだが、儂は、曹操を頼ろうなどとは、本当に、これっぽっちも思っていないのだがなあ。あの御仁とは、さっぱり合わないのだから」
劉備は、ぽりぽりと己の頭をかきながら立ち上がり、張飛と趙雲がぼろぼろにした幕屋を見回した。
わずかに残っている袁譚の手勢が、劉備に刃を向けなおす。
「どこでそんな陰謀を吹き込まれたか知らないが、儂を殺すにしても、その娘は関係ない。人質に取る意味もありませぬぞ。
それに、ここは袁家の陣。貴殿が一言、儂を殺せといったなら、ありとあらゆる兵卒がいっせいに四方から襲ってくる。儂のほうが、ずっと不利なのだ。いきりたって人質を取るなどと姑息な手段はとらず、堂々となさればよい」
「姑息と申したな!」
袁譚は、劉備の言葉にいきりたち、銀兎から切っ先を離した。
そのときである。
銀兎は、つよい眼差しでもって袁譚を睨みつけると、掴まれていないほうの腕で、ぐっと拳をにぎりしめ、思い切り、その鼻柱に、強烈な殴打を浴びせかけた。
まったく油断して、劉備のほうばかり見ていた袁譚は、思いもかけない攻撃に、ひとたまりもなく、あっさりと、その場に昏倒してしまった。
「ざまあみろというのだ、こん畜生!」
と、銀兎は、倒れ落ちた袁譚をはげしく罵倒し、その小さな足で、倒れ伏した袁譚の頭を、おまけだ、と言って、蹴り飛ばした。
そして、座長のところへ、兎というよりは、ムササビのような身の軽さを見せて、ぱっと飛ぶようにして戻ってきた。
「兄ちゃん、いまなら、追っ手はこいつらにばっかりかかるだろう。逃げるのなら、いまのうちだよ!」
「ああ、そうだな」
座長は、銀兎に促されるようにして、その手を取った。
「なんだい、ずいぶん元気な娘っ子だな」
呆れるように言う劉備に、銀兎は、袁譚に向けたのと同じ目を、劉備にも向けた。
「お黙り、この裏切り者の成り上がり大将! また裏切るつもりなのだろう! 仁君が、聞いてあきれるね! おまえなんざ、呪われて、路傍で飢え死にしちまえばいいのだ!」
唾を吐きつけかねないほどの、銀兎の勢いであった。
紅霞を腕に抱いたまま、陳到は、ガラリと様子のかわった銀兎に、すっかりうろたえていた。
愛らしく、しとやかな女だというのが、銀兎への陳到の印象であった。
しかし、いまの銀兎は、蓮っ葉な商売女と変わらない。
血を見て興奮しているというものではなく、これが、銀兎の素顔なのだということを、陳到は、おのれの観察力の確かさを呪いつつ、確信した。
銀兎は、陳到の戸惑いも知らず、胸元にその白い手を突っ込むと、燭台の火ににぶく輝く小刀を取り出し、劉備めがけて投げつけた。
狙い違わず咽喉元を狙ったそれは、しかし、趙雲の槍の一閃によって、狙いに届く前に、蠅のように打ち落とされた。
一瞬、銀兎の目が、悔しさよりも勝って、悲しさに曇ったのを、陳到は見逃さなかった。
趙雲のことを想っているというのは、嘘ではなく、本当だったのだ。
複雑なことであるが、陳到は、悔しく思いつつも、安堵した。
銀兎と座長は、張飛と趙雲が切り開いた血路を、まんまと利用して、外へと飛び出して行った。
もちろん、追っ手がかかるのであるが、陣に残っている兵卒は、劉備にかかりきりになっており、外に待機していたものも、助っ人に入ってきたばかりに、すでに張飛や趙雲に打ち倒されていた。
さらに、彼らはその身軽さを遺憾なく発揮し、捕らえられることなく、逃げ切ったようだ。
「さて、儂らも逃げるとするか」
ほとんど人の残らぬ陣を見回し、劉備は言う。
そうして、昏倒する袁譚の側に立つと、申し訳なさそうな顔をして言った。
「もうちょっとマシなお別れにしたかったよ。あんたには、いろいろ世話になったぜ、ありがとうな」
もちろん、その言葉は、袁譚に聞こえはしなかったが。
劉備は、袁譚から目を離すと、数えるほどしか残っていない兵卒たちに、声をかけた。
「おまえたち、二つにひとつだ。どちらかを決めろ。あくまで若君の命令を聞き、張飛が子龍に斬り殺されるか、あるいは、このまま黙って引っ込むかだ。
ただし、黙って引っ込んだら、あとで仕置きが怖かろう。仕置きが怖いというやつは、儂についてくるがいい。命の保障はするぜ。もちろん、儂にずっと付いてくる必要はねぇや。途中で、どこか好きなところに行くもよし。さあ、どうする」
静かに、諭すように劉備が言うと、兵卒たちは、互いに顔を見合わせ、どうしたものかと迷っている。
それを見た張飛が、手にした矛をどん、と地面に叩きつけ、怒鳴った。
「てめぇら、男なら、即断即決、即答しやがれ! 孫子も、疾きこと風の如しって言っているだろうが、な、子龍」
と、張飛が言うのを、あくまで兵卒たちから目を離さず、趙雲は無愛想に言った。
「たしかに言ってはいるが、用法がちがう」
ちぇっ、と張飛が面白くなさそうに舌打ちするなか、兵卒たちは、気持ちが決まったらしく、つぎつぎと武器をおさめて、劉備の前に拝跪した。
それを見て、ようやく趙雲の表情から険がとれ、手にした槍の切っ先を兵卒たちから逸らすと、周囲を見回した。
そして、この騒ぎのさなか、いまだに高いびきをかいて眠り続けている糜芳を見ると、眉根を寄せ、最後に陳到を見ると、傍らに寄って、身をかがめた。
「おまえが助けたいと言った女は、その女か」
陳到は頷くことで返事にすると、趙雲は、意外なほど優しい、深く同情した声で、そうか、と言った。
情けないことに、一声でも立てたら、またも涙声になりそうであった。
劉備には、気負うことなく素をさらすことができたが、趙雲には、これ以上、弱い部分を見せたくなかった。
「奥方についている医者がいる。怪我人を見るのも上手いので、この傷の浅さであれば、大事無いであろう。もうすこし近くで刃を受けていたら、危なかったかもしれぬが、この女、距離を測って、その身に刃を受けたのであろうか」
それはなかろうと、陳到は思った。
紅霞は、ただひたすら、長年、己が尽くしたもののために、その身を投げ出したのである。
袁譚のためではない。
たとえ捨てられる身であったとしても、袁家に忠誠を捧げると言い切った、その心の誠を示すために。
「主公、馬を用立てましょう。この傷で、あまり激しく動かすことはできませぬ」
趙雲が言うと、劉備もそうだな、と頷いた。
「陳到、おまえが紅霞を抱えていくのだ。儂の陣についたなら、車があるから、そこに移して、一気に逃げるぞ」
そして、気持ち良さそうに眠る糜芳のほうを見る。
「やれやれ、この大将も、だれか担いでやらなくちゃいけねぇみたいだが、あいにくと大の男を抱えて走るのも容易じゃねぇ。馬の尻尾にでも括りつけていけば、そのうち目でも覚ますかねぇ」
美酒に酔いつぶれ、夢見心地な顔をして眠る糜芳は、劉備のことばに答えるように、フゴッ、と鼾をひとつさせた。
さて、一行は、降伏した袁譚の兵卒たちをうまく隠れ蓑にして、夜陰に乗じて、おのれの陣地に戻った。
劉備の言ったとおり、関羽の手際はすばらしく、必要最低限の荷物をすばやくまとめ、あとは劉備を待つばかり、という状態になっていた。馬も武器も食糧も、必要なものはほとんど積み込みが終わっており、あとは整然と、一気に南に向かって逃げていくだけである。
その手際を見て、劉備は得意そうに、
「儂らは逃げるのが商売みたいになっているからな」
と、からからと声をたてて笑ったが、同調して笑うのは関羽と張飛だけであった。
趙雲は、さっそく、荷車のひとつを見つけてきて、それに幌をつけさせ、紅霞のための車とした。
しかし、あいにくなことに、車の車輪が古くなっており、動かすと、かなり揺れた。
甘夫人を診ていた医者は、劉備の指示により、紅霞のところへやってきて、すぐに手当てをしてくれたのたが、こんな車では、せっかく命が助かったものを、振動で傷が開いてしまうと、渋い顔をした。
「子龍殿、怪我をした女の方がいるそうですね」
と、ひときわ立派な馬車から降り立ち、陳到と趙雲のもとにやってきたのは、糜夫人であった。
そうして、さすがは劉備の妻らしく、怯える素振りもなく、荷車を覗き込み、横たわる紅霞の、浅い息をつづける姿を見て、眉根をよせた。
そうして、趙雲と陳到に言う。
「この方は、わたくしの馬車に乗せて差し上げなさい。お医者様もご一緒にどうぞ」
「しかし、それでは、奥方様はどうなさる」
驚いた陳到が尋ねると、糜夫人は、ころころと明るく笑って言った。
「わたくしは、元気ですもの。こちらの馬車でまったく平気ですわ。幌まであるのね。急ごしらえにしては、よくできていること。侍女たちを呼んで参りましょう」
「そのような、わたくしどものような、細作ふぜいに、奥方様が馬車を譲られてはなりませぬ」
陳到が言うと、糜夫人は、おおいに眉根を寄せて、怒ってみせた。
「なんという愚かなことを口にするのですか。細作であろうと、奴婢であろうと、命の重さには代わりはないのですよ。このような時代だからこそ、生きている者は、お互いに助け合わなくてはなりませぬ。生きているということ自体が、わたくしたちにとっては貴重なことなのですから。
その方も、怪我を負いながらも、命を保っておられる。これは、天が、もっと生きよと命じておられるのです。天命に背くのは愚か者です。貴方は、その方を助けるために、宴へ向かったのではないのですか。よいですね、遠慮してはなりませぬ。
さあ、二人とも、大きな身体をどけてちょうだい。わたくしの馬車ならば、そう狭くないはずですよ。警護は大丈夫です。上の兄が勤めてくれますから。子龍殿は、この二人を守って差し上げなさい」
糜夫人はそう言うと、冒険しているようで楽しいわ、と、無邪気な少女のようなことを言いながら、自分の馬車から、荷物を、粗末な荷車のほうに移動させ、侍女たちとともに馬車に乗り込んだ。
夫人の警護は、夫人の上の兄である、糜竺が勤めた。
糜竺という男は、見た目は穏やかで品の良い、いかにも文士風なのであるが、弓馬の腕にかけては、並ぶものがないと評されるほどの名人なのである。
糜夫人には、糜竺と糜芳という、二人の兄がいた。
が、どちらかといえば、夫人は、上の兄を頼みにし、頼まれている糜竺のほうも、妹をとても可愛がっていた。
陳到は、趙雲と協力しながら、紅霞を糜夫人の馬車に移動させた。
そして、夫人の命令どおり、律儀に趙雲が、陳到と紅霞の警護にあたった。
さすが貴人の馬車らしく、しつらえも凝っており、揺れもすくない。
熱を帯びている紅霞の身体を、用意された清水を含む布巾で懸命に冷しつつ、馬車越しに、陳到は、趙雲に言った。
「この礼は、あらためてする」
「そうしてくれ。俺も、いま、ゆっくり礼を聞いておられる気分ではない」
「趙将軍、気になることがある」
陳到が言うと、馬車に並んで馬を操る趙雲が、すこし笑ったようである。
「なにか、おかしなことを言ったか」
「急に『趙将軍』などと言われたから、おかしかったのさ」
「それは当然であろう。わが身は、なし崩し的な感がなくもないが、劉左将軍の配下となったのだ。貴殿は、わが上役となるわけだ」
「割り切った男だな。まあよい、なにが気になるというのだ」
「うむ。若君の宴で騒ぎがあったとき、貴殿は、童らがいなくなっていたのに気づかなかったか?」
趙雲は、慎重な性格を見せて、しばし考えた後、そうだなと、頷いた。
「そういえば、見なかったな。もし子どもがいたなら、暴れるときに気を削がれたであろうし」
「そうであろう。どうもおかしい。童らは、紅霞を斥け、若君のそばに、片時たりともはなれず、ぴったりくっついておった。それが、貴殿らがあらわれて、潮が引いたように逃げて行った」
「子供ゆえ、怖じた、とは考えられぬか」
陳到は、首を振った。
「残念であるが、それは甘い。やつらは、たしかに子供ではあるが、働きは、大人顔負けなのだ。だからこそ、紅霞は追い落とされ、若君の寵も奪われたのだ。わたしは思うのだが、貴殿を恐れて、逃げたのではないか?」
すると、趙雲は、まさか、と言いながら、笑って否定した。
「それこそありえぬ。俺は、つい先日まで、各地を放浪していた男だぞ。主公のもとに至るまで、暴れたこともあったが、謙遜を抜きにしても、子供らに怖じられるほどの働きはしておらぬ」
「ますますもって、奇妙なことだ。童たちは、なにゆえ、消えてしまったのか」
「さて、わからぬが、考えたところで答えも出ぬ。そろそろ我らも出立する。おまえはおまえの女を守ることに集中するといい」
おまえの女、と趙雲に言われ、陳到は、すこし抵抗があったけれど、しかし嫌な気分はせず、むしろ、どこかで納得している己に気がついた。
同時に、銀兎のことを思った。
あの娘、ただの旅の芸妓などではなかったのだ。
宴が始まる前に、川岸で、宴に出たくはないと訴えた、あの姿は偽りか、それとも本当だったのか。
銀兎が、最後に趙雲に向けた眼差し、あれが嘘でないとしたら、あの言葉も、嘘ではないのだろう。
そう信じたかった。その無事も、信じたかった。