七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 九回目

陳紅霞というその女は、袁譚に命じられるまま、劉備のそばに侍り、ずっと酌の相手をした。
健やかな色香というべきであろうか。
この女は、夜のあやふやな燭の灯りのもとではなく、太陽の光がさんさんと降るなかで、笑顔を見せてくれたなら、きっと天下のどんな美女よりも艶やかであろうと劉備は思った。
しかしいまは、残念なことに、その表情は曇って、どこか投げやりな様子ですらある。
愛想は悪くない。しかし、どこか心ここにあらずといったふうで、頭の回転が悪くないから、会話も滞りないのであるが、しかしとくべつに弾むこともない。
いま、宴は、昨夜、劉備が招いた舞姫たちが、どうぶつに扮して、滑稽な踊りをおどっていたが、宴席にいる者たちは、なにやら興味深げにこちらをちらちらと見ており、なかには、意地悪くひそひそと声をひそめてささやきあっている者もいれば、さらには、なんともいやらしい、ねっとりとした目つきを、劉備と紅霞に寄越す者もいた。
劉備は、喜怒哀楽を表に出さない男である。
とはいえ、内面では、常人よりもずっとはげしい勢いで感情が動いているのだ。
手では、紅霞の傾ける器から、酒を杯でうけつつ、目では、昨夜も楽しんだうさぎたちを追っているが、心のなかでは、袁譚の贈り物が、果たして好意によるものか、それとも罠か、あるいは恥をかかせようという嫌がらせにすぎないのかを、懸命に考えていた。

いささか大柄なこの女が、袁譚となんらかの関係があることはまちがいない。
というのも、女がまったく袁譚のほうを見ようとしないからである。
不自然なほどに、目が袁譚を避けているふうだ。
もしかしたら本人は、何気なく振る舞っているつもりなのかもしれないが、劉備は細かい観察力にすぐれているので、これは逆に、袁譚とこの女が、特別な関係にある(あった)ことを示していると推理した。
ふと、天啓のように、劉備の脳裏に浮かんだことがあった。
そうだ、子龍が言っていなかっただろうか。
陳叔至とかいう、やたら腕のたつ細作の上役というのは、女らしいと。
この女のことか? ええい、名前を言っていたっけな。失念してしまった。
この女が、袁譚の情婦で、さらには細作の束ねだったとしたら、そうか、ほかの連中が、なにやら曰くありげな目をしてこちらを見るのも、合点がいくというものだ。
ただの情婦ならば、儂を見下げ果てていて、いらなくなった女を与えてやろうと考えた、とも取れるが、細作の束ねだった女、つまりは、袁家の事情の裏まで知っているような女を、儂にくれるとは思えない。
いくらなんだって、このお坊ちゃま、そこまで莫迦ではねぇだろう。

劉備は、ちらりと、己のすぐ後ろに侍っている、糜芳のほうを見た。
糜芳は、両隣に居合わせた武将たちとすっかり意気投合して、それなりに盛り上がってしまっているようだ。

糜芳も、悪い男ではない。
ちょっとばかり、意志が弱くて、言い訳上手なだけである。武将らしくない欠点だが、残念なことに、この男、実の兄とはちがって、文の領域には、あまり秀でていないから、武将として身を立てていくしかないのであった。
公孫瓚のときに主騎として連れていた趙雲が、まるで手本のように見事な主騎であったから、劉備は、今日の席にも、趙雲を連れてくることができたらな、と嘆息した。
趙雲であれば、いかに上席に案内されたとはいえ、簡単に気を許すこともなく、下手をすれば、周りをどれだけ白けさせようと、酒の一滴も飲まずに過ごしたことだろう。

そういえば、昔、公孫瓚の兄ぃのところに世話になっていたとき、子龍があまりに盛り上がらないヤツだというので、張飛が無理に芸をさせようとしたことがあったっけ。
あいつもまだ十五かそこらで、人形のようだった。
みんな、ただの育ちがいいお人形というだけで、子龍が儂に可愛がられているのだと思っていたから、可哀想にとか言いながら、笑うばかりで助けてやらなかったのだった。
そうしたら、子龍は、張飛があんまりしつこいので、酒瓶を引っつかんで、一気に飲み下して、酒がたくさん飲める程度で威張るな、なんて啖呵を切って、みんなを驚かせたことがあったな。
そのあとぶっ倒れるかと思ったら、最後の最後までけろりとした顔をしてやがった。
張飛が、どうも趙雲につっかかるのは、余裕がある素振りがきにくわねぇんだろうな。
育ちというものかね。
糜正方さんも似たようなところがあるが、最初から、全力で突っ走っていく張飛みたいなのには、力を残しておく、という発想自体がねぇんだよ。
張飛のようなのは、気持ちはいいけれど、後がなさすぎるからな。
余力を十分に考えて行動するやつと、余力なんぞ残さず、つねに全力でいくやつと、両方好きだといったら、また八方美人と怒られるかな。
などと、劉備は懐かしい思い出に目を細める。

ふと、紅霞が、怪訝そうに顔をのぞきこんでいるのが判った。
「ああ、すまねぇな。考え事をしていたよ。もしかして、ずっと話しかけてくれていたかい?」
劉備が問うと、目に濃い縁取りをした紅霞は、いいえ、と首を振った。
「なにか、楽しいことでも思い出されていたのでございますか。すこし、笑っておいででした」
「ああ、そうかい? ま、楽しいと言っちゃ、楽しいことかな」
「楽しいことが、たくさんおありなのですね」
おや、嫌味かな、と劉備は残念に思ったが、しかし紅霞の顔は、してやったりという得意な顔もなく、どこか沈思に耽っているような顔をしている。
「あんたのほうは、楽しくないことを思い出しているようだね」
その声に、紅霞は我にかえって、大きく首を振った。
「いいえ、そのような。わたくしは、まえまえから劉左将軍を尊敬いたしておりました。このように、お側に召していただけるなど、女として光栄この上ないと思っております」
「無理はしてくれるなよ。儂はなにが苦手かって、あんたみたいに生真面目そうな女に、虚勢を張られることさ。あんた、うちのカカアに似ているよ」
「奥方様でございますか?」
女にとって、別な女と比較される、というのは、面白くないにちがいない。
判っていたが、劉備はあえて口にした。
「ああ、二人いるのだが、そのうちの、古いほうな。後ろでベロンベロンになりつつある男の、妹じゃないほうだ。あんたは、割りと顔に出るほうだな」
「そのようなことを言われたのは、初めてでございます」
「おっと、虚を突いて、逆に気を引こうなんて考えているわけじゃないから、構えないでくれな。先に言っておくが、儂はあんたに手を出すつもりはないよ。カカアが寝込んじまっているからな。これ以上、不実な夫にはなれねぇんだ」
「奥方様は、ご病気でございますか」
「気の病というか、あれなりの抵抗というか、ま、ナイショにして欲しいのだが、実は、カカアたちが人質にとられているあいだ、儂は寂しくてなあ、ついつい、若君にお仕えしていた女の一人に手を出してしまったのよ」
とたん、それまで殊勝な舞姫の顔を崩さなかった紅霞の顔が、薄気味悪い模様をもつ毛虫を間近にみたような顔に変わった。
この女、なかなか面白い顔をするな、と、面白がりつつ、劉備はつづける。
「カカアたちが、関羽…これは儂の義弟なのだが…に守られて、人質といっても、わりと平和に暮らしてこられたのは知っているよ。とはいえ、人質は人質だ。たくさん苦労もあっただろう。なのに、儂ときたら、浮気をしていたのだ。それは怒るわな。
こりゃいかんと、カカアたちに知られぬよう、女とは別れたのだが、その女が、別れ際に、形見になるものが欲しいというので、儂は銀の櫛を買ってやったのだ。
ところが、櫛を買った、ということがカカアに知られてな、それも悪いことに、自分にくれるものだとかんちがいしてしまっていたようなのだ」
「奥方さま、お気の毒に」
と、暗に劉備への非難をひじませて、紅霞はつぶやいた。
「しかも、どこのどいつか不幸な噂話が大好きなヤツがいやがって、儂が女をべつに囲っているらしいと、女と別れたあとに、カカアに吹き込みやがった。
カカアにしてみれば、二重の裏切りに思えたのだろうよ。櫛はもらえない、しかも別に女が居る。あたくしたちの苦労は、なんだったのでございますか、とそうくるわな」
「劉左将軍は、なんとお答えになったのですか」
「そりゃあ、ひたすら平謝りよ。あんた、そのときの儂の姿を見たら、きっと腹を抱えて笑い転げていただろうぜ。蛙みたいに地べたに這いつくばって、許してくれ、許してくれ、とそればっかり。
なにせ言い訳めいたことをひとつでも口にしたなら、枕だの香炉だの、いろんなものが飛んでくるのだ。それを避ければ、また怒るし、だまって受け止めれば、儂が痛いしでさんざんだ」
劉備が、そのことを思い出して、いまは腫れの引いた額をさすると、紅霞が、はじめて声をたてて、すこしだけ笑った。
「うらやましい。それほどに、奥方さまは劉左将軍を想っておられる。そして、劉左将軍も、奥方さまを大切にしてらっしゃるのですね。浮気はいけませんが」
「うん、浮気はいけねぇよな。本当に懲りたぜ」
言いつつも、劉備は、紅霞が、はじめて袁譚のほうをすこしだけ見たのに気づいた。
袁譚のほうといえば、自分が下げ与えた女には、まったく興味を示さないふうである。その存在すら、もう忘れてしまっているかのような。

劉備とて、これまでに生きて、胸を裂かれるような思いを何度も経験してきた。
なにが一番辛かったかといえば、身内をなくしたことや、裏切られたことではない。
自分でも意外に思うところであるが、まだ旗揚げしたばかりの義勇軍であったころ、だれからも顧みられず、恩賞からも程遠いところにあって、部下たちに、ろくな褒美を与えてやれなかったことである。
だれよりも多く傷つき、だれよりも純粋に世のためにと戦った。
それなのに、私利私欲に満ちて、世の悪の原因となった連中が、高い地位に居るというだけで、権力者と誼をつうじているというだけで、高い報酬を得ている。
自分たちは打ち捨てられ、だれも声をかけてはくれない。
仲間たちがいたから、耐えられた時期であった。
もし、たった一人で耐えなければならなかったことだったら、と思うとぞっとする。
男と女のことは、恩賞云々とは根本的にちがうが、だれよりも振り向いて欲しい者から捨てられ、まったく関心を払われない立場というところは、似ているといってよいだろう。
男女の情に関して、比較するところが、軍の運営云々だという、儂も色気がないな、と呆れつつ、劉備は、紅霞という女に同情した。
同情しつつも、己を自制した。
いい女だ。
もちろん、間近で見れば、美人であることはちがいないが、細作というわりには生一本そうなところといい、純情なところといい、わりと好みである。
しかし、そう油断させるための罠、という可能性とて、ないわけではないのだ。
こちらも油断してはならない。仕切りなおしといこう。

「こんな豪勢な宴に招かれておいて、演目とはまったく違うことで盛り上がっちゃ、公子に怒られちまうな」
ちらりと見れば、袁譚は、うさぎたちの舞に手を打って、満面の笑みを浮かべている。
その手にある豪奢な杯に、両脇に侍る童たちが、すこしでも酒が減ると、すぐさま手にした酒瓶を継いでいた。
張飛が見たら、こんな気の利いた童がほしい、と言い出すだろう。しかし、若大将、飲みすぎじゃないか。
それに、いつの間にやら、子供が増えていないか。
あっちの席、こっちの席、酒瓶をもってうろうろと。
まだ十歳かそこいらだろうに、化粧なんかして、なんだか薄気味悪いね、これは。

「紅霞さんよ、だいぶ夜も更けた。子供は寝る時間じゃないのかい」
しかし紅霞は答えず、緊張した面持ちで、宴の様子の全体を見つめている。
どうしたのであろうと劉備が訝しんでいると、とつぜん、陽気な調子で、手にしていた酒瓶を、劉備の杯に傾けた。
「ほとんどお飲みになっていないじゃありませんか。わたくしの酌では、酒が進まないとでもおっしゃいますのか」
「そんなことはねぇが」
うろたえる劉備であるが、紅霞は、満面の笑みを向けつつも、さっと劉備に顔を寄せ、すばやく、だれにも聞こえないように囁いた。
「お助けいたします。これは罠です。童たちがやって来ても、酒を飲んではいけませぬ」
「ええ?」
「気づかれてはなりませぬ。酒には、正体を失わせる薬が盛られているのです」
たしかに見れば、どうも群臣たちが、だれもかれも水母のようにふにゃりとなって、悪酔いをしているようである。
なかには、側にはべる美姫たちに、しなだれかかって、人目もはばからず、その身体をまさぐろうとする者さえいた。
「おいおい、袁家の宴ってのは、大胆なものだな。いままで、こんなふうだったっけ?」
「まあ、そのようなご冗談を」
と、わざと艶やかな声で笑いつつ、紅霞は劉備にしなだれかかった。
鼻腔をふわりとくすぐる香りに、手を出さないと決めながらも、劉備は顔をゆるませた。
紅霞は、いい香油を身につけているようだ。
「あの者たちの狙いは、貴方様でございます」
「もしや、ばれたかな」
「趙子龍の動きをとおして、貴方様が袁家を裏切ろうとしていることは、気づかれておりました」
「そこまで知っているとなると、あんたも只者じゃねぇな。いや、正直に話してくれて助かるぜ。腹を割って話せるからな」
「わたくしは、若君に、細作として仕えておりました」
「じゃあ、陳叔至の上役というのは、やはりあんただったか」
紅霞は、顔を上げて、劉備を見た。その仕草は、傍から見れば、舞姫が、男に甘えて、耳に囁きかけているように見えただろう。
「叔至にお会いになったそうですね。あれは、腕が立ちます。わたくしが、ただの兵卒であったあの男を見い出し、育てたのです。きっと貴方様のよき配下となるでしょう。細作としてではなく、武将として、使ってやってくださいませ。
あれは細作よりも、武将として生きるほうが、似合っている男です。腕は立つし、隠密もうまい、話を集めてくるのもうまい。けれど、あれはまとも過ぎるのです。
汚いことは、本来出来ない男です。それを無理にさせて参りましたが、もうこのあたりが限界でございましょう」
「若いのに、男を育てることができるなんざ、あんた、やっぱり只者じゃねぇな。しかし、気になるのだが、あんた、まるで遺言みたいな話し方をする」
紅霞は、劉備の方に手をかけ、そして自分の頬を、劉備の胸に預けるようにして語った。
「お気づきでございましょう。わたくしは、若君の側女でありました。寵を失い、捨てられる、哀れな女でございます。ただの女であれば、家臣に下げ渡すこともできましょうが、わたくしは細作でございます。あまりにいろいろ知りすぎてしまいました。知りすぎた者は、消される運命にある。
若君が、わたくしを貴方様に与えると言ったのは、わたくしに、貴方様を殺せと命じたのと同じでございます」
「あんた、儂の刺客だったのか」
「若君は、わたくしが命令を引き受けて、勝手に貴方様を殺したことにしたかったのでしょう。たしかに、若君は、はっきりとはわたくしに命令をしていないわけですから、すべては、わたくしの所為に出来るという算段なのです」
「呆れた薄っぺらい策だな」
「呆れているのは、わたくし自身でございます。たとえどんな状況に陥ろうと、決して袁家は裏切るまいとそう決めておりましたのに、いまは、自分が自分ではないような気がするほど、おそろしく醒めてしまっている。
わたくしが、若君に拾われる前、どれほどみじめな暮らしを強いられてきたか、どれほどの恩義があるか、わかっているのに、心はもう奮い立たないのでございます。
これほど冷たい心を抱いたまま、この先を生きていけるとは思えませぬ。おそらく、わたくしは、もう死んでいるのでございましょう」
「生きているじゃねぇか。だって、あんた、温かいぜ」
「それは、貴方様の熱が、わたくしに移ったからでございましょう」
そう言って、紅霞は、さらに劉備の胸に、自分の頬を押し付けて、うすく目を閉じた。
「わたくしが若君に拾われる前は、死んだ方がよほどマシだという生活でございました。けれど、拾われたあとは、死んでいるよりマシだった、という程度だったように思えます。
なぜに、わたくしは、貴方様のような方と、もっと早くにお会いできなかったのでしょうか」
「嬉しいことを言ってくれるが、しかし、あんた、間違っているぜ。最悪の状況に追い込まれた女の背負わされるものの酷さは、儂は知識としてしか判ってやれねぇけれど、だけとあんたは、ちゃんとすべて耐え切って、今日まで生きていたわけじゃねぇか。
そんなに頑張ってきた自分を、あっさり突き放してしまっていいのかい。
こんな滅茶苦茶な世の中で、死にたくないといって死んでしまった連中の屍を踏んで、儂たちは生きているのだ。いま、この世に生きている人間は、そのことをちゃんと自覚しなくちゃいけねぇよ。
だから、あんたが、自分を品物みたいに言うのも悲しいし、正直、腹がたつぜ。細作なら、その手で何人も殺めてきただろう。ここであんたが倒れたら、殺した連中も浮かばれねぇや」
「殺した相手の、顔も覚えておりませぬ」
「儂とて覚えてない。けれど、命を奪ったのは事実だろう。人を殺めたのはなぜだい? 生きるためだったのじゃねぇのか。それを忘れて、もう死んでいますなんて匙を投げるのは、あんた、それは卑怯だよ。
あんたが儂を助けてくれるというのなら、儂もあんたを助けるさ。ただし、儂は生きた人間しか助けねぇよ」
紅霞は黙った。
胸に伝わるわずかな震えから、もしかしたら泣くのを堪えているのかもしれないな、と劉備は思ったが、あえて気づかぬ振りをした。
そして、紅霞の代わりに、徐々に光景が歪みつつある、宴の様子を見据えた。



「兄者はいい思いをいているみてぇだな」
ずるいぜ、とつぶやく張飛の言葉に、陳到と趙雲は物陰から様子を覗き見て、趙雲は、呆れたように目を細め、陳到はというと、思いもしなかったことに、つよい衝撃を受けて、沈黙した。
劉備と紅霞は、傍目から見れば、まるで仲むつまじく、人目もはばからずいちゃついているようにしか見えない。
紅霞が芝居で劉備にしなだれかかっているのではないということは、長年、紅霞を見てきた陳到だけに、すぐにわかった。
「事情がよくわからぬが、あの女が邪魔だな」
と、趙雲が冷たいことを言うので、陳到は、抗議するように口を挟んだ。
「邪魔などと、とんでもない。あれが、陳紅霞だ」
「助けようとしているのが、二人一緒にいるってのは、都合がいいな。おい、おまえら、乗り込もうぜ!」
張飛が、薄闇のなかで舌なめずりするのを、空腹をおぼえた獰猛な獣のようにぞっとしながら見つつ、陳到は言う。
「お待ちを。いま突っ込めば、かえって危うい」
「危ういだと? 見ろよ、陣の外だってろくな警備もない、宴の中じゃ、どいつもへべれけ、目をぱっちりまともに開いているのはガキばっかりじゃねぇか。
おっと、コレじゃあ、暴れる必要もないわな。俺が一喝したら、みんな肝をつぶして、はいドウゾ、お帰り下さいとなるかもしれねぇや。どころか、お土産だって持たせてくれるかもしれねえぞ」
と、張飛は、気を使っているのか、声を立てずに笑う。
それでも、くしゃりとなった顔は、闇の中では悪鬼のように見えた。

「十万の兵に守られているということで気が緩んでいるのだろうか。ひどい状態ではないか。ここまでくるのに、まるで苦労をしなかった」
と、趙雲は、生真面目なところを見せて、苛立ちを隠さずに陣を振り返りつつ言う。
たしかに、陣の外の守衛たちも酒をくばられ、それぞれに散らばって、ちいさな宴を開いているのである。
なかには酔いつぶれて眠っている者もいるし、賭けに興じている者もいる。
たるんだ空気が全体を覆っていて、歩衛として頑張っている兵卒もたまにはいるが、近づけば、こくりこくりと舟を漕ぎ、器用にも、立ったまま眠っているのである。
「罠かも知れぬと思っていたが、そうではない。陳叔至、なぜに危ういという。俺も張飛の意見に賛同するぞ」
「なんで関羽の兄貴のことは、関羽殿のくせに、俺だけ呼び捨てなのだよ、おまえは」
張飛がぶうぶう言うのを横にして、陳到は答えた。
「あの童どもは、それぞれが訓練を受けた刺客でございます。油断して飛び込めば、たちまち童たちは、劉左将軍を襲うことでしょう」
「ガキが刺客だと? 冗談だろう。俺は、自慢じゃねぇが、女とガキだけは、斬ったことがないのだぜ?」
「子供が相手など、ぞっとせぬな。連中がしきりに振る舞っている酒、あれはなんだ?」
趙雲の指摘に、陳到も、幕間から顔を出して、中を覗き見る。
あいかわらず、紅霞は劉備のそばにあり、陳到は苛立ちをおぼえるが、宴の様子を見回して、おどろいたことに、ちょうど銀兎が袁譚の前で舞を披露しているところであるのに気がついた。
「おい、どうした」
ほかならぬ趙雲に声をかけられ、陳到は複雑に思いつつ、ぐい、と手をひっぱると、銀兎を見るようにと、手ぶりで示した。
「たしか、昨夜、われらの陣で舞を踊っていた娘だな」
「知っているではないか。なにが、知らぬ、だ」
「名前だけ言われたから、知らないと答えたのだ」
しれっとして答える趙雲に、張飛が、陳到の肩に腕をまわして、言った。
「な、こいつ、余裕たっぷりでいやなやつだろう? 仲良くしたくない感じだろう?」
張飛は、ちろりと趙雲を見つつ、陳到の肩を、同意を求めるように、揺すってきた。
「あの娘が、どうだというのだ。まさか、一緒に助けろなどと言い出さないだろうな」
張飛は言葉を隠そうとしないので、趙雲は、すっかり臍を曲げていた。なにやら嫌味を言ってくる。
「冷てぇ男だな。あの娘だって、俺たちの知り合いだろう? これから乗り込むのだ。あの娘が危ない目にあわないよう、助けてやるのが当然だろうが」
「おまえの知り合いの範囲は広すぎる。一晩、ちょっと顔をあわせただけで、知り合いになってしまうのか?」
「あっ、このヤロウ、俺のほうがずーっと年上なのに、『おまえ』呼ばわりしやがった! おまえとは、絶対に仲良くしてやらねぇからな! おまえからは、なんつーか、天敵っぽいニオイがする!」
「しいっ、お静かに!」
あわてて陳到は口止めをするが、運が良いことに、張飛が声を荒げたのと、銀兎の踊りが終わり、拍手が起こったのとは、ほとんど同時であった。
見れば、なかでも袁譚は大はしゃぎで拍手を送っている。
そうして、畏まる銀兎に言った。
「実に見事な舞であった。お前、名をなんと言う。わたしのそばに来て、酌をするがいい」

銀兎の兄だという座長は、ちょうど楽士たちの横で、目立たぬように様子を見ていた。
座長が立ち上がり、うちの者は酌をしない、と言いだすことを陳到は期待したのだが、さすがに袁家の次期当主と目される若者に、そんなことを言う度胸はないらしい。
座長が動いたのを見て、陳到は期待したが、期待はすぐに裏切られた。
座長は、渋る銀兎を促して、袁譚の手招きに応じさせる。そして、袁譚に、その娘は銀兎というのだ、と告げた。
川辺で会った時、宴に出たくない素振りであった。こういうことがあるから、あの娘は、宴を嫌っているのかもしれない。
宴が嫌いなのに、舞姫として生きている娘が、不憫に思われた。
考えてみれば、座長とて、妹を、名の知られぬ男たちに触れさせるよりは、名家の将来有望な若者に与えたほうが得だと考えているのだろう。

「む」
と、声に緊張を走らせたのは、それまでお道化たことばかり言っていた張飛であった。見れば、その顔は、すっかり勇猛な戦士のそれである。
趙雲も、声には出さなかったが、なにかに気づき、顔をしかめた。
陳到も、二人の目線を追って行ったが、先には、銀兎と袁譚の姿があるだけだ。
銀兎がうつむき加減に酒瓶を手にし、袁譚の杯に酒を、緊張した手つきで注いでいる。
そのとき、袁譚の前に畏まっていた座長が、不意に立ち上がると、懐に隠し持っていた刃をすらりと抜き放ち、叫びながら、袁譚に斬りかかって行った。
「貴様らが見捨てた、わが主君、袁公路さまの恨み、この刃にて受けるがよい!」


十回目につづく
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