七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 八回目
「やあやあ、失礼いたします」
と、どこか図々しさを含ませて、気配をまったく隠さずに陳到が近づいていくと、趙雲の顔は、はっきりと敵意で強ばった。
振り返った糜夫人は、袖で口元を隠しつつ、不思議そうに首をかしげる。
「見たことのないお方ね。新しく殿のご配下になられた方?」
糜夫人は、趙雲にまくしたてていた興奮がまだ醒めないのか、すこし早口で呼吸も荒かった。
しかし、そこは劉備の妻としての矜持がある。すぐに息を整えると、いぶかしそうに首をかしげた。
趙雲のほうは、怒気もあらわに、糜夫人を庇おうとするが、陳到は、趙雲が体勢を整えてしまう前に、すばやく糜夫人に向かって、うやうやしく拱手した。
「劉左将軍の令夫人とお見受けいたしました。お初にお目に申す。わたくし、陳叔至と申します。どうぞ、お見知りおきくださいませ」
「陳叔至殿とおっしゃるのね。はじめまして。殿に、どうぞよろしくお仕えくださいな」
真正面から初めて見る糜夫人というのは、愛嬌のあるすこし大きく垂れ目がちな、愛らしい女であった。肌が深山に積もる雪のように白い。
年は、陳到よりも、十は上だろう。とても痩せていて、吹けば倒れそうな風情である。さきほど、趙雲に向かって、女のもとへ乗り込んでやるのだと、息巻いていた女と同一とは思えない。
「いいえ、奥方様、この者は」
趙雲が訂正を入れようとするのを、陳到は、またも素早く脇に入って遮った。
「それはもう、誠心誠意をこめまして、お仕えさせていただきます。いやはや、なにぶん、新入りなものでして、右も左もわかりませぬ。そこで、朋友たる趙子龍殿を探しておりました。見つかってよかった」
「そうでしたの、良かったわね」
邪魔者が入ったことで、気まずさや失望もあるだろうに、糜夫人は、陳到の言葉に、自分のことのように安堵の表情を浮かべた。
朋友などと言われて、趙雲はさらに怒気を強める。
糜夫人は、真後ろに獰猛な虎がいても、まったく気づくふうでもなし、どころか、すこし拗ねたような顔をする。
「子龍殿もお人が悪い。お友達とお約束があったのですか」
と、糜夫人は、ふたたび趙雲のほうを向いた。
「とんでもございませぬ」
いささかぞんざいにもとれる口調で答えつつ、趙雲が、傍らに立てかけてあった長剣に目を移す。
そしてまた、陳到のほうを見るが、陳到のほうは、袖に隠していた短剣をちらりと見せて、趙雲のほうに、満面の笑みを見せつつ、手をひらひらと動かして見せた。
糜夫人はなにも気づいていないが、陳到は趙雲に対して、人質を取ったのだ。
背中を向けている無防備な女の背中に、斬りつけるつもりは毛頭なかったが、趙雲が、自分を襲ってきた子供たちを使ったのは、陳到だと思っている以上、思い込みを利用するのは、有効であった。
「では、残念ですけれど、わたくしの用事は、また明日ということにしていただこうかしら」
勢いをそがれてしまった形となり、糜夫人は残念そうであったが、さきほどよりは、ずいぶんと勢いが落ちている。
陳到という、第三者が入ったことで、盛り上がっていた心が、冷静になってきたのだろう。
ぎりぎりと陳到を睨みつけてくる趙雲の眼差しを、精一杯の笑顔で受け止めつつ、陳到は言った。
「ところで、奥方様、失礼ながら、趙子龍殿とのお話を、わたくし、聞いてしまったのでございますが」
「まあ」
つぶやいて、糜夫人は、決まり悪さを跳ね除けるためか、細い眉を、ぎゅっとしかめた。
「申し訳ございませぬ。叔至めは、ネズミのような真似事は、本来好まぬ男なのでございますが、ついつい耳に入ってしまったのでございます。ええ、あわてて耳をふさごうとしたのでございますが、後のまつり。どうぞお叱りくださいますな。
お話を耳にしまして、これは、ぜひに名乗り出なければならぬと思いまして、こうしてネズミと蔑まされる恥をしのんで、顔を出した次第でございます。ご安心くださいませ、きっと、わたくしが、奥方様のお心を晴らしてごらんに入れますゆえ」
「どういうことですの」
「叔至めは、なんでも知っているからでございます。夫人がお尋ねの件の女子、主公とのつながりはもうありませぬ」
「な」
と、これは趙雲が発した驚きの声である。陳到が口にしたのは、まったくのでたらめであった。
女と別れていないと言えば、糜夫人は、なにか知っているのなら言えと迫ってきて、収拾がつかなくなる恐れがある。
女と別れていると答えれば、糜夫人は安心し、趙雲も解放されるうえ、恩も売れる。さらに、サシで話ができる、というわけだ。話に持ちこめられれば、だが。
「叔至殿は、なぜご存知なのですか」
「奥方様にはあえて申し上げましょう。わたくし、主公にお声をかけていただく前は、袁家の細作をしておりました。そして、袁家の命により、主公の身辺を探っていたのでございます」
「まあ、細作。そうでしたの」
糜夫人は、軽蔑も怒りもあらわさず、素直に納得している。
劉備の妻になってこのかた、呂布に人質に取られたり、曹操に人質にとられたり、そのほかさまざまな苦労を経験したなかで、男たちの弄する駆け引きを目の当たりにしてきたから、味方同士が腹の探り合いをするという、女が嫌いがちな話にも、抵抗がないのだろう。
それよりも陳到は、自分が細作だと名乗ったのに、驚かれないほうが不思議だった。
なぜに素直に名乗ったのかといえば、まったくの嘘を並べ立てるよりも、かぎりなく真実に近い嘘をついたほうが、信憑性が増すからである。
嘘をつく場合、かならず事実と混ぜ合わせてつく。
かじり聞いた知識だけを基盤にして嘘をつけば、すぐに化けの皮がはがれてしまう。細作の基本だ。
この夫人、どうやら、あるものをあるがままに受け入れる、稀な器量の女人のようであった。
「では、殿のことは、子龍殿よりお詳しいのね?」
「それはもう。主公は、ご夫人たちがお留守のあいだに、孤独に負けて、ついつい手ごろな女人に、手を出してしまわれたのでございます。しかし、関将軍が、奥方様たちを連れて、はるか千里の彼方より、こちらに向かっていると話を聞き、はっと我に変えられたのですな。
主公はおっしゃいました。
『儂には過ぎた妻が二人もいるというのに、そして二人とも、儂のためにたいそうな苦労をかけてしまったのに、儂ときたら、ついつい寂しさに流されて、つまらぬ女と情を交わしてしまった。あの二人は、このことを知ったなら、不実な夫よと、儂を責めるにちがいない。嗚呼、どうしたらよいであろう』、と。
主公はご自分の所業に、たいそう恥じてらっしゃいまして、ご夫人方にお話することもおそろしくて出来ず、そこで、女に手切れ金を渡して、別れてしまうことにしたのです。
ところが、女は、金なんて、即物的なものじゃイヤ、なにか記念になるものを頂戴な、というのです。いやいや、生意気な女とお思い召さるな。あわれな女でございます。
そこで、主公は知恵を絞って、そうだ、銀の櫛なら、飾りにもなるし、いざとなれば、売ることもできると思い立ち、銀の櫛をもとめて、女に贈ってやったという次第。
つまりは、奥方様に操を立てるためのこと。いかがでございます。この話をお耳に入れれば、甘夫人さまも、きっとご加減がよくなるのではないでしょうか」
「そのようなことがございましたの。では、その女は、もう殿のお側にはいないのですね」
おや、意外と単純な女だな、と安堵しつつ、陳到は深くうなずいた。
すぐにまとまるかな、と思った陳到だが、しかし糜夫人は、すぐに顔をしかめた。
「でも、浮気は浮気ですわよね?」
手ごわい。簡単に丸め込むのは無理か。
「そこはそれ、男という生き物は、奥方様がおっしゃったとおり、どうしようもない生き物でございまして、これをあるときは叱り、あるときはおだてて言うことをきかせ、そしてあるときには、しっかり甘えさせてやる。これが夫婦円満の秘訣かと」
「言われてみれば、そうかもしれないわ。でもわたくしたち、納得が…」
「いえ、『でも』の数が増えるほどに、妻の価値は下がってしまいます。奥方様、お気持ちは、この叔至、よーくわかり申す。しかし、そこをぐっと堪えて、主公が奥方様のために、女と別れたことを考えてくださいませ。殿にも、そのお心は、かならず伝わることでしょう。
そのとき、『ああ、儂がよその女に手を出したことを知りながら、わが妻は見てみぬふりをして、許してくれたらしい。なんとすばらしい妻であろう』と、心からの賛辞を贈るにちがいありませぬ」
「ひたすら殿方の仕打ちを耐えることだけが、女の価値を高めるだなんて、嫌な話ですわね」
と、糜夫人は、悲しそうに、しかし、どこか諦めたようにつぶやいた。
陳到が思い出すのは、銀兎のことよりも、たとえ若君の心が離れても、袁家を裏切らないと言った、紅霞のことであった。
男にひたすら付き従うのが女の価値だというのも、ひとつの真理かもしれない。健気な女は美しい。
では、男は、己を尽くす女を、全力で守らねばならないのではないか。それすら出来なくなった男に、従う理由はどこにあろう。
やはり、紅霞は、己の未来を、あきらめてはならない女だと思う。
助けねば。宴はすでに始まっている。
袁家に尽くすことが、紅霞の心意気ならば、上役を危機から救うことが、兵卒から細作になって、紅霞に仕えてきた陳到の心意気である。
「耐えるばかりではなりませぬ。理不尽なことには、声をあげて叫ばねば」
陳到の言葉に、糜夫人は驚いたように、愁眉を開いた。
「ひたすら耐えて、沈黙をする女が、よい女だと、普通は言われるでしょう?」
「いいえ、耐えるばかりの女は、男を立てているようで、その実、男のわがままを許し、滅ぼす手助けをしてしまうものだと思います。男と女とは、助け合うものでなくてはなりませぬ。耐えるばかりではいやだと言うのがゆるせないと、男が女を捨てるようならば、それはもう、男の器量が狭いので、堂々と捨てておしまいになればよい。そもそもの縁が、そこまでということではないでしょうか」
とたん、糜夫人は、楽しそうに声をたてて笑った。
「叔至殿は、とても高い理想をお持ちなのですね。世の殿方が、みな貴方のようであれば、女も苦労をしなくてすむというのに。貴方は、まだ独り身でしょう?」
「なぜお分かりになりますか」
「実際に妻を娶れば、生活の厳しさに流されて、男は、女の言葉を許すことができなくなってしまうものです。とはいえ、ともに手を携えて、耐えていける夫婦になることに、わたしも憧れます。どんなに辛くて苦しいときも、女を守ることができる殿方に嫁ぐことができたら、きっと幸福なのでしょうね。でも、そのためには、女も、男に守られる価値がある女にならなくては」
糜夫人は声をたてて笑いつつ、最後に、小さいため息をついた。
「まだお若い貴方がたに、こんな愚痴を聞かせてしまうつもりではなかったのですけれど、わたくしも、しっかりしなくてはなりませんわね。ありがとう、おかげで頭が冷えました。殿と、女が別れたのだと、信じることにいたします」
「とんでもございません。糜夫人さまのお力になれてなによりでございます」
「お見送りは結構です。すぐそこに、侍女を待たせてありますの」
「いいえ」
糜夫人が立ち去ろうとするのを、陳到は言葉で引き止めると、その背後にすばやく立って、羽交い絞めにした。袖に隠し持っていた短刀でもって、細い首筋に、ぴたりと当てる。
「お静かに」
「貴様!」
趙雲が、長剣を拾い上げて抜き放つ。
「高説をぶっておいて、女を人質に取るとはな! なんと見下げ果てた男だ!」
「すまぬな。こうでもせねば、夫人がいなくなった途端、貴殿はわたしを斬っただろう」
「当然だ。子供を刺客に仕立てる男と交わす言葉はない」
「あれは、わたしの所業ではない」
「では、だれだ」
趙雲たちのいた場所は、陣の中心とは離れたところにあるために、糜夫人と陳到、そして趙雲の様子は、まだだれも気づいていないようである。
陳到は、あまり圧迫しないように気をつけていたが、腕のなかで、糜夫人が、刃を前に、怯えているのがわかって、申し訳ない気分になった。
陳到は、糜夫人が気に入ったのだ。細作にあるまじき甘さかもしれないが、糜夫人を傷つけるつもりはまったくなかった。
趙雲は、まさに狩人と対峙する虎のように、唸るように言った。
「では、おまえのほかに、誰が俺を殺そうとするのだ」
「心当たりはある。だが、おまえを殺そうとする理由がわからぬ。よいか、本当に、わたしではないのだ」
「では、なぜ奥方を人質に取る! ただちに奥方を解放せよ!」
「子龍殿、この者の話を聞きましょう」
と、陳到に羽交い絞めにされている糜夫人が、突きつけられている刃を気にしながら、言った。
「わたくしを殺す機会は、たくさんあった。けれど、すぐにはそうしなかった。この者は、貴方に、どうしても聞いて欲しい話があるのです。信じる、信じないは別にして、話を聞こうではありませんか」
趙雲は、しばらく、糜夫人と、それから陳到を見比べていたが、やがて悔しさをにじませて、陳到に言った。
「話とやらはなんだ。また、俺の首を寄越せという話か」
陳到は、ごくりと生唾を飲んで、慎重に言葉を選びながら、言った。
「首などいらぬ。刻限は過ぎた。いまさらおまえの首を持って行ったところで、事態は変わらぬであろう。我らは仕事を放棄したのだからな」
「我ら? 放棄だと?」
怪訝そうに、趙雲が眉を寄せる。
陳到は、こくりと頷いた。
ばちばちと、篝火の、薪がはぜる音が大きく響く。こめかみから首筋にかけてつたう汗が、なめくじのように、ゆっくりと冷たく落ちて行った。
「そうだ。そも、劉左将軍の名を使い、我が陣より兵を集めている、貴殿の首をもってこいと命令したのは、我らのお仕えする袁譚さまではなく、その周りに侍っている、北からやってきた細作たちであった。
この細作たちは、子供をつかって仕事を進めるのが特長で、ひどく残忍な奴らだ。貴殿の命を狙ったのも、こいつらだ。わたしたちは、貴殿を襲う計画を、知らされていなかった。奴らは、是が非でもおまえを殺したいらしい」
「俺を? 北からやってきた細作たちが? なぜ?」
「なぜとは、わたしが聞きたいところだ。最近は、若君もこやつらに骨抜きにされて、若君の寵愛が唯一のよすがであったわれらは、すっかり閑職に追いやられてしまったのだ。貴殿の首を取れという命令は、若君の命令という形を取ってはいるものの、なぜに、つい先日まで、ただの流浪人であった貴殿を、殺さねばならぬのかが、さっぱりわからぬ。
もし、劉左将軍に痛手を負わせたいということが目的なのであれば、関羽殿を狙えばよい。関羽殿であれば、文将軍、顔将軍の仇という、立派な動機があるからな」
「お待ちなさい。子龍殿の首を取って、それでどうしようというのです」
糜夫人が、首筋に当てられた刃をしきりに気にするので、陳到は、すこしだけ、危険ではないように、刃を離した。
「趙子龍の首を取り、今宵の宴に招かれている劉左将軍の前に突き出してやれ、というのが、そもそもの命令であった」
「なんと酷いことを。貴方は、それを実行するためにやってきたのですか」
「いいえ。わたしは、趙子龍殿のご助力を仰ぐために参ったのでございます」
とたん、趙雲の険しさが、すこしだけほぐれた。
「俺の力を借りて、なんとする。宴に乗り込み、袁譚を斬るか」
「なりませぬ。宴には、我が次兄も出ておりますが、殿も兄も、斯様な陰謀が背後にあるなど、知らないのですよ。混乱のさなかに、殿に何事か起こったら、わたくしたちはどうすればよいのですか」
糜夫人が、怒りをにじませて、陳到を振り返ろうとするので、陳到は、ますます刃を遠ざけなければならなかった。
「若君を斬るなど、考えておりませぬ。わたしは、ある女を助けたい」
女、と聞いて、趙雲の顔に戸惑いが浮かんだ。
「女? そういえば、おまえの上役は、女であったな」
やはりこちらを調べていたのだな、と思いつつ、陳到は頷いた。
「わたしの上役も、いま宴に出ている。貴殿を討てという命令が、果たして若君のものなのかを確かめるためだ。
だが、そうではない。あの女の本心は、男の心が、本当に己から離れてしまったのかを確かめるために、殺されるのを覚悟して出かけて行ったのだ。
貴殿の首を持っていない以上、あの女は殺されるか、きつい処罰を免れないであろう。もとより、知りすぎた細作の運命とは、そういうものだ。
だがな、貴殿ら武将が蔑む細作にも、それぞれが忠誠を尽くして働いておるのだ。あの女も、例外ではなかった。だれよりも、若君のためを思って動いていたのだ。
それを、あっさりと、トカゲの尻尾を切るように、無残に捨てられて、あの女はそれでもよいと思っているかもしれぬが、わたしは我慢がならん! 袁譚という男に、それだけの価値があるとは思えぬのだ。
あの女は、宴から帰らぬときは、わたしだけでも逃げろと言ったが、わたしとて男だ。見捨てて逃げるわけにはいかん。わたしは、あの女を助けたいのだ」
一気に言ってしまうと、陳到は、腕に拘束していた、糜夫人を解放した。
夫人は戸惑いながらも、陳到から離れる。
趙雲は、すぐに手を伸ばし、自分の背後に、夫人を庇った。
趙雲は、長剣でもって、すぐに陳到に斬りかかる素振りをみせたが、陳到のほうは、手にしていた短刀を構えることもせず、だらりと両手を下げて、敵意のないことを示した。
「とはいえ、わたしも細作。我が言が、たやすく信じられる類いのものではない、ということはわかっている。だから、もうひとつ頼みがある。
わたしが信用ならぬというのであれば、いますぐ首を取れ。だが、貴殿を見込んで頼みがあるのだが、わたしの首を、宴に持っていってほしい。そして、あの女…陳紅霞というのだが、それに渡して欲しいのだ」
陳到は、言い切ると、持っていた武器を、すべて趙雲の前に投げ出した。
趙雲の背後にいた糜夫人が、息を呑んだのがわかる。
ひとたび剣を手にした者にとって、それを敵の前に差し出すというのは、命を投げ与えたのにひとしい。
事実、地面に、最後の武器が落ちた瞬間、陳到は、おのれの魂を、すべて趙雲に委ねた。殺されても、恨むまいと覚悟をきめたのだ。
そして、まっすぐと趙雲を見据える。きっと、この眼差しは、紅霞が自分に向けた眼差しと、同じ色をしているにちがいない。
「莫迦な。その紅霞という女がおまえの上役だというのなら、おまえの首が、何の役にたつ」
「おまえの首を取れなかったのは、わたしが任務をおろそかにし、逆に劉左将軍に通じようとしていたからだと言えばよい。そうすれば、すくなくともその場は凌げる」
「自分を犠牲にして、助けようというのですか」
糜夫人は、趙雲の背後から、一歩、進み出ると、徒手空拳な陳到の目を真っ直ぐと見据えた。
「子龍殿、殿がお留守のいま、陣の責任をあずかるのは、関羽殿です。叔至殿の話を聞いてもらってはいかがでしょう」
「奥方様、奥方様を人質にとった男でございますぞ」
「でも、わたくしは無事ですし、怪我のひとつもしていません。そうしなければ、貴方が話を聞いてくれなかった、という理由も納得のいくものです。わたくしも、子龍殿も、冷静さには欠けている状態ですわ。ここは、話を公平に、関羽殿に聞いてもらうのが一番でしょう」
糜夫人の提案により、趙雲は無抵抗の陳到を拘束すると、関羽の前に引き出した。
関羽は、趙雲の話をざっと聞き、それから陳到の話を聞いた。
そうして、しばらく自慢の髯を撫ぜて、逡巡していたが、やがて、重々しく口を開いた。
「陳叔至の話に、嘘はないと思う。見過ごせぬのは、袁譚が、我らの裏切りに気づいており、兄者を亡き者にせんと狙っていることだ。子龍の首が手に入らぬ以上、宴にて、なにかしら仕掛けてくる可能性があるのではないか」
「兄者、いまからみんなで乗り込んで、劉備の兄者を助けに行こうぜ。袁譚の青瓢箪に、義侠の力をみせてやろうってんだ」
鼻息も荒く、張飛の言葉に、おなじく血気盛んな武将たちが、もっともだと頷いた。
「わが弟が同席しておりますゆえ、そうたやすくは、主公に危険が及ぶとは思いませぬ。あれでも、腕は立ちますからな」
と、場をやんわりと牽制するように口を開いたのは、糜夫人の兄、糜竺である。
袁譚の宴には、劉備の主騎として、糜芳が出席していた。
趙雲や関羽では、気まずいし、張飛では、雅やかな席に慣れていない。
徐州一の名家の出自である糜芳ならば、そつなく宴席に顔をだしていられるだろう、という判断からであった。
「子龍よ、おまえの命を狙っておる者に、心当たりはあるか」
関羽に尋ねられ、趙雲は渋い顔をして首を横に振った。
「それがしも、ただ流浪していただけではないので、恨みはあちこちで買っております。しかし、これほどに深く恨まれるとは、見当がつかないのです」
「北から、というと、どうしても思い出すのは公孫瓚だな。袁紹は、公孫瓚を滅ぼした際に、陳叔至のいう、子供を使った工作を得意とする細作集団を雇い入れたのかもしれぬ」
「公孫の兄ぃが、子供を使うようなことをするだろうかな」
と、首をひねるのは、劉備と学友であった公孫瓚の人となりをよく知る、張飛である。その言葉に、関羽も同意するように、深くうなずいた。
「子龍は、公孫瓚が滅びる前後のことを知らぬゆえ、おそらく判断つかぬであろうが、たしかに、儂も、公孫瓚が、子供に細作の真似事をさせるとは思えぬ。どこか子龍の預かり知らぬところで、恨みを買ったとしか思えぬな」
「そうなると、見当もつきませぬな。如何でしょう、もはやだいたいの準備はそろっております。主公と弟に、宴をこっそり脱け出すようにと伝え、今宵のうちに、この陣を出立する、というのは」
乗り込む、という提案よりも、大胆な発言をした糜竺に、その場のみなが、驚いて視線をあつめた。
「向こうに、こちらが、『気づかれているということ知っている』と知られては、かえって向こうも警戒心を強め、身動きが取れなく危険性がございます。袁譚がこちらに仕掛けてこようとしているのならば、先手を打たねばなりませぬ。
わたくしには、その者の言葉が偽りだとは思えない。わざと我らを動かして、裏切りだと言って攻めるつもりならば、最初から、子龍殿の首など、必要ないではありませぬか。裏があるにしても、それを探っている暇はありませぬ。関羽殿、ご決断を」
うむ、と重々しく頷いて、関羽は、ふたたび、うすく目を閉じて、考え込む。
みなが、しんとして、言葉を待つなか、関羽は、ゆっくり目を開くと、言った。
「出立の準備をせよ。今宵のうちに、ここを発つ。子龍は、陳叔至を連れ、このことを宴に出ている主公に伝えるのだ。ついでに、女を助けられれば、助ければよかろう」
「おいおい、こいつらだけで大丈夫か? 子龍が、陳叔至を逃しちまったら、話にならねえぞ」
張飛が、抗議の声をあげると、関羽が言った。
「ならば、益徳、おまえも一緒についていけ。ただし、酒のニオイに釣られて、妙な失態はせぬようにな。あと、女がいても、攫おうなどと考えるなよ。子龍、見張るのが二人になるが、よいか」
「はい。必ずや、主公を無事、宴からここまで連れ出してご覧にいれましょう」
趙雲は深々と拱手し、ぐるぐるに縛られたままの陳到を引き据えて、外へと出て行った。