七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 七回目
楽の音が、しずかに陣のなかを流れていく。
数万という兵士たちの集る陣である。その夜の過ごし方もさまざまであるが、どこか郷愁をさそう、甘い音色に、男たちはふと手を止め、耳を傾ける。
彼らの脳裏に、郷里や、残してきた家族、母、妻、娘たちの姿が浮かぶ。しかしその中で、だれかがいち早く、夢想から脱け出して、苦々しく皮肉をつぶやいた。
俺たちから、夢にまで思い描くものを取り上げられた理由は、偉いやつらが戦争をするためだ。
そうして、俺たちに夢を見させてくれるものも、偉いやつらが独占して、俺たちは、犬みたいにおこぼれにあずかるしかできない。
結局、偉いやつらが、俺たちからすべてを取り上げていくのだ。
その皮肉なつぶやきは、風に紛れてしまうほどの小さなものではあったのだが、まるで幻術を破る呪文であったかのように、音色に陶然としていた男たちの夢想を、つぎつぎと破っていった。
夢想から醒めれば、目の前にあるのは、なんと殺風景な光景であることか。
薪を得るために伐採され、裸になった野山、鳥や獣の声も絶えて聞こえない。
本来ならば、この身は、故郷の豊かな緑の中にあり、いまごろ万物の奏でる音楽に、耳を傾けているはずであったのに。
夢から醒めた者の胸の内に残るのは、やるせなさと、苛立ちである。
なぜ、俺たちは帰れないのだろう。
なぜ、俺たちは、こんな戦を続けなければならないのだろう。
なぜ、圧倒的に勝てるはずの戦が、これほどに長引いているのか。
ふつふつと、不満が、澱のように胸の底に沈殿していく。
この戦はすぐに終わると、だれもが口にしていた。
しかし、どうしたことか、聞こえてくるのは、味方の軍が、半分にも満たない兵士たちに打ち破られ、名の知れた勇将が二人も首を取られた、あるいは、たった2万の兵力しか持たない相手に、籠城されて攻めあぐねているという、よくない報せばかりである。
しかも、どういうわけだか、大将を討った男が、恩義を果たしたか義兄弟のところに戻ってきたのだか知らないが、こちらの陣に偉容を見せて、堂々と歩いているのは、なぜなのか。
ひとひねりできるはずの敵を潰すこともできず、自分たちの将を討った男を野放しにしている。
学がなくても判断がつく。これは異常だ。
もしや、我らの大将というのは、とんでもなく間抜けなやつなのではなかろうか。
だから、戦の最中だというのに、勝ってもいないうちから、宴なんぞ開いている。
俺たちは、あんたの志なんぞ、どうだっていいのだ。
曹賊が奪い、軟禁しているという、天子さまをお助けするのだと、そういう話ではなかったか。
いますぐ兵を動かして、二万ぽっちの兵など蹴散らしてしまえばよい。
なにをやっているのだ。
俺たちを、早く故郷へ還してくれ。
十万の兵士たちは、だれに唆されたわけでもなく、目の前に厳然とある事実だけを見て、袁家に対し、不信感を持ち始めていた。
不信感は、兵士たちの結束に、修復しがたいひびを入れた。
やがてひびは亀裂となり、兵士たちと武将たちのあいだに、深い溝をこさえる。
この溝があるがゆえに、伝達は遅くなり、機動力は鈍る。
袁紹の軍は、内側から、徐々に健全さを失っていた。
しかし悲しいことに、肝心の袁家のひとびとは、このことに気づかなかったのである。最後まで。
戦の中で行われているとは信じられないほどに、豪勢な宴であった。
さすが、当代一の名家、袁家である。
蓄えてきたものは、財だけではない。漢帝国の文化の粋が、すべて集められたといっても過言ではない。
楽士たちの質もそうであるし、舞手たちの技もすばらしいし、なにより、どうやって運ばせたのか、東西の珍味が、思いつくかぎりすべて集められている。
劉備は、自身の陣で食べるのが、どちらかといえば干からびたものが中心であったから、この贅を惜しまぬ豪華な食事に、純粋に喜んで舌鼓を打った。
劉備の席は、客将ということで、袁譚の横に設けられている。
劉備は、どんなに贅を尽くした珍味であろうと、まずいものにはまずいといい、どんなに凡百の料理でも、そこに料理人の工夫があって、さらに舌が喜べば、手放しで美味いと誉めた。
ごく当たり前の感覚なのであるが、どういうわけか、偉くなればなるほどに、自分の感覚と、言動が、一致しなくなることが多くなる。
食材が、どれだけ高価かを誉めないと、賢くないように思われてしまうのだ。
もちろん、それは料理に限ったことではないのだが。
劉備は、そういった枷に縛られない。自由な精神の持ち主である。
加えて劉備は、純粋に本質を見抜く才能に恵まれていた。
曹操が、一時的にでも劉備を手厚く保護していたのも、袁紹や袁譚が、劉備を保護しているのも、その才能を重宝したからである。
単に、劉備の率いる侠客軍団が役に立つからではない。その義人としての名声が、利用できると踏んだからではない。
権力の頂点に立った者は、つねに、さまざまな思惑を持つ人間に囲まれて過ごす。
言葉を悪くしていえば、権力者を利用しようとして近づいてくる者たちの間で、油断なく過ごさねばならないのだ。
おべっかを巧みに使って近づいてくる者と、心からの言葉を寄せてくれる者の区分けは、なかなかに労力をともなう。
乱世の権力者は多忙である。
数多ある泥の中に、黄金はどこに隠れているか、それを探す作業は、骨が折れる。
かといって、乱世である。だれもかれも、ありとあらゆる身分の者が、虎視眈々と、己の野望を果たすべく、機会を狙っている。
ささいなことが、命取りになりかねない。
だれを信用すべきかで、さまざまに状況が変わってくる。薄氷の上に立っているようなものなのだ。
背中を安心して預けられるのは、何者か。
見極める目を持つことが、英雄の条件のひとつである。
そして、万事に素直な眼差しを向けることができるのが、劉備という男である。
劉備は、無私の男である。
これだけ乱れ切った世にあって、その純粋さと無私の精神は、際立って目立つものであった。
自分の立場の良し悪しはあとに置いて、目の前の相手のよりよいようにと考えて言葉を発する。
思いつきや、こうすれば喜ばれるだろうという、よこしまな動機では、言葉を発さないので、威厳すらある。
劉備の述べる意見には、裏がない。だから、安心して耳を傾けることができる。
曹操も、袁紹もまた、劉備という人物の、単純であるが核心をついた言葉の重々しさに惹かれた。
そして劉備の人柄の誠実さそのものに打たれ、こういう人物が、自分の片腕になってくれたらと、考えた。だからこそ、厚遇したのである。
しかし、劉備は、人の下にあることを良しとする人物ではなかった。
龍の巨体は、ちいさな人間の家に押し込められてしまったら、窮屈すぎて、やがて窒息してしまう。
劉備は、何度もさまざまな勢力を放浪して過ごしたが、本人には、裏切ったという意識はあまりない。
どちらかといえば、息が出来なくなってしまうのではないかという、恐怖感に押されるようにして、それぞれから出奔したのである。義理人情も、命あればこそ、というわけだ。
袁紹の元に身を寄せている、いまはどうかと問われたなら、長居はするつもりはないと、きっぱりとした返答がかえってきただろう。
劉備の本質が、だれかの下に留まり続けることを拒んだのだ。
各勢力を渡り歩くのは、その身体をすこし休ませてもらうこと以外、なんの目的もない。
時が満ちていないうえ、移動するにも物資が足りない。
だからこそ、だれかの家の棟を借りて、物が集ってくるのを、じっと待っている。
待っているあいだ、家主が勘違いをして、自分を飼っているのだと思ったとしても、それは勘違いなのだから、劉備のあずかり知らぬところ。
移動するに十分な体制が整えば、劉備は出て行く。
それは呼吸と同じで、劉備本人にとっては、ごくごく自然の行いなのである。
劉備は、幼少のころに、この乱れた世の中で、かつての太祖のような、大人物になってやるのだと公言したことがある。
そのとき、父を早くに亡くしていた劉備の、代父であった叔父に、こっぴどく叱られた。
叱られたことが、強烈な印象として、劉備の中にある。
この大望は、口にしたなら、叩かれる、危険なものなのだと、そのとき学習した。
だから、劉備は、己の志を、慎重に口に出さないようにしてきた。
張飛や関羽といった、義弟たちには、はっきり打ち明けていたけれど、気心を許したもの以外には、言葉にしないできた。
だからこそ、その人となりを深く観察しない者たちからは、わかりにくい男、とらえがたい男、変節漢、恩知らず、厚顔無恥な侠客と、見当ハズレな評価を与えられてしまうのである。
さて、その劉備であるが、いまは袁譚のすぐとなりの席を与えられ、客として、丁重なもてなしを受けている。
並み居る家臣たちを下に見ての扱いである。どれだけ、袁父子が、劉備に対して信頼を向けているかの証でもあった。
袁家に仕える家臣たちも、愚か者のあつまりではないから、劉備という人物に対し、もしや、このまま、己の家臣として留まってくれるのではないかという、信頼や期待などをしてはいけない人物なのだと、見抜いている者も、何人かいた。
劉備が、向けられる信頼を裏切ったとしても、裏切りとすら思わずに去って行ってしまう、薄情者であると、讒言した者もいる。
讒言は、じつは真実を言い当てたものであるのだが、しかし、劉備には、相対した者を魅入らせ、信頼させてしまうという能力もあわせ持っていたので、本人が目の前にいる限りは、追い出されるような事態にはならない。
劉備が動いてから、やはりそうであったのかと、裏切られた側は、地団駄を踏むことになるのである。
劉備はまだ、動いていない。
ゆえに、袁紹も、息子の袁譚も、劉備を信じて止まなかった。
つい先日までは。
劉備は、戦場での食事とは思えないほどに贅をつくした料理に、素直に大喜びで箸を動かしながら、目では舞姫の踊りを楽しんだ。
とくに、いま踊っている女は、いささか年増のようではあるが、多くの宴席に顔をだしていて、目の肥えている劉備にも、とびぬけて鮮やかに映った。
衣裳の派手やかさや、化粧のきつさなどは差し引くとしても、薄衣から透けて見える体の、見事に鍛え抜かれた均整のとれた美しさ、思い切りよく動く手足、宴客を見るときの、ぞくぞくするような眼差し、まさにしゃぶりつきたくなるような美女である。
それまで、休む間もなく、がつがつと箸を動かしていた劉備であるが、その女が登場したとたん、口を動かすことも忘れ、女が踊りを止めるまで、ひたすらその動きを見つめていたほどだ。
女は、劉備と目が合うと、すこし笑ったようである。
劉備は、ちょっと嬉しくなって、顔がにやけてしまったのであるが、がっかりしたことには、それは誘っている、というふうではなかった。
わずかに向けられた笑顔は、熱心に見てくれた者への感謝でもなく、なにやら皮肉げなものであった。
ちょいとばかり気になるが、まあ、それはよしとしよう、これだけ立派に踊ってもらえたのだからと、劉備は判断し、だれよりも盛大な拍手を送った。
これだけ踊れるようになるには、相当な修練が必要であったはずである。
若い娘にはない、踊りにこめられた経験の重さも考慮しての拍手である。美女の色香に当てられたというよりは、よくぞここまで踊れるようになった、という、舞の師匠になったような気分であった。
なぜならば、女はたしかに鮮やかだったけれど、あまりに肉体が健やかなのに気が取られて、下世話な興味がつけいる隙が、まったくなかったからである。
「いやはや、いまの舞姫は素晴らしかった。許都でもさまざまな御宅からご招待を受けましたが、あの女のように、しなやかな体をもつ女は、見たことがありませぬ」
袁譚にそう言うと、父親に目と眉がそっくりな、若き名家の長子は、ほう、と目を細めて、笑った。
袁紹という人物は、名家の出自といううえに、品の良い美貌でも知られていた。
名高い家門を背景にした貴公子、くわえて貴相の持ち主である。
ならば、世の中を、より良い方向に変えてくれるのではないかと、期待させる雰囲気があった。
父親に劣らず、袁家の若き公子は、目鼻立ちは整っている。
しかし、気の毒なことに、母親のほうの血なのか、線が細すぎて、体格があまりよろしくない。甲冑を身につけているが、甲冑の中から亀のように、首と細い手足が出ている、という風である。
それでも、むかしは、もうすこし、とっつきのいいお坊ちゃまであったのだが、最近はどうも、目つきが剣呑としているような。
末の弟と仲が悪いという噂は本当なのかなと、頭の片隅で思いながら、劉備は、いささか興奮して、言葉をつづける。
「あのしなやかさは、まさに獲れたての若鮎のようですな。瑞々しく、力強く、よほど身体を鍛えておるのでしょう。いや、眼福、眼福。よいものを拝見させていただきました」
修練したからこその舞。
努力する人間が好きな劉備は、それだけで女を気に入った。
お色気たっぷりな女も悪くはないが、悲しいかな、飽きてしまうのも早い。それきりの女というのは、あまり気持ちのよいものではない。うむ。
劉備が、女を誉めていると、となりの袁譚は、さらに目を細め、大人ぶった口調で、
「若鮎とは、おもしろい表現をなさる」
「儂はあまり学がないし、曹操のように詩心もないので、故郷の小川で取った鮎が、たしかあんな風だったなあと思いましてな」
照れながら劉備が言うと、袁譚は声を立てて笑った。
「あの女を気に入られたようですな。それでは、今宵、貴殿の閨へ向かわせましょう」
袁譚は、じつにさらりと、言ってのけた。
「はい?」
間抜けな声が、笑顔のまま強ばった劉備の口から漏れた。
袁譚の声は、辞去しようとしていた女にも聞こえたようである。
女の、透けた絹に覆われた真白い肩が、傍目にも、はっきりとわかるほどに、びくりと震えた。
同時に、袁家の家臣たちからも、驚きのざわめきが起こる。
はて、なにゆえ、女のことで、家臣たちまでもがざわめているのか。
経験豊富な劉備は、なにやら嫌な予感にぞっとする。
もしや、この女、袁譚の女ではないのか。
しかしそんなことを、袁譚に、ずばり真正面から尋ねるわけにもいかぬ。
結局、劉備は、たったひとり蚊帳の外で、うろたえるしかない。
ざわめきをよそに、袁譚は、足をとめて、振り返り、畏まった女にふたたび告げた。
「紅霞、劉左将軍が、おまえを気に入ったそうだ。聞こえたな。今宵、お伺いするように」
紅霞は、床に畏まったまま、顔を上げず、
「若君の仰せの通りに」
と、澄んだ声で、はっきりと返事をした。
そうして出て行くまで、一度も劉備のほうを見ようとはしなかった。
劉備としては、妙なことになったのじゃねぇかと、嫌な汗をかいていた。
いい女をもらえるというのは嬉しいものだ。
だが、喜びは、ちっとも沸かない。
劉備の脳裏にあったのは、このところ病がちな甘夫人と、いつもは病弱なのに、代わりに元気のよい糜夫人のふたりのことであった。
また一人増えるとなったらば、今度は命が危うい。
いや、それはともかく(大事なことであるが、置いておき)、いままでだって、舞姫を誉めたことはあったけれど、こんなご褒美をもらえたためしがない。
袁譚は笑っているけれど、こちらを見る目が、なにやら冷たいことといい、何事か、知らないあいだに動いているのではないだろうか。
もしや、出奔の準備がばれたのか。
さて、どうしたものか。
さて、どうしたものか。
陳到は、太陽の上辺が、徐々に地平線のかなたに消えていく頃に、ふたたび劉備の陣に戻った。
少年二人に、問答無用で暗殺されかけたうえに、目の前で自害された趙雲は、遠目からもぴりぴりと苛立っているのが見えた。
その表情は、薄暗がりではっきりと見えない。
しかし、歩き方、動作、たまに発せられる言葉の調子から、静かに怒っているのが見てとれる。
怒っているからこそ当り散らす人間もいるが、趙雲の場合、内側に溜めるだけ溜め込んでおいて、ここぞという時に爆発させるという、いちばん敵に回すと恐ろしい相手のようであった。
つまりは、怒りに我を忘れる瞬間が短いくせに、爆発力はすさまじい。そのうえ、怒りを爆発させるぎりぎりまで、冷静さを失わないのだ。
趙雲は、少年二人を動かしたのは、陳到だと勘違いをしているのである。
素直に出て行ったなら、今度こそ、ばっさりと身を二つにされるにちがいない。さて、どうしたものか。
そうして逡巡していると、ふと、物陰からそっと、まるで幽鬼のように、現われ出でた影がある。
驚いたことに、楚々とした出で立ちの女であった。
遠目ではその年齢まではわからないが、趙雲のそばに歩み寄る物腰からして、兵卒の移動に、妓楼ごと、くっついて回っている妓女ではないということが知れた。
趙雲は、幕屋の外で、自分の甲冑の手入れをしていたのだが、あわてて手を止めると、立ち上がって、丁寧に拱手をした。
もしや、趙雲が銀兎に興味がないと言い切ったのは、目の前の女人の所為ではあるまいか。
趙雲の全身から溢れ出ていたやっかいな殺気が、目に見えて薄れたので、陳到は、さらに近づいて様子を伺った。
二人の会話の聞き取れるところまで。
陳到が意外に思ったのは、なんと、あれほどに用心深かった男が、すっかり周囲に気を配ることも忘れている様子である。
いまならば討てるかもしれぬな、と思いながらも、昼間の惨劇を思い出し、首を振った。
そこまで律儀になることはあるまい。
趙雲の首を取ったところで、次があるとは思えない。
ふと、紅霞の、わたしは袁家の家臣として、最後までその命令を聞くであろう、そう言ったことばが、脳裏を駆け抜けた。
そして、すっかり覚悟を決めた、静かすぎる眼差しも。
陳到は、紅霞がどれほどに袁譚のために尽くしてきたかを、間近で見てきた。
だからこそ、理不尽なまでの冷たい仕打ちが、理解できない。
紅霞は、我らの敵が若君になってしまっている、と笑ったが、もはや笑い事ではない。もはや、忠義は失せた。こちらを殺めようとするものは、敵だ。
早く宴に向かわねばならぬ。
たとえ、趙雲に討たれることになっても、その前に、首を宴に出ている紅霞に渡して欲しいと伝えねばならぬ。
二人とも死ぬよりは、一方が生き延びるほうが、ずっとよい。
そうして、じりじりと近づくのだが、趙雲は、女と会話をつづけており、陳到のほうにまるで注意を払わない。
篝火を配る係の兵卒がやってきて、二人が話しているのを見ると、軽く目礼をして、近くの台に火をくべると、そのまま去って行った。
これ幸いと、陳到は物陰に隠れて、趙雲の様子を伺った。
女は、陳到のほうに背を向ける形になっており、やはり、顔はわからない。
話し声が聞こえる。
といっても、もっぱらしゃべっているのは女のほうで、趙雲は緊張しているのか、相槌を打つばかりであった。
「お怪我がなくて本当によかった。お姉さまが心配なさっておりましたよ」
「ありがとうございます。奥方のお加減は如何でございますか」
趙雲の言葉に、女はため息とともに答えた。
しっかり耳を傾けていないと、はっきりと聞き取れないような、おとなしい喋り方をする女である。
「熱は上がったり下がったりで、あまりよくはありません。袁家の若君が、お姉さまのためにお医者さまを寄越してくださいました。
お薬を煎じてさしあげて、飲んではくださるのですけれど、食欲がないので、痩せてしまわれる一方なのです」
「よくありませんな」
袁譚が、わざわざ自分の医者を回す、劉備の陣の女とくれば、それは劉備の妻であろう。
そして、それをお姉さまと呼ぶこの女は、その妹か。
「関羽どのに聞いたのですが、近々、殿はここを離れるおつもりとか。お姉さまのいまの調子では、とても耐えられそうにありませんわ」
「わかり申した。では、医者を仲間にして、奥方様にお付けしましょう」
「いえ、あの、しばらく、ここに留まるということは、無理なのでしょうか」
「それがしは新参者ですゆえ、主公のお考えに意見することは出来ませぬ」
なんともすれ違った会話がつづいている。
言葉だけ聞くと、趙雲は、目の前の女に冷たいふうであるが、ちょうど物陰から真正面にその顔を見る形となっている陳到は、そうではないことがわかっていた。
あまりに端整すぎると思っていた面貌が、いまは、はっきりとうろたえている。
身体を斜めに女に向けて、片側の足は、すぐに逃げたいというふうに、じりじりと外側に向かっている。
声も、なんだってこれほどに、早口で上ずっているのやら。
この女と、なにかあったのだろうか。
女のほうは、思うように会話が進まないので、戸惑っているようである。
すこし沈黙し、迷う素振りをみせたあと、顔を上げた。
「じつは、お伺いしたいことがあって、参りましたの」
「それがしでお答えできることであれば、なんなりと」
とはいえ、その表情は、なるべく手短に簡単な用件でと、条件を暗に述べていた。
「子龍殿、貴方様は、殿が公孫瓚のもとに身を寄せていたとき、主騎をされていたとか。では、殿のことは、だいたい把握されてらっしゃいますわよね」
女の口調は、さきほどの、どこかうつむき加減の、ぐずぐずした調子とはちがって、迫るような、力強い口調となった。
趙雲は、あからさまにうろたえて、あいまいに、はあ、と答えた。
「では、お尋ねいたしますわ。殿に、わたくしたち以外の女がいるという話は、まことなのでしょうか」
趙雲の顔が、明らかに青くなり、つづいて赤くなった。
物陰で見ている陳到としては、笑いをこらえるので必死である。
あの表情を見れば、子供だってわかる。
趙雲は、女……劉備には、二人の夫人があったはずだから、古女房の甘夫人か、徐州の名家の出である糜夫人のどちらかだ。もうひとりの夫人を、お姉さま、と呼んでいることからして、糜夫人にちがいない……の問いの、答えを知っているのだ。
しかし、答えてはならぬと口止めをされている様子。
口止めしたのは、劉備だろう。
つまり、黒も黒。真っ黒。
さあて、趙子龍、どう答える。
「あいにくと、ぞ、存じませぬ」
「嘘ですわね。顔に、それがしは知っておりますと書いてありますわ」
冗談めかした言葉に聞こえるかもしれないが、糜夫人の声には、切迫感があった。
「お姉さまは、ずっと許都で人質として、辛いことも堪えてここまでやって参りましたのに、わたくしたちの留守に、女を作っていたなど、殿もあんまりでございます!
殿が、小間物屋から、銀の櫛を買われたのはご存知でしょう? お姉さまはひそかに、それは自分にくれるものだと思って、贈られるを楽しみに待っていたのですわ。(ここで、趙雲は、しまった、というふうに顔を大きくしかめた。白状したも同然である)。それなのに、殿は一行に贈ってくださらない。
それどころか、心無いものが、女がもう一人いるようだと、お姉さまのお耳に入れてしまわれたのです! ですから、お姉さまは疲れもあったのでしょうけれど、寝込んでしまわれたのですよ? 殿方というのは、どこまで図々しくて、狡猾で、だらしがないのでしょうか! お姉さまがお可哀想です!」
「申し訳ありませぬ」
と、趙雲は、八尺の大男ながら、子供のように恐縮して、頭を下げる。
しかし、女は興奮しきっているのか、声を荒げるのを止めない。
「申し訳ないと思うのなら、すこしは、わたくしたちのことを考えてくださってもよいではありませんの! ともかく、お姉さまもわたくしも、殿がもう一人の女と別れるまで、梃子でもここをうごきませんからね! もしどうしても行くというのなら、わたくしたちを置いて、西でも東でも南でも、お好きなところに行けばよいのです!」
「困ります」
趙雲は、なだめようと口を挟むが、女がきつい顔を向けたらしく、すぐに口を閉ざしてしまった。
「なにが困るというのですか! わたくし、ずっと考えておりました。その女、どこにおりますの? いつもわたくしを庇ってくださるお姉さまのために、今回は、わたくしがひと肌脱がねばなりません。ええ、お姉さまのためにです」
おそらく本心ではあろうが、半分は嘘であろう。
糜夫人は、甘夫人にかこつけて、みずから女に怒鳴り込みをかけようというのである。
趙雲は、すっかりうろたえて、目を泳がせている。
「では、明日に」
「なにをおっしゃいますの。いますぐです! さあ、女の居場所をおっしゃい。ご存知ね?」
「侍女も連れずに、女の元に向かって、如何なされますか」
「決まっておりますわ。お姉さまのためにも、殿と別れなさいと言ってやるのです!」
趙雲の顔色は、目に見えて蒼くなっている。
笑い声を立てないように、懸命に口を抑えて、肩を震わしていた陳到であるが、とあることに気が付いた。
もしや、これは、天の配剤ではなかろうか。
決めたら、即実行である。
陳到は、物陰からそっと身を動かし、二人のもとへ歩いて行った。