七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト

寒蝉の恋

リニューアル版 六回目

陽射しの影が濃くなってきた。
日没が近い。
陳到は、結局のところ、趙雲を討てずにいた。
関羽から与えられた情報に引っかかっていた、ということもあるが、趙雲が、始終、気を抜かなかったからにほかならない。
あるときには堂々とこちらに背中を向けてくるが、それは、あきらかに、俺を討てるかと挑発しているものであった。
劉備の陣を一望できる高台の茂みにかくれつつ、陳到は、さまざまに考えながら、その様子をながめていた。

夕刻も近くなれば、あちこちで聞こえていた調練の掛け声も消えて、ざわざわとした、雑多なにぎわいが増えてくる。
劉備が袁譚の宴に向かう準備をはじめているのが見えた.。
一方で、出奔の準備も着々とすすめているらしく、関羽が、商人らと取引をして、物資を買い集めているのも見えた。
趙雲からは、変わらず、一部の隙も見い出すことができない。
次第に焦りが生まれてきた。
だが、いま、あれほどに警戒している趙雲を討つことはむずかしい。
そうだ、趙雲にだれかを近づけさせ、油断をしているあいだに討つ、というのはどうか。
どうしたら油断させられるか。
判りやすいところでは、女。
無念ではあるが、紅霞に事情を話し、自分では手に負えないからと白状して、助けてもらうのはどうだろう。
銀兎では駄目なのであれば、妖艶たる紅霞であれば、なんとか…

ふと、そのとき、ひとり、陣の中を歩いている趙雲に、背後から、少年兵たちが近づいていくのが見えた。
どこかの小姓であろうか、その身なりのよい、あどけなさを残す少年は、趙雲に何事かを告げ、足を止めさせる。
趙雲が、子供のほうを向き直ったときである。
その背後に、もうひとりの少年が近づいた。
陳到のところからも、少年が、後ろ手になにかを隠し持っているのが見えた。
手にしている物が、衣の隙間から現われる。
陽光を反射して、鈍く光るそれは、陳到の目からもはっきりわかった。
短刀である。
思わず、茂みから身を乗り出した陳到であるが、趙雲の反応は素早かった。
少年が、その脇腹に刃を食い込ませようとした直前に、ぱっと身を翻し、手首を捻って短刀を取り上げた。
趙雲が、手首を捻り上げながら、少年に、何事か怒鳴っているのが見える。
しかし、少年は、首を上向かせたまま、唇から鮮血をこぼした。
自害したのだ。
仲間が失敗したと見るや、趙雲を呼び止めていた少年が、ぱっと身を翻して逃げていく。
それを、周りにいた兵士たちが止めようとするが、少年はすばしこく、なかなか捕まらない。
趙雲は、駿馬のごとく地を蹴ると、少年を疾風のような素早さで追いかけ、その襟首をつかまえた。
が、襟首を捕らえられたとたん、その少年もまた、歯にでも仕込んでいた毒か、あるいは舌を噛み切ったかして、その場に崩れ落ちた。

陳到は、あまりの突然の惨状に、声も立てることもできず、ただただ、見下ろすしかできないでいた。
死んだ少年の傍らに、趙雲が立っている。
その手は、少年の襟首を掴んだままだ。
ずれた着物の襟首の中に、鮮血をほとばらせて死んだ少年の顔が見える。
その顔は、まるでおくるみに包まれた赤子のようにさえ見えた。

周囲にいた人間が、何事かと趙雲の周囲に集ってきている。
突然のことに、茫然自失の態に見えていた趙雲であるが、集ってきた男のなかで、弓兵を捕まえると、問答無用で、その弓を奪い、不意に、顔をあげた。
目が合った。
こちらが見ていることに、ずっと気づいていたのだ。
陳到は、それまで息をすることすら忘れていたが、趙雲のその鋭い目、あらんかぎりの憎悪と嫌悪のこめられた双眸に射すくめられ、すべての動きを止めた。
いや、止められた、といったほうが正しいだろう。
息ができない。殺される。
きっとこの男に殺される。
額から滴り落ちる汗の感覚だけが、辛うじて自分が生きているのだという証左である。
趙雲が、弓を番えて、こちらに向けてくるのがわかった。
場違いな話かもしれないが、陳到はそのとき、太陽を射落としたという伝説の弓手・羿(げい)のことを思い出していた。
こちらの眉間を確実に狙っている。
殺される。
あの手が放された瞬間、すべての終りが。

自分の名を呼ぶ声が聞こえた、と思った。
思ったというよりは、知覚していた、というべきか。
まるで蛇の前のカエルのように身をすくませていた陳到は、なぜ唐突に、自分の目の前の光景が、ぐるりと回転したのかがわからなかった。
趙雲が視界から消えて、一瞬にして、空と、大地が目の前を回ってみせる。
「莫迦! 気をしっかり持て!」
叱咤されると同時に、頬をぴしゃりと叩かれて、陳到は我に返った。
気が付くと、男装をした紅霞に、腕を無理やり掴み上げられて、立ち上がらせてもらっているところであった。
我がことながら、いまだにすべての感覚が鈍い。
これが殺気にあてられるという言葉の、本当の意味だったのか、などと、どこか冷静に考えながら、陳到は、紅霞に促されるまま、その手に引かれて走り出した。
「急げ! あの男、すぐに追ってくるぞ! まったく莫迦だ、莫迦だと思ってはいたが、ここまでとはな。もしも、あの男が弓を射るのをためらっていなかったら、おまえ、いまごろ死んでいたぞ!」
「弓を射るのをためらっていた?」
殺気は十分だったのに? 
「理由なんぞ知るか! いいから走れ!」
「なぜ、ここに」
こちらの様子を確かめにきたわけではあるまい。
陳到が尋ねると、紅霞は、いまいましそうに舌打ちだけをした。

嫌な予感がする。
あの子供たちは、二人だけで行動したのだろうか。
子供たちを侍らしているという男・袁譚の、愛人は、いま目の前にいる、この女ではないか。

二人は、走りに走って、いまは、陣の端の、鍛冶屋たちが集っている界隈にやってきていた。
自分の武器の調整を頼みにあらわれる兵卒たちで、ごったがえしており、かえって人目につかない。
紅霞は頭巾を被っており、その派手作りの美貌も、頭巾の影に隠れてしまっている。
男装も見事なものである。
ふくよかな胸も、布で押さえつけてあり、まさかこれが女だと思うものはだれもいない。
陳到は、おのれの腕を引く紅霞の手を、乱暴に振り解いた。
紅霞は全力疾走していた。
陳到はそれに牽引される形であったのだ。
「さきほどの子供、あれは、あんたの仕業か!」
あんた、と呼ばわれ、紅霞は美しく整えられた眉を、きつくしかめた。
だが、陳到は、かまわずつづける。
「あの子供らを使って、趙子龍を討とうとしたのだな。こちらに命令をしておいて、それでも心もとないがゆえに! そうであろう!」
「たわけたことを」
紅霞は、なんだ、というふうに吐き捨てるが、子供の死をまのあたりにした陳到はすっかり興奮していた。
「誤魔化すな!」
「誤魔化してなどおらぬ。おまえはすこし、頭を冷したほうがよさそうだな」
場数を踏んでいる紅霞の冷静な声にも、陳到の気持ちは鎮まらない。
周囲の兵卒の、訝しげな視線も気にせず、陳到は怒りと嫌悪で身を震わせていた。
「教えてやろう、この陳叔至、この世に問答無用で守らねばならぬものがあるとしたら、それは両親と、子供と子犬だと信じておる! あんたは、目の前でそれを踏みにじったのだ!」
「だから、あの童を使ったのは、わたしではない。しかし、両親と子供はわかるが、なんだ、その子犬というのは」
「犬は、訓練すれば、一人の兵卒にも勝る働きをする」
「そうだな」
「だから、子犬のうちに恩を売っておくのだ。人より、犬のほうが、よほど恩を忘れぬからな」
「まあ、おまえが犬好きだということはわかったが、繰り返すぞ、わたしは、あの童どもとは関係がない。たまたま、おまえの様子を見に来たなら、あの場面にでくわしたのだ」
「む」
筋はとおる。
が、疑問はのこる。
部下の様子を心配して見に来るなど、おおよそ、この女の性格からは引き出せない行動ではなかろうか。

紅霞は、鋭敏なところを見せて、陳到が自分を疑っていることを察したのか、つまらなさそうな顔をして、ため息とともに言った。
「どうも、おまえの頭のなかのわたしという女は、呂后をも上回る、極悪非道を絵にしたような女のようだな」
「そこまでは言っておらぬ。しかし、なぜ今日にかぎって」
自分を追いかけてきたのだ、と陳到は尋ねる。
紅霞は、腕を組み、ちらりと陳到を横目で見た。
「趙子龍の首を手に入れられなば、わたしは、今宵の宴にて、若君の叱責を受けるであろう。だからだ」
「筋は通るが」
「が? 『が』、なんだ? 『やはり怪しい。功を焦るがあまり、憎き寝所仇であるはずの童どもと手を組み、趙子龍を討ちにやってきたのではないか』とでも?」
「いや、さすがにそこまでは」
と、ずばり紅霞に指摘されてうろたえる陳到であるが、なにか奇妙なことに気づいた。
「なぜ趙子龍を討たねばならぬのだ?」
陳到の、ふとした疑問の声に、紅霞は眉根をひそめて顔を上げる。
「どういう意味だ? あれは劉左将軍の手足となり、若君の陣内を、コソドロのようにうろつきまわっては、せっかく集めた兵を横取りしている男だぞ」
「そして、兵卒を集めるように指示をしている劉左将軍の前にその首を突き出し、脅しに使おうというのであろう? しかしだ、趙子龍を討ってしまったなら、こういう展開は予想できぬであろうか?
『たしかにそれは、それがしを頼って現われた男であるが、功を焦るあまり、勝手に若君の兵卒を集めていた不埒者。それがしとは一切関係ございませぬ』と」
「劉備は、そんな言い訳をせず、居直って、己が部下を勝手に討ったことを責め、その場で暴れだすと思うが」
「どちらにしても、若君に利があるとは思えぬ。むしろ、生きて捕らえ、劉備の前に突き出したほうが、よほど効果があるだろう。あの男、すでに物言わぬ身になった者よりも、生きている者を助けることに全力を注ぐ男だぞ」
とたん、紅霞は、顔を渋くして、声を尖らせた。
「会ったのか、劉備に」
ずばり指摘されて、陳到はうろたえる。
この女の、勘の鋭さ、観察眼の鋭さは、桁違いだ。
それでもささやかな抵抗として、顔を逸らすと、ますます紅霞は声を尖らせた。
「誤魔化すな。こちらを向くがよい。劉備に会ったのだな? わたしがそのような指示をしたか? 勝手な真似を!」

こうなっては、開き直りを見せるしかなかろう。
靴でぎゅうぎゅう踏まれるのはこりごりだ(昔にそういう仕置きを受けたことがあり、以来、陳到は紅霞の長い足の届く範囲に、自分の身を置かないように注意していた)。

「会ったというか、知らないうちに会っていたのだ」
愚弄する気か、というふうに、ぎろりと紅霞が睨んできた。
さきほどとは、すっかり形勢逆転。
陳到はうろたえつつ、しどろもどろに答える。
「つまりだな、あちらの様子を探ろうと、劉備の陣に紛れ込んだ。そこで兵卒どもと食事を摂っていたなら、やってきた男があって、そいつが劉備だったのだ」
「莫迦な。大将たる者が、兵卒どもと一緒に食事を摂ったというのか。大将はつねに威容を保っておらねばならぬ。なぜに兵卒なんぞに阿る必要があろうか。その男、影ではなかったのか」
「影ではないと思う。確証はないが、あん」
『あんた』といいかけて、紅霞のまた言うか、と言いたげな目線とぶつかり、あわてて言い直す。
「貴女様も、直に前にすればわかろう、いや、おわかりになりましょう」
「いまさら取り繕うな。普通に喋るがいい、しらじらしい」
あとが怖いが。
「は、ともかくですな、劉備という男、実に気さくというか、心のうちを互いにさらして語り合うことのできる気持ちよさもさることながら、なんというか、つかみ所のない大きさというものがあるというか、あの男の底には、余人が真似できぬ覚悟が秘められているような」
「覚悟とな?」
「器の大きさとしか説明しようがないのであるが、底のほうに、部下の成功は一緒になって喜ぶのはもちろんであるし、その間違いも、すべて引き受けて、一緒に痛がってやろうというような、覚悟というか、気概が感じられるのだ。これは凄いことであるぞ」
思わず、興奮した口調になった陳到であるが、紅霞は、なにか奇妙なものを見たような顔をして、陳到を冷ややかに見ている。
「熱病」
「は?」
「劉備に心酔する者は、なぜだかみな同じ症状を呈するのだそうだ。まずは熱病でうなされてうわごとを繰り返しているように、劉備のことを語りだす。
そして昼も夜もあの奇妙に手足の長いかまきりのような男のことばかりを考えるようになり、いつしか足はふらふらと、劉備の陣の門をくぐっている、というわけだ」
「わたしは、紅霞さまの部下、そして袁家に無比の忠誠を誓う者でございます!」
どうだか、と鼻で笑う紅霞であるが、その突き放したような物言いが、陳到の気にかかった。
以前の紅霞であれば、裏切り者や許せぬと、問答無用で斬りかかってきたであろう。

「寒蝉よ」
怪訝そうにする陳到に、紅霞が、顔から一切の表情を消し、頭巾からはみ出た後れ毛を風になぶらせながら、強ばった声で呼びかけてくる。
その硬質な声に、おもわず身を引締める陳到であるが、紅霞は、あらぬ方向を見たまま、言うのであった。
「今宵の宴で、もしもわたしが戻らぬ場合は、おまえも危うい。まさかとは思うが、わたしを助けようなどとは考えず、ひとりで生き延びるがいい」
「命の危険があると?」
「すでに、わたしはとことんまで目障りな人間になっているらしいな。知りすぎたがゆえであろうが、この仕打ち、細作の運命とはいえ、非情なものよ」
「あの童のことは、やはり知らぬと?」
陳到の問いに、紅霞は、大きく頷いた。
かつての細作の長であるから、芝居も堂に入ったものであることを陳到はよく知っていたが、いまの紅霞は、嘘をついていなかろうと思った。
紅霞は、こと策を成就させるためには、嘘を並べ立てることも平気な女であるが、たったひとつ、若君こと袁譚に関わることだけは、嘘をついたことがなかったのだ。
そしてそれは、紅霞なりの献身の証であったのである。
「では、我らが当てにならぬと踏んで、あの童どもを寄越したというのか? そうまで必死に」
と、陳到は気づいた。
「あの童どもの狙いは、劉備ではなく、趙子龍ということはなかろうか」
紅霞は眉を上げて反論する。
「それこそ話にならぬぞ、なにゆえ、名もなき浪人あがりを、面倒にも小難しい理由をつけて殺さねばならぬ」
「理由はわからぬ。関羽を討とうとしている、というのであれば、理由は明快なのであるが、袁家にとって、まるで仇とも呼べぬ浪人あがりを、なぜに執拗に殺そうとするのか」

ふたりして、うーむと腕を組んで沈思する。
傍からみれば、仲のよい兵卒同士が、なにやら問題が起こって、一緒に頭をひねっているように見えたであろう。
すでに日は暮れつつあり、宴もそろそろ始まりつつある頃である。
ふと、陳到は夕暮れまでに趙雲の首を取るという約束、あれはもう、反故になったということでよいのかな、と思った。
その視線に気づいたか、紅霞が顔を上げる。
その顔には、切り換えの早いこの女の、緊張が浮かんでいる。

「寒蝉」
「はい」
「趙子龍の首は、もうよい。その意図が本当に若君からのものか、それを見極めてからでも遅くなかろう。わたしは宴にて、若君のご本心を確かめる。
もしも、これが若君のものではなく、あの童どもが曲解してわたしに下したものならば、命令は無効ぞ。わたしの主は、若君お一人なのだからな」
それを聞いて、陳到は喜ばしく思ったが、同時に、細作として、嫌な予感を覚えた。
「よろしいのでございますか。もしも、趙子龍を討ち、劉備を牽制せよという指示が、若君からのものであったら、なんとされます。叱責ではすみますまい」
そこまで言ってから、紅霞の潔いまなざしを見て、そんな覚悟は、とうの昔に、この女の中に出来ているのだということを、陳到は悟った。
同時に、なんという嫌な目だと、怒りにも似た感情に捕らわれた。
なぜ怒りがこみあげてくるのかは、わからない。
それでも、陳到は、こんな目を、この女がするのは嫌だと思った。
紅霞のそれは、決死の作戦に赴く者たちが、いつも最後に向けてきた眼差しとそっくり同じであった。
細作であるから、死に馴染んでいる。
だからこそ、生の尊さも知っている。
貴人の面子や名誉のために代理で戦って死ぬのが、細作の役目である。
だが、こんな馬鹿馬鹿しい、意味の判らぬ状況での死など、どこかがひどく間違っているではないか。

なぜ、自分の内側が、こうも盛り上がってしまったのかわからなかったが、陳到は、つい、口にしていた。
「劉備は、近々、この陣を離れ、南へ落ち延びるそうだ」
「なんだと?」
紅霞は、声を上げてから、周囲の視線を気にして、陳到を引っ張り、目立たぬ片隅につれていく。
トンテンカンと、鍛冶屋のかなとこを打つ音が響きつづけている。
「おまえ、滅多なことを言うでないぞ。それでは、劉備は袁家を裏切ろうというのか? そこまで愚か者か、あれは? この戦で袁家が勝利を収めれば、曹家の握る帝も、袁家が擁護することとなる。もはや天下に怖じる者はない。それなのに、反抗しようというのか?」
「これを教えてくれたのは、劉備の義弟である関羽だ。関羽が曹家から、われらを混乱させるためにやってきたとは、わたしにはどうも思えぬ。劉備同様に、関羽という男、よほどでない限り、嘘はつかぬと見た。至誠こそが、あの男の信条であろうし、信じてよいと思う」
「なぜに、関羽ほどの男が、おまえごときに、これほどの情報を打ちあけるのだ?」
「劉備に会ったと言っただろう。そのときに、仲間になれと誘われたのだ」
とたん、紅霞は、掴んでいた陳到の腕を、ぱっと放して、数歩、あとずさった。
「おまえ、まさかそれに乗ったのではなかろうな?」
紅霞の細身から、獣じみた殺気があふれてくる。
紅霞は武より智に長けた女であるが、それでも陳到は、紅霞と斬りあうつもりにはなれなかった。
長年、紅霞を上役として見てきたので、いまさら、反抗しようなどという発想が浮かばないのである。
あわてて、陳到は、両手を突き出して、ちがう、ちがう、と手を振って言った。
「そんな誘いには乗らぬ。あれはどうも、誰にでも言っているように感じたし、それにだな、関羽の理屈も奇妙なもので、『兄者がおまえを気に入ったから教えてやる』、とこうだ。罠かもしれぬ、そう罠! 危なかったなあ!」
「関羽がそう言ったのか」
紅霞は、殺気を引っ込め、渋い顔をして、ぷいと横を向いた。
「ならば、その言葉は本物であろうよ。やつらは義侠の徒、小ざかしい文官どもとちがって、言葉遊びで人を愚弄するような真似はせぬ。気に入られたのだな、寒蝉。おまえが最初に言ったとおりであろう」
「う。いや、どうだかわからぬぞ」
「なれば、劉備が近々、出奔するという話も信じてよかろう」

ふむ、と考える紅霞。
が、しばらくして、長いため息とともに、首を振った。
「ろくでもない話を聞いてしまったものだ。劉備が出奔しようとしていると若君に打ち明けて、なんとする? その場で劉備を討てば、その家臣どもが大騒ぎして、陣内は大荒れ。それに籠城する曹操が呼応したら厄介だ。
劉備が死ねば、関羽は曹操に帰順する可能性が高いしな。黙っていたら黙っていたで、なぜに黙っていたと責められよう。劉備に対しては切り札になるかもしれぬが、我らの当面の敵は劉備ではなく」
紅霞はそこで言葉を切って、唐突に声をたてて笑い出した。
その声は、鍛冶屋の金槌の音にまぎれて、高くは響かない。
「あきれたものだな。我らの敵が、いつのまにやら若君になってしまっているぞ」
陳到は笑えなかった。
笑わず、自分と同じ結論を紅霞が抱いたのにほっとしつつ、言う。

「ひとつ確かめたいのであるが、若君のお心を、もう一度取り戻そうとは思わないのか」
陳到の問いに、何をいまさら、といった目をして、苦笑を浮かべたまま、紅霞が見返してくる。
「覆水盆に返らずの故事を知らぬか」
「では、なぜにいままで忠実に、その命令を果たそうとしていたのだ」
陳到の問いに、紅霞は、息を吸って整えると、真正面からその顔を見据えた。
「寒蝉、おまえはわたしという女を、ずいぶん低く見ていたようだな。わたしは、たしかに女ではあるが、その前に、一人でも、おまえという部下を預かった、袁家の家臣のひとりなのだ。
たとえ若君とわたしの縁が切れたとしても、忠心までは失せてはおらぬ。わたしは袁家の家臣として、最後までその命令を聞くであろう」
「だが、若君は、あんたを殺そうとしている」
「だから、その本心を、今宵の宴にて確かめるのだ。わたしが趙子龍の首を持たずして前にあらわれても、若君がわたしをご叱責なさらねば、わたしはまだ救われる、ということさ」
「ずいぶん自暴自棄な賭けではないか。らしくもない」
らしくもない、と聞いて、紅霞は、今度は面白そうに声を立てて笑った。
「いつのまにやら、わたしに詳しくなったようだな、寒蝉や。まあよい、わたしは、残念だが、おまえが思っている以上に不器用者でな。殺されるにしても、命を賭けてもおしくないほどに想った男の手にかかるのであれば、それでもよいと思っているのさ。そういうところは、どうしようもなく女でね、おまえにはわからないかもしれない」
「さっぱりわからぬ。若君は、そこまでして尽くす甲斐のある男か? 関羽は、この戦を」
と、陳到は、ここで周囲に目を配り、だれもこちらを注視してないことを確かめてから、声をひそめた。
「袁家が負けるであろうと言った」
「莫迦な。あの男、曹操によくしてもらったので、贔屓しているのではないか?」
「いいや、袁家の軍勢は、数ばかりで、烏合の衆であるから、心構えも脆弱だと。対する曹家の軍勢は、だれも自分たちが負けると思っていないと。たしかに、文醜、顔良の両将も、寡兵に敗れておる」
「たしかに例はあるが、十万と二万の差は埋められまい」
「わたしもそう思った。だが、そうかもしれぬという気がしてきている」
陳到を叱責する言葉を、紅霞が口にしようとしたのがわかる。
陳到は、それを手で止めて、言った。
「ひとつ、考えがあるのだ。わたしはこれから、趙雲のところへ行き、命を狙われる覚えがあるのかということを、確かめてくる。そして事情を詳らかにし、協力を仰ぐ」
「な」
「そうだ。我らも裏切るしか、もう生き延びる道はない。ともかく、今日の宴は欠席すれば怪しまれる。なんとか取り繕う算段を立てるゆえ、なんとか凌いでくれ」
「おまえ、わたしの話を聞いていなかったのか? わたしは袁家の家臣だ。おまえを、裏切り者として突き出してもよいのだぞ?」
「その場合、わたしの裏切りを見抜けなかったと責められるのは、だれだ?」
陳到の言葉に、紅霞は、くやしそうに言葉を詰まらせる。
「わたしをあとで斬るにしてもだ、今宵はなんとかやり過ごす必要があるぞ。まずは、童どもの思惑を知らねばならぬ」
「趙子龍のもとへ行くというのか。ならば、わたしが」
「いいや、わたしが行く」
紅霞は眉をきつくひそめて言った。
「わたしが行くと言ったのは、おまえを思いやってのことではない。おまえが行けば、ことばを交わす暇もなく、首を取られる可能性があるからだ」
「いいや。あんたはこれ以上、なにも抱え込む必要はない。斬られたなら斬られたで、わたしの首を持っていけ。劉備に寝返ろうとした男を討ったと言えばいい。とりあえず、場は凌げようぞ」
「呆れた。おまえも、そこまで自虐的であったか」
「自分でもびっくりだ。ともかく、あとで宴席に追いつく。なるべく首がくっついた状態で帰ってこられることを祈ってくれ」

七回目につづく
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