七夕フェスタ リクエスト企画 第五弾 結城さまからのリクエスト
寒蝉の恋
リニューアル版 五回目
その日、趙雲は、いつものように袁紹軍の陣をうろうろするのではなく、劉備の陣に留まって、普通に過ごしていた。
普通に、とは、仲間の武将、文官たち(といっても、戦陣の中にあり、みな武装しているから、すぐにそれと判る者は少なかったが)と歓談したり、ともに武芸の訓練をしたり、あるいは地図を見ながらの会議に加わったり、馬の世話をしたり、新しく仲間に入れた者たちに、古参の家臣たちを紹介したり過ごすことである。
陳到を恐れて引っ込んだ、というわけでもないだろう。
あの男は、こちらが己を見ているのだと知っていて、あんなふうに振る舞っているのだ。
殺しにやってくるところを待っているのか。
今朝と同じように、返り討ちにでいると過信しているのだろうか。
そうであれば、細作として、いや、その前に男として、陳到は趙雲を許せない。
だが、趙雲は陳到を愚弄するつもりはないようだ。
なぜならば、その挙搓にまったく隙がないからである。陳到の実力を評価して、隙を作らず、不用意に相手の罠に嵌まらないよう、勝手知ったる己の陣地に留まっているのだ。
臆病と取れなくもないが、劉備の陣以外は、陳到やその仲間が網を張っている。たとえどんなに腕に覚えがあろうと、たった一人で、袁紹の陣をうろつこうなどと考える浅慮な男ではない、とも言えよう。
趙雲は、陳到が『凄い』と言った。
あんなふうに、面と向かって、誉められたのは初めてだ。
味方同士であれば、一種の付き合いで誉めあうこともあるから、それは話半分の評価でしかないが、敵からそう言われたのであれば、逆に信じてよい評価だということである。
なんだろう、この感じは。
こそばゆい? まさか。
物陰に隠れ、趙雲の動きを目で追いつづけ、一日の半分は過ぎた。
趙雲は、その妙に立派な名前どおり、故郷の常山真定では、そこそこに名の知れた家の末子である。
趙家の坊ちゃん、などと呼んで、向こうから仲間に加えて欲しいと願い出て来た者もあるようだ。
坊ちゃん、などという呼び方は、まったく似合わない男なのだが。
陳到からしてみれば、劉備は、袁家の情けにすがって、なんとか隅っこで息をすることを許されているような境遇の男である。
この陣の場所も、配給される食事さえも、すべて借り物だ。
居候している亡国の英雄というよりは、袁紹の食客である。
そして、袁紹と曹操がぶつかっているいま、袁紹が勝利すれば、劉備が天下取りに浮上できる可能性は、ほとんどなくなる。
趙雲の呼びかけに答えた者たちは、未来の見えない男の為に、どうして安定している袁紹軍から出ようと考えるのだろう。
それに、趙雲は、いったい何を持って、劉備に仕えろなどと言ったのか。
あの男は、袁紹は負けるだろうと言い切ったが、根拠のあることなのか…
そして気づけば、陳到は、一日の半分を、趙雲のことばかり考えて過ごしていた。
銀兎とて、これほどに趙雲のことを考えてはいないだろう。
気分が悪くなり、陳到は、存在感の薄さを発揮して、物陰から様子を伺うことをやめると、趙雲が厩に向かったのを確認してから、陣で配膳されている食事を貰って、新米の兵卒たちと一緒になって、話を聞いてみることにした。。
腹が減っては、戦はできないし、袁紹軍から離れて、劉備に仕えることに決めた男たちが、何を考えているのか、それを知りたくなったのだ。
遠くから眺める劉備の陣というのは、袁紹の陣地のなかでも端にあるせいか、のんびりとしており、緊迫感がほとんどない。
だいたい、将兵の顔つきからして、ゆるい。
たいがいが、口の両端が上がっている。
なにがそんなに面白いのだろうか。
どうにもならない将来に、もはや笑うしかなくなっているのだろうか。
意地悪な見方をしつつ、配膳に紛れ込み、そしてみなが座り込んで、食事をかきこんでいるところに、さりげなく混ざる。
兵卒たちは、にぎやかに、雑談をしながら話をしているのだが、その話題も、どこかの農村の会合で若者たちが話し合っているような、実にのどかで、健全なものばかりであった。
こういう、気の弛む場所では、上役に対する批判や、現状の不満などが出てくるものであるが、兵卒たちは、まったく不平不満を口にしない。
出てくるのは、あの大将はここがすごい、あの御方はケチだけれども話がわかる、あの人は普段は厳しいが、酒が入ると優しい、などなど、悪口にもならない世間話ばかりである。
兵卒たちの口から語られる、劉備の家臣たちの評判に耳を傾けていると、不意に、皿を片手に、鎧姿の男が、ひょっこりと輪に加わった。
その動きがあまりに自然であったから、最初はだれも、その男の存在を不思議に思わなかった。
気づかなかったのではない。ちゃんと挨拶はしたのだ。
よそ者である陳到としては、この奇妙な光景に、食事をするのを忘れ、ぽかんとするほかはない。
なにせ、彼らの大将である劉備が、なぜだか兵卒たちと一緒になって、いつものことだという顔をして、食事をしているのだから。
そして後からやってきたにも関わらず、ごくごく自然に会話に入り込み、
「張飛は乱暴者だけど、根は優しいから、訓練はきびしいかもしれねぇけど、そう怒るなよ」
とか、
「関羽は口数がすくないけれど、頼りがいがあるのだぜ。じつは、怖いからといわれて、おまえたちが寄ってこないことを悩んでいるようだから、今度、悩みを相談してみるといい、きっと喜ぶから」
などと、教えてやるのである。
兵卒たちも、だんだんと、自分たちの輪に、いつのまにか主公が紛れている、ということに気づいたようだが、変に畏まることもなく、自分たちの意見を述べ、その返事を貰って、うれしそうにするのであった。
陳到は、初めて間近で劉備を見た。
手足が長く、顔の小さい男である。顔が小さいわりに、耳が大きい。その風貌も変わっているが、なにより変わっているのは、その態度である。
ふつう、英雄という物は、こんなふうに、下々の意見を聞くことはしない。万事はすべて、その頭脳の中で始まり、その頭脳の中で解決する。
人の意見は聞くけれども、自ら聞くようなことはしない。
たった一人で天下を動かす。だからこそ龍などという、天の化身に例えられるのである。
だが、不思議である。
劉備がこのように人の話をよく聞くのは、なにも相手の歓心を買うためではない。注意深く見れば、劉備は、たしかに人の話を聞いているが、むやみやたらに相槌を打っていない。
そして、相手の言葉に、的確な意見をすぐに返す。無駄に話を長くしない。頭の回転が速いのだろう。それに、自分を偉く見せようとか、賢く見せようとかいう気負いがないのだ。
袁紹のような、豪奢な鎧を着ていない。華麗な雰囲気があるわけでもない。重々しい威厳があるわけでもない。風貌が美丈夫というわけでもない。
だが、不思議と心惹かれる。
その言葉を、すこしでも多く聞きたいと思ってしまう。
「おっと、あんまり食べると、夜が困るから、これくらいにしておくか。なあ、ここのあたりは箸をつけてないから、あんた、続きを食べないか」
と、劉備は、余った食事の一部を、近くの兵卒に分けてやっている。
「夜と申されますと、宴席に顔を出されるのですか」
質問に劉備がうなずくと、袁紹軍からやってきた兵卒たちは、言った。
「それはお気の毒に。主公には、あのような堅苦しい、上っ面ばかりの席は、似合いませぬ」
すると、劉備は、カカカ、と声をたてて笑った。
「そうかねぇ。わしだって、お洒落をして、上品に振る舞うことはできるのだ。たしかに、上っ面だけということもあるが、それとて大事な人付き合いの方法のひとつだろう。やたらと仲良くすればいい、っていうものじゃなし」
「主公は、人によって、付き合いを変えられるのですか」
と、これは陳到の問いである。
答えようによっては、劉備は自らを変節漢だと公言したと、捉えられかねない。さあ、なんとする。
「そりゃおまえ、当然だろう。人間にはそれぞれ呼吸がある。付き合いっていうのは、あれこれと人の考えや行動を、足りない知恵を働かせて、憶測して、懸命に合わせる作業ではなく、人の呼吸に合わせて、互いがいちばん自然に振る舞える距離を保つ作業じゃねぇのか」
「呼吸?」
「そうだよ。人に無理して合わせていると、途中で疲れて、変なところでボロをだす。うまく行くものもうまく行かなくなる。これは悲しい。変に知恵を働かせるからいけないのだ。
知恵を、なぜ働かせるのかといえば、欲があるからだ。自分を良く見せたい、人を思うままに操りたいという欲があるから、自分を演出しちまう。かといって、わがままに振る舞うのは子供だ。
どうするかというと、相手の呼吸がどんなものか、ゆっくりか、それともせっかちか、長いか、短いか、それを見極めて、相手と一緒の呼吸をしてみる。すると面白いことに、どうしてそいつが、こういう呼吸をしているのか、むずかしく考えなくても、自然とわかってくるのだ」
「己をなくして、相手にひたすら合わせる、ということでございますか」
「そう。最初にそれがうまく行けば、相手がなにを考えているのか、なんとなーく判ってくる。相手の気持ちをほぐせれば、もうこっちのものよ。
こっちに無理をしなくなって、我を張ろうとしなくなるから、向こうに余裕ができるのだな。だから、いつのまにか、こっちの呼吸も覚えてくれる」
「主公のお話は難しゅうございます」
「そうかねぇ。言葉にすると、なんだかむつかしいことを言っているようだが、要するに、我を張りすぎちゃいけねぇよ、ということだ。
まあ、中には、最初から息がぴったり合う奴らもいるよ。儂にとっての張飛や関羽なのだが、そんな質問をしてくるということは、あんたは、まだそういう人間にめぐり合えてないようだな」
「左様でございます」
茫洋とした印象のあった劉備の、意外に鋭い観察力にうろたえつつ、陳到は、思わず素直に答えていた。
すると、それまでずっと機嫌が良さそうに笑っていた劉備は、不意に真顔になって、その双眸を、まっすぐ陳到に据えた。
途端、陳到は、劉備の視線が眼窩を超えて、心の奥底まで一気に入り込まれたような、ぞっとする感覚をおぼえた。
だが、それも一瞬のことで、また劉備は、破顔すると、陳到に言う。
「いつかはわからねぇが、あんたにもきっといい仲間ができるさ。それが、ここでだといいな」
「はあ」
「あんたは、今日、初めて見る顔だな」
陳到は、その言葉にどきりとした。まさか、いくら気遣いの人だとはいえ、自分の将兵の顔を、兵卒に至るまで、全部覚えているのか。
「出来れば、ずっとわしらと一緒に、ここにいてくれるとうれしいよ。あんた、なかなか真面目で性根も良さそうな男だから、歓迎するぜ」
こちらが何者か、わかっているのか?
陳到は、全身の血が下がる思いがしたが、劉備は、優しい目を、にっ、と笑わせると、それじゃあ、と軽く言って、去って行った。
一緒に食事していた兵卒たちは、
「なんだ、あんたも見学の人か」
と、陳到の周りに集ってくる。
「見学の人?」
「そうさ。主公の噂を聞いて様子を見に、こっそりやってくるやつは多いんだ。最近は特に増えたな」
「そりゃそうだろう、ここは居心地がとてもよいから」
兵卒のひとりが言うと、ほかの兵卒も、強く頷いた。
「主公は、ああいう気さくなお方だし、俺たち下っ端のことまでも、ちゃんと真正面から評価してくださる。たしかに生活は心もとなくなるけれど、あんた、主公もああおっしゃったことだし、俺たちと一緒にここに残るといいや」
と、劉備に負けないくらいに、気さくに兵卒たちは言った。
さすがにうろたえ、陳到は尋ねる。
「わたしが袁紹の兵とわかっていながら、なぜそんなことを。もし……もしもだぞ? わたしが刺客だったらどうするのだ」
刺客、と聞いて、兵卒たちは、けらけらと、楽しい冗談を聞いたかのように、笑い飛ばした。
「そんなことあるものか」
「なぜ。わたしの顔が平凡だからか」
「そうじゃない。主公が、あんたのことを『真面目で性根も良さそうだ』とおっしゃったからだ」
「主公が言うことに間違いはないと?」
「そうだよ。主公が人を見る目というのは確かだぜ。ここの居心地がいいのは、主公が適材適所で将兵を配置なさっているからだよ」
「主公は勉強家でいらっしゃるからな」
と、別の兵卒が口を挟んだ。
「どうしたら、みなが苦労せずに働いてくれるか、真剣に考えてらっしゃるのだ。だから、夜も遅くまで、いろんな本を読み、ときには学のある御方を招いて、講義を受けたりなさっている。そういう苦労を表に出さない、奥ゆかしい方だ」
「そうそう、ほかの殿様みたいに、儂はこれだけ勉強した、だから家臣もみんな儂を認めている、みたいなことは、一切口にしなさらない。
いつか、なぜかと尋ねたら、当たり前のことだから自慢するのはおかしいとおっしゃった。しかし、考えてみれば、なかなか口に出せることではないぞ」
自然と、陳到の脳裏には、今日に至るまで、まともに顔すら見たことのない袁紹のことが脳裏をかすめた。
三世五公の名家の大殿様である。
帝位にもっとも近い男だとも噂されている。
しかし陳到は、そうは聞いても、そうなのか、という程度で、自分が仕える袁紹が帝位になることが誉れだとは、一度も思えなかった。
ピンと来ないでいたのだ。
陳到はいま、兵卒たちの話を聞いて、なぜピンと来ていなかったか、理由を理解した。
三世五公の名家という、それは結局、袁紹自身の偉業ではない。
名家に生まれたのは、たまたまではないか。
帝位を狙っているということで、十万の軍を動かしての大戦。
なのに、たった二万の軍に対して、攻略しあぐねているのは何故か。
采配に誤りがないか。
その証拠が、文醜、顔良の死にあらわれているのではないか。
十万の軍をもってしても、二万を制圧できないでいる。
その程度の人間だということではないか。
つまり、器ではない。
そこまで考えてみて、陳到は、己の引き出した結論にぎょっとした。
なんと不遜な。
わたしは、そのような批判を加えていい立場ではない。
袁家の大殿様には恩がある。
俸禄ヲモラッタ。
一介の兵卒から、細作に引き上げてもらった。
ホントウハ影ノ仕事ナンテヤリタクナイ。
いかん、考えるな。
危険だ。考えてはいけない。
「我らは、近々ここを逃げる」
不意に掛けられた、重々しい、よく響く声に仰天して振り返れば、そこに、岩山のように、どっしりと構えた関羽の姿があった。
噂に聞いた長く艶やかな髯を垂らし、細長い顔にある双眸で、まっすぐに陳到を見下ろしている。
つりあがり気味の鋭い印象を与える目であるが、その中にある光は、意外にも優しげなものであった。
「いま、なんとおっしゃいましたか?」
思わず尋ね返すと、関羽は、すこし笑って、陳到の隣に寄ってきた。
「逃げる、と言ったのだ。おまえ、子龍の話していた男ではないか。袁紹の、細作だという」
この陣の人間は、あけすけに物を言うのが特長なのか?
うろたえている陳到に、関羽は言葉をつづけた。
どちらにしろ、関羽は徒手空拳で隣にありながら、すさまじい威圧感でもって、陳到に迫り、足を動けなくしていた。
陳到は、金縛りにあったように、関羽の前から逃げられない。目を逸らすこともできないでいた。
袁紹軍の誇る武将を、二人とも討ち取った男だということで、恐れがあるのである。
「袁紹に会ったことはあるか」
「ございませぬ」
「では、曹操は」
「そちらも」
「もしおまえが両方を知っていたのなら、この戦、数ではない。曹操が勝つであろうと、簡単に予想できたであろう」
関羽も趙雲と同じことを言う。
「しかし、十万には、二万では勝てますまい」
「どうかな。儂が、敵に勝つには兵の数ではないと、二回も示したはずだが」
大胆に言う関羽に、陳到は沈黙するしかない。
ここが袁紹の陣のど真ん中であれば、いかに関羽とて、無事ではなかっただろう。
「袁紹は曹操には勝てぬ。曹操は、袁紹という男を知りぬいておるぞ。昔馴染みであったそうだからな。その性格の弱さ、人の意見を聞かぬところ、おのれの家柄に恃みすぎること、家臣たちを大切にせぬところ、すべてを見切っておる。
しかし袁紹は、数に頼りすぎており、戦略も甘く、曹操の家臣たちが、如何に優秀であるかを知らぬ。すくなくとも儂があちらにいる間、だれひとりとして、この戦は負けるかもしれぬと、弱音を吐く者はなかった。
負けると思っている者は、すでに己に負けている。だが、勝つと信じている者は、おのずと勝利を手に入れる。勝負とは、そういうものだ」
「こちらとて、負けるなどと思っている者はおらぬ」
「だが、勝とうという意志もない。ここにいる十万の兵は、二万を押しつぶそうとする奔流ではない。ただ漫然と集められた、水溜りのようなものだ。これでは、いずれは士気も干上がり、内部から瓦解していくであろう」
「だから逃げると? 忘恩甚だしいとはこのことだ!」
「恩を返すのも、命あっての物種ぞ。兄者は、恩返しをしたいと、いつものごとく駄々をこねておったが、儂が、ぐずぐずしていたら危ないといって、心を決めてもらったのだ」
陳到は、あきれて、まじまじと、関羽の面長の顔を見た。
すこし見上げる形となる。
陳到が顎を上げると、関羽は、それに気づいて、自分も首を前面軽く下げた。関羽は、九尺にもおよぶ大男である。
「わたしにそれを教えて、なんとする?」
ふと、関羽が、曹操の客将であったことを思い出し、この男もまた、自分と同じような仕事をするために、袁紹のところにやってきたのではないか…つまりは、袁紹の陣を混乱させるため、わざと偽情報を流しているのではないかと陳到は危ぶんだ。
陳到の顔色で、それを判断したのか、関羽は、美髯の奥で鼻を鳴らすと、細い目をさらに細めて言った。
「儂は細々とした仕事は苦手でな。文将軍、顔将軍の両者の首級をあげたことで、すでに曹公への義理は果たしておる」
「つまり、嘘ではないというのか」
「疑うのは職業ゆえに仕方ないことなのかもしれぬが、たまには人の話を素直に聞いてみたらどうだ」
「なぜ教える」
すると、関羽は、大きな肩を揺らしながら、声を立てずに笑った。
「そうだな、子龍が必死に我らに馴染もうとしているので、儂もすこし手伝ってやろうと思っただけだ。今日の日没までに考えよ」
「趙子龍の為に、一肌脱ぐというのか」
「それに、兄者がおまえを良さそうだと判断したからな。兄者の目は確かだ。ごくたまに間違えるが、まあ、それでもよかろう」
笑いながら関羽は無防備に背を向けて去って行ったが、その姿が見えなくなるまで、陳到は、一歩も動くことができないでいた。
関羽が曹操の元から離れることができたのは、文醜、顔良の両将を討ち果たし、ちゃんと筋をとおしたからだ。
劉備は、近々、袁紹を裏切って、この陣を去る。
関羽の言葉は信頼できると思う。
彼らは、弱小勢力ながら、人から信頼されることで、名を高めてきた男たちなのである。
細作の陳到相手でさえも、くだらない嘘や策を弄するようには思えなかった。
関羽から得た情報を、趙子龍の首の代わりに、袁譚に差し出したらどうか。
どうなるだろう。
袁譚は父の袁紹にそれを告げ、袁紹は、劉備を捕らえる。
となれば、劉備にしたがっている男たちは、立ち上がり、陣は混乱に包まれるであろう。これでは恩を返すどころではない。
かといって、黙っていれば、劉備の逃亡をみすみす逃すことになってしまう。
当初は、こちらの益になる情報を得てしまった、というふうに捕らえていた陳到であるが、冷静になって検討してみれば、実に厄介な状況に置かれてしまっていたことに気づく。
黙ってもしゃべっても、いい方向に動きそうにない。
紅霞に相談してみるべきであろうか。
袁譚の寵を失った女であるが、無理にそれを取り戻そうとはしていない。
もしかしたら、陳到より、よい知恵を出してくれるかもしれない。
いやいや、賢いとはいえ、そこは女である。
口では諦めていると言いながらも、まだ袁譚に未練が残っていたらどうだ。
後先考えず、劉備の情報を袁譚に差し出し、今宵の宴席で、劉備を捕らえてしまうようなことはしないだろうか。
『ようなことは』だと?
なんだ? わたしは、劉備が捕らえられてしまうのが嫌なのか。
あれは、主公を裏切って、逃げようとしている男なのだぞ?
言い聞かせてみるものの、兵卒たちと会話をしていた劉備の姿からは、逃げるだの、裏切るだのといったせせこましい印象はなかった。
袁紹から離れるのも、ちゃんと劉備なりの理由があるのだ、劉備の行動こそが義なのだと、根拠もないのに思わせてしまう、妙な説得力が、劉備にはあった。
今宵の宴席では、劉備の動きを牽制するために、見せしめとして趙子龍の首が必要となる。
もしも、自分が趙子龍を討ち取って、首を差し出すことができたなら、劉備はどうするだろう。
袁紹ならば、その場はやり過ごして、逃亡を中止し、つぎの機会を待つだろう。趙子龍は、失敗した家臣として、まるで最初からいなかったような扱いを受けるにちがいない。
だが、劉備は、もし趙子龍を討たれたなら、たとえ負けるとわかっていても、すぐさま己のために死んだ家臣のため、立ち上がるのではないだろうか。
つまり、趙子龍が死んでも死ななくても、劉備は袁紹から袂を別つであろう。それは確定なのだ。
とすれば、自分が趙子龍を討つ理由がどこにある?
さまざまに考えながら、日がどんどん西の方に傾いていくのを気にしつつ、頭を冷すために歩いていると、船着場のところで、銀兎がひとりで、水面に向かって、手元にある石を、ぽん、ぽんと投げているのが見えた。
陳到が近づいていくと、声をかけないうちに、銀兎は振り返った。
「あら、叔至さま。お散歩ですか?」
と銀兎は笑おうとするが、うまく頬を動かせず、困ったように目を伏せた。
「どうしたのだ」
陳到が聞くと、銀兎は、困ったように、すこし首をかしげて、言った。
「今宵、袁公子の宴に呼ばれておりますの。それが憂鬱で、ふさいでいたのです」
おまえも出るのか、と陳到は暗い気持ちになった。
趙子龍の首を、銀兎に見せるような真似はしたくない。
陳到は、この娘のためとなると、とたんに心が優しく、柔らかになるのだった。
「舞姫が、宴席が嫌だと思うなんて、おかしいとお思いになるでしょう?」
「いいや、わたしとて、たまに人を斬るのが嫌になる」
と、言ってしまってから、あまりに生々しい言葉であったと後悔した。
案の定、銀兎は、目をまじまじと陳到にむけていたが、ほっとしたことには、すぐに、にっこりと明るい笑顔を、向けてきてくれた。
「そうですよね、それが当たり前ですわよね。やっぱり、叔至様とは、お話が合うみたい。武将の方って、どういうわけか、人をどれだけ殺したか、数とか、自分の腕とかを自慢したがるでしょう? そういうのに惹かれる女人もいるかもしれないけれど、あたしは苦手なのです。やっぱり、人が死ぬのを見るのは嫌だもの」
「おまえは、どこの土地の生まれなのだね」
「汝南です。育ちは寿春なのですけれど」
「まことか。では同郷だな。わたしも汝南なのだよ」
陳到は、そこでてっきり銀兎が、一緒ですね、と喜んでくれるかと思っていたのだが、銀兎は、愛らしい顔を曇らせて、尋ねてきた。
「汝南の方が、どうして劉予州のご家来に?」
「ああ、その、たまたまだ。主公に見込まれて、それで」
しどろもどろに説明するが、銀兎は、顔をしかめたまま首をかしげて、さらに尋ねてきた。
「同郷の英雄のもとに、仕えようとはなさらなかったの?」
「同郷の英雄?」
ハテ?
陳到が、だれのことやらと、著名な名前をいくつか思い浮かべているあいだ、銀兎は沈み込んで、ふたたび川の流れに身体を向ける。
「わたしが生まれたときは、すでにこの世は乱世でした。父はお仕えしている主人を庇って戦で死に、そのご主人さまも、ほどなくお亡くなりました」
そうか、と陳到は、銀兎がなにを言いたいのかがわからなかったので、相槌を打つだけにとどめた。
銀兎は、しばらく、じっと、川面のさざなみを見つめていたが、ますます戸惑うことには、愁眉を開いて、娘らしく華やいだ、はしゃいだ様子で顔を向けてきた。
「ねえ、叔至さま、香油の壷は、喜んでいただけたのですか?」
「うむ、なかなかに良い品だと誉めてもらったが」
「わたしにも、何か下さらない? わたしが宴から無事に帰ってきたら、ご褒美をくださいな」
「仕事に向かうのも決死の覚悟か。舞姫も大変なのだな。なにがよい?」
「月が欲しい」
「月? 空に浮く、あの月か?」
思わず聞きなおすと、銀兎は、愉快そうに笑いながら頷いた。
「驚かれたでしょ? でも、月が欲しいわ。ねえ、きっとですよ?」
「なるべく努力してみるが」
しかし月なんぞ、どうやって取る?
謎掛けなのだろうか?
ふと、陳到は、銀兎が、趙雲のことについて、なにひとつ触れてこないことに気づいた。
今日の日没までに想いを伝えた結果を報せると言っていたのに、銀兎は何も言わない。
もしかしたら、報せるまでもなく、結果に感づいているのだろうか。
いや、それは虫のいい想像だろう。
銀兎は、陳到のほうから切り出してくるのを、待っているのかもしれないではないか。
そうして口を開こうとすると、銀兎を呼ぶ者がある。
それは、銀兎の一座の座長、つまりは銀兎の兄であった。
銀兎は、まただわ、と顔をしかめてから、陳到に振り返った。
「また、こうしてお話できるといいわね。わたし、きっと戻って参りますから、そのときには、お話し相手になってくださいね」
「それはもちろん」
陳到が大きく、深く頷くと、銀兎は、楽しそうに笑いながら、兄の方にと、軽やかな足音をたてて走り去って行った。